「あと1週間か」
アグネスデジタルはベッドから起き上がると同時に何気なく呟く。1週間後に有マ記念を走り、そこで現役生活としての命が終わる。
命の終わりは誰にも予想できない。交通事故などの突発的な出来事は勿論、病気などで徐々に体が弱っていく場合でも、程度時期は予想できても正確な日時は分からない。予想できる死が有るとすれば死刑執行による死ぐらいだろう。そして疑似的に予定された死を体感する。
有マ記念は絶対に行われる。天気によって順延する可能性は有るが行われる事には変わりない。明確に決められたタイムリミットが決められた死が迫る恐怖、それは突発的に死ぬより怖いかもしれないと考えたことが有る。だが体験してみるとそこまでではなかった。
有マ記念を最後に現役引退すると決めるまで、散々嘆き悲しみもがき苦しんだ事で受け入れる覚悟が出来ていた。
だがそれは今のところに過ぎない。この1週間で覚悟は脆くも崩れ後悔と未練にまみれながら走るかもしれない。しかしそれはならないという根拠のない自信が有った。
デジタルは朝のトレーニングを終え午前の授業を受ける。残り少ない授業を受ける機会、クラスメイトと過ごす青春の1ページを刻まなければならないのだが、右のサイドテールを指でクルクルと巻き取りどこか上の空だった。
引退に対する未練や後悔は無いが心残りは有る、正確に言えば出来てしまった。メイショウボーラーの事だ。
周りの人々が引退を受け入れ意思を尊重しているなか、彼女だけは引退を受け入れていなかった。力を取り戻し一緒のレースに走るという奇跡のような願いに縋り、奇跡を起こしてくれと懇願した。そして願いを退け彼女の心を傷つけた。
メイショウボーラーは大切な後輩だ、最後は拒絶されるではなく、笑って見送ってほしい。どうすれば受け入れてもらえるだろう。午前の授業の間はそればかり考えていた。
「メイショウボーラーちゃん来てる?」
デジタルはトレーニング場でトレーナーを見るや否や声をかける。その問いに首を横に振る。
「レース翌週やし色々有ったからな。今日は完全休養日や」
「そっか、それで協会は何か言ってきた?処分はどうなる?」
「とりあえず形式通りに罰金と、どんな教育しとんのやということで始末書の提出、そしてメイショウボーラーの処分は今のところ未定や」
トレーナーはため息交じりで答える。レースにおいて真っすぐ走るのは大原則であり、斜行によって他者を妨害すれば怪我を引き起こす可能性も有る。何よりレースが正常に進行できなくなる。
レースとは興行でもありファンが望むのは全てのウマ娘が全力を出し、最も強い者が勝つレースだ。それを斜行で妨害され強い者が実力を発揮できず負ければ、ファンのニーズに応えられない。
それ故に斜行には厳しい目が向けられ、斜行したウマ娘ではなく指導したトレーナーが悪いという判断の元、戒めとして多額の罰金が課せられる。
それについては何も不服はない。今回は繰り上がりという結果で被害者が1着になれたが、もしメイショウボーラーが2着だとしたら、コスモサンビームは繰り上がりでも2着が最高だ。普通にやれば1着になれたとしたら申し訳が立たない。
問題は処分についてだ。トレーナー生活であそこ迄裁決委員に食い掛り暴言を吐いたウマ娘を教えたこともなく、見たことも聞いたこともない。それだけにどうなるかは予想できない。
処分は軽くは無いだろう。レースを走る者は品行方正であるべきというのが中央ウマ娘協会の理念だ。それなのに『目が腐っている』『買収されているんじゃない』等苛烈な罵倒を吐きかけ、襟首を掴むという暴力行為に及んでしまった。
「メイショウボーラーちゃんを責めないでね白ちゃん、あれはある意味アタシのせいでもあるから」
「どういうこっちゃ?」
デジタルはメイショウボーラーとの一連出来事について語る。あれは悪意が有ったわけではない。純粋無垢な願いが暴走してしまった結果だ、トレーナーには罰金を払って始末書を書かされたと嫌いにならず、その人間性を誤解して欲しくない。
「そういうことがあったんか。介錯役も引き受けてくれたし、受け入れたと思ったんやが」
「きっと子供の部分を見せちゃダメだ、大人として受け入れようと思ったんだろうね。でも受け入れてくれなくて嬉しくもあった」
デジタルの口角が僅かに上がる。周りの人々は引退を受け入れた。意志を尊重してくれるのは嬉しい事だが、言い換えれば全盛期には戻らないと諦めたということでもある。
だがメイショウボーラーは周りの空気に反発し引退を受け入れなかった。それは一緒に走りたいという願望によるものかもしれない。それでも全盛期の力を取り戻してくれると諦めないということでもある。どんな形でも可能性を信じてくれるのは嬉しかった。
「けど、最後は受け入れてもらいたい。どうすればいいかな?」
「簡単やろ。メイショウボーラーに伝えてこい。何故力を取り戻そうとしないのか、有マ記念では何を思って走るのか、そして受け入れてもらいたいって」
その言葉にデジタルは目から鱗だと言わんばかりに目を剝く。想いは言葉にしなきゃ伝わらない。実に簡潔で明瞭な答えだ。
「善は急げや、さっさと行ってこい」
「いいの?有マ記念前の大事なトレーニングを休むことになるよ」
「かまわん。今週は調整期間で軽い。それに言い方悪いが、宿題はさっさと終わらせろ。終わらないと思ったままお祭りに行っても心から楽しめんぞ」
「分かった。ちょっと行ってくる」
デジタルは力強く頷くと寮に向かって駆けていき、トレーナーはその後ろ姿を見つめる。
想定より緩やかになっているとは言え、デジタルの衰えは進行している。有マ記念は不利な条件で出走ウマ娘も全員強い。普通にやってもウマ娘を感じるという目的を達成できない。
鍵になるのはウマ娘を感じたいという情念、迷いも不安を抱かず一点の曇りもなく感じたいと思わなければならない。
メイショウボーラーに対する不安や後悔は迷いとなる。ならば早急に取り除かなければならない。
『メイショウボーラー!メイショウボーラー!5連勝でGI制覇だ!』
第3視聴覚室のプロジェクターにメイショウボーラーがゴール板を駆け抜ける映像が映り、当の本人はマジマジと映像を見つめる。目は見開き唇を噛みしめ、爪で手のひらを貫通させんとばかりに握りしめる。レース映像が終わると巻き戻し再生し、また巻き戻しては再生するを繰り返す。
メイショウボーラーの環境は大きく変わった。朝日FSまではそれなりにクラスに溶け込み仲が良いクラスメイトも居たが、皆が冷ややかな目で見つめ近寄らなくなった。
昨日の顛末は周囲に知られていた。斜行で降着しておきながら非を認めないどころか、裁決委員に判定が不服と食ってかかった。
判定は絶対であり逆らってはならない。それはレースを走るウマ娘にとって共通認識であり、過去には判定に異議申し立てしたウマ娘も居たがその場は怒りを治め、後日に書面で異議申し立てした。
だが怒りに任せその場で語気荒く抗議し、裁決委員に暴力行為に及んだ。それは最も軽蔑される行為の1つだった。授業が終わると即座に寮に戻り、DVDディスクを手に取り視聴覚室に向かった。
今日はオフだったが寮で休むつもりはなかった。今日の教室の様子を見れば寮でも同じような視線を向けられるのは目に見えていた。本来であれば寮にすら戻りたくなかったが、DVDディスクは部屋に有るので仕方がなかった。
メイショウボーラーは朝日FSのレース映像を見ながらデジタルついて考える。終わったと世間から囁かれるなか安田記念に勝利し、伝説の第2章が幕開けすると信じていた。
だが期待とは裏腹にレースに負け続ける。それでも輝きを取り戻すと信じていた。天皇賞秋の後で醜態を晒し大いに落胆しながらも、心の中では憧れは失わず信じていた。
模擬レースで完全にコントロールされて負けた時はまだ輝きは失っていないと狂喜乱舞した。次第に差が縮まり追い抜き、最後は圧倒的な差で先着した時に悟った。もう輝きを取り戻さない。
ならばせめて憧れの人が笑って終われるように尽力しよう。そう誓ってデジタルに尽力しようとサポートした。
しかし日が経つにつれて心が騒めく。それでいいのか?輝いているデジタルと一緒に走れなくていいのか?諦めて良いのか?
それと同じくして衰えを受け入れているデジタルに、引退することを認めているトレーナーや周囲に怒りが湧いていた。
ならば何をすべきか?と頭から捻りだしたアイディアが願掛けだった。朝日FSに勝利しデジタルに発破をかける。その一心でトレーニングに励み本番に臨み負けた。
メイショウボーラーの胸に重苦しい痛みが襲い思わず蹲る。例え願掛けしても願いが叶うわけではない。本人に特別な力があるわけでもなく可能性はさらに低い。
周りから見れば全く気にすることのない事、だが例え地球が誕生するほど低い確率だったとしても、願いが叶ったかもしれない。そんな後悔が体を苛む。
「やっと見つけた」
突如前方の出入り口の扉が開く。そこにはデジタルの姿が有った。何故か息を乱し疲労の色が見えていた。
何でここに居るんですか?どうやって見つけたんですか?トレーニングはどうしたんですか?
メイショウボーラーの中で様々な疑問が浮かび上がるが、質問する前に体が動き、視聴覚室から立ち去ろうと立ち上がる。
「待って!」
その動きはデジタルによって止められる。先に動く前に駆け寄られ手首を握られていた。
「少しだけ話を聞いて、お願い」
デジタルの手の力が無意識に強まる。何としても自分の気持ちを伝え理解してもらいたい。それに応じるようにメイショウボーラーは大人しくその場に座った。
「ありがとう。まずメイショウボーラーちゃんはアタシが諦めて引退しようとしているのが気に入らないんだよね」
「はい、私はアグネスデジタルさんと走りたい……でも衰えているから引退する……だったら復活すれば問題ない……だから朝日FSに勝てば復活するって願掛けをして……」
メイショウボーラーは淀みなくとはいかないが、何とか言葉を紡ぐ。昨日は興奮のせいでうまく言えなかったが、今日は不思議と落ち着き自分なりに言葉を組み立てられていた。
それからも当時の感情などを自分なりの言葉で話す。デジタルはそれを黙って聞いていた。
「なるほど、まずはアタシが衰えに抗う努力しないかってことだけど、これでも頑張ったんだよね。色々足掻いて神頼みすらしたけどダメで、これはどうしようもないって分かっちゃった。それに有マ記念で目的を達成するためには抗う余裕がないんだよね」
「どういうことですか?」
「アタシは有マ記念で出来る限りウマ娘ちゃんを感じたい。その為には全てを集中しないと多分感じられない。抗うって事は諦めない、つまり未練があるってことだと思う。その未練すら抱えている余裕はない」
デジタルは穏やかながら決意に満ちた表情で語る。この理屈は納得できないかもしれない。ウマ娘を感じるという事は直線である程度食らいつかなければならないと知っている。
そして衰えに抗うということは一般的にはトレーニングで力をつける。レースで無駄な力を使わないように作戦を考えるなどだ。それはウマ娘を感じることに繋がるとも考えられる。しかしそれではダメだ。
そんな小手先の手段では有マ記念に出走するウマ娘を感じられない。それ程までに相手は強い。なら掛けるとすればウマ娘を感じたいという気持ち。それこそが最大の長所であり力を生み出すと考えていた。
「そしてアタシの考えを受け入れて。笑って見送って欲しい」
「でも……でも……私は納得できない。アグネスデジタルさんと一緒に走りたい」
メイショウボーラーは何度も首を振る。直接聞いたことで理屈も理解できた。それでもどうしても納得できない。走りたいという気持ちが受け入れさせてくれない。
「そう」
デジタルは残念そうに呟く。だがその表情はほんの僅かに笑みを見せていた。理想は受け入れてくれることだが押し付けることは出来ない。人にはどうしても譲れない部分が有る。
そしてメイショウボーラーは本心見せてくれた。自分を想って本心を偽り受け入れたと言う事もできたのに。周りに迎合しなくていい。ワガママと言われても嫌なものは素直に嫌だと思い口にして行動すればいい。それは素敵な個性で有り、今後の競技人生でも必ず必要になる。
「だったら最後のお願い。当日は中山レース場に来て生でアタシが走る姿を見せて欲しい。自分の為に走るけど、これまで培った心技体の全てを結果的には発揮する。それはきっとメイショウボーラーちゃんの今後に役に立つ。いや役に立たせる」
デジタルは今までの人生で多くのウマ娘を感じ心に刻んだ。それと同時に願いが有った。
自分も他者に刻まれたい。技術でもいい、心構えでもいいとにかく何かしらの要素で良いから他者の心に刻まれたい。そして刻まれた物を他者が自分なりにアレンジし解釈した技術や心構えを別の他者に刻む。そうやって形が変わっても他者に刻まれ続ける
以前母親が出来る限りミームを残したいと言っていた。母が言うにはミームとは習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である。聞いた当初はピンとこなかったが、引退が迫りようやく理解できた。
「分かりました」
その言葉にコクリと頷く。デジタルは受け入れられない自分を尊重してくれた。それは赦されたようで心が楽になると同時に嬉しかった。
レースを見るという事は引退する瞬間を強制的に見せられるということだ。それは痛みを伴うことも分かっている。
それでもレースを見に来いと言った。それ程までに何かを残せるという自信が有る。いや自信はないが決意はあるのだろう。ならば見に行こう。そこで憧れの人が残す何かを絶対に受取り糧とする。
───
「あ~良かった」
デジタルはメイショウボーラーと別れると思わず声を出す。メイショウボーラーは引退を受け入れてくれなかったが、対話することで自分の考えを相手に伝え、相手の考えも理解できた。実に有意義な時間だった。
これで心残りが無くなり、有マ記念で出走ウマ娘を感じることに集中できる。時間を無駄にせず有意義な時間を過ごそうと早歩きで自分の部屋に向かって行った。