早朝 渋谷区 刻印学院高校
とうとう、ここまで来てしまった。
今日から自分が通うことになる私立高校の校舎を見上げながら、私は立ち尽くす。
目を瞑り、ここに至るまでの道のりを、静かに思い返してみる。
両親は最後まで私の上京に反対し、地元の公立校に通わせようとしたが、自身の生活費をアルバイトで稼ぐことを条件に何とか説得。成績優秀者としても認められ、奨学金制度も受けられた。半年間、一心不乱になって勉学に励んだ苦労が報われ、ほっと胸を撫でおろす。
だが、感傷に浸っている暇などない。ここからが本番なのだ。
もう一度、私は校舎を見上げ、決意を胸に校内へと踏み出す。
ここにきっと『彼女』もいる。私がここにいると知ったら、彼女はどんな反応をするだろう?
戸惑うだろうか? 怒るだろう? 悲しむだろうか?
しかし、それでも、私はここへ来なければならなかった。
たとえ拒絶されようと、彼女一人に絶望を押しつけたりなどしない。
今度こそ、私が彼女を――――
◇
神宮外苑の一角。東京の中心地にありながらも、都心から離れた閑静な空気が勉学に励むのにはうってつけ。周囲には各種スポーツ施設も充実しており、運動部に力を入れる生徒にとっても最適な環境下にある。まさに『文武両道』を見事に体現する高校であろう。
教育機関としての偏差値レベルは中の上。神道系の高校ということもあり、伝統や歴史を重んじる傾向があるものの、決してそれだけに縛られず、理事長である九十九明なる人物の方針により、様々な最新機材や施設が積極的に取り入れられている。
髪を染める、ピアスをはめるなどといった行為こそ校則で禁止されてはいるが、それ以外は特別厳しい校風でもなく、学校全体が穏やかで、過ごしやすい雰囲気に包まれていた。
そして本日、刻印高校では新入生を歓迎する入学式が執り行われていた。
新入生たちの門出を祝う舞台。彼らの目には大なり小なりの差はあれども、これから始まる新生活への期待や、不安といった感情が見え隠れしている。
そんな中、何の感慨も感動もない。空虚な瞳で、櫛田衿那は淡々と式に出席していた。
入学式が終わり、指定されたクラスに着いてもそれは変わらず、窓際の席に静かに腰掛け、特に何を思うこともなく、漠然と外の景色を眺めている。
彼女自身、新しく始まる高校生活に期待することなど何一つない。それどころか、この先の人生そのものに希望すら持てずにいる。
なにせ、衿那にとってここは、『偶然適当に選んだ志望校』だ。
神道系の高校であるという事実に目を惹かれはしたが、だからといって今更、神頼みなどに縋るつもりは毛頭ない。所詮彼女にとって進学など、家族から不幸な自分を遠ざけるための、たんなる『口実』に過ぎなかったのだから。
「皆さん! おはようございます!」
そういった衿那のもろもろの事情も、心境もお構いなしに、彼女の所属する一年A組の担任となる男性教師が、やかましい声で教室内に入ってくる。必要以上のデカい声量に、何人かの生徒がうざったそうに軽く耳を塞いでいた。
「一年A組のクラス担任を受け持つことになった
グッと親指を突き立ててくる暑苦しい姿に、クラス全体がシーンと静まり返る。
「どうした、元気ないぞ! さては緊張しているな? 新しい環境に不安を覚えるのは仕方ないかもしれんが……よし、緊張をほぐすために、軽く自己紹介でもしてもらうかな!」
初対面にもかかわらず、ぐいぐいと詰め寄ってくる担任の暑苦しいキャラ。
衿那を含め、大多数の生徒が早くもウンザリし始めるも、とりあえずは素直にその言葉に従い、順番にそれぞれ軽い自己紹介を行っていく。
淡々と行われる同級生たちの自己紹介。あっという間に、衿那の順番が回って来た。
「櫛田衿那です」
よろしくも言わず、名前だけを名乗り速攻で席に着く。彼女の態度に、クラスの何人かが不快そうに顔を歪めている。このHRが始まる前も、衿那に対し、興味本位に声をかけてきた同級生が何人かいたが、彼女はそれらを全て無視で押し通した。
その光景を見ていたためか、クラス全体から、やや冷ややかな視線を感じる。
険悪な雰囲気に、担任の斉藤が「この子大丈夫かな? ちゃんとクラスに馴染めるかな?」といった、おせっかいな視線を送ってくるが、それすら衿那にとってどうでもよいことであった。
友人など作る気もないし、クラスと馴染もうとも思わない。ひょっとしたら、今の自分の態度が気に入らず、ちょっかいを出してくる生徒もいるかもしれないが、どうせすぐにいなくなるだろう。
自分の『不幸』を知れば、嫌でも――。
「よ~し! これで全員だな!」
やがて、最後に残った生徒も自己紹介を終え、齊藤は名簿に目を通し、クラス内を確認する。何度か名簿を見直し、教室内を見直し、怪訝そうな顔で再び名簿に目を落とす。
「あれ? おかしいな……一人足りないぞ?」
その齊藤の呟きに答えるように――その少女は一年A組の教室へと襲来した。
「――たのもぉー!!」
◇
勢いよく開かれた扉と、凛と響き渡る声に、クラス全員が何事かと目を向けた。扉の前に立っていたのは、自分たちと同じ刻印学院高校の制服を身に纏った少女である。
長い黒髪をポニーテールに結んだ、整った顔立ちにスラリと細いスタイル。身長160以上はあるだろう。その凛とした佇まいは、可愛いというより、カッコいいという言葉がしっくりくる。
彼女は、クラス中から向けられる奇異な視線をものともせず、実に堂々たる態度で教室に上がり込んできた。そして、教壇の前に立ち、そこから教室全体を好奇な目で見回し、その口を開く。
「苦しゅうない。一同、面を上げよ!」
『……………………』
クラス一同、全員が固まった。担任の暑苦しい挨拶に静まり返ったとき以上の、さらなる静寂がその場を支配する。
「…………え、え~と、きみ誰?」
誰もが彼女の奇想天外な発言に押し黙る中、担任としての責務を全うすべく、斉藤が率先して少女に話しかける。
「む、誰とは心外だのう。今日よりここで勉学に励むため、こうして馳せ参じたというのに」
「えっ? ……ああ、ひょっとして君、うちのクラスの子? ちょうど一人足りないなって、思ってたところなんだけど……」
「うむ、ここが『えーぐみ』とやらで間違いないのであれば、儂の事で相違ない」
その少女の答えに、クラス中から安堵の溜息が漏れる。乱入者が正体不明な人間ではなく、自分たちのクラスメイトであることがわかり、皆がほっとする。だが、風変わりなことに変わりはなく、その女子に対する何とも言えない奇妙な空気が、教室内に漂い続けていた。
「――ああ、良かった! ちゃんと自分のクラス、見つけられたみたいね!」
そこへ、新たな乱入者の声が響き渡った。少女が開きっぱなしにしていた扉から顔を覗かせ、その女性は教室に足を踏み入れる。
白衣を身に纏う、さらさらと清流のように綺麗な黒髪に、黒縁の眼鏡の美女。美しく整った容貌には微笑が浮かべられており、その知的で妖艶な美貌は、高校生の少女たちには放つことができないであろう、色気を纏っている。男子どころか女子生徒までもが数人、うっとりするように頬を朱に染める。
「星野先生?」
どうやら同僚らしい。斉藤は少し驚いていたが、特に慌てる様子もなく応対する。
「どうかされましたか? わざわざ一年の教室まで……保健室の説明ならこの後でも……」
「いえいえ、そういうつもりはなかったんですけど。まあ、せっかくだから新入生に挨拶でもさせてもらいましょうかね」
そう言うと、女性は生徒たちの方を向き、軽く自己紹介を始めた。
「新入生の皆さん、入学おめでとう。当校の養護教諭を担当させてもらっている、
にっこりと微笑み、軽くウインクする養護教諭――星野梨花子。そんな彼女の仕草に、男女問わずさらに数人の生徒たちの頬が火照っていく。
「ふっ! やるではないか梨花子よ。実に堂々たる見事な名乗りだ。儂も負けてはおれぬ!」
その挨拶をずっと隣で聞いていた少女は、既に梨花子と顔合わせを済ませた後らしい。偉そうに腕を組みながら、何故か対抗心らしきものを滾らせ、まるで張り合うかのように梨花子よりも一歩前に躍り出て、声を張り上げた。
「――遠からんものは音に聞け! 近くば寄って儂を見よ! 我が名は神宮寺、神宮寺鈴鹿である! 今日よりこの地で、お主らと共に肩を並べて勉学に励むことと相成った! 未熟ゆえ、色々と至らぬところもあるかもしれぬが、以後、宜しく頼むぞ!」
先刻以上の沈黙が、教室内を包み込む。もっとも、当の本人はそんな空気など何のその。威風堂々たる態度で胸を張り、梨花子に対し、何故か勝ち誇ったように自信満々の顔を向けていた。
一瞬の間を置いて、梨花子一人だけが、パチパチと乾いた拍手を響かせる。
「さてと……それじゃあ、私はもう行くから。齊藤先生、後はよろしくお願いしますね」
「……え? あ、ちょ、ちょっと!」
そして、もう用が済んだのか。梨花子はそそくさと、その場を立ち去ってしまう。慌てて彼女を呼び止めようとした斉藤の手が、むなしく空を切る。
「……………………ええ~と、神宮寺さん?」
数秒後。なんとか態勢を立て直した斉藤が、恐る恐ると鈴鹿に声をかける。
「鈴鹿で構わんよ。で、お主は?」
「ああ、齊藤です。一年間このA組のクラス担任になる齊藤亮介。よろしく、神宮寺さん」
最初の熱血的な印象から一変、多少動揺しながらも、冷静な対応に一同が感嘆の声を溢す。生徒たちの中で、担任の評価が多少、上方修正された。
「ええと……それじゃあ、神宮寺さんも席について下さい。君の席は……」
齊藤はそこで一旦鈴鹿から視線を外し、クラス内を見回して彼女の座る席を探す。だが、大半の席が既に埋まっている中、その場所も限られてくる。
齊藤はピタリと一点、窓際の後方に空いている席を見つけて指し示した。
「あそこの席が空いているようだね。とりあえず座ってください」
「うむそうか、では」
そして、鈴鹿は齊藤に言われたとおり、ゆっくりとその席を目指して歩いていく。
◇
――勘弁してよ……。
こちらに向かってくる神宮寺鈴鹿を視界に捉えながら、衿那は心中で頭を抱える。齊藤が指し示した席は後方の窓際、ちょうど衿那の隣の席であった。
本来ならそんな優良物件、早々に埋まっていてもおかしくはないのだが、衿那が無意識に放っていた「誰も近付くな」的な空気に、自然と他のクラスメイトが避けていた席だった。
衿那としては、できることなら鈴鹿にも別の席に行ってもらいたいところだが、生憎と他に空いている席などなく、何の因果が、彼女をこちらに呼び寄せるはめになってしまった。
「よろしく頼むぞ、娘よ!」
鈴鹿は自分の席にたどり着くや、実に騒々しい声量で隣席の衿那へと声をかけてくる。そんな彼女からの視線を全力で逃れ、窓の向こうへと衿那はそっぽを向く。背中からは滝のように汗が流れ、動揺で心臓の鼓動は大きく、忙しなく脈打つ。
そう、衿那は既にこの少女――神宮寺鈴鹿と面識を持っていた。
彼女が教室に入ってきた瞬間から、美人な養護教諭など目にも入らず、ずっと意識を鈴鹿から離せずにいた。
服装こそまともにはなっているが間違いない。昨日の事件の際に、単身素手で強盗犯をぶちのめした例の少女だ。もう二度と会うこともないと思っていた。
衿那は、何とか関わり合いになるまいと、思いっきり顔を逸らすことで、この場を乗り切ろうとする。
しかし、現実は非常であった。
「おっ? お主……どこかで見た顔だのう」
逸らされた顔をまじまじと覗き込み、やがて鈴鹿も思い出したのか、手をポンと叩いた。
「おお! そうだ確か、昨日の銀行強盗のときにいた!」
「…………」
あれから数分。生徒たちは斎藤から、明日以降の予定を説明される。だが、衿那は担任の話に集中することができずにいた。原因は――先ほどから感じる、無遠慮な視線である。
「じぃ……」
席に着いてからというもの、隣の席の鈴鹿がジロジロと。担任の話に耳も貸さず、目もくれず、ただ一心に衿那のことだけを見つめてくるのだ。
――なんで、こっち見てんのよ!
敵意や悪意を感じる視線ではなかったが、衿那は怒りに近い戸惑いの声を心中で上げる。
あのとき、鈴鹿が現場に突入してから、衿那は特に目立った活躍はしていない。
強盗たちを一人で鎮圧した鈴鹿を、自分や他の人質たちが物珍しげに見るならまだしも、ただの人質でしかなかった自分が、鈴鹿から好奇な目で見られる理由など、まるで思い当たらない。
「――というわけで、今日のHRはこれで終わりです」
と、そんな気が気ではない、ハラハラとした気持ちでいる間にも、斉藤が話を終えた。「じゃあ、また明日!」と皆に笑顔で手を振りながら、部屋を後にする。
担任が去ったクラス内に、HRが始まる前のワイワイとした活気が満ちてくる。
大半の生徒たちが中学時代からの仲間、あるいは気の合うもの同士で、その場に残ってそれぞれ雑談を始めるが、話す相手などいない衿那は即座に荷物をまとめ、帰り支度を整える。
一刻も早くこの場から立ち去り、鈴鹿の居心地悪い視線から逃れようとするために。
「――おい、お主」
しかし――よりにもよって、その当の本人から呼び止められてしまった。
「……なによ」
動揺しながらも、そんな弱気を表に出さないよう、衿那は冷たい眼差しを鈴鹿へと向ける。彼女が返事をしたのを見届け、鈴鹿は少しもったいぶった調子で口を開いていた。
「うむ、少し話があるのだが、顔を貸してはくれぬか?」
◇
刻印学院高校 昼 グラウンド
新入生を歓迎する入学式が終わり、間もなく正午を迎えようとしていた頃。刻印学院高校の本校舎の外壁では、ちょっとした改装工事が行われていた。
本来であれば、入学式を迎える前に全て終わる予定だったのだが、いくつかの手違いが重なり、工事の延期が続き、今日まで持ち越されることとなった。作業のための仮設足場では、現在は誰も作業をしておらず、作業員たちはちょうど地に腰をおろし昼食を取っていた。
彼らの視線の先。本校舎との間をフェンスで挟んだグラウンド内では野球部、サッカー部、陸上部などの面々が、それぞれ部活動に励み、青春の汗を流していた。
どの部活も実に熱心に活動しているが、とりわけ目を惹くのが野球部だろう。
刻印学院高校野球部は東京都内でも、かなりの強豪としてその名が知られているが、毎回惜しいところで甲子園出場を逃すという、悲運が常に付きまとっていた。
しかし、今年の彼らに希望の星と呼ぶべき人物がいる。
「ナイスバッティン! 今日も張り切ってるね、たつや!」
「当たり前だぜ! ここで新入生にいいとこ見せて、有望な新入部員をどんどん勧誘するぜ!」
バッターボックスでバッティング練習に精を出している少年――たつや。
エースで四番を背負う男。そのずば抜けた投球センス、バッティングセンスは、未だ二年生でありながらも、卒業後プロ確実と言われるほどの逸材である。
一年生の頃は当時の監督、三年生と馬が合わず日陰に追いやられていたが、監督が変わり、嫌味な上級生たちも卒業したため、こうして表舞台で活躍するチャンスが巡ってきた。
「今年こそ、俺がこの野球部を……みなみを甲子園に連れて行ってやるぜ!」
たつやは野球部のマネージャー、恋人のみなみと一緒に甲子園に行こうと約束を交わした。今日も彼女への想いと、野球への情熱を胸に、ひたむきに練習に取り組んでいく。打撃投手の投げた球を、軽々と向かい側――校舎のあるフェンスまで景気よくかっ飛ばす。
「おいおい、逸る気持ちはわかるが、あまり遠くまで飛ばすなよ」
そんな調子よく球を飛ばすたつやに、キャッチャーが冗談まじりに声をかけていた。
「ギャラリーにでも当たったりしたら大変だからな」
◇
「――で……話って何よ?」
時を同じくした、本校舎側の一画。昼食をとっている作業員や、部活動を見学している生徒たちの輪とも少し離れた場所で、神宮寺鈴鹿と櫛田衿那は剣呑な空気で睨みあっていた。
もっとも、剣呑な空気を出しているのは衿那だけであり、鈴鹿の方はそんな相手の敵意など、どこ吹く風と軽く受け流している。
「そう怯えるな、娘よ。心配せんでも、別にとって食ったりなどせんわい」
「べ、べつに怯えてなんかないわよ!」
衿那は咄嗟に虚勢を張るが、彼女の心には鈴鹿への、拭えない恐怖心が確かにあった。
銃弾を額に受けても死ななかった、得体の知れないこの少女への恐れが――。
今すぐにでもここから立ち去りたいが、ここで逃げたところで、どうせ明日になれば嫌でも顔を突き合わせるのだ。衿那は観念して、鈴鹿の要求に応じるしかなかった。
教室内で話すと不都合があるらしい。鈴鹿の方から、どこか人気のない場へ移ろうと提案された。
二人っきりでは危険かもしれないと判断した衿那は、ある程度人目のあるポイントとして、ここを選んだ。話を盗み聞きする者こそいないが、ここなら鈴鹿が何かおかしな行動に走ろうとも誰かの目に留まる。一応の安全は確保されている……筈だ。
「なに? 怯えておらんだと。馬鹿な! この儂を前にして恐怖を感じていないとぬかすか!」
「……」
「ふむ、やはりこの制服とやらがいかんのか? このような俗な恰好では、儂の威厳を伝えきることもできまい。『すかーと』とか言ったか? ヒラヒラと動きづらくてかなわんわい。やはり着替えるか? しかし、あまり目立つわけにもいかんし……」
「…………はぁ」
先ほどの衿那の虚勢の言葉に、鈴鹿は何を悩んでいるのか、ぶつぶつと一人呟く。なかなか本題に入らず、黙って鈴鹿が用件を切り出すのを待っていた衿那も、流石に痺れを切らし、彼女は苛立ちげに啖呵を切った。
「ちょっと……話があるなら早くしてくんない? 私だって暇じゃないんだから!」
「ん? ……おお、済まんな!」
特に悪びれもせず軽く頭を下げる鈴鹿。コホンと、咳払いを一つ、場の空気を入れ替える。
「いや、なに、話というのは他でもない。昨日の『ふぁみれす』とやらでの一件だ」
「……」
「儂自身、己の行動に一片の悔いも後悔もないのだが……昨日、九十九殿にあまり派手な騒ぎは控えるように言われてしまってな。あの方に迷惑をかけるのは本意ではない。これ以上騒ぎを大きくしないためにも、昨日見聞きしたことは、他言無用で頼みたいのだ!」
「……ふ~ん」
このとおりだと、手を合わして頼み込んでくるその姿に、衿那は多少拍子抜けする。
何かもっと「口封じだ!」などと、やばい行動に走ると思っていたが、どうやら鈴鹿の言う九十九という人物は、彼女とは違い、比較的常識人であることがわかり安心する。
鈴鹿の頼みを聞くなど、衿那にとって大した手間でもない。誰にも話すつもりなどなかったし、話したところであんな骨董無形な話、普通は信じない。そもそも、この街で気軽に世間話をする友達などいないのだ。鈴鹿がわざわざこんなことを自分に頼んでくること自体、あまり意味のない行動であった。
――でも、いい機会かもね……。
無視して立ち去ろうかとも思ったが、ここで衿那にとある考えが浮かび上がる。
これから始める学園生活を無難に送るため、鈴鹿の頼みを聞くことを引き換えに、こちらからも前もって頼んでおくのも、悪くないかもしれない。
この手の騒がしい輩は、最初の内から予防線を張っておかないと、今後も馴れ馴れしく絡んでくる可能性が高いのだ。今のうちに意思表示を示しておくべきだと、衿那は己の決意を固める。
「いいわよ。その頼み、聞いてあげても……」
「本当か! いや、助かる。感謝するぞ!」
「ただし! ……一つだけ、条件があるわ」
「条件? ああ、かまわんぞ! 何なりと申しつけてみるがよい!」
満面な笑みを浮かべる鈴鹿。そんな彼女へ、衿那はその条件を突きつけた。
明確な拒絶の意思を込め、はっきりと――。
「――今後、私に気安く話しかけたり、近づいたりしないでちょうだい!」
数秒間――時が止まったように感じられた。
鈴鹿は何を言われたのか理解が追いつかず、ポカーンとしている。
「……じゃ、そういうわけだから」
鈴鹿の答えを待つことなく、その場を立ち去るために衿那は歩き出す。
――これでいい。
胸の奥がチクリと痛んだ気がしたが、きっと気のせいだ。もとからこういう騒がしいタイプの人間は苦手だ。早々に縁が切れて清々する。
――これでいい。
仮に彼女と親しく馴れたとしても、どうせ長くは続かない。自身の不幸を知れば、自ずと離れていくだろう。
――これでいい。
知人など要らない、友達など要らない。自分は一人で生きていく、生きていくしかないのだ。
――これで……。
「――衿ちゃん!!」
そう自分を納得させるため、悶々と思考する衿那の背中を、女の子の叫びが呼び止めた。その声は衿那にとって、とても聞き慣れた懐かしい声であり、聞きたくない声でもあった。
驚きで振り返る衿那。
向かい合っていた鈴鹿の後ろから、その声の主が笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。衿那にはそれが誰なのか、瞬時に理解できてしまった。
「はぁ、はぁ……ようやく……会えたね……衿、ちゃん」
急いで駆けつけたせいか、息を切らせながら少し気まずそうに、それでいて、とても嬉しそうに衿那に微笑みかける女の子。昔と変わらぬその笑顔に、衿那は愕然と呟いた。
「……なんで……アンタがここにいるのよ……