「ん…………」
櫛田衿那は目を覚ます。そっと目を開くと、そこには見知らぬ真っ白い天井が広がっていた。
どうやら、自分はベッドの上に寝かされているらしい、温かい毛布の感触が、ここが先刻まで自分がいた冷たく薄暗い地下でないことを教えてくれている。どこかの病院だろうか。衿那は辺りを見渡そうと視線を動かし首を横に向け――隣のベッドで寝かされている比佐命の姿が目に飛び込んできた。
「命――っ!?」
慌てて身を起こして彼女へ駆け寄ろうとしたが、瞬間、鈍い痛みが衿那の全身を襲い、激痛に顔を歪める。すると、聞き覚えのある女性の声が衿那に声をかけていた。
「あら、お目覚めかしら?」
「アンタは……確か……」
入学初日のHRの際、教壇の上に立った白衣の女性が、すぐ側の椅子に腰掛けていたのだ。
「気分はどう? 櫛田衿那さん」
その養護教諭――星野梨花子はゆっくりと衿那に近づき、彼女の額にそっと手を当てる。
「……うん、熱はもう引いたみたい。けどその様子じゃあ、体の方は本調子じゃないわね」
「…………ねぇ、ここどこよ? なんでアンタがここにいんの? 命は、大丈夫なの?」
こちらの心配をする梨花子に、衿那はいくつかの疑問を提示する。まだ頭に血が巡りきっていないのか、言葉はまとまらず、矢継ぎ早に質問が飛びだしたが、せっかちな衿那の問いに、梨花子は一つ一つ丁寧に答えて見せた。
「ここは渋谷区桜丘町にある森羅の本社ビルよ。私はここで貴方達の看病をしていたところ。命ちゃんに関しては心配いらないわ。眠っているのは疲労のせいで、怪我による外傷ではないから。今の貴方ほど、重症ではないから安心していいわ」
「…………そ、そう?」
余計なことを省いた簡潔すぎる返答。正直、わからないことが増えただけだった。
しかし、命が無事である。その一点だけをはっきりと理解し、衿那は安堵する。
「命ちゃん……一晩中、貴方の看病をしてたみたいね。流石に疲れが溜まって、貴方が寝ている側でそのまま眠っちゃったから、こっちのベッドに寝かしておいたのよ」
「……」
そんな状態になるまで看病をしてくれた親友の手厚い看護に、胸の奥から熱いものがこみ上げ、自然と瞳の奥が潤んでくる。しかし、そんな親友の行為に甘え、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。全身が悲鳴を上げるのにも構わず、衿那はベッドから身を起こす。
「っ……」
「どうしたの? トイレなら廊下を出て、すぐ右の突き当りにあるけど?」
「世話になったわね……」
無理をしてでも立ち上がろうとする衿那に、梨花子が冗談交じりに声をかけたが、世話になった礼を短く述べ、彼女は痛みに構わずここから立ち去ろうと、足を引きずり歩み出した。
先の銀行強盗事件や、地震による地下崩落の一件で衿那は察する。このままここに居続ければ、またいつ『不幸』が降りかかるか、わかったものではない。
厄災は既に自分の予想をはるかに超え、はっきりとした敵意となって襲ってくる。最悪、ビル倒壊なんて事態すらありえるかもしれない。
――せめて、命だけでも……。
懲りずにそんなことを考える衿那。そんな彼女に、梨花子は気楽な調子で言ってのけた。
「ああ、『呪い』のことが心配なら大丈夫よ? ここ森羅本社ビルは
「……………?」
「まあ、そのせいで、外で起きていた地震にすら気づかないんだから、おかしな話よね」
さも当たり前のように言葉を紡ぐ梨花子に、衿那はクエスチョンマークを浮かべる。
――呪い? 霊脈? さっきから、何言ってんのよ、この女?
「まあ、だからといって、ずっとここにいてもらうわけにもいかないし……とりあえず、早いうちに、何とかしなくちゃね……」
「……何とかって! そんな簡単に言わないでよ!」
その言葉に、衿那の我慢が限界に達する。理解不能な単語を並べる梨花子に苛立ちが募っていたのもあるが、それ以上に、無神経ともとれる発言が衿那の神経を逆撫でした。
「アンタに何がわかるってのよ! 私が、私たちがどれだけ苦しんできたと思ってんの! この『不幸』に、どれだけ振り回されてきたと思ってんのよ! まだ顔を合わせた程度で今から教師気取り? 生徒の悩みに無遠慮に首を突っ込む、熱血教師にでもなったつも!?」
彼女にこんなことを言ってもしょうがないと、わかっていながらも衿那は叫ぶ。八つ当たり以外の何物でもない、衿那の怒号。それでも、梨花子は動揺する素振りすら見せず、真正面からその怒りを受け止める。
「……何とかしてみせるわよ」
そして、梨花子は一教師として、悩み苦しむ生徒へ、毅然とした態度で答えてみせた。
「そのための学校で、そのための教師でしょ?」
◇
同時刻 同森羅ビル内 九十九明の執務室
「――やってくれやがったな!!」
渋谷の地下崩壊から、一夜明けた翌日。
崩落に巻き込まれ、二人の少女が運び込まれた森羅ビル内の別の一室にて。テッドはあらん限りの力を腹に込め、魂が震えるほどの叫び声を上げていた。
「……な、なんなのだ、テッド。今朝から顔を合わせるたびにそれではないか……」
「それだけのことを、しでかしてくれたんですからね!」
その怒りの矛先たる少女、神宮寺鈴鹿はどこか逃げ腰でその叫びと相対する。
現在時刻は昼過ぎ。鈴鹿の高校生活二日目も、健康診断や部活説明会等で終わり、彼女は森羅ビルに帰宅した。彼女自身、崩壊した地下にいたのだが、その体には傷らしい傷など全くなく、問題なく通学していた。一応、彼女も櫛田衿那の『不幸』に巻き込まれた被害者と言えば被害者なのだが、テッドの叱責には、彼女に対する労わりの心など微塵もなかった。
「……同感ですね」
兄の主張に同意し頷くメリーも、鈴鹿へ非難の目を向けている。
「ぬぐぐぐ……」
そんな他者の批判。普段の鈴鹿なら豪快に笑い飛ばそうものだが、今回ばかりは少しやり過ぎたと自覚しているのか、これといって言い返すこともできず押し黙る。
「ふぅ……。テッド、メリー。そのくらいにしておきなさい」
そこへ、会社の書類を整理していた九十九が、見るに見かねて助け船を出す。双子と違い、怒っている様子もなければ、特別取り乱した様子もない。
「彼女も十分反省している。それ以上はただの罵倒でしかないよ」
「……むぅ」
諭すような彼の言葉に、一旦矛を収めるテッド。しかし、すぐに数枚の新聞紙を取り出し、それをテーブルに叩きつけながら、尚も叫ぶ。
「見て下さいよ、これ! 今朝の朝刊! どこの新聞社も一面でこの大事故を報じてますよ!」
彼の指摘するとおり。どの一面にも渋谷の中心地に開いた、大穴の写真が掲載されている。テッドはさらに声を荒げ、シャウトする。
「こんなもん隠蔽しようがないでしょ! こんだけ目撃者がいて、こんなデッカイ物的証拠まで残って! ニュースも今朝からずっとこればっかり。ネットの掲示板にもすごい勢いで書き込まれてるんですよ? 情報操作も間に合わない。どうすんの!? ねぇ、これどうすんの!?」
「……だから落ち着きたまえ、テッド。思考が悪いほうにループしているよ」
荒ぶるテッドへ、九十九はやんわりと言葉を紡いでいく。
「人の噂も七十五日さ。時間が経って、穴の修復も終わればこの話題も自然消滅するよ。特に日本人はその気質が強くてね。『熱しやすくて冷めやすい』とは、よく言ったものだろ?」
「……七十五日で塞げるものですか、こんな大穴?」
「それは業者の頑張り次第だろうね。まあ、それはいいとしてだ。一昨日の銀行強盗のときのように、事件現場で鈴鹿君の姿がはっきり目撃されたわけではないのだろう?」
「……ええ、一応は。兄さんも私も、混乱に乗じて上手く彼女らを運びこむことができました」
頭を抱える兄に代わり、メリーが冷静な態度で受け答えする。
あのとき、『捜し屋』から提供された情報を元に、双子はすぐに現場に駆けつけた。そして、大穴の底で気絶した少女二人を抱きかかえた鈴鹿を、人目から避けるよう誘導し、素早くその場を後にしたのだ。大穴もそうだが、降り注いだガラス片の間接的被害にも、混乱が広がっていたため、こっそり抜け出すことは、そこまで難しいことではない。
だが、それでも絶対に目撃されていないとは保障できず、それこそ誰かに、携帯電話のカメラなどに取られ、ネットの海に動画や画像が流出する可能性など、否定はできない。
「それに――たとえ見られていたとしても、いったい誰が信じると言うんだい?」
しかし、九十九は腰掛けていた椅子から立ち上がり、両手を広げて芝居掛かった仕草で笑う。
自らの友人が起こしたその所業を、まるで自らの行いのように、誇るように。
「誰も信じはしないだろう。この光景が一人の少女によって生み出されたものだなどと、この大穴が彼女の――
◇
森羅ビル内 空き部屋
「…………アンタさ、さっき『呪い』がどうとか言ってたわよね?」
胸に抱えていた怒りを感情のままに吐き出したおかげか、やや落ち着きを取り戻した衿那。梨花子に振る舞われた温かい紅茶を口にしながら、思い出したように口にする。
「あれって、どういう意味?」
真っ直ぐ相手の意図を量ろうと問う。その問いに、梨花子は気負うこともなく答える。
「どうって……そのままの意味よ? 今の貴方は『呪われている』。ううん、この場合、『憑かれている』と言った方が正しいかもしれないわね」
その発言に眉を顰め、口を閉ざす衿那だったが、それに構わず梨花子の言葉は続けられる。
「貴方だって薄々は勘づいているでしょ? 自分の身に降りかかる『不幸』が普通じゃない。超常的で、常識や科学では解明できない、別の法則によるものだってことくらいは?」
「…………まあ、それは、そうだけど」
不満げに目を逸らしながらも、渋々と衿那は頷く。本人もそのことは理解しているのだろう。だが、完全に納得するにはまだ足りない。梨花子はその常識という名の壁をとっぱらうため、この世の真理の一つを打ち明けることにした。
もっとも、疑心暗鬼する今の衿那に言葉を重ねても意味はない。梨花子は分かり易く、手っ取り早く、その『力』の証明をするための行動をとることにする。
懐から一枚の紙切れを取り出す。彼女らの業界で『護符』と呼ばれる道具だ。梨花子はそれを天に掲げ、衿那にも聞こえるよう、護符へと命令を送った。
「――燃えろ」
刹那――護符が勢いよく燃え上がる。マッチで紙に火をつける程度ではない。焚火に灯油を注いだような勢いで燃え盛る炎を前に、衿那は驚愕に目を見開く。
「これで……少しは私の話に興味を持ってくれたかしら? ――消えろ」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、護符へ再度命令を送る梨花子。炎は幻のように掻き消え、梨花子の手には原型を保ったままの護符が握られている。
「………」
その現象を前に衿那は言葉を失う。当然といえば、当然の反応に暫し間が置かれ、ようやく我を取り戻した衿那は、絞り出すような声で梨花子に問いかけた。
「アンタ……いったい何者よ……」
強がってはいるものの、どこか恐怖心を持った言葉に、梨花子は優しげな声で答える。
「別に、ただの養護教諭よ……本職はね。ただ、ちょっと趣味で陰陽術を嗜んでるだけの」
「陰陽術って……? あの陰陽師?
「安倍晴明……ふふふ。そうよね。やっぱり陰陽師と言えば安倍晴明よね……ふふふ」
衿那の抱いた連想に、何故か笑いを堪えるようにして、梨花子はその言葉を肯定する。彼女のそんな反応に動揺しながら、衿那は続けざまに、さらなる疑問をぶつける。
それはこれから『呪い』とやらの話を詳しく聞いておくのとは別に、ここではっきりさせておきたいことであった。
「……じゃあ、
衿那の声は震えていた。笑みを溢していた筈の梨花子ですら、一瞬でその顔から表情の一切が消え去る。
『あいつ』が誰を指しているのか、言わずともわかっている。
神宮寺鈴鹿。
崩れゆく地下通路から衿那と命を救った、二人にとっての恩人だろう。
しかし、その恩人に対して、衿那が感じているものは、紛れもない――恐怖であった。
「あいつも……アンタと同じ陰陽師ってや――」
「――違うわ」
梨花子の言葉に、部屋中に重苦しい空気が圧しかかる。
「彼女は、根本から人間と存在を異とするモノ。この国では昔から、彼女のような異形を妖怪、物の怪、魔物と称してきたわ。口が悪い人は『化け物』なんて一括りに呼んでいるけどね」
「……化け物」
実際、彼女――神宮寺鈴鹿は人間ではない。
自他ともに認める化け物であり、人ならざる力をその身に秘めている。
「ただ……よくある話だけど、化け物にも色々いるわ。人間にだって悪人、善人がいるように、化け物にも、ただ人々に害を成すだけのものもいれば、無害な奴だっている」
目の前の少女の恐怖心を少しでも拭い去ろうと、言葉を選んで梨花子は語りかける。
「神宮寺さんの一族はその中でも特殊でね。人間に対してもそれなりに友好的よ。悪戯に刺激しない限り、彼女の方から貴方達に危害を加えるような真似もしないでしょうね」
しかし、そんな彼女の言葉にも、衿那の顔色が完全に晴れることはない。
「一族って、なによ」
未だ恐怖心が残る衿那から、かろうじて出てきた言葉がそれだけだった。
「貴方も知ってると思うわ……知らない方がおかしいか、ここ日本では……」
「……?」
「『化け物の代名詞』、『異形そのもの』。この国の人間は古来より恐怖と、畏怖と、敬意を持って彼等のことをこう呼ぶわ」
そして梨花子は口にした。鈴鹿たち一族を指す言葉、その『伝承』の名を――
「その化け物の名前を――『鬼』と、ね……」
◇
――鬼。
この島国に住まう者であれば、知らぬ者などいはしない『化け物』の呼び名。
しかし、高い知名度があるその一方で、それがいったいどういった存在を指すものであるのか、詳しい定義についてはひどく曖昧だ。
真っ先に連想されるのは巻き毛に角を生やした、虎柄のパンツで金棒を振り回す姿だろう。だが、それだけが鬼の全てではない。日本には、さらに多くの伝承で彼らの存在が書き記されている。
ときには、人を襲う化け物として。
ときには、災いをもたらす疫病として。
ときには、伝統的民俗行事として。
ときには、閻魔に仕える地獄の獄卒として。
ときには、風神、雷神といった天災を操る神々として。
ときには、物語の敵役として。
ときには、便利なことわざとして。
ときには、外道な人間を形容する言葉として。
多種多様、様々な姿形で、常に人間と歴史を共に歩んできた存在。
決して一括りに、一言で説明することができぬ彼等『鬼』と言う異形の怪物。
彼女――神宮寺鈴鹿もまた、その鬼の一角。
自らを『
しかし、遥か昔から人々に恐れられてきた彼ら化け物も、現代社会において、その存在は既に過去のものと化した。
鈴鹿たち『鬼神の眷属』のように、山奥に里を作り、結界を張って静かに暮らしているものたちもいるが、その大半は既に――人の手によって滅ぼされている。
人間の高度な社会の発展と共に、自然消滅していったものいるが、ほとんどの妖たちは彼ら、『陰陽師』の手によって、その存在を地上から抹消されていたのだ。
陰陽師。一般には学者やただの占い師として、かつて国家に仕えていた官職として知られているが、その実、霊能力者としての側面も強く持ち合わせていた。
化け物たちが最盛期だった、平安時代を全盛期とした彼らは、その時代に様々な秘術を秘密裏に確立。
その血脈は、科学文明が発展した現代にも脈々と受け継がれている。
◇
森羅本社ビル 夕方 九十九明の執務室
「さて……では報告を聞こうか。梨花子君」
「ええ……」
陰陽師の一人、九十九明は同じ陰陽師である星野梨花子から、櫛田衿那に取り憑いている『呪詛』についての調査報告を受けていた。
梨花子は目を覚ました衿那に事情を話し終え、すぐにその足で九十九の元に向かった。
九十九が調査を命じてから、まだ一日しか経過していないが、既に大半のことを調べ終えたらしい。手元の資料スラスラと読み進めながら、梨花子は調査結果を口にしていく。
「まず、言っておくけど。今回の一件。どうやらあの『メフィスト』が絡んでいるらしいわ」
「メフィスト……。あの『仮面』か。それはまた、厄介な相手だね……」
梨花子の口から出てきた人物の名に、九十九は椅子に背もたれを預け、ため息を溢していた。
メフィストとはここ最近、何かと界隈を騒がせている、とある外道術者の通称である。
日本において、陰陽師やそれに類する術者の類は、原則として『
彼らの主な仕事は、全国に点在する神社仏閣を管理、運営していくことにある。そのための人材を本部で教育、指導し、各地の支部へと派遣していく。
教育内容は一般教養を含め、神道学や仏教学。さらに、術者としての才能に恵まれた者に、陰陽術を始めとした秘術を伝授し、陰陽師としての教育を施していくのである。
しかし、八咫烏にも籍を置かず、その秘術を悪用する者たちがいる。
それが『外道術者』だ。彼らの大多数は、三流の小物。そうたいした悪事もできず、下手に派手に騒ごうものなら、即座に八咫烏の陰陽師たちが駆けつけ、呆気なく御用となる。
だがその中でも、メフィストは取り分け扱いの難しい難物だった。
その呼び名からわかるように、彼(?)はこの国の人間ではない。もとは欧州の方で暗躍していた外道術者だったのだが、多くの悪事に手を染め、各方面から恨みを買い、討伐されかけたところを
懲りるということを知らないのか。彼はこの地でも、かつてと同じような悪事を繰り返している。実験と称し、呪詛をばら撒き、これまで幾度となく、何の関係もない人々を苦しめてきた。櫛田衿那もまた、そうした彼の『実験』の犠牲者の一人だったのである。
「呪詛の種類は『
「ほう、蠱毒ときたか……これはまた、随分と原始的な呪いを持ってきたものだ」
梨花子はさらに詳細な内容、衿那の身を蝕む呪いの正体について九十九に話した。
蠱毒とは、発祥起源を古代中国、およそ三千年以上前に遡るほど、歴史ある呪術の一つだ。
生き物たちを密閉空間で共食いさせ、最後に生き残った一匹を呪詛の媒介として用いる。その一匹には、死んでいった他の生き物たちの『恨み』『怨念』『生への執着』などが宿り、それらを核として完成する、動物を用いた呪詛――それを『蠱毒』と呼ぶのである。
「媒介となった生き物は? それがわかれば、後の手順もスムーズに済むと思うが?」
「そこまではまだ……解析には、もう少し時間が欲しいところね……」
九十九の質問に対し、梨花子は言い淀む。
蠱毒は一般的に、毒虫などを媒介として用いるのが主流だが、使われた動物などによって、その呼び名も変わる。犬ならば『
また、殺し合いの舞台として使われる場所や日付などにもよって、効果や威力が違うという説もあるが、そこまで詳しい記述は残っていない。少なくとも、邪法に分類される呪術だ。八咫に所属するような真っ当な術者ならば、研究の段階で処罰の対象となろう。
「ふむ……しかし、そう慌てる必要もないか」
自分の質問に対し、明確な返答がなかったことにも、九十九は特に動じなかった。
「呪詛の種類がわかったのなら、後は『解呪』するだけだ。解決も時間の問題だろう」
呪詛には、かけ方とセットで、解き方というものが存在する。どのように複雑に編み込まれた高度な呪術であろうとも、そこに例外はない。それを見つけ出し、元のあるべき状態へと解きほぐす。特に陰陽師はその術に長けており、当然、八咫で陰陽術を学んだ梨花子も、その術を心得ている――筈なのだが。
「それ何だけどね……」
「何か問題でも?」
再び言い淀む梨花子は、苦虫を押し潰したような顔をする。
「実は……京都の方から、櫛田さんの解呪を待つように言われているのよ」
「……」
「『メフィストの隠れ家を特定したい。そのために、是が非でも協力してもらえ!』って……」
呪いをかけた術者と、かけられた側の被害者は、縁によって結ばれる。所謂、『悪縁』とも呼ばれる縁だが、その糸を手繰り寄せることで、向こう側にいる術者へ影響を与えることも可能だ。『呪い返し』で呪詛を返すことも、『追跡』で現在地を探り当てることも。
「いい加減、メフィストに振り回されるのもウンザリってことね。この機にメフィストをとっ捕まえて、頭痛の種を取り除いておきたい……ってのが、お偉いさんの意見よ……」
「なるほど、道理で……」
道理で、先ほどから梨花子の機嫌が悪いわけだと、九十九は納得する。
「つまるところ、櫛田さんをダシに、メフィストの尻尾を掴みたい。というわけだ」
「ええ……まったくもって度し難いけど……そういうことよ」
言うなれば、これは囮だ。自分たちの都合のため、衿那には今しばらくの間、『不幸』のままでいてもらうということ。呪いを解いてしまえば、その時点でメフィストとの縁は途絶えてしまう。この千載一遇のチャンス、八咫烏としても、逃すわけにはいかないのだろう。
梨花子は刻印の教師として、生徒である衿那を危険に晒すその決定に納得していないようだが、彼女も組織の人間である以上、その方針に従うしかない。メフィストを放置しておく危険性だって重々承知している。そういった複雑な感情が、梨花子の表情から滲み出ていた。
「了解した。では、彼女の身柄は今暫くこちらで預かろう。このビル内は、一種のパワースポットだからね。ここでなら、呪いの効果もいくらか緩和されるだろう」
九十九は梨花子の心情に配慮し、自ら衿那の保護を申し出る。
「……ええ、そうしてくれると助かるわ」
その気遣いに心から感謝し、梨花子は真摯に礼を述べるのであった。
「――さて、もうこんな時間か……そろそろ夕飯の支度をしなくては」
その後、蠱毒への今後の対処を検討する二人だったが、暫くして、九十九は腕時計の針に目をやりながら、席を立つ。既に日も暮れ、外もすっかり暗くなっていた。
「どうだい、梨花子君? 久しぶりに食べていかないかい? 何だったらそのまま泊っていくといい。櫛田さんの容体も、気になるところだろうからね」
キッチンに向かおうとした九十九は、そう梨花子へ声をかける。
「……そうね、せっかくだから、そうさせてもらいましょうか」
九十九の提案に少し考えてから、梨花子はそのように返答する。衿那の容体は勿論だが、これから家に帰り、一人夕食の用意をするのも面倒だ。久しぶりに九十九の料理を堪能し、明日以降の忙しい日々を乗り切ろうと、決意を新たにする梨花子。
「ん? 失礼……もしもし……ああ、これは! 先日はどうも!」
だが、二人で食堂へ行こうとしたところで、九十九の携帯に着信が入った。
九十九は足を止め、先に行くように梨花子に視線で促す。水晶球ではなく、通常の連絡手段であったことから、おそらくは森羅の会長としての仕事の話だろうと、梨花子は察する。
部外者である自分が聞くのも悪いと思い、大人しく退室しようとするのだが。
「……何?」
訝し気な九十九の声色に、ドアノブにかけていた梨花子の手が止まる。そして、続けて呟かれた物騒な単語の響きに、思わずその場を振り返っていた。
「――脱走?」
八咫烏
実際に日本に存在すると噂される秘密結社です。
それを作者なりの解釈を入れて登場させてみました。