ルイズと無重力巫女さん   作:1-UP-code

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第四十一話

「貴方、霊夢を召喚するまではあまり他人と一緒にいたことが無かったでしょう?」

「――――――………え?」

 

予想もしていなかった紫の言葉に、ルイズは唖然とした表情を浮かべてしまう。

夜中に叩き起こされ、話があるからと言われていきなりそんな事を聞かれるのだから無理もない。

一方の紫は、そんなルイズとは対照的に落ち着いた表情で返事を待っていた。

そんな紫に気づいてか、とりあえずは何か言わなくてはとルイズは口を開く。

「な…なんでそんな事を聞くのよ?」

「別に?ただ貴方の顔を見てたらなんとなくそんな質問が頭をよぎっただけですわ」

ルイズの質問に紫はなんてこともないと言いたげな感じで返し、何故か意味もなくウインクをする。

一体どんな理由なのよ…とルイズは心の中で突っ込みつつ、頭の中でそうかもしれないと感じていた。

 

―――貴方、霊夢を召喚するまではあまり他人と一緒にいたことが無かったでしょう?

 

(仲は悪いけど構ってくれるヤツはいるし優しい家族もいるけど…本当はずっと孤独だったのかも…)

 

 

――魔法という魔法を一切使えない名家の末女が、名門中の名門であるトリステイン魔法学院にいる。

 

入学してしばらくした後その話が広まり、いつの間にか私は同級生達から虐められるようになった。

男子女子分け隔て無く、様々な理由を使って私を精神的に追いつめようとしてきた。

バケツの水を頭から被ったり髪を引っ張られたり、というのはまだ良かったがブラウスやマントに落書きされるのは辛いモノだ。

何せ洗濯を担当している給士達がそれを見つけると、汚れたブラウスやマントを着こなす私の姿を思い浮かべて含み笑いをするからである。

その瞬間を偶然目撃してしまった私は怒るよりも先に、これからの学院生活はどうなってしまうのかと思わず泣きそうになった。

 

上級生達も名家の末女であるが魔法の使えない私に興味が無いのか、声を掛けて来る者は少なかった。

声を掛けてきた者も、自然と私の傍から離れていった。

教師も遠くで見ているだけで、助けようともしなかった。

その所為か同級生達から受けるいじめも段々エスカレートしていき、遂にはあの二つ名を貰う羽目になった。

 

『ゼロ』

 

そう、ゼロである。何も持っていない、才能無き者を意味するその二つ名。

今まで何もしてこなかった上級生達はそれにウケたのか、以後私は「ゼロのルイズ」と呼ばれるようになった。

同級生達からそう呼ばれるのはまだ構わない。少なくともこちらの文句を遠慮無くぶつけることが出来る。

しかし顔も知らぬ先輩にそう呼ばれるのはかなり精神的に応えるモノがあった。

こちらを見下す高圧的な目線と、自分を見てほくそ笑んでいるかのような薄い笑顔。

流石の私も精神的に参ってしまい、一時期は酷い憔悴状態に陥っていたのを今でも酷く覚えている。

唯一の救いといえば、今まで何もしていなかった教師達の一部がそんな私を助けようとしてくれた事だ。

彼らの良心が無ければ、今頃自分はこの学院から自主的に出て行ったであろう。

 

思えば物心ついたときから、自分の傍にいつもいてくれる味方などいなかった。

 

魔法が使えないという事を知った私の両親は、その代わりにと様々な事を私に教えた。

一般知識や様々な魔法のこと、テーブルマナーから歩き方についてまで。

物心ついたばかりの私には厳しすぎてついてゆけず、厳しい母親に毎日のように叱られていた。

父親の方は私に優しかったが、その逆をゆく母親にいつも縮こまっていて私を助けてはくれなかった。

更に追い打ちを掛けるかのように、一番上の姉がいつもおちょくってきた。

屋敷に仕える給士たちも陰で私の事を言い合って笑い、私はそれからいつも逃げていた。

たった一人の、本当の味方とも言える二人目の姉はとても優しく、私の理想の人物であった。

しかし彼女はヴァリエール領の実家ではなくではなくその近くにあるフォンティーヌ領の屋敷に住んでいる所為か、滅多に会うことはなかった。

私がまだこの世に生を受ける前から、彼女はとても重い奇病を患っていた。

その為、魔法学院やお嫁にも行けず泣く泣く両親は療養も兼ねたフォンティーヌの屋敷に住まわせた。

私が生まれてからも何人もの医者が彼女を診たそうだが結局全てが無駄に終わり、その事でいつも私の両親は頭を抱えていた。

更にそんな事をしている内に姉の病気は酷くなり、一時は本当に死ぬかも知れないと主治医に言われたこともあった。

それでも姉はなんとか元気になり、今では主治医に死ぬかも知れないと言われるような事はなくなった。

だからといって病気が直ったというワケではないが、少なくとも屋敷の廊下や中庭を平気で歩けるようにはなった。

良く実家にも帰って来てくれたし、その時には私の話を聞いてくれたり同じベッドで寝てくれるのだ。

両親や厳しい方の姉も彼女の事を気遣っていたし、現に両親は私が十六になっても未だ彼女の病気をなんとかしようと頑張っている。

 

 

しかしある時、不幸にも私はこんな陰口を聞いてしまった。

「ルイズお嬢様は難儀だねぇ」

「あぁまったくだよ。上のお二人があんなに出来るというのに…」

「しかもそのお二人の内、次女様の方は重い奇病を患っているし」

「もしもルイズお嬢様がその病気を患っていたら、今頃どうなっていたのか…」

「おいお前、それは流石に不謹慎過ぎるぞ…?」

 

そんな話を聞く度に、私は自分の存在がどれ程のモノなのか悩んでいた。

もしかしたら、自分なんてこの家にいて欲しくない存在なのだろうか?

だとしたら、母親のスパルタ教育にも納得できた。

当時は、親の七光りであろうとも厳しい教育を受けていれば何処かの貴族と結婚することが出来る。

名家であろうとも、魔法があまりにも下手な貴族の子供達はみなそうしていた。

事実その頃のルイズも親同士が決めたのだが、大分年齢の離れた婚約者がいたのである(今はもういないが)。

 

(でも、魔法が全く使えない私が結婚なんて…出来るのだろうか?)

そんな事を思いながらも、物心ついたばかりの私はいつこの家を追い出されるのだろうかと内心ヒヤヒヤしていた。

だけど結局誰にも追い出されることなく、私は無事魔法学院へと入学することになった。

それが、さらなる苦しみになるとも知らずに。

 

 

「あらあら、そんなに苦しそうな顔して。…どうやら図星のようねぇ?」

楽しそうな紫の声にルイズはハッとした表情になり、勢いよく頭を横に振った。

どうやらあまり気持ちの良くない回想に浸っていたようで、顔も自然と強ばっていたようだ。

そんな自分を見て楽しそうな表情を浮かべる紫を見て、もしかして遊ばれているのではないか?とルイズは疑問に思った。

話があるとか借り物を返しに来たとかいうのはタダの建前で、本当は自分をおちょくりに来ただけなのかと。

 

(もし、それが本当だとするならば…)

そう、思った途端。

体の中に溜まっていたストレスや怒りがこみ上げて来るのを、ルイズはすぐさま感じ取った。

学院に入ってからはこの様な怒りをぶつける相手はある程度決まっていた。

自分をからかってくる生徒達やあの忌々しいツェルプストーに、使い魔として召喚してしまった霊夢と新しく居候となった魔理沙だけだ。

いつもならばすぐにこの怒りを解放し、それを言葉や体の動きに替えて目の前の相手に発散していただろう。

しかしルイズは、今目の前にいる妖怪相手に自らの怒りをさらけ出すことは良くないと感じていた。

それは直感や勘ではない――本能レベルでそう思ったのである。

 

――自分の感情をそのまま彼女にぶつけてしまうのは。何か良くないような気がする

 

自然と頭の中に浮かんできたその結論に、ルイズは恐怖した。

ルイズの中にある人間としての本能が、今目の前にいる妖怪に対して大きな恐れを抱いているのである。

彼女はすぐさま、この怒りの感情をどうにかしようとしたがそれを考える暇すら無い。

自然と母親譲りの鋭い目が細くなり、その瞳は僅かばかりの怒りを孕んでいる。

正に怒りという感情そのものが、人に乗り移ったかのようだ。

普通の人間ならばこれからすぐに起きるであろう事態に自分の運の無さを実感するであろう。

 

しかし不幸な事に、今目の前にいるのは人間ではない。

人間よりも大分厄介で、何を考えているのか全くわからない人の姿をした人外である。

「怖い目つきねぇ。そんなに怒りっぽいと折角の可愛い顔が台無しになりますわよ」

ルイズの顔を見ていた紫は、鬼の首を取ったかのような嬉しそうな顔でそう言った。

以前何処かで聞いたかのような紫の言葉にルイズは再度頭をブンブンと振ると、勢いよく席を立った。

人を小馬鹿にするかのような紫の物言い対してルイズは、本能よりも自分の感情を優先させることにしたのである。

「いい加減にしなさいよ!人をこんな夜中に起こして何をしたいのよ!?」

「別に何もしないわ。ただちょっと貴方と話し合いをして、今後のことを決めるだけよ?」

並みの人間なら怯んでしまうほどの雰囲気を放つルイズを前にして、紫は涼しい顔で返事をする。

そんな彼女にルイズは怒りのボルテージを益々上げる羽目になり、思わずテーブルを勢いよく叩いてしまう。

 

「今後の事って何よ!大体アンタは…」

「あなた、゛単純明快で神の如き゛力が欲しいんでしょう?」

 

テーブルから身を乗り出しつつ怒鳴り散らしていたルイズの罵声を、紫の言葉が遮った。

そのたった一言が怒り心頭であったルイズの頭の中に響き渡り、ピタリと体の動きを止めてしまう。

紫はルイズ体が止まったのを確認した紫はゆっくりとした動作で席を立ち、喋り始めた。

 

「霊夢や私のように、持っている者だけにしか使い方がわからない能力に憧れているのよね、貴方は?

 まぁあの娘が自分の能力の全てを把握しているとは思えないけど…持って生まれた才能のお陰で割とうまく使いこなしてるわ。

  貴方もそうよね?他者が崇拝と畏怖の念を持ち、仕組みは簡素でありつつ自分だけにしか扱えない…といった程度の力が欲しいのでしょう?」

 

喋りながらも紫はゆっくりと歩き出し、喋り終わる頃には丁度ルイズの背後に立っていた。

一方のルイズはというとテーブルから身を乗り出した形で硬直はしていたが、その顔にはもう怒気は宿ってはいない。

ただその代わり今の彼女の顔にはまるで暗い夜道で化けものと出くわしたかのような表情が浮かび始めている。

そんなルイズの事を知って知らずか紫は尚も喋ることをやめず、忙しく口を動かして言葉を出してゆく。

 

「まぁ何も持たず、誰からも蔑まれて生きてきた貴方と同じ年頃の子なら誰でもそういうのは考えるモノね。

  私は貴方よりも酷い教育環境にいる人間達を暇つぶしで五万と見てきたから貴方なんてずっとマシな方よ?

   でもそんな連中ほど力を持てば大抵は破滅するような人格破綻者ばかり…それを言えば貴方もそういう輩と同類かもね。プライドの有無関係なく」

 

段々とその言葉に棘が混ざりチクチクとゆっくり、しかし鋭い痛みを伴ってルイズの心に突き刺さる。

それでもルイズは背後に佇む一種の恐怖に負け、動くことは出来なかった。

 

「でも…ここの学院では貴方は結構な人格者だと私は思ってるわ。

 勤勉で規律を守り、尚かつ断固たる意思を持つ貴方は意外にも私も惹かれたのよ。

  まぁ魔法が使えなくとも、貴方は素晴らしい力を持ってるじゃない。そう…―――――」

 

そこまで言った時、ふと紫は喋るのを唐突にやめてしまった。

一体どうしたのかしら?と疑問に思う前にルイズの視界がグルリと回った。

そして突然の事に驚く暇もなく、背後にいた紫と目が合ってしまう。

彼女はまるで造り物と思えてしまうほどの均整のとれた顔に笑顔を浮かべていた。

何時か見た時とはどこかが違う、人を得体の知れない不安という名の海へと突き落とすほどの笑顔を…

 

「使いこなせればこの私を殺せる力を――貴方は持ってるのよ?」

 

 

 

 

「……あぅっ」

ふと自分の口から出たよくわからない言葉に、ルイズは瞼をゆっくりと開ける。

鳶色の瞳が自分の横で寝ている魔理沙を捉え、ルイズは自分のベッドで横になっているのだと気づいた。

ルイズは口をポカンとあけたままむっくりと上半身だけを起こし、テーブルの置いてある方へと視線を向ける。

さっきまで椅子に腰掛けて紫の話しを聞いていたというのに、そのような痕跡は何処にもない。

というよりも、最初から自分の夢だったとしか思えないほど誰かが使ったような痕跡は残っていなかった。

「夢…だったのかしら。なんだか記憶も曖昧だし…」

ルイズはまるでそう思いこもうとするかのように呟いた。

彼女の頭の中には確かに「紫に起こされて返す物と話があると言われた」ところの記憶はあったが、そこから先の記憶は全くなかった。

まるで数百ページもある分厚い小説の一ページだけを抜き取ったかのように、あまりにも不自然な空白となっている。

以前にも何処かでこんな体験をしたような。ルイズがそう不思議がっていた時…。

 

「よぉ。なんだか見ねぇ内に見慣れねぇのがいるじゃねぇか?」

「うひゃぁっ!?」

 

ふと自分の足下から聞こえてきた声に、ルイズは驚きのあまり飛び上がりそうになるのを堪えた。

そのかわり、結構な大声が口から出てしまったのだがそれで魔理沙が起きることはなかった。

ルイズは突然聞こえてきた声に動揺しつつも、慌てて自分の下半身を覆っているシーツをどけた。

シーツの下にあったのは、自分の足下に添えるように置かれた鞘に入れられた一振りの太刀であった。

何故か鞘から少し刀身を覗かせている状態であり、人が人ならちゃんと入れたくてうずうずしてしまうだろう。

その太刀を見てルイズは、この太刀とは以前何処かで合った覚えがあると気づき、その名前を口にした。

「デルフ…デルフリンガー…だっけ?」

「なんでハッキリ言わねぇんだよ。あぁそうだよ、インテリジェンスソードのデルフリンガー様だよ」

いかにもうろ覚えですといいたげなルイズの言い方に、太刀―――デルフリンガーは鎬の部分をカチカチ鳴らしながらやけくそ気味に言った。

普通の人間ならば剣が喋ったと言うだけで卒倒してしまうだろうがルイズは特に驚きもしない。

何故ならハルケギニアにはデルフのような意思を持つ剣―インテリジェンスソードが存在するからだ。

それにルイズ自身、デルフとは二回ほど出会っているため尚更であった。

最初の時はフーケの起こした事件で学院長室へと呼ばれた時。

二回目はコルベールの所へ赴いていた霊夢が持って帰ってきたとき…。

そこまで思い出してルイズは気が付いた。

 

「そういえばアンタ、今まで何処にいたのよ?今までずっと忘れてたわ」

「娘っ子。お前さん可愛い癖にひっでぇ事いうんだな」

ルイズの口から出た言葉に、デルフは素直な感想を述べた。

 

◆    ◆    ◆

 

ルイズはベッドでグッスリと眠っている魔理沙の横に座り、デルフからこれまでの話を聞いていた。

話を聞く限り、ルイズが霊夢と一緒に幻想郷へと言った直後、デルフも紫の手で幻想郷に持ち出されたらしいのだ。

まぁインテリジェンスソードの存在を知らないのなら、興味津々になるのも無理はないであろう。

それで霊夢達の知らないところで色々な事をされたらしい。

デルフ曰く「来る日も来る日もあちこち調べられたり質問攻めにあったりして大変だった」という。

あの隙間妖怪は質問癖でもあるのだろうか?ルイズはそんな疑問を頭の中で思い浮かべたが、すぐに消した。

そして今日、何故かは知らないがルイズに用事あるついでにこの世界へ戻ってきたそうだ。

「というワケで…俺は色々と調べ回されちまったんだよ」

「へぇ…じゃあユカリが言っていた借り物ってアンタのことだったのね」

彼女自身今まで何処に行っていたのか気にもしなかったが、紫が言っていた事の意味がわかり満足していた。

「自分に返ってくる物」に対して心当たりが全く無かったルイズは僅かばかりの不安を覚えていたのである。

「やれやれ…オレっちは長いこと生きてきたがあんな体験は初めてだったぜ、全く」

霊夢が持って帰ってきたこのインテリジェンスソード、元いた世界に戻れて良かったのか少しばかり機嫌が良さそうだ。

インテリジェンスソードの持つ意思は、本当に人間と思ってしまうほど精巧に作られている。

まぁ私も初めてだったけどね。とルイズは言おうとしたが、その前にある事に気が付いた。

今自分とデルフ、それに魔理沙が寝ているベッドから少し離れた所に来客用のソファーが置かれている。

普段はしまっているそのソファーで寝ている筈の霊夢が、今はいなかった。

もしかしたら一人で真夜中の散歩かしら?一瞬だけ思ったが、その考えをすぐに否定した。

 

霊夢がこの場に居ないと気づいた直後、ルイズの体を今まで感じたことのない緊張感が包んでいるのだ。

終わるまでは決して途切れることのない、窒息してしまうかのような。

(なんか良くわからないけど…嫌な予感がするわ。何だろうこの感じ…)

ルイズはその感じに不安を覚え、無意識のうちにベッドのシーツをギュッと握りしめた。

一方、霊夢がそこで寝ている事を全く知らないデルフは暢気そうな感じでルイズに尋ねる。

「どうした娘っ子?あの大きなソファに幽霊でも座ってんのか?」

「何言ってんのよアンタは?あのソファで寝てる筈のレイムがいないのよ。………ってアンタは知らないか」

「何だって?」

デルフの冗談めいた言葉に突っ込みつつ、ルイズは真剣な表情そう応えた。

それを聞いたデルフは驚いたのか、鎬の部分をチャカチャカと激しく鳴らした。

「娘っ子、お前さんがあまりにも怒りやすいから愛想尽かされたんじゃ…イテ!」

「そんなワケないじゃないの?むしろ愛想尽かしたいのはコッチの方よ」

言い終える前に、ルイズは鞘越しにデルフの刀身を思いっきり叩いた。

 

 

魔法学院の塔には、全て屋上が作られている。

ただ屋上といっても実際は階下に通じる階段へと続く穴がある以外、何もない。

あるのはそれほど高くない石塀が、屋上の円周をグルリと囲んでいるだけである。

そんな場所にたった一人、眼鏡を掛けたタバサがヒョッコリと穴から顔を出した。

最初に右手で持っていた杖を先に穴から出し、次に自身が穴から素早い身のこなしでもって出た。

容赦ない疾風が彼女の体を撫で、力を抜けばそれこそ紙のように飛んでいってしまうであろう。

しかし゛風゛系統の使い手であるタバサにとってこれぐらいの風など大したことなど無い。

その気になればこの風よりも更に強く、鋭い殺人的な突風を巻き起こすことも出来る。

だが今のタバサにとってはこの疾風よりも、眼下に広がる学院を見下ろすことが最優先事項であった。

 

やがて彼女の視線が学院の警備をする衛士の宿舎へと向いたとき、その動きがピタリと止んだ。

そこに何か違和感を感じたのであろうか、タバサは゛遠見゛の呪文を唱えた。

この呪文は゛風゛系統の魔法であり、その名の通り遠くの様子を見ることの出来る便利な魔法である。

正に鷹の目とも言える魔法を使い、タバサは宿舎の裏側部分へと視線を向ける。

彼女の目に広がっているのは、夜の闇よりも更に暗い粘ついたような闇であった。

まるで紙のこぼしたインクのようにジワジワと空気に溶け込み、広がってゆく。

そしてその近くに、タバサの探していた少女の姿もあった。

 

「みつけた」

タバサはそれだけ呟くと懐を漁り、そこから小さなモノクルを取り出した。

一見すれば新品同然とも思えるほど、綺麗にされている。

タバサは掛けていた眼鏡を外すとそのモノクルを掛けた。

後はジッと…何もせず、このモノクルを通して行われるであろう戦いを見通すだけ。

 

今の彼女のするべきことは、ただそれだけである。

 

 

トリステイン魔法学院

           衛士隊宿舎 裏庭

 

闇だけが支配するその場で、霊夢は自然の摂理から大きく外れた怪物と対峙していた。

人の体を基本として様々な昆虫の体の一部をつなぎ合わせたかのような姿をもつソイツは、体中の間接から黒い霧のようなものを出している。

それは段々と怪物の体を包みつつも、ゆっくりと周囲の空気混ざってその範囲を広げていく。

何が起こるのかはまだわからないものの、霊夢はそれが単なる目つぶし攻撃だと理解した。

(とりあえずはあの老人よりも、コイツをなんとかした方が良さそうね…)

先程まで仮面を付けた老貴族の゛幻影゛が佇んでいた場所を睨みつつ、霊夢は思った。

恐らく今朝方の事もあのナメクジの化けものや今目の前にいる虫の化け物も、あの老貴族がけしかけたに違いない。

ただ今は何処にいるかもわからない黒幕よりも、今は目の前にいるキメラを倒すことにした霊夢はすぐさま行動に移った。

霊夢は先程回収した数枚あるお札の内一枚を手に持つと軽く霊力を送り込み、勢いよく霧の中に向かって投げつける。

するとさっきはただ直進するだけであったお札が、まるで意志を持ったかのように軽いカーブを描いて霧の中へと入っていった。

彼女の十八番でもある追尾性能を持つお札は、霧の中にいるであろう目標に向かっていく。

(もしそこから出ないというなら、こっちから出してやるわ…)

お札が中に入ってから行き次ぐ暇もなく、あのキメラが奇声を上げつつ霊夢の方へと飛びかかってきた。

「ギィイィ!」

黒板を引っ掻いたような金切り声を上げ、キメラは左手の甲から生えている二本の爪を振り回した。

クワガタムシのアゴと酷似しているそれを、霊夢は素早く後ろに下がる事で回避する。

 

自分の攻撃を避けられ、キメラは目の前の相手に接近しようとするがそれよりもまず優先すべき驚異の方へ意識が向き、後ろを振り向く。

そう、霊夢の投げたお札がそれなりの速度で今まさにキメラの体に貼り付こうとしていた。

目の前の驚異に対して、先程の様に跳躍して避けるのには手遅れだとイナゴの頭で考えたのか、カパッとアゴが開いた。

開いた先にある口の奥から勢いよく緑色の液体が噴き出し、それはギリギリの距離にまで迫ってきたお札に付着した。

謎の液体がかかった瞬間音を立ててお札が溶け、跡形もなく消滅してしまう。

優先すべき驚異を排除した瞬間、背後から倒すべき目標が再度攻撃を仕掛けてきた。

 

「フッ…!」

投げたお札を溶かしたキメラの背後から、霊夢は退魔針を数本指の間に挟む。

自分に背中を見せているキメラの、霧を吹き出していた間接へと狙いを定めると勢いよく投げた。

先程のお札とは圧倒的に速度が違う数本の退魔針はストッ、と小さな音を立ててキメラの間接部に深く刺さった。

甲殻で覆われた他の部分とは違って内側の部分がむき出しになっている間接を攻撃され、キメラは悲鳴を上げる。

ついで勢いよく黒い霧を吹き出そうとするのだが、先程とは違い霧の出が悪くなってしまった。

恐らく霊夢の投げた針が、偶然にも霧の出る器官を塞いでしまったのであろう。

「まぁ、臭い物には蓋をしろってヤツよ。栓じゃなくて針だけど」

懐からお札を一枚取り出しつつ、霊夢は気怠そうな顔でそう言った。

霊夢の動きを見て攻撃してくると察知したのか、キメラは叫び声を上げると再び左手の爪を振り回して襲いかかってくる。

その動きは先程襲いかかってきた時とは比べようもなく素早く、回避しなければ致命傷は間違いないであろう。

「最初は手強いかと思ったけど、そうでもなかったわね」

霊夢はそんな相手に対しそれだけ言うと勢いよく地面を蹴り、襲いかかってくるキメラの方へと突っ込んで行った。

 

 

「 ギ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ィ゛ ! ! 」

自分の方へと突っ込んでくる霊夢に対しキメラは叫び声を上げつつ足を止め、爪を振り上げた。

対して霊夢は目を細めると、目にもとまらぬ速さでキメラの懐へと潜り込んだ。

次の瞬間、キメラは振り上げていた左手の爪を自分の懐にいる霊夢の背中目がけて、振り下ろした。

だがそれよりも速く、霊夢の体が霧に包まれたかのように消失し、爪は空しく空気を切るだけに終わってしまう。

いきなり消えた相手にキメラは咄嗟に周囲を見回し、ふと自分の左腕に何かが貼り付いているのに気が付いた。

それは一枚の白い縦細長の紙であり、良くわからない記号や文字が書かれている。

最もキメラにはその意味などわかりはしないであろうが、本能的にそれが危険な物だと察知は出来た。

 

この紙を剥がそう――

 

本能がそう告げた瞬間、紙が発光しキメラの複眼を通した視界を焼き尽くした。

その光はやがて痛みを伴う爆発へと進化し、キメラの体を蝕んでゆく。

左腕、左足、そして体の左半分を凶暴な光が飲み込み…そして。

 

魔法学院の一角で、小さな光が灯った。

触れたモノがモノならば一瞬で蒸発されてしまう、霊力で出来た光が。

 

 

「…ふぅ」

お札の爆発に巻き込まれたキメラを少し離れた所から見ていた霊夢は安堵の溜め息をつく。

正直、彼女自身も割と危険な行為をしたもんだと改めて感じていた。

 

あの時ギリギリまで近づいてキメラの左腕にお札を貼った後、攻撃される前に瞬間移動で距離を取っていたのである。

一歩間違えればあのキメラの攻撃をモロに喰らっていただろうし、それで何が起こるか全くわからない。

そんな危険な事をしなくても、離れた所から弾幕を放てば倒せるという事も当然霊夢は考えていた。

しかしそれをすると低脳の化け物相手にお札を無駄にしてしまうし、何より面倒くさかったのである。

「こんな事になるなら、スペルカードはいらなかったわね」

霊夢はひとり呟きながらも、爆発の範囲が思ったよりも小さかった事に気が付いた。

しかし威力は大したものであり残ったのは右腕部分と頭部、それに良くわからない肉片だけであった。

特に頭部と右腕部分はピクピクと痙攣しており、それを見て霊夢は舌打ちした。

「全く、今日は散々ね。良くわからないヤツからこんな化け物をけしかけられるわこんな気持ちの悪いモノ見せられるわで…」

霊夢は愚痴を呟きつつ、ふと空を見上げた。

未だに双つの月は黒い雲によってかなり遮られており、月明かりは地上にまで入ってこない。

それでも陽が落ちたばかりの時よりかは大分マシになっており、うっすらとではあるが雲の合間から月がチラチラと見て取れる。

霊夢は雲の隙間から月を見ながら、今日起こった出来事を思い返していた。

 

(何でアイツはこんな奴等を私にけしかけてきたのかしら。 

 大して強くもないし…。どうせ襲うのなら正々堂々やってきなさ…―――――…ん?)

 

そんな時、霊夢はある事に気が付いた。

最初は単なる気のせいかと思ったものの、自分の周りが段々と暗くなっていくのに気が付いたのだ。

今夜は月明かりが無いという事もあって相当暗いが、それでも霊夢の目は誤魔化せなかった。

とりあえず目を擦ってみるが、それでも視界は一向に良くならない。

一体どうしたのかと霊夢が疑問に思った瞬間、ある事を思い出した。

「まさかあの化け物が出してた霧かしら…こんなに広がるなんて」

そんな時、追い打ちを掛けるかのように霊夢の体に更なる異変が襲ってくる。

「う…ケホ、ケホ…この臭い…何処かで嗅いだことのあるような…」

突如漂い始めた悪臭に霊夢は鼻を押さえながら、すぐ近くで転がっている肉片へと目をやる。

その先には霊夢の予想通り、キメラ゛だった゛肉片が音を立てて溶け始めている瞬間であった。

肉が焼けるような音と共に肉片から白い泡が出て、ゆっくりと全体を包み込んでゆく。

それに伴い悪臭も段々と酷くなり、流石の霊夢も思わず吐きそうになってしまう。

「うぐ…どうしてこういう連中って死んでも人に迷惑を掛けるのかしら…」

胃液がこみ上げるのをなんとか抑えつつ、もう少し離れようとキメラに背を向けて歩き出した。

どうせあんな状態になれば最後には溶けて無くなってしまうというのはわかっていた。

この視界を遮る黒い霧も不快な悪臭も、朝の風と共に空の向こうへと消えていってくれるだろうし。

何より、あんな肉片になってしまえば何も出来ないだろう。と霊夢はそう結論づけてキメラの死体に何の警戒もしなかった。

 

しかし、それが甘かった。

 

霊夢が背を向けた瞬間、ゆっくりと溶けてゆくキメラの頭にある複眼が赤く光った。

死体が発する光とはとても思えぬ程強く、絶好のチャンスと言わんばかりに輝いている。

キメラの死体に起きた異変に霊夢は気づかず、ルイズの部屋に戻ろうとしていた。

まさしく奇襲をするには絶好の機会であり、それを知ってかキメラの複眼がピカピカと点滅し始める。

最初の点滅こそは五秒ほどの間隔をあけていたが、段々とその間隔は早くなっていく。

しだいに点滅が激しくなってくると、痙攣しなくなっていた右腕部分が再び痙攣し始めたのだ。

その内サソリの尻尾と同じ形をした右腕はズリズリと地面を這う音をたてながら、動き始めた。

一見すれば蛇にも見えてしまう右腕の進む先にいるのは、倒した゛はず゛の相手に背を向けて歩いている霊夢。

地面を這う音は肉片の溶ける音にかき消され、霊夢の耳には全くと言っていいほど入ってこない。

 

最初こそは1メイルほどの距離が空いていたのだが、それがドンドン縮まっていく。

50サント、42サント、34サント、20サント…それでも霊夢は気づきもしない。

当の本人は「あ~、疲れたわねホント…」とか呟きながら左手に持っていた御幣を背中に差していた。

今彼女の周囲にはキメラが放出した黒い霧が漂っており、後方よりも前方の方に意識を向けているのである。

 

――それ、仕留めるのなら今がチャンスだ!

 

まるでそう言っているかのように、複眼がある程度のテンポをとって点滅する。

霊夢にすり寄ってくる右腕はそれに応えるかのように、サソリの尻尾で言う先端部分から鋭い針が出てきた。

針の先からは紫色の液体が流れ、誰の目から見てもそれが毒だとすぐにわかるだろう。

霊夢は未だ、後ろから忍び寄ってくる死にかけの暗殺者に気づいてはいない。

そして霊夢との距離があと15サントという所で残った力を全て使い果たして飛び跳ねようとした。瞬間―――

 

「よっと」

 

死に体になろうとも尚迫り来る相手に振り返ろうともせず、

空になったジュースの瓶をそのまま後ろに投げ捨てるかのような動作で霊夢はお札を二枚、放った。

1枚目はすぐ傍にまで近づいていた右腕。そして二枚目は複眼を点滅させている頭部へと飛んでいき、そして…。

「その気味の悪い殺気ぐらいは、隠せるようにしときなさい」

まるで頭の悪い生徒を受け持つ教師のような感じで霊夢がそう呟き―――

二度目の小さな発光が、宿舎の一部を照らした。

 

――――― - - - - . . . .

 

終わった、戦いは終わった。

先程まで屋上にいたタバサは屋上へと通じる階段の出入り口で立ち止まると、モノクルを外した。

今この手の上にあるモノクルは全てを見つめていた。紅白の少女とあのキメラの戦いを。

後はこのモノクルを明日の朝やってくるであろう゛鳩゛に渡せば、今回の゛任務゛は終わるのだ。

タバサはモノクルを懐に入れて愛用している自分の眼鏡を掛けると、歩き出した。

もうすることは終わったのであるし、何より肌寒いこんなところに長居する理由もない。

明日も早いが、何よりこの前購入した本を読まなければいけないのだから。

そんな事を考えているタバサの足取りは軽くはなく、かといって重くもなかった。

 

 

その部屋の中は、様々なマジックアイテムや美術品で溢れかえっていた。

まるで倉庫を思わせるかのような乱雑とした部屋の真ん中で、一人の老貴族が椅子に腰掛けている。

髪は銀色に光り、鼻の下には小さく刈り込まれたひげがあった。

整ってはいるのだが、あまり覇気を感じさせない顔立ちであった。

それがかえってこの老人の印象を薄い物にしていた。

そんな老貴族の目の前には、台座の上に置かれた大きな水晶玉があった。

この水晶玉もまた部屋の中にある数多くあるマジックアイテムの内の一つだ。

水晶玉の直ぐ傍には小指サイズの空き瓶があり、底には中に入っていたであろう赤い液体がほんの少しだけ残っている。

このマジックアイテムは選んだ相手の体液か血液を用いて、その相手の視界に写るものをみる為に使われる。

といってもまだ未完成であり、尚も研究が続けられている代物ではあるものだ。

そんな代物をこの老貴族が持っているということは、彼がそれなりの地位を持っている事を証明している。

 

「ふぅむ…やはり我々の敵という判断をした方が良いかのぅ?」

まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような部屋の中に、しわがれた老人の声が響いた。

口の中でもごもごと、言いにくそうに呟くその表情は何処か苦々しいものとなっている。

その理由は、ついさっきまでこの水晶玉に写っていた視界の主と、一人の少女の戦いを見たからである。

視界の主であったキメラを売っていた連中は、対メイジ戦を想定して造られたキメラだと言っていた。

その言葉は確かで人目の付かぬ山中で会おうとした内通者とスパイを数人、街中では夜中のホテルに忍び込んで内通者を一人始末している。

全ては祖国トリステインと、アルビオンのスパイとそれに媚びる国内の内通者達を滅ぼすためだ。

彼らを滅ぼさなければ、アルビオンと戦うどころか、自分たちが崇拝する王家が消滅してしまうのだ。

(麗しき姫殿下が立派になられるまで…我々が闇の中から手助けしなければいけないというのに…)

それをあの少女が…。老人は親の仇敵を見るかのような眼差しで少女の姿を思い出していた。

まるでおとぎ話の中から出てきたかのように可憐な姿にはふさわしくない強さを、あの少女は持っていた。

寄生型を2匹、更に対メイジ用のキメラを2体を、何の労力も使わずに倒したあの未知の力はなんだというのか。

最初の一体は学院の傍で取引しようとした内通者を跡形も残さず始末し、スパイを消そうとしたところであの少女に邪魔され、倒された。

この事を知った老貴族は自分の゛仲間達゛を呼びつけ、この少女(最初はただ゛赤い服を着た人間と呼んでいた)は何者なのかと短い時間で議論したが結果は「アルビオンの放った刺客」というものであった。

最初も老貴族はその結論に疑問を感じたものの、自分たちの仕事を邪魔したのは事実であり大きな声を上げて否定することは無かった。

そして今夜中にでも、残った一体を用いておびき出し、ある程度の怪我を負わせてからお前は何者なのかと聞き出そうとしたのであるが。

結果、老貴族とその゛仲間たち゛の描いたスケジュールは、本筋を離れて大きく脱線してしまう形となった。

だが先程まで少女の戦いを見ていた老貴族の頭にはある疑問が浮かんでいた。

 

「あれは先住…いや、まさかあれが【虚無】というものなのか…」

追尾機能や当たれば即爆発するあの謎の紙や、キメラの体が吹き飛ぶ直前に姿がかき消えたこと。

今まで長いこと生きてきたが、あのような正体不明の力は見たことが無かった。

最初はエルフや一部の亜人達が使う先住魔法かと思ったが、伝説にある失われた系統ではないかと老貴族は思った。

 

老人の考えは惜しくも外れてはいるのだが、ただ一つわかったことがある。

 

(あの少女は良くわからない力を用いて、ガリアから購入したキメラを倒したということじゃ…)

幸い人に寄生するタイプの、ナメクジを素体とした気色の悪いキメラはまだ何匹かこちらの手元にある。

あれは人間に寄生してそのまま意思を乗っ取ってしまうモノであるが、それだけでは内通者とスパイを狩ることは出来ない。

今日一日で失ってしまったあの2匹がいてこそ、ここまで出来たのである。

しかしそれを失ってしまった今は、昨日までのような暗殺は出来ない。

(幸い財産には余分があるし…またガリアの方へ赴いて買いに行く必要があるのぅ)

「やれやれ…これでしばらくは阿呆共に好き放題やらせてしまうのかのぅ…?」

老貴族は心底疲れたかのような表情を浮かべつつ、その背中を椅子の柔らかいクッションへと沈み込ませる。

王宮のお墨付きがあるトリスタニアのブランド会社が作ったこの椅子は見た目よりも座り心地が遥かに良いのだ。

もう大抵の人ならベッドに潜っている時間であり、本当ならこの老貴族もベッドでゆっくりと休みたかった。

 

しかしこの老貴族には寝る前にまだまだしなければならないことがある。

それは、今後自分と゛仲間達゛のするスパイと内通者狩りに関することであった。

今回学院の方で起こした騒動は今のところ昨日起きたホテルの事件で浮き足立っている宮廷の連中に届きはしない。

仮に届いたとしても行動には移さないであろうし、移すならばある程度落ち着いた時だろう。

あのキメラは死ぬと証拠は残さないような死に方をするし、時間が経てば自分の゛仲間゛を通して有耶無耶にする事が出来る。

だからといって人間を使うという結論は無謀であるし、王宮の方でも内通者やスパイに対して何らかの対策は練るだろう。

キメラを再度購入するにしても今すぐ゛売り手゛に会えるわけでもなく、ある程度の時間が必要だ。

(とりあえず、今後しばらくは内通者側の元締めを地道に探すということにしておくか…)

そこまで考えると老貴族は手元に置いてあった羽ペンを手に取ろうとした。その時…

老貴族の前方にあるドアからノックする音が二回、規則正しいリズムと共に聞こえてきた。

 

「ゴンドランド卿。今日提出された研究報告及びレポートの方、お持ち致しました」

ドアの向こうから聞こえてくる声を耳に入れ、ゴンドランド卿と呼ばれた老貴族は溜め息をついた。

(やれやれ…日付が変わる前にベッドへ潜れる日が戻ってくるのは…何時なんじゃろうか?)

心の中でそう呟き、机の右上端にはめ込まれた純銀製のネームプレートを、皺だらけの指で軽くなぞった。

 

そのプレートには自分の名前が刻まれており、その右上にはこのような言葉が刻まれている。

 

――トリステイン王国魔法研究所『アカデミー』

                 評議会会長兼最高責任者―――

 

この老貴族こそが、トリステインの知を司るゴンドランド卿であり…

同時に、この国の現状に嘆く同志である古参貴族達を率いて闇の中で動き出した゛灰色卿゛であった。

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