中山レース場パドック前には既に多くの人々が押し寄辺りを囲んでいる。それらの人々の中には1レースから場所を陣取っている筋金入りのファンも居た。それだけ有マ記念のパドックが見たいというバロメーターでもあった。
そして筋金入りのファンもその他のファンも共通している点がある。皆は雪が舞い落ちる中腕をさすり歯を鳴らして寒さに耐えていた。
昨日までは天気予報では晴れで、関東で雨が降るのは翌日の月曜だった。しかし雨雲が急速に移動し中山レース場に雨が降り始め、さらに急激な気温低下により雨は雪に変わっていた。
ここまで気温が下がるとは多くの者は予想しておらず、防寒着を用意していなかった。結局ファン達は寒さに体を震わせながらパドック前で有マ記念を走るウマ娘を待ち続ける。
『只今より、第10レース、有マ記念のパドックを開始致します』
場内アナウンスが流れ、観客達はウマ娘達が見られるという興奮と、寒さに耐える時間が終わりを告げたことへの嬉しさから声を上げる。
最低人気のウマ娘から順に入場しファン達が声援を送る。有マ記念は元々人気が高く、今年の最後のGIを楽しもうと声援が大きくなる。さらに今年は雪が降っているので、気分が盛り上がり体を温めようとしているのか、ファン達も妙なテンションになり声が大きくなっていた。
トレーナーはパドック場に包む高揚感に流されることなく冷静に見つめる。デジタルの目的の為には出走ウマ娘の状態を見極める必要がある。全神経を集中させ観察する。
『アグネスデジタル選手、9番人気です』
──頑張れ~アグネスデジタル~
──今までありがとな~見ていて楽しかったぞ
パドックにデジタルが登場すると一気に歓声が上がると同時に暖かな声援が送られる。このレースで引退することは多くのファンに知られ、今までの活躍を労るように声をかけていく。
一方デジタルはその声援に応えることなく、真顔でランウェイを歩き、行き止まりで停止する。そこでもポージングすることなく脱力状態で立つ。その姿にファン達の声援はどよめきの声に変わる。
その様子をトレーナーは見つめる。本来ならば応援してくれるファンに応えるべきなのだが、全く意に介さない。それはダートプライドのパドックの姿に似ていた。あの時は出走ウマ娘を感じることに意識の全てを向けたことでなったが、今日は事情が違う。
ウマ娘を満足に感じるというも目的のために、スタミナを温存するために心を凪のように落ち着かせ動かない。それで温存できるのは1センチ以下の体力かもしれないが、やれる事はどんなに小さく些細な事でも実行する。それが次善を得る道だ。
そして今はトレーナーに教わったイメージトレーニングをしていた。体中に血液が隅々まで駆け巡り、全身に温かい濡れタオルが張り付いているイメージを構築する。その結果ファン達と比べ明らかに薄着だが、寒さに震えることなく何事も無く立っていた。
その後はチャクラ、ツルマルボーイ、ザッツザプレンティ、リンカーンが登場する。デジタルによって作られた微妙な空気は払拭され、場の空気は温まりグランプリに相応しい雰囲気となっていく。
『ゼンノロブロイ選手。5番人気です』
──今の全力をぶつけていけ~
──頑張って~
ゼンノロブロイがパドックに現れる。確かな実力が有りながらどうしても勝ちきれない。そのようなウマ娘は数多く存在し、そういったウマ娘に感情移入するファンは一定数いた。その声援に応えるようにお辞儀をしながら控えめに手を振る姿をトレーナーは観察する。
一見大人しいが熱いものを秘めているとデジタルが言っていた。その話通り動作の節々に熱を感じる。勝ちきれないウマ娘が1つの勝利で才能が花を開くことがある。それがこのレースなのかもしれない。
そして様子を見ていて気になる部分が有る。確かに熱があるが儚げというか、どこか悲壮感を感じる。まるでこのレースに勝てれば終わってもいいと云わんばかりだ。
『ネオユニヴァース選手。4番人気です』
ネオユニヴァースが姿を現す。上は宇宙服で下はスカート、宇宙服のカラーリングは虎柄に二の腕に青の1本線、さらに大量のテントウムシのマスコットと髪に着けているのと同じようなリボンが着いていた。
今年の2冠ウマ娘ネオユニヴァース、性格や言動は個性的で好き嫌いがハッキリと分かれるタイプだ。
それでも実績もありファンの数は多く、今日も声援が送られるはずだった。だが声援は疎らだった。その違いはトレーナーもヒシヒシと伝わっていた。
宝塚記念では独自の空気を纏い、周りとは違う景色を見ているようでどこか掴みどころがない印象だった。だが今は全く違う。
幼き日に井戸を見たことがあり、その井戸は深く底が見えなかった。その瞬間に底から何かが這いよりそこに引きずり込まれるイメージが浮かび上がり、その恐怖で一目散に逃げたことがあった。ネオユニヴァースはまさにそれだ。
見ているだけで取り込まれてしまうような得体の知れない恐怖、それを感じたことでファン達も黙ってしまった。宇宙という言葉をよく口にする印象からその姿はブラックホールのように思えてきた。
周りの空気が冷え込むのを感じながら観察を続ける。確かに恐ろしいが未知の怖さではない。他人を否定し飲み込もうとする負の感情、その空気を纏うウマ娘は長年のトレーナー生活で同じではないが類似するウマ娘は何人か見てきた。未知という部分では宝塚記念の時の方が上回っている。
『ヒシミラクル選手。3番人気です』
ヒシミラクルがパドックに現れる。勝負服は走りやすいように改造した青と白の袴、額にはひし形の青い水晶と首には白の勾玉をつけている。
「キタキタキタ!枠は絶好の1枠2番!バ場は不良!さらに雪まで降ってきた!条件はどんどん良くなってきてる!またまたミラクル起こしちゃうよお客さん!」
その言葉にこの日1番の歓声が上がり、パドックの空気が一気に変わる。そしてファン達は応援券を買った。年末ジャンボを当てさせてくれなど、好きな娘と結ばれたいなどレースに関係ないお願いを投げかける。この光景だけ見れば、どうみてもレースのパドックではない。
未知の恐怖という点でいえばネオユニヴァースよりヒシミラクルの方が怖い、それがトレーナーの印象だった。
まるで見えない大きな力に導かれるように状況は有利になっていき、さも当然のように享受する。こんなメンタリティのウマ娘は今まで見たことが無い。
仮に宝くじが連続で当選するような確率の出来事が起きて勝利しても、ミラクルで勝ったと喜ぶだろう。運は紛れもなく実力で有り、真っ向勝負で勝ったことに変わりないからだ。
極端な事を言えばレースに出走するウマ娘の作戦を全部予測し、全てを操りレースに勝つことは可能だ。それを出来るのは人間の能力を超えているが可能性だけある。だがこれから起こるアクシデントは誰も読めない。
どれだけ完璧なレース運びをして勝ちを確定させても、隕石が落ちて当たってしまえば瓦解する。それ程までに運という要素は心技体を超越する力を秘めている。
トレーナーもデジタルの目的達成のために、幾度もシミュレーションを実施し、考えに考え抜いてレースに臨む。その努力がヒシミラクルの運によっていとも容易く粉砕されるような気がしてしまっていた。
『シンボリクリスエス選手、2番人気です』
──勝って有終の美を飾ってくれ!
──お前が最強だぞクリスエス!
シンボリクリスエスが登場する。勝負服はシンボリルドルフの勝負服のデザインを踏襲しながら、黒の比率を多く混ぜたようなデザインで、赤色の腰布が特徴的である。ヒシミラクルが作った空気に舞い上がっているのか、ファン達は熱量が多い声援を送る。
デジタルと同じくこのレースで引退するのだが、両者の立場は明確に違う。デジタルは悪く言えば思い出作りであり、実際にいえばその通りである。
だがシンボリクリスエスは勝利を目指す実力と立場にある。ファンとしてはジャパンカップは決して力負けではなく、実力を示して去って欲しいという思うところである。
そして当人は周りの熱に当てられることなく、形式的にファンにアピールしているが淡々としている。
揺るがず騒がず威風堂々したその姿は、良い意味で変わらない。高い水準で想定通りの実力を発揮するだろう。
ふとシンボリクリスエスと視線が合い、その瞬間背筋に寒気が走る。まるで全てを見透かされるような瞳だ。何が無く周りを見ると他のトレーナーも何人かは同じような表情を浮かべていた。
パドックでのウマ娘の行動は観客の声援を受けてテンションを上げる。ファンにアピールする。レースの展開をシミュレートする。大まかに分類するならばこれらだろう。
しかしどれとも違った行動をとった。あれはトレーナーを観察している目だ。観察しているつもりが、観察されていた。それはちょっとした恐怖だ。
他のウマ娘の様子を観察してレースの参考にすると考えるウマ娘は居るだろう。だがトレーナーを観察するウマ娘はそうはいない。さらに言えば出走ウマ娘のトレーナー全てを観察している。
トレーナーが今まで抱いていた印象は強いだった。心技体において非常に高水準を誇るウマ娘、だがそこに怖いが加わった。それは最大限の賞賛だった。
『タップダンスシチー選手、1番人気です』
冬のグランプリの大取、その栄誉を祝福するように大歓声がタップダンスシチーを迎える。
勝負服はケブラー繊維の厚手のズボンに上はやたらモコモコしたウインドブレイカー、それは競艇選手が着るような服である。色はトリコロールカラーである。
宝塚記念とはうってかわり、溌剌とした表情とキビキビした動作を見せ、ファン達にアピールする。その様子は絶好調そのものだ。
相手陣営は勝負師気質だ、レース前に何かしら仕掛けているのは分かっている。それを見破ってやると密かに楽しみにし、情報収集に余念は無かったが現時点では明確には分かっていない。
実は何もしていなく、仕掛けていると思わせること事態が仕掛けなのかもしれない。勝ち負けを目指すなら厄介極まりない相手だが、今の自分達にとってはそうではない。デジタルの目的は勝利ではなく、わざわざ負かすような仕掛けはしない。
タップダンスシチーは手を叩きファン達に手拍子を促し、音は次第に大きくなりパドック場を包み込む。するとその場で手拍子に合わせてタップダンスを披露する。その行動にこの日で最も大きな歓声が上がった。
一見すればファンサービスに見えるだろうが、気質と性格を考えればそんな理由でするわけがない。
これは空気を自分に引き寄せるためだ。ファンを盛り上げ何かしてくれるかもという期待感を煽り、場の流れを味方につける。
先程までは流れはヒシミラクルに来ていたがそれを察知し、流れを強引に引き寄せた。他のトレーナーから見れば流れはオカルトであり、無駄に体力を消耗しただけだと思うかもしれない。
だがトレーナーの考えは違う。ファン達の期待感を募らせるということは相手への期待感を奪うことだ。その影響は必ず出る。
1番人気のパドックが終わり、出走ウマ娘達がトレーナーの元に駆け寄る。そこで言葉を交わし地下バ道に本バ場入場が始まる。
「いや~、メンバーは似ているけど宝塚とは違った感じだったね。それでも最高なのには変わらないけど、ゼンノロブロイちゃんは何か情熱的だし、ネオユニヴァースちゃんは暗黒空間と化しているし、ヒシミラクルちゃんは神々しいし、シンボリクリスエスちゃんは凛々しいし、タップダンスシチーちゃんは盛り上げてくれるし」
「お前、見とったんか?イメトレはどうした?」
「大丈夫今もやってるから」
デジタルは手のひらのツボを押しながら悪気なく言う。最初はイメージ構築に手こずったがイメージ出来れば維持するのは難しくはなかった。
それよりこのパドックを5感で焼き付けようと出番を待つウマ娘を観察し、ステージ裏のテレビでパドックの様子を見学していた。その際にはイメージがおざなりにならないよう、5感の意識を下げていた。
「まあええやろ。レースで感じるのがメインディッシュなら、パドックで感じるのは前菜みないなもんか」
「そういうこと。う~んシンボリクリスエスちゃんとゼンノロブロイちゃんは険悪そう、それにトレーナーともかな?ゼンノロブロイちゃんトレーナーと全然視線合わしてないよ」
「観察も良いがそろそろ最終確認や。本バ場入場はウマ娘に一切意識を向けず、イメトレとツボ押しをしながら芝の状態を確かめろ。今ならより芝に意識を向け確かめられるやろ、ただし走るな、時間ギリギリまで確かめろ」
「分かった」
「それでレースだが基本は作戦通りに走れ、せやけど雪が降っておるし何か起こるか分からん、現場判断で作戦を変えていい。今までの競技人生で培ったものを生かせ」
「了解、それでパドック診断はどうだった?光っているウマ娘ちゃん居た?」
「光っているのはいない。それで印象やが、流石にグランプリだけあって全員ええ感じや」
「それは良かった」
2人は最終確認するなか淡々といつも通り言葉を交わし、その中でトレーナーの胸中に名残惜しさが膨らんでいく。
あと数秒で会話が終わり地下バ道に向かう。レースの度にやってきた行動はもう2度とできない。
すると係員が出走ウマ娘達に地下バ道に向かうように促す。もう時間がない、教え子が最良の結果を得られるために必要な助言、脳を最大限稼働させ言葉を探す。
「デジタル、次善を勝ち取れ」
優秀なトレーナーであれば効果的な助言を出来るだろう。だが浮かんだのは精神論、それどころか唯の願いだった。
その言葉にデジタルは笑みで応え係員についていき地下バ道に向かう。その瞳と意識にトレーナーは全く向けられていなく、レースで最高の体験を出来るという未来に向けられていた。
───
『今年も様々なドラマがありました。そのドラマを起してきた優駿たちが集います。ある者はここで終わり、ある者はここをステップアップの踏み台としてさらなる飛躍を誓います。空から雪が降り注ぎます。日本では雪が降る日は変革が起こると云われます。大波乱か、順当な決着か。その目で見届けましょう』
場内実況が流れ始め本バ場入場が始まる。応援するウマ娘の雄姿を眼に焼き付けようとファン達はコースに意識を向ける
『世界を股にかけ戦場を選ばず戦ってきた勇者の最後はこの中山です。ついに迎えたラストダンジョン、最後に迎えるエンディングはハッピーエンドか?1枠1番アグネスデジタル』
デジタルは白と緑で彩られた芝を踏みしめゆっくりと歩く。東京と京都と中山の芝、シャティンの芝、ドバイのダート、東京のダート、名古屋と大井と盛岡のダート。今まで走ったコースとバ場状態を思い出し、記憶の引き出しを開けていく。
1歩ごとにかける体重の比率を調整し最適な走りを導き出す。ベストの走りを見つけるのは目的を達成する為の最低条件である。
芝の状態を確かめながら同時に体を温めるイメージ構築も行う。並のウマ娘なら出来ないが高いイメージ力と鋭敏な感覚、そして日々のトレーニングで養った集中力の高さが可能にする。
デジタルはマルチタスクに没頭する。その頭の中には出走ウマ娘の存在は一欠けらも無くなっていた。
『全治1年の怪我を1月半で治して出走してきました。不安材料は多くあり勝てばミラクルと囁くでしょう。それがどうした!?奇跡は褒め言葉、運は実力、4度目の奇跡を起こして6人目の同一年春秋グランプリ制覇を狙います。1枠2番ヒシミラクル』
ヒシミラクルはデジタルを追い越しながら芝の感触を確かめる。これは思った以上に滑る。そうなれば他のウマ娘も足を滑らし紛れが起きやすくなる。内枠に不良に雪も降っている。確実に有利な状況になり運が向いてきている。
このレースにおいてやることは2つ。培った心技体を発揮すること、そして運を信じ抜くこと、そうすればアクシデントも相手の策略も全て己を有利にしてくれる。
勝負は誰もが望むすっきりした形で終わらないかもしれない。転倒事故による上位総崩れ、降着繰り上がり、それで1着になっても全力で喜びウイニングライブを歌う。
非難の声やブーイングを浴びせられるかもしれない。だがそれを含めて勝負で有り、転倒事故や斜行に巻き込まれた者は運が足りなかっただけだ。何を遠慮する必要がある。
世間は気づく。運も実力の内という言葉は慰めではなく、正真正銘の事実であると。そして運を奪い取り返しさらなる高みに登り、世界の頂に立つ。
ヒシミラクルは2人に視線を向ける。自分は運が良いと迷わず言い、出走メンバーで最も運を持っているアグネスデジタルに、そして運の重要性を理解し意図的に運を奪ったタップダンスシチーに。
『去年は脇役ですらないエキストラでした。しかし今年は堂々の1番人気、見事主役の座に上り詰めました。今日はどんな逃亡劇を見せてくれるのでしょうか?それともまさかの後方待機か、中山でも2人のリズムを刻みつけられるか?3枠3番タップダンスシチー』
タップダンスシチーがコースに現れると大歓声が出迎える。去年は歓声が疎らだった。そして今はこの歓声だ。冬のグランプリの主役に上り詰めた実感が湧き、喜びと感動が湧き上がる。
だが即座に喜びと感動を封じ込め、客にもっと声を出せとジェスチャーで煽り、客も応えるように声を張り上げる。会場は完全にタップダンスシチーの味方となっていた。
日本のレース場は誰のホームでもなく誰のアウェーでもない。だがホームに近づけさせる事は可能だ。
客が自分に期待するという事は周りが期待されていないと示す事でもある。客の期待や想いを力に変えられるウマ娘も居て、その期待を奪うことで弱体化させる。
ただ全てのウマ娘がそうではなく、特にシンボリクリスエスは全く関係ない。それでもほんの僅かでも綻びになりそうならやる。それが全力で勝負に挑むということだ。
タップダンスシチーは客を煽り終えると、デジタルを追い越してヒシミラクルの傍に駆け寄る。
「今日は捲りのロングスパートか、それとも先行策か?」
「どうでしょう?」
「芝は不良なんてまたまたアタシに有利だな。本当に運を奪っておいた甲斐があった」
「不良は私にも有利です。そしてこれは私の運が招いたものです。なので安心しました。只でさえ貸しておいた運が使われているのに、これ以上使われたらたまったもんじゃない」
「それは良かった。無駄に使わずに済んだ。そして今日のレースでまた奪ってやる。捲りか先行か知らないが、永遠に追いつけない差を味わせてやる」
タップダンスシチーは挑発し観察する。シンボリクリスエスに次に脅威なのはヒシミラクルだ。まずは戦法を特定する。そうすれば大分レースがやりやすくなる。質問しながら反応を見たが、おおよその見当はついた。
京都大賞典は運を奪うのが目的だったが、ここに来て嫌なイメージを与える負け方をさせたのが活きてくる。ほんの僅かでも過去を思い出し苦手意識を抱いてくれればいい。これも勝負に全力を尽くすことだ。
『このレースで偉大なる先輩が去ります。すべきことは拍手で送りだすことではない。引導を渡す事だ。漆黒の帝王の首を狙うは若き英雄、これが最初で最後の対決です。なるか帝王越え。4枠5番ゼンノロブロイ』
ゼンノロブロイは逸る気持ちを抑えるように、ゆっくりとした足取りで入場し周りの様子を確認する。自分への声援そこまでなく、会場の注目は前方で並走しているタップダンスシチーとヒシミラクルに集まっている。これが現状だ。
シンボリクリスエスを倒すとしたら、本命がタップダンスシチー、会場の雰囲気が雄弁に語っている。これならばタップダンスシチーにシンボリクリスエス狩りを任せてアシストに徹するべきか。
だが考えを即座に否定する。目指す英雄はそんな弱気な考えはしない。結果的にそうなったとしても自力で倒そうとするはずだ。心を燃やせ、場内実況の言う通りシンボリクリスエスと戦う最初で最後の機会だ。ここで漆黒の帝王を討ち果たし英雄に上り詰める。
入場してから数メートル歩くと停止し、入場してくるウマ娘を待ち構える。
『春は彼女の時間でした。クラシック2冠達成、その宇宙のように大きな可能性に多くのファンが夢を見ました。秋は全敗ですが、そのポテンシャルと可能性は色あせません。古ぼけた無線機を手に旅立ちます。ハローハロー聞こえていますか?聞こえているならついてこい。とっびきりの宇宙を見せてやる。6枠9番ネオユニヴァース』
ネオユニヴァースは客席を一瞥する。客達は期待や興奮や感動を求めている。しかしそれらを求めているがレースの過程や結果であり、己の宇宙ではない。
それは当然だ。今までのレースで誰も宇宙を感じていないのだから。自分が存在すると言っても感じたことがないのであれば、信じもしないし期待もしない。
今日はやり方を変える。出走ウマ娘の存在を取り込み吸収する。そうすれば自分は大きくなり、宇宙を伝えるための出力も上がり客達にも伝わる。
出走ウマ娘を全て飲み込めばレースに存在するのは自分だけになる。他の存在の情熱も想いという他の音も消えてなくなる。雑音が無くなれば集中して宇宙を感じられる。
レースに出走するウマ娘は其々存在感を発し、客達は期待を寄せている。特に大きいのがタップダンスシチー、ヒシミラクルの存在感と期待感だ、それを吸収すれば大きな力となるだろう。
これ程のエネルギーを吸収できるかのか?いやするのだ。全てを飲み込むブラックホールと化しレース場を埋め尽くすほど大きくなる。それしか宇宙を伝えられる方法はない。
『時代の中心は常に彼女でした。その中心はこのレースを最後に去ります。相性の良い中山で奪われた玉座を取り戻せるか、史上4人目となる秋のグランプリ連覇で花を添えたい。8枠14番シンボリクリスエス』
大取を飾るように堂々と入場する。2番人気といえど時代の中心にいたウマ娘であり、客達は声援を送る。だがシンボリクリスエスは声援に気に取られることなくコースに入る。
頭の中では各トレーナーを観察した情報を加味し、出走ウマ娘がどのような作戦を取り、どのようにして抑え込むかを思考し続ける。
このレースがトレーナーの理想の走りを試す最初で最後の機会だ、失敗したからと引退を撤回して再度試みる気は全くない。実行できなくとも、たらればを残す走りは論外だ、言い訳の1つもなく完璧に実行し、その上で出来る出来ないを判断する。
その心中に最後のレースという名残惜しさや有終の美を飾ろうとする名誉欲も全くない。プロとしてタスクを実行しトレーナーに益を与える。それだけである。
すると視界にゼンノロブロイの姿が映る。その表情は敵意に満ちると同時に決意を決めた決死隊のようだった。
そしてゼンノロブロイは数メートル離れた場所から拳をシンボリクリスエスに突き立てる。その行動に客達は沸き立つ。
握りこぶしの親指の上部と人差し指の側面が向き、拳を突き立てるというより見えない何かを握り突きつけているようだ。
それは剣だ、ゼンノロブロイは見えない剣を握り、刃が喉元に突きつけられている幻覚が見えていた。
「貴女は漆黒ではない、唯の汚い黒です。黒の王は私が討ち取ります」
ゼンノロブロイはシンボリクリスエスに聞こえるように呟くと、ゲートに向かって行く。
その目は怒りに満ちていた。例え刺し違えても倒そうとする者の目だ、あれほど敵対心を見せるウマ娘は初めてだ。これを切っ掛けに殻を破ってくれるという予感が過る。ゼンノロブロイについての対応は悩んでいたが今の表情を見て方針を固めた。
シンボリクリスエスはゲートに向かう。その思考はゼンノロブロイを消え去り、どのように仕事をこなすかに全て向けられていた。
各ウマ娘の本バ場入場が終わり、レースは発走するまで間が空く。ファン達は応援しているウマ娘について語り、レース展開や結末を予想する。その話声は大きな音となりレース場を包み込む。
「3人は今日のデジタルはどう見ますか?」
デジタルの父親がプレストン達に尋ねる。娘については誰よりも知っている自負はあるが、アスリートのデジタルについては素人同然だ、であれば同じアスリートだった3人について訊くのがいい。
「いいと思いますよ。パドックでも本バ場入場でも大人しかったですけど、元気がないというより、想いや力を蓄えているという感じでした」
「この状況は有利であり不利でもあります。不良はスタミナを消費するから不利、そしてこの雪は誰も走った経験がないから有利、デジタルは感覚も鋭いし、色々なコースで走った経験がある。他のウマ娘より対応力は上です」
「パドックでも本バ場入場でも無駄に動かないという意図が見えた。自分の状況がよく分かっている。もしボクがデジタルだったら同じようにするだろう」
3人は其々私見を述べる。このレースは決して分が良いレースではないが、最善を尽くそうとする意志と行動が垣間見える。とりあえず目的を達成する為の土俵には立っている。
デジタル夫妻はその言葉を聞き笑みを浮かべる。話を聞く限り厳しいレースのようだ。それでも今までの経験と培った心技体で最善を尽くし、その様子に3人は流石であると感嘆しているように見えた。
デジタルの身体の衰えは知っている。今までは衰えを自覚せず全力で挑んだ。だが今は衰えを自覚し、現状を受け入れ、残っている武器で創意工夫をこなし強大な敵に挑もうとしている。それは1人の人間として素晴らしく、娘の成長を改めて実感していた。
暫くすると各ウマ娘がゲート入りを始め、奇数番からゲートに入っていく。
その間にスターターが台に上がる。それを合図にファンファーレが演奏され、観客達はリズムに合わせて声を出し手や新聞紙を叩く。そしてファンファーレが終わるとレース場の興奮は最高潮に高まり、どこからとなく声が上がる。
興奮の坩堝と化したレース場だが、出走ウマ娘達は興奮することなく淡々とゲート入りを済まし、最後に大外枠のシンボリクリスエスがゲートに入る。
『今年も色々ありました。そしてまだ見ぬ結末があります。ファン達はそれぞれ理想の結末を夢見ます。主役のワンマンショーか?漆黒の帝王が有終の美を飾るか?4度の奇跡か?それとも誰もが予測しない結末か?さあ、この目で確かめろ。有マ記念が…スタートしました』