ゼンノロブロイは太陽の光やジャージを撫でる冷たい風を感じながら、ベンチに座り文庫本を取り出す。本を読むときは基本的に図書館や自室など静かな場所で読む。だが時々は外に出て本を読むこともある。
外では学園生が地面を踏みしめる音など、部屋に居る時より5感を刺激される。それは時に部屋で集中して読む時より素敵な読書体験を与えてくれる。
栞を挟んでいたページを手に取り読み始める。基本的に本は紙媒体の書籍で読むことにしている。電子書籍の有用性は理解し、今後は歴史的資料を保管する上では必要不可欠になるだろう。現にレポートを書く際は電子の資料を使っている。だが物語を読むときは紙の本で読む。
ページを捲る時の紙の感覚やインクの匂いが好きで、どんなに時代が変ろうとも物語は紙の本で読むだろう。今読んでいるのはお気に入りの英雄譚だ、主人公が確固たる意志で敵を打ち倒す様子は憧れを抱く。基本的には短編なのでトレーニング前に読んで、気分を高揚させるのが習慣になり始めていた
「あっ、ゼンノロブロイちゃん」
すると後ろから声をかけられ反射的にページを閉じ後ろを振り向く。そこにはジャージ姿のアグネスデジタルが居た。
「こんにちはアグネスデジタルさん」
「今は読書タイム?」
「はい、少し肌寒いですが、天気が良かったので偶には外で読もうと」
「いいね。アタシもトレーニング前に読書タイムとしゃれこみますか。隣良い?」
「どうぞ」
ゼンノロブロイはベンチの隅によりスペースを開ける。デジタルはそのスペースに座るとスマホを取り出し電子書籍のアプリを起動した。
ゼンノロブロイはデジタルについては少なからず意識していた。その活躍ぶりから何時しか勇者の二つ名で呼ばれていた。
幼き頃から英雄譚を好み、いつレースに勝利するにつれ、いつしか英雄に憧れるようになった。ジャンル違いで詳しくは無いが、ゲームでは弱き者のために立ち上がり、悪しき王を倒し世界を救うのは勇者だ。その活躍は本の中の英雄とさして変わらずゲームか本の違いでしかない。
そしてその活躍も英雄譚そのものだった。かつての天皇賞秋では様々な中傷を浴びながら、当時の絶対政権である世紀末覇王テイエムオペラオーと好敵手メイショウドトウを大外から撫で切り、長く続いたワンツーフィニッシュを終わらせる。
そこから香港ではゴドルフィンの有望株のトブ―ク、フェブラリーステークスでは東北の皇帝ヒガシノコウテイと南関東の求道者セイシンフブキを打ち破り、すべて異なる条件でのGI4連勝を達成する。
ドバイでは当時の世界最強ウマ娘、太陽のエースと呼ばれたサキーと、香港では絶対的な力を発揮する魔王エイシンプレストンと激闘を繰り広げ、海外GIでは史上初の日本所属ウマ娘のワンツーフィニッシュを達成する。
そして何よりデジタルを語るに欠かせないのはダートプライド、事の発端からレースの結果や終わり方まで全て劇的でまるで神話だった。
ゼンノロブロイはシンボリクリスエスと憧れを抱いていた。自他ともに厳しいが皆を導くその姿は英雄像の1つだった。そしてその憧れは現実の人物に憧れを抱くような感覚だった。だがデジタルへの憧れは物語の登場人物に憧れを抱くような、浮世離れした感覚だった。
12月を過ぎたある日、食堂で本を読んでいる時にデジタルから話しかけられる。どちらかと言えば人見知りをするタイプで今まで接点が無く緊張していた。さらに物語の主人公に話されたように嬉しく、挙動不審で支離滅裂な言葉で話したのは今でも覚えている。
だが話すと趣味に熱中するタイプなのか気が合い、お互いお勧めの本を紹介し、顔を見かければ話す仲になっていた。
「あのアグネスデジタルさん、ダートプライドの時の話を聞かせてもらっていいですか?」
ゼンノロブロイは顔を赤らめながら頃合いを見計らって話しかける。ダートプライドについてのドキュメンタリー本は出版され読んでいたが、当事者に聞くと色々な裏話が聞けて、それが面白く英雄譚の外伝を読んでいるような感覚になる。まるで寝る前のお話しを母親にせがむ幼子のようで恥ずかしいが、デジタルの話は面白くついついせがんでしまう。
「いいよ、それじゃあ南部杯に負けた後のくだりから、負けたアタシは自分を見失って…ってもうこんな時間!」
デジタルはスマホを見て驚きの声を上げる。それに釣られてゼンノロブロイもスマホの画面を見る。お互いトレーニングの時間が迫っていた。
「すみません!引き留めてしまって!」
「大丈夫大丈夫、あと今日の夜時間ある?」
「ありますが」
「よかったら中庭で会わない。それだったら話の続きをできるけど」
「あっはい、大丈夫です」
「じゃあ夜は中庭で」
デジタルはゼンノロブロイと約束を交わすと慌ただしく手を振りながらコースに向かって行き、その姿を黙って見送った。
───
ゼンノロブロイは私服に着替え美浦寮から出て行く。デジタルも美浦寮なら問題なかったのだが、あいにく住んでいるのは栗東寮だった。
外に出ていると空の上に星が薄っすらと輝いていた。冬になると空気が澄んで星が見えやすくなると聞くが、改めて冬が深まり年末に近づいていると実感する。
そして寒さに思わず上着のポケットに手を入れ背中を丸める。予想以上に寒い、これなら自分が栗東寮にお邪魔して話を聞かせてもらったほうがいいかもしれない。だが同室の人に迷惑が掛かる。かと言って自分の部屋に招こうにもルームメイトに迷惑が掛かる。
対応に悩みながら向かっているとデジタルの姿を発見する。デジタルも気づいたようで白い息を吐きながら向かってくる。
「いや~寒いね」
「こんな寒い中呼び出した形になって、すみません…」
「気にしないで、アタシがしたいから来てるだけだから、それに時間が惜しいしね」
ゼンノロブロイは思わずデジタルの顔を覗き込む。一瞬表情に影が差して不安になっていた。一方デジタルも心境に気づき心配させまいと強引に話を始めた。
「1人の少女がアグネスデジタルさんを救ったんですね。」
「そうそう、ヤマニンアリーナちゃんが居なければダートプライドで満足に感じられなかったよ」
ゼンノロブロイは相槌を打ちながら真剣に話を聞く。やはりデジタルの話は面白く、今まで聞いたことが無い話ばかり出てきて楽しい。
出会ってから数度か話をするうちにデジタルへの印象は変わっていた。その姿は世間が想像する勇者とは大きく乖離していた。
決して品行方正ではなく欲望に忠実なウマ娘、だがエゴとも呼べる意志で自分を貫く姿は今読んでいる英雄譚の主人公の姿に被っていた。
「ところで寒くないんですか?」
ゼンノロブロイは訝しむ。こちらはコートを着て防寒しているが、デジタルはコートどころか、上着も来ていなく、シャツとハーフパンツで部屋着と大して変わらなかった。
「寒いよ。でも有マ記念の予行練習というか、まあ、最近は薄着で頑張ってるんだよね」
デジタルは右手の平を左の親指で押しながら答える。確かに寒そうにしているが、見た目よりかは大丈夫そうだ、仮に同じ状態だったら、歯を鳴らし全身がブルブルと震えていただろう。
寒さに耐性があるのか、何かしらの方法で寒さを軽減しているのか。とにかく耐えている。
「そうなんですね。でも風邪には気を付けてください」
「勿論、風邪ひいて引退レースに出走できませんなんて、笑い話もいいところだよ」
「そうか、次が最後なんですね。アグネスデジタルさんもシンボリクリスエスさんも……」
ゼンノロブロイは弱弱しい声で呟く。12月の中旬でのシンボリクリスエスの引退発表、それは全くの予想外だった。翌日に本人から説明が有り一応は納得したが、それでも釈然としない気持ちを抱えていた。
「そうか、シンボリクリスエスちゃんも次で最後か、アタシはともかく、まだまだ力は衰えていないと思うんだけど」
「そうですよね!まだまだやれるのに勿体ないです!ジャパンカップでは負けてしまいましたが、間違いなく日本の中距離では1番強いウマ娘です!トップとして凱旋門賞に挑むなど責任が有ると思いませんか!?」
「う…うん、そうだね」
デジタルは剣幕に押されて思わず返事してしまう。短い付き合いでここまで感情を見せたのは初めてだった。
「もしかして、シンボリクリスエスちゃんに引退して欲しくないの?」
確認するように話しかけるとゼンノロブロイは恥ずかしそうにコクリと小さく頷いた。
「シンボリクリスエスさんは憧れの英雄なんです。正直に言えばもっと活躍して英雄譚を紡ぐ姿を見てみたいです。これで衰えているなら納得できますが、全く衰えていません。それは断言できます」
ゼンノロブロイは鼻息荒く答える。英雄は全力を出さなければならない。それなのに途中で物語から居なくなるのは納得できなかった。
「う~ん、ゼンノロブロイちゃんの言い分は分かるよ。すっごく分かる。でも引退する側としてもそれ相応の理由は有ると思うんだよね。そしてその理由はレースに飽きたとかじゃなくて、もっと真剣な理由だと思うよ。今度本人に訊いてみたら?そして自分の気持ちを伝えた方がいいよ。私は引退して欲しくありませんって」
デジタルは諭すように優し気な声色で語り掛ける。少し前ならゼンノロブロイの主張に同意し、衰えていないなら輝く姿を見せろと文句を言っていた。
だが引退する立場になって引退するにも切実な理由が有るのが理解できた。シンボリクリスエスは責任感が強いウマ娘なのは外部の情報からでも分かる。それを考えれば切実な理由が有るのは察せられる。
「気持ちを伝えるですか」
「そう、思いの丈をぶつけてさ。そうすればすっきりするし、引退するのも止めてくれるかもしれないよ」
「引退会見もしていますし、易々と撤回はしないと思いますが」
「そうだね。でも引退して欲しくないなら、頑張って説得するしかない。1つ言えるのは行動しなければ後悔が残る」
デジタルの脳内にメイショウボーラーの姿が浮かび上がる。周りが受け入れている中、一人だけ引退しないで欲しいと訴えかけ、今でも引退を受け入れず、奇跡を信じている後輩、彼女が赤裸々に思いをぶつけてくれたお陰で心境を理解でき、良かったと思っている。
きっとシンボリクリスエスもそうだろう。黙って見送られるより、本音を聞きたいと思うだろう。
「アグネスデジタルさんは凄いですね。私は不満を抱えたままだけど、自分に正直に気持ちを伝えようと行動する」
「子供なだけだよ。アタシだってオペラオーちゃんとドトウちゃんが引退する時は酷かったよ。本人たちの前で駄々こねまくったよ。こんな感じに」
デジタルは地べたに寝転がり手足をばたつかせ、その姿にロブロイは思わず吹き出す。流石に手足をばたつかせないだろう。しかし大人に見えたデジタルが駄々をこねたのは驚いた。だが駄々をこねる姿は意外にしっくりと来ていた。
「そして、まだ悩みがあるみたいだけど?」
デジタルは起き上がると同時に質問し、ゼンノロブロイは一瞬体をビクリと硬直させた。
「はい、シンボリクリスエスが納得する理由で引退するのでしたら、引退レースは是非とも勝ってもらいたいんです。英雄譚はハッピーエンドで締めくくってもらいたい。その為にアシストしたほうがいいのかなと」
ゼンノロブロイはデジタルの顔色を見ながら歯切れ悪く喋る。競技者として全力でレースをしないのは恥ずべきことだとは理解している。それでも憧れの英雄には勝って終わって欲しいという気持ちは拭いきれなかった。
「う~ん、難しい問題だね。推しに幸せになってもらいたいという気持ちはとっ~~ても分かります。けどここは愛を持って殺さないと」
「え?私がシンボリクリスエスさんを殺すのですか?」
ゼンノロブロイは思わず真顔で質問してしまう。何故自分が殺さないといけないのだ、デジタルは反応を見て手をブンブンと振りながら慌てて補足を入れる。
「違う違う。え~っとアタシは最近同門の師弟対決にハマっていて、アタシとしては後輩ちゃんが出した答えなら、甘んじて受け止め勝ちを譲られるけど、一般論として先輩が後輩ちゃんに勝ちを譲られるのはモヤモヤするんじゃない。あと個人的には最後に勝って勝ち逃げすることで、後輩ちゃんの悔いになりたいというか傷になりたいというか」
「何だか倒錯していますね」
「もう少しオブラートに包んで欲しかったな。それに師匠を超えるのが弟子の務めという言葉があるし、物語でもそういうのあるでしょ?」
「確かに……あります」
「じゃあやっちゃいなよ師匠越え、そしてゼンノロブロイちゃんが英雄になる。ここからがゼンノロブロイちゃんの英雄譚の第2幕だ」
ゼンノロブロイへのアドバイスは他人からしたら慈愛からの心によるものだと思うだろう。だがデジタルはそんな聖人君子ではない。全ては自分の為、最後のレースでより自分好みに煌めく可能性が有る方法を取ったに過ぎなかった。
その言葉を聞いてゼンノロブロイの中に闘志のようなエネルギーが体中に湧く。英雄になりたいという想いはシンボリクリスエスの存在と、善戦続きのレース結果によって失い始め、英雄譚を間近で見ることに満足してしまっていた。
そうではない、自分が英雄にならなければならないのだ。その為には有マ記念は格好の舞台だ。
「私は誓います!漆黒の帝王を打ち倒し新たな英雄になると!もちろん貴女もです。勇者アグネスデジタル!」
ゼンノロブロイは突如芝居がかった声と動きで高らかに宣言する。だがすぐに我に変えたのか手で顔を覆いその場でしゃがみ込むんでいた。
デジタルはその姿に微笑ましさを覚えるが同時に背筋には冷や汗が流れていた。その気迫はかつてのライバルと同じく強烈で、目には持っているはずのない剣を持ち己の喉元に突きつけるイメージが確かに見えていた。
「ならば受けて立つ英雄ゼンノロブロイよ!……と言いたいけどアタシは気にしなくていいよ。今のアタシは衰えまくってレベル20ぐらいのモブだし。その分をシンボリクリスエスちゃんに向けて」
「それ程までに衰えているのですね」
ゼンノロブロイは悲しそうに呟く。これは冗談ではなく事実だろう。いずれ誰しもが衰えるが、あの勇者がそこまで衰えている事に諸行無常を感じていた。
「アグネスデジタルさんは引退して、いつ頃学園を出るですか?」
「下半期で引退するウマ娘ちゃん達は皆3月ぐらいに出るみたいだから、それぐらいかな。だとしたら3か月でお別れか」
デジタルは思わず目を伏せる。最初は引退レースに出走するウマ娘を出来るだけ知っておこうと、ある意味打算で声をかけた。だが話をするうちに気が合う事が分かり、もっと親しい仲になれたと思っていた。
「そうですね。でも今生の別れじゃありませんし、その……休日なら会えますので」
「え!?卒業しても遊んでくれるの!?卒業後は無職だから、いつでも呼んでね!」
デジタルは重くなった空気を吹き飛ばすようにハイテンションで騒ぎ、その喜びようを見て嬉しさと安堵を覚えていた。
ゼンノロブロイも短期間ながら交流し、気が合い友人として付き合いたいと思っていた。そこで行動しなければ後悔するという言葉を思い出し、思い切って気持ちをぶつけていた。そして相手も満更でもないようで、良い結果だった。
───
ゼンノロブロイは案内表示を見ながら歩を進める。トレセン学園には美浦寮と栗東寮の2つがある。
学園に所属しているウマ娘の大半は寮生活をしているので、寮の部屋の数も多く、ずっと暮らしていても訪れたことが無い区域があるという事態も珍しくない。そして向かおうとしているシンボリクリスエスの部屋も行ったことが無い区域だった。
トレーニングが終わった後にトレーナーに呼び止められた。要件はシンボリクリスエスに書類を渡して欲しいというもので了承する。自分の思いの丈をぶつけようと思っていたので渡りに船だった。
「あった」
ゼンノロブロイは部屋のプレートを見てシンボリクリスエスと書かれているのを確認する。
「失礼します。シンボリクリスエスさんいらっしゃいますか?」
緊張のせいか若干声を震わせながらノックするが返事はない。もう一度ノックするが同じだった。シンボリクリスエスが居なくてもルームメイトに渡せばよいと考えていただけにこの事態は想定外だった。
一旦出直すか、だがトレーナーは出来るだけ早く渡して欲しいと言っていた。隣の部屋のウマ娘に預けてもらうか、だが機密上の問題も有り声をかけるのが恥ずかしい。様々な選択が浮かび上がるなか、何気なくドアノブを回すと扉が開く。
「失礼します。シンボリクリスエスさんはいらっしゃいますか」
先ほどより小声で声をかけながら部屋の中の様子を見る。電気はついていなく人の気配もない。どうやら2人とも外に出ているようだ。不用心に思いながらも抜き足で部屋に入る。ここは手間と効率を考えて部屋に入って書類を置くという選択をする。
部屋の電気をつけると部屋の全容が見えてくる。部屋の中心から左側は模範といえるように整頓され、右側はものの見事に散らかっていた。まるで2つの部屋が1つになったような異質さだ。
まずは左のスペースから調べる。普段の生活態度からして整頓されている方がシンボリクリスエスのスペースだろう。もし違ったら意外で面白くもあるという僅かな期待を抱くが、私物の一部に名前が書かれている物を発見する。
あと書類が入った封筒を机の中心に置いて部屋を出る。書置きでもしたいがペンもなく紙持っていないので出来なかった。
「ヒィ!」
封筒を置こうとした瞬間右側のスペースからアラームの音が流れる。無断で侵入しているという罪悪感と緊張感を抱いていて、突然の音に思わず悲鳴を漏らし書類を床に落としてしまう。
「イタッ」
悲鳴のせいで周りのウマ娘が様子を見にきたら面倒になる。急いで部屋を出ようと書類を集めようとするが、焦りのせいで手につかず頭を本棚に強くぶつけ、さらに本が頭上から落ちてくる。踏んだり蹴ったりだ。己の不運と迂闊さを恨みながら本を棚に戻し書類を集め封筒に戻す。
するとある書類を手に取った瞬間違和感を覚える。もしかしたらトレーナーから渡された書類とは違うかもしれない。念のために内容を確認しようと書類に目を通す。
その顔はみるみるうちに紅潮し目が見開き、書類を掴む手は震えていた。
「何か恨みでも買ったのか?」
ルームメイトは茶化すように話しかけ、シンボリクリスエスは黙って机に張られていた紙をはぎ取るまじまじと見る。その紙には『20時に校舎裏に来て』と書かれていた。字は荒々しく書いた者の精神状態がある程度窺える。
「何でこんなものがある」
「私が居ない間に入ったんじゃね?野暮用で鍵かけず部屋を出て暫く駄弁ってたし、いや~物騒だね」
ルームメイトはケタケタと笑いながら喋る。シンボリクリスエスは一瞬ルームメイトを睨むが即座に視線を外し、状況を確認するために自分のスペースを見る。
一見すると何もされていないようだが本の位置が微妙に違っている。表情が強張らせ何かを確認するように本棚を探っていく。
「行くの?指定時間より大分早いけど?」
「次はない。もしやったら部屋から出ていけ」
「怖~い。次から気を付けます~」
シンボリクリスエスは怒気が孕んだ声で注意するが、まるで意に介さずと言わんばかりにニヤニヤとした笑みを浮かべながら返事する。その態度に苛立ちを覚えながらも強引に押し込むと、コートを手に取り部屋を出て行った。
辺りは昼までの喧騒が嘘のように静まり返り薄暗かった。元々静かで日当たりが悪いこともあり、薄気味悪さはさらに悪かった。
シンボリクリスエスは神経を張り詰めながら校舎裏に向かう。相手は怨恨を持って暴力行為をしてくる可能性も有る。いつでも不意打ちに対応できるようにしなければならないと、地面に落ちている石を拾い握りしめる。
警戒しながら歩きながら5分後に校舎裏近くに着く、辺りは電灯が無く暗いが待ち構えている者のシルエットが見えてきた。耳からしてウマ娘で身長は約140代と小柄だ。
歩を進めていくごとにシルエットが詳細になっていき5メートル手前には誰か把握していた。
「ゼンノノブロイ、お前か」
ゼンノロブロイは言葉に反応せずじっと見つめる。耳は伏せて目つきは険しく、完全に怒っている。その怒り具合は今までに見たことは無かった。
「まずは勝手に部屋に入室したことは謝ります。そして勝手に私物を取ったことも謝ります。それでこれは何ですか?」
ゼンノロブロイは紙を投げつける。紙はシンボリクリスエスの手元には届かず1メートル手前で落ち、警戒しながら紙を拾う。紙を見た瞬間に眉が僅かに動いた。
「契約書か何かか?」
「とぼけないでください。それはトレーナーとの契約書です。貴女はチームに入る際に雇用契約を結んだ」
怒気が籠った声が辺りに響く。もし関係ない者が声を聞けばその場で逃げ出す程だった。
部屋に入った際に拾ったのはシンボリクリスエスがトレーナーとの結んだ契約について事細かく書かれている契約書だった。周囲の目に触れないように隠していたが、偶然に偶然が重なりゼンノロブロイに知られてしまっていた。
「実は私は契約書とかを作るのが趣味でな。もしこういう契約をしていたら何円貰えるかを想像するのが好きで作った。正直人に見せるような趣味では無いから隠していた」
「噓をつかないで、これは契約を結んだ明確な証拠です」
「それは証拠にならない。金銭の支払いがあって雇用契約が結ばれる。仮にそうだったとしても、私の預金口座には賞金以外の金は一切入っていない。トレーナーも私の預金口座に金を一切送っていない」
シンボリクリスエスは不敵な笑みを浮かべながら話す。それは確かに雇用契約を結んでいるが、給与はトレセン学園に在籍している間は払われず、現役を引退した後に支払われる仕組みになっていた。
ゼンノロブロイは目を血走らせながら睨みつける。法律には疎いが、これでは恐らく彼女を罰することはできない。
「私はとても怒っています。レースを走るという行為に金銭を持ち込んだこと、もう1つは貴女がチームのウマ娘の信頼や好意を裏切ったこと、貴女は英雄であり憧れていた」
ゼンノロブロイは手を力いっぱい握りしめ噛みしめた唇から血がしたたり落ちる。チームメイトの多くはシンボリクリスエスを好いていた。
決して優しくはなかったが厳しく接し能力を引き上げようとしてくれる。それは善意による行動だと思っていた。だがそれは仕事であり薄汚い金が欲しかったからだ。
「シンボリクリスエス、貴女は英雄ではない。堕ちた薄汚い悪党に過ぎない。ロブロイの名を冠するこのゼンノロブロイが貴女をレースで殺す。有マ記念では有終の美を飾らせない。泥にまみれて惨めに去りなさい」
デジタルに宣言した時は爽やかで清々しさすら感じるものだった。だがこの宣言は重苦しく身を焦がすような敵意が込められていた。
愛を持って殺さない。怒りを持って殺す。用が済んだとばかりに立ち去る。シンボリクリスエスは振り返ることもせずその場で立ち尽くす。
ゼンノロブロイはトレセン学園に入学する前は野良レースで走っていた。そこはトレセン学園に入る前に腕を磨く者、トレセン学園に入れなくてもレースへの夢が捨てきれないウマ娘が情熱を燃やす清らかな場所だと思っていた。
だが実情は違い、賭博行為が横行しレースを走る者も八百長に加担する地獄の底のような場所だった。
賭博をする者も八百長に加担する者も許さなかった。だが何より許せなかったのはそれを知らず清らかに場所に居ると勘違いした自分だった。
野良レースで走っている際は八百長の誘いは無かった。だがそれは実際には片八百と呼ばれるゼンノロブロイだけ知らされていない八百長が行われていただけだった。それ以降は金がトラウマになり、金銭に関する話題は意図的に避けてきた。
そして野良レース時代の記憶を忘れようとトレーニングを重ねトレセン学園に入学する。そこは夢と希望に満ちたウマ娘が集う理想郷だった。
だがシンボリクリスエスが現れた。労働契約を結び、より良い契約を結び金銭を得ようとする金の亡者、それは最も嫌悪する存在だった。
シンボリクリスエスは立ち尽くしながら静かに笑う。契約書が見つかったのは完全に予想外だったが、災い転じて福となすかもしれない。
人々はトゥインクルレースを走るウマ娘が成長する糧に夢や希望を求める。だが時には「怒り」「嫉妬」「屈辱」「焦り」などの負の感情が成長の糧になることもある。
ゼンノロブロイの殻を破るのは正の要素ではなく、負の要素かもしれない。そうなれば殻を破り、絶対的な強さを手に入れ、トレーナーの代表作になれる。それ程の才能が有ると期待していた