化け物は笑う   作:SAMUSAMU

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少し長めですが、どうぞ。


テッド&メリー

森羅本社ビル 大浴場

 

 九十九明の居住区の一角。そこに様々なレジャー施設で埋まっている階層があった。

 室内プールに、運動場、トレーニング機材満載のスポーツジムなど。そして、この『大浴場』も九十九の趣味として設置された施設の一つである。

 本格的なスパ施設などと比べれば、大した規模でもないが、それでも、昔ながらの銭湯くらいの広さがある。きっちり男湯と女湯で別れており、脱衣所には洗濯機や自動販売機、マッサージチェアなどもあって、かなり至り尽くせりな内容の造りになっていた。

 

「…………はぁ」

 

 女湯の浴槽には、肩まで湯につかり、ポカンと宙を見上げる比佐命の姿があった。

 彼女の視線の先の壁には、銭湯の定番ともいえる富士山の壁画が描かれており、そして、背後の洗い場では――

 

「む、もう『しゃんぷー』とやらが切れてしまったぞ。メリーよ。そっちの取ってくれ」

「……あまり無駄に消費しないで下さい。いちいち補充するのも面倒なので。……どうぞ」

「うむ、ご苦労! いやぁ、これ泡立てるのが面白くてのう! ついつい使い込んでしまう!」

「…………泡が目に入って、涙ぐんでしまえばいい」

 

 化け物の少女と、金髪碧眼の少女が、何やら楽しそう(?)にしている光景であった。

 何故、こんな事態になっているのだろうか。

 命は、湯気で曇る視界越しに富士山を見上げながら、ほんの少し前の記憶を掘り返す。

 

 

 夜の森羅本社内の廊下。命は憂鬱そうな表情で、長椅子に腰掛けていた。

 先刻まで疲労で寝込んではいたものの、衿那とは違い、目立った外傷があるわけでもない彼女は、こうしてベッドから起き上がっても何の問題もなかった。しかし、健康的な肉体とは違い心が、気持ちの方が未だ優れずにいた。

 

 その原因の一つは親友である、櫛田衿那との距離感。

 先ほどまで二人は同じ部屋、隣合わせのベッドで休んでいたのだが、どうにも声をかけづらい。あの絶体絶命の最中。無我夢中だったとはいえ、ずっと胸の奥にため込んでいた気持ちを吐露したのだ。話した側も、聞いた側も気恥ずかしさで視線を合わせづらかった。

 もう一つ、衿那を蝕んでいるという『呪い』の件だ。

 衿那の捜索にあたる前、保健室で命は、呪いについての話を梨花子から聞かされていた。あのときは、親友を捜し出すことに頭が一杯で後回しにしていたのだが、今考えてみると、信じ難い話である。だが、衿那の不幸が呪いの影響であるならば、それを解く方法があると梨花子は言った。命たちではどうすることもできない今、その可能性に賭ける他なかった。

 

 そして、最後。それこそある意味、もっとも命を悩ませていた要因なのかもしれない。

 

 ――……神宮寺さんは『鬼』、『化け物』……人間じゃない……。

 

 昨日知り合ったばかりの少女、神宮寺鈴鹿。

 すこし風変わりなところを除けば、自分たちと同年代の少女でしかなかった、彼女の正体。目を覚ましてすぐに梨花子から説明を受けたのだが、先に目覚めて話を聞いていた衿那も、どこか動揺した面持ちであった。

 命も、ついさっきまで隣人だった鈴鹿が人ではないという事実に、少なからずショックを受けていた。この先、鈴鹿とどう接するべきか、どんな顔をして会えばいいというのか。

 

「……はぁ」

 

 心配事、悩み事ばかりが募っていき、自然とため息も増えていく。

 

「――おい」

「えっ?」

 

 そんな、心身共に俯く自分へかけられる声。バクンと命の心臓の鼓動が高鳴る。顔を上げると、そこには首を傾げながら自分の顔を覗き込む、鬼――神宮寺鈴鹿がいた。彼女は刻印の制服ではなく、Tシャツに半ズボンと随分とラフな格好をしている。

 その後ろには、控えるようにして立っている双子の兄妹、テッドとメリーの姿も見えた。

 

「どうした? 溜息なんぞ吐きおって。何か嫌なことでもあったのか?」

「……あ、いえ……その……」

 

 鈴鹿は命の落ち込み具合を心配して、声をかけてくれたようだ。そんな彼女に向かって、「原因は貴方です」などとは言えず、命はただ取り乱すしかない。すると、何も言えないでいる命に気を利かせたのか、双子の片割れのテッドが二人の間に割って入る。

 

「す、鈴鹿さん。比佐さんは大変お疲れのご様子です。そっとしておいてあげましょう」

 

 今の命にとって、彼の提案は正直いってありがたかった。しかし――

 

「何、疲れておるだと? それはいかんな! 聞けば貴様、昨日は一晩中、櫛田衿那の看病のために起きていたという話ではないか。我ら鬼とは違い、脆弱な人の身でよくもまあ……。しかし、体の方が持つまい。実は儂ら、これから風呂にでも入ろうかと思っておってな……」

 

 見れば鈴鹿も、双子の手にも、替えの着替えらしきものが握られている。

 

「せっかくだ。貴様もひとっ風呂浴びて、その疲れた体を癒すがよい――」

 

 

 そうして、なし崩し的に鈴鹿に連れられ、命は森羅の大浴場に入ることとなった。

 半ば、強引に拉致するような勢いで手を引かれ、思わず後ろの双子たちに、視線で助けを求めたが、二人とも心底同情するような目をするも、その瞳にどこか諦めたような空虚さをたたえており、首を揃って横に振るだけだった。

 逃げ道を断たれ、観念するしかなくなった。しかし、考えてみれば昨日も風呂などに入る機会はなかった。とりあえず、シャワーだけでも浴びておこうかと、ついていったのだが――

 

 ――それにしても……ビルの中に浴場だなんて……。

 

 予想していた規模の浴槽とは、まるで違ったことに面を食らう。

 このビルで目を覚ましてからというもの、基本的に衿那の看病か、睡眠で疲れをとっていたので、碌に部屋の外を出歩いたりもしなかった。しかし、こうして大浴場を、そこに行くまでに多くの施設、部屋数の多さを見せられ、まるで別世界にでも迷い込んだ錯覚を覚えてしまう。

 

 ――けど、私……こんなことしてていいのかな……。

 

 湯船に肩まで浸かった彼女は、その湯加減と、それを享受していられる罪悪感に「はぁ……」と、色々と複雑な気持ちがこもった吐息を漏らしていた。

 

 自分がこうして、安寧な湯船に浸かっている間にも、衿那はベッドの上で怪我の痛みに苦しんでいるだろう。一緒に入ろうとも思ったが、今の彼女の怪我の具合では傷を悪化させるだけだと、双子の片割れのメリーに厳しく指摘されてしまった。

 そういった思いもあってか、体の方はリフレッシュしたものの、気分の方はまだまだ本調子ではない。そうして思い詰める命。そんな彼女に声をかける者がいた。

 

「……貴方も災難でしたね」

 

 洗い場で体を洗い終えたメリーだ。彼女は手拭いをちょこんと頭に乗せ、ゆっくりと湯船に浸かっていき、命の隣へと近づいてきた。

 

「……あの人に振り回されて、こんなところまで……心中お察しします」

「い、いえ……助けられたのも事実ですし……」

 

 子供らしからぬ丁寧な口調、言葉遣いに、思わず命も畏まった返事で答えてしまう。

 ちなみに、当の『あの人』は、未だに洗い場でシャンプーを泡立て「泡  泡 」などと、ご機嫌なご様子で、鼻歌混じりに髪などを洗っていた。その様子を無表情で眺めるメリー。そんなメリーの横顔を、ちらっと盗み見ながら、ふと命は疑問に思う。

 

 彼女は――この双子たちはいったい何者だろう、と?

 

 比佐命はこのビルで目覚めてから暫くして、衿那の見舞いに来てくれた双子たちと顔合わせをした。話を聞くとあの二人は、気絶した衿那と命を抱え途方に暮れていた鈴鹿を、このビルまで、人目につかぬように誘導してくれた本人たちだという。その事実に感謝しつつも、命はやはり疑問を抱かずにはいられない。

 

 既に命は、梨花子が陰陽師。この国に秘密裏に根づいてきた、術者の末裔であるという事実を聞かされている。 そして鈴鹿が人間ではない、化け物であるという事実も。

 では、そんな彼女たちと一緒にいる双子たちは――果たして、ただの人間なのだろうか。このビルの持ち主、九十九明という人の子供か。それとも梨花子と同じ、陰陽師の一員なのか。もしくは、神宮寺鈴鹿のような、人ではない魔性の化け物の類なのか。

 

「……あ、あの……」

 

 いっそのこと聞いてみようかと、意外にも大胆な一手に出ようとする、比佐命。しかし、彼女が声をかけようとした直後、浴場内に電子音が鳴り響く。

 

「……失礼」

 

 それは、メリーのスマホの着信アラームだった。完全な防水加工が施されているのか、躊躇なく風呂場に持ち込んでいたそれをメリーは手に取る。どうやらメールだったようだ。その内容にさっと目を通すと、メリーの目が一瞬、鋭く釣り上がる。

 

「……兄さん!」

「うん――今上がる」

 

 メリーは仕切の向こう、男湯で湯船につかっている兄テッドへ声を飛ばす。彼にも同じメールが届いていたのか、妹の意思を汲み取ったように、湯船から上がる気配がした。

 

「ん? なんだ、もう上がるのか? 何か用事でもできたのか?」

 

 ちょうど髪を洗い終えた鈴鹿と、入れ替わる形でメリーも浴槽から立ち上がる。

 

「……ええ、少し問題が発生したようです」

 

 すれ違う鈴鹿の問いに答えながら、メリーは脱衣所へと向かっていく。命は、「もしかして衿那の身に何かあったのでは?」と俄かに胸騒ぎを覚え、その後を追おうとするが、それを制するようにメリーは振り返る。

 浴場に残る二人へ、一つの言葉を残していった。

 

「……ちょっと『一仕事』してきますので、お二人はごゆっくり……」

 

 

十分後 森羅本社ビル 九十九明の執務室

 

「諸君、緊急事態だ」

 

 集まった面々。ソファーに座るテッドとメリー、部屋の隅に背を預ける星野梨花子に、九十九明は開口一番、そのように話を切り出していた。

 

「今から十五分前。先日逮捕された強盗グループが、渋谷警察署より脱走。どうやら、逮捕された強盗犯たちを救うため、武装した仲間たちが襲撃した模様。脱走の際、警官隊と銃撃戦になり、警官、及び通行人に負傷者が出ている。犯人は現在品川方面を逃走中、車両は紺色のワゴン。機動隊が確保のために動いているが、犯人はかなりの興奮状態の上、機関銃や拳銃で武装しているため容易には近づけない。速やかな早期終結を求めたい――とのことだ」

 

 内容だけを聞くならかなり緊迫した状況のように思えるが、それを口にする九十九の調子がいつも通りに穏やかなためか、聞いている側の反応もやや鈍い。

 

「……あの、質問いいですか?」

 

 数秒後、水を打ったような静けさの中、恐る恐るとテッドの手が上がる。

 

「何かな、テッド? 状況が状況だからね、手短に頼むよ」

 

 できるだけ早く話を切り上げたいのか、急かすように催促する九十九だが、それにも動じずテッドはゆっくりと、重い口を開いていく。

 

「ええ……と、先日逮捕した強盗犯って……それはひょっとして、ひょっとしなくても……」

「君の考えている通りだ、テッド」

 

 少年の抱いた疑問に、九十九は正直に答えた。

 

「逃走したのは先日、渋谷区内のファミレスで拘束された五人組の銀行強盗犯……鈴鹿君がこの街に来て早々にぶちのめした。あの強盗犯たちだ……」

「やっぱりかいぃぃいっ―!!」

 

 予想通りの返答に、その場で叫び声を上げながら、テッドは頭を抱える。

 

「またか! またしても、あんたが元凶か!!」

 

 鈴鹿の故郷から、この街へ辿り着くまでの道中。また、この街に来てから僅か数日。彼女を原因とした様々な騒動に、誰よりも振り回されてきたテッド。またしても、鈴鹿がきっかけとなって起きたトラブルに、腹の底から絞り出すような絶叫を轟かせる。

 

「……兄さん、流石にそれは飛躍しすぎでしょう」

 

 だが、そんな恨み節全開のテッドを、冷静な態度でメリーがたしなめていた。

 

「……彼女が強盗犯を捕まえたことと、連中が脱走したことは、また別の問題です」

「いや、そりゃあ……そうなんだけどさ」

「……寧ろ、責められるべきは、性懲りもなく脱走を企てた強盗犯、そして、それを許した警察でしょう。……不甲斐ない」

 

 メリーはメリーで呆れるように、脱走を許した警察への不満を溢している。

 

「まあ、君の言うことも尤もだ、メリー。だが、この強盗犯たちもかなりの曲者でね」

 

 メリーの辛辣なコメントを宥めつつ、九十九は犯人たちに関する、詳細の情報を述べていく。

 

 

 強盗犯のリーダー、梅咲輝美という男は、かなり用心深い性格だったらしい。

 そもそも、銀行強盗という事業は、日本国内でも成功した例などほとんどなく、例え成功したとしても、警察に追われる逃亡生活を迎えるだけ。奪った金も大量に使えば足がつく。リスクに見合うだけのリターンもない、割に合わない仕事だ。

 それでも、梅咲たちはこの銀行強盗を成功させるため、知恵を振り絞った。用意周到に作戦を立て、万が一失敗したときのために、『保険』までかけていたのだ。

 

 

「先ほど届いた情報によると、新たに判明した彼らの仲間が二人。前回捕まった五人を入れ、計七人。それが今回の銀行強盗事件を企てた、犯行グループの全貌だ」

 

 その二人というのが今回、梅咲たちの脱走を手引きしたメンバーだ。

 彼らは金を奪った梅咲たちがすぐに逃げられるように、沖合に密航船を手配し、そこから国外へ逃亡するつもりだったらしい。そのことを、仲間の一人が取り調べの際に仄めかしたため、より詳しく調べ上げようと、警視庁の方へ身柄を引き渡そうとしたのだが、その際、今回の脱走事件が起きてしまったのだ。

 

「前もって打ち合わせでもしていたのか、なかなか見事な手際だね」

「……しかし、それでも用心していれば、防げた事態です。仲間がいると知っていたなら、尚のこと……」

 

 犯人側の動きを称賛する九十九だが、やはり非は警察側にあると、メリーは口を尖らせる。

 すると、九十九は少し言いにくそうに頬を掻きながら、そっとつけ加えた。

 

「一応、渋谷署の警察官たちの名誉のために言わせてもらうんだが……彼らは前日まで、自分たちの目と鼻の先で起きた『地下崩壊』の一件で、てんてこまいでね……」

 

 言うまでもなく、先日鈴鹿がぶち空けた、『例の大穴』のことである。

 

「その対応に追われ、警察官総出で駆り出されていたらしい。その混乱が収束した、その直後だよ。機関銃を持った犯人グループたちが襲撃してきたのは……いやぁ、あれさえなければ、もう少しまともな対応ができたと思うよ?」

「…………」「…………」

 

 沈黙――地獄のような沈黙で静まり返る九十九の執務室。暫しの静寂の後、テッドは息を大きく吸い込み、ありったけの思いの丈を、怒号と一緒に吐き出していた。

 

「――やっぱりなんもかんも、あんたが悪いんかぃぃぃいぃっ――!!」

 

 

 

「――さて、少し話が脱線してしまったが、どうするかな?」

「はぁはぁ……ど、どうとは?」

 

 あまりのストレスに、軽く錯乱状態になりかけたテッド。未だに大きく息を乱しながらも、ようやく怒りが沈静化し、そんなテッドと、メリーに向かって九十九は尋ねた。

 

「既に状況はオールレッドだ。このまま梅咲たちを逃がす――などという失態を警察が演じるとは思えないが、無傷での確保も難しいだろう……」

 

 一度緩んだ場の空気を引き締め直すためか、真剣な面持ちで九十九は語る。

 

「幸い、今のところ死者こそ出てはいないが、この先も、そうだという保証はない。再び銃撃戦にでもなれば、周囲に多大な被害が発生するだろう。最悪、犯人たちが射殺されることで事態の解決が望まれるかもしれないが、それは大変よろしくないと、警視総監も仰っておられる。その上で君たちに問おう。――この『仕事』を受けるか否か?」

「……」

 

 九十九の問いに、ここまでの会話に混じることなく、ずっと目を閉じたまま壁際で静観を決め込んでいた梨花子の目が、薄っすらと開かれる。

 ここに至って尚、彼女が話に入ってくる気配はない。何故なら、その問いかけは自分にではなく、テッドとメリー。この双子の少年少女に向けられた言葉だと。わかっているからだ。

 

 原則として、八咫烏の陰陽師がこのような事態に首を突っ込むことはない。たとえ、どのような重大案件だろうと、術者や妖の類が関与しない限り、彼女のような陰陽師が、そのような俗事に関わることは禁止されている。

 九十九もそれを承知しているからこそ、その視線は常に子供たちの方へと向けられていた。

 

「そりゃあ、まあ……確かに道案内や、人探しよりは難易度の高いミッションですが……」

「……」

 

 普通ならば無茶ぶりもいいところだろう。こんな危険な騒動の解決。まだ中学二年生である二人に、振るような話ではない。しかし、テッドは特に取り乱す様子もなく言葉を返し、メリーも兄に同意するように黙って頷く。

 そして双子は互いに、()()()()を確認しながら、テッドが代表して答えるのだった。

 

「まっ、『陰陽師』やら『化け物』やらを相手するよりは、ナンボかマシな仕事ですよ」

 

 

東京都内 品川区周辺 

 

「――くそ、もっとスピードは出ねえのか!?」

「無茶言うな、これで精一杯だ!」

「おい! 後ろ! パトカーがケツに張りついてんぞ!!」

 

 渋谷警察署から逃走した強盗犯たちの乗る、紺色のワゴン車。男七人と狭苦しい車内で仲間たちの切羽詰まった怒号が飛び交う中、リーダーである梅咲輝美は、熱が冷めたように黙りこくっている。

 しかし、それは冷静さからくる沈黙ではない。寧ろ、この場にいる誰よりも、梅咲の心中は大時化の海原のように荒れ狂っていた。

 

 ――くそ、くそ、くそっ!! 何だってこんなことになっちまったん!?

 

 完璧な計画だった。あらゆる不測の事態を想定し、練りに練った銀行襲撃のプラン。

 実際、金を奪い、銀行を立ち去るまでは全て上手くいっていた。後は警察が駆けつけるよりも先に姿を晦まし、埠頭で待機していた外の仲間と合流。そのまま、密航を手配した船で国外に逃亡し、得られた戦利品を眺めながら、仲間たちとほくそ笑む――そんな手筈であった。

 

 だが、現実はどうだ?

 

 万が一に備えて用意した脱走プランが功を奏し、何とか逃げ出すことはできたが、こうして無様に警察に追われる身の上となった。勿論、一銭の戦果もない。今も必死に追っ手をまこうと、死に物狂いで街中を疾走する始末。 滑稽なピエロにでもなった、不快な気分だ。

 

 ――くそっ! 忌々しい! これも全部、あのクソガキのせいだ!

 

 イライラが止まらない梅咲は、血走った眼で親指の爪を噛みしめ、自分たちが逮捕されるきっかけとなった『クソガキ』――神宮寺鈴鹿への、憎しみを滾らせる。

 

 ――絶対に許さねぇ! 一家全員! 一族郎党! 皆殺しにしてやる!!

 

 この窮地を脱し、真っ先にすべきこと。鈴鹿への復讐計画を頭の隅で練り上げながら、梅咲は命乞いをする彼女の姿を夢想する。それで少しは溜飲が下がったのか、そこでようやく、彼は意識を現実へと引き戻した。

 そして、手下たちに何かしらの命令を飛ばそうと、顔を上げたところで――

 

「! 馬鹿、そっちは――!?」

 

 梅咲は慌てふためいた様子で、声を荒げる。

 

「へっ?」

 

 運転席の男を含め、手下たちが一斉に振り返るが、手遅れだった。梅咲の指摘とほぼ同時に、運転席の男がハンドルを切っており――IC(インターチェンジ)の入口へと車を走らせていた。

 

「馬鹿野郎! インターには入るなって、あれほど言っといただろうが!!」

「す、すみません。パトカーが急に横合いから……」

 

 神妙な顔つきで頭を下げる運転席の部下の言葉に、梅咲は舌打ちする。

 

 ――ちっ! 誘い込まれたか……。

 

 逃走ルートを選ぶ際、自動車道や高速道路を用いるのは基本的に悪手である。

 一見すると、信号もなく、障害物も少なく、スピードも出せて距離を稼げるように思えるが、進行方向が一定なため、追う側としては行き先が予想しやすく、待ち伏せがしやすい。

 ICの出入り口にでも検問、バリケードを張られれば、それで袋のネズミだ。

 

 ――クソ……やるしかねぇな……。

 

 いよいよもって、後がなくなってきた。梅咲は、懐に忍ばせている拳銃を握りこむ。他の男たちも同じ装備を持ち、部下二人に至っては機関銃まで手にしていた。

 それらの銃火器は、銀行強盗襲撃の際、装備がかさばるという理由から、アジトに置いてきたものだ。今回の脱走計画のため、外の部下が持ち出してきた。彼らにとって正真正銘、最後の頼み、最後の武装というわけだ。

 いざとなれば、この装備で警察との銃撃戦だと、各々が覚悟を決める。

 

「……? あれ……おかしいですよ、梅咲さん!」

「今度は何だ!?」

 

 ふと、一番後ろの座席に座る仲間が、振り返りながら困惑気味に声を上げる。その男の呼びかけに、余裕のない梅咲は怒鳴り声で聞き返す。

 

「パトカーが…………いません」

「なんだと!?」

 

 信じられない一言に、梅咲も思わず振り返る。すると部下の発した言葉どおり、ついさっきまで自分たちを追い回していた、あの忌々しい白黒パンダの自動車が、影も形も見えなかった。

 

「まさか、諦めた……いや、そんな筈は……」

 

 一瞬、願望とも呼べるそんな都合のいい考えがよぎるも、すぐにあり得ないと悟る。自分たちのような脱走した凶悪犯を、警察がそう簡単に諦めるわけがない。

 

 ――いったい、どこに行きやがった?

 

 きっとまだ近くにいると、梅咲は周りの道路状況を見回す。だが、その予想を裏切るかのように、近くを走るパトカーはいない。それどころか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()()()()()()

 

 ――……?

 

 その不自然な状況に、違和感を覚える梅咲だったが、それが意味するところを思案するよりも先に、彼らの耳にその音は聞こえてきた。

 空気を切り裂く衝撃音と、自動車とは明らかに違う奇妙なエンジン音。

 

「ま……まさか!?」

 

 日常的に聞くような音ではないが、それは万人の耳に、とある乗り物を連想させる音だった。

 もしやと思い、梅咲は車の窓を開け、そこから空を見上げる。すると、そこには――

 

 漆黒の夜空を一機の回転翼機――ヘリコプターが、優雅に飛び回っていた。

 

 突如、自分たちの頭上に現れた、そのヘリの存在に浮足立つ、梅咲率いる脱走犯たち。

 彼等とて、警察が航空隊を動員してくることは予測しなかったわけではないが、実際にすぐ間近を飛ぶ飛行機械の重圧には、流石に虚を突かれ、暫し唖然となる。だが、気を持ち直した男たちは、すぐに夜空の星々を見上げるのに無粋な鉄の塊の排除を試みる。

 

「くそ! 邪魔だ! あっち行きやがれ!」

 

 男の一人が車窓から身を乗り出し、空に向かって機関銃を乱射する。撃ち落とせるなどとは思っていない。あくまで、牽制の意味合いが込められた銃撃だ。意図通り、ワゴンに追走するように飛んでいたヘリは、銃火を避けるようにふらりと、視界から遠ざかる。

 喝采を上げる男たち。そんな中、梅咲一人だけがそのヘリに対し、違和感を覚えていた。

 

 ――今の、警察のヘリじゃなかったぞ?

 

 あらかじめ、予備知識として詰め込んでいた警視庁のヘリは、青地にオレンジの帯が縦に入った、些か特徴的な色合いをしている。ところが、今しがた飛び去って行ったヘリは、全体が真っ黒に塗りつぶされた、巨大なカラスを彷彿とさせる、不吉さを全体に纏っていた。

 不審がる梅咲を尻目に、再びヘリの爆音は接近してくる。

 

 次にヘリが現れたのは、爆走する男たちの乗ったワゴン車の――前方だった。先回りする形で前を飛んでいたヘリは、その場で旋回。真正面にワゴン車と向き合う形になり――サーチライトの光が照射された。

 あまりの眩しさに、運転手が反射的にブレーキに足をかけ、車を減速させようとするが――次の瞬間「パン!」と風船が割れるような音がした。

 

「な、なにぃぃい!?」

 

 不自然に揺れる車体に、梅咲の口から素っ頓狂な悲鳴が上がる。あきらかにバランスを失ったワゴンは二回、三回と360度のスピンを起こし、そのまま中央分離帯のフェンスに激突。当然、男七人でぎゅうぎゅうに敷き詰められた車内は大混乱だ。

 梅咲の脳は激しく揺さぶれ――ほんの僅かな間、彼の意識は途絶えることとなる。

 

 

「ボス……ボス! くそ、ボスが殺られた!」

 

 ぐったりと、動かなくなった梅咲を見て、部下の一人が憤慨する。

 実際のところ、少し打ち所が悪く、意識を失っただけなのだが、何故か死んだと早とちりする男たち。大将の弔い合戦だと、武器を片手に車内から飛び出していく。

 

 外に出た彼らが真っ先に目にしたのは、スクラップと化したワゴン車だ。衝撃を吸収するバンパーを見事に凹ませ、タイヤの一つが完全にバーストしていた。

 逃走手段を完全に失った男たちは、揃って青い顔になり、次にヘリの方へと目を向ける。

 ヘリは、その場にホバリング状態で留まっており、ヘリのドアからは、身を乗り出すようにし、こちらに狙いを定める――狙撃手のライフルが向けられていた。

「あの狙撃手が車のタイヤを撃ち抜いたのか?」と、相手方の腕前に戦慄を覚える男たちだが、彼らの頭に降参の二文字は無い。親玉を殺られた(と思い込んでいる)彼らは、捕まるぐらいなら死んでやる――とまではいかないものの、それに近い精神状態で奮起していた。

 これを鎮圧するのは、警察の特殊部隊といえども、難儀するだろうが、彼らにとって『幸運』か『不幸』か。そのヘリは警察の持ち物ではなかった。

 

 さらにもっといえば、その狙撃手は――大人ですらなかったのだが、そんな些細なことなどお構いなしに、男たちは一斉に拳銃、そして二丁の機関銃を狙撃手へと突きつける。

 あわや銃撃戦になるかと思いきや、狙撃手の方がゆっくりと、ライフルの銃口を下ろす。その行動に意表を突かれる男たちだが、その狙撃手の後ろ――ヘリのドアから一つの人影が舞い降りたことで、彼らの混沌はさらに深まっていく。

 

 地上に降り立つや、その人影は真っすぐ犯人グループへと歩き出す。右手に、何やら長い得物を握り締めているが、サーチライトの逆光のせいで詳しい容姿などもわからない。

 だが、あきらかに成長途中の背丈に、丈の短いミニスカート。その特徴的なシルエットから、その人物が年端もいかない子供――乙女であることが推察できる。

 こんな殺伐とした場面に、似つかわしくない少女の登場に、ほんの僅かに動揺の色を見せる強盗犯たち。だが、警察に捕まっていた銀行強盗の実行犯たちは、その『少女』という存在にしてやられた苦い記憶を保持している。身長と髪型の違いから、あのときの少女ではないとわかり、ほっと安堵するも、すぐに臨戦態勢で銃を構える。

 子供といえども油断はできない、と彼らは慢心を捨て去るのだが――その判断を下す、ほんの数秒の逡巡こそ。彼らにとって、何よりも致命的な誤算であった。

 少女に気を取られた僅かの間に、ヘリから狙撃手が、道路へ筒状のものを投げ入れる。空き缶が転がるような乾いた音が響き、自然と男たちの視線が地面へと注がれ――。

 

 直後――地面からものすごい勢いで、青い煙が噴き出していく。

 

「なっ!?」

 

 スモークグレネード。各国の軍隊でも、正式な装備として採用される特殊な装備だ。本来であれば、室内の使用でこそ、その効力が活かされる武装だが、野外であっても、その真価を十分に発揮されていた。

 

「くそ、け、けむい! 何も見えねぇぞ!」

「このっ! ガキが! どこに行きやがったぁっ!?」

 

 瞬く間に広がったスモークが、強盗犯たちの視界を遮る。煙に巻かれ、彼らはこちらへ歩いてきた少女の姿を完全に見失ってしまった。独特の硝煙臭の不快さと苛立ちに、男たちは一斉に、少女やヘリがあった方角へと、出鱈目に銃を乱射し始める。

 

 しかし、少女は彼らの射線上になど、立っていなかった。

 

 回り込むような形で男たちに接近していた少女は、煙の中を咳き込むこともなく進み抜け、機関銃を乱射する一人の男の側まで近づき、己の得物を抜き放つ。

 手にしていた長物は――日本刀。白刃煌めく刃で少女は、男の腕を斬りつけた。

 

「! いっ……いってぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 死角からの奇襲に、男の腕に焼けるような痛みが走り、思わず武器を手放す。彼の悲鳴を聞きつけ「どうした!?」と仲間たちから、心配する声が上がる。その叫び声を目印に、少女は再び煙の中へ。巧みな足さばきで移動しながら、さらに別の男へ斬りかかっていく。

 

「ぐぅっ!」「あぐぁぁぁっ!?」「痛てえ、痛てぇよ……」

 

 一人、また一人と順に、少女は容赦のない斬撃を浴びせていく。やがて、夜風が煙を溶かし、視界が回復する頃には、全ての男が彼女によって斬り傷を負わされていた。

 

 だが、それで打ち止めだった。

 

 痛みに腕を抑え、武器を取りこぼすも、男たちは未だに健在。全員が五体満足でその場に立っている。少女の腕前では、一撃で彼らを戦闘不能にすることなど、最初から不可能だった。

 

「こ、このアマ……よ、よくもやってくれたな……へっ、だが、ここまでだ!」

「…………」

 

 気がつけば、男たちは少女を四方から囲い込み、逆に追い詰める形となっていた。

 

「どいつもこいつも、散々引っ掻き回しやがって――死にやがれぇッ!!」

 

 そして、それまで受けた全ての仕打ちを、その少女にぶつけるように、男たちは銃を拾い上げ、トリガーに指を掛ける。だが、彼らは気づいていない。少女が既に刀を鞘に納めていたことに。

 たったの一撃。その一撃で、全ての決着がついていたということに。

 

「――がっ、がぁ、がぁっ、ががが?」

 

 突然、過呼吸に陥ったように男の一人が胸を抑え、喘ぎだす。その症状は、伝染するように男たち全員に伝わり、さらに彼らの全身が小刻みに震える。

 強烈な吐き気と眩暈が男たちを襲い、限界を迎えた肉体が次々に地べたへと横たわる。

 その苦しみに、ギリギリまで抵抗しようとした男の一人が意識を失い、白目を剥いて痙攣する仲間の様子を見て、とある可能性を脳裏によぎらせる。

 

 ――ど、毒……。

 

 見事正解に辿り着いたものの、最後には彼も仲間たち同様、その意識を手放していた。

 

 

 ――なっ……なんだってんだ、ちくしょうめ!

 

 仲間たちが少女の足元に転がる光景を、意識を取り戻していた梅咲は、車の中からこっそりと覗き見ていた。彼が目を覚ました時点で、そのような図式ができ上がっていたため、そこに至るまでの過程を知らない梅咲は、その結果のみで少女の存在を脅威と判断する。

 もはや梅咲に、少女や、あのヘリコプターに抗おうという気概はない。

 自動車のドアを、音をたてぬようゆっくりと開く。息を潜めながら、頭を低く、地べたを這いずる様にその場から立ち去る。少女がこちらに気づいた様子はない。このまま無事に逃げ出せるかと、淡い期待を抱きかける梅咲だが――その進路を阻むように、その人影は降り立った。

 

「――おお! 久方ぶりだのう。名も知れぬ、銀行強盗よ」

「ひぃッ! あ、あ、ああ、あぁぁぁああっ!?」

 

 そこには二日前。自分たちの企みを全てご破算にした、あのときの少女――神宮寺鈴鹿が、歯を剥き出しに、快活そうな笑みを浮かべながら、立ち塞がっていた。

 つい先ほど、彼女への復讐を誓っていた梅咲だが、実際に目の当たりにすると、もはやそれどころではない。二日前と寸分たがわぬ、忍びのような恰好で現れた鈴鹿に、完全に腰を抜かし、悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。

 

「まさか、こうも早くに再開することになるとは、流石の儂も思いもよらなんだぞ、ん?」

 

 何かしらを呟く鈴鹿だが、梅咲の頭には何も入ってこない。まだ懐に拳銃を忍ばせてはいるが、そんなものが通用するわけがないと、彼の本能が告げていた。

 

「しかし――罪の償いも終わらんうちから、脱走とは……貴様も懲りん男だ」

 

 そして、呆れたように呟く鈴鹿の瞳に、冷たい色が宿る。

 

「どうやら、仕置きが足りんかったようだな。それが、貴様を調子づかせてしまったのであろう? まあ、無理もない。あのとき、貴様らに振るって見せた儂の力は、ほんの一端。我ら『鬼神の眷属』にとって、それこそ赤子の手を捻る程度の力しか示せなかったのだからな」

「な……なにを、い、いって……?」

「かくなる上は、見せつけてやるしかあるまい。儂ら鬼という存在が、どれだけ恐ろしいか! 魂の奥底に刻みつけてやらねばなるまい! お前たち人間がどれだけ矮小な存在なのか!」

 

 徐々に語気を強めていく鈴鹿の言葉に、梅咲の震えが加速度的に増していく。

 

「光栄に思うがいい! 本来であれば、貴様のような下郎に晒すべきではないかもしれんが、その愚劣さを正すため、特別に見せてやろう。我ら鬼神の眷属が誇る――真の姿を!!」

 

 両手を広げながら声高らかに宣言するや、鈴鹿は自身のその姿を、異形へと変化させていく。

 

「あっ、あひゃぁぁあああっ!?」

 

 先刻まで少女だったものが、突如として変貌していく様に、梅咲の口から、地獄の底で亡者が救いを求めるような阿鼻叫喚が放たれる。

 タイミングが悪いことに、ヘリのサーチライトが、さらに鈴鹿の姿を鮮明に照らしていく。後方から照らされる光によって地面に差す、神宮寺鈴鹿の影。異形のその姿がシルエットとして浮かび上がり、その口元が――にたりと歪んだ。

 それが限界だった。あまりの恐怖に、完全に精神が崩壊した梅咲。ズボンを生暖かいもので濡らしながら、泡を吹いて失神する。

 最後に、たった一つの言葉を言い残しながら――

 

「ば、ばけ……もの……」

 

 

 日本刀を手にした少女――メリーが、強盗犯たちの最後の一人、梅咲が逃げようとしていたことに気づくのとほぼ同時に、ヘリから鈴鹿が飛び降り、彼の元へと舞い降りていた。

 

 元々、今回の作戦に鈴鹿の参加は含まれていない。ミーティングが終わり、現場に赴こうとしたメリーたち一行と、風呂上がりの鈴鹿が鉢合わせ。強引にこちらの事情を聞き出すや、「儂もいく!」と遠足にでも行くようなテンションで、無理やり引っついてきたのだ。

 一応、大人しくしているよう九十九に言われてはいたが、最後の最後に見知った顔を見つけ、たまらず飛び出し、首を突っ込んできた。

 そうした、自由奔放な鈴鹿の行動には、流石にメリーも物申したい気分であった。

 

 だが、そんな思考――化け物の正体を晒した鈴鹿の前に、全てが吹っ飛んでしまっていた。

 

 ――……なるほど、彼女が鬼……『化け物』というのは、真実でしたか……。

 

 正直なところ、メリーには鈴鹿が鬼であるという事実を、どこか疑う気持ちがあった。

 今の今まで、メリーは鈴鹿の力を間近で見てこなかった。彼女が残してきた破壊の爪痕を目撃してきたが、それが本当に鈴鹿の仕業なのかと、若干の猜疑心を持っていた。

 しかし、彼女が梅咲相手に見せつけた、その異形なる姿を前に、鈴鹿が人間ではなく、正真正銘の化け物だと、メリーは思い知らされる。

 

「まっ、ここまで脅しつけてやれば、もはや逃げ出そうなどとは考えんだろう……」

 

 気絶した梅咲を見下ろす鈴鹿は、既に人の姿に戻っている。メリーは、そんな鈴鹿の背に、黙って視線を送る。努めて無表情を装っているが、彼女の両腕には鳥肌が立っていた。

 鈴鹿の本性――鬼神の眷属とやらの真の姿は、確かに『鬼』と呼ばれるものに相応しく、男たちを一方的に斬り伏せたメリーに対しても、『恐怖』という感情を植えつけ――

 

 それとは別に、()()()()()()()を激しく揺り動かすものでもあった。

 

 普段、感情表現が乏しいとよく言われるメリーですら、それを強く感じとった。その抱いた感情を表現すべき言葉が、メリーの口から、自然と漏れ出ようとする。

 

「――――」

「二人とも! そろそろ引き上げるから戻ってきて!」

 

 しかし、メリーがその感想を口にしようとしたところで、ヘリで待機していた、狙撃銃を肩に担いだテッドが、プロベラ音に負けずと、声を高く張り上げて二人を呼びつける。

 鈴鹿は「うむ、いま行く」と答え、自分が失禁させた梅咲の方を振り返りもせず、ヘリの元へと戻っていく。メリーは、やはりその背中を視線で追うが、己の抱いた感情を振り払うように首を振り、鈴鹿の後を黙ってついていった。

 

「ん? ………おい、あやつら、あのまま放置してよいのか?」

 

 二人が戻ると、ヘリはすぐさま現場から飛び去った。助手席から、離れていく地上を覗き込みながら、鈴鹿がそのように疑問を呈する。

 

「――ああ、問題ないよ」 

 

 彼女の問いに、操縦席に座る九十九明が答える。

 

「既に警察には通報済みさ。『人払い』の結界も解いたからね。あと数分もすれば、パトカーも駆けつけてくるだろう。後のことは彼らに任せよう」

 

 九十九の言葉を証明するように、先ほどまで、どこか遠くに聞こえていたサイレンの音が響いてきた。見れば、強盗犯の乗っていたワゴンの周辺に、ランプの明かりが集まっている。

 

「ふむ、どうやら、そのようだな。しかし、罪人どもの脱走を許すとは……人間の獄卒も頼りにならないものだ。まったく情けない! 弛んどるぞ!」

「七割方は、あんたのせいなんだよな……」

「……」

 

 鈴鹿は、梅咲たちの逃亡を許した人間の警察に不満を溢す。それを聞き、ヘリの後部座席に座るテッドが小さい声でボソッと呟くのを、隣の席に座るメリーだけが聞いていた。

 梅咲たちが脱走を成功させた理由の一つに、鈴鹿自身の起こした不手際が原因としてあるのだが、どうやら彼女は、そのことを知らされていないご様子である。

 

「しかし、わからんな。何故、あのような輩相手にお前たちが出張る必要があるのだ? これも八咫烏の役割の内なのか?」

 

 再び疑問を提示する鈴鹿。八咫烏の存在のことは、彼女も知っているようだ。テッドとメリーも、八咫烏という組織の大まかな概要は九十九から教えてもらっていた。

 しかしながら、双子は――八咫烏のメンバーではない。

 

「いや、この件に八咫烏は関与していないよ。これはあくまで私個人……森羅の会長としてのお仕事だ」

「?」

「まっ……君には無縁な話かもしれないが、人間の社会というものは、多くのしがらみを抱えているものでね。そうした、しがらみの中、森羅という企業の成長、利益のためにも、様々な方面に貸しを作っておく必要があるんだ。この仕事も、その一環……というわけさ」

「ほう! ……? よくわからんが、流石、九十九殿だな!」

 

 あきらかに直接的な説明を避けた九十九に、鈴鹿は疑問符を浮かべながらも、感服したとばかりに首を頷かせている。

 今回、九十九明が森羅の会長として秘密裏に受けたこの『仕事』によって、果たしてどのような『利益』が発生したのか。テッドやメリーにも、詳細は何も知らされていない。詳しく問いただせば、九十九も何かしらの答えを返してくれるだろうが、そこまでして知ろうとも思わないし、二人も深く踏み込みはしない。

 テッドとメリーにとって、今回の『仕事』も、道案内や人探しといった前回の『仕事』と同じ。あくまで、『お使い』の延長のようなものだ。仕事を受け、成功させることで毎月、活動費という名目で一定額支払われるお小遣いの額に色がつく。その程度の認識だ。いや――()()()()()()()()()()()()()

 

 自分たちの置かれている現在の環境が、明らかに普通とは異なることを、双子たちも当然理解はしている。しかし、今の環境にそれなりに居心地のよさを感じているため、それを進んで壊してまで、何かしようなどと考えたりはしない。

 これでもし、九十九が大量殺戮や暗殺のような、あからさまにヤバい命令を強制するような男ならば、双子たちも自身の身の振り方を真剣に考えるだろう。だが、現時点でそのような振る舞いを、九十九が見せる兆しはない。

 九十九は一人の人間として、テッドやメリーの人格を尊重し、対等な立場で接してくる。ときおり、保護者風を吹かせることもあるが、それは必要経費として我慢する。実際、衣食住など、彼の世話になっていることは事実なのだから。

 

「さあ、帰ったら夕食にしようか。何かリクエストはあるかい?」

 

 ヘリコプターの進路を森羅ビルの方面へ取りながら、九十九がいつものように尋ねてくる。

 

「儂、肉!」「あっ、自分、刺身が食べたいです」「……野菜サラダ」

「……見事なまでにバラバラだね。まあいいさ。できる限り、その注文に応えるとしよう」

 

 それぞれ三者三様に、好き勝手な答えが返ってくるが、九十九は特に気にした様子もなく。「腕が鳴るな」などと呟きながら、軽やかな操縦で森羅ビルへの帰路につくのであった。

 

 

 そうして、森羅ビルに帰宅した九十九たち一行。

 留守を任されていた梨花子と、居心地悪げに浴場の脱衣場でポツンとしていた命の二人を加え、食堂で遅めの夕食を取った。

 衿那は、まだ安静にしておいた方がいいだろうという判断から部屋にいる。命も衿那に付き添おうと部屋にこもろうとしたが、それを鈴鹿が些か強引な形で食堂まで引っ張っていく一幕があったりした。

 やがて――夜も遅くなり、子供たちはいつもより早く床に就いていく。

 

 

森羅本社ビル 深夜

 

 仕事の疲れか、明日に備えてか。子供たちが深い眠りに寝静まった深夜の本社ビル。

 九十九明は一人、自身の私室で急ぎの仕事を片付けていた。ここ数日、忙しさで碌に睡眠もとっていないが、疲れた表情はなく。顔色一つ変えず、彼は黙々と書類を処理していく。

 そんな九十九の元へ、来訪者を告げるノックの音が鳴り響く。

 星野梨花子だった。彼女は九十九の返事を待たずして、彼の執務室へと入るや、手に持っていた銀製のティーポットから、二人分の紅茶をカップへと注いでいく。

 その一つを自然な動作で九十九へと差し出し、もう一つを自分の方へ。九十九は、そのカップを当たり前のように受け取り、口へと含んでいった。

 

「うん、90点! 昔に比べて、だいぶ腕を上げたようだね。梨花子君」

「そうね……誰かさんの駄目出しのおかげで、無駄に知識だけは増えていったから……」

 

 そのような言葉を交わし合った直後、なにがおかしかったのか、二人は揃って小さな笑みを溢す。だが、すぐに九十九は表情を引き締め直し、梨花子と向き合った。

 

「――で? 協議の結果はどうなった? 上層部の意見は、ちゃんとまとまったのかな?」

「ええ……当初の予定通り。蠱毒の呪詛を通じて、メフィストへの探知術式を試みるわ」

「櫛田さんにそのことは?」

「伝えたわ。そしたらあの子『私にこんなふざけた呪いをかけた糞野郎。ふんじばる手伝いができるなら、喜んで協力させてもらう』って……」

「なるほど。彼女も彼女で、やる気に満ちているようだ。それは結構なことだが……」

 

 櫛田衿那に呪詛をかけたと目される人物、メフィストを捕らえるための作戦会議が、八咫烏の本部である京都で行われ、その結果が梨花子の方まで水晶球で伝えられた。 

 梨花子には、作戦の要である探知から、協力者となる衿那の説得も含まれていたのだが、その第一段階である『衿那の説得』には、どうやら成功したらしい。

 もっとも、成功させた本人からしてみれば、些か不本意な結果であったようだ。顔からこぼれ出る苦々しい表情が、梨花子の心情を如実に物語っていた。

 

「決行は明日の夜。それまでに各地に術者の配置を済ませ、すぐに動けるように体制を整えるそうよ……。メフィストがどこに潜んでいても、すぐに襲撃できるように、と」

「明日とは……それはまた、随分と急な話だね」

「ええ、あまり時間をかけていては、相手側に察知される恐れもあるから」

「ふむ、まあ、早めに解決するに越したことはないが……」

 

 そのまま、作戦内容を説明していく梨花子だったが、九十九は少し言葉を濁していた。

 

「……何か気になることでも?」 

 

 言葉を詰まらせる九十九の態度に、梨花子が何の気もなしに問うのだが――

 

「実はつい先ほど――『土御門(つちみかど)』の方々から連絡がきてね……」

「――――」

「どうやら、鈴鹿君を里の外に出したことが、彼らの耳にも届いたらしい。「説明を求める」と、呼び出しを受けてしまってね。それが、ちょうど明日の夜なんだよ……」

 

 珍しいことが起きた。それまで、どのように場合においても常に冷静さを保っていた星野梨花子が、九十九のその話を聞くや、体を怒りで震わせ、憤るように声を荒げたのだ。

 

「ほん――とに、空気が読めないわね! あの、時代遅れの『老害』どもはっ!!」

「落ち着いてくれ、梨花子君。子供たちが起きてしまうよ」

 

 大声で怒りをあらわにする梨花子を、九十九がたしなめる。

 

「まあ、彼らも彼らなりに、世を思っての行為だ。そこに悪意はないと思うよ?」

「だからって、何もこんなタイミングに! もう少し、時と場合を考えて欲しいわ!」

 

 そうして、彼女が憤り続けること数分。ようやく荒い息を沈めた梨花子に、九十九が話の続きを口にしていく。

 

「そういうわけだ。悪いが、今回の作戦に私は立ち会うことができない。万が一のためにテッドとメリー、そして鈴鹿君を置いていく。話は通しておくから、何かあれば遠慮なく、あの子たちに頼ってくれ。……それでいいかな?」

「……ええ、そうさせてもらうわ」

 

 未だに怒りを引きずっているのか、不承不承に返事をする梨花子に、九十九はやれやれと首を振る。

 紅茶を片手に椅子から立ち上がり、窓の外に拡がる真っ黒な空を見上げながら、彼は一人呟いていた。

 

 

「明日か……。何事もなく終わってくれれば、それでいいのだが――」

 

 




八咫烏もそうですが、土御門という名前も現実にある(あった?)苗字です。
その意味は……また後日、小説内で明かします。

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