笑えない少女とニュクスとワガハイ猫と。 作:サボテンダーイオウ
産み育てる事に葛藤がなかったと言えば嘘になる。日に日に成長していく赤ちゃんとは裏腹に私は未来に希望を見いだせなかった。
惹かれていた。あの時は弟に紹介されてから。単純な私の一目ぼれ。
平凡で地味な私よりもキラキラと異彩を放っていたから。いや、そうじゃない。そんな言葉じゃおさまらない。野心に満ちた男。それも並の野心じゃない。己に貪欲で他者を排すことに何の躊躇いもない。その気になれば世界さえ掌握してやろうとする野心家。そんな男に惹かれてしまった私は馬鹿な女の一人。のめり込むように嵌っていった。
きっと彼は私を選んでくれる。数多要る女の中でも私は一時の癒しになれていると自負していた。でも私には彼しか見えていなくて、彼は私なんか人込みの中のすれ違うだけの赤の他人程度にしか見てなかったんだろう。
あっさりと捨てられた。いや、子供が出来たと報告したら『おろせ』という完結一言で終わった。中絶費用をばらまいて寄越し彼はしゃがみ込んで呆然とする私に背を向けて部屋から出ていった。
必死に追いすがって止める間もなくあの男が私の元へ帰ってくることは二度となかった。きっと赤ちゃんが出来たと知ったら変わるだろうと考えていた私の甘い期待はあっさりと消えた。
終わった。何もかも。そう、思った。
一人で生きて我が子を育てていく自信は正直なかったし、両親、弟ともその頃は疎遠状態で頼れる身内、親戚もいない。
絶望的の中に私は死に場所を求めて元いた地を離れて一人電車に乗った。僅かな荷物と小さな命を宿したお腹を抱えて。
虚ろな目に生は宿っておらず、どうせ死ぬならあの男が渡した中絶費用を全部使ってから死んでやろうと思った。全部、全部嫌い嫌いきらい。
巌戸台駅に一人で降りた頃には真夜中になっていて誰もいない不気味な気配漂う中、私は棺桶が無数に点在する町中を彷徨い歩く。生ぬるい風が前よりもこけた頬をなぞるように当たった。
緑色の空にぽっかりと浮かぶ黄色の月。灯りが消え生者が消えた街中に私だけがぽつんと取り残されている。
死にたい、死にたい。憎しみも悲しみも苦しみもこの世に置いて逝きたい。
足取りは鉛で出来た靴を履いているように重く、進むのだけでも苦になる。赤い水たまりに映る私の姿は儚く脆く、以前の私とは比べようもないくらいに変わり果てていた。
「……も、いっか……」
吐息のように漏れた言葉は全てを否定し諦めかけたもの。もうどうでもいい。疲れた。何もしたくない、動きたくない。私は赤い水たまりに座り込んだ。
あの男が良く似合うと褒めていた白いスカートに赤が仕込みんでいく。血のように染まっていくスカートをぼんやりと見つめていると不意に前方から何かが蠢いてやってくるのを感じた。
棺桶の集団の陰からヒソヒソ声が聞こえてくる。
『………』
『………ァ……』
人間の声のような、そうではないような私が初めて耳にする声。いや、あれは鳴き声だ。
墓地のような静寂の街の中に潜む、影。化け物が奇怪な動きで私との距離を縮めてくる。アレは私を殺すのか。淡々とそう思った。
けど。
「逃げるぞ!」
「え」
見知らぬ声とグイッと力強く引っ張り上げる手が私の腕を掴んで力の抜けた体を引っ張り上げられたかと思うとその勢いのままその場から連れて行かれる。後ろでは何かが追いかけてくる気配があった。でも私に後ろを振り返る余裕はない。ただ現状に流されるだけだ。
体型からして男、だと思う人はその何かから私を助け出してくれたようだ。けど
ずっと座り込んでいたいた所為かそれとも疲労感からか私は数メートル駆けた所で足を縺れさせて地面に倒れかけた。咄嗟にお腹を手で庇う。
「あ!」
「チッ!」
男は倒れかけた私の体に咄嗟に腕を回し地面に倒れ込むのを防ぎ、素早い動きで私の体を抱き上げて走り出した。闇の中で男の風貌はあまり分からなかったが若く見えた。
突然の出来事に何もかもが一瞬のように思えて私にはどこか他人事のように思えた。でもアイツらから逃げきれた場所で緊張の糸が途切れた私は震える体を抱きしめた。
迫りくる死というものがあり、死を望んでいたはずの私が生きていることに歓喜し同時に死への恐怖を感じている。生きている感覚が全身から感じられて自然と涙が溢れた。
もう何が何なのか分からなかった。どうしてこんなところにいるのか。アレが何なのか。見たこともない集団の棺桶や緑色の月が存在する世界。
全てが一気に情報として溢れ出して私は頭がパンク寸前で助けてくれた男に礼を述べることもできなかった。立っていることもできずその場に背を丸めて蹲る私に男は気持ちが落ち着くまで背中をさすってくれたり大丈夫だと声を掛け続けてくれた。大分気持ち的に周りを見る余裕が出来た頃、
「驚いたよ。君は『影時間』に適正があるんだな」
「影、じかん?」
あの化け物やこの異形な世界の事を示しているのか、すぐに男の示す言葉を理解することはできなかった。今の状況を受け入れることは難しく男も付近の様子を伺うように視線を動かして口早に喋った。
「説明してあげたいが今はもっと安全な場所へ行こう。まだ『影時間』は終わっていない。———僕は幾月修司だ。君は……」
「わたしは、さくら、……佐倉……暁子…です」
差し出された手におずおずと自分の手を重ねる。男の手は人肌に温かく冷え切った心をじんわりと温めてくれ、生きている実感を与えてくれた。
まだ空は不気味な緑色のまま、私はまた男に抱きかかえられて男が云う安全な場所へと向かうことになった。
※※
贖罪の意味を桐条美鶴は誰よりも深く理解している。そしてその贖罪は今現在も続いている。終わりがあるのかと問われれば否と云うだろう。
全てにおいて抱え込む癖がある美鶴は度々親友である岳羽ゆかりにその点を注意され年下から叱り飛ばされている。自覚していても中々直せないのが人間である。
祖父、桐条鴻悦が犯した許されざる業。そしてそれは桐条武治を通して美鶴へと受け継がれた。始まりは己の欲を満たすだけに過ぎなかったモノが人知を超えた力を目の当たりにしたことで世界の破壊と再生を企む思想を生み出し、それは他の人間を巻き込み浸食して食らっていった。数多の犠牲を生み出したあの忌まわしい事件は美鶴にとっていや、皆にとって大切な『仲間』である有里湊の死によって終止符を打った、かのように見せた。実際はその後も事件が発生していたが、その一環で自身と警視庁と桐条グループで共同設立し組織された『シャドウワーカー』を一つの手段として様々な事件を裏の世界から解決へと導いた。美鶴を筆頭にかつてのペルソナ使いの仲間達を含むメンバーの助力もあり、鴻悦が作ったエルゴノミクス研究所―人間工学研究所、通称『エルゴ研』に関わる残されたデータや研究物など着実に回収、または破棄することに成功している。勿論危険を伴うようなことも多々あるが、それに憶するメンバーではない。数々の死線を10代から幾度となく潜り抜けてきた彼女らにとって仲間との確かな絆と自身が経験して培ってきた何事にも負けじと抗おうとする鋼のような精神力は強い武器となっている。その中で失った犠牲は美鶴にとって贖罪の意味をより深く刻み付けた。そんな日々の中、近年、幾月修司がエルゴ研での研究員として働いていた当時の資料や研究データがとある場所から発見された。その内容はある被験者を使った実験データの内容でとても信じがたいものだった。だが実験結果は結局失敗に終わったようでプロジェクトもすぐに解散している。
有里湊。
彼が生前、気に掛けていたとある小学生の女の子の話は美鶴の耳に何度か話題の種として入ることがあった。湊曰く、とても可愛い女の子でどうにも目が離せない脆さがある。湊は一人っ子だったが妹がいれば朔のような子かもしれないと云っていたのを会話の中で微かに覚えている。美鶴も一人娘だったので湊が目に掛けるくらいなら一度は会ってみたいと思っていた。
だがそんな想いも時間の経過と共に徐々に記憶から薄れつつあった。
再び再会した望月綾時と彼が大事そうに抱き抱えている憐れなほどやせ細った少女に会うまでは。その時の事を美鶴は忘れることがない。
当時、外は大雨で仕事終わりの車の中、ついうとうとと睡魔に襲われていた美鶴は突如自身を襲った車の衝撃とシートベルトの締め付けにぎょっと閉じかけていた瞼を見開き、運転手に事態の説明を求めて叫んだ。
『どうした!一体何があった』
『も、申し訳ありません……!ひと、人が急に降ってきて』
『人!?』
しどろもどろになり取り乱す運転手の説明では大雨の中急に目の前に人が現れたという。それを慌てて避ける為にハンドルを大きくきった所為で車がスリップを起こして反対側車線まで飛び出したらしい。美鶴は運転手にすぐに救急車を手配しろ!と一喝して土砂降りの雨の中へと飛び出した。濡れることをいとわず運転手が目撃した場所へと走って確認して行ってみればそこには地面に膝をついている一人の男とその腕に大切に抱き抱えられたびしょ濡れの病院服の少女がいた。病衣から出ている手足が異様に細かった。美鶴はその男の顔を目にした途端、全身を硬直させた。
『美鶴、お願いだ。彼女を助けてくれ』
『……望、月……綾時?お前、どうして……』
当時の記憶がフラッシュバックして美鶴の頭を駆け巡る。昔の記憶よりも大人びた印象を持つ男は確かに望月綾時だった。トレードマークの黄色のマフラーは流石にしていなかったが、その左目の泣きふくろは忘れはしない。
『説明は後でさせてほしい!今は一刻も早くこの子を、朔を助けてくれっ!』
『さ、く……?』
悲痛な叫び声を上げて懇願するかつての友人であり宿敵とも言える綾時とさくと言う名の少女との出会い。美鶴はすぐにその少女が誰であるのか思い出すことはできなかったが、急ぎ手配させた桐条傘下の病院で少女の容態と綾時からの直接の説明、そして少女の身元を特定したことで彼女が一体誰であるのか真の意味で知った。
佐倉朔。
当時、湊と綾時が目を掛けていた少女。綾時が語る朔の能力、湊と同じ『ワイルド』の力を持つ特別なペルソナ使いであり美鶴に贖罪の意味をより深く理解せしめた人物である。
そして朔が巻き込まれた事件の関係者には警察庁や大物政治家その他何らかの権威ある者の血縁者または娘、息子らが関わっていた。つまり朔が起こしたペルソナ暴走事件は何らかの力ある者の介入によって湾曲され隠ぺいされた可能性がある。だが公安になんだかんだとマークされているシャドウワーカーの桐条美鶴としてや、統帥としての立場で動いては何かと面倒なことになる為、動けずにいた。
鴻悦が始めてしまった業によりある意味犠牲者となった湊が目に掛けていた少女の存在は美鶴の中で贖罪の意味をより深く刻み付けるような人物である。ようは彼の身代わりだ。亡くなった湊の代わりに朔に奉仕することで少しでも湊への贖罪に繋がるのならと、美鶴は朔を湊の代わりとして庇護しようとした。所詮自己満足でしかないと理解はしている。だがそれ以上に朔はそのペルソナ能力もさることながらずば抜けた戦闘力、戦局を見極める頭脳、冷静な判断力と特別課外活動部のリーダーをしていた湊を彷彿させるような能力をメキメキと開花させていった。ゆかりから非難を受けたシャドウワーカーへの入隊も彼女自身の能力を買ってこそもある。それに以前暴走しかけたペルソナ能力がいつまた同じことを起こすかも分からない。監視の意味を含めて朔を側に置きたかったのだ。いつも無表情な事とは反対に性格や喋り方は女子高生そのもの。他者との関わり合いも親近感を覚えた者には警戒心を解いた子猫のようなもので可愛らしいと思えた。ただ自分の胸の内を決して語る事はない。秘めたる想いは一体どんなものなのか。それを知るのは、綾時だけなのだろう。
そんな心砕く朔に通っている学園でペルソナ能力の暴走があったと知らせを受けたのは四月の中旬頃。学園での生徒飛び降り事件が朔に何らかの引き金を与え、ペルソナ暴走に至ったとの報告を受けたが、その要因はいまだ不明にある。桐条の統帥としての立場とただ単に朔を心配する桐条美鶴として彼女の容態が気がかりだった。綾時を呼び出したのはそのためだ。本人は呼び出されることに関して渋る様子はなく、あっさりと指定の場所にやってきた。
美鶴が贔屓にしている日本料亭の一室にて、両者向かい合う形で話は始められた。この席にアイギスの姿はない。いつも綾時との衝突が激しいので今は別室にて待機しているのだ。
美鶴は回りくどい質問はせずストレートにぶつけた。
「今回の朔のペルソナ暴走について説明してくれ。お前は朔のすぐ近くにいたんだろう。それに巷で賑わっている精神暴走事件について何か思い当たりがあるんじゃないか?」
これは単なる美鶴の勘でしかなかった。突如人格が豹変したかのように暴れたり暴走行為を起こす極めて不可解な事件。当事者である加害者は当時に関する行動を覚えていないおらずその犯行理由についても曖昧であるという。当然、シャドウワーカーにも警察庁から協力要請が来るかと思われた。だがその一報はいまだ来ず、以前からの深い付き合いである黒沢に連絡を取るも『上から』の圧力が掛かっていると苦し気に説明されるのみ。ジレンマを抱える美鶴にとって今回の件は何か繋がりがあるはず。そう本能が訴えるのだ。美鶴なりにこの状況を打破しようとの想いとは裏腹に綾時は美鶴の質問に答えようとはしなかった。
「美鶴、僕達の事は『今』は見逃してくれるかい。その代わり情報を提供しよう。今関わっている件を掘り進めればそれなりの物的証拠が集まる予定なんだ」
それはお願いではなく強制に近い言葉だった。美鶴は気に入らないと言わんばかりに目を細めた。
「断る、と言ったら?」
「今回の事件はしばらく傍観していた方がいい。僕からの忠告だよ。相当、『根』は深いはずだ」
信じられない言葉に美鶴は目を剥いた。
「綾時、お前は一体何を考えているんだ。……『何』を知っている?」
その問いに綾時は口元を緩ませて人差し指を作って内緒のポーズをした。
「……内緒だよ。それに決まってるじゃないか。全ては朔の為。今この世界に僕がいる理由も朔がいるから。それだけだよ、理由なんて」
さらりと言いのける綾時の目に偽りはない。
「………」
「今は時期尚早だ。餌を泳がせておけば大物はきっと確実に釣れるよ。だから、……ね?」
「餌か。それはお前の知り合いならば同情の念を抱かずにはいれないな」
美鶴なりの皮肉に綾時はおかしそうに喉を鳴らした。
「―—そうだね。彼らが大物になればなるほど獲物は彼らに着目していく。最終的に邪魔になるくらいに大物になってもらわないと、僕が困るんだ」
まるで全て望月綾時の掌で転がされているような印象を受ける言葉に美鶴は背筋が寒く感じた。今ここにいる望月綾時は自分が知る望月綾時ではないと確実に思い知らされたからだ。
決して彼は人間ではない。人間の形をしているだけの異形の者。
桐条美鶴には恐れるものがある。
きっとそれは―――。