笑えない少女とニュクスとワガハイ猫と。 作:サボテンダーイオウ
『逃げるのはやめだ!』
佐倉双葉は心臓が爆発しそうなほど早鐘打っているのを胸元を手でぎゅっと握ることで何とか耐えようとする。
今、双葉にとっての転換期ともいえる瞬間が迫っているのだ。だからこの緊張感は乗り越えなくてはいけない。
今まで逃げ続けてきたんだ。これくらい屁でもない、とは言えないけど頑張る。
そう、双葉は逃げていた。怖いから。恐ろしいから。逃げて耳を塞いで目を閉じて小さくなればいつか、いつか誰かが助けてくれる。そんな期待を抱いていた。
でも現実は違う。閉じこもっている世界には自分しかいなくて誰かが童話の王子様みたいにドアを蹴り破って助けに来てくれるわけじゃない。自分で、自分の手でドアノブを握らなくちゃドアは開かない。
切っ掛けは、佐倉朔。
彼女と初めて出会ったのは自分のベッドの上でだった。惣治郎から姉の子供を預かることになったと伝えられてどんな奴なのかと怯えていた。当時の双葉は今よりも人見知りが激しかった。いや、自分と惣治郎以外の者は受け入れられなかったのだ。だから引っ越し作業のトラックが止まるのを二階の窓から確認した時、双葉はすぐに自分の部屋に飛び込んで鍵を閉めてベッドの布団にくるまって体を震わせた。
怖い、怖い。自分の空間に他人が入ってくる。知らないものが入ってくる!
そんな恐怖心から逃げる事は出来なくてガタガタと震えるしかない。気が付けば寝落ちしていてぐぅと空腹感にぼんやりとした思考でお腹を抑えていた。ベッドから力なく降りてよろよろとドアへ向かう。ドアノブをゆっくりと握り、廊下へと恐る恐る顔を出す。ドアの横下にはいつも通り惣治郎が作って置いた冷めた夕食がお盆に乗せて置いてあった。双葉はそれを引っ掴むように持ち上げて部屋に引っ込んだ。電気もつけずパソコンの灯りだけを頼りに一人で食べる遅い夕食。双葉は家族団らんで食べるという体験をしたことがない。というか今までまったく縁がない。忙しかった母も然り、惣治郎に引き取られてからも引きこもりになってしまった双葉と共に食卓を囲むということは一度としてない。それは双葉だって惣治郎と一緒に食べたいと思っている。だが心と体が思うように動かないのだ。人の視線が怖い。他人が怖い。自分の領域に入ってこられるのが怖い。向けられる視線、言葉、指さし。全てが自分を非難するものだと思ってしまうから。ご飯を食べる箸の手も二、三度口に運んだだけで終わる。味気ない、っていうか味がしない。美味しくない。惣治郎が作るものが不味いわけじゃない。ただ、双葉が美味しいと感じられなくなっているだけなのだ。
食事も途中なまま、また双葉はベッドへと寝っ転がる。眠れるわけでもないのに、ただ横になる。すると数分もしない内に、またアレがやって来た。魘され苦しめられる。
昔から双葉を脅かすもの。幻影、幻聴、幻覚。母親の罵倒、親戚からの暴力、黒い大人達からの非難の声。全てが双葉を責める攻撃する。
「い、や、やめ、て…」
『双葉、双葉!お前なんか産まなければ良かった、死んでぇフタバぁぁあ―――』
『お前が母親を――した。全部お前が悪いんだ!』
「違う、ちがっ!」
『消えろキエロオマエハジャマナンダ消えてしまえばいい』
双葉は両耳を抑えて身を縮こまらせた。誰も助けてくれない。誰も誰も―――。そんな悲痛な声なき叫び声を上げた。誰も、届かないと諦めていた。
けど。
「だいじょうぶ」
聞いたことのない声が双葉に襲い掛かってくるものを霧散させた。
「だいじょうぶ。こわくない、こわくない。わたしがまもってあげるから」
双葉を覆うように包む何か。今までにない経験に双葉はただただ戸惑うしかない。けれどその何かは双葉を害する様子はなく、むしろ守るように傍についた。
「わたしはここにいるから。だからあんしんしておやすみ」
その声に導かれるように双葉に訪れる安心感は彼女をしばらくぶりの健やかな眠りへと誘った。
朝、鳥の鳴き声で目が覚めるといういつにない体験をした双葉はゆっくりと瞼を開くと見知らぬ人物に抱きしめられて寝ているという状態に気づく。黒髪に整った容姿を持つ自分と年の近い少女。
双葉はぼんやり眼で彼女を自分の世界で認知した。そして、その存在を違和感なく受け入れた。この人は自分を害することがないと本能的に知ったからだ。
「……そっか、……寝よ」
双葉は二度寝をすることにした。自己紹介すらしていない少女によりぴったりと寄り添ってその温もりを求めた。あれだけ他人を拒んでいた自分が初対面の人間に懐くなど考えられないことだが、朔に関してはあっさりと許した。いや、いて欲しいとさえ思った。また目が覚めて朔がいない事に気づくと双葉は朔を探して自分の部屋を出てくるという驚きの行為を惣治郎に見せた。
「おはよう、双葉」
「……ん…」
台所入口の影からひょっこりと顔を覗かせた双葉に声を掛ける朔は惣治郎と一緒に朝の朝食の準備をしていた。双葉の気配に気づいたのだろう朔は振り返り挨拶をすると短いながらも双葉も挨拶に答えた。驚き固まって声も出せない惣治郎の前で双葉は朔に向かって手招きをして朔を呼び寄せる。エプロンをしたままの朔は「なに?」と問いながら双葉の近くまで行くと双葉は唐突にむぎゅっと朔に抱き着いた。まるで子供にしかみえない愛らしい精霊に思いっきり抱き着く幼子の様に。双葉はその感触を味わいつつ、
「……これだ、やっぱり」
と確信に満ちた声を出す。朔は驚いた様子もなく双葉の跳ねた髪を撫でつけながら
「なに、朝から。顔洗っておいで、ご飯もうすぐだよ」
と洗面所へ促した。双葉は素直にこくっと頷いてよろついた足取りで洗面所へ向かった。朔は気を取り直して中途半端だった料理を再開する。その隣で今までのやり取りを青天の霹靂と言わんばかりに受け止め狼狽える惣治郎がいた。
「……双葉が、部屋から出てきた!?……しかも顔洗うだと」
「おじさん、顔洗うくらいで驚かないでよ」
「いやそうじゃなくてな……」
「あ、お味噌汁吹きこぼれそう!おじさん消して消して!」
「お、あぁ!」
なんだかんだで惣治郎も流されるように朔の言われるがまま朝食作りを再開することに。そして初めて惣治郎と双葉と朔という三人で迎える家族団らんの朝の風景を体験するのであった。
無論、これがすぐに継続していくわけではない。やはりまた引きこもりの様になりはするが、幻覚などの症状が頻度が以前よりも少なく成ったり朔が付き添えば夜ぐっすりと寝れるようにもなった。生活習慣も朔のスパルタ教育のお陰か徐々に時間をかけて改善されていった。
全部、全部朔のお陰。彼女がこの家に双葉の所に来てくれたから変わった。だから、自分も変われるチャンスがある。そう思うようになったのは何時頃からか。
そう、新たな同居人が来るとかで朔が家を出ると騒いだ時だ。あの時のショックは二度と体験したくないと思い出しては身震いばかりしている。元々泣き虫ではあるが、あの時は意地でも出ていかせてなるものかと引っ付いて泣き喚いた。まるで子供のように。それ以来、双葉は朔から目を離さないようになった。ルブランにこっそり内緒で盗聴器を仕掛けているけど実は朔の部屋にも仕掛けている。バレた時が怖いがこれも朔の為と思わば妙な達成感を感じた。そこで得た様々な情報とネットから引き出したパズルの断片が双葉の中で上手い具合に積み重なっていく。母、若葉の研究と葬式に現れた黒服達。自分に聞こえる幻聴幻覚の類。朔の独り言。まるで喋っているかのように返事をするモル。見えないけど気配を感じるなんか。
全てを計算して見えてくる、ものがきっと―――答えだ。
※
朔の部屋に突撃をして朔をベッドに押し倒して乗っかる作戦は成功した。逃げようとするけど朔は優しいから自分を転がしたりはしない。だから逃げ出せない。逃がさない。
「なぁ、朔」
勇気を出せ、佐倉双葉。
腹に力を込めて声をしぼり出せ。朔が何度か口にしていたあの言葉を。不思議と耳に残る言葉。その意味はもっとも深く単純で様々な意味を持つ。
「『ペルソナ』って、……なに?」
普段表情を変えることが少ない朔の瞳が限界までに見開かれた。双葉はこれで確信した。朔はその何かと繋がりがある。確実に。
学園で起きた事件も、ネットで書きこまれたなんとか教師の許されざる隠された犯行の数々も。きっとこれはわたしを変える切っ掛けになる。
「時々、一人で喋ってるの、知ってる。……なぁ、ホントは『誰か』いるんじゃないのか?……モルだってそうだ。猫なのに話しかけてる。普通にモルだって猫みたいに鳴いてるけどちゃんと朔の言葉に返事してる……」
自分でもどうかしていると思う。まるでこれは脅しのようではないか。相手の秘密を追及して弱みに付け込んで自分の願いを押し通す真似なんて。でも双葉にはこれしか思いつかなかった。
今、自分でできること、これしかない。
「教えて、朔」
今度は逃げたくない。逃げない。決めた。そう決めたんだ。
双葉は再度同じ問いを朔に向けた。
「『ペルソナ』ってなに?」
【ほんとうのきっかけは、佐倉朔】