『先頭はタップダンスシチーに変わった!リンカーンとゼンノロブロイとシンボリクリスエスも後を追う!後ろのウマ娘達も差を詰めてきた!4コーナーをカーブして!いろんな情念渦巻いて!直線コースに出てきた!』
タップダンスシチーが先頭で直線に入る。淀みないペースで他のウマ娘に脚を使わせ、鍛え上げた先行力で押し切る。これがトレーナーと作り上げた自分たちのリズムと走り。
この走りで勝つ為に様々な努力をしてきた。勝つ為にレース前に仕掛けを施し、レース中でも仕掛けを利用し相手を惑わし、そして運も向いた。
以前なら運の要素に助けられたことに不満を抱いていただろう。だが宝塚記念でヒシミラクルに負けて運の重要性を知った。
強さとは心技体と運、そして自分に有利な状況を作る勝負力の総合値である、であれば自分が最も優れている。
シンボリクリスエスの心技体でも。ヒシミラクルの運でもこの展開の自分を打ち破れない。それを証明し日本最強の称号を引っ提げて海外の頂に挑む。日本の悲願である凱旋門賞を取るのは自分とトレーナーの2人の勝負師だ。
ゼンノロブロイは4コーナーで内に切り込んでいくシンボリクリスエスを視界の端で捉えると、横に移動して体を併せる。
今日は1レースからバ場状態は不良で走ったせいか、芝は開催最終週のように荒れていた。
シンボリクリスエスはパワーが強いので内を走った方が速い、一方ゼンノロブロイはこの状況では外を回し芝の良い場所を走った方が速い。普段であれば迷いなく外に出した。だが今日は敢えて内に切り込みシンボリクリスエスと体を併せた。
レース場では皆があらん限りの声を出して好きなウマ娘を応援し、心揺さぶるレースを期待し走るウマ娘にエールを送る。そしてレースの結果に関わらず勝者には賞賛の拍手と歓声が降り注ぐだろう。それは清く素晴らしい光景だ。
だがシンボリクリスエスが勝てば話が別だ。金に執着する薄汚れたウマ娘のレースに感動し賞賛してしまったと知れば、裏切られ自責の念で心が苛まれてしまう。
そんな事は絶対にさせない。レースは清く正しくなければならない。その為にアグネスデジタルの恩恵を敢えて授かった。
他人の力を借りて巨悪を討つのが英雄なのかという疑念があった。それでもシンボリクリスエスを打倒する為に恩恵を受け入れた。全てはトゥインクルレースを守る為に。
憎しみと使命感を切っ掛けに勝負根性を引き出す。それがゼンノロブロイの狙いだった。その力は現役最強の1角であるシンボリクリスエスの末脚と同格、いや若干勝っていた。
リンカーンを追い抜き、シンボリクリスエスよりクビ差前に出ながら、2バ身前に居るタップダンスシチーを追う。
「外からゼンノロブロイとシンボリクリスエス!そして内からアグネスデジタル!来てるぞ!」
(これだよ!これ!)
デジタルは内ラチから1人分離れたスペースを突き進む。パドックで余計な動きをせず、本バ場入場で走らず、レース中は可能なかぎり内ラチ側の最短距離を走り、他のウマ娘を風よけにして、徹底的に体力を温存してきた。全てはこのために。
直線に入ると走るウマ娘達の情念は一気に膨れ上がる。それを感じるのがレースを走る醍醐味だ。
前から後ろから発生する巨大な情念を存分に感じ取る。勝利や目的の達成を目指し、夢やトレーナーやチームメイト達の想いを抱えて走っている。皆が太陽のような煌めきを発している。
何て素晴らしいのだろう。このレースを最後の舞台に選んで良かった。この極上の体験を味わえたのは様々な要因が重なり合った結果だ。
トレーナーが作戦や指示をしてくれなければ、ここまで力を残せていなかった。そしてここまでたどり着けたのも両親に育まれ、チームメイトや友人達に支えられ、ライバル達と切磋琢磨したからだ。ここまで関わってきた神羅万象に感謝の念を抱く。だがその感謝は刹那ほどの時間だった。
デジタルは即座にウマ娘を感じることに全ての神経を注ぐ。我儘で自分勝手なエゴイスト、それがアグネスデジタルというウマ娘、自分の欲望を満たすために時間感覚を鈍化させる。1秒でもウマ娘を感じる為に。
メイショウボーラーとアドマイヤマックスは無意識にお互いの手を握っていた。レースを長年見ていると逃げているウマ娘や追い込んでいるウマ娘のスピードを予測し、まるで未来の結果が見えているように勝敗が分かることがある。
逃げるタップダンスシチー、それを追いかけるシンボリクリスエスとゼンノロブロイ、さらに追い掛ける後続勢、それらの速度を予測した結果、アグネスデジタルが勝利する映像が見えていた。
アドマイヤマックスはデジタルの名前を力いっぱい叫ぶ。有マ記念は奇跡が起きると言われているが、その格言は本当だった。
衰え終わった筈のウマ娘が現役最強の1角である漆黒の帝王を、GI最大着差をつけて勝利した稀代の勝負師を、神に祝福されたような運を持ち春のグランプリを制覇した奇跡のウマ娘を、圧倒的な才覚を持った2冠ウマ娘を破る。これを奇跡と言わずに何と言う。
まさに完全復活だ。これで安田記念を一緒に走れる。レースを通して救われた感謝と今どれだけ幸せかを伝えられる。そして以前崇拝した偶像とは違う魅力を持ったデジタルを感じられる。
メイショウボーラーはあらん限りの声でデジタルにエールを送る。この瞬間の為に引退を認めず抗い続けた。
トレーナーもチームメイトも世間も終わったウマ娘と衰えを受け入れた。常識で考えればそうだ。だが異能の勇者には常識になんて通用しない!
誰がマイルCSに勝てると思った?
誰がオペラオーとドトウのワンツーフィニッシュを崩せると思った!?
誰が地方ダート、中央芝、海外芝、中央ダートの全く異なるカテゴリーのGIを4連勝できると思った!?
誰がダートプライドという最高のレースを開催させ、世界最強のウマ娘達に勝ち、ワールドベストレース勝者の称号を得ると思った!?
刮目せよ!これが異能の勇者アグネスデジタルの底力だ!そして異能の勇者と安田記念で一緒に走れる!その瞬間を想像し喜びのあまり一筋の涙が流れていた。
2人は喜びを噛みしめながら想像した未来が現実になる瞬間を見届ける。だがその表情は瞬く間に歪み、膝を地面につけ泣き崩れた。
『おっと、アグネスデジタル失速!』
ゴールまで残り200メートルでデジタルは見る見るうちに失速し、今にも動きを止めそうだった。
その光景に気づいた観客は一瞬だけ注目を向けるが、即座に1着争いを繰り広げるウマ娘達に注目を向ける。その中でデジタルのトレーナーだけその場を離れ走り始めた。
トレーナーはありとあらゆる可能性を模索した。だがどう考えても有馬記念ではどのウマ娘からも、デジタルがウマ娘を感じられる有効範囲である10バ身体差以上の差をつけられ最下位になる。
恐らく3コーナーから4コーナーの間でジリジリと差をつけられ、直線に入った時点で先頭と10バ身差以上つけられ、ブービー着順になるウマ娘からも7~8バ身差をつけられている。
デジタルは直線でウマ娘の情念が増大し、それを感じるのがレースの醍醐味だと豪語していた。
どうすれば直線まで離されずウマ娘を感じさせられるか?その難題に対して知識を総動員して挑むが、一向に解は導き出せない。
だがその解は視点を変えればあっさり導き出せた。それは実に単純な答えだった。
2500メートルのレースで2400のレースをすればいい。
これであれば力が足りないデジタルでも直線で離されずにウマ娘を感じられる。それは聞けば簡単な答えだが、トレーナーは思いつくのに時間がかかってしまった。それは常識が邪魔したからだ。
それは常識であり、レースに勝つ為に誰もが出来てしなければならない行為、それはレースの距離にあった走りをすることである。
1600メートルのレースで1500メートルのつもりで走れば、残り100メートル分の力を使い果たしてしまう。1700メートルのつもりで走れば、残り100メートル分の力を余してしまう。
ウマ娘達は未熟さ故に脚を余し、脚を切らしてしまうレースをしてしまう時もある。だが最初から意図的にする者はレースの歴史において誰もいない。
それをしないというのは勝ちを放棄しているに等しく、レースへの冒涜ともいえる。トレーナーは思わず躊躇する。それは忌避感も有ったがそれだけではなかった。
この作戦を実行すればデジタルは培った実力と経験を発揮し、きっちり2400メートルのレースをして力を使い尽くし、結果的として約11秒程度ウマ娘を感じられる。そして代償としてブービーからも大差をつけられるという大惨敗を喫する。
その負け様は屈辱の極みで無様と罵られるかもしれない。GI6勝した名選手の最後がそれでは余りにも惨めだ。有終の美とは言わないが、できる限り恰好がつく引退レースを走らせたい。
一応はデジタルに今の案を説明した。すると拍子抜けするほどあっさりと了承した。その様子を見て最後まで図れなかったことを自覚する。
デジタルはウマ娘を感じる為なら全てを賭けられる。ブービーから大差負けという不名誉などあまりに軽すぎる代償に過ぎなかった。それから2400メートルを走れるための作戦を練りトレーニングをこなしてきた。
そしてレースは当初の想定とは予想外の出来事が起き続けた。雪降る中で不良バ場を走り、自信を失って弱体化してしまったウマ娘達の自信を取り戻す思念をぶつけた際の体力の消費、何より自信を取り戻したウマ娘は想定より遥かに強くなっていた。
その結果、デジタルは2400メートルのレースをすれば直線に入る前に大半のウマ娘に10バ身体差つけられると判断し、2300メートルのレースをしなければ感じられないと判断する。
直線でウマ娘を感じられる時間は約6秒、その僅かな時間を得るために培った心技体を全て注ぎ込み2300メートルを走り、全神経を研ぎ澄まし6秒間ウマ娘を感じた。その時間はまさに至福の時間だった。そして幸せな時間は終わりを告げる。
この1歩で全てのエネルギーを使い果たすと己の限界を悟る。その1歩で丁度2300メートル地点だった。目的を達成する為に過不足なくエネルギーを使い果たした。
それは歴戦の猛者が走る有マ記念に参加しているウマ娘に相応しい技だった。そしてその最後の1歩で1人分ほど内ラチ側に移動する。
トゥインクルレースにおいて直線では内ラチから1人分のスペースを空けるという暗黙のルールがあった。
その空間は内ラチ側を走るウマ娘が事故を防ぐ為に移動し、あるいは急激に垂れてきたウマ娘を回避するための緊急避難スペースだった。
2300メートルに全ての力を注ぎ込めば、瞬く間に失速する。その失速で後続のウマ娘を邪魔したくない。そして失速してから避難しても遅い。であれば失速する前に避難し、周りの安全を確保して力尽きる。
デジタルが内ラチ側を走り続けたのは体力温存もあったが、主たる理由は避難スペースにいち早く移動し、他のウマ娘を妨害しないためだった。
避難スペースに移動して安心したのか、それを切っ掛けにするように急激に減速していく。トレーナーとの出会い、トレセン学園に入学した当時の記憶、レースに関係する記憶が走マ灯のように蘇るが、瞬時に思い出の振り返りを中断する。
思い出を振り返るのはいくらでも出来る。今はゼロコンマ1秒でも出走するウマ娘を感じるべきだ。
デジタルはさらに時間感覚を鈍化させ可能な限りウマ娘を感じる。そして全てのウマ娘が10バ身以上離れていく。
タップダンスシチーちゃん、その貪欲に勝利を求める気迫は最高だったよ。これからもトレーナーと協力してレースに勝ってね。
ヒシミラクルちゃん、一点の曇りもなく運を信じる姿は素敵だったよ。その運を含めた実力で世界の頂点に立ってね。きっとできるよ。
ゼンノロブロイちゃん、絶対に思い描く理想の英雄になれる。だから焦らないで、そしてシンボリクリスエスちゃんと仲が悪くなったみたいだけど、1度は話し合ってね。きっと分かり合えるから。
ネオユニヴァースちゃん、今日のレースでも明確に宇宙を感じられなかった。ごめんね。でも宝塚記念より少しだけ分かった気がする。きっと誰かに伝わるから挫けないで。
シンボリクリスエスちゃん、貴女のお陰で引退レースが台無しになるところだった。けど相手を挫く走りを実現するためにどれだけの努力をしてきたかは分かったし、強い情念を感じてときめいた。今後はトレーナーのサポート役にまわるみたいだけど、将来は教え子同士が一緒のレースに走れることになれば素敵だね。
デジタルは関りがあったウマ娘を筆頭に、このレースに走る全てのウマ娘にエールを送る。それが勝利や目的を達成する為の助力になるのを願いながら。
『タップダンスシチーが先頭!追うゼンノロブロイとシンボリクリスエス!内からアグネスデジタルに変わって、ヒシミラクルがやってきた!』
ヒシミラクルは3コーナーから4コーナーで捲りをかけて、遠心力を使って外に持ち出し、芝が良いところを走りながら差し切るつもりでいた。だが外を併走していたチャクラが右に寄れて接触し、内側に向かってしまう。
さらに逃げて垂れてきたアクティブバイオとザッツザプレンティが左に寄れ、それを回避するように内ラチ側に切り込み、デジタルの後ろについた。
度重なる進路変更により僅かに減速してしまっていた。傍から見れば不運である。だがヒシミラクルは動じない。
一見不利に見えても一連の出来事は絶対に有利に働くと信じきっていた。そしてそのまま直線に入るが、状況は依然悪かった。
直線に入って先頭のタップダンスシチーとの差は3バ身、それを追うデジタルとゼンノロブロイとシンボリクリスエスとの差は2バ身、そして前にはデジタル、横に出せば進路上にはタップダンスシチー、さらに横に出してもゼンノロブロイやシンボリクリスエスが居た。この状態では前に居るウマ娘を追い抜けない。
唯一の方法として横に出てデジタルを抜き、再び内ラチ側に移動する。そうすれば進路上に誰もいなくなる。だがそんな素早い横移動も一瞬のキレも持っていなかった。
絶体絶命と言っても差し支えない状況だが、それでも己の運が何とかしてくれると動じなかった。
自転車に乗り長距離を走って着順を決めるロードレースという競技がある。その競技ではゴール直前になると選手たちが溜めていた力を全て使いペダルを漕ぐ。それは距離が違えど、道中は力を温存し、直線になって力を全て使うレースと展開が似ている。
そしてロードレースにおいてアシストと呼ばれる役割がある。アシストはエースを1着にさせるためにゴールぎりぎりまで全力でエースの前を走る。
そうすることでエースはスリップストリームの恩恵を受けて、ギリギリまで脚を貯められる。そして恩恵はスピードが増せば増す程大きくなる。
アシストは重要な役割であり、アシストがなければどんな強力な選手でも勝てないと言われている。
そしてアシストはギリギリまでエースの力を温存させ、力を果たしたらエースの為に進路を空ける。そうすることでエースが横移動する分の力を温存できるからだ。
ヒシミラクルはデジタルの後ろに居ることでスリップストリームの恩恵を与っていた。そしてデジタルは力を使い果たし、後続に迷惑をかけまいと内ラチ側の避難スペースに移動した。
それは結果的に進路を開けたことになる。後ろの者の風よけになり進路を空ける。まさにアシストの役割だった。デジタルの思考を全く読めていなかった。だが様々な偶然が重なり恩恵を与った。
さらにいえば当初の予定通り外を回していたら脚は残っていなかったが、内に入り風よけにすることで脚を残せていた。
デジタルの作戦も信念もヒシミラクルの運によって利用される。それはヒシミラクルの運がデジタルの運を吸収した瞬間でも有った。
内から上がってくるヒシミラクルの姿に、観客達はどよめく。内で詰まっていたはずなのに、どうやって抜け出してきた?デジタルの挙動を注視していた者は僅かで、まるですり抜けたようだった。誰もが驚くなか、タップダンスシチーはこの展開をある程度予見していた。
どうすれば力が足りてないデジタルがウマ娘を感じられるか?最初は何かしら利用できないかと考え始めたが、答えは見つからなかった。
勝負に勝つ為に必要な作業かと言われば微妙だ、しかしデジタルのトレーナーなら勝負師として何かしらの方法で達成させる。同じ匂いを感じる者として看破し利用してやると勝負師としての血が騒いでいた。
それからトレーナーにも相談するが答えは見つからなかった。しかしあるきっきかけで答えに辿り着く。それはあるレース番組を見ていた時だった。
芸能人か何かが人気のウマ娘が後ろから猛烈に追い上げて2着のレースを見て、あと50メートル長ければ勝てた。負けて強しのレースでしたと言っていた。
負けて強し、それはタップダンスシチーが嫌いな言葉だった。仕掛けが遅れた分だけ末脚が鋭くなっただけにすぎない 。
それに50メートル長ければという仮定も無意味で、仕掛けが遅れたのは、そのウマ娘の弱さだ。
その瞬間デジタル達がやろうとする作戦を閃く。2500メートルで足りないなら、それより短い距離を走るレースをして、足りない力に下駄を履かせればいい。そうすればある程度相手にくらいつける。
しかしこの作戦は勝負を放棄していると同じ意味だ、普通なら実行しないが、デジタルもトレーナーも普通ではない。この常識外れの作戦を提案し、目的のために見栄も外聞も捨て実行するだろう。
勝利を目的しているが故にその発想は頭に無く、もし番組を見ていなければ思いついていなかった。
その作戦を軸にして枠順などを考えて、このレースで実践する作戦を推理し、ほぼ正解だった。そしてデジタル達を利用できないと分かった。
自分達の作戦は2~3番手につけて、末脚が有ると思わせながら徐々にペースを上げて他のウマ娘に脚を使わせて、有利な流れにして押し切る。
恐らくデジタルが自分より前の位置にはつけない。直線でもよくて5番手ぐらいだろう。その後ろのポジションではアシスト代わりにしても前のウマ娘を差す瞬発力が足りない。
仮にシンボリクリスエスやネオユニヴァース並みに瞬発力があれば、利用していたかもしれない。世間は勘違いしても実際には瞬発力はない。
これはルームメイトという立場でデジタルを知れたから導き出した答えだ、恐らくは誰も利用する事は出来ない。
出来るとしたら頭脳を超越するような人知を超えた力、つまり偶然によって偶々デジタルの後ろについて恩恵を受けた者、そんな運を持っている者は1人しか居ない。
ヒシミラクルは一瞬迷う。デジタルが内ラチ側に移動し視界が開けたと思った瞬間に、タップダンスシチーの背中が視界に飛び込んできた。進路をカットしているが完全にふさがれてはいない。内か外に移動すれば問題なく走れ、斜行を取られることはない。内に切り込んだ。
『そして大外からもネオユニヴァースが襲い掛かる!』
ネオユニヴァースは3コーナーから4コーナーにかけてタップダンスシチー達と同じようにペースを上げる。だが若干余力を残しながら、同じく外を回すウインブレイズの後ろに張り付き、可能な限り力を温存しながら4コーナーを曲がる。そして直線に入った瞬間に外に出して、誰も通っていない芝の状態が荒れていない箇所を走る。
現時点で誰よりも力を残していた。だが力を残していたからレースに勝てるわけではない。もしヒシミラクルがネオユニヴァースの状況であれば、間違いなく力を使いきれず脚を余す。この状況において必要なのは卓越した瞬発力とスピード、そしてネオユニヴァースはその2つを兼ね備えていた。
残り距離約310メートルで先頭まで5バ身差、それだけあれば力を使いきり、先頭を追い抜くには充分だった。全ての力を注ぎ込み直線を駆け抜け、着実に先頭との差を縮めていく。歯を食いしばり、多くのエネルギーを消費しているせいか表情は歪んでいた。
このレースで宇宙を伝える為には他のウマ娘と共存共栄を図り、他者に力を与えられるよう溶け込み、そのウマ娘達を通して己が感じている宇宙が伝わればいいという思考に至った。
他人に任せればいい、何故そこまでして全力で走っているのかと思うかもしれない。だがネオユニヴァースなりに理由があった。
ウマ娘達は苦境に立てば立つほど力を発揮する。それは皐月賞や日本ダービーを通して自らの体験で実感している。そして力を発揮すればより宇宙が伝わると考えていた。
ならば己が他のウマ娘達の苦境となり追い詰める。例え他のウマ娘達が負けたとしても発揮した力が消えるわけではなく、誰かが感じてくれる可能性が増える。
今までのネオユニヴァースは完全ではなかった。皐月賞でも日本ダービーでも宇宙を見せるために全力を出し、追い詰められながらもさらに成長した。
それと同時に無意識にこれで伝わるのかという迷いを抱いていた。その迷いが枷となり、日本ダービー以降は勝利から遠ざける。
今日のレースを通して、デジタルによって自信を取り戻したウマ娘達から確かにデジタルの宇宙を感じた。これこそがレースで宇宙を表現する方法だったのだ。最早迷いは完全に消えていた。
今のネオユニヴァースは以前よりは勝利を望んでいない。だが皮肉にもその心のあり様が無意識の迷いを断ち、更なる力を与える。今この瞬間自分史上最も強かった。
『タップダンスシチーが先頭!内からヒシミラクル!中からゼンノロブロイとシンボリクリスエス!大外からネオユニヴァース!』
残り100メートル、中山レース場の直線の急坂は有名だが斜度は200メートル地点から100メートル地点の間がもっと険しく、それを過ぎると坂ではあるが一旦緩くなる。
この5名に絞られる。其々が願いや夢を胸に抱きながら駆ける。彼女達が生み出す熱は観客に伝播し、それに応じるように声を上げる。今日本で最も熱を持った場所である。
ゼンノロブロイとヒシミラクルが先頭まで1バ身差に迫り、着実に差を縮めていく。ネオユニヴァースも2バ身差まで迫り、その勢いは5人の中で最も強く、前の2人以上のスピードで差を縮めていく。
そしてシンボリクリスエスはゼンノロブロイやヒシミラクルからジリジリと引き離され、2人から1バ身後ろの位置にいた。観客達はこの様子を見て1着は無いと見切りをつける。
するとその事実を理解してしまい絶望したのか、シンボリクリスエスは力が抜けたかのように倒れこむ。
次の瞬間抉れた芝が空高く舞うと同時に、ギアを上げたかのように加速し始める。その様子を見たエイシンプレストンは驚愕で目を見開いていた。
エイシンプレストンは格闘技をしているが、無拍子と呼ばれる技を得意としていた。それは構えた状態から体を脱力させ、前に倒れこみ地面に顔が激突する直前まで脱力を維持し、そこから一気に体に力を入れて間合いを詰めて拳を放つ技である。
重力による前方への落下速度は想像より遥かに速く、筋肉の弛緩と緊張のふり幅により、その速度はさらに増す。
結果通常の通り構えから間合いを詰めるより速い。そしてこの技をレースに応用できないかと試したことがあった。
試合では構えた状態から脱力するが、重力による前方への速度は速いと云えど、走るスピードよりかは遅い。
しかしレースでは走っている途中に脱力すれば充分に速度が付いているので、差は縮められる。だが予想より遥かに難易度が高かった。まずは走っている最中に脱力するというのが想像より難しく、その動作はどこかぎこちなくなり、タイムロスが生まれてしまう。そして何よりの問題は恐怖心である。
試行錯誤をした結果、この技を使えば一時的に速くなるが、フォームが乱れ長時間走るとすれば結果的に遅くなると分かった、使うとしたら最終直線の残り半ハロンである。
直線は最もスピードが出る状態で時速70キロは出ている。脱力して倒れこんだとしても多少減速しても相応のスピードは出ている。
そしてこの技は脱力する時間が長ければ長いほど効果を発揮し、理想は顔が地面に激突する数センチ手前まで脱力することだ。
もし失敗すればスピードが乗った状態で地面に激突する。そうなれば鼻骨折など重傷は免れない、下手すれば死ぬ可能性すらある。
そんな技をレースで使えるわけが無い。実行しても恐怖により脱力は上手くいかず、仮にできたとしても激突する恐怖に負け、脱力の時間は短くなる。
プレストンもトレーニングを重ねてみたが完成度は低く、それならば普通に走った方が速いと断念した。
そして断念した技が完璧に再現されている。恐怖のネジが外れているのか、絶対に成功するという自信があるのか分からない。
それでもシンボリクリスエスは実践し成功させている。このウマ娘は予想を遥かに超えた天才であり、怪物であると認識させられた。
残り50メートル、シンボリクリスエスの一連の動作を見ていたネオユニヴァースは驚く。倒れこんだと思ったら急加速してきた。それは己のレース知識には全く無い行動だった。
だが驚きを即座に押し込める。これは追い詰められたことで実力を発揮したのだろう。ならば己がもっと速くなり、もっと追い詰める。誰が何をしようがやることは変わらない。
ゼンノロブロイの視界に強制的にシンボリクリスエスが入ってくる。直線半ばで追いつき欲にまみれた帝王を討ち果たしたと思ったが、もう一度生き返ってきた。ならば何度でも討ち取る。
シンボリクリスエスへの怒りと業界の未来を守るという使命感を燃料として、さらなる力を引き出ていく。
ヒシミラクルは内ラチ側を懸命に走る。様々なトラブルで内ラチ側に移動させられ、アグネスデジタルが前を蓋した状態になった時はどうなるかと思ったが、最中的には全て良い方向に転んでいると確信していた。やはり己の運は途轍もなく強いと改めて自覚した。
諦めない精神力はレースにおいて重要だが、最も諦めない心を持っているのはヒシミラクルである。
レースが続いている限り勝つ可能性はゼロにはならない。それは理屈としては理解しても心では理解していなく、大概のウマ娘は実力ではどうやっても覆せないと分かれば諦めてしまう。
相手が脚を挫くかもしれない、鳥が突っ込んできて激突するかもしれない。それらが原因で逆転して勝つ。そんな幸運によっての勝利は転がり込んでこないと考える。しかしヒシミラクルは誰よりもその可能性を考慮し走り続ける。
その諦めない力は運だけではなく、最後の一伸びを生み出す勝負根性になり力を与える。
タップダンスシチーは後ろのウマ娘の情念を感じながら突き進む。ジャパンカップでは大差で勝利した。
その結果着差という物理的な距離と、大勢が決し諦めてしまったせいもあり情念は届いていなく、そういった意味ではGIという厳しいレースを体験していなかった。
だが今は殺気、執念、妄執、情熱など今まで感じたことのない情念が刺すように伝わり、今にも足が止まりそうだ。しかしタップダンスシチーが持つ勝利への欲と執念があっさりと跳ねのける。
タップダンスシチーは勝利のために小細工を弄し相手を騙すような作戦を取る。その思考や態度をレースに対して不誠実であると言う者もいる。だが言わせてもらえば逆だ。
レースに対する誠実さとは勝利を目指す事だと考えていた。そして勝利を目指すとは全ての可能性を模索し実施する事だ、勝つ為ならルールに違反しなければ何だってすればいい。
だが周りは卑怯など不誠実など言って実行しない。それは見栄やプライドが邪魔し周りの評価を恐れているからだ。それこそレースに対して不誠実である。
今日の為にやれる事は全てやってきた。改造シューズでのトレーニングも世間に露見すれば批判されるだろう。それに対して後悔せずこれからも同じスタンスを貫く。
勝負に対して誰よりも誠実で有り、その誠実さはレースに勝利するために必要な力を与えた。
レースとは心技体と勝負力と運を競い、ウマ娘それぞれの主義主張をぶつける場でもある。主義主張に優劣は無いが、勝負の場に居る以上は結果が優劣を決めてしまう。
タップダンスシチーの勝負力を重視し、誰よりも勝負に徹する誠実さ。
ヒシミラクルの運を重視し、誰よりも運を信じる純粋さ。
ネオユニヴァースの宇宙を愛し、皆に宇宙を伝えたいという情熱。
ゼンノロブロイのトゥインクルレースを愛し、穢れから守ろうとする使命感。
シンボリクリスエスのトレーナーの為に尽力し、プロ選手として仕事を全うしようとする矜持。
何が優れ何が劣っているかという答えの一端が今決まる。