ルイズと無重力巫女さん   作:1-UP-code

93 / 103
第九十三話

 何事も、計画していた通りに事が進むわけではない。

 原因は様々あれど、たった一つの―――それこそ些細なミスで計画自体が破綻する事さえある。

 時にはそのミスが想定の範囲外という理不尽極まりない場所からやってくることも珍しくは無い。

 そういう時に大事なのは決して狼狽えず、慌てず、騒がない。冷静に事実を受け止め、対処するほかないのだ。

 

 

 あと一歩のところまで金を盗んだ少年を追い詰め、失敗した魔理沙もそうせざるを得なかった。

 想定の範囲外としか言いようの無い『動く外的要因』を、どういう風に対処すべきか考える為にも。

 例えその『動く外的要因』が――これまで見た事も無いような正体不明のスライム状の存在であったとしても、だ。

 

 

「―ッ!危ねッ…!?」

 驚きの渦中にあった魔理沙は、こちらに向かって跳びかかってくる黒いスライムを見て慌てて後ろへ避けた。

 それが正解だったのか、先程まで自分が立っていた場所にソイツが着地する。

 するとどうだろうか。ソイツはまるで柔らかい餅の様に平べったくなり、液状の体が左右に広がっていく。

 もしも横に避けていたらコイツの体に触れていたかもしれない。そう考えた魔理沙は己が運の良さに喜びたくなった。

 とはいえ今はそんな事をする余裕など当然なく、彼女はもしもの事を考えて更に数歩後ろへと下がる。

「畜生、あと一歩だったってのに…何だか良く分からんが、惜しい所で邪魔なんかしてきやがって!」

 着地を終えて、元の太い棒状の姿へ戻っていくソイツに悪態をつきつつ、魔理沙はスッと身構える。

 

 その左手には先ほど懐から出した小瓶があり、いつでも投げつけられるようにはしている。

 これを投げて瓶が割れれば即花火、瓶に詰めた『魔法』がいつでも作動する仕掛けだ。

 相手との今の距離は二メイル程度。ここから投げれば瓶の破片が飛んできて怪我をする心配も無い。

 魔理沙としては、折角良い所を邪魔してくれた謎の相手には是非とも自分の魔法をお見舞いさせてやりたかった。

 本当はあの少年の手前に投げ落として、綺麗な花火を見せつけると同時に気絶させるつもりでいたのである。

 それを邪魔されたからには、何としてでもあのどす黒く揺れる体の中に投げ込んでやろうと決めていた。

 距離も十分、威力は…きっと申し分なし。心配する事など何一つ無い。

 

 しかし…、魔理沙はすぐに左手の小瓶を投げつける事を躊躇ってしまう。

 黄色い目を輝かせながら、ゆっくりと地面に跡をつけて這ってくる正体不明の相手に彼女はゆっくりと後ろに下がっていく。

 後ずさる先に何もない事を確認しつつ、けれども近づいてくるヤツには細心の注意を払う事は忘れない。

 別に目の前で蠢く黒い液体の体や、爛々と輝く黄色い二つの目玉が怖いワケではなかった。

 問題は一つ。…あの液体の体の中で、上手く瓶が割れるのかどうかについてという事である。

 

 『魔法』を詰めた小瓶は、うっかり自分の懐の中で暴発しない分には丈夫であり、

 そこそこ力を入れて投げれば、瓶が割れ次第即座に発動する程度のデリケートさは持っている。

 しかし…あのいかにもヌメヌメとして、嫌な意味で柔らかそうな体の中では投げつけても爆発しないのでは…と考えていたのだ。

(あいつの足元?…に投げれば簡単なんだろうが、それじゃあ私の腹の虫が収まらないんだよなぁ)

 目の前の、良く分からない相手に勝つための最適な方法は既に分かっている。

 しかしそれは自分の望んだとおりのセオリーではなく、今の彼女からしてみればあくまでも゙勝つ方法゙の一つでしかない。

 望んでいる勝ち方は一つ、自慢の『魔法』を詰めこんだ瓶をあの怪物の体内で割らせて内部から思いっきり爆発させる事だ。

 少年を気絶させるだけの筈だったこの『魔法』で、あのスライムみたいな怪物を即席花火に変えてやろう。

 

 その為にもまずは相手を見極め、どのような攻撃をしてくるのか探らなければいけない。

 突拍子も無く現れた敵の正体が何であれ、下手にこちらが先制を仕掛ければ何が起こるかわからない。

 魔理沙は一定の距離を保ちつつ、その間にもこちらへと近づいてくるスライム状の敵をじっくりと観察する。

 黒く半透明の体の中には内臓らしきものは見えず、唯一不透明の目玉は爛々と黄色い光を放ちながらこちらを睨む。

 なめくじの様に地面を這いずっている為か、まるで絞りきれてない雑巾の様に地面を濡らしながら進んでいく。

 しかもそれは決して綺麗とは言い難い黒色の液体であり、正直ただの水とは考えにくい。

 恐らくあの不安定な体を構成できるだけの力は秘めているのであろうが、それがどういったものかまでは分からない。

 先ほど跳びかかってきた時の事を考えると、その見た目以上に重くはないのだろう。

 更に着地した際に不出来な煎餅の様に平たくなったのを見れば当然体も柔らかいのは一目瞭然だ。

「とはいえ、そこに変な弾力まであると…何か投げるのを躊躇っちゃうような…」

 

 魔理沙はそんな事を呟きながら、左の中で落とさない程度に弄っている瓶の事を思う。

 下手に相手に力を入れて投げて、それでポヨン!と跳ね返されてしまったらとんでもない事になる。

 自分の『魔法』で自滅する魔法使いなんて、それこそパチュリーやアリスに笑われてしまう。

 最も、ここにその二人はいないしそれを広める様な輩がいないのは幸いともいうべきか。

 とにかく、今やるべきことは相手の体がどれほど柔らかいのか探る事に決まった。

「と、なれば…早速調べてみるとしますか。…楽しい夕食まで時間は無さそうだしな」

 ひとまずの目標を決めた魔理沙は一人呟き、ひとまず左手の瓶を懐の中へとしまう。

 勿論後で使うつもりなのだが、今からするべきことを考えると元の場所に戻していいと考えたからだ。

 

 『魔法』入りの瓶をしまい戻した魔理沙は、サッと足元に落ちていた適当な大きさの石を拾う。

 持っていた瓶よりかはやや大きく、彼女が投げるには手ごろな大きさともいえよう。

 石を拾った魔理沙はスッと顔を上げて、近づいてくる化け物をその目で見据える。

 こりから自分が攻撃するという事も理解していないのか、間にナメクジの如き速度で近づいてくる。

「さてと…それじゃあまずはお試しの投球――ならぬ投石開始といきますか!」

 気合を入れるかのように一人そう叫んだ彼女は石を持つ手に力を込め、思いっきり怪物へと投げつけた。

 

 いつも『魔法』入りの瓶を投げる時と同じように、頭上へと投げられた一個の石。

 それは大きな弧を描き、まるでミニマムサイズの隕石の様に怪物の頭上へと落ちていく。

 相手は落ちてくる石に気付いたのか、ギョロリと黄色い目玉を動かして頭上を仰ぎ見ようとする。

 しかしそれよりも先に、魔理沙の投げた石ころがトプン…!と小さな音を立てて体の中に入ったのが早かった。

 まるで池の中に放った時の様に石は怪物の体の中を、ゆっくりと沈んていく。

 

「成程、投げつけたものが弾かない程度には柔らかいのか……って、ん?」

 望んでいた通りの結果が分かった事に魔理沙は頷こうとしたところで、怪物の身に異変が起きているのに気が付く。

 魔理沙の手で石を体の中に取り込まされた相手が、その黒い体をプルプルと震わせ始めたのである。

 まるで皿に乗ったプリンが揺れているかのように、全体を微かに振動させて何かをしようとしているのだ。

「お、やられたままじゃあ面白く無いってか?」

 まだどんな手を使ってくるか分からない相手を、魔理沙は箒を両手に持って槍の様に構えて見せる。

 その直後、怪物の胴体辺りまで沈んでいた石が沈むのをやめて、奇妙な事にその場で浮き始めたのだ。

 

 これから何をするのかと心待ちにしていた魔理沙を前に、怪物は更に体を震わせる。

 いよいよ来るか!と魔理沙はいつでも動けるように態勢を僅かに変えた――――その瞬間であった。

 ヤツの胴体で浮いていたあの石が、大きな音を立てて弾丸のように発射されたのである。

 

「おぉッ―――…ットォ!」

 さすがの魔理沙もこれには少し驚いたものの、回避できない速度と距離ではなかった。

 いつでも動けるようにしていた彼女はスッと右に避けると、その横を結構な速度で石が通り過ぎていく。

 数秒と経たぬうちに、背後から硬いモノが勢いよく割れる音が、広場へと響き渡る。

 石がどうなったのか振り返るまでもないと、魔理沙は攻撃をしてきた相手をジッと見据える。

「コイツは驚いたぜ?てっきり跳びかかるだけしか能が無いと思っていたぶん、余計にな」

 そう言って彼女は足元に落ちていた別の石ころを更にもう一つ拾うと、先ほどと同じく怪物へと投げつける。

 

 今度は相手も投げられた石を見ていたものの、のろまな奴一匹だけでは避けようがない。

 まるでついさっきの光景を写し取ったかのように石は体の中へと入り込み、そして胴体の辺りで止まる。

 そして魔理沙に再び狙いを定めると、今度は体を震わせずにそのまま静止した状態で石を発射してきた。

「ほれキタ…―――ッと!」

 今度は驚くことなく、彼女は余裕をもってその石ころをかわしてみせる。

 再び背後から石の砕ける音が聞こえ、それと同時に魔理沙はニヤニヤと笑って見せた。

「てっきり脳無しかと思いきや、即座に反撃する程度の賢さはあるみたいだな…けれど」

 私を相手にしたのが間違いだったな?彼女はそう言って、そのまま怪物の左側へ向かって走り出す。

 その魔法使いな見た目とは裏腹に速い足を持つ彼女を、怪物は目だけでゆっくりと追いかけてくる。

 

 やがて数秒と経たぬうちに、魔理沙は怪物の背後へと回り込む事が出来た。

 相手も自分の背後にいると察知したのか、体を動かそうとしているのかプルプルと体を震わせ始める。

「へっ!今更動いたって―――はぁッ!?」

 遅いぜ?そう言おうとした魔理沙は次の瞬間、またもや驚かされる事となった。

 何と反対側にあるヤツの目玉が、あの黒い体の中を通って浮きあがってきたのだから。

 これには流石の魔法使いも、面喰わざるを得ない程の事であった。

 

「おいおい、いくら骨が無いからってソレは反則ってヤツじゃないのか?」

 僅かに一瞬の間に向きを変えた相手に魔理沙が悪態をついたところで、一足先にヤツが攻撃を開始した。

 とはいっても先ほどの石ころ飛ばしとは違い、最初に現れた時に披露してみせた跳びかかりであったが。

 それでも思いっきり体を震わせ、バネの用に跳んでくるどす黒いスライム状の怪物と言うだけでも相当ショックである。

 こんなのがもし夜の森の中で出くわして跳びかかってきたのなら、誰もが腰を抜かすに違いない。

 しかし御生憎ながら、霧雨魔理沙はその手の怪異にはすっかり慣れてしまっている身であった。

 

「そんなワンパターン、私に通用するかよ…――ッと!」

 相手が跳びかかると同時に、魔理沙は両手で構えていた箒に力を込めてから勢いよくジャンプする。

 するとどうだろう、彼女の力に応えて箒は魔法を吹き込まれ、そのまま彼女をぶらさげたまま浮かんでいく。

 ほぼ同時に、跳びかかった怪物の体に彼女の靴先が僅かにかすったものの、渾身の跳びかかりをかわすことができた。

 先ほどまで魔理沙がいた場所に着地したソイツは平べったくなった体を元に戻したところで、頭上から声が掛けられる。

 

「惜しかったなスライム野郎!外れたから景品は無しだぜー!?」

 その声にギョロリと黄色い目玉を頭上へ向けると、空に浮かぶ箒にぶら下がる魔理沙がこちらを見下ろしていた。

 まるで鉄棒にぶらさがる子供の様な姿はどことなく愛嬌はあるが、その顔に浮かべる笑みは年相応とは思えぬほど好戦的である。

 彼女のその獰猛な笑みに怪物は何かを感じ取ったのか、再び跳びかからんとその体を震わせ始めた。

「おぉっと、それ以上ピョンピョンされたら厄介だから…手短に決着といこうじゃないか!」

 

 そう言いつつ彼女は空いた左手で懐を探り、先程しまっていた『魔法』入りの小瓶を取り出して見せる。

 まだ完成したばかりで試したことの無いそれを割らないよう注意しつつ、彼女はゆっくりと確実に狙いを定めていく。

 狙うは勿論頭部…と思しきところ。あの黄色い目玉が前と後ろを行き来している場所だ。

 無論、そこが弱点と断定しているワケではないが…今の所思いつく限りではそこしかない。

 距離は十分、上から投げつけるので上手く行けば体内に投げ込んだ瓶が割れる事も不可能ではないだろう。

(狙いは充分…だけど、…はてさて割れなかったときはどうしようかな?……まぁ、『奥の手』はあるんだけどな)

 魔理沙は万が一失敗した時の事を考えて、帽子の中に仕舞った自分の『奥の手』の事を思い出す。

 まさかこんな相手に使うとは思っていなかったが、体内で割れなかったときの事を考えれば…コイツに頼らざるを得ないだろう。

 

 とはいえ、極力使わないという選択肢は元から魔理沙の頭には無かった。

 もしもうまく相手の体内に『魔法』入りの瓶が入って、それでも尚割れなければ『奥の手』の出番が来る。

 そうなったのなら、帽子の中しまっている『奥の手』には怪物の介錯役を務めて貰うだろう。

 花火の導火線を付ける為の火としては少し派手すぎる気もするが、多少派手でなければ面白く無い。

 

―――何せ寂れた場所で華やかな花火を上げるんだ、火も程良く派手じゃなければつまらんだろう?

 

 魔理沙は心中でそう呟くと瓶を持つ手を振り上げて、勢いよく眼下にいる怪物目がけて投げつけた。

 グルグルと空中で回り、中に入った『魔法』を掻き混ぜながら瓶は怪物の脳天目指して落ちていく。

 相手も投げつけられた瓶の存在に気付いて対策を取ろうとするが、いかんせん鈍いが為に間に合わない。

 魔理沙の渾身の力を込められて投げつけられた瓶は、見事そのまま怪物の脳天から体内へと入っていった。

「よっしゃ!…って、おっとと…!」

 思わずガッツポーズを取ろうとした魔理沙は、バランスを崩し損ねて箒を離しそうになってしまう。

 慌ててバランスを取り戻したところで、彼女はハッと眼下にいる敵がどうなったのかを確認する。

 

 脳天から『魔法』入りの瓶が入り込んだ敵は、意外な事に混乱しているようであった。

 先程の様に即座に反撃はしてこず、体の中に入り込んだモノが気になるのかしきりに体を震わせている。

(まさか混乱しているのか…?脳も内臓もなさそうだってのに、一体どうなってるんだ…?)

 単純な存在かと思っていた敵の意外な一面に驚きつつ、魔理沙は相手の体内にあるであろう『魔法』の事が気になった。

 いつもの通り割れてくれているのなら、いまごろ体内からドカンとめでたい花火が上がる筈である。

 それだというのに、一行の『魔法』が発動しないという事は…何かしらのトラブルが起こったという事なのだろうか?

(まぁ、予想はしてたけどな。―――だからその分、)

 

―――備えはしてあるものなんだぜ?

 心の中でそう呟いた彼女は、空いている右手で頭に被っているトンガリ帽子の中へと手を突っ込む。

 そして数秒と経たぬうちに、彼女はその中から今の自分を形作る要素の一つであろうマジック・アイテムを取り出した。

 

 黒い八角形の形をしたソレは、今の霧雨魔理沙にとってなくてはならいなモノであり本人が「これのない生活は考えられない」とまで語る代物。

 それは小さきながらも一個の炉であり、山一つを消し飛ばす程の高火力から、一日じっくり煮込めるとろ火まで調節可能。

 マジック・アイテムの名はミニ八卦炉。例え小さくとも、道教の神太上老君が仙丹を煉る為に使用した炉の名を借りた道具。

 幻想郷においても、この炉から放たれる最大火力に勝るものはそうそういないであろう。

 

 彼女は久方ぶりに持った気がする無機物の相棒に微笑むと、すぐさま八卦炉の中心にある穴を眼下の怪物へと向けた。

 敵は動揺から立ち直ったのか、体内で浮かぶ瓶を送り返そうとしているのが見て取れた。

 黄色く光る目玉をこちらに向けて、すぐにでも攻撃しようとその身を震わせている。

 恐らく先ほどの石ころと同じように、体内に入り込んだ瓶をそのままこちらに射出する気なのだろう。

 

 あの結構な速度で放たれたら最期。スライム状ではない自分の体で瓶が割れて…ドカン!

 空中で箒にぶら下がったままと言う姿勢のまま花火に巻き来れてしまうのであろう。

 本来なら慌てる所なのだろうが、魔理沙は相手に得意気な笑みを浮かべたまま回避する素振りすら見せない。

 

 ――――何故なら、既にこの場での勝敗はついてしまっているのだから。

 

「物覚えは良さそうだったが、せめてもう少し小回りが利くような体であるべきだったな?」

 勝者の笑みを浮かべる魔理沙は眼下の怪物にそう言って、火力を調節したミニ八卦炉から一筋の光が放たれた。

 それはまるで暗雲と暗雲の僅かな隙間を通り抜けた太陽の光よりも、眩しく真っ直ぐな光である。

 正しく目標へと一直線に進む光の線―――レーザーは矢よりも、そして弾丸よりも早く怪物の体を射抜いた。

 レーザーは怪物の体である液体をものともせず、先に彼女が投げ入れていた瓶を勢いよく貫いて見せる。

 火力を抑えられているとはいえ、ミニ八卦炉から放たれたレーザーは貫いた瓶をそのまま砕きさえした。

 そして中に入っていた『魔法』は瓶という安全装置を無くし、その効果を発揮して見せる。

 

 ミニ八卦炉のレーザーに射抜かれてから五秒と経たぬうちに、怪物の体内から光が迸る。

 まるで何かが生まれ出て来るかのようにヤツの液体の体が歪に、そして不気味に膨らみ始めていく。

 やがて迸る光が輝きを増してゆき、人が来なくなった広場を朝日のように照らし始める。

「やったぜ!…って喜びたいところだが、こりゃ私もヤバいか…?」

 未だ箒にぶら下がったままであった魔理沙は、強くなっていく光に身の危険を感じ始めた。

 こうして新しい『魔法』の実験をする時は、しっかりと距離をとる事が怪我一つせずに実験を済ませる秘訣である。

 しかし今は状況が状況故、かなりの近距離で『魔法』を発動せざるを得なかったが、それが仇となったらしい。

 

 魔理沙は手に持っていたミニ八卦炉を帽子の中に戻してから、慌てて高度を上げようとする箒に力を込める。

 しかし…今更になって慌てた彼女が退避するよりも先に、怪物の体内で『魔法』が発動するのが速かったらしい。

 持ち主をぶら下げたまま箒がグングンと上空へと進もうとした直後、怪物を中心に凄まじい『閃光』が広場を覆った。

 無論、退避できなかった魔理沙はその『閃光』を、身を以て味わうことになってしまう。

「ッ――――!」

 自分の周囲を一瞬で包み込む『閃光』に目の前が真っ白になった彼女は思わず悲鳴を上げてしまう。

 だが不思議な事に、直接自分の喉から声を振り絞ったというのに自分の耳がその声を聞けなかったのだ。

 まるで悪魔との契約で聴覚を奪われてしまったかのように、自分の耳が音を拾わなくなっている。

 

 それに気づいた魔理沙は思わず混乱してしまったのか、一瞬箒を掴む手の力を緩めてしまう。

 結果、彼女は高度十メイルという高さで箒を手放し――――成す術も無く落ちていく。

 自分が落ちているという事を理解しながらも、目も見えず耳も聞こえないが為に受け身をとる事すら不可能だ。

 聞こえなくなった耳を両手で押さえ、口から情けない悲鳴を上げて彼女は落ちるしかない。

 後数秒もすれば、普通の魔法使いの体は硬いレンガ造りの地面に激突する事だろう。

 いかに弾幕ごっこで鍛えているとはいえ、普通の人間である彼女にとってそれは致命傷となる。

 

 何も見えず、何も聞こえず、自分たちのお金を奪った少年を捕まえるのを妨害した相手の正体すら知らず。

 ただとりあえず倒したというだけで、このまま彼女は地に落ちてその命を散らしてしまうのか?

、地面まで後五メイル。人々から忘れ去られた王都の一角で墜落しようとした魔法使いの体は――――

 

「全く、アンタって時々こんな命取りなミスをやらかすわよね?」

 そんな言葉と共に上空から飛んできた霊夢の手によって、ギリギリの所で抱きかかえられた。 

 まるで鷹の急降下のように上空から街の一角へと入り、後三メイルという所で魔理沙を助け出したのである。

 流石空を飛ぶことに関しては十八番とも言える彼女だからこそ、このような荒業はできないであろう。

 仮にこの場に鴉天狗がいたとしても、人間の黒白を助ける道理何て微塵も無いのであるから。

 

 そのまま着陸する飛行機の様にローファーの底が地面を擦り、周囲に土煙をまき散らしていく。

 大切にしていた靴の底が擦られていく音と振動に、霊夢は何が何だか分からぬ魔理沙をキッと睨み付ける。

「ちょっと変な気配を感じてきて見たら…これで靴が駄目になったら弁償してもらうんだからね!」

「え…!?あれ?ちょっと待て、誰だ?私を抱きかかえた…じゃなくて、くれたのは?」

 どうやらまだ何も見えていないせいか、自分が誰かに抱きかかえられているという事実を受け止めきれていないらしい。

 瞼を閉じたままの頭をしきりに動かしながら、まだ聞こえの悪い耳で必死に周囲の音を拾おうとしていた。

 やがて時間にして十秒未満ほどであったものの、ようやく霊夢の靴底は地面を擦るのをやめた。

 まき散らしていた土煙は風に流れて霧散し、双月が薄らと見えてきた夕暮れの空似舞い上がっていく。

 

 ようやく自分の体が止まった事に、霊夢は思わず安堵のため息をついた時であった。

 タイミングよく、聴覚と視覚が若干戻ってきた魔理沙が聞き覚えのため息を耳にしてそちらの方へ顔を向けたのは。

「んぅ…?あれ?その溜め息…とぼんやり見える顔って――――もしかして、霊夢なのか?」

「わざわざアンタなんかを急降下してまで助けてやれるモノ好きで阿呆な人間なんか、私ぐらいしかいないでしょうに」

 何となく状況を理解しかけている魔理沙に、霊夢はやや自虐を加えながら返事をした。

 薄らと開き始めた瞼をゴシゴシと擦った黒白は、ジッと彼女の顔を凝視する。

 一体何なのかと訝しんだ霊夢であったが、それから数秒してから魔理沙は「おぉッ!」と急に声を上げた。

 何がおぉッ!よ?と突っ込む巫女を半ば無視しつつ、魔理沙もまた自分の足で地面に立った。

 

 まだ足元がおぼつかないものの、ようやく目が見え始めてきたので転ぶことは無かった。

 そのまま無事に『着地』できた霧雨魔理沙は、珍しく霊夢に笑みを浮かべて彼女に礼を言った。

「どうしてお前がここにいるのか知らんが…とりあえず助かったぜ霊夢」

「それはこっちのセリフよ。何で掃除サボって情報収集してたアンタが、こんな人気の無さすぎる所にいるのかしら」

 気のよさそうな笑みを浮かべる黒白に対し、紅白の巫女は腰に手を当てて不機嫌そうな表情を浮かべている。

 まぁ確かに、一応助ける余裕があったとはいえ下手すれば二人仲良く地面に激突していた可能性があったのだ。

 流石の魔理沙もそれはしっかり理解しているのか、霊夢に「まぁそう怒るなって」と宥めつつも理由を話そうとする。

 

「いやなに、ちょっと色々ワケがあって得体の知れないヤツと戦ってたんだが…って、ありゃ?」

「どうしたのよ?」

 ワケを話しながら、怪物が立っていたであろう場所へと目を向けた魔理沙が怪訝な表情を浮かべ、

 彼女の表情の変化に気付いた霊夢も、そちらの方へと視線を向けつつも尋ねてみる。

「いや…私の『魔法』をぶつけてやった怪物の姿はどこにも見当たらなくて…もしかして、木端微塵に吹き飛んだのか?」

「怪物…?………!それってアンタ、もしかして―――――」

 彼女の口から出た『怪物』という単語に、霊夢がハッとした表情を浮かべた――その時であった。

 二人の左側から、ここにはやや無縁であろう何かが水の中に落ちたであろう音が聞こえてきたのは。

 若干エコーが掛かっているかのようなその水音に、彼女たちはハッとそちらの方へと視線を向けた。

 

 そこにあったのは、子供一人分通るのでやっとな排水溝であった。

 灯りのついてない窓が幾つも見える共同住宅の壁に沿って作られているそれは、夜よりも暗い闇を入り口から覗かせている。

 蓋であった錆びたグレーチングは近くに転がっており、何者かの手で取り外されたのであろう。

 水音が聞こえてきたのはその排水溝からであり、音の大きさかして結構大きなモノが落ちたのかもしれない。

「排水溝?…っていうかアレ、蓋開いていない?」

「蓋?―――…っ、しまった!」

 霊夢がそう言うと魔理沙は何か気づいたのか、慌ててそちらの方へと走り出した。

 突然の行動に軽く目を丸くして驚きつつも、急に走り出した魔理沙の後をついていく。

 

 排水溝の傍まで走り寄った魔理沙はそこで身をかがめると、帽子の中からミニ八卦炉をスッと取り出した。

 そして火力をある程度弱目に調節しながら、発射口の方を排水溝の中へと向ける。

 すると、とろ火よりやや強めにした炉から微かな火が出て、闇に包まれていた排水溝の入口周辺を照らす。

 どうやらこの共同住宅の真下には下水道が通っているのか、数メイルほど下に薄らと地下を流れる川が見える。

 魔理沙は炉の火をあちこちへ向けて何かを探しているが、目当てであったモノは見つからなかったようだ。

 排水溝から見える下水道に動くモノが無いと分かると、軽い舌打ちをしてから炉の火を消して立ち上がった。

「あぁ~…くっそ、逃げられちまってたか」

「何に逃げられたのよ?その言い方だと、単なる人間相手じゃあなさそうって感じだけど」

 

 悔しそうな表情を浮かべて呟く魔理沙に、霊夢がそんな事を言ってくる。

 勘の良さゆえか、自分が明らかな人外を相手にしていたのを言い当てられた事に魔理沙は苦笑してしまう。

「はは…お前って本当に勘が鋭いよな?まぁその通りなんだがな」

「やっぱりね。こんな人が多い街のど真ん中で゙アイツら゙と同じような気配を感じたからもしかして…って思ったのよ」

 気恥ずかしそうに頷く魔理沙に対し、霊夢は真剣そうな表情を浮かべてそう言った。

 霊夢の言ゔアイツら゙という言葉の意味を魔理沙は理解できなかったのか、一瞬だけ訝しむも…

 すぐに彼女の言いたい事が分かったのか、その顔にハッとした表情を浮かべると「マジか」とだけ呟いた。

 彼女の「マジか」という問いに対し霊夢は無言で頷くと、ある意味この街では聞きたくなかった単語をアッサリと口にした。

 

「んぅ、まぁ実物を見てないから断定はできないけど。多分、アンタが戦ったのはキメラ…なのかもしれないわ」

「えぇ、マジかよ?っていうか、こんな街中でか」

「私も信じたくはないわよ。…けれど、あの気配はタルブで感じたものと酷似していたわ…微妙に違うところもあったけど」

 流石に驚かざるをえない魔理沙に、霊夢も頭を抱えたくなりながらも肯定せざるを得なかった。

 いかに博麗の巫女といえども、まさかこんな街中であの怪物たちが放つ『無機質な殺意』を感じるとも思っていなかったのだから。

 陽も暮れて、夜のとばりが降りようとしている寂れた広場の真ん中で、紅白の巫女はため息をつくほかなかった。 

 

 

 

 

 それから時間が幾ばくか過ぎ、すっかり夜の帳が落ちた時間帯。

 王都の喧騒はブルドンネ街からチクトンネ街へと移り、まだまだ遊び足りないという人の波もそちらへと移っていく。

 その街に数多くある酒場でも名の知れた『魅惑妖精』亭の二階で、ルイズは思わず叫び声を上げそうになってしまう。

「な…!何ですって!?キ…ムッ」

「バカ、声が大きいわよ」

 聞かされた話の内容に驚いて叫びそうになった彼女の口を霊夢は自らの手で軽く塞ぎ、何とか大声を挙げずに済んだ。

 試しにチラリと階段から一階の様子を見てみると、何人かがルイズの声に気付いてそちらの方へと視線を向けている。

 しかし、どうせ酔っ払いの戯言だと思ってすぐに視線を戻し、酒を楽しんだりウェイトレスの仕事に戻っていく。

 ひとまずこちらへ来る者がいないという事だけ知ると、大声をあげそうになったルイズの方へと視線を向けた。

 

「ただでさえ今は人が多いんだし、誰が聞き耳立ててるか知れないんだから気を付けて頂戴よ」

「わ、分かったわよ。でも、急に口を塞ごうとするから思わずアンタの親指を噛み千切りそうだったわ」

『娘っ子、それは冗談としちゃあ笑えないね。…ま、そうなってたら面白いっちゃあ面白いが』

 二人のやり取りに壁に立てかけられたデルフも混ざりつつ、店中の人気が一階へと集中している二階の廊下には彼女たち意外誰もいない。

 魔理沙は一階で自分たちを待っていたシエスタの相手をしつつ、料理を頼みに行ってくれている。

 今は人がいないといっても何時誰かが来るかも分からないために、あの屋根裏部屋で話の続きと共に頂くことにしたのだ。

 ルイズと霊夢の尽力で一通り綺麗になった今なら、ワインの上に舞い上がった埃が落ちる事もない。

 一方で、自分たちとの夕食を楽しみにしていたシエスタへの言い訳を考える必要もあった。

 彼女が今夜の夕食に霊夢たちを遊びに誘う事を知っていたルイズは、変な罪悪感を覚えずにはいられない。

 

 何せ霊夢と魔理沙の二人が戻ってくるまでの間、自分と一緒に食べずに待っていたのだ。

 余程自分たちと食事を共にして、ついで遊びに誘いたいという彼女の気持ちをルイズはひしひしと感じてしまっていた。

 最も、ルイズまで待っていたのは単に先に食べてたらあの二人に鬱陶しい位に恨まれると思っていたからであったが。

 

 ともかく、そんな彼女への言い訳を魔理沙に押し付けたルイズは霊夢から先ほどの事を聞いたばかりであった。 

「でも…信じられないわ。まさか、よりにもよってこの王都にあんなのが潜伏しているだなんて…」

「信じようと信じまいと、そこにいるという事実は変わりないわ。現に、私だってアイツラの気配は感じてたしね」

『成程なぁ…だからマリサの帰りを待ってた時に、急に血相変えて飛び出したってワケか』

 半ば事実わ受け止めきれてないルイズに、霊夢は自分がキメラ特有の気配を感じたと証言し、

 そこへルイズと一緒に御留守番する羽目になってしまったデルフが相槌をうった。

 魔理沙がキメラと思しき存在と戦い始めて数分経った頃に、霊夢は彼らから漂う気配を察知していたのである。

 既に掃除を一通り済まして、客が入り始めた一階で彼女の帰りを待っていた時であった。

 

「あの時は驚いたわ。急に眼を鋭く細めたかと思えば「ちょっと外行ってくる」とか言って、出て行っちゃったんだから」

「まぁあん時はまさかこんな街中で…って驚いてたから、ワケを話すヒマも無かったわね」

『だからオレっちは置き去りにされてたというワケかい。理由は分かったが、ちょっと悲しいぜ』

「まぁでも…その時にはもう退散していたしアンタを持って行っても使い道はなかったわ」

 ワケも話さず店を飛び出していった霊夢が今更ながらワケを聞き、納得するルイズとデルフ。

 自分を持って行ってデルフに対し容赦ない返事をしてから、ふと右手を左袖の中へと入れた。

 

 暫し袖の中を探ってから目当ての物を掴んだのか、一枚のメモ用紙を取り出してみせた。

「そもそも、魔理沙が戦っていうキメラらしき怪物が…これまた掴みどころのないヤツでねー…ホラ」

 霊夢はそのメモ用紙に描かれている何かを一瞥した後、ルイズにも見えるように紙を差し出す。

 どうやらその怪物のスケッチらしく、何やら黒くて丸い物体がこれまた黄色くて丸い目玉を爛々と輝かせている。

 その隣には主役のキメラと比べてやや丁寧に書かれた魔理沙がおり、一見してキメラとの大きさを比べられるようになっていた。

 しかし、その魔理沙がやけに丁寧に描かれていた為にどちらがスケッチの主役なのかイマイチ分からなくなってしまう。

「なにコレ?これがあの…タルブや学院近くの森で目にしたのと同じ仲間ってことなの?」

 霊夢が見せてきた魔理沙画伯のキメラの姿に、ルイズは思わず拍子抜けしたかのような表情を見せてしまう。

 キメラらしき怪物が出たと聞いて、てっきりタルブで対峙したようなおっかない化け物かと思っていたに違いない。

 

『まぁ待てよ娘っ子。こういう得体の知れない相手っていうのは、案外手強いもんなんだぜ?』

「…あぁそういえば、魔理沙が「私の『魔法』を一発喰らっただけで逃げやがって…」とか言ってたような」

『マジか。―――…って、あの黒白の瓶詰め『魔法』相手じゃあ誰だって逃げるぞ』

 勝手に肩透かしを喰らっているルイズを戒めるデルフの言葉を霊夢がさりげなく否定し、デルフがそれに突っ込みを入れる。 

 誰もいない二階の廊下で魔理沙の帰りを待ちつつ、二人と一本は魔理沙が相手にしたキメラの話を続けていく。

「それにしても…コイツ手足も口もなさそうよね?それって、生物としてはどうなのかしら」

「確かにね。…魔理沙が言うには、なめくじみたいに地面を這いずったり体を飛び跳ねさせて移動してたらしいわ」

『成程ねぇ。なめくじには手足何てねえし、壁まで這える移動手段の一つとしてはたしかに持って来いだな』

 霊夢の口からきいたキメラの移動手段を想像して、ルイズは思わず身震いしてしまう。

 

 魔理沙程の身の丈がある黒い手足の無い怪物が、黄色くて大きい目玉を輝かせて地面を這いずりまわっている。

 そして獲物を見つけるといざ狙いを定めて、その丸く不定型な体を跳ねさせて、頭上から襲い掛かってきて…。

 成程、見た目は以前相手にしたキメラ程刺々しさはないが、不気味さだけはこちらの方に軍配が上がってしまう。

 このキメラを造り上げであろう人間は生物学にも通用し、ついで人が不快や不気味に思う生物を造り上げる事に長けているようだ。

 ルイズは直接お目にかかれなかったキメラの動きを脳内で思い描いていると、ふと気になった箇所を見つけた。

 

「そういえば…コイツの内臓ってどうなってるのかしらね?見た感じ内臓や心臓はおろか、脳すらなさそうなんだけど…」

「魔理沙が言うにはそういうのは見当たらなかったそうよ。目玉だけが唯一の臓器だったらしいけど」

「はぁ?何よソレ、コイツ本当にキメラなの?」

 首を傾げるルイズの問いに霊夢があっさりと返事をすると、彼女は訝しんだ表情を見せる。

 そりゃそうだ、いかにキメラであろうとも自分たち普通の生き物と同じく体を動かす内臓器官がなければまともに生きる事すらできない。

 もしも目玉以外の臓器無しに行動できるのならそれは生物ではなく、それ以下の得体のしれぬ存在でしかない。

 そんな存在が今王都の何処かにいるのだとしたら―――ルイズは先ほどよりも強い身震いを起こしそうになってしまう。

 

 しかし、ルイズは敢えてそれを我慢し自分がこれから何をするべきなのかを考える事にした。

 恐怖に震えるのは後でいつでもできるし、何より自分にはキメラと戦うだけの力は最低限備わっている。

 ならば今は恐怖を押し殺し、怪物の退治の専門家である霊夢と今後の事について相談しなければいけない。

 心の中でそう決断したルイズは体をキュッと強張らせて、こちらに訝しんだ表情を向ける霊夢へこれからすべき事を伝える。

 

「ひとまず、この事を姫さまに報告しなきゃ駄目よね?王都の中に、あんな怪物がいるだなんて許されないわ」

 彼女の言うとおり、姿方は違えどタルブで猛威を振るった怪物と同種の存在がいるならば真っ先に報告すべきだろう。

 幸い今のルイズにはアンリエッタへ伝える方法を確立しているため、報告自体は簡単に行えるに違いない。

 しかし、これは自分の勘が冴えわたっている所為なのか、霊夢としてはそれはダメなような気がしたのである。

 いつもならルイズの決定に同意していたのだろうが、何故か今回だけは自分の勘が『それは危険だ!』と判断したのだ。

 だから彼女にしては珍しく気まずい表情を浮かべてから、ルイズにやんわりな返事をする。

 

「……うーん、確かに普通ならそうするんだけどね~?今の私的にはもうちょっと様子を見た方が良いような気がするわ」

「どうしてよ?もしかしたら。何処かの誰かがこんなナメクジみたいなヤツにお触れたら取り返しがつかいのよ!」

 確かに彼女の言う通りであろう。相手が化け物ならば何時誰かに襲い掛かっても不思議ではない。

 ましてやここは人口密集地帯である王都。何処から出現しても、暫く動き回れば哀れな犠牲者見つける事も容易いだろう。

 それが自国の人間であるならば、尚更必死に訴えるのも無理はないだろう。同じ立場ならば寝る間も惜しんで捜し出し、退治するに違いない。

 だから霊夢としてもルイズの決定に賛成したいところであったが、長年鍛えてきた自分の勘が危険信号を出している。

 それを口にするのは少し難しかったものの、説明しなければルイズは納得しないだろう。

 だから霊夢はどう喋って良いか少し悩んだものの、頭の中で思いついた事を少しずつ口にしていく事にした。

 

「何でかは分からないけど、、今回急に現れたキメラと思しき怪物の出現は単なる一つの出来事じゃない気がするのよ」

「……?単なる、一つの…?」

 何を言っているのかイマイチ理解できないのか、急に喋り出した霊夢はルイズに怪訝な表情を向られてしまう。

 デルフもどう解釈すればいいのか良く分からないのだろうか、静観に徹している。

 口にした霊夢自身も自分が口にした言葉に頬を若干赤くしつつ、それでも説明を続けていく。

「まぁ、何て言えば良いのかしらね…ただ単純に、私達の刺客として放ったワケじゃあない気がするって言いたいワケ」

『!…成程、つまりあのキメラを操っているヤツとマリサとの出会いは、あくまで予想外だったってことか』

 ここで一人と一本は理解したのかルイズはハッとした表情を浮かべ、デルフはカチャカチャと嬉しそうに金属音を鳴らして喋る。

 ようやく自分の言いたい事を理解しかけてくれたと実感した霊夢は、更に喋り続ける。

 

「まぁ、どちらかといえばマリサを襲ったのはあくまでおまけじゃないか…って気がするのよ。

 あくまでアイツを襲ったのは目的゙外゙であって、本来の目的はもっと別なんじゃないか…って私は思うの」

 

 霊夢の主張を聞いて、ルイズも少しだけ考え込んでしまう。

「目的の、外…つまり目的外って事よね?じゃあ本来の目的って何なのかしら」

「それが分からないから「気がする」って言っただけよ」

 まぁそれはそうか。霊夢の言葉にムッとしつつ納得すると、ルイズは手に持ったままのキメラのスケッチを今一度眺めてみる。

 手足の無い不出来なナメクジの様な形をしたキメラは、一体なぜ王都の中に現れたのであろうか?

 そして…タルブと同じならば誰がこのキメラを操り、そしてマリサへ襲い掛からせたのだろう。

 ルイズの脳裏に、タルブの戦いにおいて大量のキメラをけしかけてきた女、シェフィールドの姿が思い浮かぶ。

 

 額に虚無の使い魔の証拠であるルーンを刻まれ、自らの神の頭脳―――ミョズニトニルンを自称していた黒髪の白肌の怪女。

 もしかすればあの女も王都にいて、あわよくばキメラを用いて敬愛するアンリエッタの暗殺を目論んでいるかもしれない。

 そうであるのならばやはり、一刻も早く手紙を使って王女殿下に今回の事を報告する必要がある。

 頭の中で色々と想像してしまったルイズは、再び霊夢に報告するべきだという主張を提案した。

「まだ何もわかってないけれど、黙ったまましておくのもマズイ気がするわ。だからやっぱり、姫さまには報告だけでも…」

 ルイズの提案に、今度は霊夢も暫し口を閉ざして考えてみる。

 

 別に彼女の提案は至極真っ当なうえに正論であるし、何よりここは勝手知ったる幻想郷ではない。

 現に自分たちから金を盗んだ少年一人捕まえられていないのだ、何せ地の利は盗人側ににあるのだから。

 人里以上に迷宮じみた街の中でキメラを捜そうとしても、盗人同様一向に見つからない可能性がある。

 しかも相手は人の道理の通じぬ化け物だ。こちらがグダグダと探している間にヤツの餌食になる人が出てくるかもしれない。

 正直博麗の巫女としてこの手の怪物退治で他者の力を借りてしまうのは何かダサいような気もするが、

 地の利が無い場所での何の手がかりも無しに探し回るなら、確かに報告ぐらいならしておいた方が良いかもしれない。

 

 ザっと脳内でそう結論付けた彼女は、少々納得の行かない表情を浮かべつつも頷いて見せた。

「う~ん…一番良いのは、私だけで原因究明とキメラ退治で決めたいのだけれど…何か起こったら手遅れだしね」

「え?それじゃあ…」

 困惑顔から一変、嬉しそうな表情を見せてくるルイズに「まぁ待ちなさい」と話を続けていく。 

「でもあくまで報告にしておいた方が良いわ。もしもキメラを操ってるのが、タルブで見た女だったとしたら…」

「…!下手に動けば何をしでかすか分からない…って事ね」

 霊夢の言葉に、ルイズは戦地となったタルブを縮小された地獄へと変えたシェフィールドの事を思い出す。

 キメラを手下として使ったとはいえ、それを指揮してトリステイン軍を襲わせたのは紛れも無く彼女の仕業だ。

 

 と、なれば…アンリエッタにそれを教えて街中に魔法衛士隊を派遣するよう事態にでもなったら…。

 そこから先の事を想像しそうになったルイズは慌てて妄想を頭の中から振り払い、否定するほかなかった。

 青ざめるルイズを見て彼女がどんな想像をしたのか察してか、デルフが金属音を立てながら余計な事を言い始める。

 

『相手は神の頭脳ことミョズニトニルンなうえにあんな性格だ、目的が何なのか分からんが大事にはなるかもしれん。

 …オレっちの経験から言わせりゃあ、あの手の輩はどんだけ犠牲が出ようとも目的が遂げられればそれで良いってタイプの人間さね』

 

 恐らくこの場に居る中では最も最年長であるデルフの言葉は、割と冗談では済まない様な気がした。

 大量のキメラを用いて、タルブの人々や軍を襲ったあの女ならそれだけの事をしてもおかしくは無いだろう。

 デルフのアドバイスにルイズは恐る恐る頷くと、真剣な表情を見せる霊夢が話しかけてきた

「とりあえず手紙は送るとして…ひとまずは静観に徹して欲しいって書いておいた方がいいわね」

「確かにそうね…姫さまなら、人々の事を案じて結構な人数を動かしちゃうかもしれないし…」

 書くべきことは三つ。王都の中でキメラと思しき怪物と出会った事と、身の回りに気を付ける事。 

 そして相手に気取られぬように大捜索などは行わない事、ぐらいであろうか。

 後は街中で収集した情報と一緒に送れば良いだろうと、ルイズはこれからやるべき事を決めていく。

 

 とりあえず、手紙に関しては今夜中にでも書いて明日中に送った方が良いだろう。

 どういう風に書くのかはペンを手に取った所で考えればいいとして、一番時間が掛かるのは情報だ。

 結構な量を集めたのは良いが、自分の手で選別するかありのままの状態で送るかの二択を決めなければいけない。

 いきなりウンウンと悩み始めた自分が気になった霊夢を相手に、ルイズはどうすれば良いかと聞いた所、

 

「そんなの簡単じゃない。一々選んでたらキリが無いし、全部ありのままに送っちゃいなさい」

 

 …と物凄くアバウトで即決だが、非常に的確なアドバイスをしてくれた。

 それを聞いた後でルイズは「そんな適当に…」と苦言を漏らしたが、それでも霊夢は言ってくれた。

 

「多分、あのお姫様なら自分に対しての批判が書かれても健気かつ前向きにやっていけると思うわよ?

 なーんか一見頼りなさそう雰囲気は感じるけど、あぁいうタイプの人間って挫折や困難があればある程成長するかもね」

 

 何故か安心して頷けない様な言い方であったが、どうやら彼女なりにアンリエッタの事を褒めてはいるらしい。

 雑な感じで喋っているが、その表情が険しくないのを見るに霊夢は霊夢なりに姫さまの事は少なからず認めているのだろう。

 そう思っておくことにしたルイズは霊夢の提案にひとまず「考えてて置くわ」と返し、デルフの横に置いていた火かき棒を手に取った。

 主に薪を暖炉の中に入れる為の道具であるが、当然二階の廊下にそんなものはない。

 ルイズはいつも握っている杖よりやや太い火かき棒の持ち手を握りしめて、廊下の天井目がけて振りかぶった。

 そのまま空振りするかとおもった火かき棒はしかし、その先端部が天井についている小さな取っ手に引っ掛る。

 

 それを確認した後、火かき棒を握るルイズは腕に力を込めて火かき棒を下ろそうとする。

 当然先端部が取っ手に引っ掛ったままのそれが彼女の言う事を聞くはずはなく、彼女の腕力に抵抗する。

 しかしそれもほんの一瞬の事で、ルイズに力負けした火かき棒は天井の取っ手に引っかかったまま地面へと下りていく。

 すると取っ手を中心に天井が長方形の形に開き、そのまま二階の廊下へとゆっくり降りていく。

 たちまち天井に取り付けられていた仕掛け階段が、微かな埃と共に二人と一本の前に姿を現した。

 

 やがて廊下まであと数サントという所で取っ手から火かき棒を外したルイズは、左手でグッと階段を廊下に設置させる。

 ゴトン!というやや大きな音と共に隠し階段は無事展開が完了し、彼女たちの前に屋根裏部屋へと続く入り口が完成した。

 一人で展開を終わらせたルイズは右手の火かき棒を再び壁に立てかけると、まるで一仕事終えたかのように一息ついた。

「ふぅ~!…ランから火かき棒を渡された時はどうすりゃいいのよ…って思ったけど、案外私でもできるものなのね」

『いやいや、普通はお前さんほどの女子が一人でどうこうできるもんじゃねぇぞ』

「ってうか、その小さな体の何処にあんな重そうな階段を展開できる程の筋力があるのよ」

 良く考えれば凄い事をやってのけたルイズの言葉に、流石のデルフと霊夢も突っ込みを入れてしまう。

 これだけ立派な隠し階段だと、確かに大の大人でなければ満足に展開させる事はできないだろう。

 魔法を使うというのなら話は別になるが、知ってのとおりルイズはその手のコモン・マジックはできない。

 と、なれば自分の腕力だけが頼りになるが彼女ほどの女子では到底無理な事には違い無いはずである。

 それをいとも簡単にやってのけたルイズはやはり同年代の貴族達とは一味も二味も違うのだろう、主に体の鍛え方が。

 

 呆然とするしかないデルフと霊夢からの突っ込みに対し、ルイズは「失礼な事言うわね?」と腰に手を当てて怒ったように言った。

「こう見えても幼少期から乗馬やらアウトドアやったりと、そんじょそこいらの学生よりかは体を強いってだけよ」

 彼女の言う『アウトドア』というのは、ひょっとすればちょっとした『サバイバル』ではなかったのだろうか?

 霊夢がそんな疑問を抱くのを余所にルイズは一足先に階段へと二段ほど上がって、それから霊夢たちの方へと振り返る。

「とりあえず、後の話は夕食でも食べながらしましょう。いい加減、お腹も空いてきたしね」

「…まぁそうね。これ以上立ち話も何だし、私も色々と落ち着いて考えたい事があるし」

 ルイズの言葉に霊夢は何処か含みのある言葉を返しつつデルフを手に取り、彼女の後を続くように階段を上っていく。

 一瞬霊夢の口から出た『考えたい事』に首を傾げそうになったが、すぐに自分たちの金を盗んだあの少年の事だと察する。

 

 魔理沙が街中でキメラと戦う事になったキッカケの中に、その盗人の少年は出ていた。

 街中で別の人の財布を盗もうとしたところで、魔理沙が気づき、少年はその場を逃げ出したのだという。

 少年は必死に逃げ回ったものの、結局寂れた広場のような所で魔理沙は彼を追いつめたらしい。

 しかしタイミングが悪くキメラが現れ、それに隙を見せてしまったところあっさりと逃げられてしまったのだという。

 その後は話で聞いた通り怪物をひとまずは撃退したものの、結局少年は見逃してしまっている。

 結果的に窃盗犯を見逃すことにはなったが、危険な怪物を一時撤退に追い込んだ魔理沙の事は責められないだろう。

 最も、霊夢はそれを話す魔理沙に「もっと早く仕留めなさいよ」と愚痴を漏らしてはいたが。 

 

 きっとその事だと思ったルイズは、霊夢に話を合わそうとする。

「まぁ別に良いじゃない。…いや楽観視はできないけど、少なくともブルドンネ街にいるって証拠になるんじゃないの?」

「ん?…まぁそうなるんでしょうけど、だからといって隠れ家が分からない以上探すのは困難な事なのよ」

 先ほどアンリエッタに送る手紙の件で言ったように、霊夢にはまだ王都の構造をイマイチ把握できていなかった。

 街全体が大きすぎる為、空を飛んでも全体図を把握しにくいうえに上空からでは死角となる場所も多い。

 地の利は完全に盗人側にある故に、このままでは盗まれた金を持ち逃げされてしまうかもしれない。

 

 まるで残り時間のわからない時限爆弾ね。…霊夢が今の状況を内心で呟いた後、

 ルイズはあと一段で屋根裏部屋…という所で足を止めて、再び霊夢の方へと振り返って質問した。

「だからと言って、アンタの性分なら急に出てきた化け物を倒してたでしょう」

「…まぁね。だけど、魔理沙よりかは絶対に素早く仕留めれた自身はあるわよ」 

 何を今更…と言いたい質問に、霊夢はため息をつきつつそう答える。

 

 もしも自分が魔理沙の立場ならば、確かに少年の身柄を確保するよりも怪物を退治していたであろう。

 ただ、彼女のように自分の『魔法』でヘマするようなバカなマネは絶対にしないという事だけは誓える。

 さっさと怪物を始末して、そのうえで逃げ切れると思い込んでいる盗人を今度こそ捕まえる事ができただろう。

 軽く頭の中でシュミレートしつつ、やはり失敗はしないだろうと確信した霊夢は、ここにはいない魔理沙への文句を口走ってしまう。

 

「大体、自分の『魔法』で九死に一生な体験する魔法使いなんて、恥ずかしいにも程があるわよ」 

「流石霊夢、人の痛いところを容赦せず針で刺すように突いてきやがるぜ」

 

 突然後ろから掛けられた相槌に一瞬硬直した後、霊夢はスッと振り返る。

 そこにいたのは、階段の上から見下ろせる二階の廊下からこちらを見上げる魔理沙の姿であった。

 所謂怒り笑い…というヤツなのだろうか、無理に作ったような苦笑いを顔に貼り付けている。

 右の眉がヒクヒクと微かに動いているのを見るに、どうやら自分の言葉は丸聞こえだったらしい。

 まぁそれで対して焦る必要も無く、振り返った霊夢は酷く落ち着いた様子のまま戻ってきた彼女の一声掛けた。

「あら、いたのね魔理沙」

「いやいや、いたのね…じゃないだろ、そこは普通焦るもんじゃないのか?」

 

 思いの外話を聞かれても焦らない彼女を見て、思わず魔理沙本人は突っ込んでしまう。

 二人のやり取りを一番上から見下ろしつつ、巫女に対する魔法使いの突っ込みにルイズは納得してしまう。

 普通他人の文句を呟いておいて、その本人が気づかぬ間に傍にいたのなら普通は謝るなり焦るなりするものだ。

 しかし霊夢の場合、そんな事など何処吹く風と言わんばかりに冷静でまるで自分は悪くないとでも言わんばかりである。

 まぁ実際、彼女の事だから特に気にしてもいないのだろう。自分よりもそれを察しているであろう魔理沙はやれやれと首を横に振った。

「全く、一階から細やかな夕食セット三人前を運んで来たっていうのに、文句を言われちゃあ流石の私でもたまらないぜ」

 そんな事を言う彼女の両手はお盆を持っており、その上には出来立てであろう湯気を立てる『細やか』な食事を載せている。

 

 店の窯で焼いたであろうパンに、レタスとトマトのサラダ。

 小さめのカップ入ったポテトポタージュと、メインに頼んでいたタニア鱒のムニエル。

 ちょっとしたディナーにも見えるが、『魅惑の妖精』亭ならこれだけ頼んでも店らに置いてある古酒一瓶分よりも安い。

 更に店では魚の保存があまりできない為に、魚料理となれば肉料理よりもお手頃価格で食べられる。

 ルイズが選び、魔理沙が運んできた料理を一通り見た後で霊夢がポツリと呟く。

「一汁二菜…ご飯じゃなくてパンだけど、まぁ中々良さげなチョイスじゃないかしら?」

「いちじゅうにさい…?まぁ美味しそうなのを選んでみたけど、私としてはデザートが欲しかったところね」

 聞き慣れぬ言葉に首を傾げつつ、財布の中の残金がそろそろ危うくなってきたのを実感してしまう。

 

 デザートが無い事を惜しむルイズの言葉を聞いた所で、ふと霊夢は気が付く。

「ん?…ちょい待ちなさい。そのお盆の上の料理、どう見ても二人分しか無いように見えるんだけど」

「ように見える…というよりも、二人分しか乗せてないぜ。このプレートだと三人分は乗らないしな」

 成程、魔理沙の言うとおりお盆は二人分のセットを乗せるだけで精一杯の大きさである。

 という事は、先に二人分だけ持ってきてから最後に自分の分を持ってくるのであろうか?

 その時であった、二階の廊下にいる魔理沙の背後へと近づく人影に気が付いたのは。

 一瞬誰?と思った霊夢とルイズはしかし、それが見慣れた少女であったという事がすぐに分かった。

 

「わぁー!こうして夜中に階段を見上げると、いかにも秘密の隠れ家って感じがしますねー」

 魔理沙の背中越しに、隠し階段を見上げた黒髪の少女シエスタが目を輝かせて言う。

 その両手には魔理沙と同じくお盆を持っており、その上にはこれまた同じような料理が載っている。

 

「シエスタじゃない、まさかわざわざ魔理沙の事手伝ってくれてるの?」

「まさかって何だよまさかって?…まぁ、そのまさかなんだけどな」

 予想していなかったシエスタの登場にルイズは思わず声を上げ、魔理沙が代わりに言葉を返す。

 その後でシエスタはコクリと頷き、次いで前にいる魔理沙の横を通って隠し階段を上り始めた。

「流石に三人前の料理は一度に運べませんからね。…ついでだから、運ぶのを手伝う事にしたんですよ」

 流石学院でメイドとして働いているだけあってか、喋りながらもトレイを揺らすことなく屋根裏部屋へと上がってくる。

 それより少し遅れて魔理沙も階段を上り始め、暫し丈夫な隠し階段の軋む音が当たりに響く事となった。

 

 やがて一分もしない内に屋根裏部屋へと上がってきた彼女は、結構綺麗になった部屋の中を見て声を上げる。

 まだ部屋の端っこには若干埃が溜まっているものの、近づかなければそれが舞い上がる事もないだろう。

「へぇー、これってミス・ヴァリエールとレイムさん達で綺麗にしたんですか?思っていたよりも綺麗になってるじゃないですか」

「だろ?何せあれだけの埃やら色々なアレやらは、全部ルイズと霊夢が片付けてくれたんだぜ」

「何で掃除を一サントも手伝ってないアンタが誇ってるのよ」

 感心するシエスタに胸を張って説明する魔理沙にすかさず突っ込むルイズを余所に、

 デルフを足元に置いた霊夢は暫し屋根裏部屋の中を見回したのち、前から目をつけていた大きな木箱の方へと歩いていく。

 何が入っているのか分からないが、程よい重さのある長方形のそれは彼女一人でも楽に動かせる。

 埃も掃除の時に落として雑巾がけもしているので適当なシーツでも上から掛ければ、即席の長テーブルの完成である。

 最も、シーツはベッドに使っている物だけしかここにはないので完成に至ることは無いだろう。

 

 少し音を立てながらも、部屋の真ん中辺りにまで木箱を押した霊夢は一息つきながらもルイズ達に声を掛けた。

「ふぅ…魔理沙にシエスタ、悪いけどそのお盆の上の料理をこの上に置いて貰えないかしら」

「あ、はい!ただいま」

 霊夢からの要請にシエスタは慣れた様子で返事をし、次いで魔理沙も「はいよー」とついていく。

 二人が料理を配膳していく間に、霊夢はちゃっちゃとイス代わりになりそうな木箱を見繕う。

 といっても、既に掃除の時にある程度分けていたのためそこから適当なモノを選ぶだけである。

 これはルイズかな?と腰ほどの大きさしかない木箱を運ぼうとしたところで、そのルイズ本人の声が後ろから聞こえてきた。

 

「まさかとは思ってたけど、木箱を椅子やテーブル代わりにする日が来るだなんて…」

「ん?何なら床に直接腰を下ろして食べたかったの?」

「まさか、アンタじゃああるまいし」

 召喚して翌日以降、暫く目にした霊夢の食事姿を思い出しつつルイズは肩を竦めて言う。

 ある程度掃除したとはいえ、流石に屋根裏部屋の床に食説食器を置いて食事しようとは思わない。

 それならば、埃をしっかりと落として綺麗にした木箱をテーブル代わりした方がよっぽと衛生的である。

 霊夢もそれは理解しているのか、ルイズの言葉に「まぁそうよね」と同じように肩を竦めて言う。

「でも学院食堂の床よりは暖かそうじゃない」

「築ウン百年物のフローリングと、伝統ある魔法学院の食堂の床を比較しないでくれる?」

 霊夢の失礼な比較に文句を言いつつ、ルイズはシエスタたちがテーブルに置いていく料理を眺めてみる。

 こんな繁華街の酒場の料理にしてはとても見栄えが良く、そして美味しそうなモノばかり。

 我ながら良いチョイスした…と思った所で、ふとルイズはある違和感に気が付いた。

 即席テーブルの上に並ぶ料理が、もう一人分あるような気がする。というか、ある。

 

「ちょっとシエスタ、何か料理が一つ…多い気がするんですけど」

「はい?あぁ、それ気のせいじゃないですよ。だって私の分の賄いもありますし」

 自分の問いかけに対しそう返したシエスタにルイズは「あぁ、そう…」と納得しかけた直後、「え?」と目を丸くさせた。

 少し慌てて、違和感を感じた場所へもう一度目を向ける。確かに、自分の頼んだメニューとは少しだけ違う。

 サラダとスープは同じだが、パンは雑穀パンでメインの魚料理はラグドリアンナマズのフライになっている。

 タニア鱒より安価なラグドリアンナマズは、フライにしてもムニエルにしてもおいしい魚だ。

 そんな場違いな事を考えているルイズを余所に、準備を終えたシエスタは笑みを浮かべてルイズに話しかけてくる。

 

「実は戻ってきたマリサさんから、屋根裏部屋で食べるって聞いて…それで私も御同席しようと思ったんです。

 最初はダメだって言われたんですが、ミス・ヴァリエールと先に御同席の約束をしていたと言ったら…まぁそれならといった感じで、はい」

 

 一切隠し事をしていないかのような純粋で、今は厄介な笑顔を浮かべて言うシエスタ。

 何がはい、なのか?心中でそんな事を思いつつもルイズは咄嗟に言い訳役を押し付けた魔理沙を方を見る。

 自分の名前が生えす他の口から出た所で配膳を終えたばかりであった彼女は、お盆片手に肩を竦めた。

 彼女の顔は苦笑いを浮かべており、いかにも「仕方なかった」と言いたい事だけは何となくわかった。

 そしてルイズ自身背後からひしひしと感じる霊夢のキッツイ視線に、魔理沙同様肩をすくめるほかない。

 

 シエスタは今の自分たちの状況を知らない、本当に無関係な一般市民だ。

 更に彼女が自分たちとの夕食の同席を求めたのは、キメラが現れたという話を聞く前の事。

 客観的かつ一般市民の目線から見れば、朝にしていた約束を勝手に破った非は当然こちらにある。

 かといってこの街に現れた怪物の事を話し、下手に巻き込ませる事など言語道断である。

 

「さて、料理も配膳し終えましたし…私、水差しとコップを一階から持ってきますね」

 既に夕食を共にする気満々の彼女はそう言い残して、軽い足取りで二階へと降りていく。

 後に残るはルイズ達三人と、一言も喋らず状況見守っていたデルフだけ。

 そして即席テーブルには湯気を立てる料理がずらりと並べられている。

「――――…一体どういう事なのよ?」

 最初に口を開いた霊夢はそう言いながら、ルイズの方へと近づいていく。

 約束の事を知らない彼女にとって、シエスタの同席は本当に想定の範囲外だったに違いない。

 何せ先程、キメラの事やら盗人について今後どうしようかという話をしようと決めたばかりだったのだから。

 無関係なシエスタがいたら話はできないし、無理に話して巻き込ませるワケにもいかない。

 

 霊夢の鋭い睨みつけに、ルイズは思わず魔理沙に視線を向けるも彼女は肩を竦めて言った。

「私は一応無理だって言いはしたがな…結構無理に押し切られちまってこの有様よ」

『成程。…お淑やかな見た目とは裏腹に、押しには強いってワケか』

「何が成程、よ」

 三人のやり取りを耳に入れつつ、ルイズはこれからの事を想像してため息をつきたくなった。

 何せ夕食の同席だけでは済まない、シエスタの純粋で無垢な好意という相手と対峙しなければいけないのだから。

 

 

 

 

 

 陽が沈み、双月が無数の星と共に夜空を照らし始めて数時間が経つトリスタニア。

 チクントネ街の活気も最高潮に達し、それとバランスを合わせるかのように静まり返っていくチクントネ街。

 文明の灯りは繁華街に集中し、まるで羽虫の様に多くの人々がそちらへと集まっていく。

 ある労働者たちは酒場で安い酒と食事で乾杯をし、ある下級貴族は少し良い雰囲気の酒場で夕食を頂く。

 ブルドンネ街のホテルからやってきた観光客たちは、夏の熱気に浮かれて王都の夜の顔を満喫している。

 

 そんな賑やかながらも、どこか切ない一夏の夜で活気づくチクントネ街の―――地面の下。

 レンガ造りの地面と分厚い石壁に隔てられた先には、王都の下水道が走っている。

 地上の生活排水や生ごみ等が流れていく水は濁りきっており、とても人が住めるような環境ではない。

 それでも地上から滅多に出ないドブネズミやゴキブリたちにとっては最高の住処だ。

 冬は地上と比べて幾分か暖かく、そして時折通路に引っ掛る生ごみという御馳走まで手に入るのだ。

 地上では鼻つまみ者とされ駆除されやすい彼らにとって、これ以上贅沢な環境は無いだろう。

 

 王都の下水道を管理する処理施設の職員たちが使う通路と言う足場もあり、様々な場所へも行ける。

 それこそ旧市街地の何もない貧相な下水道から、ブルドンネ街の豊富で新鮮な生ごみをありつける下水道まで、

 時間は掛かるが、地上と違って恐ろしい天敵も少ないここは正に天国か楽園と例えられるだろう。

 だが――今夜に限って、彼らはその身を潜めてジッと隠れる事に徹していた。

 何かは良く分からないが、ここ最近になって現れた『怖ろしく見た事の無いモノ』に見つからない為に。 

 

 天井に取り付けられたカンテラが、仄かに汚れた水面を照らす下水道。

 一定の間隔をおいてぶら下がっているそれは、この暗い場所を明るくするには少々役不足なのかもしれない。

 丁度ブルドンネ街とチクトンネ街の境である場所の地下に造られた連絡通路の上で、シェフィールドはそんな事をふと考えてしまう。

 背後から聞こえる激流の音をBGМは鬱陶しいかと思えるが、いざ考え事をしてみるとそれ以外の雑音を掻き消してくれて丁度良い。

 いま彼女がいる場所は二つの街の下水が合流する場所で、更にその激流の上に造られた連絡通路に立っていた。

 細かい格子の鉄板で出来た床から下を覗けば、白く波立つ激流がポッカリと空いた穴の中へと落ちていくのが見えるだろう。

 この穴へ落ちていく水は更に地下を通って、処理施設が管理するマジック・アイテムで濾過されて綺麗な水へと戻っていく。

 浄化された水はそのまま海へと戻っていくか、もしくは一部の井戸水として人々の生活用水に再利用される。

 ここだけではなく、二つの街や旧市街地にも同じような穴がある為に余程の事が無い限り水害が起きる事は無いだろう。

 

 そんな穴の上の通路に佇み、一人考え事に耽る彼女が何故こんな所にいるのであろうか?

 別に考え事をするならこんな場所ではなく、地上で宿でも取ってそこで考えればいい筈だ。

 実際シェフィールド自身は既に宿を取っているし、こんな場所よりもずっと環境の良い部屋である。

 理由はたったの一つ―――彼女は待っていたのだ、自分の『手駒』が返ってくるのを。

 そんな時であった、ふと後ろから何か大きな物体が地面を這いずるような音が聞こえてきたのは。

「…………ん?どうやら帰ってきたようね」

 どうでもいい考え事に耽っていた彼女はすぐにそれを頭から振り払い、背後を振り返る。

 

 振り返った先には、ブルドンネ側の下水道へと続く通路がある。

 間隔を取って置かれている頼りない灯りに照らされた石造りの地面に、不自然な黒い影が映り込む。

 おおよそ人とは思えぬ丸すぎるシルエットは、例えるならばナメクジやナマコに近いと言われればそう見えるかもしれない。

 しかし、影に隠れた全身を見てしまえば誰もがこう思うだろう。こんな生物は見たことが無い、と。

 

 そして…もしもこの場に、この怪物と地上で一戦交えたであろう普通の魔法使いがいれば怪物を指さして叫んでいたであろう。

 こいつだよ、私の大捕物を一番いいところで邪魔した怪物は!―――と。

 

 シェフィールドは足元に置いていたカンテラの取っ手を右手で掴み、ついで左手の指を鳴らして灯りを点ける。

 彼女を中心にして周囲を明るくする文明の利器が、近づいてくる影の全身をその日で照らしだす。

 手足のない丸く黒いスライム状の体に黄色い二つの目玉が、爛々と輝かせてシェフィールドの元へと近づいてくる。

 普通なら悲鳴を上げて逃げ出すのであろうが、その怪物を照らしている本人は微動だにせずじっと凝視している。

 それどころか、その口許に薄らと笑みを浮かべてそのスライムの様な存在へと近づいていくではないか。

 対して怪物も近づいてくるシェフィールドを襲うつもりはないのか、プルプルとその体を揺らしていた。

 

 怪物と後一メイルというところまで近づいたシェフィールドの額に刻まれたルーンが、微かに発光し始める。

 やがて十秒と経たぬ内に額のルーンが、暗闇の中にでもハッキリと見えるようになるまで強く光り出す頃には、

 地上で魔理沙に襲い掛かっていた怪物は、まるでしっかりとしつけのされた大型犬のように彼女の前で停止していた。

「ご苦労様。あの黒白には手痛い目に遭わされたようだけど…、まぁ『ノウナシ』の状態だとあれが限界よね」

 怪物を見下ろしつつ一人呟くシェフィールドがもう一度左手の指を、勢いよく鳴らす。

 パチン!と小気味の良い音が広い空間に木霊し、ゆっくりと時間を掛けて消えていく。

 その音を聞いた直後だ。足元で大人しくしていた怪物はその体を揺らして、彼女の横を通り過ぎていく。

 這いずるしか移動方法が這いずるしかないその丸い体で器用に前へ進みながら、チクントネ街側の下水道へと向かおうとしている。

 

 シェフィールドも少し遅れて振り返り、向こう側へと行こうとする怪物の後姿をじっと見守っている。

 あと少しでチクトンネ街側の下水道通路の境目の手前まで来たところで、怪物は這いずっていたその体をピタリと止めた。

 下の激流が見える鉄板の通路から、石造りの通路へと切り替わる手前で止まった怪物は、じっと前方を見据えている。 

 すると、その前方の通路――少し遠くからコツ、コツ、コツ…と二人分の靴音が聞こえてきた。

 距離からして、恐らく一分も経たぬ内に靴音の主は進行方向の先にいる怪物と鉢合わせする事になるだろう。

「全く、散々人にデモンストレーションさせた挙句に…自ら姿を現して来られるとはね…泣かしてくれるじゃないの」

 シェフィールドはその靴音の主達を知っているのだろうか、慌てる素振りを全く見せていない。

 

 それから二十秒程経った頃であろうか、ようやく彼女の前に足音の主達が暗闇の中から姿を現す。

 やや時代遅れの灰色の羽根帽子に灰色のマントを羽織った貴族の男性で、顔に被っている仮面のせいで年までは分からない。

 もう一人は、この下水道ではあまりにも不釣り合いな灰色のドレスとマント着飾った貴婦人で、彼女もまたその顔に仮面を被っている。

 場所が場所で仮面を被っていなければ、モノクロ画で書かれた貴族夫婦のモデルとしてはうってつけの二人であろう。

 何せ靴の先端から帽子の天辺までほぼ灰色なのだ、ちゃんと色付きで描けと注文してもそれを受けた画家はモノクロ画で描くしかないのだから。

 

 シェフィールドは自分の前へ現れた二人組を見て、懐から懐中時計を取り出して見せる。

 そしてワザとらしく蓋を開けると、少し離れている彼らへスッと今の時刻を見せながら話しかけた。

「十分も遅れてやって来るなんて、一体どこでナニをしてらっしゃったのかしら?」

「貴族でないアナタには少し分からないかも知れませんが、ゴタついた案件を片付けるだけでも結構な時間が掛かるものでしてよ?」

「あら、そうでしたの?…案外、そんなアホらしい恰好をするのに時間を掛けていたのでなくて?」

 挑発的で聞く者が聞けば赤面しそうななシェフィールドの挑発に対し答えたのは、貴婦人の方であった。

 自分の隣にいる灰色の貴族を庇うようにして前に出た彼女は、相手からの売り言葉に対し買い言葉で返してみせる。

 それに対して、シェフィールドも再び挑発で返す…という悪循環に陥ろうとした所で、灰色の貴族が待ったを掛けた。

 

「おいおい、よさんかこんな所で!こんなしけた場所で喧嘩しても得られるモノはないんだぞ、キミたち」

「……失礼、見苦しい所をお見せしてしまいました―――灰色卿」

 声だけでも仮面の下の顔が分かってしまう程のしわがれている老貴族――灰色卿の言葉に、貴婦人は大人しく引き下がる。

 そして彼に一礼した後再び後ろへ下がると、次に灰色卿が一方前へ出てシェフィールドと向かい合った。

 彼と向かい合うシェフィールドも灰色卿に軽く一礼し、彼らの前にいる怪物を一瞥しながら話し始めていく。

「これはこれは灰色卿自ら起こしに来られるとは…よっぽど、今回ご提供する商品がお気に召したのですね?」

「まぁな。先にくれた商品を潰してしまってからは少し時間を置こうとは思っていたが…一つ早急に片付けねばならない事ができてな」

 彼女の言葉に灰色卿はそう答えて、自分たちの前にいる黒いスライム状の怪物――キメラへと視線を向けた。

 そしてマントの下に隠れていた右手を上げると、後ろに控えていた貴婦人がスッと彼の横を通り過ぎていく。

 

 鉄でできた床をハイヒールがコツ、コツ、コツ…と耳障りな音を立てて歩く灰色の貴婦人。

 歩く最中に灰色卿と同じくマントの下に隠していた右腕を、シェフィールドの前に曝け出してみせる。

 その右腕の先にある手にはどこへ隠していたのか、個人用の小さな旅行鞄の取っ手を掴んでいた。

 やがてシェフィールドとの距離が二メイルという所で貴婦人は足を止めるとそこで鞄のロックを外し、中身がシェフィールドに見えるよう開ける。

 開かれた鞄の中に入っていたのは、ぎっしりと詰め込まれたエキュー金貨であった。

 暗い下水道でも尚黄金の輝きを忘れぬ金貨を前に、流石のシェフィールドもへぇ…と声を漏らしてしまう。

 悪くは無い反応を見せてくれたシェフィールドを確認した後、貴婦人はスッと鞄を閉めて話し出す。

 

「まずは前金として四百エキューを差し上げます。貴女の提供したキメラがこちらの期待添えたら残りの後金四百エキューを…」

「つまり…合計八百エキューってことね…まずまずじゃない?ソイツの購入費としては少々釣り合わないけど」

 おおよそ並みの貴族が手に入れたのならば、半年間はドーヴィルのリゾート地で遊び暮らせるだけの額である。

 平民ならばそれだけの金額があれば私生活には絶対に困らないであろうし、節約すれは十年以上は働かずに暮らせてしまう。

 だが…シェフィールド本人の見解としては、それだけの金額を積まれてもキメラの代金としては『割に合わない』と感じていた。

 更に提供する際にこのキメラの『本体』もそっくりそのまま渡すようにと、敬愛するジョゼフからの伝言もある。

 となれば…八百エキュー『ぽっち』で手放してしまうというのは、あまりにも理不尽というものなのではないだろうか?

 

 本当ならばここでその事を告げた後でしっかり説明をし、金額を上げるよう要求するのが普通であろう。

 しかし正直なところ、シェフィールドにとって金というモノはダダを捏ねて欲しがるものでもなかった。

 本当ならばキメラもただで渡して、その扱いに関しては素人な連中がどう取り扱うのか見物したいのである。

 あくまで金銭を要求するのは、相手側にちゃんとした取引だと思わせる為だ。

「失礼、灰色卿。…アナタは我々の提供するキメラを少し過小評価しているのではありませんか?」

 だからこうして、ワザとらしく首を軽く傾げて灰色卿に質問をするのも演技の内であった。

 最も…質問の内容に関しては演技の外であり、制作に携わった一人としての疑問であるが。

 シェフィールドからの質問に対し老貴族は暫し唸ったのち、渋々と返事をする。

 

「まぁな。見た所このナリじゃあ我らが要求しているような仕事を満足にこなせるとは…思えん。

 それに先の戦が原因で他の者たちはキメラに対して懐疑的になっておる、これ以上の捻出はちと難しいのだ」

 

 彼が言いたい事は即ち二つ。要求する任務を達成できるのかという事と、財布の紐が硬くなってしまった事だ。

 恐らく今回の八百エキューも灰色卿自身の口座から引き出したものに違いない、とシェフィールドは察する。

 集団ならまだしも、例えトリステインの古参貴族でも八百エキューは充分に大枚の範囲内だ。

 と、なれば…これ以上駄々を捏ねても金は出ないだろうと予測した彼女は、ひとまず八百エキューで治める事にした。

 それよりも許し難いのは…最初に言っていた、あのキメラに要求した任務を達成できるのか…という事についてである。

 これに関しては先にも述べた様に、制作に携わった人間の内一人としては一言申したい気分であった。

 少なくとも以前渡したキメラとは、性能で天と地の差があるという事を教えてやらなければいけない。

 

「これはこれは…随分と心配性だこと。よっぽどそのキメラの形状に不満があるようですね?

 けれどご安心を、いまご覧になっている姿はいわば本気をだしていない不完全状態…私達は『ノウナシ』と呼んでいます」

 

 不敵な笑みを浮かべるシェフィールドの口から出た言葉に、灰色卿はマスクの下で怪訝な表情を浮かべる。

 『ノウナシ』…とは、これまた酷い呼び名である。恐らくは「能無し」か「脳が無い」のどちらか…或いは両方から取ったのだろう。

 こうして目の前にいる個体を見てみると、黄色に光る目玉以外の臓器が体の中にあるとは思えない。

 成程、確かに『ノウナシ』という呼び名はこのキメラにうってつけであろう。脳が無いから命令も伝わらない能無しなのだから。

 そんな事を考えながらキメラを見下ろしていた灰色卿に、しかし…とシェフィールドは話を続けていく。

 

「最初に言ったようにそれはあくまで不完全状態でのあだ名、ならば……『ノウ』がないのなら゙戻しでやればいいだけの事」

 彼女がそう言って左手を軽く上げると、そこから三度目のフィンガースナップを決めて見せた。

 パチン!という音が下水道内に響き渡り、それは合図となって近くの暗闇に潜んでいた『何か』を引きずり出す。

 一体何が起こるのかと訝しんでいた灰色卿たちは、シェフィールドの背後から近づいてくるその『何か』に気が付いた。

 最初こそ遠すぎで何が何だか分からなかったものの、やがて『何か』が彼女の横にまで来たとき…その正体を知ってしまう。

 

「――…!灰色卿…!」

「これは…」

 瞬間、それを目にした貴婦人は仮面の下からでも分かる程に驚愕し、灰色卿も動揺を見せてしまう。

 それ程までにその『何か』はあまりにもインパクトがあり、そして見る者を震え上がらせる程におぞましいものであった。

 二人の反応を目にし、ひとまずは上々と感じたシェフィールドは口の端を吊り上げ一礼しつつ言葉を放つ。

 

「こいつが『ノウナシ』から『ノウアリ』の状態になれば、あなた方のご期待に答えられる活躍をする事でしょう。

 ご安心くださいな、灰色卿。こいつの得意とする専門分野は、今のアナタにうってつけである事に間違いは無い筈です」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。