笑えない少女とニュクスとワガハイ猫と。 作:サボテンダーイオウ
コポコポと湧き出るような水の音と、母さんの悲痛な叫びが頭に響く。
「――――!お願い、目を開けてっ」
ああ、この声、泣かしちまってるんだなと一発で理解した。
オレの弱点はズバリ、母さんで必死にオレの名を呼び続けている姿が眼に浮かぶ。
待ってろ、母さん。すぐに、すぐに起きるから―――。
ズキリと痛む頭を押さえてオレはゆっくりと目を開けた。
「う、ここは……」
青くまるで水の底にいるような見たこともない世界が一気に広がり、天井から淡い光が差し込んで何度か瞬きをしてから完全に目を開ける。どうやらベッドか何かに横たえさせられているようだ。すぐ端の方でもぞりと動く気配がする。少し体を起き上がらせて周囲を確認しようとするとその人物が顔を上げた。オレと同じ瞳が潤んでいる。
「うぅ、うう、良かったぁぁあああああああ」
「うわ!母さんっ!?」
ウチの行方不明だった母さんでした。
オレに抱き着いて顔を摺り寄せてむせび泣く姿に、ああ、心配かけちまったと罪悪感が生まれる。と同時にほわっと胸が温かくなった。オレの為に泣いてくれる母が、好きすぎてヤバイ。
もしかしてオレ、マザコンか?
「良かった、良かった……もう、目を開けないかと、心配、したのよ。……貴方青白い顔して白目向いたままなんですもの……」
なんて、考えてると母さんはさらにオレの首後ろに腕を回して密着度を増してくる。むぎゅっと弾力のある柔らかなものが胸に押し付けられた。
「え、そうだった?ああ、たぶんそれおばさんの所為……ってなんちゅー恰好してるんだよ!?」
よく見たら上半身裸じゃないか!?
髪が長いからうまく胸が隠れていて良かった。っていうかまるで水の中に漂っているみたいな動きをしていてオレの方が吃驚する。
「え?私の恰好、そんなに変かしら」
「変って言うか!ひ、ひひひひれだし、むむむむ、胸が!」
まるで水の中に泳いでいるように母さんのひれ?が意思を持って動かされる。
いや!今重要なのは足の代わりにひれになっていることじゃなくて胸が胸が当たってるんだよ!そうだよ!むにゅって当たってんだよ!直にさ。
「ええ、胸が?」
不思議そうな顔をして母さんはたわわに実っている胸をさらに押し付ける。落ち着けぇぇ!マジ落ち着けオレ!!
「なぬぁぁあああああ!!見てない見てないオレはまったく見てないぞぉおぉぉ!!とにかく服着て、オレの服着て!」
がばっと引き離してオレは自分の服を急いで脱ぎ母さんに無理やり手渡した。勿論視線は逸らして。
オレの服を来た母さんはだぼっとした格好で「大きくなったわよね……」と感慨ぶかそうな顔をする。そりゃそうだ。オレの体格と母さんの体格なんて違うのは当たり前だろ。
「……はぁ、つ、疲れたマジでどっと疲れた」
まさか母親の裸を見て動揺するとは思わなかったぜ。
まだまだ修行が足りないと肩を落とすとオレの隣で嬉しそうに笑っている母さんをねめつける。
「うふふ」
「何喜んでんだよ」
「ううん、なんでもないわ」(私が裸だと思って心配してくれたのね、もう優しい子。人魚だから当たり前なのに)
「そういえば母さん、今まで何処にいたんだよ!心配してたんだぞ!?」
「ええ、ごめんなさい。私、貴方の為に実家に帰ろうと思っていたの。……だって、貴方、実はドリドリル国の王女様と……」
「え、誰それ」
ドリドリル国って一応オレ達が住んでる国だよな。
「え?だって、貴方可愛らしい女の子としょっちゅう会ってるじゃない?違う?」
「……ああ、彼女か。違うよ、彼女はしょっちゅう王女様に間違われているけど顔がそっくりなだけでごく普通の一般庶民だって!」
「ええ?そんな……」(でもあの御顔は間違いなく王女だと)
「それがさ、彼女もよく間違われるから髪形をドリルからストレートに変えようか真剣に悩んでるくらいだしさ。けど彼女にはストレートよりもドリルの方が似合ってるし。オレとしちゃ、変えて欲しくないって言うか」
「そう、なの」(きっと、勘違いね)
いまいち納得してなさそうな顔してるけど、彼女は本当によく間違われているからちゃんと正しておかないとな。
「ところで母さん、ここどこ?」
「え?ここ?私のお部屋よ」
「……なんか随分とファンタジーっていうか、夢が溢れているというか、貝殻のベッドとかマジスゲー精巧につくられてんじゃん」
「そうよ、これも小さい時から愛用しているの。御父様がそのまま部屋を残しておいてくださったの」
「へぇ、まぁ、大事にされてたんだな」
思ったよりも母さんに対して愛情はあるらしい。
「ええ。貴方の御爺様でもあるわ」
「……なんか、複雑って言うかさ、今更っていうの?あ、そういえば、じーさんって何してる人?」
「職業の事?海を統べる王よ」
「またまた冗談言っちゃってぇぇ」
揶揄うならもっと笑える冗談にすりゃいいのに。
オレは手をパタパタ振って否定した。だが母さんは口元に手を当てがって上品に微笑んだ。
「あら、冗談なんかじゃないわ。ウフフ、私だって王族だもの」
「……またまた冗談言っちゃってぇぇ!大体ジョークはその恰好だけにしとけよ!こんなひれなんか足につけちゃってさ!」
好奇心からひらひらと揺れるひれに触れたら、母さんは身をよじって笑った。
「ちょっとくすぐったいわ、もうエッチね」
息子に言う台詞じゃない。オレは複雑な気持ちで手をひっこめた。しかし今一度確認しなければならないことがある。
「……ところで母さん」
「なぁに?」
「オレってカナヅチだよね」
「ええ、そうね。昔から泳げなかったものね貴方は。人魚の息子なのに将来が心配だったわ」
人魚の息子とかの部分はスルーしておこう。
「………オレって泳げないよね」
「ええ、そうね。どうしたの?おさかなさんみたいに口パクパクさせて。真似っ子?母さんも真似っ子しようかしら?」
「しなくていい!……母さん。今どこですか」
「海の中よ」
「母さん、オレ死んでる?」
「まさかこうして私の目の前にちゃんといるわ」
母さんまたオレに抱き着いてくる。
確かに温かい。ダイレクトに二つの膨らみがモロあたる。
落ち着け、落ち着け!母の乳だこれは。
かつて赤ん坊の時に乳をもらったじゃないか決して動揺してなどいない!そうだ、違うぞ!
「貴方ったらいつの間にか海の中で呼吸できるように成長したのね、嬉しいわ」
ほろほろと母は宝石を瞳から零した。
え、母さんって今宝石量産期?やべ!小金持ちになれるじゃん!
って違うわ!何、実の母親を利用しようとしてんだよ、オレの馬鹿!ああもう、そうじゃない、そうじゃない!
「お、おおおおオレは人間だよ!だって足あるし!」
「そうね。確かに……もしかして貴方の御父様の血が濃いのかしら?」
親父だと?聞きたくもない言葉にオレはイラついた。
なんか無性に当たり所が欲しくて部屋の中に目に入った銅像にいちゃもん付けた。
「っていうかさっきからあの銅像マジキモいんだけど。こっち睨み付けてない?っていうかなんで尾ひれついてんのに赤い前掛けしてんの?ヒラヒラ漂って動いてて不愉快なんですけどパンチらみたいなんですけど」
「え、銅像って?……あら、御父様そこで何をしていらっしゃっるの?」
「え!?」
ここで祖父降臨。というか最初から部屋にいたらしい。
バリバリ筋肉質な祖父がオレを絞め殺そうと(抱擁しようと)するからサッと後ろに逃げた。
「よくぞ気が付いたな、我が娘よ。そして、よくぞ来た!我が孫よ!」
「うわぁ一番来てほしくないパターン来たわ」
一気に顔が歪むオレに対し生きた彫刻であった祖父は母さんよりも立派な尾ひれを動かして母さんの隣に泳いでくる。槍みたいな厳ついもん持って危ないったらない。
「一番可愛がっていた末娘の孫と対面できるとクロコダイルから報告を受けたのだ。ならばそれに相応しい恰好として地上で人間の男が着ける正装として褌なるものをつけてみたぞ。どうだ、姫よ似合うか?」
ピエール髭が自慢げに上にクイっと上に上がる。
「ええ御父様、可愛らしい前掛けみたいでとてもお似合いですわ」
「いやそれ明らかなる誤報だから。人間が着ける正装で褌ってなに?クラシックパンツって何?マジ勘弁して!」
「何!?褌は正装ではないと申すかっ!?」
ピエール髭が電撃を受けたかのように稲妻型になる。
「そんな電撃ショック受けたみたいな顔しないでくださいよ」
やりにくいジジイだと思わず舌打ちしそうになった。
でも母さんがいるからしない。すぐ私の教育がなんたらとか落ち込むからな。
ジジイは額を抑えて苦悶の表情を浮かべてよろよろと岩に腰かけた。
「ううん、せっかくの孫との話題探しが他に見つからないぞ」
「他にあるだろうが、ツッコミどころあるだろうが!」
こんなジジイがオレのじーちゃんだなんて認めないぞ。断じて認めない!
母さんがジジイに寄り添いながらぷりぷりと頬を膨らませて(可愛いなんて思ってねーぞ!)オレを窘めてくる。
「駄目よ、御父様にそんなこと言っちゃ。貴方の為に歓迎してくださっているのに」
「何処の世界に初の孫との顔合わせに銅像のふりして褌を正装と真顔で語るジジイがいるんだよ」
「儂だな」
「素直に認めるんかいっ!?」
駄目だ、この親子のテンションについていけない。
帰りたい帰りたい。
「どうやらお前のおっとりなところには似ず活発な性格のようだな。健康に育っているようで何よりだ!」
「はい。どちらかというとこの子の父に似ているかと」
「そうか。人間の、しかも王子の子を身籠ったと聞いた時は卒倒しかけたが、これなら我が王族として皆に御披露目できるというもの」
「本当ですか!?」
母さんが目をキラキラさせて爺のピエール髭を握りしめた。
「ちょっと待て、今聞き捨てならない言葉が聞こえたんだけど」
「え?どの辺が?」
「ジジイの『しかも王子の子』とかの辺りだな」
「ああ、それはそうよ。貴方の御父様は王子ですもの」
ケロッとした顔でとんでもない話を暴露された。
「………ハイキター!二番目の気絶していいですかコールキター!」
というわけで気絶させていただきます。
天然人魚は微笑ましいものを見ているかのように和やかに微笑んだ。
「あら、この子ったらまた白目向いて眠るだなんて器用な子。あの人もたまにこんな風に眠っていたわね。血だらけだったけど……」
そして、感慨深くため息をついた。父人魚は
「しかし、よくぞここまで逞しく育てたな。昔は海藻一つでも枯らしてしまう子だったのに……」
と娘の成長ぶりに瞳を緩ませた。
「まぁ、御父様……、嬉しくて泣いてくださるのね」
「ああ、孫が死なずにここまで成長できたことが嬉しくてな……」
どうやら爺として孫の生存が嬉しいらしい。
「ええ。私も心から嬉しく思いますわ。まともにご飯も作れなくてどうやって食事を与えればいいのか分かりませんでしたもの。とりあえずスープでも作ろうとしたら根太いマンドラゴラも一発で枯らせることのできる除草剤が出来上がりまして地上ではヒット商品になりましたのよ」
「それを聞いてますます儂は嬉しいぞ」
「もう御父様ったら豪快に男泣きしてしまって」
似た者親子は今までの空白を埋めるかのように穏やかな時間を過ごした。
【とりあえず母子は再会できた。爺付き】
※※※
体に焼き印のごとく刷り込まれた恐怖は一生消えることはない。
廃ビルの最上階角部屋。
煙たい煙草の匂いとキツイ香水の混ざった不快な悪臭。
酒瓶やらアルコールの入った缶やら乱雑に足元に転がっている。
薄暗い照明は、電球が切れかかっていてチカチカと点滅を繰り返す。
古ぼけたソファに押さえつけられ四肢を複数の男に抑えられ口にネクタイをねじ込まれ悲鳴をかき消され、少しでも身をよじって逃げようとすれば殴られ蹴られ罵られ罵倒され、次第に剥かれてく貧相な体の私。木枯らし吹く季節に、下着だけの姿にさせられてぶるりと震える体は決して寒さからだけではない。
これから行われる残虐極まりない行為に恐怖しかないからだ。
下卑た目と舌なめずりして群がる男。
犯されようとしている私を遠巻きから面白そうに観察しているクラスメイトの元友人女子三人。その手には携帯が握られていて時折フラッシュで目が眩みそうになる
「いい気味よ」
「――――!!」
声にならない悲鳴にアイツは喉を鳴らして笑った。
「澄ました顔して気に入らなかったのよね、アンタさ」
「そうそう、売女の癖してお高くとまっちゃって」
「でもほら!今イイ顔してね?」
キャハハハ!と下卑た笑い声が脳内で木霊し、負の感情が一気に爆発する。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ!!
誰か――助けて!
誰でもいい、そう何度も何度も心の中で叫んだ。すると、私の声によく似た誰かがすぐ傍で囁く。甘美で体の芯から蕩けてしまいそうなほど毒を回すような声で。
【我は汝、汝は我。永久より紡ぐ縁の糸、今再びこなたの時より結びんしょう】
世界が全て一時停止し、私はその誰かを探す。
誰、誰なの。
だが私の周りには誰もいない。全て時が止まっている。
【わっちでありんすか?わっちはぬしでありんす。幼い時、契約を交わしんした。覚えていんせんかぇ?】
哀愁が籠められた声音に、私はバツが悪く眉を下げる。
分からない、わからない。何も、覚えてない。
自分の声だけど、私は知らない。覚えていないと頭を振る。申し訳ない気持ちに拳を強く握ると彼女は、
【仕方ありんせん。それもわっちでありんすから。――さぁ、行きんしょう。朔、みなを消しんしょうぇ】
と気を取り直して私の名を愛しみを込めて呼んだ。
全てを消す。
それはどうしようもない状況を打破する唯一の行いだった。
湧き上がる抑えの効かない力に負かされて私は意識を手放した。気が付けば、そこに私以外の人間は皆『血まみれ』になっていた。そこかしこ痣だらけの私は、呆然と座り込んでいる。
『自然発火した火事』から救い出されても火傷一つしなかった。
私の心は、壊れかかっていた。
一度完全にダメになってしまった時はおじさんから母の訃報を聞いた瞬間だった。
私のたった一人の母さん。大切な家族。
再び再会した時は母さんは小さな骨壺におさまっていた。
これが、母さん。
母さん、母さん。随分小さくなっちゃったね。私の腕の中にすっぽり抱きしめられるくらいに。
もう、生きる理由がない。私も傍に行きたい。
体も心もボロボロで生きる気力がない。世界がぐにゃりと歪んで見えてその世界の住人が私を追い立てる。お前が犯人だお前が首謀者だとほざく。私は被害者で、アイツらがいなければ、私は、母さんとずっと一緒にいられたのに。あいつ等が憎い、アイツラを殺したい。罪を償わせて死に追い込んでやる。
【大丈夫。わっちがいんすよ、ずっと。ずっと】
彼女は私を後ろから抱き寄せてそっと視界を手で閉ざした。
真っ暗闇と彼女の冷たい手。仄かに鼻腔擽る伽羅の香と衣擦れの音。
彼女は詠うように言の葉を噤む。
【未来を閉じんしょう。視界を遮りんしょう。目隠しでありんすぇ。】
これは彼女の愛。
私は私を守るために囲うことを決めたのだ。
【世界は闇のまんま、ずっと一緒】
そう、彼女は私で、私は彼女。
インプリンティングされた私は水を飲むがごとく当たり前のように認識し身を委ねる。
【わっちがいんすよ、朔】
行燈の火がふっと吹き消され、彼女、ヨシノタユウに抱き込まれて私は闇に身を落とす。
【全てのものにさようなら】
※
忙しくなったスケジュールの合間をぬって彼女は妹分との再会の為慌ただしくスタジオを飛び出してマネージャーが運転する車に飛び乗る。
「急いでくださいっ!」
そう急かすゆかりに新人の頃から付き合いのあるマネージャーは「まだ大丈夫だよ」と苦笑しながらハンドルを握りアクセルを踏んでサイドブレーキを戻した。ゆっくりと走り出す助手席の窓からどんよりと排気ガスに汚染された空を見上げては自然とため息が出る。
「……はぁ……」
岳羽ゆかりは佐倉朔と顔を会わせるまで面識はなかった。だが共通の彼を通して話越しに彼女の存在は知っていた。学校でもかなりのモテ男で有名だった彼と微妙な距離だったが、それらしい伸展もないまま、あの突然の別れを経験し色々葛藤し乗り越えて今に至る。いや、本当は乗り越えられていないのかもしれない。
湊と繋がりのある朔と交流を持つことで何か解決の糸口が見つかるのでは、そんな打算的な想いに縛られてゆかりは朔と親交を深めていった。だが最初こそ罪悪感のようなものを感じていたが、次第に朔の光と闇の部分を知っていくうちに自分の中で何かが芽生えた。
彼女の為に何かしてあげたい。
朔が受けた心の傷を癒すことはできないかもしれないが、自分たちが彼女の為にしてあげられることはあるはず。
決して邪な気持ちではなく、素直にそう受け止められるようになったのはそう時間が掛からなかった。トラウマにより異性に対する異常な恐怖心を覗けば朔は素直な何処にでもいる少女だった。ただ湊と同じワイルドの力を所有しており、自由にペルソナを変えることができてアイギスが過保護になるくらい危なっかしいだけ。美鶴から朔をシャドウ事案特別制圧部隊、シャドウワーカーに仮入隊させる旨を電話越しに伝えられた時、つい激高してしまったほどである。
当初、ペルソナが安定するように基礎体力とペルソナに対する正しい知識を与えること。それだけが必要事項だったはずなのに、朔のペルソナ適正とずば抜けた才能そして戦闘スキルを美鶴は見逃すはずがなかった。順平やゆかり達の反対をよそに朔の今後の為にもと半ば強制的に仮入隊とさせたことは、まだゆかりの中でそう簡単には消化されていない。
メキメキと才能を開花させていく姿にゆかりは一抹の不安を抱いた。
朔の真意が知れないからだ。
たとえ湊に見いだされていた力とは言え突然不可思議な力をそう簡単に受け入れられるかということ。朔は、まるで取りつかれているかのようにペルソナの力を求めていた。それに綾時だ。彼もまた背後霊のごとく朔に付きっ切りというか過保護なのだ。まるで互いの足りない分を補うように二人はいつも寄り添い続ける。それが親愛以上に見えてしまうのは自分の気のせいなのだろうか。いや、もしかしたら皆同じことを考えを抱いているだけで口に出さないだけかもしれない。
二人の関係性は、ある意味『異常』なのだと。
笑うことが出来ない子。本人は笑っているつもりでも顔は笑えていない。朔に自覚があるかどうかは知らないが、綾時の説明によれば自分のペルソナには笑いかけているらしい。それも壊れている笑みだとか。
彼女の不安定な心の拠り所が自分のペルソナであることが窺い知れ、ふと一抹の不安を抱いてしまう。
朔も、湊のように消えてしまうのではないかと。
たまらなく不安になる。
「………」
ゆかりは無意識に自分の腕を庇うように握った。
湊のように、なんて縁起でもないと首を振り邪な考えを振り払う。すると握りしめていたスマホが振動し、着信を知らせる。画面にうつしだされた名前にハッとすぐに指をタップし電話に出た。
「朔?」
『ゆかり姉、お疲れ~』
間延びした声に自然と頬が緩んだ。
「うん。ゴメンね、今向かってるとこだからさ」
『大丈夫大丈夫。綾兄と暇つぶししてるし。それよりゆっくりきなよ。今や有名人なんだから!もしかしたらパパラッチとか付いてきてるかもよ?』
「そんなわけないでしょう?まだまだ私駆け出しなんだから」
『はいはい。まー、気を付けてきてね』
「ん、後でね」
会話を終了して通話ボタンを押す。今日は同じドラマに出演している久慈川りせからの紹介で今流行りのふわふわパンケーキの店に朔と共に行く予定なのだ。学校が終わってからちょうどよい時間帯にゆかりもつかの間の休みが取れたからこそ実現できたもの。
同じペルソナ使いのよしみでりせとは仲良くしている。お互いに情報交換も欠かせない。勿論裏の世界でのことも。機密情報が関わることは極秘扱いなので明かすことはできないがそれでも頼りがいのある後輩なのは間違いない。芸能界ではゆかりの方が後輩になるがそんなことも感じさせないほどりせは明るく慕ってくれる。
まだまだ若輩者だけどしっかりと自分の地盤を固めていきたいと考えているゆかり。だからこそ、今をしっかりと生きる。
湊が守りたかった朔を慈しみながら。
【彼が遺した彼女】
※
今日はゆかり姉とデートの日!
気分はルンルンと高揚して気づけばステップまで踏んでしまう。苦笑しながら綾兄に指摘されて慌ててやめようとしてつんのめってしまうけど、すかさず綾兄が腕を伸ばして自分の方へ引っ張り私が転ぶのを防いでくれた。
「ありがと」
「どうしたしまして、いくら嬉しいからって怪我したら元も子もないだろう?朔」
「ごもっともです」
綾兄の胸板に両手をついてつい顔を見上げてしまう。女受けしそうな容姿と自分を優しく見下ろす二つの目。
必然と近くなるお互いの距離。町中で密着してるとカップルかと周囲から疑われてしまいそうになるけど私は気にしない。
綾兄から少し身を離すと差し出される手を自然と繋いで歩き出す。
「楽しみだね、ふわふわパンケーキ」
「うん。僕もゆかりに会うのが楽しみだよ」
「私も!」
先ほどの電話ではまだ車内で移動中とのことなので到着まで時間が掛かりそうだ。けれど事前におじさんにはゆかり姉と会う約束をしているので遅くなるということは伝えてあるから大丈夫だ。おじさんとしては心配らしいが私も高校二年。少しくらい遅くなったって罰は当たらない。それにメメントス通いや情報収集で毎晩とは言わないけど部屋を抜け出しているのだ。多少の夜遊びは慣れたもの。
『なーなー!ワガハイも食べてもいいものか?』
リュックサックからモルが顔をひょっこり出して私の肩に前足を乗せて無邪気に尋ねてくる。けど綾兄と私は首を捻った。
「モルねぇ。……多分駄目じゃないかな。猫だし」
「うーん、カロリー高そうだしね」
するとモナはしょんぼりとした顔で「そんな~」とテンションサゲサゲ。帰りに御刺身でも買ってあげるよと言うと嬉々として『マジか!?やったぜ~』とテンションアゲアゲで私の肩をバシバシと叩いてくる。痛くはなかったからそのままにさせておいた。モルが嬉しそうだと私も嬉しいのだ。
雨宮君と坂本君は高巻さんに鴨志田の情報を聞き出せないかと接触を図るらしい。なんでも坂本君は鴨志田彼女説を諦めていないとか。アレの彼女になるなんて絶対ないはずなんだけどなぁと思ったけど私の意見が採用されることはなかった。
だから適当に頑張ればと声援を送って学校でお別れして今に至る。雨宮君からは張り付けた笑みでズズッと近寄られ「もしかしてデート?デートなんだ?デートなの?」とデート説を疑われたけど知り合いの女性と会うと説明したら(その時の私はどうしてか恐ろしさを感じ冷や汗をかきまくっていた)コロッと態度を変えて気をつけて行ってらっしいと笑顔で送り出された。その際、私の背後に立つ綾兄をじっと見つめているような仕草があったけどたぶん気のせいだと思う。
まさかねぇ、見えてるとかないしアハハハ。
さて、楽しい楽しいゆかり姉とのデートはそれはそれは素晴らしいものでした。
「朔~!久しぶり」
「ゆかり姉!」
まるで姉妹のように仲良くさせてもらっている年の離れた姉のような存在である彼女は飛びつくように抱き着いた私を思いっきり抱きしめてくれた。
「綾時君も久しぶり」
「ああ、ゆかりも元気そうで何よりだよ」
私の後ろに立つ綾兄に微笑みかけゆかり姉は私の手を引いてお店の中に引き入れた。実はいつも行列ができるお店で有名なんだけどりせちー効果で特別に休日の日にお店を開けてくれたのだ。気前のいいマスターが作るふわふわパンケーキは絶品と太鼓判を押してくれたとゆかり姉から教えられる。
美味しい夢のようなパンケーキに舌鼓しつつお互いの近況を伝えあいゆっくりと楽しい時間を過ごした。途中でモルの存在に気づかれそうになったけどそこはすかさず機転を効かした綾兄のお陰で難を逃れることができた。
「猫の鳴き声しなかった?」
『ヤベっ!?』
「!?」
「ああ、それ僕だよ。ニャ~って。どうだい?そっくりだろう」
「え、何いきなり……」
戸惑うゆかり姉に心の中でゴメンと手を合わせて謝罪した。それと同時にリュックサックの中にいるモルに向けてぎろりと睨み付ける。気配でビクッと怯えているモルがいることが容易に分かった。
「朔?どうしたの、怖い顔して」
「なんでもないよ!」
まだまだ現役ペルソナ使い。コロマルという特殊なペルソナ使いがいるのだから喋れる猫だって驚かないかもしれないけど、もしゆかり姉に気づかれたら今の私を取り巻く現状を包み隠さず打ち明けなければならない。そうなれば必然的に美鶴さんの耳に入るのは必衰!バレたら終わりだ。何もかも。
だから決して悟られるわけにはいかないと意固地になる私はいけないのだろうか。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。無理はしないことと何かあったら連絡することを約束させられ私と綾兄はゆかり姉のマネージャーさんの運転する車に揺られておじさん家へと送られた。ルブランで降ろしてもらっても良かったんだけどゆかり姉が挨拶すると言って聞かないので仕方なく玄関でゆかり姉の隣に並ぶ。綾兄は既に私の部屋に上がり込んでいる。玄関からおじさんと鉢合わせさせられないからね。
おじさんが出てきたところで粛々とした態度で頭を下げるゆかり姉。玄関で頭を下げて挨拶するゆかり姉は私といた時よりもずっと大人の女性に見えた。
「夜分遅くに失礼します。私は岳羽ゆかりと言います。今日は遅くまで朔さんを付き合わせてしまって申し訳ありませんでした」
「あ、いや!そんな……」
突然の芸能人の訪問におじさんは目を丸くして戸惑った。
「おじさん、ゆかり姉が美人だからって鼻の下伸ばさないでよ」
「伸びてねぇよ」
軽い言いあいにゆかり姉はクスリと小さく笑った。
「フフッ、仲がいいんですね。美鶴さんから話で聞いてた通りでした」
「……そうですか」
反対におじさんは苦虫噛み潰したような顔になった。
あれ?一体どうしたんだろう。不思議そうな顔をする私をちらっと一瞥しておじさんは「気にするな」と言ってゆかり姉に向き直った。
「それじゃあ私は失礼します」
「気を付けてね」
「うん。またね」
玄関を出て車に乗り込むゆかり姉に手を振って私は家の中に入った。クワッと欠伸一つして二階へ上がろうとすると背中越しにおじさんから声をかけられる。
「朔」
「ん?」
眠気から出てくる涙を拭いながら振り返るとおじさんはどこか寂しそうな顔をしていた。
「なぁ、お前はまだ―――」
「?」
「いや、なんでもない。風呂、沸いてるぞ」
おじさんはそう言ってリビングの方へ歩いて行った。一人取り残された私は首を捻りながらまた自分の部屋へと向かう為階段を上った。
一体何を言いかけたのかな?
お風呂に入ってさっぱりしたところでモルは既に夢の中。私がいない間に御刺身を独り占めして幸せそうな顔をしてベッドの上で丸くなっている。綾兄に手ずから髪を乾かしてもらいながらスマホをいじっていると雨宮君から電話があったことを今頃になって知る。でも時間帯も時間帯なので明日でも大丈夫だろうと決めて今日の幸せにどっぷりと浸った。
だから、次の日のあの事件は私にとって衝撃的なものとなった。女がどれだけ男にとって都合のよい存在であるかを思い出させるくらいに。
【明日、彼女は飛び降りる。】