刻印学院高校 保健室
最終下校時間も過ぎ、部活動に精を出していた生徒たちもいなくなった、夜の校舎。今も校内に残っているのは数名の教師と、夜間見回りの警備員くらいなもの。夜の学校が放つ独特の薄気味悪さが一帯に漂う中、人気のない校舎の一角である保健室には、勤務時間を過ぎていながらも、椅子に深く腰掛ける星野梨花子の姿があった。
「――……と、言う訳なのよ」
彼女は何かを話し終えた直後らしく、口の渇きを癒すために紅茶で喉を潤した。
「今日、鈴鹿ちゃんと一緒に保健室に来た子――命ちゃんの友達に起きた。いえ、現在進行形で起きている『不幸』とやらの現状よ……どう見る?」
梨花子はつい先ほど、命から聞かされた彼女たちの『不幸』の詳細を簡潔にまとめ、彼――九十九明に報告していた。
養護教諭として聞いた、うら若き乙女たちの悩み。本来であれば、第三者に聞かせていいような話ではなかったが、衿那の不幸について、九十九の意見を聞きたいがために、彼女はこうして相談を持ちかけていたのだ。
自分よりも多くの経験を持つ、
梨花子の話を聞き終え、水晶の中の九十九は少し考えてから言った。
『君はどう考えているんだい、梨花子君?』
こちらを試すかのような彼の問いかけに、梨花子は自分の中で出た答えを提示する。
「100%……とは断言できないけど、高確率で彼女――呪われているわね」
呪われている。これまで衿那を腫れ物のように扱ってきた人々も感じていたことだ。『あの女は呪われている』と。しかし、このとき梨花子が口にした『呪い』は、そんな彼らが感じていた迷信めいた考えではない。梨花子が熟考の末、ある種の確信を込めて出した答えだ。
彼女の解答に、どこか満足げに九十九は頷く。
『ふむ、私も君に同意見だよ。呪われたのは三年前。彼女が意識を失ったそのとき。その日から、彼女が何らかの『呪詛』に憑かれ始めたと見るのが妥当だろう』
「………」
『しかも、呪いの進行も既に末期。このまま行けば、いずれ呪いにその身を喰われるだろうね』
「そうよね……今日の事故なんて、負傷者がいなかったのが不思議なくらいよ」
『鈴鹿君がその場にいたというのが、不幸中の幸いだったね……』
衿那か、あるいは、別の誰かが死んでいてもおかしくなかった事故だ。すぐ側に鈴鹿がいたからこそ、誰一人傷つかずに済んだようなものだった。
『いずれにせよ、早急に櫛田衿那を捜し出して保護する必要がありそうだが、それはこちらに任せて、君は彼女に憑いている呪いの正体を調べてくれ。念のため、『京都』の方にも報告しておいた方がいいだろう。詳細は本社で聞こう……では』
言いたいことを言い残し、水晶玉に映り込んでいた九十九は、蜃気楼のようにその姿を消す。
「相変わらず、人使いが荒いわね……」
誰一人、自身の言葉を聞く者がいなくなった保健室で、梨花子は愚痴を溢す。だが、すぐに椅子から立ち上がり、帰り支度を始めた。
――とりあえず、ここ三年以内で起きた過去の事例から洗っていくか。
そんなことを考えながら、保健室を消灯し、梨花子は急ぎ家路へと向うのであった。
◇
同時刻 森羅本社ビル食堂
――……何度も見ても不思議な光景ですね。
兄であるテッドに食堂まで連れてこられたメリー。水晶玉に映り込む、星野梨花子と会話をしている九十九を見やり、もう何度目になるのか、数えるのも馬鹿らしい疑問を浮かべる。いったい、どういった原理であのようなことが可能なのか、彼女には未だに理解の外だった。
「――詳細は本社で聞こう……では」
梨花子といくつかのやり取りを経て、九十九は話を締めくくる。梨花子の姿は幻のように掻き消え、水晶も光を失っていく。
「梨花子さんからのようでしたけど……やっぱり鈴鹿さんがまた?」
話が終わったのを見計らい、テッドが九十九に恐る恐ると尋ねる。会話は断片的にだが、こちらにも聞こえており、鈴鹿の名前が出てくるたび、テッドは何度も冷や汗を流していた。
テッドの問いに九十九は答えない。黙って水晶玉を懐に戻し、テーブルの上に並べられている豪勢な料理を脇によけ、一台のノートパソコンを持ってきた。仕事用のメールがきても、すぐにわかるように起動していたそれを操作しながら彼は言う。
「いや、今回は別件だ。今のところ、鈴鹿君が何か問題を起こしたというわけじゃない」
「本当ですか?」
「寧ろ、彼女がいてくれて助かったと、お礼を言うべきだろう。それより済まないが、今から君らに人を捜してきてもらいたい。頼まれてくれるかな?」
慣れた手つきでキーボードを叩きながら、九十九は二人に向かって願い出る。九十九のその頼みに、テッドとメリーはお互い顔を見合わせたが、すぐに頷いた。
「まぁ……別に構いませんけど。ねぇ、メリー?」
「……はい。問題はありません」
誰かを捜してきて欲しいという注文は、ときおり九十九からリクエストされる事案である。二人にとって、これといって断る理由はない。
「ありがとう。捜索対象の顔写真と簡単な概要を、今からメールで送信するよ」
九十九は律儀に礼を言い、それとほぼ同時に、双子たちの携帯から短い着信音が鳴る。携帯を取り出したメリーは、さっそく捜索対象の情報を確認するため、送られてきたメールを開き、そこに添付された資料と画像に目を通した。
「……これは女生徒ですか?」
それは何かの証明写真なのか。真正面から撮影された、黒髪にツインテールの女子の顔写真がアップになって映し出されている。
「櫛田衿那……鈴鹿君と同じ、今年刻印に入学してきた一年生だ。写真は入学願書の際に用いられてものだから、このときはまだ中学生だね」
九十九の説明を聞いたメリーは、何故そんなものがノートパソコンの中にと疑問を感じたが、彼が刻印の理事長であることを思えば、それほど不思議なことではないと思い直す。
「中学生ですか? それにしては、何と言いますか、随分と危ない目つきしてますね……」
テッドも同じ写真を送信されたのだろう。第一印象から得られた感想を述べる兄に、確かにとメリーも心の中で同意する。
写真に写る彼女は鋭い荒んだ目をしている。それは、彼女の性格や思春期から来る反抗期というのも若干はあるのだろうが、それにしても些か度が過ぎていた。まるで、自分を取り巻くもの全てに敵意を向けるよう、軽く殺気すら感じられるのだ。
「この目つき……梨花子さんとの話しの中に出た『不幸』と、何か関係があるんですか?」
先ほどの話の中から聞こえてきた不吉なワードと、櫛田衿那を結びつけるテッド。
「詳しい話は後にしようか」
しかし、九十九はその質問にも答えず、ノートパソコンを静かに閉じた。
「まずは彼女の保護を最優先に頼む。このビルの中なら『結界』が働くから、外よりは幾分か安全だ。すぐにでも、その子をここまで連れて来てくれ」
「……抵抗された場合はどうしますか?」
見ず知らずの自分たちに着いて来てくれと言われて、素直について来るものではないだろ。そう判断したメリーが九十九に指示を仰ぐ。それに対する九十九の答えは明確だった。
「多少手荒でも構わないが、くれぐれも怪我だけはさせないように頼むよ」
「「了解!」」
中々難しい注文だが、兄妹は揃って了承する。
「捜索範囲はどうしましょう? 当てはあるんですか? ……てか、まだこの辺り一帯に留まっている保証もないと思うんですか……」
テッドが体を伸ばしながら、言いにくそうに尋ねる。確かに、その櫛田衿那という少女がどこに行ったかわからなければ捜しようもない。
ここは日本の首都――東京。
電車にバス、新幹線や飛行機にフェリーまで、交通アクセスの手段には何一つ不自由しない。その気になれば一時間としない内に、どこか別の県に移動することもできるだろう。だが、このときばかりはそんな心配、する必要はないと九十九は言う。
「どうやら櫛田さん、相当に慌てていたようでね。財布や携帯を鞄ごと学校に置き忘れていったらしい。多少の持ち合わせはあるかもしれないが、遠出することはできないだろう」
逆に言えば、それだけ彼女の必死さが垣間見える。
「一応、鈴鹿君と櫛田さんの友人が一緒になって捜しているそうだが、土地勘もない彼女たちでは、そう上手くもいかないだろう。とりあえず、君たちには彼女たちの分まで働くつもりで、渋谷区内を中心に捜索に当たってもらいたい」
「じ、自分とメリーの二人だけで? さ、流石にそれはちょっと無理が……」
九十九の提案にテッドが抗議の声を上げ、メリーも首を縦に振る。
一口に渋谷区といっても結構な広さ、人口密度も半端ではない。特に世界でも有名なスクランブル交差点では、一日最大50万人以上の人間が往来すると言われているのだ。テッドもメリーも身の軽さには自信があるものの、そんな人ごみの中から、写真でしか知らないような少女を見つけ出すなど、ほぼ不可能に近い。
そんなことも理解できぬ九十九ではない。テッドの動揺に、彼は不敵な笑みを浮かべた。
「勿論、わかっているさ。だから君たちと同じ内容のメールを、『彼』にも送信しておいた」
「「…………」」
自信たっぷりに九十九の口から告げられた『彼』と言う言葉に、双子は揃って押し黙り、数秒後、それぞれ別々の表情を浮かべる。
テッドは顔を引きつらせ苦笑い、メリーは元から感情の乏しい顔から一切の表情を消す。こういった状況で『彼』と言われ、思い当たる人物は残念ながら一人しか浮かばない。
「……あの『覗き屋』ですか」
絞り出すような声で、メリーがうなる。
「メリー……その言い方だと色々と語弊があるよ。もっと柔らかに『捜し屋』とでも呼称してあげなさい」
九十九は軽くメリーをたしなめる。だが、彼女はこの呼び方を改めようとも、自分の言動が間違っているとも思わなかった。
『捜し屋』。
今回のような人捜しの際、九十九がよく連絡を取る相手だ。
自分たちと同じく、この渋谷を拠点に行動しているらしいのだが、テッドもメリーも、九十九が彼と電話越しに何度か話をしているのを、聞いたことがある程度で、実際に面識はない。
しかし、その情報収集能力の高さは確かで、どのような手段、手法を用いているのか定かではないものの、彼は対象の似顔絵や写真を提供するだけで、その人物を捜し出してくる。
そしてまるで、その対象を常に覗き見ているかのよう、その行動を逐一報告してくるのだ。その捜索範囲は広く、渋谷のみならず、東京全体にまで広がっているほどだった。
もっとも、そんな覗き屋の彼にも、目が届きにくい『死角』というものが存在するらしい。
「屋外の捜索は彼に任せればいいだろう。君たちは地下や屋内を重点的に当たってくれ」
どうやら彼の『眼』は屋内には行き届きにくいらしく、対象がそこにいる場合、発見が遅れることが多々あるのだ。九十九は、そんな彼の探索範囲を正しく理解しているため、それをカバーする形で双子にも捜索を頼んでいる。
正直、メリーは『彼』のことを今一つ信用していない。電話越しに聞こえてくる、どこか人を食ったような言動や喋り方が気に食わないというのもあるが、それ以上に、彼には不思議と、双子たちに警戒心を抱かせる気味悪さがあった。
とはいえ、背に腹は変えられない。今は一刻でも早く、櫛田衿那を捜し出すべきだと割り切ることにして、彼女は九十九の指示に従うべく、兄と共に食堂を出ようとする。
しかし、そのときだった。話を締めくくろうとした、九十九の携帯の着信音が鳴り響く。オーケストラの合唱団が演奏するかのような、重厚なメロディー。九十九は淀みない動作で懐から携帯を取り出すが、モニターに映った着信相手の名前にその動きを止めた。
「………早いな」
その呟きで、双子たちは誰からの電話か即座に察する。九十九は携帯の通話ボタン押し、スピーカーモードに切り替えて、机の上に置いた。
「ずいぶんと早いようだが、もう見つかったのかい?」
『――挨拶の言葉もなしにいきなり本題ですか? いつも紳士な貴方らしくありませんよ!』
通話の相手は他でもない、今しがた話題に上がっていた『捜し屋』その人である。
軽いノリで喋る相手の口調に、メリーのこめかみがわずかに引きつるが、表情の変化など見えていない捜し屋はお構いなしに、おちゃらけた調子で言葉を紡いでいく。
『人生、生き急いでも損をするだけです! もっと冷静に! クールに行きましょう!』
「いや……済まないね。まさか、こんなにも早く君から連絡がくるとは思ってもみなかったもので、少し驚いてしまったよ」
『へぇ~! 九十九さんが驚くなんて珍しい! 急いで報告した甲斐がありましたよ!』
「…………」
捜し屋の言動にメリーのイライラは募るが、同時に相手の声に不気味なものを感じる。
スピーカー越しに聞こえてくる声は、ボイスチェンジャーなどで加工している様子はない。にもかかわらず、メリーには彼の声がどんなものなのか、認識することができない。
男か女か、若者か老人か、その区別もつかない。まるで声そのものに、なんらかの『力』が作用しているかのようで、その言葉から、はっきりとした特徴が全く伝わってこないのだ。
「それで? メールで伝えた少女――櫛田衿那さんは今どこにいるんだい? 見つけたからこそ、こうして連絡をしてきたのだろ?」
果たして、九十九の耳には捜し屋の声がどのように聞こえているのだろう。自然な調子で相手との会話に興じる彼に疑問の目を向けつつ、メリーはスピーカーの声に耳を傾ける。
『そうですね、ぶっちゃけ! 見つけたのはほとんど偶然なんですよ! 実際にメールを受け取ったときは僕もびっくりしましたから! 世間は狭いなって、改めて感じましたね!』
「うん。前置きはそれくらいにして……そろそろ本題に入ってくれないかな?」
なかなか本題に入ろうとしない捜し屋に、九十九は先を促す。彼も苛立っているわけではないが、その声には確かな力がこもっており、えも言われぬ迫力があった。
その迫力に押されてか、ようやく捜し屋は無駄なお喋りを止める。
『怖いなぁ~! そんなに急かさなくても、ちゃんと報告しますよ! ただ……』
「ただ……どうかしたのかね?」
ところが、いざ本題となると、捜し屋は言いにくそうに言葉を詰まらせる。
『…………報告するだけ無駄かもしれませんよ。だって――』
気まずい沈黙。やがて根負けしたように、彼は報告を再開し――
単刀直入に、己が把握している現状を述べてみせた。
『彼女、櫛田衿那さんは――もうこの世にいないかもしれませんからね……』
◇
数十分前 渋谷駅地下 13番出口
渋谷駅から地上へと続く、いくつもの地下通路。その広大で複雑な作りは、もはや迷宮といっても過言ではなく、初めて駅を利用する人間は勿論、毎日のようにここを利用している客でさえ、油断すれば迷ってしまいかねない。
昨今の再開発の影響で、さらに施設も人も増えていく中、果たしてこの地下構造の全てを理解、熟知できる人間などいるのだろうかと、疑問を抱かずにはいられない。
当然、時刻や場所によっては、常に人が溢れかえっている出入り口がほとんどだが、今日の13番出口は比較的人通りが少なかった。本来であれば、もう少し人気があってもいいものだが、とある理由から、自然と人が近寄りにくい空間と化していた。
「――ねぇねぇ! きみ今暇? これから俺らと遊びにいかねぇ?」
その理由がこれだ。チャラついた服装の男たちが五、六人。壁に寄りかかっている制服姿の少女に声をかけ、いや絡んでいる。通行人の足も、自然と早くなるというものだろう。
「俺たちさ~、これから飯食ってカラオケにでも行こって、話してたんだけどさ~。男だけじゃ華がねぇって思ってたとこなんだわ。どう、一緒に行かない?」
鼻にピアスをつけた男――やっさんがその少女に言い寄る。顔を少女に近づけ、後ろに控えている男たちはそれをどこか楽しそうに、軽薄な笑みでにやにやと眺めていた。
そんな彼らの視線を一身に受けながらも、少女は微動だにしない。男が声をかける前と、同じ体制のままで俯き、壁に寄りかかっている。恐怖で体が動けないというより、目の前の彼等など、視界にすら入っていない態度だった。
「……おい、聞いてんのかよ! 一緒に来いっつてんだらぁ!」
その態度が面白くないやっさんは語気を荒め、さらに少女に詰め寄っていく。
壁に手をつき、逃げ道を封じ、さらに顔を近づける。一時期『壁ドン』という言葉で世間に広まったシチュエーションだが、そこに少女漫画のようなロマンスはない。
しかし、そこまで強引に詰め寄られても、少女はチラッと相手を一瞥する程度。その視線すらもすぐに余所に向いてしまう。反抗的な態度が、さらにやっさんの神経を逆なでした。
「てめぇ! なに余裕ぶっこいてんだ! シカトすんなや! こっち向け、コラァ!」
癇癪玉が破裂したやっさんは、少女の襟首を乱暴に掴み上げる。流石にその行動に、仲間の何人かは若干鼻白んでいたが、特に止めに入ろうとはせず、静観を決め込む。
「……なさいよ」
「あん?」
すると、それまで黙っていた少女がポツリと呟いた。
「……離しなさいよ」
力なく彼女の口から漏れたその言葉を、懇願と受け取ったやっさんの胸中が満足感で満たされる。最初の対応が気に入らなかっただけあって、優越感はより一層高まる。
「へっ! 可愛い声してんじゃんよ。どれ、よ~く、顔を見せてくれ……っ!?」
調子に乗ったやっさんは、少女の顎を指でクイッと持ち上げ、視線を自分の方へ向けさせる。
これまた一時期、世の女性たちの間で流行した『顎クイ』と呼ばれる動作だが、そこに恋愛映画のような胸キュンはない。ところが――その動作で少女の素顔を目に入れた、その瞬間、やっさんの胸中が、一瞬で戸惑いに包まれた。
容姿は決して悪くない。可愛さよりも気の強さが目立つが、十分に美人だと言える容姿だ。
問題は、その目だ。
どこか悲壮感を漂わせている荒んだ目つきで、少女はこちらを射殺さんとばかりに睨みつけてくる。多少なりとも、荒事に慣れているやっさんですら、思わずたじろぎ手を放す。
華奢な見た目からは想像もしなかった、鬼気迫るものを、彼は少女の眼光に見たのだ。
そんな、やっさんの感じ取った少女に対する危機意識は、直ぐに現実のものとなる。
「……アンタたち、今すぐ私の前から消えなさい」
「……な、なに?」
「でないと――死ぬわよ?」
全く冗談に聞こえない語気で物騒な言葉を吐き、少女は制服のポケットに手を伸ばす。そして、ポケットから取り出された、一本のカッターナイフの存在に男たちが色めきだった。
「うぉ! アブネェ! こいつ、刃物持ってんぞ!」
「……そんなもん取り出してどうすんだよ、ああ?」
「おいおい! やめとけって! 怪我するだけだぜ、お嬢ちゃん!」
仲間たちは彼女を小馬鹿に嘲笑う。きっと、見るからに喧嘩慣れしていない少女が、そんなものを取り出したところでどうということはない、そう考えたのだろう。
しかし彼らと違い、少女の眼光を間近で見たやっさんは、少女を笑い飛ばす気にはなれなかった。このままでは本気で刺されかねない。彼は直感でそう感じ取ったのだ。
「おい……行こうぜ」
「え? なに連れてかねぇの?」
「いつもはもっとしつこいのに……」
少女から離れ、そのまま興味を失くしたように振る舞う。女一人にびびった、などと思われては自身の面子に関わるため、あくまで平常心を保ったまま言ってのける。
「けっ! こんなキレた女ほっとけよ。可愛げもねぇし、誘ったって、飯が不味くなるだけだ」
「え~! けっこうかわいいじゃん! 俺タイプなのになぁ~」
「……まあ、女に刺されたなんて、マジで笑い話にしかなんねぇしな」
「うるせぇ! さっさと行くぞ!」
ぶうぶうと文句をたれる連れに対し、やっさんは声を荒げて自分の意見を押し通す。
まだ、どこか不満げな表情の仲間たちだったが、彼らにも本当に刺されるかもしれないという、わずかな恐怖心があったのか。あるいは――昨日の昼間の苦い記憶を思い出したのか。
やっさんに先導され、逃げるように、地上へと続く出口へと向かっていった。
◇
「――ふん、こんなものでも、脅しくらいには役立つものね……」
男たちが大人しく立ち去り、地下通路には少女――櫛田衿那一人が取り残される。
張っていた気を僅かに緩め、手の中のカッターナイフに目を落とす。それは衿那が不幸になり始めてから、護身用に持つようになったものだ。前に通り魔に刺された際に、丸腰ではまたいつ襲われるかわかったものではない、と常備するようになった。
もっとも、衿那にそれで人を刺す度胸などなく、あくまで威嚇用に過ぎない。
「それにしても、やけにあっさり引いたわね……威勢がいいのは見た目だけだったかしら?」
やっさんはナイフなどではない、彼女の殺伐とした目つきに恐れをなしていたのだが、あてもなくずっと街中を彷徨っていた彼女に、自身の今の表情など知る由もない。
そう、刻印での事故の後。衿那は借家にも戻らず、幽鬼の様に渋谷の街を徘徊していた。
別に何か目的があったわけではない。きっと、彼女は逃げ出したかっただけなのだ。親友を含めた、自身を取り巻く全てのものから。
しかし、そこで彼女は途方に暮れていた。
――これから……どうする?
誰もいないことを確認してから、その場に膝を抱えてしゃがみこむ。男に胸倉を掴まれて乱された服装を直そうともせず、衿那は自問自答を続ける。
――これから、どうやって命を遠ざける?
それはこの先、あの高校に通う以上、避けては通れない道であろう。今日一日が何事もなく終わろうとも、学校に行けば嫌でも彼女と鉢合わせることになる。
それだけは、何としても避けたかった。
親友を、命を『不幸』に巻き込まないためにも。
衿那は命にいくつもの暴言を吐いてはいたが、決して彼女を嫌っているわけではない。命は衿那が不幸になった後も、ずっと自分を支え続けてくれた、たった一人の親友なのだ。
嫌いになど、なれる筈もない。
しかしだからこそ、衿那は親友と縁を切った。自分から彼女と距離を置いたのだ。それなのに、人の気も知らないで、命はこんなところまで衿那を追いかけてきた。
衿那はそんな命に腹を立てたが、それと同じくらいの嬉しさがこみ上げてくるのを、必死に抑えつけなければならなかった。
――しっかりしろ! こんなんじゃ駄目よ!
ここで命の優しさに甘えてしまえば、何のためにここまで来たかわからなくなってしまう。
――とりあえず二、三日は学校サボって様子を見るしかないわね……。
明日からの対応を暫定的にだが、そう定める。
すると、それまで蓄積された疲労がドッと一気に押し寄せ、急に体が重苦しくなる。
――さすがに、疲れたわね。まあ、当然か……。
半日の間歩き続けだったうえ、学校を飛び出してから、ずっと飲まず食わず。
己の不幸を自覚してからというもの、何を食べても美味いと感じたことはなかったが、体は絶えず栄養を求める。どんなに不幸でも、思い悩もうとも、腹が減るときは減るものだ。
――コンビニで適当に、おにぎりでも買って帰るか……。
衿那は臥せっていた顔を、重い腰を上げ、家路まで歩こうとする。
ふと、前方を見る。なにやら黒い物体が視界にちらつく。衿那はあわててその物体に目を向けるが、すぐにその首を傾げることになった。
「……カラス?」
そこにいたのは全身を黒い羽毛で覆われた、不吉の代名詞とも呼ばれる一羽のカラスだ。
特に珍しくも何ともない鳥類だが、こんな地下通路に何故いるのだろう。ここには餌になるような残飯も、彼等の興味を引くような光り物もないというのに。
「……………………何見てんのよ」
彫像のようにその場から動かず、自分を見つめるカラスの存在に、衿那は思わず口走る。不良にでも因縁をつけられたかのように、鳥公を睨み返し、眼を飛ばす。
そのまま静寂に包まれた地下空間内で、一人と一羽が暫し睨み合う。
「…………ふぅ」
一分と持たないうちに衿那が先に折れ、彼女は自嘲気味に首を振った。
「相当疲れてるわね、私……」
いくら追い詰められているとはいえ、たかが動物相手にムキになっている己に自己嫌悪。未だにカラスの、自分に対する妙な視線に不気味なものを覚えつつ、その場から立ち去るべく地上へと足を向けた。
そのときであった――
「――!?」
轟音と共に、衿那の全身が大きく揺れる。
頭を思いっきり振り回されるような衝撃に、立っていることすら困難な激しい揺さぶり。
いったい何事かと混乱しつつも、衿那は咄嗟に周囲に目を配るが――
頭上からすさまじい崩壊音が響いたのを最後に、彼女の意識は闇へと沈んでいく。