ルイズと無重力巫女さん   作:1-UP-code

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第六十七話

 閉じられていた記憶の奥深くから゛何か゛が這い出てこようとしている。

 それはまるで、巨大な人食いミミズが獲物を求めて出てくるように、おぞましい゛恐怖゛を伴ってやってくる。

 何故こんな時にそんな事が起こるのかは知らないが、予想だにしていなかった事に彼女はその体を止めてしまう。

 自分が誰なのか知らない今でさえ大変だというのに、自分の体に起った異変に彼女が最初に感じたものは二つ。

 前述した゛恐怖゛と―――――手の届きようがない゛不快感゛であった。

 

 まるで無数のテントウムシが体の中を這い回っているかのような、吐き気を催すむず痒さ。

 その虫たちが、何時か自分の体を滅茶苦茶に食いつぶすのではないかという終わりのない恐怖。

 脳の奥深くからせり上がってくる゛何か゛に対し、最悪とも言える二重の気持ちを抱いている。

 彼女は焦った。此処が戦いの場でないなら受け入れるしかないが、今の状況だと非常に不味い。 

 ただでさえ自分の身が危ないというのに、一時的に戦えない体になればやられるのは絶対だ。

 

 

 やめろ、思い出したくない。突然すぎる記憶の氾濫を拒絶するかのように、彼女は赤の混じる黒目を見開く。

 戦いの最中である為下手に体勢を崩すどころか、自分の頭を抱える事すらできない。

 自分の名前すらも知らないはずなのに、何でこんな事が起こるのか?それが全く分からない。

 腰を低くし、風に拭い去られた煙の先にいた霊夢と――その傍にいたルイズという少女を見ただけだというのに…

 

 

「なぁおい…あいつ、何かおかしくないか?」

 

 少し離れた所から聞こえる誰かの声が、必要も無いのに耳へ入ってくる。

 しかし言葉自体は的中している。今の彼女は確実におかしい―――否、おかしくなり始めていた。

 何も知らないはずの自分の記憶という名の海底から、得体の知れぬ゛何か゛が物凄い速度で水面から顔を出そうとしている。

 それに対し何の手だても打てず、ナイフを手にしたままその場を動くことすらできない。

 歯痒さと不快感だけが頭の中を掻きまわし、彼女に゛何か゛を思い出させようとしている。

 もはや体勢を維持することもできず、その場に崩れ落ちてしまうのではないかという不安が脳裏を過った瞬間―――

 

 

――…貴女―…過ぎ…――…ハクレイ…

 

 頭の中に、何処かで見知ったであろう女性の声が響き渡った。

 所々で途切れているが、初めて耳にする声とは到底思えないと彼女は感じた。

 ずっと昔に、ここではない場所で知り合い離れ離れになってしまった親友とも言える存在。

 あるいは互いに対立し合い、決着がつかぬまま勝手に行方をくらました好敵手なのか。

 二つの内どちらかが正解なのだろうが、今の彼女にとってそれはエキュー銅貨一枚や一円玉よりも価値のない事である。

 しかし…謎の声が最後に呟いた単語らしき言葉は何なのだろうかと、小さな疑問を感じた。

 

 ハクレイ…ハクレイ…何故だろう、どこかで聞いたことのある言葉だ。

 今まで聞いたことは無かったが決して初耳とは思えぬ単語に対し、彼女は心の中で首を傾げてしまう。

 

 

――――……い…抗…うとも…貴…は…人間。霊…を…る…価…い…

 

 そんな事をしている間、またも女の声が聞こえてくる。

 劣化したカセットテープに収録されたかのように、何を言っているのかすら分からない。

 自分の身に降りかかる異常事態に彼女は冷静になれと自分自身を叱咤する。

 何か伝えたいことがあるのだろうが分からなければ意味が無いし、何より声の主は誰なのかも良く知らない。

 ひょっとするとこれは単なる幻聴で、自分は疲れているだけなんだ。未だに揉めている霊夢達を見つめながら、彼女は呟く。

 一体何が起こっているのか分からないが、今するべき事はとっくの昔に知っている。

 それを実行に移す為、グチャグチャに混ざった頭の中を整理するために深呼吸しようとした直前…

 

 

「アッ―――――――」

 今までその姿を伏せていた恐怖と不快な゛何か゛が、スルリと彼女の中に゛戻ってきた゛のだ。

 

 

 何時の頃からか脳の奥底に幽閉されていたソレは、自由を取り戻した言わんばかりに彼女の脳内を駆け巡る。

 恐らく深呼吸しようとして力を少し抜かしたのが原因だったのだろうか。今となっては知る由も無い。

 

 ただ、今の時点で断定できることはたったの一つ。

 彼女は喪失していた自身の゛記憶の一部゛を…恐怖と不快で構成された゛何か゛としか形容できないソレを思い出したのである。 

 マヌケそうな声を小さく上げた彼女には、蘇った記憶に対抗する術を持っていない。

 きっと彼女以外の者たちにも言える事だろうが、一度思い出した記憶は滅多に消える事はない。

 そして、ここへ来てから最も嫌悪感を感じたそれ等が力を持ったのか、彼女の瞳に映る光景を塗り替えていく。

 

 

 

 

 丁寧に描いた風景画を塗りつぶすようにして幾筋もの赤い光線が周囲を駆け巡り、古ぼけた旧市街地を染め上げていく。

 彼女の目に映るソレはワインのような上品さなど見えず、ただ鉄の様な重々しさが乱暴に混ぜ込まれている。

 この赤には情熱や闘志といった前向きな要素は無い。あるのは暴力的で生々しい陰惨な雰囲気だけが入っていた。

 病気に苦しむ老人たちの集会場であった廃墟群が、そんな色であっという間に覆い隠されてしまう。

 

 突如目の前の景色が変わってゆく事に対し、彼女は尚も動けずにいた。

 いや、動こうとは思っていたが体がいう事を聞かず、あまつさえ先程まで何ともなかった眼球すら微動だにしない。

 まるで拷問用の特殊な椅子に座らされたかのように、不可視の何かに体を縛られ見たくも無いモノを見せられている。

(な…何が始まろうとしているの…?)

 ナイフを手にしながらもそれをただ握りしめる事しかできない彼女は、唯一自由である心の中でそう思う。

 そんな事をしている間にも目に映る世界は息つく暇もなく変化していく。 

 

 

 地平線の彼方へと沈もうとした太陽の姿がいつの間にか消えており、空が明かりを失っていた。

 太古から夜空の明かりを務めてきた双月は未だその姿を出しておらず、代わりに見えるのはどこまでも広がる黒い闇。

 地上の赤と決別するかのようにハッキリとしたその闇からは、ただただ不気味さだけが伝わってくる。

 一体どれだけの黒いペンキを垂れ流せば、今の彼女が見ているほどの闇を表現できるのだろうか。

 まぁ、深淵のように最果てすら見えぬ闇をペンキなどで再現する事は限りなく不可能であろう。

 何故なら、この闇を見ている唯一の存在は目も体も動かぬ彼女だけなのだから。

 そして彼女自身誰かに命令されようとも、この光景を再現する気はこれぽっちも無かった。

 

(一体何が起こっているの…?)

 儚い黄昏時から怖ろしい程に単調な赤と黒へと変わりゆく世界の中で、彼女は一人戸惑う。

 最も、普通のヒトならとっくの昔に錯乱していてもおかしくはないが。

 とにかく今になって遅すぎる戸惑いを抱き始めた彼女には、この事態に対し打てる手など皆無に等しかった。

 

 

―――……聞くけど…どう…して貴……と一緒に普通の……生を……ると…ったのか…ら?

 

 

 そんな彼女に追い討ちを掛けるかの如く、再び頭の中に女性の声が響く。

 別にこれといった痛みも感じず、囁きかけるようにして自分に何かを離したがろうとする謎の――――…いや。

(違う…私は知っている、この声の持ち主は゛誰゛なのかを)

 

 そんな時であった。石の様に体が固まった彼女がそう思ったのは。

 先程頭の中に入り込んだ記憶が何かを思い出させたのか、それとは別の原因があるのかは知らない。

 ただ彼女にとって、声の゛主゛が自分にとって軽んじる程度の存在ではないと瞬時に理解していた。

 

 

――――所…詮貴女は…の巫女。…この娘を立派な…に育て上げる事こそ…が今の貴女の…

 

 

 再び聞こえてくる声は、最初の時と比べある程度聞き取りやすくなっていた。

 しかし、ノイズ混じりのソレが鮮明になってゆくにつれて、彼女の脳内で再び゛何か゛が浮かび上がる。

 まるで海底を泳いでいた人間が呼吸をする為に水面目指して泳ぐように、それはあまりにも急であった。

 ただ、最初に感じた゛何か゛とは違い、それからは恐怖とかそういうモノは感じられない。

 むしろその゛何か゛は、今の彼女のとってある種の救いを提供しに来たのである。

 

 

―――――その娘は…逸材だというのに……普通の人と同じ…人生を歩ませ…なんて、宝……持…腐れ……

 

 

 赤と黒の世界に佇む彼女は、尚も頭の中で響く声にある感情を見せ始める。

 それはおおよそ―――例え声だけだとしても、他人に向ける代物とは思えないどす黒い色をした感情。

 ゲルマニアにある工業廃水と同じような色をしたソレを声だけの相手に浮かべる理由を、彼女は持っていた。

 そう。最初に自分の頭の中を混乱に陥れようとしたソレとは違う、二度目の゛何か゛が教えてくれたのだ。

 

 ゛全ての原因は、オマエの頭の中に響き渡る声の主にあるのだ―――゛…と。

 

 

 自分の身に何が起こっているのかという事に関して、彼女が最初から知っている事は何一つ無い。

 彼女はただ自身が誰なのかも知らず、自分自身に戸惑いながらここまで生き延びた。

 気づけば森の中を何に追われ、小さな少女に介抱されたと思いきや、その子を抱えてまた逃げて…

 そうこうしている内に人気の多い場所へと足を踏み入れたと彼女は、自分とよく似た姿をした少女と遭遇した。

 自分よりも感情的で、猫の様に一度掴めば狂ったように手足を振り回す彼女の名前は――――霊夢。

 何故自分が;霊夢の名前を知っていて、瓜二つの姿をしているという事は勿論知らない。

 最初に出会った時は明確な怒りをもって霊夢を殺そうとしていたが、今はもうその気にならない

 たが今になって自分がとんでもない勘違いをしていた事に、彼女は気づいていた。

 

 自分の中に渦巻く怒りが「殺せ」と叫んでいたのは、霊夢の事ではなかったという事に。

 

 

 名前も知らず、何処で生まれ、今まで何をしてきたのかも知れない彼女はその足を動かす。

 先程まで地面と空気に縛られていた足がすんなりと動き、未だ口論を続ける霊夢とルイズへ突撃する。

 そのついでに使う必要のないナイフを捨て、空いた右手で拳を作った彼女は、自分が倒すべき゛紫の色の影゛を見据える。

 今まで見える事のなかったソレは、記憶の一部を取り戻した事により今ではハッキリと見える。

 実体すら定かではないその゛存在゛は寄り添うようにして霊夢に纏わりつき、べったりと寄り添っている。

 まるでその体に貼りついて生気を吸い取らんとしているかのように、ゆっくりと蠢いたりもしていた。

 不思議とそれを目にすると何故か無性に腹立たしくなり、誰かを殴り倒したくなる程度の怒りも込み上げてくる。

 

 自身の怒りが殺せと連呼していたのは、霊夢の事ではない。

 彼女は今にして思い出した――――殺すべきなのは、霊夢の後ろに纏わりつくあの゛影゛だという事に。

 

 

 

 さっきまで体に纏わせていた゛曖昧な殺意゛が゛明確な殺意゛に変異し、それを合図に彼女は霊夢に殴り掛かった。

 否…正確には彼女―――――偽レイムだけにしか見える事のない゛紫色の影゛へと。

 

 

 ◆

 

 

 その攻撃は、場違いな口論をしていた二人にとって不意打ち過ぎた代物であった。

 最も、ケンカすることを控えて警戒していれば回避できたという事は、言うまでもないが。

 

「っ…!?―――――――ワッ…!!」

 やや泥沼化の様相を見えさせていたルイズとの会話の最中、偽レイムの方から濃厚な殺気が漂ってきた。

 咄嗟にその方へと顔を向けた霊夢は、驚愕しつつも寸での所で相手の攻撃を回避する事ができたのである。

 瞬間的に体を際メイル程後ろへずらした直後…相手の右拳が視界の右端から入り、左端へと消えていく。

「ちょっ――キャアッ!」

 霊夢の隣にいたルイズは回避こそできなかったものの、偽レイムの攻撃を喰らう事は無かった。

 その代わり、突撃してきた偽レイムにひるんでしまったのかその場で盛大な尻餅をついてしまう。

 一方の偽レイムはそんなルイズに目もくれず、自分の一撃を回避した霊夢を睨んでいる。

 霊夢と同じ赤みがかった黒い瞳は光り続け、それどころか先程と比べその輝きを一層増している。

 まるでその目に映る相手が親の仇と言わんばかりに、彼女の両目を光り続けていた。

 

「人が話し合ってる最中に攻撃なんてね…私はそんな常識知らずじゃないんだけど?」

 三メイル程度後ろへ下がった霊夢は、振りかぶった姿勢のままで停止した偽レイムの右手を一瞥する。

 殺人的と言える速度を出したその拳に、既に汗で濡れている彼女の背筋に冷たい何かが走る。

 それと同時に、偽レイムの体に纏わりついている気配が先程までのモノとは違う事に気づく。

 

 最初に出会った時は、激昂していた霊夢とは違いやけに冷静な怒りに包まれていた彼女の偽者。

 ところが、ルイズと口論した後のヤツは冷静さこそ失われてはいないものの、その怒りにハッキリとした゛殺意゛が含まれている。

 まるで興奮していた切り裂き魔が、時間経過と共に落ち着きを取り戻し体勢を整えたかのように。

 先程までの戦いやルイズに手を出そうとした時とは違い、今度はしっかりと自分の命だけを狙って殴り掛かってきた。 

(何よコイツ…本気出すなら最初から出してきなさいっての)

 今までとは打って変わって攻撃してくる偽者に毒づきつつ、本物は先程の攻撃を手短に分析する。

 

 突然の奇襲となった相手の拳は結界を纏っていなかったものの、その威力事態は凄まじいのだとわかる。

 もしも回避が一秒でも遅れていたら…と事すら考える暇もなく、霊夢はすぐに戦闘態勢を整える。

 相手が襲ってきたのなら対応するしかないし、もとよりこの場で退治するつもりであったのだ。

 

(まぁ…色々とイレギュラーな存在が紛れ込んじゃったけど、今は目の前の敵に集中しないと駄目よね)

 気持ちを瞬時に一新させた彼女は左手にもったナイフを握り締め、目の前にいる偽レイムと対峙する。

 しかしその直後、襲ってくる直前まで隣にいたルイズか゛今どこにいるのか゛を知り、咄嗟の舌打ちが出てしまう。

(こういう時に限って、あぁいう邪魔なのがいるのはどうしてなのかしら…!)

 今日は本当にツイてない。自分の身やその周りで起こる色々な出来事全てが悪い方向へ向いてしまう。

 下手に動けばルイズが死ぬかもしれないという状況の中で、霊夢は動き出せずにいた。

 

 

 一方尻餅をついてその場を動けないルイズは、目の前にいる偽レイムを見上げていた。

 鳶色の瞳を見開かせた両の目には確かな恐怖が滲み出ており、僅かだが体も震え始めている。

 魔理沙の首を絞め、霊夢が介入しなければ自分を絞殺していた存在がすぐ傍にいるのだ。恐怖しない方がおかしい。

 

 先程までは強気になって魔法を放てたものの、今の状況では呪文を唱えるより相手が自分の頭を殴り飛ばす方が圧倒的に速い。

 魔法に詳しい故に長所と短所も知っているルイズだからこそ、その手に持ったままの杖を振り上げる勇気が無かった。

 

「あ…あ…あぁ…」

 ジワジワと心を侵していく緊張と恐怖のあまりに大きな声を出せず、ガラスで黒板を引っ掻いたような掠れ声だけが喉から出る。

 本当なら今すぐにでも叫び声を上げて逃げ出したい――そう思いつつも彼女の体は動こうとしない。

 彼女にとって突然過ぎた敵の攻撃と、今すぐ殺されるのではないかという恐怖という名の縄に締め付けられている。

 

 しかしそれ以上に、胸中に刻み込まれた一つの言葉が今の彼女をこの場に押し留めていた。

 脳内に響くそれを発言した者は、ここへ至る道中にルイズと魔理沙を止めようとした八雲紫である。

 

 

 ―――――――――もし今後も怯えるだけなら、霊夢の傍につくような事はやめなさいな 

 

 

 相手を諭すように見せかけ、挑発とも言える人外の声は先程までのルイズに投げかけた一種の挑戦状。

 霊夢を召喚した結果に起った異変を解決するにあたり、紫は今までの彼女では足手纏いと判断したのだ。

 

 学院から離れた森の中でキメラに襲われた際、ルイズは戦うどころか杖を構えることなく臆している。

 偉そうな事を言いつつも、いざとなれば年相応の子供となり、怯える事しかできない彼女の姿は大妖怪の目にはどんな風に見えたのだろう。

 ともかくそれを「ドコで」見ていたのかは知らないが、霊夢にも感知できない「ドコか」で見て、その結論に至ったのかもしれない。

 その言葉には、幻想郷で起きた異変を解決する為にも、今のところ必要なルイズの身にもしもの事が起きない為に、という配慮も見え隠れしている。

 

 しかしルイズは、自分がこれ以上に霊夢達に守られるという事はなるべく避けたかったかったのである。

 キッカケだけとはいえ、霊夢を召喚してしまった自分も原因の一端である事に間違いない異世界の危機。 

 ハルケギニアより小さいとはいえ、下手すれば返しきれない借りがある彼女達の居場所を奪ってしまうかもしれないのだ。

 もはや戦いを傍観する側ではない。あの妖怪の前で宣言したルイズはなんとか勇気を振り絞って立ち上がろうとする。

 

(私だって…戦えるのよ!私を助けてくれたレイムやマリサみたいに)

 紫の声が幻聴となって聞こえるなか、自らの恐怖と戦い始めたルイズは知らない。

 時と場合によっては、その勇気が取り返しのつかない危機を生み出す原因なってしまう事を。

 そして…戦いの場において恐怖に対し素直になるという選択肢も――――決して悪くないという事も。

 

 

 

 

 例えばの話だが、ある所に命を懸けた戦いをしている戦士がいるとしよう。

 

 限られた武器と足手纏いとも言える者たちが周りにいる中、戦士の相手は凶悪な怪物。

 明確な殺意をもって戦士の命を仕留めようとする、無慈悲な殺人マシーンだ。

 戦士は足手纏いな者たちを守りつつ怪物を倒すことになるが、それはとても大変な事である。

 

 戦う必要のない者たちは自分たちも戦える豪語しつつ、各々が勝手に行動しようとするからだ。

 そうすれば戦士はいつものペースで動くことができないが、一方の怪物は戦いを有利に進めることができる。

 例え向こうが多人数であっても、足並みを揃える事が出来なけれ文字通り単なる烏合の衆と化す。

 結果向かってくる奴だけを順々に片付ければ良いし、運が良ければ思い通りの戦いができない戦士をも殺せる。

 

 しかし、足手まといな者たちが一致団結して戦う事が出来るとすれば話は変わる。

 訓練された軍隊のように足並み揃えて一斉に襲ってくると、さしもの怪物も対処しづらくなるのだ。

 更にその隙を縫って戦士が強力な一撃仕掛けてくるとなれば、もはや勝ち目などない。

 

 一見すれば怪物側が有利な戦いは、実際のところたった一つの駆け引きで勝敗が左右する大接戦。

 相手の腹を探りつつどう動くべきかと考えあぐねるその時間は、当人たちにとっては命を懸けた大博打である。

 

 

 しかしそれを空の上から眺めてみれば、とても面白いゲームだとも思えるだろう。

 そう、自分たちが傷つくことのない場所から見れば、命を懸けた勝負すら単なるゲームになる。

 

 

「ふーん―――何だか見ないうちに、随分とややこしい事になってるじゃないか」

 旧市街地に並ぶ廃屋の屋上に佇む金髪の青年が、やけに楽しそうな調子で一人呟く。

 左右別々の色を持つ眼には、この廃墟群の出入り口で大騒ぎを繰り広げ始めた五人の少女達が映っている。

 彼が今いる位置ではやや遠すぎるかもしれないが、そんな事を気にもせず彼女たちの姿を見つめていた。

 

 旧市街地の入り口から少し進んだ先で、まるで決闘の場で対峙するかのように向かい合っている紅白の少女が二人。

 青年から見て旧市街地側に佇む紅白の少女の傍に、腰を抜かしているピンクブロンドが目立つ少女。

 そして少し離れた場所には、まるで野次馬の様に三人の様子を眺めている黒白の少女と燃えるような赤い髪の少女がいた。

 日も暮れ始めて来た為か肌の色までは良くわからなかったが、青年にとってそれは些細な事に過ぎない。

 今の彼にとって最も重要なのは、『三人』の姿が見れた事だけであった。

 

 五人いる内の中ですぐに安否が確認できるのは二人。黒白の金髪少女とピンクブロンドの少女だけ。

 三人目となる紅白の少女は二人いるせいで、どちらを見ればいいのか未だにわからない。

「一体どういう経緯で二人になったのかは知らないけど困るよなぁ~、あんな事勝手にされちゃあ…」

 僕の目が回っちゃうじゃないか、最後にそう付け加えた彼は軽く口笛を吹く。

 まるで観戦中の決闘に予期せぬ乱入者が現れた時の様に、興醒めするどころか楽しんでいるようだ。

 それは正に、安全かつ他人同士の殺し合いをしっかりと見届けられる場所で歓声を上げる観客そのものである。

 

 

 

「しっかし何でだろうな…一人しかいない筈の彼女に二人目がいるだなんて」

 落下防止にと付けられた鉄柵の上に両肘をつけた青年は、またもや呟く。

 彼以外にその疑問を聞く者はいないし、当然返事が来ることも無い。

 生まれた時代が違えば、目の色だけで見世物小屋にいたかもしれない青年にとって、単なる独り言であった。

 そう…単なる独り言だったのだ。

 

 

「私も良くは知らないが、アレに関してはお前たちの方は心当たりがあるんじゃないか?」

 気づかぬうちに、自分の後ろにいた゛者゛の言葉を聞くまでは。

 

 

「――は?」

 突然背後から耳に入ってきた声に、青年はその目を見開かせてしまう。

 しかし驚きはしたものの、数時間前に似たような事を経験をした彼は声が誰のものなのかを分析しようとする。

 良く透き通るうえに大人びた女性の声は、想像の範囲だがきっと二十代後半なのだろう。

 あるいはマジックアイテムが魔法で細工しているかもしれないが、実際のところは良くわからない。

 それよりも今の青年が気になる所はたった一つだけ。それは、どうやって自分の背後に近づいたのかという事だ。

 青年が経験した「数時間前に似たような事」というのは、正にそれであった。

 

 ◆

 

 時間をさかのぼり今日のお昼頃であったか。

 彼はちょっとした用事でブルドンネ街で買い物を楽しんでいた三人の少女を、旧市街地の教会から観察していた。

 その三人こそ、今の彼が屋上から眺めている「ピンクブロンドの貴族少女」と「黒白の金髪少女」。そして何故か二人いる「紅白の黒髪少女」である。

 望遠鏡を使ってわざわざ遠くから見ていた青年の姿は、他人から見れば通報されても仕方がないであろう。

 そのリスクを避ける為に人気のない旧市街地から覗いていたのだが、そこで変な事が起こった。

 何と誰もいなかった筈だというのに、突如自分の後ろから女の声が聞こえてきたのである。

 

 その後は色々とありその場は置き土産を置いて後にしたが、青年は観察事態を諦めてはいなかった。

 そもそも彼が三人を覗いてた理由である「ちょっとした用事」というのは、彼にとって「仕事の内の一つ」なのだ。

 だからその場を去った後は、三人の動きをしっかりと見張れる所に移動していたのである。

 そして三人が導かれるようにブルドンネ街からチクトンネ街へ行くところはバッチリと見ていた。

 不幸か否かチクトンネ街へ行った際に一時的に見失ってしまったが、数分前にこうして再開すことができた。

 偶然にも自分が昼頃にいた旧市街地へ舞い戻る事になったのは、一種の皮肉と言えるかもしれない。

 

 ◆

 

 そうこうして、良からぬ展開に巻き込まれた三人の様子を観察していて、今に至る。

(一瞬聞き間違いかと思ったが…どうやら僕の予想は正しかったようだ)

 彼は先程聞こえたものと、昼に聞いた声がそれぞれ別々のモノであると既に理解していた。

 今聞こえた声からは、昼頃に聞いたものとは違う゛凛々しさ゛を感じていた。

 昼の声は「貴婦人さ」というものが漂っていたが、今の声にはそれとは逆の…俗にいう「働く女性」というイメージがぴったりと合う。

 しっかりとした性格の持ち主で、上司に対しちゃんとした敬意を払うキャリアウーマンだ。

 自分とは正反対だな。月目の青年は一人そう思いながら、ゆっくりと後ろを振り返る。

 

 彼は予想していた。振り返った先には誰もいないし、それが当然なのだと。

 ただ見えるのは、落ちていく夕日と共に影に蝕まれる寂れた床だけなのだと。

 昼頃の体験もそうであったし、それと似通った部分が多い今の事も同じような結末を辿るのだと、勝手に決めつけていた。

 しかし、現実というのは時に奇妙で刺激的な事を不特定多数の人間に体感させる。

 一人から数十人、下手すれば数百から千単位に万単位、もっともっと大きければ国家単位の人口が奇妙な体験をするのだ。 

 今回、現実という日常的な神様は月目の青年に奇妙な「存在」を目にする機会を与えてくれた。

 

 そう…国を傾けかねない美貌と、この世界に不釣り合いな衣服を纏う「存在」と、彼は出会ったのである。

 

 

「君が口にしたややこしいという言葉は…残念だが私たち側も吐露したいんだがね」

 距離にして四メイル程離れた所に、明らかに場違いな金髪の美女が、腰を手を当ててそう呟いた。

 明らかにハルケギニア大陸の文明から作りえない青と白を基調にした衣装を身に纏った体は、まだ二十代前半といったところか。

 これまで生きてきた中で数々の女性と付き合ってきた彼が直感的に思いつつも、次いでその視線を美女の衣装に注いでいく。

 一目見ただけでもハルケギニアの民族衣装とも異なるが、蛮族領域に住む亜人たちや砂漠に住まうエルフたちの衣装とも印象が違う。

 どちらかと言えば東方の地から時折流れてくる衣服のカタログで、似たようなものを見たことがあったと彼は思い出す。 

 白い服の上に着ている青い前掛けには、大した意味が無さそうに見えてその実難解そうな記号が踊っている。

 もしかするとあれが東方の地で用いられる言葉なのかもしれないが、今の青年にはそれよりも気がかりな事が二つほど合った。

 

「――――コイツは驚いたね。さっきまで誰もいなかった場所に、僕好みの美人さんが立っているとは」

 見開いていた月目をスッと細めた彼は、両腕をすっと横に伸ばし冗談めいた言葉を放つ。

 大げさすぎるその動作を見た異国情緒漂う女性もまた目を細め、その口から小さな吐息を漏らす。

 反応だけ見ても呆れているのかこちらの動きを読んでいるのか、それすらハッキリとしない。

 こういう相手は綺麗でも付き合うのはちょっと遠慮したいな。彼がそう思おうとした直前、女性の口が開いた。

「良く言うよ…君は知っているんだろう?―――私がそこら辺にいる゛ニンゲン゛とは違うって事を」

「……?それは一体―――――!」

 夕闇の中、金色の瞳を光らせた彼女がそう言ったのに対し、ジュリオは怪訝な表情を浮かべようとする。

 だがその瞬間。目の前の女性を中心に、この場所ではやや不釣り合いと思える程度の匂いが突如漂い始めた。

 その匂いはこの建物を降りて適当な路地裏を歩けば出会いそうな連中が放っているモノと似通っている所がある。

 青年は仕事上そういう連中と接する機会が多いため、唐突に自分の鼻を刺激した匂いの正体を断定できる自信もあった。

 

 群れを成して路地裏に屯し、時として真夜中の街へ繰り出し生ごみを漁る大都市の掃除屋。

 おおよそ武器を持たなければ人間でも太刀打ちできない゛奴ら゛と似たような匂いを放つ金髪の女。

 それが意味するものはたった一つ――――――文字通りの意味で、女は人間ではないという事だ。

 

「もしかして君、常に体を清潔にしないタイプの人かい?」

 匂いの根源と、その理由を何となく把握できた青年は、ふと冗談を放つ。

 プロポーズどころかデートのお誘いですらない言葉に不快なものを感じたか、目を瞑った女はこう返す。

「生憎ですが私は主人と違い、そういうお話にはあまりお付き合いできませんよ?」

「そいつは残念だ。――――…おっと、ここまで話し合ったんだから名前ぐらい教えておこうか」

 女性の辛辣な返事に青年も素っ気ない言葉で対応したかと思えば、笑顔を崩さぬまま唐突な名乗りを上げた。

 

 

「僕はジュリオ…ジュリオ・チェザーレ。気軽に呼んでくれてもいいし様づけしたっていいよ?」

 青年、ジュリオの名前を知った女性は呆れた風なため息をつきつつ、その口を開ける。

「―――――八雲藍だ。別にどんな風に呼んでくれたって構いはしない」

 憂鬱気味な吐息を漏らした口から出た言葉は、今の彼女を作り上げた主からの贈り物。

 遠い昔の時代に、東の大陸で跳梁跋扈した妖獣の一族である彼女の今が、八雲藍という存在であった。

 

 

 

 

「おぉ…。さっきとは打って変わって、奴さん積極的じゃないか」

 

 明らかに先程とは動きの違う偽レイムの後姿を眺めつつ、魔理沙が気楽そうに言った。

 先程までこちらに背を向けている相手に殺されかけたというのに、その言葉から緊張感というものを殆ど感じられない。

 流石に物凄い勢いでナイフを放り投げ、口論を続けていた霊夢とルイズに急接近した時は軽く驚いたが、今はその顔にうっすらと笑みを浮かべている。

 

 箒を右手に持ち、キュルケの隣に佇むその姿はすぐに戦えるという気配が全く見えない。

 自分に危害が及ぶ事が無いと分かっているのか、それとも知り合いである巫女が勝つことを予想しているのだろう。

 とにもかくにも、この場には不釣り合いと言えるくらいに、魔理沙は霊夢達の動きを傍観していた。

 

「さて、この似た者同士の勝負。どちらが最後まで立ってられるかな」

「三人して同じ部屋で暮らしているというのに、観客様の気分で見ているのね貴女は…」

 すっかり回復し、楽しげな言葉を放つ魔理沙とは対照的に、その隣にいるキュルケは安堵することができなかった。

 

 

 下手すれば死んでいたかもしれない黒白がどんな態度を見せようとも、彼女とって今の状況は゛非日常的な危機゛であることに変わりはない。

 急な動きを見せた偽レイムの傍には抜かした腰に力を入れて立とうとするルイズがおり、そんな二人から少し離れた所に本物の霊夢がいる。

 もし立ち上がったルイズが下手に動こうとすれば、突然殴り掛かってくるような相手に何をそれるのかわからない。

 その事をキュルケ自身が察する前に霊夢も気づいているのだろうか、ナイフを片手に身構えた状態からその場を一歩も動いていない。

 一方の偽レイムも先程まで霊夢達がいた場所から動いてはいないものの、いつでも仕掛けられるよう腰を低くしている。

 正に先に動いたら負けという状況の中にいる三人を不安そうな目で見つめているのが、今のキュルケであった。

 

(本当に参ったわね…いつもとは全く違う刺激があるのは良い事だけど…あぁでもこういうのは良くないわ)

 少しだけ似合っていない魔理沙の微笑を横目でチラチラ見つめつつ、手に持った杖をゆっくりと頭上に掲げていく。

 それと同時に多くの男を虜にする艶やかな声でもって素早くかつ正確に、呪文の詠唱を始める。

 別にあの三人の戦いの輪に巻き込まれたいという、自殺願望に近い何かを胸中に抱いているワケでは無い。

 ただキュルケ本人としてはどうしてこんな事になっているのか知りたいし、その目的を達成するためにはルイズの存在が必要だ。

 恐らく、自分が巻き込まれたであろう刺激に満ちた今の事態の発端を詳しく話せるのは彼女しかいないであろう。

 なら彼女の使い魔と居候となっている黒白でもいいかもしれないが、部外者である自分に話してくれる可能性はかなり低い。

 そこでワザと彼女らが直面している事態に首を突っ込み、彼女らと同じ場所に立つ。そんな計画がキュルケの脳内で出来上がっていた。

 故に彼女は決断していた。この刺激的な一日の最後を飾るであろう魔法を、偽レイムにお見舞いしてやろうと。

 

 幼少の頃に覚えたスペルの発言は数秒で済み、短くとも今この場で最適と思える魔法の発動が準備できた時、魔理沙が声を上げた。

「あ、お前も混じるのか。何だか随分と賑やかになってきたじゃないか」

 まるでこれから起ころうとしている事を知っているのか、彼女の顔にはその場にそぐわない喜色が浮かんでいる。

 実際、この世界へ来て数週間ほどしか立ってない魔理沙にとってキュルケの魔法を見るのはこれが初めてなのだ。

 

 

 しかしそんな彼女にとうとう嫌気がさしたのか、嬉しそうな黒白に向けてゲルマニアの留学生魔理沙の方へ顔を向け、目を細めて言う。

「本当に呆れるわね貴女。…こんな状況でそんな表情と態度を出せるのは一種の才能なの?」

「私から見れば、これから死出の行軍に出ようとしているようなアンタの顔が、ちょっと見てられないぜ」

 遠まわしに空気を読めという解釈にも取れるキュルケの言葉を聞いても、魔理沙の態度は変わりはしない。

 それどころか、緊張しすぎている彼女を笑わせようと灰色の冗談を飛ばしてくる始末であった。

 

 もはや怒るどころか呆れるしかないキュルケは、ため息つく気にもなれず相手を見下すかのような表情を浮かべる。

「そう…じゃあそこでずっと見ていなさいよ?何が起こっても私は助けないけどね」

 私にとって貴女は、まだ得体の知れない相手なんだから。最後にそう付け加え、キュルケは偽レイムの方へ顔を向ける。

 

「生憎だがアレは不意打ちだったんだぜ。それにお前が手を出すと霊夢が嫌がるかもよ?」

 まぁそれはそれで見ものだけどね。魔理沙もまたそんな言葉を付け加え、キュルケに助言を送る。

 しかし魔法使いからの言葉を聞き流したキュルケは、今か今かと攻撃のタイミングを伺っている時であった。

 日常からやや抜けた刺激を活性化させる為に、常人では考えもしない異世界の事件に首を突っ込もうとしている。

 その結果に何が待ち受けているのかは知らないが、キュルケ自身は後悔しない筈だろう。

 

 後戻りができそうにない、非日常的な刺激こそ……彼女が求めてやまぬ心身の特効薬なのだから。

 

 

 

 あぁ。やっぱり今日は、あまりにも運が良い方に向いてこない。

 一人で片付けるはずだった問題に三人もの異分子が紛れ込み、個人的に歓迎できない事態へと変化している。

 他人というのは好きでもないが嫌いでもなく、まぁ自分がイラつくような事をしなければ危害を加えたりはしない。

 もしも自分の邪魔をしたり過度のちょっかいを掛けてくるというのならば、それ相応の対応をとるだけのこと。

 しかし悲しきかな、今の自分をイラつかせる相手は…下手な行動一つで死んでしまうかもしれないのだ。

 

(そのまま座ってなさいよ…!っていうか、何で後ろに下がろうとしないの?)

 自らが直面している状況に憤慨の思いを吐露しつつ、霊夢は心の中で祈りを捧げている。

 彼女に安全祈願を向けられているのは、ワザワザ自分から危険な事をしようとしているルイズであった。

 先程、唐突な奇襲を仕掛けてきた偽レイムのすぐ横にいる今の彼女は、いわば大きな爆弾。

 油で塗れた導火線に火がつき、大爆発を起こす様な事があれば今よりも更に面倒くさい事になってしまうだろう。

 無論霊夢自身も下手に動くことができず、相手の動きを観察している。

 そして火種である偽レイムはというと、光り輝く赤い目で霊夢を凝視し続けていた。

 まるで油の切れたブリキの人形みたいに少し身構えた姿勢のまま、本物である彼女がいた場所に佇んでいる。

 ナイフを投げ捨て、素手で殴り掛かってきた事には驚いたが、今では驚く暇も無い。

 馬鹿みたいな冷静さを纏わせたその顔と目と…そして体からの気配を察知した霊夢は、改めて思った。

 コイツは危険だ。早いうちに何とかしないと命に関わるぞ―――と。

 

「とはいっても…今の状況で動いたらルイズだって動くだろうし」

 しかし霊夢はそれでも攻撃を仕掛けようとは思わず、右足の靴でトントンと地面を叩きながらどうしようかと思考する。

 お札や弾幕と違い、慣れない武器を使ってアレを短時間で倒せるとは思えず、ましてやあのルイズが近くにいるという状況。

 下手に接近したら巻き込まれるだろうし、何より爆発しか出せない彼女の魔法は危険なのだ。

 ぶっ倒してやると意気込んで突撃し、無駄な死で人生の終わりを迎えたくは無いのである。

 

「かといってこのままだとルイズが勝手に攻撃しそうなのよねぇ」 

 いよいよもって立ち上がろうとするルイズの姿を見て、彼女はうんざりしたと言いたげにため息を突く。

 この年の四月に始まり、今もなお続く幻想郷での異変を引き起こした名家生まれの末っ子の少女。

 彼女が下手に動いて死ぬような事があれば、元から難しい異変解決は更に難易度を増す。

(このままじゃ埒が明かないしし…性に合わないけど、突っ込んでみようかしら?)

 ナイフを握る手に力を込め、待ちかまえる相手に切りかかってみようかと思った。その瞬間であった。

 

「ファイアー…ボール!」

 

 偽レイムの後ろから、艶やかな女の声が呪文としての形を成して聞こえててくる。

 一体何なのかと思ったか、偽レイムとルイズがハッと後ろを振り向いた瞬間、両者共に驚愕の表情を浮かべた。

 そんな二人の近くにいた霊夢も、先の二人と同じ様な表情でもって飛んできた『ソレ』を凝視する。

 彼女らの方へと真っ直ぐに飛来してくる『ソレ』の正体…それは轟々と燃える、大きな火の玉であった

 牛の頭程の大きさの物体が、燃え盛りながら突っ込んでくる。

 『ファイアー・ボール』…それは四系統ある内で、最も戦いに優れると言われる火系統の魔法。

 放ったメイジの力にもよるが並み以上の者であれば、この魔法はかなり恐ろしい武器へと変貌する。

「っ…!」

「きゃっ」

 当たったモノを焼き尽くすかのような極小サイズの太陽が、こちらへと飛んでくる。

 それを先に理解したのは偽レイムであり、彼女はその場で地面を蹴って勢いよく横へと跳ぶ。

 一方、立ち上がったばかりのルイズは偽レイムほど体が動かない為か、小さな悲鳴を上げてもう一度地面に倒れた。

 実技はてんで駄目であるが座学には自信がある彼女は、ファイアー・ボールが怖ろしい魔法だと知っている。

 流石に自分を狙っているワケは無いと思ってはいたが、直撃する可能性は大いにあった。

 だからこそ地面に倒れたのが、結果としてその選択肢が彼女の命を救ったとも言っていいだろう。

 

 二人の人間に避けられた火の玉は真っ直ぐに…その先にいる霊夢目がけて飛んでいく。

 妖怪退治や異変解決をこなしてきた彼女も、流石にこの時は驚かざるを得なかった。

 何せ大きな火の玉がかなりの速度で飛んでくる。それに対し彼女の勘が先程よりも凄まじい警鐘を鳴らしている。

「ちょっ!まっ…!」

 慌てたような声を上げつつその場しのぎの結界を貼り、何とかその玉を跳ね返そうとする。

 ある程度の疲労が溜まっていた上に火の玉の速度も速い故、回避が間に合わないと判断したのだ。

 しかし、僅かな時間でくみ上げた薄い結界は、火の玉を防ぐという役目を果たす事はなかった。

 

 何故なら火の玉は、霊夢の結界に当たるまで後一メイルというところで急に止まったのだ。

 まるで走っている馬車の手綱を引いて急ブレーキを掛けたかのように、ぐっとその球体が大きく揺れる。

 突然の事に霊夢がキョトンとした表情を浮かべる暇もなく、ストップした火の玉がゆっくりとバックし始めた。

 一体何事かと思った瞬間、火の玉の速度が再度上がり、先程避けた二人の内一人の方へと飛んでいく。

 その一人こそルイズよりも先に相手の攻撃を察知し、回避していた偽レイムであった。

「なっ…くっ!」

 先程と同じ勢いでこちらに突っ込んでくる火の玉を見て狼狽えたのか、彼女の目が一瞬だけ丸くなる。

 しかしすぐに元に戻ったかと思うとその場で軽く身構え、火の玉を迎え撃とうとする。

 その様子を見て何か可笑しいと思ったのだろうか、偽レイムに向けてこの場にいる一人が声を上げた。

 

「残念ですけど。私のファイアー・ボールはいくら避けても無駄でしてよ」

 艶やかな声と、火の玉と同じ色をした赤く燃えるような色のロングヘアーに褐色の肌。

 その特徴を持つ彼女―――キュルケがそう言った直後、小さな爆発音が周囲に響き渡る。

 地面に倒れていたルイズがそちらの方へ向けると、すぐ後ろで黒い煙がゆっくりと薄暗い空へと上っていく。

 まるでそこだけ切り取ったかのように煙が立ち込める場所は、身構えたばかりの偽レイムが立っていたところ。

 つまり、原因は知らないが偽レイムとぶつかったファイアー・ボールが爆発したのだと考えるのが妥当だろう。

 

「あらあら、どうしたのかしらヴァリエール?また倒れるくらいにここの地面が好きになった?」

 そんな時であった、思わぬ援護をしてくれたキュルケが声をかけてきたのは。

 明らかに挑発と取れるそれにルイズはムッと表情を見せると上半身だけを地面から上げ、口を開く。

「この馬鹿ツェルプストー!下手したらアタシが火達磨になるところだったじゃないの!?」

「御免なさいねヴァリエール。貴女は見た目通りに素早いから避けてくれると思ったのよ」

「…それって、アタシが小さいって事かしら?」

 甲高いルイズの抗議に対し、勝者の余裕を見せるキュルケは前髪をかき上げつつ言葉を返す。

 助けられたのは良いが同時に馬鹿にされている事に、ルイズの表情は険しくなっていく。

 親友であり好敵手である彼女の顔色を見て、キュルケはふぅ一息ついた。

「全く、せっかく助けてあげた私に文句垂れるなんて…貴族としてのマナーが成ってないわね」

「いやいや、当たったら火達磨になるような魔法をぶっ放されたら誰だって怒るぜ?」

 見事なまでに自分の行いを棚に上げるキュルケに、横にいた魔理沙が静かに突っ込みを入れる。

 黒白の魔法使いの顔に喜びの色が浮かんでいる事から、キュルケのファイアー・ボールを見れたことに満足はしているようだ。

 それで今更と言わんばかりに突っ込むその姿は、裁判所の証言台で犯人を非難する元共犯者である。

 自分の事を擁護してくれたが、キュルケを止めようともしなかった魔理沙を睨みつつ、ルイズは苦言を漏らす。

「マリサ。…言っとくけどそんな顔してキュルケを非難しても、全然嬉しくないわよ」

「私は自分の感情に素直な人間だからな。キュルケの魔法を見れてついつい喜んでるだけだよ」

「あら、以外と面白い事言うじゃないの?いいわねぇ、キライじゃないわそういう性格」

「…先に言っとくが、私にそういう性癖は無いからな」

「ちょっと!私を置いて何二人で和気藹々と話し合ってのよ!」

 勝利の後のムードを漂わせる二人の間で板挟みとなるルイズの叫び。

 それを離れた所から見つめている霊夢一人だけが、目を細めて警戒し続けている。

 

(よくもまぁ、あんなに騒げるわね。まだ終わってもいないというのに…)

 彼女は既に気づいていた。あの程度の攻撃ではまだヤツを仕留めきれないと。 

 何せ自分と瓜二つなのである。それならば、キュルケの魔法でやられるとはそう考えられない。

 いつでも動けるようにと身構えた姿勢を崩さぬ彼女であったが、そんな時に限って邪魔が入るものだ。

「私がうまく避けられたからいいものの、下手したらトリステインから永久追放されてたわよ!?」

「それって私たち以外の第三者でもいないと無理じゃないかしら?」

「確かにそうだな。下手に喋って共犯者扱いでもされたら堪らないぜ」

「ちょっと待ちなさい。さっきのアンタはどう見ても、キュルケの凶行を許した共犯者じゃない?」

「まぁアレだよ。どっちにしろお前は怪我一つしなかったし、結果的に問題なしという事で…」

 多少の安心感を取り戻したルイズが怒鳴り、キュルケと魔理沙はマイペースで彼女の相手をする。

 一見、ちょっとしたガールズトークをしているようにも見える中、霊夢が一人呟く。

 

「そんなにお喋りしたいなら、このまま帰ってくれると有難いんだけどねぇ…」

 変に盛り上がり始めたルイズ達の耳に入る巫女の言葉は、氷水のような冷たい雰囲気を放っていた。

 場の空気を白けさせるような彼女に対し、背中を見せていたキュルケがゆっくりと振り返る。

 

「ちょっと~、一人放置されてるからって拗ねるの…は―――――…ッ!?」

 大方挑発でもしてみようかと思っていた彼女の顔が突如として、驚愕の色に染まる。

 そして、急に言葉が途切れた事に不思議がった後の二人もそちらを見やり、同じ反応を見せた。

「嘘でしょ…あんなの喰らって…まだ…」

 目を見開き、小さな両手で口を押えたルイズに同調するように、魔理沙も口を開く。

「流石霊夢とそっくりなだけあるぜ。往生際の悪さまで同じとはな…」

 似すぎるのも問題だな。最後にそう言い加えた魔法使いの苦笑いは、場の空気を読んでいた。

 

 薄くなる黒煙の中、霊夢が目にしたのは赤く光る双眸であった。

 どうやら攻撃してきたキュルケではなく、自分を優先的に殺したいのだと彼女に自覚させる。

「成る程…今のアンタにとって、他の三人はもう視界に入らないってことなのね」

 ゆっくりと空に舞い上がっていく煙の奥にいるであろう相手に、博麗の巫女は囁く。

 それを合図にしてか、しっかりとした歩みで煙の中から゛彼女゛は再び霊夢の前に現れた。

 両の拳を青白く光る結界で覆い、煤けた巫女装束と頑丈なロングブーツをその身に纏った霊夢と瓜二つの少女。

 ただ一つ違うところは赤く光る両目と、頭に着けたリボンが無くなっているという事だ。

 前者は元からであったが、後者の方は恐らくキュルケの魔法を防いだ代償として消し飛んだのだろう。

 年相応とは思えぬ彼女の力の一部を正面から喰らったうえでそれだけで済むならば、安いものかもしれない。

 しかし、その代償を支払ったことにより彼女――――偽レイムの印象は本物と比べ大きく変化していた。

 

 先程までリボンで拘束され、ようやく自由を得た黒髪がサラサラと風に揺られている。

 まるで黒いカーテンの様に波打ち模様を見せる髪に霊夢は何も言わず、ナイフを構える。

 すると不気味に光り輝いているガンダールヴのルーンがより強く輝き、彼女の顔左半分を青白く照らしつける。

 

 …武器を取れ―――構えろ―――斬りつけ、倒せ―――

 

 頭の中で性別不明としか言いようのない声を聞きな゛から、霊夢はひとり「言われなくても…」と呟く。

 これ以上事態が悪化すれば面倒な事にもなり得るし、何よりルイズたちという厄介な存在もいる。

 だからこそ彼女は決意した。今手に持っている武器を用いて、勝負に打って出てやると。

  彼女の動きにつられて偽レイムも腰を低くしたところで、霊夢は行動に出た。 

「そこまでして私と戦いたいというのなら、こっちから相手してやるよ」

 最後の警告と言わんばかりの言葉を吐き出した霊夢は、ナイフ片手に突撃した。

 対する偽レイムも、結界に包まれた左手にグッと力を入れた後、地面を蹴飛ばすようにして跳躍する。

 離れた所から見ていたルイズたちハッとした表情を浮かべ、両者の決着を見届けようとした。

 その瞬間であった。まるで見計らったように霊夢がその場で足を止めて、飛び上がったのは。

 

 偽者とは違って能力によって足が不自然に地面から離れ、スッと跳び上がった偽レイムの方へと飛んでいく。

 次いで左手のナイフを逆手に持ち替えると空いている右手を前に突き出し、左手を腰元に寄せて力を入れる。

 ふと顔を上げれば、自分よりも高く跳んだ偽レイムが交差した両腕を光らせ、こちらに向かって落ちてくるのが目に入る。

 ガンダールヴのルーンが光る左手により一層の力を込めた霊夢はその場で動きを止め、逆手のナイフを勢いよく振り上げる。

 それと同時に偽レイムも左の拳を勢いよく振りかぶり、本物の頭へと力強く殴り掛かった。

 

 昼方から夕暮れまでの、数時間通して続いた巫女とミコの戦い。

 その決着はあまりにも一瞬でつき、そしてあまりにも納得の行かない終わりを迎えた。

 

 

 既に陽が落ちかけ、赤と青の双月が大陸の空へ登ろうとしているこの時間。

 人が消えた旧市街地へと続く入り口で、パッと赤い花びらの様な血が飛び散った。

 

 まるで情熱を具現化させたような真紅の薔薇と同じ色の体液が、薄暗い空に舞い上がる。

 それに混じるかのように、おおよそ空を飛ぶとは思えぬ五本の突起物を付けた丸い物体がクルクルと回転しつつ、地面に落ちていく。

 妙に柔らかく、それでいて生々しい嫌な音を立てて落ちてきたのは―――――人間の゛左手゛。

 手の甲に穴が空き、そこと切られた手首部分からドクドクと赤いを血を流す、彼女の一部゛だった゛モノ。

 

 

 ついで浮き上がっていた血の雨が地に落ち、ぴたぴたぴた…と雨の様な水滴音を奏でている。

 嫌というほどルイズたちの耳に赤い雨の音が入ってきて数秒後であった。――――偽レイムの叫び声が聞こえたのは。

「ウワァァアアッ…!!ウゥ…アァアアアアッ…―――――!」

 おおよそ少女の上げる叫びとは思えぬ程、それは痛みに泣きわめく悲鳴ではなく、むしろ堪えようとして上げる怒号に近い。

 相手に手首から下を切り落とされた彼女はそこを右手で押さえつつ、彼女は涙すら流さず叫び声を上げている。

 今の彼女を真正面から見ている者がいたのならば、これ程不気味な光景は滅多に無いと感じた事であろう。

 そして今の自分が完全に不利だと悟って撤退しようとするのか、偽レイムは呻き声を上げつつも弱々しく立ち上がる。

 本来ならば生死に関わる致命傷のうえに、左肩に刺さったままのナイフを通して流れる血の量も含めれば、いつ死んでもおかしくはない。

 それでも彼女は立ち上がると左肩のナイフをそのままに、よろよろと歩きながら近くの路地裏へと向かっていく。

 足をもたつかせ、夜の帳に包まれた狭い隙間へと逃れるその身を見つめる者は、誰一人としていない。

 

 

 何故なら今のルイズたちには、それよりも先に気になる者を見つめていたのだから。

 そう…偽レイムの左手を切り落とす直前に、彼女に頭を殴られ血を流す博麗霊夢の姿を。

 

「れ…レイム…」

 鳶色の瞳を丸くさせたルイズは丁度自分たちの足元で着地し、その場に腰を下ろしている巫女に、恐る恐る声を掛ける。

 震える声で自らの名を呼ぶ彼女に、頭から血を流し続ける霊夢は力の籠っていない声でぼそぼそとした言葉を返す。

「想定外だったわ。まさか…瞬間移動する…霊力も残ってなかったなんて……ね…」

「だったら最初からスペルカードなり使っとけば、そんな大けがしなくても済んだんじゃないか?」

 その顔に自嘲的な笑みを浮かべて喋る彼女に、今度は魔理沙が口を開く。

 気取ろうとしているがルイズと同じように声が震え、その腕が彼女の体を支えようと前へ前へと動いている

 左手から力を抜き、握ったままのナイフを地面に落とした霊夢は、そんな魔法使いにも声を掛ける。

 今まで光っていたガンダールヴのルーンはいつの間にか既にかその輝きを失い、ただのルーンへと戻っていた。

 

「相手が相手よ…上手く避けられて…返り討ちに、あったら…元も子も無いじゃないの…」

「…っというか、最初から全部話してればこういう事にはならなかったでしょうに?」

「ばか…言う、んじゃ…――ない、わよ…」

 ルイズたちの後ろから聞こえてくるキュルケの横槍に、霊夢は苦々しい言葉を贈ろうとする。

 しかし、偽レイム程でもないがそれなりの怪我を負った彼女には、これ以上喋る力は残っていなかった。

「アンタたちと、一緒なら……まだ、一人の…方が…―――――」

 せめて最後まで言い切ろうとした直前、かろうじて開いていた瞳がゆっくとり閉じ、霊夢は意識を失った。

 

 ルイズは悲鳴の様な声を上げて彼女の名を叫び、箒を落とした魔理沙が倒れ行く巫女の体を支える。

 流石の魔法使いもこの時ばかりは焦った表情を浮かべ、霊夢の名を呼んでいる。

 

 残されたキュルケは、今になって偽レイムがいなくなった事に気づくが、それは後の祭りというモノ。

 ほんの少しだけ驚いた表情を浮かべて辺りを見回すが、もう何処にもいないと知るやため息をつく。

 今の彼女は何処へ消えた得体の知れぬ偽者よりも、目の前の三人の事が知りたかった。

 生まれた時から好敵手であり、これまで学院で何度も戦ってきたヴァリエール家の末女であるルイズ。

 しかし彼女は変わった。自分の目に入らぬ場所で好敵手は、今や得体の知れぬ少女の一人と化していた。

 

 彼女は知りたかった。先祖から続く因縁の相手がどういう状況にいるのか。

 視界を覆う濃霧の様な幾つもの謎を振り払い、自分の近くで何が起きているのか知りたい。

 それは人間が本来持つ好奇心を人一倍強く持って生まれた、キュルケという少女の望みであった。

 

 しかし、今ここでそれを問いただすという事をする気も無かった。

 生まれてこの方、ある程度好き放題に生きてきた彼女でもこの場の空気を読めてないワケではない。

「全く、こんな状況で流石に根掘り葉掘り聞くってワケにいかないわよね?」

 そんな事をルイズたちの後ろで一人呟きつつ、彼女はこれからどうしようかと考え始める。

 そんな時、彼女の耳にこの場では似合わぬ声が聞こえるのに気付き、すぐに振り返る。

 

 日も暮れて、初夏の暑い熱気が涼しい冷気へと変わっていく旧市街地。

 自分たちよりも一人頑張り、そして傷ついて倒れた巫女の名が響き渡る中…

 振り返ったキュルケが目にしたものは、こちらへと駆けてくる衛士たちの姿であった。

 

 

 

 時間をほんの少し遡り、数分前―――――

 キュルケが偽レイムへファイアー・ボールを放つ前の出来事―――――

 

 珍しくジュリオの気分は高揚していた。初めて目にする存在を前にして。

 ましてや、それが国を傾かせる程の容姿を持つ美女の形をしているのなら尚更であった。

 場所が場所ならちょっと一声掛けていたかもしれない。彼はそんな事を思いつつ、女に話しかける。

「こんなにも良い夜に会えるなんてね。正にグッドタイミング…って言葉が似合うかな?――無論、君にとってもね」

「あぁそうだな。私は人間に好意を抱く程度の良心を持ち合わせてないがね?」

 ジュリオの前に佇む美女、八雲藍は突き放すかのようにキッパリ言うと、一息ついて喋り始める。

「あまり時間を取りたくないので単刀直入に聞くが―――アレはお前たちの差し金か?」 

「…二人目の゛巫女゛の事だろう?残念だけど、僕としてもあんなのは想定外だったよ」

 藍の質問に彼は首を横に振った後、その場から右に向かって歩き始めた。

 履いている白いロングブーツが石造りの床を当蹴る音は、静寂漂う夜の中では不気味な雰囲気を漂わしている。

 だがそれを゛小さくした゛耳で聞いている藍には何の効果も無く、むしろジュリオに対しての警戒を一層強めた。

「ホント困るよね。あぁいう細部までそっくり…ていうのは、遠くから見ると本当にわからないんだ」

 場の空気が悪い方へ進んでゆく中で、ジュリオは先程の質問をそんな言葉で返す。

 しかし、それは予想の範囲内だったのだろうか。藍はあまり疑うことをせず次の質問を投げかける。

「まぁそうだな。そこはひとまず同意しておくとして…お前はなぜ足を動かしている?」

「だって立ちっぱなしだと足が棒になってしまうだろう?別に何処かへ行こうってワケじゃない」

 大げさそうに両腕を広げながらそう答えた彼に、藍は首を傾げつつもこう言った。

「そうかな?じゃあ、お前の歩く先に扉が見えるのは私の目の錯覚という事になるが…」

 ―――生憎健康には自身がある。最後にそんな言葉を付け加えた直後、ジュリオは微笑みがら言葉を返す。

 

「別に逃げるっていうワケじゃないけどさぁ…まぁ今日はこのくらい―――ッという事で!」

 言い訳がましい言葉を口から出し終えた直後、彼は唐突に地面を蹴って走り出した。

 まるで天敵から逃げるウサギとも思える彼の行く先には、屋上から建物の中へと続く扉がある。

 幸いにも扉は開いており、下の階へと続く階段が彼の目に映っている。

 

(あと一メイル―――…ッ!)

 ほんの少しで屋上から屋内へ入れるというところで、背筋に冷たい物が走った。

 まるで首筋に刃物突き付けられた時の様に、その場で足を止めろと自身の本能が暴れ叫ぶ。

 しかし一度走り出してすぐには足を止められる筈もなく、やむを得ずその場で倒れ込んだ。

 階段まであと数サントというところの位置で倒れ込んだ彼の眼前に、三本もの赤い刃物が地面に深々と突き刺さっていた。

 ナイフにしては極端と言えるほどに菱の形をしたそれ等は、稀に東方の地から輸入される暗殺用の武器と瓜二つである。

 ジュリオ自身仕事の関係で何度か目にしてはいたが、目に良くない影響を与えそうな程毒々しい赤色ではなかった。

 

「お前、人間にしては中々良いじゃないか」

 倒れ込んだ自身の背中に掛けられる、藍の冷たい声。

 それに反応したジュリオはついつい頭だけを後ろへ向けた瞬間。彼はあり得ないモノを目にしてしまう。

 奇妙な帽子を被っている頭にはイヌ科の動物と同じ耳と、臀部からは九本もの狐の尻尾が生えていたのだ。

 金色の髪の中に紛れ込むようにして出ている耳は、尻尾を見れば狐のモノだとすぐにわかる。

 そして尻尾の方は女の美貌に負けぬくらい立派であったが、何処か怖ろしい雰囲気が漂ってくる。 

 

 まるで今までボールだと思っていた物が爆弾だったのだと気づいた時のような、体中の毛が逆立つ恐怖。

 ジュリオはそんな恐怖を今、僅かながらに目の前の彼女から感じ取っていた。

 

「驚いたよ…薄々勘付いてはいたが、まさか本当に人間じゃあ無かったとは」

 無意識の内に口から出たその言葉を、九尾としての正体を見せた藍はその場から動かずに返す。

「勘が良いな。大抵の人間は、単に小さくしただけの尻尾と耳にすら気づかないモノだが…」

「仕事の都合上、動物とは付き合いがあるからね。君の体から漂ってきた獣特有の臭いでただモノじゃないと思っただけさ…」

 頭に生えている狐耳をヒクヒクと軽く動かす彼女に、ジュリオは笑いながら言う。

 しかし彼の口から出た「獣特有の臭い」という言葉に彼女は表情を曇らせ、九本の尻尾が不機嫌そうに揺れる。

「お前の言う通り、見た目から判断すれば獣の物の怪だが…あまり狗や狸の類と一緒にしないでくれ」

 意外にも身近な動物の名を耳に入れながらも、藍の苦言に「わかった、わかった」と言いつつ、ジュリオは立ち上がる。

 階段まで後少しというところだが、警戒されている今動けば碌な目に遭わない事は、火を見るよりも明らかだ。

 

「…で、僕は何も知らないし、君たちと話すことは今は無い。―――そんな僕に、君は用があるんだね?」

 少し砂埃がついたズボンを手で軽くはたきつつ、そんな事を聞いてみる。

 その質問に九尾の女は油断するような素振りを一つとして見せず、居丈高な素振りでもって返す。

「別に私とてこれ以上聞くことは無い。ただ、少しだけ顔を合わしてもらいたい゛お方゛が一人いるだけだ」

 彼女の返答に一瞬だけ怪訝な表情をを浮かべたジュリオだったが、すぐに笑みが戻ってくる。

 だがそれに良くないものを感じ取ったのか、若干心配性な彼女の方が怪訝な表情を浮かべてしまう。

 

 

「ん…おいおい?何をそんなに怖がってるのさ」

 両手を横に広げた彼の言葉に、それでも油断はできぬと判断した九尾の顔は、未だに硬くなり続ける。

 そんな彼女と対面しながら、先程逃げようとした者とは思えぬ態度でもって、ジュリオは喋り続けた。

「まぁ突然表情を変えて、すぐに戻したのには理由があったんだよ。君はおろか、僕にとっても単純な理由がね?」

 言い訳にもならない弁に藍は「理由?」と首を傾げ、ジュリオは「そう、単純な理由」と返す。

 そして彼曰く゛単純な理由゛を口から出す為か一回深呼吸死をした後…

 言葉にすれば、短いとも長いとも言えぬ゛理由゛を、彼は告げた。

 

「僕にもいるんだよ。君たちの様な【異邦人】と話をしたい、とても大切な゛お方゛が」

 ―――――その瞬間であった。旧市街地の方角から、小さくも耳をつんざく爆発音が聞こえてきたのは。

 

 獣の耳を持つがゆえに音に敏感な藍は唐突な音に目を見開き、その身を大きく竦ませる。

 ジュリオもまたビクッと体を震わせ、驚いた表情を浮かべつつも、音が聞こえてきた方へと目を向けた。

 先程まで霊夢達がいたであろう旧市街地の入り口周辺から、黒い煙が上がっていた。

 彼に続いて顔を向けた藍もまたその顔に驚愕の表情を浮かべ、旧市街地の方を見つめている。

「あれは…!」

「おやおや。思ってた以上に、彼女たちは派手好きなようだ」

 無意識に出たであろう藍の言葉にそう返しつつ、彼は右手に着けた手袋を外そうとする。

 左手の人差指と親指で白い手袋の薬指部分だけを摘み、勢いよく上とへ引っ張る。

 たった二つの動作だけで行える行為の最中にも、藍は気にすることなく旧市街地の方を見つめていた。

 相手がこちらに気づいていない事を確認してから、彼は意味深な笑みを浮かべつつ、口を開く。 

 

「しかし、あれだけ派手だと直にここも騒がしくなる。どうだい?今日はお互い、ここで身を引くという事で…」

「…っ!何を―――――…ッッッ!?」

 ―――――言っている。再び自分の方へと振り向こうとする藍が全てを言い終える直前、

 

 ジュリオは右手の゛甲゛を静かに、彼女の目に入るよう見せつけたのだ。

 

 その瞬間であった。藍の目が見開いたまま止まり、言葉どころかその体の動きさえ停止したのは。

 まるで彼女の体内時計のみを止めたかのように微動だにせず、ジュリオの右手の゛甲゛を見つめている。

 否、正確に言えば…その甲に刻まれた゛光り輝くルーン゛を見て、彼女の体は止まったのだ。

「言っただろう。僕は仕事の都合上、動物との付き合いがあるって」

 ジュリオは一人喋りながら、左手の人差指で右手の゛ルーン゛を軽く小突いて見せる。

 まるで蛇がのたくっている様にも見えるソレは青白く光り、薄闇の中にいる二人を照らしていた。

 

「バケモノであれ何であれ…少なくとも君が動物だったという事実は、僕にとって本当に良い事だよ」

 何せコイツを見せれば、すぐに逃げられるんだから。余裕満々のジュリオがそう言い放つと同時であった。

 フッと意識を失った藍の体が、力なく前に倒れ込んだのは。

 まるで激務の後にベッドへ横たわるかのように、その動作に何ら不自然性すらない。

 ただ一つ、ジュリオの右手に刻まれた゛ルーン゛を見てしまった―――という事を除いて。

 そのジュリオ自身はフッと安堵のため息をついて藍の傍へ寄るとその場で中腰になり、ルーンがある右手を彼女の前にかざす。

 手袋の下に隠していた白い肌と゛ルーン゛を露わにした右手でもって、規則的で生暖かい息吹きに触れる。

 ついで彼女の表情がゆったりとした寝顔を浮かべている事を確認した後、ゆっくりとその腰を上げる。

 既に陽が三分の二も沈み、空に浮かぶ双月がその姿をハッキリと地上に見せつけ始めていた。

 幼いころから見慣れてきたその空を眺めつつ、ジュリオは一人呟く。

 

「もう少し待ってててくれよ。君たちはともかく、僕たちにはもう少しだけ準備する時間が欲しいんだ」

 君たちから離れはしないけどね。そう言って彼は踵を返し、ドアの方へと歩いていく。

 昼の熱気を消し去るような涼しい夜風を身に受け、何処かから聞こえてくる馬の嘶きを耳に入れながら。彼はその場を後にする。

 まるで初めからこうなるべきだと予想していたかのような、優雅な足取りで。

 

 

 

 地上に初夏の熱気をもたらした陽が沈み、ようやく夜の帳が訪れてきたチクトンネ街。

 昼頃の暑さが日暮れとともに多少の鳴りを潜め、涼しい風が吹いてくるこの時間。

 今宵もまた、ここチクトンネ街は夜の顔とも言える部分をゆっくりと出し始めていた。 

 

 そんな街の中心を走る大通りの隅を歩きながら、二人の少女が楽しそうに談笑していた。

 二人の内一人…腰まで伸ばした黒色の髪が街頭に照らされ、艶やかな光を放っている。

 もう一人はボブカットにしており、一目見れば長髪の少女と比べ何処なく控えめな性格が垣間見えていた。

「…でさぁ、一通り見たんだけど…あのカッフェって店はそう長く持ちはしないだろうね!」

「はぁ…そう、なんだ…」

 長髪の少女、ジェシカは大声で喋りながら、ボブカットの少女で従姉のシエスタの肩をパンパンと軽く後を立てて叩く。

 ジェシカとは違い大人しい所が目立つ彼女は、自分の従妹の大声が迷惑になっていないか気にしているようだ。

 実際繁華街と言ってもまだこの時間帯に騒ぐような人はいない為か、何人かが自分たちの方をチラチラと見ているのに気づく。

 そんな事を気にしながらも、大人しい彼女は大声で喋る従妹の言葉に適度に相槌を打っている。

 別にジェシカ自身酒で酔っているワケでも無く、どちらかと言えばそういうのに強い少女だ。

 単に彼女が目立ちたがり屋なのと、そうでなければいけない仕事をしている関係でその声が大きいのだ。

 一方のシエスタは騒がず目立たずお淑やかに努めるよう心掛けているので゜、二人の性格は正に正反対と言っても良い。

 だからだろうか、他人から見れば酔っぱらったジェシカが素面のシエスタに絡んでいるようにも見えた。

「話に聞けば老若男女誰でも気軽に入れるって宣伝してるけど、出してる品物は若者向きなんだよ」

「そりゃあ…あそこは、結構若い人たちとかが住んでるし…」

 人目を気にせず笑顔で喋るジェシカはシエスタの肩を叩きつつも、世間話を楽しんでいる。

 大事な家族であり放っておけないくらい魅力的な従姉は苦笑いを浮かべて、そんな言葉を返す。

 そんな彼女にジェシカは「わかってないなぁ…」と呟いて首を横に振ると、自分の言いたい事をあっさりと口に出した。  

 ここやブルドンネ街を含めたトリスタニアには、色んな人たちが色んな目的を持って街中を移動する。

 そういう場所ではあまり下手な事を表立ってしてはいけず、注意しなければいけない。

「…例えばさっき話したように、老若男女誰でも入れるといって若者向けの料理とお茶しか出さない店がそうさ」

 彼女はそこで一呼吸おいて話を中断し、隣にいるシエスタの反応を少しだけ伺ってみる。

 従姉の顔は相変わらず苦笑いであったが、話自体に嫌悪感や鬱陶しさを感じていないのがすぐにわかった。

 これは続けても良いというサインか。一人でそう解釈したジェシカは口を開き、先程の続きを始めた。

 

「まぁあそこで出してる東方からのお茶っていうのが、は割とお年寄り向けとは聞くけど…それ以外はてんで駄目だし

 なにより、あの店の内装も今時の子をターゲットにした感じの作りなんだから。本当、矛盾に満ちた店だったわ。

 でも料理とかデザートは割と美味かったのは足を運んで良かった~…とは思ったけどね。それとこれとは話が別というものよ。

 とにかく、私が言いたいのは老若男女何て言う曖昧な嘘じゃくなてハッキリと、若者向けの店ですって宣伝すればいいという話!」

 

 わかった?最後にそう言い放ち、自信に満ちた表情を横にいるシエスタへと向ける。

 恐らく優しい従姉は「そんなヒドイ言い方は…」と苦言を漏らすに違いないがまぁそれも良いだろう。

 久しぶりに会えた上に一日中二人きりっで遊べたのだ。せめて見送る最中にこういうやり取りをしても罰は当たるまい。

 …とまぁ、そんな事を考えながら振り向いたジェシカであったが、横にいたシエスタは彼女の顔を見てはいなかった。

 ジッと前方を見据えたままその場で足を止めた彼女の表情には苦笑いではなく、怪訝な色が浮かんでいる。

「ジェシカ…あれ…」

 どうしたのかと聞く前にシエスタはポツリと呟き、少し進んだ先にある大きな十字路を指差した。

 それにつられたジェシカも顔を前に向けると、従姉が足を止めた理由が、なんとなく分かったのである。

 ついで彼女自身も怪訝な表情を浮かべ、視線の先にあるいつもとは違う通りの様子を見て、一人呟いた。

「何だいアレ…あっ、衛士隊の馬車…?何でこんな所に…?」

 二人の視線が向けられた先にある大きな十字路の前で、多くの人たちが足を止めていた。

 その理由はジェシカ口にした通り、この街の平和を守っている衛士隊御用達の馬車が堂々と通りを移動していた。

 トリステインの王家の家紋である白百合の刺繍が中央に施された荷車を見れば、その馬車が一目でどこのモノなのかは分かった。

 雨が降った時に使われるミルク色の幌を付けた荷車の周りには、薄い鎧を身にまとう衛士が数人仁王立ちで佇み、誰も近づけさせないようにしている。

 荷車を牽引するのは何故か栗毛の軍馬一頭で、衛士たちに前方を守られながら蹄を鳴らしてゆっくりと歩いている。

 当然一時的に通行を止められた人々は馬車とそれを守る衛士隊に向けて、不平不満を出していた。

「おいおい、どういう事だよこりゃ!何で馬車が通り切るまで通行止めになるんだよ!?」

「何があったか知らないけど、こっちは急いでるんだ。ちよっと脇を通るくらい良いじゃねぇか」

「衛士さん、衛士さん!酒の肴として何があったか教えてくれよ?このままじゃあ、故郷から来た友人を待たせちまうんだわい!」

「ちょっとちょっと!通行止め何てされゃあアタイが仕事に遅れちゃうわ!そうなったらアンタたちが責任とってくれるのかい!?」 

 老若男女のうえに地方や他国訛りの言葉が飛び交う中で、衛士たち慣れた様子で対処している。

 とはいっても石化したようにその場で突っ立っているだけだが、誰一人突破しようと思うものはいない。

 各々が利き手で槍を持って仁王立ちをしている姿を見れば、武器を持たぬ者なら喧嘩を吹っかけようとは思わないだろう。

 

 一体何が起こったのかわからぬまま、二人は目の前の光景を見つめている。

 そんな中で、ふとジェシカが何かを思い出したかのような表情を浮かべ、ついで口を開いた。

「あっ…う~ん、参ったねぇシエスタ」

 突然そんな事を従妹に聞かれた彼女は「えっ、何が…」と返す。

 街中での珍しい景色に見とれていた従姉の様子にため息を突きつつも、ジェシカは言葉を続ける。

「学院行きの馬車だよ、馬車!このまま足止め喰らってたら…今日の分は到底間に合いそうにないって」

 出来の悪い生徒に教える教師の様な態度で話す彼女に、シエスタはアッと驚いて思い出す。

 ブルドンネ街には結構な規模の馬車駅があるが、陽が沈み始めると荷車を引く馬たちを厩へ入れてしまう。

 しかもシエスタの仕事場であるトリステイン魔法学院行きは、今の時間帯なら一時間後に動く馬車が最後の便となる。

 これを逃せば簡単には学院へ戻れず、厩で高い料金を払って馬を一頭借りなければ行けない羽目になってしまうのだ。

 

「どうしよう…私が帰らなかったら心配する人たちもいるし…それに明日の御奉公もできないわ」

 明日の事を考えて呟くと、シエスタの顔が段々と不安染まり始める。

 それを見てどうにかできないかと考えるジェシカであったが、一向に良い案が浮かばない。

「ここからブルドンネの駅まで行くのに大分時間かかるし、何よりこの様子だと遠回りしなくちゃあ駄目だよコレは…」

 群衆と衛士たちの押し問答を見ながら、別々の様子を見せる二人の黒髪少女。

 熱気と怒号に満ちた通りを冷やすかのように吹く冷たい風が、少女たちや人々の体を撫でていく。

 

 そんな時であった。ゆっくりと通りを進む荷車の中から、『ソレ』が舞い上がったのは。

 まるで『ソレ』自体が魂を持ってしまったかのようにスルリと、滑らかに波打ちながら飛び出した。

 衛士たちは周りの民衆に警戒し、通りの民衆は衛士たちを睨みつけていた為に気づくモノは一人もいない

 

 

「―……?ねぇ、ジェシカ…アレ」

 最初に気が付いたのは、どうやって帰ればいいのか悩んでいたシエスタであった。

 少し強めの風が吹き荒ぶ街の空を舞い上がっていく細長く赤い何かを、彼女は目にしたのである。

 従姉の言葉に何なのだろうかと顔を上げ、ついで『ソレ』を目撃した。

 人口の光に照らされた赤い『ソレ』は、まだ何者にも汚されていない星だらけの夜空を飛んでいる。

 それはまるで、力を得た鯉が真紅の龍となって飛び立つかのように、波打ちながらも舞い上がっていく。

 風向きが空の方へ向いていれば、それは何処までも…それこそ空よりずっと上にある星の海へと旅立っていただろう。

 

「アレって一体…あ、風向きが変わって…」

「コッチに…」

 

 しかしソレの行く先は不幸にも地上、夜空と違い自然を失って久しい人々の文明圏へと落ちていく。

 白いフリルをはためかせて地上へと降りていく赤いソレは何の因果か、彼女たちの元へ向かっている。

 自分達の方へと落ちてくる事に気が付いた二人の内シエスタが、反射的に両腕をスッと上へ伸ばした。

 学院で掃除や炊事などの仕事をしているにも関わらず、彼女の肌は真珠のように白く美しい。

 そんな手に吸い込まれるようにして落ちてきた『ソレ』が、見事の彼女に掴まれてしまう。

 『ソレ』を手にしたシエスタが最初に感じたことは、『ソレ』が何かで゛濡れている゛事と―――――異常なまでの゛既視感゛。

 まるでいつも何処かで見ていたと錯覚させる『ソレ』の正体がわからず、シエスタは首を傾げそうになる。

 しかしその錯覚は従妹の…ジェシカの一言によって掻き消された。

 

「ソレって、…まさか――――あのレイムって子のリボンじゃ…」

「えっ―――――――」

 従姉の言葉に目を丸くさせた彼女は慌てた風に、リボンと呼ばれた『ソレ』をもう一度凝視する。

 赤を基調としている為に、白いフリルや模様がよく目に入る目立ちやすいデザイン。

 自分の記憶が正しければ『ソレ』…否、赤いリボンは確かにルイズの使い魔として召喚された霊夢のリボンだ。

 それに気が付いたと同時にシエスタは、何がこのリボンを゛濡らしていた゛のにも、気が付く。

 

 シエスタはリボンを持つ両手の内左手だけを離し、恐る恐る掌に何が゛付いている゛のか確認した。

 数匹の蛾が纏わりつくカンテラの下にいる彼女の目に入ったのは、リボンと同じ色をした―――自分の左手だった。

 無意識の内に小さな悲鳴を漏らし、ジェシカは咄嗟に口を押さえて驚愕の意を表している。

 本当ならリボンを投げ捨てているだろうが、律儀にもシエスタは手に持ち続けたままソレを眺め続けている。

 目を見開き、恐怖で若干引きつった表情でリボンを持つ彼女の姿は、傍から見れば相当なモノだろう。

 

 同僚や上司から綺麗だな、羨ましいと言われていた白い手は、真っ赤な色に染まっている。

 それもトマトやペンキとは思えぬほど変に生暖かく、僅かに鉄の様な臭いをも放つそれの正体を、二人は知っていた。

 そしてその疑問を恐る恐る口にしたのは、意外な事にリボンを手にしたシエスタ本人であった。

「これって…まさか………――――血?」

 

 彼女の口から飛び出た言葉に、ジェシカは即座に返す言葉を見つけられず狼狽えている。

 ただただ口を押え、両手を血で濡らした従妹の背中越しから、そのリボンを見つめ続けていた。

 

 シエスタの頭の中に疑問が浮かぶ。どうしてこんな所で彼女のモノを見つけ、手に取る事が出来たのか。

 本来の持ち主は何処へ行ったのか、そして付着した血は誰のものなのか。

 運命の悪戯とも言えるような偶然さで霊夢のリボンを手にした彼女の脳内を、知りようのない疑問が巡っていく。

 シエスタの後ろにいるジェシカも見慣れぬ血を間近で見たせいか、口を押えて絶句の意を保ち続けている。

 静寂に包まれた二人に声を掛ける者はおらず、皆が皆自分の為だけに足を進めて動き続ける。 

 

 

「おい、お前たち。そのリボンを持って何をしている」

 リボンを手にして一分も経たぬ頃…誰にも見向きされず、見咎められない二人に声を掛けた者がいた。

 それは鎧とも呼べぬ衛士用の装備を身に纏った金髪の女性―――アニエスであった。

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