ルイズと無重力巫女さん   作:1-UP-code

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第九十六話

 タニアリージュ・ロワイヤル座の二階は一階ロビーとはまた別にラウンジが用意されていた。

 下の階ほど広くは無いが、貴族専用であるためか幾つかの観葉植物とソファーが置かれているさっぱりとした造りである。

 基本的に二階の観覧席等に平民は座れず、また下級貴族にとっては少し高いと感じる値段なのだろうか、

 二階にいる者たちは皆しっかりとした身なりをしており、立ち振る舞いのそれは立派なトリステイン貴族だ。

 チケット売り場も二階に移設されているので、少し小腹を満たそう…と思わない限り一階へ降りることは無い。

 精々手すり越しにロビーのあちこちを眺めつつ、劇を観終ったらあそこで紅茶でも飲もう…と考える程度であった。

 紳士淑女達は下の喧騒とは対照的に穏やかに会話し、両親に連れられた子供たちは静かに上演時間を待っている。

 

 そんな時であった、ふと一階ロビーへと下りられる階段の方から騒ぎ声が聞こえてきたのは。

 まだ年若い…それこそ学生と言っても差し支えない少女の怒鳴り声と、警備員であろう青年との押し問答だろうか。

 何だ何だと何人かがそちらの方へ視線を向けると、案の定その押し問答が丁度階段の前で行われていた。

「ちょっと、アンタ何してるのよ?通しなさい!」

「困りますお客様!こちらは貴族様方専用のラウンジがありますので、立ち入りの方は…」

「アンタねぇ…!私の髪の色だけで私が誰なのか理解しなさいよッ!」

 少女はウェーブの掛かったピンクのブロンドヘアーを振り乱しながらそう叫んでいる。

 その髪が目に入った貴族たちは瞬間目を丸くし、一斉に互いの顔を見合わせながらざわめき始めた。

 トリステインの貴族であるならば、文字の読み書きを覚え始めた子供でも知っているからだ。

 あの髪の色が、この国において王家と枢機卿に続く権威を持つ公爵家の証であるという事を。

 

 しかし入って間もなく、地方から出稼ぎで王都へ来た年若い警備員は知らないのか酷く困惑している。

 そんな彼でも目の前を少女を目にした背後の貴族達がざわめき始めたのに気が付き、焦りに焦ってしまう。

 もしもここで下手な対応をすればクビの可能性もあるし、安易に通してしまえばクレームが飛んでくるかもしれない。

 突然の選択肢と、尚も怒鳴る少女を前に彼は焦燥感に駆られて、自分一人では対処できないと断定した。

 そうなれば次にする事は応援の要請…彼は通せと怒る少女に両掌を見せて、焦りの見える声でしゃべり始める。

「で、では少々お待ちくださいませ。今上の者を呼んでまいりますので、暫しのお待ちを…」

 

 

「ルイズ!」

 そんな時であった。ラウンジから少し奥の通路から少女同じ色の髪を持つ女性が走ってきたのは。

 彼女よりも長く手入れの行き届いたピンクブロンドがシャランと揺れて、周りにいる人々の視線をそちらへと向けさせる。

 走るには適していないロングスカートの中で足を必死に動かし、女性は少女の許へと近づいていく。

 彼女の姿は紛う事無き美しさに満ちていたが、同時に砂上の楼閣の様な儚さを垣間見る者たちも何人かいた。

 そして彼らはハッとする。今女性が発していた少女の物と思しき、ルイズと言う名に酷く聞き覚えがある事を。

 もしも彼女が口にした名前が少女の物であるならば、あの二人は、まさか…?

 そう思っていた彼らに答えを提示するかのように、自身の名を呼ばれた少女――ルイズは叫んだ。

 

「ちいねえさま!やっばりちいねえさまなんですねッ!?」

 彼女は自分の前に立ちはだかっていた警備員の横を無理やりすり抜けて、ラウンジの中へと入っていく。

 そして自分と同じように走り寄ってくる女性――カトレアの腰を掴むようにして、熱い抱擁をした。

「あぁルイズ!間違いなく貴女なのね?私の小さな妹!」

 カトレアもまた、目の前にいる少女が自分の妹なのだと改めて分かり、同じく熱い抱擁を返す。

 この時身長差故か、丁度彼女の豊かな胸がルイズの顔にギュッと押し付けられたのはどうでも良い事だろう。

 

 二人の熱い再会を余所に、周りにいた貴族たちは両者の名前を耳にしてまさかまさかと顔を見合わせている。

 あのピンクのブロンド…やはりあの二人は、この国にその名を轟かせるヴァリエール公爵家の姉妹…!

 まさかこんな所でヴァリエール家の者たちと出会う等と思ってもみなかった彼らは、ただ驚くほかなかった。

 しかし…そんな彼らに驚く暇さえ与えんと言わんばかりに、今度は数人分のざわめきが一階からやっくるのに気が付く。

 今度は何だと思い何人かがルイズとカトレアから目を放しそちらへ視線を向けて見てみると、見た事の無い紅白の服を着た黒髪の少女がそこにいた。

 先程までルイズを通らすまいと奮闘していた警備員はもう無理だと感じたのか、階段の隅っこで縮こまってしまっている。

 そんな彼を無視して、黒髪の少女は乱暴な足取りでラウンジへと入り、ルイズ達の方へ近づいていく。

 マントを着けていない故に貴族ではないと一目見て分かるが、かといってただの平民には見えない。

 では役者かと大勢がそう思った時、その黒髪の少女が心地よさそうに抱き合っているルイズへと声を掛けた。

 

「ちょっと、ちょっとルイズ!何…って、誰よその女の人は」

 彼女の近くにいた貴族たちは、思わずギョッとしてしまう。

 例え王家であっても余程の事は無い限りある程度の礼節を持って接する程、ヴァリエール家は古くからこの国に貢献している。

 だからこそ、そんな事実など微塵も知らぬかのように乱暴に呼んだ黒髪の少女に、驚かざるを得なかったのだ。

 きっととんでもない事になるに違いない…と思っていた所、呼ばれた本人であるルイズは平然とした様子で黒髪の少女へと話しかけた。

「…え?あ、レイム!見つけたのよ、行方不明になってたちいねえさまを…ホラ!」

「え?ちいねえさま…って、全然「ちい」っていう感じには見えないんだけど…」

 公爵家の末娘にレイム…と呼ばれた黒髪の少女――霊夢はルイズと抱き合っているカトレアを見て首を傾げてしまう。

 一方のカトレアは、ルイズの口から出た不穏な単語を耳にして怪訝な表情を浮かべてしまう。

 

 突然の事に驚くあまり、ただざわめく事しかできないほかの貴族達であったが、

 そこへ更に畳み掛けるようにして、今度は一階にいた魔理沙とシエスタの二人もラウンジへと入ってきたのである。

「ルイズ、いきなりどうした…って、おぉ!何か色々と大きくなったお前のそっくりさんみたいなのがいるなー」

「ちょ…ちょっと皆さん駄目ですよ!こ、ここは貴族様専用のラウンジだっていうのにぃ~…」

 トンガリ帽子を被ったままの魔理沙はルイズとカトレアを見比べて、そんな事を言っている。

 一方のシエスタは今いる場所が二階の貴族専用フロアだとしっている為か、顔を青ざめさせていた。

 今にも泣き出してしまいそうな彼女の姿は、他の貴族達からしてみればいかにもな平民の反応である。

 

 平然としている霊夢達に対し、シエスタが焦りに焦っていると、一階から数人の警備員たちが駆け込んできた。

「コラァー!お前たち、ここは貴族様方専用のエリアだぞ!さっさと一階に戻らんか!」 

「ひぃっ、御免なさい!ワザとじゃないんです!これにはワケが…」

「言い訳は下で聞くとして、ひとまずそこの紅白と黒白…お前たちも来い!」

 警棒を片手に怒鳴る年配警備員の怒声に、シエスタは悲鳴を上げて頭を下げてしまう。

 そんな彼女の言葉を他の若い警備員が遮りつつ、霊夢と魔理沙にも下へ降りるよう呼びかけた。

 シエスタは今にも首を縦に振って従いそうであったが、それに対してその紅白と黒白は「何だコイツ?」と言いたげな表情を浮かべている。

 

 警備員たちも大事なお客様である貴族たちの前か、何が何でも一階へと下ろそうという気配が滲み出ている。

 まさか、このラウンジで一悶着が…という所で、警備員から見逃されたルイズが口を開いた。

「待ちなさいあなた達!そこの三人は私の知り合いよ?私の許可なく連れて行くのは許さないわ」

 突然の制止に年配の警備員がムッとした表情を彼女へと向け、そして気が付く。

 身なりとしてはやお洒落な服を着ている平民の少女に見えたが、その髪の色と鳶色の瞳を持つ顔で思い出したのである。

 従業員たちの間に配られている『重要顧客リスト』の中に、彼女と同じ顔を持つ公爵家令嬢の似顔絵があった事を。

 

「…!あ、あなた様はまさか…」

「騒がせてしまった事は謝るわ。けれどつれて行くのは勘弁して欲しいの、それでよろしくて?」

 咄嗟に敬語へと変えた年配の彼が言おうとした事を遮りつつ、ルイズは命令を下す。

 それは普段霊夢達と過ごしているルイズとは違う、ヴァリエール公爵家令嬢としての命令。

 例え平民の服を着て、マントを外していたとしてもその姿勢と言葉には確かな力が垣間見えている。

 長年劇場で働き、様々な貴族を見てきた彼は暫し無言になったのち、ルイズの前で気を付けの姿勢を取って言った。

 

「失礼しました!貴女様の付人なら、我々もこれ以上干渉は致しません」

 隊長格である彼の言葉に後ろにいた後輩たちがざわめく中、ルイズは「よろしい」と満足そうに頷いた。

「じゃあ通常業務に戻って頂戴。色々と騒がせてしまったわね」

「いえ、何事も無ければ問題ありません。…ホラお前たち、下へ戻るぞ。…お前はさっさと壁から背を離せ」

 ルイズからの謝罪を笑顔で受け取った年配の警備員は笑顔で頭を下げると、後輩たちを連れて下へと戻っていく。

 ついで状況に置いてかれ、階段の上で硬直していた見張りの警備員をどやしつつ、彼は階段を降りて行った。

 何人かの後輩警備員たちはルイズをチラチラと見やりつつ、渋々といった様子で先輩の後をついていく。

 

 それから数秒が経ったか、もしくは一、二分程度の時間を所有したのかどうかは定かではない。

 人が変わったかのように丁寧な対応をしたルイズに驚いていた魔理沙は、恐る恐るといった様子で彼女に話しかけた。

「あ、あのさ…、お前本当にルイズなのか?」

「…?なに頭おかしい事言ってるのよ、私は私に決まってるじゃない」

「やっぱりルイズだったか。うん、何だか安心したぜ」

 ある意味失礼極まりない魔理沙からの質問に、先程とは打って変わっていつもの調子でルイズは言葉を返す。

 それを聞いた魔理沙は安心し、ついで霊夢も納得したかのようにウンウンと頷く。

「成程。さっきの変に丁寧過ぎる対応も含めてアンタなのね」

「……一応私も貴族何だから、滅茶苦茶失礼な事言ってるって事は自覚しておきなさいよね?」

 人を誰だと思っていたのかと突っ込みたくなるような事を言う巫女さんにそう言いつつ、ルイズはシエスタの方へと視線を向ける。

 そこにはすっかり腰を抜かして、尻餅をついてしまっている彼女の姿があった。 

 

「シエスタは大丈夫…じゃなさそうね」

「ひえぇ…み、ミスぅ~」

 今にも泣きそうなシエスタに、ルイズはどういう言葉を掛ければ良いか悩んでしまう。

 何せ彼女にとって貴重な休日を潰してまで霊夢達に街を案内してくれたというのに、それが大事になってしまったのだ。

 ひとますせ腰を抜かしてしまってい彼女を起こして、それからカトレアの事について話せるところまでは話してみよう。

 そう思った彼女が手を差し伸べる直前、その真横がスッとルイズのものでない女性の手が差し伸べられた。

 えっと思ったシエスタが顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべるカトレアがルイズの横に立っていた。

 

 最初はその差し出された手の意味が良く分からず、ほんの数秒間硬直していたシエスタであったが、

 すぐにその手が自分に向けられてる事に気が付いたのか、彼女は慌てて立ち上がりカトレアに向けて勢いよく頭を下げた。

「も、もうしわけありません!貴族様の御手を煩わせるような事をしてしまい…」

「いえ、私の方こそ御免なさいね。色々驚かせてしまったようで…」

「え…?そ、そんな滅相も…!……ん、あれ…?」

 謝罪を途中で止めたカトレアの言葉に、シエスタは尚も食らいつくようにして謝ろうとする。

 その時に下げたばかりの頭を上げようとした直前、彼女はカトレアの顔を見てハッとした表情を浮かべた。

 

 暫し顔を上げた状態のまま固まったシエスタは、ゆっくりと彼女へ質問をした。

「もしかして…ミス・フォンティーヌさん…なのですか?」

 その言葉にカトレアの隣にいたルイズはえっ?と言いたげな表情を浮かべ、次いでシエスタの方へと視線を向ける。

 どうしてシエスタがちいねえさまの事を…?そんなルイズの疑問を解決させるかのように、カトレアはニコリと微笑んでこう言った。

「ふふ…ようやく思い出してくれたのね。タルブ村のお嬢さん?」

「…!やっばり、貴女さまだったのですね!」

 その口から出た言葉にシエスタは満面の笑みを浮かべ、先ほどとは打って変わってカトレアと優しい握手を交える。

 カトレアの両手を自分の手で包み込むようにして握手して、互いに優しくも柔らかい笑みを浮かべ合う。

 

 突然の事に今度はルイズが驚く番となり、霊夢達もカトレアの言った言葉に目を丸くしていた。

「…今のは何かの聞き間違いか?今シエスタの事を、タルブ村のお嬢さんだって…」

「えぇ、言ってたわね。そこん所は私の耳にもハッキリと聞こえたわ」

『いや~…こいつはおでれーた。良く世界は広いよう狭いって言葉を耳にするがねぇ~』

 これには霊夢だけではなくデルフも驚いているのか、彼女に続いて鞘から刀身を少しだけ出して呟いた。

 それに続く…というワケではないが、カトレアの発言に驚いていたルイズも和気藹々と再会を喜ぶ二人を見ながら口を開く。

「まさかあの村の名前を今になって聞くだなんて…思ってもみなかったわ」

 タルブ村…それは今のルイズ達にとって、一つの契機とも言える事態が重なり合った場所だ。

 多数の羽目らと戦い、霊夢がガンダールヴとして力を発揮してワルドと死闘を繰り広げ、キュルケ達に霊夢らの正体がバレ…。

 そして…――――――今まで長い間休眠状態であった、自分の虚無がその力を見せてくれた場所なのだから。

 

 まさかあのシエスタが、あの村の出身者などとルイズ達は夢にも思っていなかったのである。

 驚きの中にある彼女たちをよそに、シエスタは久しぶりに見るカトレアとやりとりをしている。

「心配しましたよミス・フォンティーヌ。急にゴンドアから姿を消してしまったんですから、領主のアストン伯様も心配してましたし」

「それは御免なさいね。本当は挨拶でもして立ち去ろうと思ってけど、あの時はアストン伯も多忙そうだったから」

「それならそうと言ってくれれば、アストン伯様もちゃんと時間を取ってくれたと思いますが…」

「わざわざ私なんかの為に時間を取らせるのも悪いと思っただけよ」

 その話を横で聞いていたルイズは、今になってカトレア失踪の秘密を知る事となった。

 やはりというか何というか…、相も変わらず自分の二番目の姉は色々と人を心配させているらしい。

 昔から彼女はこうであった。自分の事など気にしないでと言いつつ、勝手にフェードアウトしてしまう事が多かった。

 

 別の領地から父や母、姉の知り合いたちが遊びに来た時も気づいたらフラッと自室に戻ってしまう事があり、

 自分がいては迷惑になってしまうと思っているのか、パーティの類にも殆ど出た事が無いのである。

 更に父から領地を受け賜わっており、それに合わせて名字も変えている所為で彼女がヴァリエール家の人間だと気づかない人たちもいるのだ。

 本人もわざわざ進んでヴァリエール家の者だと名乗らないため、相手も「あーヴァリエールの隣の…」という認識しか持たずに接してしまう。

 結果的に初めて彼女を前にして、その特徴的な髪の色を見てもしや…と思い尋ねたところで発覚する…という事も度々あるらしい。

 

 恐らくシエスタの言っている件も、あの戦いの後処理に追われていたアストン伯の事を思ってなのだろう。

 本人は最善を尽くしたと思っているのだろうが、自分を含めて周りの人間を酷く心配させてしまうのが彼女の短所でもあった。

 それを幼少期の頃から知っていたルイズは安堵のため息をついてしまい、相変わらずな姉に注意をする。

 

「シエスタの言うとおりですよ、ちいねえさま?私だって凄く心配したんですから」

「あら、御免なさいねルイズ。確かに色々と大変だったけど、こうして無事にいられるなら何よりよ」

「そんな事無いですよ!だって大変だったっていっても…あんなに怪物だらけな状況になってて………あ!」

 自分の注意を笑って誤魔化すそうとする彼女に注意するあまり、ルイズは自分の口が滑った事に気が付いてしまう。

 そしてルイズの言ったことで気づいたのか、カトレアとシエスタは彼女に怪訝な表情を向けている。

 

 タルブ村を襲った怪物…つまりキメラに関してはまだ世間に公表されていない。

 平民はおろか、この劇場内や街中にいる貴族たちですらあの村に起こった出来事を知らないのだ。

 その事実を知っているのは軍部かその他の関係者…つまりタルブ村にいた人々ぐらいなものである。

 カトレアとシエスタの二人は、あの夜ルイズ達がタルブにいたという事実をまだ知らない。

 もし知られてしまったら、シエスタはともかくカトレアからは間違いなく「何て危険な事を…!」とお叱りを受けるだろう。

 どうしようかと考えるハメになったルイズが思わず霊夢達へ視線を向けようとした時、背後から声が聞こえてきた。

 

「カトレア―…ってあれ?アンタ達、何処かで見た様な…」

 初めて聞く声ではないが、まだ聞き慣れていない女性の声にルイズだけではなく、霊夢達もギョッとしてそちらへ視線を向ける。

 カトレアとルイズの背後…劇場二階の貴族専用のお手洗いへと続く曲がり角の前で、巫女装束を着た女性――ハクレイが立っていた。

 その左手で見た事の無い幼女の手を引いて出てきた彼女は、カトレアの傍にいるルイズ達を見ながらそんな事を聞いてくる。

「……ッ!」

 その姿を視認した直後、微かな頭痛を感じた霊夢が痛みで目を細めてしまう。

 まるで直接脳を針でチョンチョンと刺されているかのような、決して無視できない程度の頭痛。

 痛みのあまり思わず人差し指で額を抑えていると、魔理沙とデルフがその異変に気が付いた。

「ん?おいおいどうした霊夢、急に辛そうな様子なんか見せて」

「別に…何でもないわよ。ただちょっと、急に頭が痛くなったというか…」

『急に?…って、そういや前にもこういう事なかったけか?』

 一人と一本の心配を余所に、霊夢は急な頭痛と戦いながらもハクレイの方をジッと睨み付ける。

 相手もそれに気づいたのかハッとした表情を浮かべて、彼女の方へと顔を向けてきた。

 

 暫しジッと見つめていたハクレイであったか、何かを思い出したのか「あぁっ!」と声を上げた。

「…やっぱり!アンタ達、タルブ村でカトレアを助けに来たっていう子と一緒にいた――――…って、イタァッ!?」

 最後まで言い切る直前、突如前方から投げつけられた空き瓶が彼女の額に直撃する。

 瓶が割れる鋭い音が周囲に、次いでハクレイが勢いよく仰向けに倒れる鈍い音が辺りに響き渡った。

 彼女が手を繋いでいた幼女――ニナは突然の事に「え、えぇ…!?」と目を丸くして驚いている。

 これには霊夢と魔理沙、それにデルフだけではなく流石のカトレアも両手で口を押えて驚愕するしかない。

 一体何が起こったのか瓶が投げつけられたであろう方向へと目を向けると、そこには荒い息を吐く妹の姿があった。

 

「そういえば…アンタもあの時いたのよねぇ…!」

「る、ルイズ!?あなた、何を…ッ」

 そこら辺に置いてあった空き瓶を投げつけたであろう彼女は、右手を前に突き出した姿勢のまま一人呟く。

 彼女の傍には空き瓶の持ち主であった青年貴族が、何が起こったのかとルイズとハクレイの二人を必死に見比べている。

 明らかに自分の妹が投げつけたのだと理解して、カトレアも大声を出してしまう。

 魔理沙は隠そうとするどころか自らカミングアウトする形となってしまったルイズに、あちゃ~と言いたげな苦笑いを浮かべていた。

「あららぁ…ここぞという所で、私達の知ってるルイズが出ちゃったな」

「出ちゃったな…じゃないですよ!?あわわわ…と、とりあえずお医者様を呼ばなきゃ…!」

『いやぁ~それには及ばないぜ?見ろよあの女を、頭に瓶が当たったっていうのにピンピンしてるぜ』

 魔理沙とは対照的に慌てるシエスタを宥めるかのようにデルフがそう言うと、

 痛みに堪えるかのような呻き声を上げつつ仰向けに倒れていたハクレイがヒョコッと上半身を起こしたのである。

 

「イテテテッ…!ちょっと、いきなり何すんのよ?」

「…!アンタねぇ、それはこっちのセリフよ!」

 当たった個所が多少赤くなっているものの、ハクレイは何もなかったのかのように平然としている。

 それが癪に障ったのか、いつもの調子に戻ったルイズはズカズカと足音を立ててハクレイの元へと歩いていく。

 鬼気迫る表情で歩く彼女は余程怖ろしいのか、周りにいた貴族たちは慌てて後退り彼女へ道を譲ってしまう。

 ハクレイの傍にいたニナもヒッ…と小さな悲鳴を上げて、彼女の背中へそさくさと隠れた。

「折角人が隠し通そうとしたところに…何で!空気を読もう…って事ができないのよぉ!」

「く、空気…!?空気って一体何の…って、あわわわわ!」

 ハクレイの抗議など何するものぞと言わんばかりにルイズは彼女のアンダーウェアを掴み、強引に揺さぶって見せる。

 ルイズの腕力が凄いのか、それともハクレイの体重が軽いのかただ為すがままに揺さぶられていた。

 

 ニナがそれを見て泣きそうな顔になり、周りの貴族達や霊夢らが流石に止めようと思ったところで…

「る、ルイズッ!止めなさい!」

「え…キャッ!」

 カトレアの制止する言葉と共に、ルイズの体がひとりでに浮き始めたのである。

 丁度地面から五十サント程度であったが、それでも彼女の凶行を止めるには十分であった。

 これにはルイズも堪らず悲鳴を上げてしまい、空中でジタバタと手足を動かすほかない。

 突然の事に霊夢達もハッとした表情を浮かべ、次いでカトレアの手にいつの間にか杖が握られている事に気が付いた。

 

 どうやら妹の凶行を止めようと、自ら杖を用いて魔法を行使したようだ。

 カトレアの『レビテーション』によって宙に浮かされたルイズはまともな抵抗ができぬまま、姉の傍へと飛んでいく。

 そうして自分の近くまで来たところで魔法を解除し、ようやく地に足着けたルイズの両肩をやや強く掴んで叱り付けた。

「駄目じゃないのルイズ、彼女は私の大事な付き人なのよ?それをあんな乱暴に…」

「うぅ…!で、ですが…」

「ですがもヘチマもありません!」

 しかし叱り付けると言っても、大勢の人から見ればそれは出来の悪い生徒を諭す教師のように優しい叱り方である。

 それでもルイズには効いたのか、グッと口から飛び出しそうになった抗議の言葉を飲み込みつつジッと堪えていた。

 

「あ、やっばり貴女も…あの!私の事、憶えてますか?」

「んー?………あっ、アンタは確か…シエスタだったわよね。無事だったの?」

 珍しいカトレアからの叱りを受けるルイズとは別に、霊夢達はハクレイの傍へと寄ってきていた。

 一方のハクレイは自分の方へと近づいてくる少女達に狼狽える中、シエスタが真っ先に彼女へ話しかける。

 少し前に面識があったと言うシエスタの顔を見て、アストン伯の屋敷の地下で出会った時の事をすぐに思い出した。

 そしてハクレイの口から出た相手の名前を耳にして、後ろに隠れていたニナもヒョッコリと顔を出し、パーっと輝かしい笑顔を浮かべる。

 

「あっ!シエスタおねーちゃん!」

「ニナちゃん!良かったぁ、貴女も無事だったのね」

 まさかの再会に両者ともに笑顔を浮かべ、次いで互いに手を取り合って喜んでいる。

 その光景を余所に、魔理沙デルフ…そして霊夢の二人と一本は今になって知った事実を前に呆然としていた。

「……なぁ霊夢。ハルケギニアって幻想郷よりずっと広いと思うが、意外と狭いもんなんだなぁ~」

『いやいや、これは流石に狭いというか…運命の悪戯か何かだと思った方が良いと思うぞ?』

 苦笑いを浮かべ、シエスタとニナの二人を見つめる魔理沙に対しデルフが呆然とした様子で言う。

 確かにこの剣の言うとおりだろう…と、痛む頭を手で押さえながらも霊夢はルイズとカトレアの方へと目を向ける。

 

 まずはじめに彼女の姉がタルブへと赴き、あの戦いに巻き込まれた。

 それより前に送った手紙が原因で、ルイズと自分たちはタルブへと赴く羽目となり、

 何やかんやであの戦いが終わった今――――あの村にいた人間と剣が一堂に会しているのである。

 世界は思ったよりも狭いと言うにはあまりにも狭すぎて、もはや偶然に偶然が重なった結果と解釈した方がまだ説得力があるくらいだ。

「もしも、これが運命の悪戯とかなら…帰ったらレミリアのヤツを問い詰めてやるわ」

 今頃幻想郷で夏を堪能しているであろう紅魔館の主の事を思い浮かべつつ、視線を前へと向ける。

 彼女の目線の先、そこにいたのは…体を起こして自分を見上げる霊夢に気付くハクレイであった。

 互いに細部は違えど紅白の巫女装束を身にまとい、向かい合う姿はまるで…そう――――姉妹の様にも見えた。

 

「…で、少し訊きたいんだけど―――――アンタは一体、誰なのかしら?」

「前にも聞いたわね、その質問」

 何時ぞやの時と同じセリフを耳にして、ハクレイは怪訝な表情を浮かべてそう返すほかなかった。

 

 

 何やら上が騒々しい…。薄暗い天井を見上げながら一人の初老貴族はそう思った。

 どんな事が起こっているのか…とまでは分からないものの、その騒々しい気配だけが天井をすり抜けてくる。

 気配の出所からしてロビーに面した二階からだろうか、それとも一階のロビーなのか。

 先ほど自分とぶつかってしまった少女達の事を思い出そうとしたところで、耳障りな男の声が横槍を入れてきた。

「おや、どうかなされましたかな?」

「……いや、何も。ただ上が騒々しいなと気になっただけだ」

 顔に滲み出ている欲の皮が声帯にまで悪影響を与えているかのような声で尋ねられ、初老貴族は首を横に振る。

 彼の目の前にいる商人風の男は、そのネズミ顔にニンマリとした笑みを浮かべつつ中断してしまった話を続けていく。

 

「では、約束通り貴方の雇い主が゙我々゙に渡したい物を持ってきてくれたという事なのですね?」

「ああ。…これがお前たちの欲しがってる゙書類゙だ」

 初老貴族はそう言って懐に手を入れると、封筒に入れた書類を一枚ネズミ顔に差し出した。

 ネズミ顔は貴族の背後と自分の周囲を見回した後、サッと見た目通りの素早い手つきでその封筒を受け取る。

 そして目にも止まらぬ速さで封を切ると書類を一枚取り出し、これまた目を忙しくなく動かして物凄い勢いで流し読んでいく。

 最後に書類の右端に押された白百合の印がある事を確認してからサッと封筒に戻し、そのまま自分の懐へと入れた。

 

 ネズミ顔はもう一度周囲を見回してから、封筒を渡してくれた初老貴族に笑みを浮かべながら礼を述べる。

「ヘヘ…こいつは上々ですな、まさかここまで質の良い情報を用意してくれますとはねぇ」

「用意したのは私ではなぐ雇い主゙の方だ。…それに、タダでソレを渡すワケではないのは…知っているだろ?」

「そりゃあ勿論」

 おべっかを使っても尚表情崩さない初老貴族にムッとする事無く、ネズミ顔は腰のサイドパックからやや膨らんだ革袋を取り出す。

 それを素早く彼の前に差しだし袋の口を開けると、その中に入っているモノを拝見させる。

 ネズミ顔の持つ革袋の中身は、今にも袋から零れ落ちちそうな程のエキュー金貨であった。

 

「コイツば運び屋゙をやってくれた貴族様の報酬でさぁ。この袋の分だけで、平民の六人家庭が優に一年は暮らせますぜ」

 そう説明するネズミ顔から袋を受け取りつつ、中の金貨が本物であると確認してから懐へと入れる。

 貴族が袋を受け取ったのを見て、ネズミ顔はヒヒヒ…と卑しくも小さな笑い声を上げた。

 その笑い声に顔を顰めながらも、初老貴族は暖かくなった懐を触りつつ聞き忘れていた事を口にする。

「私の分の報酬は貰ったが゙雇い主゙の分の報酬は、無論忘れてはいないだろうな?」

「えぇそれは勿論。あのお方が我らの国へ…ついで『最後の手土産』を持参して来られたのならば、それ相応の褒美と領地を与えましょうぞ」

 とても一商人が与える事のできないような事を言うネズミ顔の言った言葉の一つに、初老貴族は怪訝な表情を浮かべる。

 

「…『最後の手土産』?それは初耳だな」

「おぉっと、口が滑ってしまいしたな。しかしながら、我々も詳しくは聞いておりませんのであしからず」

 …どうやら自分の゙雇い主゙…もとい守銭奴のタヌキ男は色々と秘密を抱えているらしい。

 自分に取引を持ちかけてきた時のふてぶしさを思い出しながら、初老貴族は両手を挙げてそう言うネズミ顔との話を続けていく。

「これで互いに取引は済んだ。後はそちらで言われた通り…」

「分かっておりますよ。アンタはこのままロビーから…で、私はこのまま踵を返して下水道へ…」

 ネズミ顔の言葉に初老貴族は彼の肩越しに見えている、灯りのついていない曲がり角を見やる。

 

 自分の背後で賑わう劇場の一部とは思えぬ程、その角は暗かった。

 この角を曲がって少し歩くと突き当りに大きな扉があり、そこを通ると下水道へと続く道がある。

 本来は有事の際の避難用通路の一つとして造られたものなのだが、今では通路の灯りすら消して放置されていた。

 更に従業員たちも滅多によりつかない為か何処か埃っぽく、通路の端には木箱や予備のイスなどが無造作に置かれている。

 もはや緊急用の避難通路と言う役割は果たせておらず、とりあえずといった感じで倉庫代わりにされてしまっていた。

 そして初老貴族…もとい彼を゙運び屋゙に指定しだ雇い主゙は敢えてここを取引場所として指定したのである。

 

「いやーそれにしても、まさか劇場でこんな取引を大胆に行えるとは…あのお方はこの場所を良く知っておられる」

 ネズミ顔は懐にしまった封筒を服越しに摩りながら、ヘラヘラと笑っている。

 彼が初老貴族から受け取った封筒とその中に入っていた書類の正体…、それは軍からの報告書であった。

 主に王軍の所属から、新しく大規模編成される陸軍の所属となる軍艦の各状態を纏めたものだ。

 船体の状況や武装と設備の変更から、転属に伴う名称変更まで事細かに書類に記載されている。

 中には専門家が読めばその艦の弱点が分かるような事まで書かれており、本来ならば安易に持ち出されるものではない。

 

 実際この書類も全て写しであり、本物は王宮の中枢部にて厳重な金庫の中に眠っている。

 彼がこうして封筒に入れて持ち出せたのは、゙雇い主゙がその書類を確認できる権限を持っているからだ。

 それでも写した事がばれれば、あの地位にいたとしても逮捕からの裁判は絶対に免れないだろう。

 自身に降り掛かるリスクを考慮したうえで、それでもあの゙雇い主゙はこれを取引材料として用意したのである。

 目先の欲に目が無い単なるバカか、捕まらないという自身を持ったヤツでなければここまでの事はできないに違いない。

 

 そしてそれを大金と引き換えに受け取ったネズミ顔の商人も、決して只者ではない。

 この国とも親交が深かったアルビオン王家を討ち、貴族中心の政治体制を敷く事になったかのレコン・キスタからの使者。

 今や神聖アルビオン共和国と大仰に呼ばれる白の国からやってきた、諜報員の内一人なのである。

「先の戦いで艦隊の半分を失ったものの、この書類があれば奴らも我々の苦しみを知る事となるでしょうなぁ…ヘヘ」

 ネズミの様な前歯を見せて笑う男の口ぶりからして、そう遠くない内に何かしら仕掛けるつもりでいるらしい。

 何せ国の平民を盾にした卑劣極まる戦法で王権を打倒しており、更にラ・ロシェールでは不意打ちまでしてきた卑劣漢の集まりである。

 トリステインがガリアやゲルマニアと同じ王軍から陸軍主導の体制へと移る前に、痛手を負わせたいのだろう。

 

 正直初老貴族にとって、彼らの思想自体理解し難いものであった。

(我ら貴族にとって王家とは何物にも代えられない存在、それをないがしろにして何が貴族なのだろうか?)

 目を鋭く細めて睨んでいるのを見て何を勘違いしたのか、ネズミ顔は卑しい笑みを浮かべたまま話しかけてくる。

「どうです?この際貴殿もクロムウェル陛下の治める神聖共和国で働いてみませんかな?」

「あぁいえ結構。このような事に手を染めた身であっても、私はあくまでトリステイン王国の貴族ですので」

 何を言っているのかと悪態をつきたいのを堪えつつ、彼はネズミ顔の提案を一蹴する。

 大体、わざわざ国名に゙神聖゙などという肩書きを付けている時点でまともでは無いと公言しているようなものだ。 

 

 誘いをあっさりと断られつつ、それでもネズミ顔はニヤニヤとした笑みを顔に貼り付けながら話を続けていく。

「ヒヒ…売国行為なんぞに手を染めておいて良く言いなさる。この国もいずれ我らが共和国の一つになるというのに…」

「…むぅ」

 痛い所を突いてくる相手に彼は目を細めるものの、これ以上話しを続けるのは流石に危険だと判断した。

 ゙雇い主゙曰く、ここにはあまり人が来ないそうだが…だからといって話し声を出し続けて良いというワケではない。

 こんな暗い場所でヒソヒソと話し声が聞こえたら、余程用心深い人間でもなければ誰かと訝しんで近づいてくるかもしれないのだ。

 それに、こんな貴族と呼ぶにはあまりにも容姿と態度が卑しいヤツを相手にするのも疲れてきたのである。

 

 初老貴族は軽く二人を見回して周囲に誰もいないのを確認すると、尚も笑っているネズミ顔に解散を告げる事にした。

「とにかく、お互い受け取るモノは受け取ったんだ。これ以上、ここに長居するのは危険だろう」

「んぅ?…確かにそうですなぁ。では今回はここでお開きという事で…」

 相手も彼の言う事の意味を理解したのだろう。軽く辺りを見回してからそう言って、スッと踵を返して歩き始める。

 

 下水道へと続く曲がり角を曲がる際、彼は相手が結構な猫背であったことに気が付いた。

 顔はネズミだというのに猫のように背中を若干丸めて歩く姿は、さながら商人の姿をした浮浪者である。

 貴族たるものならば歩く時の姿勢はおろか、普通に立っている際にも猫背にならないよう厳しい教育をうけるものだ。

 彼自身も幼少の折には両親から厳しく教えられてきたこともあって、今でも猫背にならないよう気を付けている。

 それだというのに、今自分の前を立ち去ろうとしているネズミ顔の何とみすぼらしい後ろ姿か。

 

(貴族は貴族でも、私とは住んできた世界が違うのだろうな…最も、その事を考えたくはないがな)

 最初から最後まで貴族として認めたくない男であったネズミ顔の背中から視線を逸らし、彼もまた踵を返す。

 視線の先には、陽光に照らされた廊下。賑やかな喧騒が聞こえてくる劇場内の通路がある。

 横切る人影はないものの、きっとここを出て角を一つでも曲がればすぐに劇や芝居を観賞しに来た人々に出会えるだろう。

 

 色々と気にかかかる事はあるものの、ひとまず゙雇い主゙から頼まれた仕事を済ませる事は出来た。

 後は報告を済ませてから駅馬車を予約して、手に入れたこの金貨を持っであの店゙へ行けば…『アレ』が手に入る。

 年だけ無駄に取って、領地も金も無い自分には今まで手の届かなかった『アレ』で…遂に長年の『悲願』を達成できるのだ。

(姫殿下とこの国にはとても失礼な事をしてしまったが…全て終わった暁には、自首を――――…ッ!?)

 

 その時であった。背後の曲がり角から、あの卑しい男の悲鳴と激しい足音が聞こえてきたのは。

 何かと思って背後を振り返ると、あのネズミ顔の男が曲がり角から慌てて姿を現した所であった。

 角から完全に姿が出た所で足がもつれたのか、大きなを音を立てて仰向けに倒れてしまう。

 何が起こったのかと聞く前にネズミ顔は隠し持っていた杖を抜いて、曲がり角の方へと突きつけながら叫びだした。

「ち…近づくんじゃねェ!俺はめ、メイジなんだぞ…ッ!?」

 

 身分を隠しての潜入だというのに杖を抜き、鬼気迫る表情を下水道の方へと向けて叫ぶネズミ顔。

 どうしたのかと声をが蹴る隙すら見つからない状況に、彼はただジッと曲がり角の方へと目を向けるしかない。

 ふとその時、曲がり角の向こうから何やら聞き慣れぬ音が聞こえてくるのに気が付いた。

 まるで液状の何かに命を吹き込み、それを引き摺らせているかのような普段決して耳にしないであろう異音。

 それを聞いて只事ではないと判断したのか、彼もまた専用のホルスターから使い慣れた杖を抜く。

 

 握りやすいようグリップに改良を加えてある一本の相棒を角の方へと向けつつ、ネズミ顔の元へ近づいていく。

 コイツを助けるのは癪であったが、もしも彼の身に何か起これば今回頼まれた仕事はパーとなってしまう。

 せめてここから逃げる手伝いでもしてやろうと思い、腰を抜かしたヤツに立てるかどうか聞こうとした。

「おいお前、どうし………た?」

 しかしその直前で曲がり角の向こうを見てしまい、呼びかけを最後まで言い切る事ができなかった。

 …正確には、曲がり角の向こう側…下水道へと続く扉の前にいた『ソレ』を目にして。

 

 

 ―――――それは、正に晴天の霹靂とも言うべき突然の出来事であった。

「……ん?」

 二度…いや三度目となるハクレイとの体面を果たしていた霊夢は、不穏な気配を感じ取る。

 すぐさまハクレイから視線を逸らした彼女は、どこからその気配が漂って来ているのか探ろうとした。

 二階のラウンジ…自分たちを興味深そうに眺める貴族たちの中には、その気配の根源は感じられない。

 ならば下かと思った彼女はスッとその場を離れて手すりの方へと近づは、一階ロビーを見下ろし始める。

「…?どうしたんだ霊夢。急にそんな顔つきになって…」

「ちょっと黙ってて。………あっちかしら?」

 魔理沙の呼びかけに対しぶっきらぼうに返すと、彼女から見て左の方へと視線を向け、少し身を乗り出してみる。

 二階からでは多少見難かったものの、どうやら左の方にも奥へと通じる通路があるようだ。気配はそこから漂ってくる。

 後ろで黒白が「ひでぇ」と苦笑いするのを余所に、少し身に言って見ようかと思った所で…、

 

「どうしたのよ?」

「え…うわっ!」

「うぉっ…と!」

 ヌッ…と横から自分の顔を覗いてきたハクレイに驚き、思わず後ずさってしまい、背後にいた魔理沙とぶつかってしまう。

 次いで魔理沙の手に持っていたデルフが床に落ちて、鞘越しの刀身から『イテッ!』というくぐもった悲鳴が聞こえてくる。

「…そこまで驚くモノかしら?」

「普通は誰でも驚くモノだっつーの!…ッたく!」

 あくまで故意ではなかったと言いたいハクレイに、霊夢は驚いたのを誤魔化すように悪態をつく。

 完全によそ見していたとはいえ、まさか見ず知らず(?)の相手にここまで近づかれるというのは、初めての事であった。

 滅多に見せないであろう霊夢の驚くさまを見て、カトレアに夢中であったルイズも異変に気が付いたのだろうか、 

 少しカトレアに待っててと言った後、イヤな目つきでカトレアの付き人を睨む霊夢に話しかけた。

 

「一体どうしたのよレイム?」

「あぁ、ルイズ。…イヤ、ちょっと私の勘違いであって欲しい気配を感じてね…」

 その言葉に気配?と首を傾げるルイズに霊夢はえぇ…と返し、だけど…と言葉を続けていく。

 

「もしもこれが勘違いじゃなかったら、今すぐにでも手を打たないと…大変な事になるわね」

 そう言った彼女の表情が、いつも見せる気だるげなモノか真剣味を帯びたモノへと変わっていく。

 今霊夢が感じ取っている不穏な気配…。それは決して、この王都…ましてや劇場の中で察知してはいけない物。

 この世界に住む人や亜人達とも相容れないであろう異形達の発する、人工的に造られたであろう『無感情な殺意』。

 それを彼女は今劇場の一階の左方…そこから入れる通路からジワリジワリと感じ取っていたのだ。

 

 

 

 それは暗い中で一見すれば、ゴミ捨て場にあったようなローブを身に纏った人間に見えた。

 どこかの下級貴族がもう流石に駄目だと思って捨てた様な、浮浪者しか見向きしない様な襤褸の塊。

 頭からその襤褸をすっぽりと被った『ソレ』は、ズリ…ズリ…と黒いブーツで床を引きずりながらこちらへと向かってくる。

 ブーツだけではない。ローブの隙間から垣間見える『ソレ』の手や顔は、黒いペンキに塗れているかのように黒い。

 そして何よりも異常だったのはその黒々とした『ソレ』顔の部分で黄色く光る、二つの目玉にあった。

 …大きい。人間のものにしては大き過ぎるであろうその目玉は、クリケットボールぐらいあるのだろうか。

 それを爛々と輝かながら近づいてくる光景を見れば、だれだってネズミ顔の様な反応を見せるに違いない。

 

 事実、それを目にした彼自身も何とか喉から出そうになった大声を堪えたのだから。

 杖を持っていない方の手で口を押さえつつ、彼は今度こそ取引相手へと声を掛けた。

「おい、何だコイツは?」

「し、しらねェよ…!曲がり角を曲がった先に立ってて…あ、あぁあの目で俺を睨んできたんだ!」

 声を裏返しながら叫ぶ彼に手を差し伸べつつ、初老貴族は得体の知れない『ソレ』に話しかけた。

「おい貴様!どこの誰かは知らんが、人間ならば今すぐにその正体を現せ!」

 手を差し伸べられたネズミ顔が「か、かたじけいな!」と礼を述べるのを聞き流しつつ、相手の出方を待つ。

 相手が平民ならば、心配する事無く指示通りに従うだろう。

 

 しかし相手は予想通り全くいう事に応じず、尚も足を引きずりながらこちらへと向かってくる。

 まるで冬の時期に上演するようなホラー劇に出てくるゾンビみたいに、無言でこちらへと迫りくる『ソレ』。

 ただ黄色い目玉を光らせて闇の中にいるだけで、中々の恐怖を醸し出していた。

 既に奴との距離は一メイルを切ろうとしており、流石に焦った彼は杖を持つ手に力を込めて言った。

「止まれ、止まるんだ!これ以上近づけばどうなるか分かるだろう!?」

「…へ、ヘヘッ!そうでさぁ、こっちはメイジ二人なんだ!怖がることなんて何もありゃあしねえッ!」

 

 

 それまで腰を抜かして怯えていたネズミ顔が一転して、強気な態度で『ソレ』に杖を突きつけた。

 性格はともかくとして、杖の持ち方からして実践慣れしているであろう彼の物を合わせて、相手は二本の杖を突きつけられている事になる。

 平民でなくとも並大抵の貴族ならば、この時点で杖を抜くよりも先にまずは両手を上げて平和的な対話を望むだろう。

 余程自分に自信があるか、もしくは有利不利が分からぬ馬鹿でもなければ抵抗する気なんてなくなる筈なのだ。

 …それでも尚、自分たちのへと近づいてくる『ソレ』は決してその体を止めようとはしない。

 

 メイジを二人相手にしているというのに、それでも尚微動だにせずゆっくりと…しかしかく実にこちらへと迫りくる。

 これはマズイ。何かは良く分からないが、自分たちはとんでもないモノを相手にしているのかもしれない。

 直感的にそう感じた初老貴族は『ソレ』に向けていた杖を下ろすと、ネズミ顔の肩を叩いて逃亡を促そうとした。

「おい…何だか知らんがコイツはマズイ気がする。ここは一気に走って逃げた方が…」

「…へ、ヘッ!何かは知りはしませんが、生き物ならば魔法は効く筈だ!」

 しかし肝心のネズミ顔自身は退く気など毛頭ないのか、杖の先を向けたまま口の中て呪文を詠唱し始めた。

 口内詠唱…それも高等軍事教練で覚えさせられるレベルの早く、正確な詠唱で魔法を構築していく。

 

 逃げようと提案した初老貴族が止める間もなく、ネズミ顔の持つ杖の周りを冷気が帯び始める。

 大気中の水分を『風』系統の魔法で冷やし、氷結させて一本の氷柱へと変化させていく。

 それを一本につき三秒で生成し、十秒経つ頃にはすでに三本の氷柱が出来上がり、ネズミ顔の周囲を浮遊していた。

 『風』系統と『水』系統の合わせ技であり、『ファイアー・ボール』や『ウィンド・ハンマー』に次ぐ攻撃魔法…『ウィンディ・アイシクル』。

 詠唱の力量しだいによっては無数の氷の矢を放ち、硬度も自由に調節できる攻撃特化の魔法である。

 

 攻撃準備は既に整ったのか、余裕を取り戻したネズミ顔は杖のグリップを握る手に力を込めて狙いを定めた。

 狙いはもちろん自分たちへ近づく襤褸を纏った正体不明の相手であり、その黄色く大きな二つの目玉。

 彼の周りを浮遊していた氷柱も一斉にその先端を『ソレ』へと向けて、主の命令を今か今かと待っている。

 まさかここでぶっ放すつもりか?そう思った初老貴族は咄嗟にネズミ顔を止めようとした。

「おい、よせッ!こんな所で魔法を放てば流石に音で気づかれる…!!」

「心配しなさんな、ぜーんぶアイツに当てりゃあ良い。氷柱が肉に刺さる程度なら、そう大きな音は出ませんぜ」

 中々に物騒な事を言い放った後、相手の制止を振り切る形でネズミ顔は氷柱へと一斉発射を命じる。

 瞬間、それまで『ソレ』に向けられていた三本の氷柱が目にも止まらぬ速さで目標目がけて発射された。

 

 人の手で投げられたダーツよりも速く、拳銃から放たれた弾丸よりも僅かに遅いスピードで氷柱は飛んでいく。

 その鋭く尖った先端の向かう先にいる『ソレ』は、避けようという素振りすら見せていない。

 最も、避けようと思った所で一メイルあるか無いかの距離で放たれれば避けようなど無いのだが。

 他の二本より僅かに先行していた一本の氷柱が『ソレ』の右肩を襤褸と一緒に貫き、鈍い音が暗闇に響き渡る。

 次いで二本目が『ソレ』の左肩を容赦なく貫き、最後の三本目が勢いよく胴体へと突き刺さった。

 それがトドメとなったのか、それまで杖を突きつけられても微動だにせず迫ってきていた『ソレ』は体を大きく仰け反らせてしまう。

 流石の初老貴族もおぉ…!と声を上げた直後、『ソレ』は氷柱が突き刺さったままの状態で仰向けに倒れてしまった。

 

 魔法の氷柱から漂う冷気によって、夏場だというのにヒンヤリとした空気が流れる暗い廊下。

 ドゥ…と鈍い音を立てて倒れた『ソレ』を見てネズミ顔は笑みを、初老貴族は目を丸くして見つめていた。

「…やったのか?」

「やったかどうかはまだ分かりはしませんが、確かな手ごたえはありましたぜ」

 相手の不安げな問いに、倒れた相手に杖を向けたままネズミ顔は得意気に返事をする。

 確かに彼の言うとおり、三本の氷柱が見事刺さったヤツ…『ソレ』は仰向けになったままピクリとも動かない。

 当たり所が悪かったか、もしくは死んだふりをして油断を誘おうとしているのか…。

 そのどちらかもしれないし、ひょっとすればもう死んでしまっているのかもしれない。

 

 ひとまず自分たちに迫ろうとしていた危機を拭い去れた事に、初老貴族は溜め息をついて安堵したかったが、

 すぐに今の状況下でこれはマズイと判断したのか、やや焦った表情を浮かべてネズミ顔に話しかけた。

「しかし、コイツは不味い事になってきたな。やむを得なかったとはいえ人殺しとは…」

「まぁ仕方ありませんさ。それに相手がどうあれ、場合によっちゃあ口を封じなきゃいけませんでしたしねぇ」

 相手の正体が未だ分からぬ中、殺めてしまった事に少なくない罪悪感を抱く貴族に対し、ネズミ顔は平気な顔をしている。

 確かに彼の言う通りなのだろうが、それでも『口封じ』で平然と人を殺せると宣言する事に対しては同意できなかった。

 一難去って再びその顔に笑みを取り戻したネズミ顔をややキツめに睨み付け、首を横に振って忘れる事にした。

 

「お前さんに対しては色々と言いたい事はあるが…ひとまずはお前が手に掛けた相手を………ん?」

 その時であっただろうか、 自身の耳に何かが溶ける様な音が聞こえてきたのは。

 まるで氷の塊を充分に熱した鉄板の上に置いた時の様な、水の塊が水蒸気を上げながら溶けていくあの特徴的な音が。

 ネズミ顔にもそれは聞こえているのか怪訝な表情を浮かべた彼と顔を見合わせてしまう。

 それからすぐに気が付いた。音の出所が自分たちの背後、先ほど地面へと倒れた『ソレ』から聞こえてくる事を。

 先ほど倒れた『ソレ』の足元から出ていた異音に次ぐ新たな異音に、初老貴族は何かと思って音が聞こえてくる背後へと振り返る。

 

 彼らは目を見開き、口を大きく開いて絶句するほか無い。

 振り返った先で起こっていた光景は、二人の想像の域を遥かに超えていたのだから。

 そして、灯りの消えた廊下からロビーにまで響く男たちの悲鳴が聞こえたのは、それから間もない事であった。

 

 

 

 

 ルイズ達にとってそれは突然の事で、霊夢にとっては自らの『嫌な予感』が的中した事を意味していた。

 突如、それまで文化的で平和な雰囲気が漂っていた一階ロビーから物凄い叫び声が響き渡ったのである。

 通常業務を行っていた窓口の嬢や警備員、平民貴族問わず劇を見に来た御客たちはビクッと身を竦ませた。

 ロビーの一角にあるレストランからは謎の絶叫を後追いするかのようにカップの割れる音が二度、三度と聞こえてくる。

 各所に設置されたソファーに腰をおろし休んでいた者たちはギョッとし、中には慌てて立ち上がる者さえいた。

 

 劇場は一階、二階ともに沈黙に数秒間支配され、次いで一階にいた者たちは悲鳴が聞こえてきた方へと顔を向ける。

 彼らが視線を向けた先にあったのは、普段は従業員さえ滅多に使わない非常用通路があった。

 華やかなロビーの左端にある、灯りの消えた薄暗い廊下は絶叫など無かったと言わんばかりに沈黙を保っている。

 それがかえって不気味さを増しており、傍にいた者たちは恐る恐るといった感じで廊下の入口から離れようとする。

 やがて静寂から小さなざわめきが生まれ、劇場各所に配置されていた警備員たちが次々とロビーにやってきた。

 当然二階のラウンジにいた貴族達も何だ何だとざわめき始め、中には従業員に説明を求む者さえいる。

「お、おいそこの君!今の悲鳴は…な、何なのか説明したまえ!」

「あ…その、いえ…申し訳ございません貴族様。我々に皆目見当がつきません…」

 しかしながら彼らも全く事情を把握できておらず、頭を下げて謝るしかないという状況であり、

 何人かは「ただ今調べております」や「至急警備の者が原因を究明致しますゆえ…」といった返事をしている。

 

 その時であった、ふと一階を見下ろせる手すり付近から何人かの小さな悲鳴が聞こえてきたのは。

 何だと思った者達が後ろを振り向こうとした直前に、先ほど場を騒がせていたヴァリエール家の令嬢が「レイム!」と叫び声を上げ、

 それとほぼ同時に、あの紅白服の少女―――令嬢がレイムと呼んだ者――がいつの間にか手にしていた剣と一緒に手すりを飛び越えたのである。

 これには流石の貴族達も目を丸くせざるを得ず、先陣に倣うかのように驚きの声を上げる者までいた。

 いくら館内とはいえ二階から一階までかなりの高さがあり、勢いよく手すりを飛び越えれば軽傷では済まない。

 しかし…これから一階で悲惨な事が起きると予見した彼らの意に対して、飛び越えた本人である霊夢は気にも留めていなかった。

 彼女にとってこれくらいの高さから飛び降りて無事に着地する事など、息を吸って吐くのと同じくらい簡単なのだから。

 

 二階の手すりを飛び越えて空中に身を躍らせた彼女は、足を下へ向けてロビーへと落ちていく。

 上の悲鳴で気が付いたのか、自らの着地地点にいる何人かの下級貴族たちが慌ててその場から下がろうとする。

(こういう時は落ちてくる私を拾い上げてくれる人が一人でもいそうな気がするんだけど…現実って厳しいわねぇ~)

 博麗霊夢にしてはやけにロマンチストな事を想像しつつも、彼女は自らの能力をコントロールして着地の準備を瞬時に整える。

 長年の妖怪退治と異変解決で培ってきた経験と、先天的であり鋭利過ぎもする才能がそれを可能にする。

 そして地面まで後一メイルという所で彼女の体は重力の縛りから逃れ、ふわり…とその場で浮いて見せたのだ。

 

 これには慌ててその場から離れた下級貴族や、遠巻きに見ていた平民たちがおぉ…!と驚きの声を上げた。

 『フライ』や『レビテレーション』が使えるメイジであれば彼女と同じような事はできるが、それでも並大抵のメイジにはできない。

 高速詠唱や口内詠唱の高等技術が無ければ、両足の骨を折って無残な姿を衆目に晒す事になってしまうからだ。

「よっ…と!……あっちね」

 そんな大衆の視線など気にする風も無く降り立った彼女は、手に持っていたデルフを背負うと悲鳴の聞こえてた方へと視線を向けた。

 悲鳴が聞こえて来たであろう場所には、一階にいたであろう警備員や従業員たちが様子を見ようと集まってきている。

 

 霊夢はそちらの方へ素早く体を向けると、床を蹴り飛ばすようにして走り出した。

 自称魔法使いの癖に結構な体力馬鹿である魔理沙よりかは劣るものの、それなりに速く走れる自信はある。

 まるで亀かナメクジの様に、ゆっくりと廊下へ入っていこうとする警備員たちの間を通って、彼女は一足先に薄暗い廊下へと入り込む。

「ん?…あ、おい君!待ちなさい!」

『あー無理無理。ウチの相棒はそういう呼びかけに対して全然聞かんからねぇ』

 背後から止めようとする警備員の呼びかけをデルフが代わりに答えつつ、霊夢は恐れもせずに廊下を一直線に進む。

 その彼に続いてもう一人が呼び止めようとしたところで、彼女の姿は曲がり角の向こうへと消えてしまった。

 

(それにしても、明るいのと暗いのとどっちが良いかって聞かれたら、やっばり明るい方がいいわね)

 まるで日の暮れた路地裏みたいな薄暗い廊下を走りながら、ふと霊夢はそんな事を思った。

 節電か何かなんだろうか、灯りの点いていない廊下はまるで同じ劇場の中とは思えない位雰囲気が違う。

 しかも最初の角を曲がってからというものの、使っていない椅子や大きな木箱が廊下の端に無造作な感じで置かれている。

 恐らくずっと前に置かれたままなのだろう、それ等には決して薄くない量の埃が積もってるいるのが一目で分かる。

 ロビーや二階のラウンジが普通の劇場ならば、今いるここはさながら閉館して暫く経った廃墟の様である。

 とはいえ、仕事の都合上そういう暗い所に赴く事が多い彼女にとっては屁でも無い程度の暗さだ。

 

 霊夢は廊下の端に置かれた荷物を避けて進んでいたがそれが鬱陶しくなってきたのか、ゆっくりと体を宙に浮かせた。

 それからチラリ後ろを見遣り、誰もついてきていないのを確認して「よし」と呟いてからそのまま前へ進み始める。

 廊下の天井と、一定の間隔で左右の壁に取り付けられているカンテラとの距離に気を付けつつ、スイスイと飛んでいく。

『おいおい、大胆な事をするねぇ?誰かに見られたらどう説明するんだい?』

「別に誰も見てないんだから飛んでるじゃないの。…っていうか、結構な数の人間が飛べるんだしどうとても説明つくわよ」

 面倒くさがりな霊夢の言い訳にデルフは暫し黙ったのち、「そりゃそうか」と一言だけ呟いた。

 

 やがて邪魔な障害物も疎らになった所で着地した彼女は、目の前にある曲がり角を睨み付ける。

 そして目を数秒ほど閉じて何かに集中した後でチッ…と舌打ちし、苦虫を噛んだ様な表情を浮かべて言った。

「クソ…!さっきまでこの近くから気配が感じ取れたんだけど、かなり薄くなっちゃってるわね」

『つまり、もうこの劇場内にはいないってコトか?』

「何処かに隠れてる可能性も否めないけど、私相手にこう短時間で隠れられるとは思えないけど……って、ん?」

 昨日に続き、気配の主をまたもや見失ってしまった事に悪態を付きつつ、霊夢は前方の曲がり角へと足を進める。

 少なくともあの角の向こうに何か証拠でもあればいいなと思っていると、ふと場違いな空気が自分の体を過った事に気が付く。

 

 冷たい、まるで三月初めの朝一番に頬を撫でてくる風の様に冷たかった。

 詳しい月日は知らないものの今のハルケギニアは夏真っ盛り、そんな空気が流れるワケがない。

 突然の冷風に思わず身構えた霊夢に続くようにして、デルフもその場の空気が変わった事に気が付く。

『なんだぁ?この季節感ゼロな冷たい空気は?』

「確かに。いくら建物の中とはいえ、まるで氷の様に冷たいわね」

『…気を付けろよレイム。お前さんも気づいてると思うが、この風…あの角の曲がった先から流れてきてるぜ』

 デルフの言葉に「御忠告、どうも」と返しつつ、彼女は左手を右手の袖の中に入れつつ曲がり角を目指して歩き始める。

 確かに彼の言うとおり、今この廊下に流れている季節はずれな冷たい風は曲がり角の向こうから流れてきている。

 そこな『何があるのか』はまだ分からないものの、少なくとも『何もない』という事はなさそうだ。

 

 デルフは抜かないものの、いつでも行動に移せるよう身構えたまま曲がり角へと進む。

 一歩進むごとに冷気はその強さを微かに増してゆき、夏用の巫女服を通して体を冷やしてくる。

 暑いから一転し、寒いと訴えてくる体を半ば無視しつつ霊夢はいよいよ角を曲がろうとする。

 そこで一旦足を止めて、軽く深呼吸して息を整えた後…思い切って角の向こうへと飛び出した。

 …しかし、その先に広がっていた光景は彼女が想像していたものよりも遥かに異常であった。

 

 曲がり角の向こう、劇場から避難用の下水道通路へと続いているその廊下。

 角の向こうまで届くほどの冷気を放っていたであろう原因は、突き当りにある扉の近くに転がっていた。

 何故それが原因だと思ったのか、霊夢でなくともそれを見た者ならば誰もがそう思うだろう。

 それは真夏だというのにまるで酷く吹雪く雪山に放置されていたかのように、氷や霜に塗れていたからだ。

 元の形が何なのか分からない程の状態になっているソレの体からは、凍てつくような冷気が漂ってくる。

 

 夏場だというのに寒い程の冷気を放つという事は、恐らく魔法で形成されたものなのだろう。

 最初はその『何か』が気配の主かと思っていたが、すぐにそれは違うと判断できるほどに気配を全く感じないのだ。

 となれば、先ほどまでいたであろう気配の主が廊下に転がっている『何か』を氷漬けにしたのであろうか。

 そんな事を考えつつその『何か』が何なのかを調べようとした直後、目の前でその『何か』が動いたのである。

 スッと足を止め、右袖の中に入れていた左手で針を取り出した彼女はいつでも攻撃できるよう警戒した。

 まるで不格好な芋虫の様に鈍い動きを見せる『何か』は、動く度に纏わりついた氷や霜が音を立てて剥がれていく。

 暗く静かな廊下に響き渡る中、霊夢は落ち着き払った態度で目の前の『何か』がどういう行動を取るのか待っていた。

(気配からして化け物の類じゃなさそうだし、けどもしもこれが…人間だとするならば…)

 脳裏にそんな考えを過らせたのがいけなかったのか、その『何か』は自らの頭と思しき部分をゆっくり上げたのである。

 流石の霊夢もそれには多少驚くなかで、頭を上げた『何か』の顔を見て目を見開いて後ずさってしまう。

 

「…!」

『コイツは…コイツは確か…』

 それを同じく目にしたであろうデルフも、狼狽えるかのような言葉を漏らしてしまう。

 原型が分からぬ状態まで氷に覆われた体になってしまった今、唯一自由であった頭を動かして霊夢達を見つめる『何か』。

 その正体は名こそ分からぬままであったが、その年を取った顔はついさっき見た覚えのあるものであった。

 一階のロビーで自分とぶつかってしまったあの初老の男性貴族、その人だったからだ。

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