翌日 刻印学院高校屋上 放課後
――いよいよ、今日……なんだ……。
放課後。日も沈み始め、グラウンドで部活動に励んでいた生徒たちが、用具の後片付けに動き回る光景を眺めつつ、比佐命は屋上で一人、物思いに耽っていた。
一年である命が刻印高校に入学してから、今日で三日目。通常授業が終わり、一年生はまだ部活動に入ることができないため、大半の新入生は既に下校済みである。命がこんな時間まで校内に残っていたのは、二日目に学校を休み、健康診断を受けていなかったためだ。そのしわ寄せとして、今まで検査に時間を取られていた。
だが、それ以上に、彼女をこの地に足踏みさせている、相応の理由が別に存在していた。
――今日で終わるんだ。衿ちゃんの苦しみが……彼女の不幸が……。
今宵、八咫烏という組織の陰陽師が、衿那の不幸の元凶である術者を捕らえる作戦を展開させるという話は、命の耳にも入っている。その黒幕さえ捕えれば、後は衿那の身を蝕む呪いを解呪するだけ。それで全ての片がつくと、梨花子が説明してくれていた。
――……私は……どうすればいいんだろう……。
そう、既に事態は命たちの手を離れ、彼ら陰陽師たちの手に委ねられた。専門家である彼らが事に当たる以上、命の出る幕などもうどこにもない。ならばこれ以上、自分が衿那の側にいる意味などないのではと、命はそんな風に考えてしまっていたのだ。
――きっと……私がいてもいなくても、結果は何も変わらないんだろうな……。
寧ろ、知恵もなく力もない。何一つ手助けできない自分の存在など、邪魔者でしかない。ネガティブな思考が悪い方向でループし、命はずんずんと気持ちを沈ませていた。
そんな暗い雰囲気を纏う彼女の背に向かい、陽気に声をかける者がいた。
「――おお! こんなところに居おったか! 捜したぞ、比佐命よ!」
「!? じ、神宮寺さん……」
神宮寺鈴鹿である。その口ぶりから、命のことをずっと捜していたのか。すぐ側まで歩み寄ってきた彼女は、そのまま命の隣に立ち、夕日を眺める。命はビクリと肩を震わせた。
実のところ、鈴鹿の存在もまた、命の足をこの場に縫いつけている原因の一つであった。
鬼神の眷属――神宮寺鈴鹿。
実際に、鈴鹿の力とその異形を間近で目撃してしまった命は、彼女に対する恐怖心をずっと胸に抱いている。正直、今すぐ悲鳴を上げて、逃げ出してもおかしくはないほどに怯えている。
それでも逃げ出さずにいるのは、
しかしその努力も空しく、体は正直なもの。耐えようと、耐えようとすればするほど、全身の震えが止まらず、緊張で頭が真っ白になっていく。
「むっ……どうした? 顔色が悪いぞ」
そんな恐怖による体調の変化を、鈴鹿は目ざとく気づいてしまった。
「気分が悪いなら保健室に行こう。この時間なら、まだ梨花子がいる筈だ。それで――」
命の容体を気遣い、純粋な親切心から鈴鹿が手を伸ばしてくる。
次の瞬間――鈴鹿の化け物としての姿が、命の脳裏にフラッシュバックされる。
「――い、いや! あっ…………」
差し出されたその手を――拒絶の言葉と共に、命は無意識のうちに払ってしまった。
もはや言い訳の余地もなく、やってしまったと己の行動を恥じる。助けてもらった恩を忘れての、この振る舞い。到底誤魔化しきれるものではないだろう。
「…………怖いのか……この儂が?」
他でもない、鈴鹿本人の口からそう問われ、命は沈黙を持ってそれに答える。
「…………恐れているのか、鬼であるこの儂を?」
今さら否定しても手遅れ。露骨な反応はきっと、鈴鹿を深く傷つけてしまったと後悔する。
ところが――
「――くっくくくくくくくっ……」
命の振る舞いに対し、鈴鹿が見せた反応は予想だにしないものだった。
彼女は自身の口元を抑える。声を押し殺すように笑い、徐々にその声は大きくなっていく。そして、堪えきれなくなった笑い声が――豪快な爆笑となって解放されていった。
「わっはははははははははははははははははははははははははっ――!!」
校舎どころか、街中にまで轟くほどに、鬼の笑い声が木霊する。
普通、目の前の相手が何の前触れもなく笑い出せば、自然と不気味さが漂うもの。しかし、このときの命は、鈴鹿からそのような気味悪さを一切感じることはなかった。
それは彼女の笑い声が、あまりに――
嘲るようでも、見下すようでも、下卑た様子もない。上品とは程遠いものではあるが、鈴鹿の笑い声は清清しいほど明るく、その表情は、親に手放しで褒められた幼い子供のように満ち足りている。心の底から喜んで笑っているのが、よくよく伝わってくるほどの大笑い。
鈴鹿は口元をニンマリと吊り上げ、歯を剥き出しに叫ぶ。
「――安心したぞ!」
「…………えっ?」
その言葉の意味がわからず、呆然とする命を置きざりに、鈴鹿は声高らかに続けた。
「それだ! お主のその恐怖と畏怖! それこそ、人間が我ら鬼に対して抱くべき感情! 鬼と人との正しい関係性によって生じるものよ。それでこそ、わざわざこの地まで訪れた甲斐があったというものだ。それでこそ、儂も『使命』を果たせるというものよ! はははっ!」
「…………し、使命……って?」
笑いながら嬉しそうに語る鈴鹿に絶句しながらも、命は反射的に聞き返していた。使命――そういえば以前にも彼女は言っていた。『やらねばならない使命』と。
その呟きが聞こえていたのか。鈴鹿はピタリと笑うのを止める。
「決まっておるだろう。我らは鬼ぞ? いつの世も変わらぬ。我らが成すべき使命は一つ……」
口を真一文字に結び、先ほどとは打って変わった真剣な目で、鈴鹿はその使命を口にする。
「お前たち人間を――恐怖のどん底に叩き落すことだ」
「――!?」
鈴鹿の口から放たれた、あまりに物騒な発言に命は息を呑む。しかし、不穏な響きの企みとは裏腹に、鈴鹿はとても穏やかな声音で、暮れる夕日に目を向けていた。
「刮目せよ、命よ! もうすぐ日が沈む……。日の光がこの地上から消え失せ、夜が訪れる。夜は古来より、我ら鬼を含めた全ての化け物、
「……」
「なのに……どうだ? 我々闇の住人が少し目を離した隙に、人間は滑稽な篝火を焚き、我らが支配する領分に片足を突っ込み、そのまま、我が物顔で昼と夜の狭間を行き来しておる」
鈴鹿の口調は、怒るようであり、嘆くようであり、そして――悲しむようであった。
「挙句の果てに、人間は我々の存在をただの伝承に陥れ、過去の遺物として置き去りにしようとしている。我らに対する畏敬の念を、恐怖を捨て去ろうとしているのだ! ……だがな、命。恐れを忘れた人間は質が悪いぞ? 自らを戒めることを忘れれば、奴らはどこまでもつけ上がる。その増長の果てが、あの強盗犯やメフィストのような愚か者たちであろう?」
ここ最近で感じられた例を幾つか上げるも、それでも足らぬと、鈴鹿はさらに捲し立てる。
「いや、奴等だけではない。今の人間共は皆そうだ。己の領分を弁えず、謙虚に生きることを忘れている。故に、思い知らせてやらねばならない! 今一度恐怖を! 闇に息づく我らの偉大さを! それが、今を生き残りし怪異たる、儂ら鬼の成すべき使命なのだから……」
――…………? これって……
ときおり、憤慨するように声を荒げる鈴鹿に怯えつつも、命は考える。鈴鹿の言い分、その内容、そこに間違ったことなど、何も含まれていないのではないか、と。
確かに現代の自分たちにとって、鬼だの化け物だのは、空想の産物でしかない。
今の人間が恐れるものは、そのような曖昧なものではない。戦争や犯罪などといった、同じ人間の起こす悪行。人為的災害を何よりも恐れるようになった。自然災害などの天災も、それはそれで恐ろしいが、より身近にあるのは、やはり前者だろう。
だからこそ、命は鈴鹿が言わんとしていることを、ぼんやりとだが理解できた。
『必要悪』という考え方がある。組織や社会の運営上、やむを得ず必要とされてしまう『悪』。
彼女はまさに、それに成ろうとしているのではないか?
化け物である自分たちが『悪』となることで、人間たちの慎み深さや、結束を促そうと。
もし、その予想が正しいのであれば――それは、なんて悲しい生き方なのだろう。
命は胸の内の恐怖心に、僅かな同情を宿らせる。人の恐れを、憎しみを一手に引きつけようとしているのならば、それはとてもつらいことなのではないかと、そう感じたからだ。
だが――そんな心配は杞憂であると、他でもない鈴鹿が否定するように叫んでいた。
「その点、貴様はいい! 実にいい謙虚な態度だ、比佐命よ! 貴様には正しく伝わったようだ、儂の偉大さが! 儂が怖いか? 恐ろしいか? 恥じることはない、それは当然の感情だ。儂を前にすれば、どのような虚勢も張り子の虎も同然。気丈に耐える必要はない。逃げ出したければ逃げればいい。悲鳴を上げたければ上げるがいいぞ! 存分に、なっ!!」
心底嬉しそうに破顔する。そこには、自分が必要悪として犠牲になっているという、悲壮感など微塵も見受けられない。さらに、鈴鹿は思い出したかのように付け加えた。
「……しかし、あまりに恐怖しすぎて何もできなくなるようでは本末転倒というもの……」
気のせいか、ほんの少し声音に優しい色を着色しながら――。
「そんなときこそ、独りで怯えず、親しき者と、愛しき者と、恐怖を分け合えばよい。それで、少しはマシになるだろうさ……」
「…………」
またも絶句する、比佐命。しかし、そこにあるのは恐怖ではない。
夕日をバックに、こちらを振り返った鈴鹿の表情は――とても穏やかなものだった。
それまでの大笑いや、好戦的な笑みとはまるで違う。優し気に細められた目に、慈しむような微笑み。命はその微笑みに思わず、息をするのも忘れて魅入ってしまっていた。
「むっ……少し話し込み過ぎたな。例の作戦まであまり時間がない。行くぞ、命!」
「……えっ? あっ……で、でも私がいても、足手まといにしか……」
呆然とした状態で、動けないでいる命の手を、鈴鹿が引っ張っていく。今度はその手を振り払うようなことはしなかったが、やはりその場で躊躇いを覚えてしまう。どうせ力にはなれないと。だがそんな命に対し、鈴鹿は呆れた顔つきで言った。
「命よ。お主は衿那の力になりたいと。その想い一つで、奴を追ってここまで来たのであろう?」
「えっ……え、ええ……」
「ならば今更、引き返す道などあると思うな。ここまできた以上、最後まで見届けよ。それが奴の友として、貴様が果たさなければならない義務である」
「……うん。そうだね。そうかもしれない……」
己の迷いを、あっさりと一刀両断する神宮寺鈴鹿の言葉に、命は静かに同意する。
確かに鈴鹿の言うとおりだ。親友の力になりたい。その想い一つで、自分は望まれもしないのに、こんなところまで着いてきたのだ。この期に及んで力になれないなどと、どの口が言えたのだろう。
そう考えると、さっきまでうじうじと悩んでいたのが、心底馬鹿らしく思えてしまう。
命は――覚悟を決めることにした。
最後まで見届ける。たとえその先に、どのような結末が待ち構えていようとも。
◇
数時間後 夜 森羅本社ビル 食堂
新参者の鈴鹿にとっても、すっかり憩いの場として定着しつつある食堂だが、くつろぎの場として開かれている筈のその空間は現在、張り詰めるような緊張感に包まれていた。
整然と並べられていた机や椅子は壁際に追いやられ、テレビやホワイトボードなどの邪魔な小道具の一切が片付けられている。がらんとした部屋の中央の床には、何かしらの文字が円に沿うような形で刻まれており、その中心点に椅子が一つ、鎮座していた。
「……ねぇ、まだなの? やるなら、とっとと始めなさいよね」
櫛田衿那はその椅子にもたれかかり、そこに座る様に指示を出した目の前の陰陽師――星野梨花子へ、苛立ちを隠そうともしない憮然とした態度で、彼女を睨みつけていた。
「そんなに慌てないで。あっち側の準備が整うまで、まだ少し時間があるわ……」
梨花子の方はというと、そんな衿那の苛立ちを涼しい顔で受け流している。
八咫烏本部と打ち合わせしていた作戦開始時刻まで、まだ間がある。今から肩に力を入れたところで、どうにかなるわけでもないのだと、それを自らが示すかのように、あくまで自然体を装っていた。
しかし彼女たちの周囲、円の外側で待機している面々は、表情を強張らせている。祈るように両手を合わせる命も、各々の装備、拳銃や日本刀の手入れを行っているテッドとメリーも、あの鈴鹿ですら、ずっと口を閉じたまま、拳を握る動作を繰り返している。
――少し、空気が張り詰め過ぎね……。
梨花子にとってこの状況は好ましくない。これから行う儀式は、衿那自身の精神状態が大きく左右される。あまり頑なになられると、それだけ儀式の方にも、悪影響が出てくる可能性が高いのだ。まずはこの緊張をほぐそうと、梨花子は柔らかな口調で衿那に語りかけた。
「そう固くならないで、櫛田さん。貴方はただ座ってくれているだけでいいんだから。何なら終わるまで居眠りしても構わないのよ?」
「……美容院じゃないんだから。こんな状況でそんなこと、できるわけないでしょ……」
「まっ、実際、散髪するよりは早く済むわ。それこそ、寝ている間もなくね。……そうね、おさらいを兼ねて、これから行う儀式について、再度確認でもしておきましょう」
にっこりと笑顔を浮かべながら、梨花子はもう何度目になるか、その説明を繰り返した。
「これから私は――
「……」
「分かり易く言えば……『精神世界』というやつかしらね。ある術式を使って、私が貴方の精神世界に侵入する。そして、その精神を通じて、心の奥底に潜む呪詛の本体に触れるわ。そこから、『縁』を辿って、蠱毒の呪いを放った術者本人を追跡。上手く対象の居場所を探知できれば、外で待機している他の陰陽師たちが奴の確保に動く……そういう手筈よ。尚、探知を試みるのは、初めの一回だけ。術者の捕縛の成否にかかわらず、貴方にかけられた呪いは、私が責任を持って解呪します……ここまではいいかしら?」
探知は一回だけ。これは梨花子が、衿那の協力を仰ぐ際に上層部に突きつけた条件だ。自分たちの都合に必要以上に衿那を振り回さないためにと、上と交渉した結果の妥協点であった。
「ええ……わかってる。もう耳にたこができるくらい聞かされたわよ。そんなことは……」
その説明も、何度も繰り返されてきたせいか、うんざりするように衿那は口を尖らせる。そんな投げやりな態度の衿那に、梨花子の声音に徐々に真剣味が帯びていく。
「そうね。でも――しっかり聞いておきなさい。貴方にとって、ここからが大事なのだから」
「……」
その言葉に諭されるように、衿那も己の気持ちを改め直し、梨花子へと向き直った。
「呪詛の本体に触れる……それを行うためには、必ず対象の精神を経由する必要があるの。その過程で、私の中には否が応でも、
それもまた、前もって聞かされていたことだが、いい加減な気持ちで頷けるような事実ではなかった。人格と記憶が流れ込む――つまりそれは、この星野梨花子という、まだ出会って間もないような女性に、自分の何もかもが知られるということだ。
これまで衿那が生きてきた人生。秘め隠しにしておきたい、自身の感情や趣味嗜好。また、自分ですら把握しきれていない、目を逸らしたくなるような、醜い脆弱な部分まで。
その全てを、赤の他人である相手に、赤裸々に覗き見られるということだ。そこに不快感を抱かない人間などいはしないだろう。だが、それでも――
「……わかってる。全部、わかってる。……だから、さっさと終わらせなさいよ?」
それら全てを承知した上で、自分はここにいるのだと。揺るぎなき瞳で、衿那は梨花子を見据えていた。その瞳と真正面から向かい合い、梨花子は息をつく。
「……そうね。愚問だったかもしれないわ」
衿那は何もかも承知済みだ。全てを正しく理解した上で、彼女は今ここにいる。
ならば、これ以上の念押しは不要だと、梨花子も余計なことを口にすることはなくなった。
そしてそのまま、時間は流れていき――やがて、刻限が訪れる。
「では――始めるわ」
その言葉を合図に、周囲の者たちに緊張が走る。
梨花子は、衿那を取り囲むサークルの文字に手を当てながら、その口から何かしらの呪文を紡ぐ。その囁きに呼応するかのように、刻まれた文字列が妖しい輝きに満ちていく。
そこに問題がないことを見届けながら、梨花子はそっと目を閉じていった――。
◇
???
水面に投げ出されるような感覚が、星野梨花子を襲う。
まるで、高度一万メートルを飛翔する飛行機から、大海原へと叩きつけられるような痛みを錯覚させる衝撃。そのまま、梨花子の意識は水底に沈んでいくように落ちていく。
――何度やっても、この感覚には慣れないわね……。
他者の精神にダイブする際は、いつも似たような感覚に襲われる。梨花子は、己の意識をはっきりと認識するや、自らの意思で、さらに深奥まで体を沈ませていった。
水の中を泳ぐような感覚。息苦しさまで現実味を帯びてくる。だが、窒息しそうになる感覚に耐えながら、梨花子はさらに奥へ、もっと奥へと、潜航していく。
やがて、何もない暗闇の深海の奥に、一筋の光が差し込めるのが見えた。
梨花子はその光へと手を伸ばし――見える景色が一変する。
◇
梨花子の目の前に広がる光景は、櫛田衿那という少女の歩んできた、軌跡そのものだった。
病院で多くの人々に祝福されながら、この世に生を受けた少女は、一番に抱っこされた母親から『衿那』という名を授けられた。
女の子ながらも、勝気に育っていく衿那。幼い頃から、同い年の男の子に混じって遊びまわる姿を、少し困ったように父親と母親が、優しく微笑みながら見守っている。
さらに数年後。母のお腹の中に、新しい生命が宿る。家族が増えると聞かされ、初めの頃は純粋に喜ぶ衿那だったが、弟――実際に翔くんが生まれてからが大変だった。
まだ赤ちゃんで、手足もおぼつかない翔くんを必死に面倒を見る両親に、自分が蔑ろにされていると感じたのか、彼女は生まれて初めて、嫉妬心というものを抱いてしまう。
だが、そんな弟へのわだかまりもすぐに消える。衿那の気持ちを察した母親が、優しく、謝る様に諭すことで、衿那は姉としての自覚を持ち、新しい家族を受け入れていった。
――…………ふふふ。
それらの過去の記憶に目を通しながら、梨花子は口元を自然と緩ませていた。
僅かな断片に触れただけでも理解できる。衿那が、愛されて育っていることが――。
それは何も特別なことではない。全ての子供たちが、当たり前のように享受すべきものだ。現在の世では、その愛を得ることができない子供たちが多くなったと聞くが、少なくとも櫛田衿那という少女は、そんな殺伐とした環境とは、無縁な暮らしをしてきている。
本当に、恵まれた子だと梨花子は思った――
瞬きする間に――見える景色は変わり果てていた。
『疫病神』『人殺し』。謂れのない誹謗中傷の文字で埋まる、机や教科書。悲鳴や嘲るような笑い声と共に、自身や家に向かって投げ込まれる石礫の雨。陰湿な嫌がらせに夢中になる子供たち。無責任な大人たちはそれを見て見ぬふり。
――……酷いものね。
それらは、蠱毒の呪いによって引き寄せられる、直接的な被害ではない。衿那の不幸体質によって発生した、二次災害――人の醜悪さが集束された、人間の手による地獄であった。
それこそが、櫛田衿那がこの三年間に体験した、『不幸』そのものである。
梨花子も、ある程度の覚悟をしてきたつもりだったが、話を聞くのと、実際に記憶として体験するのとでは、こみ上げてくる胸糞の悪さに明確な違いがあった。衿那を取り巻く鬼畜共全員に向かって、簡易的な呪詛を叩きつけてやりたい衝動に駆られる。
しかし、そんな鬼畜外道な所業に晒されて尚、記憶にある衿那は笑っていられた。
それは、強がりで取り繕った笑みでしかなかったが、それでも、少なくとも弟の事故がある前まで、衿那は笑顔でいられたのだ。彼女をそうさせていたのは、他でもない。
多くの人々が掌を返す中で、たった一人、彼女の側に居続けた親友の存在。
その親友がいたからこそ、衿那は絶望の中でも一筋の希望を信じられた。真の地獄は、その親友を守るため、あえて遠ざけてしまってからの半年間。その間、櫛田衿那という少女の胸の内から、あらゆる望みが絶たれていた。よくぞ今日まで、耐えてこられたものだ。
――……これは、責任重大ね……。
梨花子は改めて心に誓う。
一人の大人として、守り人である陰陽師として、生徒たちを導く教師として。
絶対に彼女を、彼女たちを救わねばと、強く決意させられていた。
◇
よき思い出や、苦痛な記憶とも別れを告げ、梨花子はさらに奥への侵入を試みる。
ここまで来ると、もはや衿那本人の意思すら介在しない、完全な無意識下だ。何も映らない闇の中を、ただひたすらかきわけて進んでいく。
そしてついに旅の終着点。その深淵へと梨花子はたどり着く。
――……いた、アイツだ!
深海の底に棲むと伝説にある、
黒い大きな塊。周囲の闇と同化するように鎮座していたため、その輪郭をはっきりと視認することはできないが、おそらくこの怪物こそが、蠱毒の核――衿那を苦しめていた元凶だ。
こちらの侵入に気づいていないのか、それとも端から眼中にないのか。怪物は眠る様に静まっており、そこから動く気配がない。どちらにせよ、梨花子にとっては好都合である。
逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと怪物へと接近する。一旦深呼吸して息を整え、そのまま黒い塊、蠱毒の本体へと手を伸ばした。
瞬間――途方もない負の感情が、一気に梨花子へと流れ込んできた。
それは、櫛田衿那という人間の記憶ではない。蠱毒の依り代とされた、贄たちの記憶だ。媒介となった動物たちの怨念。蠱毒を製造する過程で、殺し合わされた彼らの、無念、生への執着、暖かい血の通う生者への嫉妬。
――邪魔よ!!
濁流のように流れ込んでくるそれらの怨念を、梨花子は意志の力で払いのける。怨嗟は、生者である梨花子を責め立てるように絶え間なく響いてくるが、そのくらいで根を上げるほど、梨花子は陰陽師としても、人間としてもヤワではない。彼女は、あらかじめ練り上げていた探知術式を打ち込み、術者への追跡を開始する。呪いを通して繋がる、術者――メフィストへの悪縁を手繰り寄せるために。
――…………………きた!
途切れることのない恨み言に晒されながら待つこと、数十秒。術式が効力を発揮したのか、一つの映像が梨花子の視界に映し出された。
窓もないような、薄暗い物置のような場所。ロウソクの灯りだけが、かすかに室内を照らしている。部屋の中には、黒い外套を纏った男が一人、椅子に腰掛けていた。
この映像こそ、現在のメフィストの状況を、リアルタイムで映し出すものだ。後は詳しい位置を特定するだけ。そのために、いくばくかの時間が必要になる。その位置の逆探知まで、秒読み段階に入った――まさに、その刹那だった。
こちらへ、背を向けていた外套の人物が――ぐるりと、首を回す。映像越しで人相などわからなかったが、その口元が、はっきりと動いているのが見えた。
【――
衿那の全身に悪寒が走る。
――勘づかれた!!
相手方にこちらの動きが知られた。直感で不味いと悟った梨花子は、急ぎ探知を中断。慌てて己の意識を浮上させるため、蠱毒から距離をとろうと飛びすさる。だが――
足元から――黒い触手のような靄が飛び出し、梨花子の意識を絡めとる。
――し、しまっ……。
イレギュラーな事態に、梨花子の思考が一瞬の空白を生んだ、その直後――
【――――――――】
眠っていた筈の化け物の双眸が――ゆっくりと開かれていった。
◇
一方の現実世界でも、その異変は起きていた。
「――衿ちゃん!?」
比佐命の悲痛な叫び声が、静寂を保っていた食堂内に木霊する。
梨花子が櫛田衿那の精神世界に侵入する際、周りの者たちに特に注意したのが、「余計な手出しをしない」という一点であった。
儀式の最中、梨花子の意識は衿那の精神世界に入り込み、外部からの衝撃に、完全に無防備となる。その状態で、下手に危害を加えてしまえば、その時点で探知は失敗だ。
故に、よっぽどのことがなければ、外部からの干渉はしないようにと、梨花子は強く言い含めておいたのだが――この状況が異常事態であることは、誰の目からも明らかだった。
「う……うああぁぁ……!? くぁ、うわあああぁぁぁっ……!!」
中央の椅子に鎮座したまま、白目を剥き、櫛田衿那が苦痛に悶えだす。衿那が苦しみ出すのと同時に、星野梨花子も地面に倒れ伏し、動かなくなってしまった。
事前にいくつかのトラブルをシミュレートしていたが、これは些か想定外の状況だ。
この事態を前に、テッドとメリーが武装に手を伸ばす。だが、どう対処すべきかわからず、その場で踏み止まってしまう。そんな中、親友の苦しむ姿に、ついに我慢しきれなくなったのか、命が弾かれるように飛び出していく。
衿那の元へ駆け寄ろうと、円の内側に足を踏み入れようとした――その刹那だった。
「……っ! 下がれ!」
鈴鹿が制止の声と共に、走り出そうとした命の後ろ袖を掴み、思いっきり引っ張った。命の体は抵抗もできず引き戻され、その勢いのまま、地べたに尻もちを突く。
「痛っ! 神宮寺さん! 何で――えっ?」
お尻をさすりながら異議を唱える命。しかし、転倒した彼女のすぐ目の前を、真っ黒い『なにか』が、重機が通り過ぎるような轟音を立てながら、目にも止まらぬ速度で通過していく。
そして、その『なにか』が通り過ぎた地面が――歪な形で抉り取られていた。
「――っ」
あと一歩。鈴鹿が制止するのが遅ければ、そこに踏み込んでいたであろう命は抗議の言葉を飲み込み、冷や汗を流す。いったい何がと困惑する彼女の耳に、鋭い声が響き渡る。
「……兄さん、あれを!」
メリーが愛用の日本刀に手をかけながら、声を張り上げる。警戒心を全開に身構える彼女を見た後、命は再び視線を前に、苦悶の表情を浮かべる親友の背後へと向ける。
そこで比佐命は見た。
衿那の真後ろ。彼女の影から、這い出るようにして飛び出してきた、真っ黒い塊を――。
まるで、意思を持っているかのように蠢き、背後霊のように衿那の側に居座っている。
影は徐々にその存在感を増していき、その姿を、意味のある形へと変化させていく。
ただの黒い塊でしかなかった『それ』が造りあげた姿。
それは、部屋の天井にまで届きそうなほどに、巨大な漆黒の大蛇――『
蠱毒の依り代となった、動物としての根源へと、その姿を回帰させたのだ。