勇者の記録(完結)   作:白井最強

111 / 119
勇者とラストダンジョン#15

 アグネスデジタルは鍵穴に鍵を差し込み開錠すると、ドアノブを回し中に入る。すると外の空気とは違った匂いが鼻腔を刺激する。

 蹄鉄、シューズの皮、ウッドチップや砂の破片、制汗スプレー、様々な匂いが混じった独特の匂い。世間的には良い匂いとは言えないかもしれないが、この匂いが大好きだ。

 匂いを記憶に刻み込もうと何度も鼻から息を吸い、匂いを嗅ぐと自分ロッカーに向かい扉を開ける。するとチームルームの部屋とは違う匂いが鼻腔を擽り、目に映る光景に思わず苦笑する。

 中には予備のシャツ数着に予備の蹄鉄や消臭スプレーや制汗スプレーなど一般的に置いてある道具、そして一面を埋め尽くすようなウマ娘達の切り抜き写真にグッズが所狭しと置いてあった。

 レースに出走するまでの間はそのレースに出走するウマ娘の写真を切り抜き見やすい位置に張り、グッズを置いている。

 今なら有マ記念に出走するウマ娘の写真を雑誌やスポーツ新聞から切りぬいてグッズを置いている。

 そうすることで気分が高揚しトレーニングを乗り切る活力になる。そしてチームメイトからはオタクの部屋みたいだと生暖かい目で見られていた。

 デジタルは切り抜きの1つ1つを眼に焼き付けながら丁寧に剥がしていき、剥がした写真はスケッチブックに貼りなおす。これらは大切な思い出として大切に保管している。

 その後はグッズやシャツなどを回収し持ってきた手提げ袋に分けて入れていき、ロッカーは何もない状態になった。

 すると外に出て持ってきたバケツに水を入れ、手提げ袋から新品の雑巾と洗剤を取り出し雑巾に洗剤をつけロッカーを拭き始めた。

 

 有マ記念前日、午前中はレースに同行しているトレーナーとサブトレーナーの代わりにチームメイト達の様子を見ながらトレーニングをこなし、午後はチームメイト達と食堂で一緒に昼食を摂り、午後はレース番組を見て過ごした。

 番組が終了したのは16時、SNSや動画サイトで有マ記念に出走するウマ娘を調べるかと思ったが、あることを思いつき掃除用具を借りてチームルームに向かった。

 デジタルは長年切り抜きを貼り続けたテープの汚れに悪戦苦闘しながら今までの記憶を思い出す。

 このロッカーには約7年の思い出が詰まっている。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、様々な出来事がまるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。そしてこれ以上思い出を作ることはできない。気が付けば作業の手は止まっていた。

 

「よし!思い出に浸るのは終わり!」

 

 デジタルは自分に言い聞かせるように大声を出して強制的に手を動かす。

 ここでは数えきれない程素敵な思い出をもらった。これ以上はねだり過ぎだ。そしてこのロッカーは新たなウマ娘が使う場所でもあり、様々な思い出を紡いでいく場所だ。真っ新でなければならない。

 それは汚れを落とすのもそうだが、自分の未練を残さないことだ。

 次に来るウマ娘はどのような人物でどのような思い出を作っていくのかと想像しながらロッカーを掃除していく。気が付けば未来のウマ娘の事で頭が一杯になり抱いていた未練は無くなっていた。

 

「こんなもんでしょ」

 

 デジタルは満足げに呟く。流石に鏡のようにとはいかないが、扉だけでも他のロッカーと比べて明らかに違い、新品のように綺麗になっていた。そして目を瞑り手を合わせて呟く。

 

「次に来るウマ娘ちゃんが幸せな現役生活が過ごせますように」

 

 何を残してはいけないと思ったがこれぐらいは残していいだろう。自身の念を込めるように祈りの言葉を捧げ、その後はチームルームをうろつく。

 有マ記念で引退してもすぐに学園を去るわけではない。通例として卒業シーズンの3月に学園を去る。その間にいつも通り授業を受け、放課後は自室でトレーナー資格の勉強をして、時には健康のために運動をするだろう。

 だがもう2度とチームルームに訪れて、トレーニング施設でトレーニングすることは無い。

 トレーニング場は現役のウマ娘の為のものであり、引退した者は使用すべきではない。そのような暗黙の了解があり、トレーナーから招集されるという特別な事情がない限り引退したウマ娘は学園の外で走る。

 明日は有マ記念なのでチームルームに訪れるのは最後になる。様々な思い出が去来しながら目に映る光景を焼き付けた。

 

 チームルームを出るとそして辺りが完全に暗闇が包まれていた。スマホを取り出して時刻を確認すると午後18時を回っていた。見たいテレビ番組が有るのだが、時間が中途半端だ。時間は有効活用するとしよう。

 デジタルはジャージの上下を脱ぎ、半袖シャツとショートパンツという、この季節では明らかに薄着な格好になる。思わず腕をさすり体を震わせ寒がる様子を見せるが、数秒ほど目を閉じた後にその辺を散策し始める。その体は全く震えていなかった

 

 

───

 

 チームのウマ娘が走った日のトレーナーは忙しい。レース前の準備は勿論、レース後も映像を見ながら分析しウマ娘用のレポートを作る。

 レースを走ったウマ娘にも自身で敗因や勝因を分析させ報告させるが、トレーナーのレポートは答えのようなものだ。間違いがなく今後に役立つものにしなければならない。

 今日は中山で2レース、阪神で1レースを走った。阪神はサブトレーナーの黒坂が同行し、彼と意見を交換しながらレポートを纏める。

 さらに明日は中山ではデジタルがレースを走り、阪神でもチームのウマ娘が走るので、その準備をしなければならない。

 トレーナーはトレーナールームでずっと作業していた。

 

「お邪魔しま~す」

 

 ノックの音と同時に扉が開く。そこには学園指定とは別ジャージを着たデジタルの姿があった。

 

「どうしたデジタル?何の用や?」

「用ってわけじゃないけど、部屋にはタップダンスシチーちゃんが居て、本人も居ても構わないって言ってくれたし、アタシもレースに向けて気分を高めている姿を感じたいけど、流石に邪魔しちゃマズいかなって思って、寝る前の暇つぶしに来た。テレビつけるね」

 

 デジタルは許可を取る前にリモコンを取ると電源を着け、すぐさま来客用のカップを取りお茶を入れて砂糖やミルクを使って自分好みの味に調える。まるで実家のように過ごす姿にトレーナーは半笑いを浮かべながら勝手にせいと言い放つ。

 TVでは有マ記念についての番組が流れている。年末のビッグレースというだけあって、特番を組まれ、番組内では今年の出走ウマ娘の紹介や過去の名勝負を当事者のインタビューを交え振り返っていた。

 番組が放送している間はウマ娘が出れば可愛いなどカッコイイと騒ぎ、タレントや芸人が出れば引っ込んでろ、さっさとウマ娘ちゃんを映せと騒がしく見ていた。

 

「TV見る時はいつもそんなうるさいんか?」

 

 トレーナーは思わず作業の手を止めて問いかける。その様子はテレビで野球観戦しているファンのようで、そんなテンションでスポーツバラエティ番組を見る者は見たことが無かった。

 

「いつもじゃないよ。こんな感じで見るのは実家とか1人の時とかプレちゃんとかと一緒に見ている時だけだよ、それにウマ娘ちゃんが中心じゃなきゃ騒がないし」

 

 その言葉を聞き安堵する。他の番組でも同じように騒いでいたら周りからは絶対にひかれる。だが本人にも分別があり、この状態は気心知れた相手限定のようだ。

 

 暫くすると番組は終わり迎える。トレーナーも作業をしながら聞き耳を立てていたが特に有益な情報は無かった。

 デジタルは番組が終わるとTVを消しスマホをいじり始める。トレーナールームは先程の騒がしさから一転し、2人の呼吸音とキーボードを叩く音が静かに響いていた。

 

「アタシ達色々あったよね」

「せやな」

 

 トレーナーはデジタルが何気なく呟いた言葉に相槌を打ち作業の手を止めて正対する。その言葉にはセンチメンタルな感情が含まれていた。

 本人なりに気持ちを整理していただろうが、明日の有マ記念を迎えるにあたって感傷的になっているのだろう。そこで思い出話に花を咲かすことで過去を振り返り、気持ちを整理しようとしている。

 

「俺がアメリカに研修している時に偶然小さい頃のデジタルに出会った。それが全ての始まりだった」

「そうだね。パパとママに知らない人と話しちゃいけませんって言われたからビビっちゃったよ。でもウマ娘の話をするから心許しちゃったけど、今思えばかなり危ないじゃん。白ちゃんが人さらいだったらどうなってか、コワ!」

 

 デジタルは演技がかった動作で身震いし、トレーナーも思わず顔を引き攣る。もしデジタルが騒げば誘拐未遂として捕まりトレーナー資格が剥奪された可能性も充分にあった。何と不用意な行動だった。

 

「それで交流が続いて、気が付けば日本のトレセン学園に入学していた。最初は正直辛かったな~」

 

 当時を思い出し僅かに顔を顰める。言葉が通じず周囲と馴染めず共通の趣味を持つ者もいない。アメリカとは違い全く居心地が悪く、ホームシックに罹り本気で帰ろうとすら思っていた。

 

「こっちもきつかった。預かった娘さんをダメにしてアメリカに返しましたなんてあったら、デジタルの両親に申し訳立たん。俺としても色々やったんやけど効果なかった」

「あの時は心を閉ざしてたからね」

「そのせいか走りもよくなかったからな、確かもちのき賞あたりから良くなった記憶がある」

「ああ、それぐらいからプレちゃんと仲良くなったんだよ」

 

 精神がどん底にあった時に声をかけてくれたのがエイシンプレストンだった。

 日本の地で出会った初めての友達で親友、彼女が友達になってくれて周りとの付き合い方を教えてくれたお陰で徐々に日本に馴染み適応できるようになった。

 もしプレストンが居なければアメリカに帰っていただろう。感謝してもしきれない。

 

「本来ならトレーナーがしなきゃあかんことなんやけどな。プレストン君には感謝してもしきれないな」

「トレーナーより同級生の方が影響を受けることもあるし、しょうがないって」

「それで1勝クラスに勝って全日本ジュニア優駿で1着、正直よう勝ったわ。周りはそれなりに完成されてんのに比べてマッチ棒みたいな体やったし、でもそれで勝てるやから、将来は大きいところ1つや2つは勝てるかもしれんって期待を抱いたわ」

「そうだね、皆良い体してるなってのは思ったよ。それに初めての地方でのレースだったけど、地方のウマ娘ちゃんは中央のウマ娘ちゃんと違った魅力が有って素敵でした」

「ダートのジュニア王者になったし、今度は芝のマイル王者を目指そうとNHKマイルに標準を定めた。年明けでヒヤシンスSは3着で芝1200のクリスタルCで3着」

「そして次はニュージランドT、ここで初めてプレちゃんと一緒に走った」

 

 デジタルは当時を思い出す。初めて一緒にレースを走る。プライベートでは多くの時間を過ごしているが、レースではどんな顔を見せるか?楽しみで夜も眠れなかったのは今でも覚えている。

 結果は3着だった。先行抜け出しで勝ったと思ったところをすぐ隣をプレストンが駆け抜けていった。艶のある黒髪を靡かせ今まで見たことがない必死の表情を見せる。その姿に追わず見とれてしまった。

 

「それで次はNHKマイル、プレちゃんが怪我で出られないのはショックだったけど、初遭遇のウマ娘ちゃんとの邂逅に胸をときめかして走ったけどダメだった」

 

 このレースがGI初出走で勝負服に身を纏うウマ娘の姿に興奮し見られたことで満足してしまった。その結果レースでウマ娘を感じようという気持ちが薄れてしまった。敢えて敗因をあげるとしたらそれだろう。

 一方トレーナーは別の要因が有ると考えていた。今では問題無いがスピードや身軽さやストライドの大きさもそうだが、芝の走り方をマスター出来ていなかった。

 

「それでダートに戻って名古屋優駿に勝ってジャパンダートダービー、これもダメだった」

 

 デジタルは肩を落とす。前回の反省を生かし勝負服を見たことに満足せず、レースを走るウマ娘を絶対に感じるぞと闘志を燃やしていたのだが、心の熱意に体が応じてくれなかった。

 そして体の問題だがいくつかの理由が有った。まずデジタルはマイラー寄りのウマ娘で2000は得意という訳でなかった。

 次に当日のダートコンデションは良で珍しく砂が重くパワーとスタミナが必要だった。さらにペースが速く前につけていたデジタルは体力を削られていた。前走の名古屋優駿は1900メートルだが、ダートは重で脚抜けが良かったので何とかこなせたに過ぎなかった

 

「そして暫く休んでのユニコーンSに勝利し、武蔵野S2着。これぐらいから充実し始めて体も出来上がってきたな」

「そうなの?自分としては変わりなかったけど、そういえば武蔵野Sで初めてシニア級と一緒に走ったんだよね。お姉さまの魅力にメロメロでした~。グフフ」

「そんなこと考えとったんか。それで次はマイルCS」

「あれには驚いたよ。次もダートを走るのかなって思ってたから」

 

 デジタルは当時プレストンの怪我が治ったのを知り、出走予定であるマイルCSを走ると表明していた。

 ニュージランドTでの姿は鮮明に刻まれ、GIの舞台で勝負服に身を纏ったプレストンはどれだけ素敵なのだろう。日々の生活でそればかり考えて是非とも一緒に走りたいと思っていた。

 だが芝の成績は全く芳しくなく、トレーナーに言っても却下されるだろうなとダメ元でお願いしたらあっさり受諾された。

 

「まあ力も付けてきたし、走りの飛びも大きくなって芝向きの走りになとった。まあ無様な走りにはならんだろうと思っておった。だがまさか勝つだなんてな」

 

 トレーナーは当時の心境を思い出し笑みを零す。デジタルには色々と驚かされたが最も驚かされた出来事はと訊かれれば、マイルCSと答える。

 NHKでは惨敗、勝ち鞍は全てダート、普通に考えれば勝てる要素は全くない。それが世間の評価であり人気も13番人気だった。調子は良かったのでもしかしてとは思っていたが期待はしていなかった。

 だがレースでは他のウマ娘が止まって見えるような末脚を炸裂させ1着、しかもコースレコードのオマケつきである。

 その走りに寒気が覚えたのは今でも覚えている。それと同時に夢ではないかと思わず頬をつねったのも覚えている。

 

「アタシも思わなかった」

 

 デジタルも素直に同意する。他のウマ娘なら勝つと信じていなかったのかと怒るかもしれないが、そんな気は全く思わなかった。

 直線で進路が空かず直線200メートルぐらいでやっと進路が空いた。少しでも多くのウマ娘を感じなければと夢中で走った。今思えばそれが勝利の要因だろう。

 すれ違うウマ娘達が驚きの表情を見せる。普段は意識を向ける側だが、向けられる側として感じるのは一味違った心地よさが有った。

 そしてレース後のプレストンの表情も強く印象に残っている。

 これは後から話を聞いた情報を踏まえての推測だが、友人が勝利したことへの喜び、そして格下だと思っていたウマ娘に負けた悔しさや屈辱が混ざり合ったものだったのだろう。

 

「それで王者として追われる立場になったからには無様なレースさせられんと思った矢先に連戦連敗、黒坂君やないがプレッシャーでゲロ吐きそうやったぞ」

 

 トレーナーは思わず顔を顰める。あのスケールが大きい勝利に多くの青写真が浮かんだ。今後は多くのGIに勝利し歴史的な選手になる。だが思うように結果が出ず苦悩の日々が続いた。

 トレーニングが悪いのか、レースでの指示が悪いのか、食事の指示がマズいのか、業界の宝となるウマ娘を潰してはならないと自分を責めていた。

 だがある日1つの考えに行きつく。考えられる最善は尽くした。今は雌伏の時で必ず花開く。もしくはこの敗戦は本人の問題であり自分は悪くはない。本来であれば間違った考えだが、時にはこうして開き直る必要もある。

 

「そうだったの?なんかゴメンね。アタシとしては頑張ったんだけど」

 

 一方デジタルは謝りはするが他人のごとのように軽い口調で悪びれる様子はなかった。

 当時は連敗してもそこまで気落ちすることなく、レースで色々なウマ娘を感じられないのは残念だが自分はこんなものであり、今の状態でウマ娘をより良く感じられるように頑張ろうと考えていた。

 

「そして夏は休んで秋の日本盃からGIを含む5連勝、出来すぎやろ」

「色々な場所で色々なウマ娘ちゃんを感じられて楽しかった」

 

 それから2人は現役生活の思い出について話す。其々の当時の心境を語りお互いの心理や感情を共有した。話はプライベートや近年のベストレースと脱線していき、時間の経過を忘れる程語り合った。

 

「で、明日でアタシの現役生活は終わる」

 

 デジタルはポツリと呟く。その言葉は当初の感傷やセンチメンタリズムは無く、ただ事実を再確認するような声色で心は安定した。

 

「今思うと現役生活はかなり雑でテキトーに過ごしてた。今の気持ちを最初から持っていればもう少し良い現役生活を送れたかも」

 

 引退を決めてから今日までの生活は充実していた。次善を得る為にトレーニングも休息も日々の過ごし方も最善を尽くせたという自負がある。

 それと同時に今までは如何に無駄に怠惰に過ごしてきたと実感していた。

 

「それに気づいただけで大したもんや」

「え?」

 

 思わぬ言葉に驚く。怒られはしないが小言は言われると思っていたが、まさか褒められるとは思っていなかった。

 

「人間はいつか死ぬ。大半の人間は知識として知っていても実感を持っていなくて、どこか他人事で遥か先の事やと思っとる。俺も含めてな。そしてデジタルにとって現役生活の終わりは死やった。衰えは止まらずどうしようも出来ないと悟った瞬間死んだ。だが一度死んだことで恐怖を知り、いつ死んでもいいように日々を全力で悔いなく過ごそうと思うようになった。その気づきはこの後の生活を必ず幸せにするやろ」

 

 デジタルは衰えによりレースでウマ娘を満足に感じられなくなるという死を恐れ、迫りくる現実に心を大きく乱された。それ程までにレースでウマ娘を感じるのは大切なものだった。

 だからこそ死ぬまでの無駄な日々を悔やみ、同じことが無いように今を全力で生きる。それはデジタルの倍を生きているトレーナーでも至っていない境地だった。

 それと同時に疑似的な死の恐怖を乗り越えたデジタルを心から尊敬していた。

 

「確かにそうかも、アタシは1回死んだ。でも死んだから得たものがある」

「そうや、それを明日のレースで生かして、トレーナーとして教え子に伝えてやれ」

「うん、でも言っても分かってくれないんじゃないかな。アタシも少し前までだったら白ちゃんに言われても『うるさいな~』って思うし。でもウマ娘ちゃんに心の中でそう言われたと知ったらショック死しちゃう!」

 

 デジタルは顔に手を当て青ざめている。その姿を見てトレーナーはクスリと笑う。本人は悪いが本当に起こりそうだ。

 

「宴もたけなわってことでそろそろ帰れ、消灯時間やろ」

「ウソ!もうそんな時間!?」

 

 デジタルは時計を見て慌てて帰り支度する。少し暇つぶしのつもりで寄ったが予想以上に時間が過ぎていた。

 

「じゃあねお休み、また明日」

 

 一方的に挨拶してトレーナー室から出て行く。トレーナーはその様子を見てため息をつく。

 

「せわしないやっちゃやな、俺はこれから忙しくなるやけどな」

 

 トレーナーは呟きながら作業を再開する。デジタルとの会話に夢中で作業の手が止まり、そのロスを今から取り戻さなければならない。

 この分だと今日は家に帰れず此処で泊りだ、気合いを入れるように頬を叩き作業を再開した。

 

「うん?」

 

 デジタルが帰ってから30分後、スマホから着信音が鳴る。良い感じに捗っていたのに水を差すなと若干の怒りを覚えながらスマホを手に取る。

 画面には1つのメッセージが表示がされ相手はデジタルだった。そしてメッセージの中身を見て破顔した。

 

─さっきのお喋り楽しかったよ。きっと現役生活を振り返る時に楽しかった思い出として思い出すんじゃないかな。

 実は明日で最後だと思って寂しかったり不安だったりって心が少しモヤモヤしてたけど、それが無くなった。今日はぐっすり眠れそう。

 明日はウマ娘ちゃんを感じるって気持ち以外は置いていくから今のうちに言っておくね。白ちゃんがアタシのトレーナーで本当に良かった。今までありがとう。

 

 口にするのが恥ずかしかったから文章で伝えたのだろう。随分殊勝な心掛けだ、そして気持ちを素直に口に出すタイプだと思っていただけに意外だった。

 

 デジタルから出たウマ娘を感じる気持ち以外を置いていくという言葉、ダートプライド以降は勝敗を度外視でウマ娘を感じることだけに全てを注ぐようになった。しかしダートプライド以降は出来ていなかった。

 

 かきつばた記念では長期休み明けに対する不安や心の乱れ。

 安田記念では勝ちはしたが、アドマイヤマックスを救うという一心で走り、原動力はウマ娘を感じるという欲ではなく慈悲の心だった。

 そして宝塚記念から天皇賞秋までは無意識に衰えを感じ気が散っていた。

 

 だが明日は違う。衰えを自覚し受け入れたことで恐怖に引っ張られることなく、外に置けるようになった。

 一切の感情を持ち込まずウマ娘を感じることに全てを注ぎ込むだろう。この状態のデジタルは常識を軽々と超える。ダートプライドに勝利し世界一になったのもこの境地に至ったからだ。

 有マ記念では奇跡と呼べるような走りを見てきた。常識的に考えればデジタルは終わったウマ娘だ、それはトレーナーの自分が一番分かっているはずだ。

 それでももしかしたら。そんな淡い気持ちを抱き始めている。だがその感情を即座に握りつぶす。

 これはデジタルがまだ走って欲しいという感傷だ。トレーナーは冷徹なまでに周りを客観視しなければならない。明日は感傷に引きずられることなく、デジタルの目的を達成するために全力を尽くす。

 トレーナーは改めて誓いを立てて作業を再開した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。