アグネスデジタルは一段と大きくなった歓声を聞き、誰かがゴール板を通過したと推測を立てる。しかし誰が1着になったかを考える心身の余裕はなかった。
寸分の狂いなく体力を使い切り、2300メートルを走り抜け、文字通り全身全霊の力を使い果たす。
2300メートルを走り抜けた時点で力を使い果たしたが、その場で倒れこむわけではない。身体の安全を守るために少しずつ減速していきながら停止し、内ラチに体を預ける。
ゴールまで残り160メートル、それは途方もない距離に見えていた。
デジタルは内ラチを支えにしながら歩き始める。水分をたっぷり吸った芝が脚に絡みつく。脚を動かすたびにプールを歩く時のような抵抗感と疲労を与える。
そして中山レース場で最も斜度が大きい区間に差し掛かり、さらに体力を削り取ってくる。急坂が壁のように見えていた。
身体は信じられない程重く、その歩みは牛歩のように遅い。そして意識は混濁し気分は最悪だった。
ゴールまで何分かかるか分からないが、その時間はこの苦しみを味わい続けなければならない。まさに責め苦である。今すぐにでも歩みを止めて倒れこみたい。だが断固として拒否し、内ラチを支えにしながら少しずつゴールに近づいていく。
這うようなスピードで歩きながら最大斜度の区間を超える。しかしゴールまで残り約100メートル、普段であればウマなりなら約8秒で走れる短距離だ。だが今はステイヤーズステークスより長く思えていた。
一瞬心が挫けそうになるが、活を入れて重い体を引きずるように歩き続ける。
観客から声が聞こえてくる。恐らく自分に対する声援だ。這うようなスピードでゴールを目指す姿を見て応援しているのだろう。注目されるべきはレースを走ったウマ娘だ、自分であるべきではない。
全身全霊で走ればこうなるのは予想できた。普段であれば力を果たした瞬間にコースから外れ、気づかれないようにコースから消えていただろう。
勝手にレースを中止すれば罰金は勿論、長期間の出走停止処分を受けるかもしれない。だが今日でレースを走るのは最後なので問題ない。
デジタルはレースにおいて勝利より、ウマ娘を感じることを目的とする。であればレースを走るウマ娘が居ないこの状況において走る意味はない。それでも苦しみ重い体を引きずり、受けるべきではない注目や声援を受けながらゴールを目指していた。
トレセン学園に入学し、様々なレースを通して存分にウマ娘を感じてきた。自分の欲望を満たすと同時に競技者としての誇りを持ち始めていた。
多くのウマ娘は有マ記念を走りたいと願いながら走れずに舞台から去っていく。今は途轍もなく辛く苦しい。だがその舞台に立っているという誇りが歩みを止めさせない。
そして1着のウマ娘がゴールしてから1分後、ゴール板を通過する。タイム差はGI史上最大となる。
それはある意味不名誉な記録である。だが観客は誰も蔑まず、健闘を称える拍手と声援を送り続けた。
デジタルは体力の限界とゴール板を通過した安堵からか、その場にうつ伏せで倒れこむ。観客達はその光景に悲鳴のような声をあげるが、当の本人は体力の回復と濡れた芝の感触を名残惜しむように感じていた。
これで全てが終わった。今日のレースは本当に楽しくて最高だった。この後はウイニングライブを見て、終わったら寮で爆睡して、起きたら録画しておいたレース番組やネット巡回をして、東京大賞典を見て、忘年会をして。
濡れた芝によって頭が冷えたせいか、混濁していた意識が徐々に鮮明になっていく。すると誰かに抱き起されると同時に温もりが体を包む。いつの間にかにジャケットをかけられていた。
「あっ、白ちゃん」
「すまんな。失速した瞬間に走ってきたんやが、時間がかかった。体力を使い果たした以外の不調はあるか?」
「多分ない」
「そうか」
トレーナーは返事を聞き、胸をなでおろす。失速してから歩様を見て怪我はしてないと見ていたが、確証はなかっただけに本人から問題ないと聞けて安心していた。
「見事なレースやった」
トレーナーは涙ぐみながら話す。今日のレースは不良の芝と雪が降るなど決して好条件では無かった。それを培った全てを駆使し乗り越えた。
レースでも事前に考えておいた作戦や急遽決めた作戦を完璧に実行し、想定外の事態にも即座に対応した。予定より早く失速したのは2400メートルから2300メートルに切り替えたとすぐに分かった。
直線でウマ娘達を感じられた時間は約6秒、そのわずかな時間は漫然と得たのではなく、自分の力で勝ち取った時間だ。
もしデジタルのベストレースは何と訊かれれば、迷いなく今日の有マ記念で有ると答えるだろう。それ程までに価値があるレースだった。聞かなくても分かる。確かに次善を勝ち取った。
その言葉を聞きデジタルはほんの僅かに口角を上げ、トレーナーの肩を借りながらコースから地下バ道に降りていく。観客は万雷の拍手で見送る。
テイエムオペラオー達は観客達と同じように拍手する。突然の失速は偶然ではなく、必然であると理解していた。直線でウマ娘を感じる為に2500メートルより短いレースをしたからこその失速だ。
両親達も涙ぐみながら拍手する。オペラオー達のようにデジタルがどのようなレースをしたかは分かっていない。それでも幾千もの困難の果てに何かを成し遂げたという事は充分に伝わっていた。
アドマイヤマックスとメイショウボーラーは涙を止めどなく溢れさせながら、その姿を脳に焼き付ける。
奇跡は起きなかった。このレースによって一緒にレースを走れないと分かり、諦めない心は挫けた。それでも落胆はなかった。
今日のデジタルは今まで見たどの姿より違うきらめきを見せてくれた。それは憧れていた者達の心に確かに刻まれ、引退する寂しさを癒し、美しい思い出となった。
サキー達はコースを去る嘗てのライバルの姿をじっと見つめる。1着に1分以上差をつけられてのゴール、その醜態と言える姿は歯がゆさを覚えると同時に、せめて恰好がつく終わり方をしてもらいたいという気持ちがあった。だが文句を言うつもりは一切なかった。
オペラオー達同様に何かを成し遂げるためにあの走りをして、その結果大惨敗したと理解し、目的を達成した事も理解していた。
デジタルはトレーナーの肩を借りながら地下バ道を歩いていく。すると驚くべき光景が飛び込んできた。
「待ってたぞ!アグネスデジタル」
有マ記念に出走していたウマ娘達が整列して出迎える。その予想外の事態にデジタルは勿論トレーナーすら戸惑っていた。
「何してんの?」
「それは偉大なる勇者様の最後を出迎えてるんだろう」
タップダンスシチーがおどける様に話すが、デジタル達は言葉の真意を分かりかねていた。
出走ウマ娘達は今日のレースの中心人物は、シンボリクリスエスとデジタルだと分かっていた。
シンボリクリスエスの走りによって勝利へのイメージが潰され自信を挫かれた。その未知の技に為す術がなく、抗えなかった。だがデジタルによって勝利へのイメージが描けるようになり自信を取り戻した。
もしデジタルが居なければ、シンボリクリスエスに大差をつけられて惨敗していた。有マ記念という晴れ舞台で力を出し切れず、醜態を晒せば一生の悔いになるところだった。
デジタルを知らない者は他者を思いやる慈悲の心、よく知る者は自分の目的を達成する為の利己的な行為であると判断した。だが思惑はどうあれ助けられた事には変わりなく。感謝と敬意を込めて出迎えていた。
デジタルはその理想的な光景を見て嬉しさのあまり疲れを忘れ、だらしない笑みを浮かべていた。
「追い風を利用するように力を利用するように当然だと思ってる。けれどお前が居なきゃここまで走れなかった。サンキューな」
「どういたしまして、それで勝てたの?」
「負けたよ!1着ボリクリ!2着アタシ、3着ゼンノロブロイ、4着ネオユニヴァース、5着ヒシミラクルだ。察しろよ」
「負けたの?折角力を与えたんだから、勝ってよ」
デジタルは茶化すような声色で揶揄う。それは本心ではなくタップダンスシチーに合わせての行動だった。
本当であればはらわた煮えくりかえる程悔しがっているはずだ。それでも腹のうちに隠し、気安い態度で接してくれている。
「このレースでアグネスデジタルさんの運を喰ったんですけど、勝てませんでした」
「そうみたいだね。次はアタシの運を使って目的を果たしてね」
「はい」
デジタルは残念そうにしているヒシミラクルを励ます。力が付きかける直前に内ラチ側に避難した瞬間に、ヒシミラクルが追い越してきたのを見て全て察した。
今日のレースにおいて自分の心境や作戦を察知している者はほぼ居なかっただろう。だが結果的に完全に利用された。それは強大な運の力によるものであり称賛すべだ。それでも勝てなかった。
運だけではない何かが足りなかった。それが心技体かあるいは別の何かが足りなかった。その別の何かが想いの力とか友情パワーであれば好みだが、それは自分の尺度に過ぎない。
ヒシミラクルは運が無かったと自省し、強い運を手に入れるために努力し続けるだろう。その姿こそ尊い。
「今までお疲れ様でした。アグネスデジタルさんこそ本当の勇者です!」
ゼンノロブロイは興奮気味に語る。強大な敵の前に心が挫けそうになる者達を奮い立たせる。そんな場面は本の中で幾度も見てきたが今日現実に起こった。それは読者としてはある意味理想的な光景だった
「ありがとう。でも大丈夫?」
デジタルは心配そうに尋ねる。ゼンノロブロイはシンボリクリスエスに怒りの感情を向けていた。それは絶対に勝つという気持ちの表れだと推測していた。そして負けた。
本当なら不甲斐なさと怒りに悶え苦しんでいるはずなのに、労うために出迎えてくれた。心遣いはとても嬉しいが、自分を優先してもらいたい。
「大丈夫です」
「自分の気持ちに素直になっていいんだよ。悔しかったら人目なんて気にせず悔しがって良いし、怒りたかったら怒って良いし。そしてシンボリクリスエスちゃんが許せなかったら、一度腹を割って話してみて、もしかして解決するかも」
ゼンノロブロイはその言葉に一瞬目を見開きすぐに唇をかむ。そして目には何か決意を宿らせていて、一礼してその場を去っていった。
「ありがとう…宇宙の正しい伝え方が分かった」
ネオユニヴァースは嬉しそうに礼を言う。今日のレースではデジタルが見本になってくれたお陰で正しい伝え方が分かった。浸食と吸収ではなく共栄共存、それが宇宙の伝え方だ。
デジタルはその様子を見て自然に笑みをこぼす。不器用ながら喜びを伝える姿は微笑ましく、喜びが自然に溢れている感じが素朴で良い。
今日のレースでもネオユニヴァースの宇宙は完全に感じられなかった。だが宝塚記念の時と比べて、少しだけ感じられた気がする。これが正しい宇宙の伝え方の成果だろうか。
そして今日のレースで誰かに力を持ったような感覚があった。そのおかげで少しだけ頑張れた気がする。
「今度は観客席から宇宙を感じてみるよ」
「次は観客席にも届くように頑張る」
デジタルの言葉にやる気を漲らせ答える。
その後も出走したウマ娘達と言葉を交わす。皆負けた悔しさを滲ませつつ、実力を発揮させてくれたデジタルに感謝の言葉を述べていた。
「予想外のサプライズやったな」
「本当だよ」
デジタルはトレーナーの肩を借りながら裁決室に向かいながら嬉しそうに語る。今までの人生でこれ以上のサプライズは無かったと思えるほど予想外だった。
完全に自分の為にした行動だったが、ここまで感謝されるのは嬉しいと同時に申し訳ない気持ちにもなる。
だが自分へのご褒美と存分に堪能した。そんな中で1つだけ気がかりがある。あの場にはシンボリクリスエスが居なかった。
レースを振り返り、自分の為といえ、結果的にはシンボリクリスエスを邪魔していた。天皇賞秋もそうだが、結構妨害しているので好かれる理由は無い。それでも来てほしくて色々と言葉を交わしたかった。
───
シンボリクリスエスは勝利者インタビューを終えて、ウイニングライブの準備のために控室で待機していた。
引退レースで有終の美を飾った。普通であれば浮かれ喜ぶはずなのだが、その空気は重苦しく、まるで惨敗した選手の控室のようだった。
「失礼します」
ノックの音と同時にゼンノロブロイが入室し、入った瞬間思わず慄いてしまう。シンボリクリスエスは厳しいウマ娘だ、その纏う空気は厳格だがどこか攻撃性を抑え込んでいる感があった。
だが今は攻撃性がむき出しになっている。そして初めて感じた剥き出しな心のような気がした。
「なんだ?」
「どうして、ラスト100メートルの走りを今までしなかったんですか?あれをしていれば勝てたレースがありましたよね?」
ゼンノロブロイは単刀直入に切り出す。あの走りは咄嗟に出したものではなく、長年磨き上げ洗練された走法であるのは分かった。
そして1バ身差ぐらいになら縮められる。であれば単純計算すれば勝てたレースはあった。それだけに不可解だった。
「あれは偶然の産物だ」
「あの走りをすれば賞金も手に入りますし、契約金も上がる。良い事尽くめじゃないですか、なのに何故しないのですか?金の亡者のくせに、その程度の執着なんですか?」
視線を外しながら喋るシンボリクリスエスに近づき、強引に視線を向けさせる。ゼンノロブロイはデジタルの言葉を受けて、己の感情を包み隠さずぶつけ、腹を割って話すと決めていた。
シンボリクリスエスは手厳しい言葉に一瞬睨み返すが、すぐに視線を外す。だが構わず畳みかける。
「そして貴女はアグネスデジタルさんの恩恵を受けなかった。やることが中途半端すぎます」
共に練習し、多くの時間を過ごしたから分かっていた。シンボリクリスエスは力を授かっていない。
「私は金銭契約を結んだ貴女が許せません。それは私達やファンの方々を裏切ったと同じです。ですが誤解した状態で嫌いたくはない。何でしなかったのか?何で喜んでいないのか?理由を話してください」
ゴール板を通過した際、瞬間的にシンボリクリスエスに視線を向ける。1着になり賞金も獲得して年俸もアップする。きっと薄汚い笑みを浮かべているのだろう。だが予想とは違い唇を噛みしめ、まるで敗者のようだった。しかし数秒後には勝者の表情を作っていた。
悔しさを滲ませた表情から不可解な点が思い浮かびあがる。シンボリクリスエスは他人にも厳しいが自分にも厳しく、目的達成のためならストイックに自分を追い込み、どんな方法でも使う。もし拝金主義であれば全てのレースであの走りを使っていたはずだ。
「私はトレーナーの作品でなければならない。只レースに勝つだけじゃ意味がない。自分は必要ない、トレーナーに鍛えられた肉体と精神と教えられた技術だけを駆使し、レースに勝たなければならない。今日も作品として勝つはずだった」
シンボリクリスエスは観念したかのように吐露していく。平静を装っているが、声色には恥辱と後悔の念が滲み出ていた。
「相手の力を削るトレーナーの理想の走り。実現できたと思ったがアグネスデジタルに無効化された。そしてラスト100メートルの走り、あれはトレセン学園に来る前に作り上げた走りだ。そして使うべきではなかった。プロ失格だな」
ラスト100メートルでの走り、あれは誰にも教わっていないシンボリクリスエスのオリジナルだった。
スカウトされる前にどのレースにも勝つ為に、試行錯誤を繰り返して編み出した技だ。それは誇りでもあった。
トレーナーにプロ選手として雇われて、トレセン学園に入った際に誇りは封印した。必要なのはトレーナーが日本一になるために、教えられた技術や心構えだけを駆使して勝利する作品である事、己の誇りは不要である。
入学後はトレーナーの作品として走る事を心掛ける。レースの最中は勝利のために何回か技を使いそうになったが頑なに封印してきた。そしてプロとしての心構えはいつしか、誇りとなっていた。
そしてトレーナーの理想の走り、相手の力を1まで削ぎ落して、己は2の力で走る事で身体の負担を減らし、多くのレースを走り勝利を勝ち取るという理念、それを実現する為に限界まで努力し続けてきた。そして実現可能なまでに仕上げた。
この走りは自分以外のウマ娘は出来ない高度の技なのかもしれない。それでもトレーナーであれば、体系化し教えられると期待していた。
何より雇用者の理想を実現できたという達成感があった。この技はシンボリクリスエスにとってもう1つの誇りとなった。
今日の仕事はトレーナーの理想の走りを実現し、トレーナーの作品として勝利する。そのどちらも達成できなかった。
理想の走りは実現できていたが、デジタルによって無効化された。これでは実現できていないのと同じだ。誇りは打ち砕かれた。
己が心血注いで作り上げた技があっさりと破られる。それは途轍もない屈辱だった。そしてデジタルによって破られた事実が神経を逆撫でさせる。
天皇賞秋でもトレーナーの作品としての純度を著しく濁らせたのもデジタルだった。己の仕事を悉く邪魔するその存在は極めて目障りだった。
レースでは技が破れたが、トレーナーの作品として勝つという仕事が残されていた。今までの教えられた全てを駆使し、勝利をもぎ取る。全神経を集中させ走り続けた。
そして直線において想定外の事態が起こる。理想の走りをするために相手の研究は充分にしてきたはずだった。それでもなお他のウマ娘の力が予想を超えていた。
このままでは負けると瞬間的に察知してしまう。何とかして勝利する為にトレーナーの教えを掘り起こすが答えは出せなかった。
シンボリクリスエスはレース前にデジタルと話す機会があり、そこで無我の境地に至る重要性に気が付いた。トレーナーの理想の走りを実現し、作品である為には雑念を持たず集中しなければならない。
しかし人は簡単に無我の境地には至れない。様々な雑念が邪魔し阻止してくる。さらに理想の走りが破られた事で、少なからず動揺し心にひびが入る。
すると抑え込んでいた名誉欲や勝利への欲等の雑念が、ひびの隙間から這い寄ってくる。そして気が付けば、無意識にかつて編み出した技を使っていた。
プロボクサーが意識を失いながらもパンチを放っていたという逸話があるが、それは勝ちたいという意志が体を動かしたのだろう。
勝利への執念を持つ事はアスリートにとって長所であり美徳である。だがシンボリクリスエスにとって短所であり悪徳の極みであった。
勝つだけでは意味はない。如何にしてプロ選手として欲を抑え、トレーナーの作品として勝利するのが重要であった。
しかしこの勝利は雑念を抑えきれず、本能のままに封じていた技を使っての結果だ、それはあまりにも醜い勝利だった。
このレースでトレーナーの理想の走りは破れ、雇用者の理想を実現できたという誇りは打ち砕かれ、トレーナーの作品である為に技を封じていたという誇りも打ち砕かれた。
レースには勝利したが、プロ選手シンボリクリスエスとしては、ぐうの音も出ない程の完全敗北だった。
「つまり、あの走りはオリジナルで、トレーナーから教わったものではないので使わなかったということですか?」
「そうだ」
その言葉にゼンノロブロイは動揺する。今日初めてシンボリクリスエスの真意の一端に触れた。ラスト100メートルの走りに、そのような意味があったのか。
ウマ娘にとって勝利を目指すのは本能に近い。それを抗うのは並大抵の事ではない。今日はデジタルによって全てのウマ娘に力を与えられた。それは慈悲の力であると同時に禁断の果実でも有った。誰もが勝利を求め手に取ってしまう。
だがシンボリクリスエスだけはトレーナーの作品である為に、禁断の果実を手に取らず、自分の力で走っていた。最後は禁を破り技を使ってしまったが責めることは決してできない。何と誇り高いのだろうか。
トレーニングでも常に自分を律し妥協しなかった。それもトレーナーの教えを全て血肉とし、作品としての完成度を高めようとする誇り高さによるものだ。
他者に力を与えるデジタルは英雄譚の主人公のようで、憧れであり尊敬できる。そしてシンボリクリスエスも誇りの為に与えられた力を拒む姿も、英雄譚の主人公のようで、かつて抱いていた憧れと尊敬の念が湧き上がる。
「じゃあ、なんで、なんでそんな誇り高い貴女が、トレーナーと雇用契約なんて薄汚い真似をするんですか」
ゼンノロブロイは動揺し声が上ずる。憧れと尊敬の念と金欲しさに雇用契約を結んだという嫌悪感で板挟みになり、激しく動揺していた。
「信じてもらえないかもしれないが、私は金に固執していない。誠意が欲しいんだ。そして金は誠意を数値化したものだ。トレーナーは私が欲しいと、何物でもなかった自分と雇用契約を結び、誠意を見せてくれた。そして賃金が支払われれば責任を負う。雇用主に最大限の利益を与えるという責任がな。トレーナーは日本一のトレーナーになる為に私を雇った。であれば、トレーナーの功績になるようにトレーナーの作品として走るのは当然だ」
シンボリクリスエスは内心で自嘲する。偉そうに語っておきながら、自分の欲の為に勝利を欲しがったアマチュアに過ぎない。
一方ゼンノロブロイは頭を振りながら葛藤する。シンボリクリスエスは欲に塗れたウマ娘ではなく、金という誠意を求めその分だけ全力で尽力する。
相手に痛みを求め自分も最大限苦労する。それは他人に厳しく自分にも厳しい、いつもの姿だった。
「お前は私を憎んでいるだろう。だがトレーナーは憎まないで欲しい。雇用契約は誠意だ。何も代償を払わず、口先だけでチームに引き入れるより遥かに誠意があると思っている。そしてチームに残ってくれ。私はすぐに日本から離れ、チームに関わらない」
シンボリクリスエスは頭を下げ、少しだけ弱弱しい声で頼む。引退後はチームスタッフとして日本一のトレーナーにするという契約を遂行する為に尽力するつもりだった。
だが今日のレースでいかにアマチュアであるかを自覚させられた。そんなウマ娘がいてもトレーナーの邪魔になるだけだ。
そしてゼンノロブロイは恐らく自分と雇用契約を結んだトレーナーを許さないだろう。最悪移籍する可能性もある。
ゼンノロブロイは自分を超えるウマ娘であり、トレーナーの代表作になるウマ娘でもある。何も成し遂げられなかったアマチュアが出来る唯一の仕事だ。
「私は貴女を誤解していたのを認めます。雇用契約も欲に塗れたものではなく、一種の誠意のやり取りであったのも少し理解しました。正直に言えば今でも憧れて尊敬しています。しかし感情が許さない」
ゼンノロブロイは苦々しく呟く。本当なら知る前のように憧れの心を抱きたい、だが野良レースで八百長の片棒を担ぎ、レースを穢してしまったという罪悪感が金に過剰反応し、それを許さない。
「雇用契約で得られる金銭を全てトレーナーに返還してください」
尊敬しているウマ娘が真摯に頼み込んでいる。応えてあげたいが感情が許さない、そして葛藤の末に導き出した答えがこれだった。全てなかった事にする。これが最大限の譲歩だった。
「分かった。要求を呑もう」
シンボリクリスエスは長い熟考の末答えを出す。払われた賃金はトレーナーの誠意の形だ、それを無かったことにすれば誠意を踏みにじる事になると考えていた。
だがそれはプロの考えだ。今日のレースでトレーナーの理想の走りを再現し、大差で勝てば矜持を貫いていただろう。
しかし今日のレースではトレーナーの利益になる行為を何もできなかった。そんなアマチュアが、プロ気取りで貫いて良い矜持ではない。アマチュアが出来ることは矜持を捨て、雇用主の利益を与えるために行動するだけだ。
「シンボリクリスエスさんは私の要求に応えるために、得られるお金を破棄した。それは貴女の私に対する誠意でもあります。私はその誠意に応えます」
ゼンノロブロイは手を差し出す。自分の行動によってシンボリクリスエスは痛みを負った。その分だけの誠意に応えるのがプロなのかもしれない。ならばプロになろう。そうすれば同じ強さを手に入れられるかもしれない。
プロ意識と矜持を抱きながら、自分を鍛え上げレースを走る。それは己が持つ英雄像の1つとなり、目指すべき目標となっていた。
シンボリクリスエスはその手を取り硬く握手を交わした。
「シンボリクリスエス、居るか?」
ノックの音が聞こえ入室を許可すると、藤林トレーナーが入りシンボリクリスエス達に視線を向ける。
「丁度良かったです。私は今日のレースでプロ選手として何も成せなかった。これ以上誠意に応えられません。ですので、来年以降は契約を結ばないでください」
シンボリクリスエスは堂々とした態度で頭を下げる。一方トレーナーは雇用関係がバレてしまうとゼンノロブロイに視線を向けるが、その瞳を見て事情を察した。
「私としては今後もチームスタッフとして尽力してもらいたいが、契約を結ぶ気はないのか?」
「はい、このレースでいかにアマチュアであるかを自覚させられました。レースについての詳細と契約を結ばない理由を記述した報告書をまとめますので、目を通してもらえますか」
「あの!」
ゼンノロブロイが声を張り上げ意識を向けさせ、2人は訝しみながら視線を向ける。
「藤林トレーナー、お願いがあります。シンボリクリスエスさんが実現したトレーナーの理想の走り、そしてラスト100メートルで見せた走法、そのメカニズムを解明して、私も出来るように指導してください」
シンボリクリスエスが自身をアマチュアという理由、それはトレーナーの理想の走りが効果を発揮しなかった事と、ラスト100メートルでオリジナルの走りをしてしまった事だ。
であればトレーナーが体系化してチームのウマ娘に教え、そのウマ娘達がレースで実践して勝利する。
そうなればシンボリクリスエスの走りはオリジナルでなく、トレーナーの走りとなり、今日のレースは我欲の為に勝利したウマ娘でなく、トレーナーの作品として勝利しただけになる。
シンボリクリスエスは自分を誇りが無いアマチュアだと卑下した。しかしゼンノロブロイには誇り高きプロであり英雄だった。その英雄を失意のまま故郷に帰らせない。プロであったと誇りを持ち続けて欲しかった。
「今の言葉とシンボリクリスエスが契約しない事に関係があるのか?」
「はい、シンボリクリスエスさんはアマチュアじゃありません。誇り高き立派なプロです。それを私に証明させてください」
ゼンノロブロイはトレーナーに向けて頭を45°下げる。シンボリクリスエスが頭を上げて頼み込まないように言うが、頑なに頭を下げ頼み続けた。
「ゼンノロブロイが言ったことは本当なのか?」
「大まかにはそうです」
「私も君がアマチュアとは思えない。契約に基づいて雇用主の私に最大限の利益をもたらしてくれた。それは紛れもなくプロ選手の仕事だ」
「ですが……」
「ならば私はスタッフとして支払えるギリギリの年俸を払おう。それが私の見せる誠意だ」
トレーナーはシンボリクリスエスの肩に両手を乗せて、その目を見据える。その言葉は偽りではなく、本気で払うつもりであると察した。
「分かりました。これからもお世話になります」
シンボリクリスエスは観念したかのようにトレーナーに頭を下げた。
───
ネオユニヴァースは控室で、鼻歌を口ずさみながら帰り支度をする。その姿に悲壮感はまるでなく、結果を知らない者が見れば今日のレースに勝ったと思うだろう。
今日のレースで新たな気づきによって、今までで最も宇宙を上手く伝えられた。その手ごたえが気分を高揚させる。
「入るぞ」
ノック音と同時に扉越しに声をかけられる。入室を許可すると六平トレーナーとオグリキャップが入室してきた。
「その顔を見るに、何かを掴んだようだな」
六平トレーナーはネオユニヴァースの変化に戸惑いを覚えながらも声をかける。本バ場入場時には全てを否定するような重苦しさがあった。だが今は正反対で、天真爛漫な笑顔を見せていた。
ネオユニヴァースは己の中にある宇宙の伝え方を模索し、悩んでいた時期が有った。暫くして自分なりの答えを見つけ、トレーニングを積み本番に臨んだ。
もし見つけた答えが間違っていると分かってしまったら、今度こそレースを止めるかもしれない。
トレーナーはウマ娘を速くする方法やレースに勝つ術を教えられる。だがネオユニヴァースの言う宇宙を伝える術を知らない、無力な存在だった。
そして今日のレースで何かしらのヒントを得て手ごたえを掴んだ。暫くはレースを走るだろう。それが嬉しかった。
教え子が悲しむ姿は見たくない。何より伝えようとしている宇宙に興味を持ち、自らも感じたくなった。手伝える事は限りなく少ないだろうが、このまま突き詰め何時か宇宙を感じさせて欲しい。
「六平トレーナー、私の走りにミスは無かったか?何か足りないところは無かったか?」
ネオユニヴァースは天真爛漫な表情から一変し、真剣みがある表情で問いかける。1着が欲しいわけではなく、極論を言えば最下位だろうが宇宙を伝えられれば問題はない。しかし注目してくれなければ感じられない。
周りはそこまで敏感ではなく、唐突に宇宙を感じられるわけではない。1着になり注目を集める事で、宇宙の存在をより認知し興味を持つ。興味こそが宇宙を知る第一歩なのだ。
そして己が強くなれば周りのウマ娘も力を発揮し、宇宙が大きくなり感じやすくなる。
「今のところは無いな。だが宇宙を伝えるのに必要であるなら、徹底的に洗い出して見つけてやる」
六平は任せろと胸を張る。宇宙の表現方法は分からない。だがその口ぶりから速くなれば伝わりやすくなるらしい。
宇宙を伝えるのに自分の技能は効果が無いと思っていたが、実はあったようだ。それが不思議でもあり、嬉しくもあった。
すると頃合いを見計らってオグリキャップが話しかける。
「初めて君を直接見た時に、かつてのライバルに感じた凄味が有った。だが不思議と物足りなさを感じていた。そして今日のレースで私が求めている何かが有り、君の宇宙を感じて見たいと思った」
オグリキャップはネオユニヴァースに興味を持っていた。それはチームの後輩だからではなく、その在り方だった。宇宙を伝える為に走る。それは理解しがたいが、その走りを見て羨ましくもあった。
現役時代は故郷の皆のために走った。それは地元で育ったウマ娘が強いと証明する事であり、勝ち続ければ証明となる。
ウマ娘は多かれ少なかれ勝ちに拘る。それは勝負の場で有れば当然であり、寧ろ拘らない方が異常とも言える。
そして例外は存在する。勝敗度外視でウマ娘を感じるデジタル、ダートを探求するセイシンフブキ、そして宇宙を伝えようとするネオユニヴァース。
現役時代は好きで故郷の皆の為に走っていたので、後悔は何一つない。だが勝利に固執しているという窮屈さを感じていた。
一方ネオユニヴァースは勝利に囚われずレースを走る。その姿は自由で個性的だった。
今日のレースにおいて、ネオユニヴァースがしようとした他者の吸収し自己を巨大化する事で、それは自己肯定と他者否定だった。他者を吸収する事で相手を否定し、巨大化する事で自己を肯定する。
勝負とは己が培った心技体で他者を負かし、結果によって他者を否定し、自分を肯定する。それはかつてのライバルたちの姿であり、個性の消失でも有った。
ライバル達を否定するつもりはなく、アスリートとして真っ当な精神とも言える。しかしそれは多くの者が持つ心である。だがネオユニヴァースが同じになったことで没個性かつ不自由に見えていた。
しかし今日のレースでは他者否定と自己肯定の精神ではなく、自由に走っていたような気がしていた。勝利に囚われず、自由に走るウマ娘が抱く宇宙、その存在に益々興味が出ていた。
ネオユニヴァースは2人の言葉を聞き、再び天真爛漫な笑顔を見せる。両者は宇宙を感じられなかった。だが宇宙に対して興味を持ってくれた。それを続ければいずれは皆に宇宙は伝わる。その脳裏に今日の夢で見た理想の光景がより鮮明に浮かび上がっていた。
───
タップダンスシチーとトレーナーは控室で今のレースを何度も見返す。本来であればウイニングライブの映像を見返すなど準備しなければならないのだが、そっちのけでレース映像を見ていた。
これでライブを疎かにすれば中央ウマ娘協会から注意勧告、最悪懲罰を受けるかもしれない。だがそれは覚悟の上だった。
有マ記念に向けて、様々な準備をしてきた。トレーニングでは改造シューズを使い瞬発力があると誤認させ、レースでは徐々にペースを上げて脚を削り、得意な流れに持っていく。
事前の仕込みや本番での作戦の成功度は満点に近かった。それでも足りなかった。悔しさを押し込めながら、修正点を探し続けた。
「もう少しペースを速めるべきだったかな?」
「いや、それだと気づかれて着いていかなかったかもしれない。あれで充分だった」
「ジャパンカップは重だったから、重バ場対策は大丈夫だと思ってしまったのかもしれない」
「それはあるかも、流石にここまでの不良は走ったことは無かったし、もっとパワーをつけないとダメかな」
2人は思いついた敗因と修正点を言い合う、それは取るに足らないような些細なものでも挙げていく。
「って、いつまで傷を舐めてもらってんだアタシは!」
タップダンスシチーは突如叫ぶ。その行動にトレーナーは思わず目を剝き、視線を向ける。
「今日の負けはそういう問題じゃねえ!レースに向けて事前準備して!トレーニングして!勝つイメージを練り上げて今日のレースに臨んだ!けどボリクリに勝てないって思っちまった!何が勝負師だ!絶対に勝つ気概で挑む!そんなの勝負の大前提じゃねえか!」
今まで溜め込んでいた想いをぶちまける。勝負にたらればを言うつもりはない。デジタルの恩恵を利用するのも強さの1つであり、今日の結果がすべてで、それ以上でもそれ以下でもない。デジタルが居なければ大差負けしていたというつもりはない。
それでも心が挫けて勝てないと思ってしまった時間があった。それは負けるより遥かに屈辱的で恥ずべきであった。
「レース中に何が有った?」
トレーナーは思わず尋ねる。今日の出走ウマ娘に起こった異変を察知した者は何人か居たが、それはレースに走った経験がある元現役選手であり、レースを走った経験がないトレーナーでは察知するのは難しかった。
タップダンスシチーは唇を噛みしめながら、レース中に起こった出来事を語る。
「レースではそんな事が起こっていたのか」
「疑うなら他のウマ娘に訊けばいい。アグネスデジタル以外は皆同じ目にあったと答える」
タップダンスシチーは自嘲気味に答える。一方トレーナーは俄かに信じがたかった。
勝利への執念は人一倍だと思っていたが、こうもあっさりと心を挫かれるとは。シンボリクリスエスがここまでの怪物であるとは思っていなかった。
トレーナーは項垂れるタップダンスシチーを見ながら考え込む。今日のレースはトラウマ級のレースになってしまった。
今後の競技人生に間違いなく影響が出るだろう。己の対応1つで未来が変ってしまうと言っても過言ではない。どのような言葉をかけるべきか熟考する。
「タップ、今日のレースは絶対に忘れないように記憶に刻み込め。苦しみから逃れるために記憶から消そうと絶対に思うな。今日の屈辱と後悔を死ぬまで抱え続けろ」
トレーナーはタップダンスシチーの肩に両手を置き、熱を込めて語る。心に傷を負ったのであれば、出来るだけ刺激しないようにし、記憶の風化を待つのが一般的だろう。だが今は傷口に塩を塗り続ける苦しみ続ける方法を提案した。
人は夢や希望ではなく、屈辱や怒りで強くなれる場合もある。そしてタップダンスシチーは後者の方で強くなれる気質であると、日々の生活で気づいていた。
もう二度とこんな屈辱を味わない、そんな思いがトレーニングで挫けそうになった心を奮い立たせ、日々の生活における意識の向上に繋がる。何よりレースにおけるゴール間際の一伸びを与える勝負根性を養う。
この言葉はタップダンスシチー以外には言わない。レースに勝つ為にトレセン学園に入った。今日のレースで心が挫けたが、その勝利に対する執念は決して弱くはない。
この屈辱を起爆剤にして、勝利に対する執念をさらに強める。そうすれば強くなり、本人が望む結果が得られる。
「そうだな、もう二度と挫けない。こんな思いは金輪際したくない。てっちゃん、もし忘れそうになったら思い出せてくれ」
タップダンスシチーは唇から血を滴らせながら呟く。その言葉にトレーナーは黙って頷いた。
「タップダンスシチーさん、居ます?」
トレーナーが扉を開けると、そこには思わぬ人物がいた。ヒシミラクルである。ヒシミラクルはすぐに済むと強引に控室に入り、タップダンスシチーに質問を投げかける。
「ラスト200メートルぐらいで内に少し寄れましたけど、あれは偶然ですか?」
直線に入りデジタルが内に寄れたことで、塞がれた進路がぽっかり空き2人分のスペースが出来る。
それは進路が空いたと同時に、デジタルがギリギリまで風よけになってくれたお陰で力を温存できた。己の運によってもたらされたこれ以上ない最高の状況、勝利を勝ち取る為に溜めていた力を全て使いゴールに向かう。
だが前に居たタップダンスシチーが内側に若干寄れた。それによって真っすぐ走ればタップダンスシチーが邪魔となる。避けるためには内か外に0.5人分移動しなければならない。
内ラチ側1人分のスペースは緊急避難スペースである。怪我して失速するウマ娘から逃れるために移動するのは問題ないが、蓋をされた程度では認められない。普通であれば外側に移動する。だがヒシミラクルは右と左の横移動であれば、内ラチ側の右に移動しやすかった。
緊急避難スペースを走るのはモラルに反するが反則ではない、今回は0.5人分緊急避難スペースに侵入しているだけなので、完全に侵入するより非難されない。そして普通仮に勝利したとしても取り消されるわけではない。
結果的に外に移動したが、判断を下すのがほんの僅かに遅れてしまった。それは確実に着差に現れ、それが無ければ少なくとも5着では無かった。
全て上手く事が運んでいた中での僅かな不都合、これが意図的にされたものであれば、相手の策略に己の運が負けたという結果であり、まだ許容できる。
しかし偶然であれば、己の最大の武器である運が相手の運に負けたという事になる。それは非常に大きな問題だった。
「あれは、偶然だ。あの不良バ場と展開なら疲れて少しは寄れる。そうだろタップ?」
「ああ、流石にきつかった」
タップダンスシチーはトレーナーの言葉に即座に相槌を打つ。その言葉にヒシミラクルは僅かに動揺の表情を見せて控室を去っていく。
「で、実際は意図的にやったのか?」
「そう」
タップダンスシチーは質問に簡潔に答える。
このレースでデジタルの作戦を完全に利用できるウマ娘が居たとしたらヒシミラクルだと考えていた。
ラスト200メートル頃に内側に0.5人分移動し、ヒシミラクルの進路を塞ぐ。ここで1人分移動してしまえば、緊急避難スペースに完全に入って走ることになり、忌避感により外側を走ると即時に判断してしまう。
敢えて0.5人分という言い訳を残す事で判断を迷わせようと考えていた。レース前に考えていた保険だったが、結果的には見事に嵌った。
「何で偶然だって嘘を言ったんだ?てっちゃんは分かってなかったんだろ?」
「その方がヒシミラクルが嫌がるだろう」
トレーナーは質問にさも当然のように答える。勝負に勝つ為には、相手の嫌がる行為をするのが重要であると考えていた。
今回の場合はタップダンスシチーが内に寄れた事で不利益を被ったと、声や話し方で察し、であれば運を重要視するヒシミラクルであれば、偶然と言った方が心理的にダメージを与えられると判断しての発言だった。
普段のタップダンスシチーなら同じ考えで同様の発言をするだろう。だが今は精神的に動揺しているので、代弁し相槌を打たせる形にした。
「性格悪」
「相手を弱らせる機会が有れば、弱らせないとな」
「ヒシミラクルの運はスゲエよ。条件に恵まれてやっと分かったアグネスデジタルの作戦を運だけで完全に利用しやがった」
今日のレースで最もヒシミラクルの運を警戒していたのはタップダンスシチーだった。だからこそ進路を塞いだ。しかしその動きが今日の負けの1つの要因となる。もし横移動分を真っすぐ走っていれば、1着になれた可能性はあった。
タップダンスシチーは事前の仕掛けによって出走ウマ娘を嵌めた。だが逆もしかりである。
全治1年の怪我を1カ月半で治し、1枠という絶好の枠を引き当て、当日は不良で雪が降りアクシデントが起きやすい状態になった。
その結果、いつも以上に意識してしまい、横移動してしまった。ある意味ヒシミラクルに嵌められ力を削がれたとも言える
───
「惜しかったよ」
「次は勝てる」
「内に詰まった時はダメかと思ったけど、急に出てきたし、やっぱり持ってるよ」
チームメイト達は控室に集まり、ヒシミラクルを慰める。重度の怪我明けで5着であれば充分だ、次のレースではさらに調子を上げられる。今後の飛躍を大いに期待できるレースだった。
一方ヒシミラクルは愛想笑いを浮かべながら、別の事を考えていた。タップダンスシチーの寄れは意図的ではなく、偶然だった。
今までは認識できる範囲で幸運に恵まれ有利になり、認識できない範囲で不利にならなかった。運こそが己の最大の武器、その運に初めて陰りが見えた。
これ以上は運による勝利を期待できないかもしれない。であれば一般的な心技体を鍛えるべきか。
以前は運に恵まれた勝利という評価に悩み揺らいでいた。しかしトレーナーの一言により運を肯定できるようになり、悩みと揺らぎは消えた。そして以前のように揺らぎ始めていた。
「今日の結果は不満だったのか?」
トレーナーは何気なく尋ねる。一見いつものようにチームメイト達と和やかに会話しているように見えるが、かつての弱弱しい姿とダブっていた。
その言葉を切っ掛けにヒシミラクルはレースでの出来事を語る。上手く事が運んだと思ったが、最後にタップダンスシチーが寄れて、内か外のどちらに進路を取ろうか迷い、遅れてしまった等詳細に語った。
「神の悩みはレベル高け~」
チームメイトの1人がふざける様に呟き、他の者も同調するように笑い声を漏らす。
その態度にヒシミラクルは思わず目を見開く。此方は真剣に悩んでいるのに笑い話で済ませるな。詰め寄ろうとするが、トレーナーが間に割って入る。
「幾ら運が強かろうが、常に絶頂期な者は居ない。恐らく今日のヒシミラクルは運の底だった。だが、全治1年の怪我を1カ月半で治して、内枠を引いて、雪が降って、丁度良く進路が空いた。普通の者なら一生に一度有るかどうかの幸運だ。それで不運だって悩んでいたらレベルが高いって言うよな」
トレーナーはチームメイト達に賛同を求めると、皆もそうだと同意する。
「まあ、次走はちょっとした不運すら起きないから気にするなって事だ、それにヒシミラクルの運の良さは継続中だ」
「どういう意味ですか?」
「トレーナーとしてはどうかと思うけど、最近思うんだ。トレセン学園に来ている者は皆全力を尽くしている。それでも結果に差が出るのは運によるものではないかってな。才能を持っているか持っていないかも運、才能を生かす出会いや環境も運」
ヒシミラクルは黙ってトレーナーの言葉を聞く。それはかつてデジタルに話した持論と同じだった。
「であれば運が強いヒシミラクルなら、きっと才能が眠っていてまだまだ引き出せる。そして俺は決して1流のトレーナーじゃないし、皆も現時点では1流の選手じゃない。だがお前の才能を引き出すという意味では、これ以上ない程の人材なはずだ、それはこのチームに入った時点でそれは確定している。今はそうでなくても今後そうなる。だから安心してトレーニングに励め」
ヒシミラクルにトレーナーの言葉がしみ込む。今日のレースに負けて運に対する不信感を抱いていた。運は頭打ちなら心技体を鍛えて強くなるしかない。だがそれは間違っていた。
今日は運が最悪な状態に過ぎなかった。常に最高の幸運に恵まれるなど神の領域であり、人間の範疇ではない。それで運の力を疑い、心技体に意識を向ければ必ず運に見放される。
そして己であれば才能が有るという運に恵まれ、まだまだ強くなれる。様々な偶然によって出会ったトレーナーとチームメイト達が才能を引き出してくれる。
これからもいつも通り過ごせばいい。そうすれば己の運によって地力は高まり、レース中も有利な状況が作られる。そして世界に届く。
「それもそうですね」
憑き物が落ちたような爽やかな表情で呟く。その表情を見てトレーナーはいつものヒシミラクルに戻ったと確信した。
「私は現人神ヒシミラクル、皆の者、己の幸運に喜ぶがいい。私と過ごせば皆を1流のウマ娘になるだろう」
「うるさい疫病神、とりあえず厄落として絶不調を治してから言え」
ヒシミラクルがふざけてチームメイト達がツッコみを入れる。控室内はいつもの空気になっていた。
トレーナーはその様子を見て笑みを浮かべる。幸運に恵まれるのは運を信じる者、そして陽気で笑顔を浮かべている者、まさに笑う門には福来るだ。
───
舞台裏からも観客達の声援が響き渡る。今日で今年のウイニングライブは見納めであり、思う存分騒ごうと、いつもより観客達のテンションは上がっていた。
ウイニングライブが進行していくなか、メインライブに出演するシンボリクリスエスとタップダンスシチーとゼンノロブロイは出番を待っていた。
「今日は一生後悔を抱くようなレースにしようかと思ったが、逆になっちまったな、ボリクリ」
タップダンスシチーは視線を合わせないまま、シンボリクリスエスに呟く。後悔や不満は内に留めておくべきなのに、思わずこぼしてしまった。己の惰弱さに内心で舌打ちする。
「そうだな。2勝1敗で私の勝ち越し、引退を撤回するつもりはなく、この結果は永遠に覆らない」
「ああ、これから勝ち続けて、最終的にはアタシの方が強かったと思われるようにするさ」
「ならその必要はない」
タップダンスシチーは思わず視線を向ける。負け惜しみの言葉に反応が返ってくると思わなかった。さらに必要がないという意味も分からなかった。
「ゼンノロブロイは私より強くなる。そのゼンノロブロイに勝利すれば、私を超えたと同じだ」
「これが?」
タップダンスシチーは思わずゼンノロブロイを指差し、ゼンノロブロイは視線を逸らす。過去のレースや今日のレースを通して、シンボリクリスエスを超える才能と実力が有るとは全く思えなかった。
「甘く見るな。ゼンノロブロイは必ず私以上のトレーナーの代表選手となる」
シンボリクリスエスは睨みつけ、タップダンスシチーはその様子を見て認識を改める。ゼンノロブロイを信じてないが、己より上で有るというシンボリクリスエスの目を信じる。
「それは良い、やる気がメラメラ燃えてきた。しかし甘いな。ボリクリの目的はトレーナーの良い成績を取らせる事だろ?だったらアタシがやる気にさせないようにすべきだ、もしかしたら腑抜けたままで、ゼンノロブロイに負けるかもしれない」
「成長には適度な障害が必要だ」
その言葉にタップダンスシチーの鼓動が怒りによって跳ね上がる。ゼンノロブロイを強くさせる為の餌扱いか、負けたウマ娘に反論する資格はない、だがその認識を一生後悔させてやる。
「だそうだ。餌として頑張らせてもらうわ」
タップダンスシチーは笑顔の中に怒りを潜ませながらゼンノロブロイに握手を求める。勝負はもう始まっている。ここで相手をビビらせて苦手意識を植え付けさせる。
「よろしくお願いします。私も英雄として、プロとして、トレーナーに教わった全てを発揮して勝ちます。そしてシンボリクリスエスさんのあの走りも、ラスト100メートルの走りも習得します」
ゼンノロブロイは相手の目を見据えてハッキリとして口調で告げる。これは決意表明だった。シンボリクリスエスの技術を再現し、トレーナーに教わったウマ娘として恥じない走りをする。
「それがそうなら最高だ。是非ともやってくれ」
タップダンスシチーは嬉しさを隠し切れないと獰猛な笑みを浮かべる。
今日のシンボリクリスエスに屈した記憶は永遠に残る傷になった。それを起爆剤にして強くなるつもりだが、過去を払拭できるに越したことは無い。
2人は視殺戦のような睨み合いをしながら握手し続ける。するとタップダンスシチーが手を放し離れていく。するとシンボリクリスエスがゼンノロブロイの元に歩み寄る。
「タップダンスシチーは強い、そして今日のレースを切っ掛けに確実に強くなる。ヒシミラクルもネオユニヴァースも同じだ。だが私は出来ない課題は与えないつもりだ。お前なら勝てる」
「英雄になる試練なら乗り越えてみせます。英雄は想いに応える存在、シンボリクリスエスさんがプロの矜持を曲げてまで、私に賭けてくれた。ならば応えます。英雄としてプロとして」
シンボリクリスエスは思わず感嘆の息を漏らす。かつてのゼンノロブロイは自信がなく弱弱しかった。そのせいで殻が破れず、アクシデントによって自分に憎悪を抱き、その感情によって殻を破るのを期待した。
そして結果として、憎悪ではなかったが、自分の行動によって殻を破り始めている。これなら自分の技をトレーナーを通して習得してくれるかもしれない。それどころかアグネスデジタルのような存在に打ち負かされないように進化させるかもしれない。
そうなれば本望で、今日のレースで自分の技を使ってしまった事にも意味が有る。
──すみません。そろそろ本番ですので準備お願いします
すると係員が3人に声をかける。シンボリクリスエスは思考を切り替える。今は未来に思いを馳せるのではなく、ライブのクオリティを上げる事に思考を向ける。
トレーナーはライブの指導も上手いと世間に思わせる。それは日本一のトレーナーにするという契約に関係ない。だが上手いと思わる事に越したことは無い。アフターサービスだ。
シンボリクリスエスは最高の笑顔を作り壇上に上がった。
───
「最高~、素敵すぎる~素晴らしすぎる~尊すぎる~」
日は完全に落ち、満月が空に浮かび上がる。ライブが終わり観客達はレース場から出ていく中、デジタルは放心状態で立ち尽くしていた。シンボリクリスエスの最後のライブを網膜に焼き付けようと集中し、最後のライブに相応しいパフォーマンスを見せてくれた。
さらに壇上にはタップダンスシチーとゼンノロブロイが居た。ライバルとチームの後輩という組み合わせ、ゼンノロブロイのシンボリクリスエスに向ける視線が憎悪ではなく、かつてと同じ感じだった。
ライブ前に何があったのか?そしてタップダンスシチーは何を思うのか?シンボリクリスエスは何を思うのか?妄想が止めどなく湧き上がり、ライブの様子を刻み込む作業と並行して妄想を含まらせていた。
「お~い、デジタル帰るぞ」
「うわっ!ビックリした!」
するとデジタルの視界に突如トレーナーが現れる。余韻に浸り過ぎてトレーナーが近づいたのを察知できなかった。
「余韻に浸るのもいいが、そろそろ帰るぞ」
「そうだね。あ~あ、最高だった」
2人は関係者出入口から駐車場に向かう。その間デジタルはトレーナーにずっと話しかけていた。楽しそうに喋る様子は引退レースを走った者には思えず、トレーナーの中にある感傷的な心は薄らいでいた。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
「お疲れ様、最後に相応しいレースだった」
駐車場に着いたデジタルを多くの人々が出迎える。最初に声をかけたのはオペラオーとドトウとプレストンだった。
「来てくれたんだね。ありがとう。アタシとしては満足だったけど、皆はガッカリしたレース見せちゃったね」
「そんなことありません。本当に良いレースでした」
「デジタルしかやらないし、デジタルしか出来ないレースだった」
「勇者アグネスデジタルしか演じられないグランドフィナーレだ」
3人の労いの言葉にデジタルは笑みを浮かべる。多くの人は惨敗したと捉えるだろう。だが友人達はこのレースの意味と結果を理解してくれ、それが嬉しかった。
「お疲れ様でした……」
「最後まで見届けました……」
次にメイショウボーラーとアドマイヤマックスが声をかける。2人は泣きはらしたのか目が充血していた。
メイショウボーラーはチームメイト達と一緒ではないと聞き、来ていると心配していたが姿を見て胸をなでおろす。このレースは生で見てもらいたかった。そしてアドマイヤマックスと一緒に居るのが意外だった。
「かつての理想のアグネスデジタルさんとは違った煌めきがありました……一生忘れません……」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
「正直何をしたのかは完全に分かりませんでした……けど……全力でレースを走り……目的を達成した。これが尊いってやつですかね?」
「ありがとう、明日にはレースでの出来事を教えるね。むず痒いけど、そう思ってくれたら嬉しい」
デジタルは慰めるように声をかける。2人は自分を慕ってくれた後輩だ。その2人をどんな形でも泣かせてしまったのは心苦しい。
特にメイショウボーラーは最後まで奇跡を信じてこの場に来た。結果としてその願いを完膚なきまでに打ち破ってしまった。
この様子を見る限り2人に何かしらを刻み伝えられたようだ。その何かが今後の競争生活を豊かにしてくれれば幸いだ。
「お疲れさまでした。ゆっくり休んでください」
「これでダートプライドを走ったウマ娘で現役はアタシだけか」
ヒガシノコウテイとセイシンフブキが労いの言葉を掛ける。
「コウテイちゃん来てくれたんだ」
「東京大賞典を見に上京してまして、折角なら見に行こうとフブキさんに誘われました。生で見られて心から良かったと思います」
「それは褒め過ぎだよ」
「良いレースだった。東京大賞典に向けて気合いが入った。少し前ならそう言うが、今は関係なくダートを探求する。悪く思うな」
「そうしてよ。逆に気合入ったなんて言われるとガッカリだよ。ダート探求に邁進してよ」
デジタルはいつものように話しかける。目的の次いでだとしてもレース場に来て見てくれたのは嬉しかった。特にセイシンフブキが船橋から近く着やすくとも、ダートではなく芝のレースを見たのは驚きだ。
『素晴らしいレースでした。今日のレースでデジタルさんは私の理想を体現してくれました』
『そうなの?なら良かった。それで日本のレース場は楽しかった?』
『はい、ヨーロッパやアメリカのレース場とは違った魅力が有りました』
『次は地方だね。水曜に東京大賞典が有るから一緒に見に行く?』
『喜んで』
サキーがハグを交わしデジタルはレース後のご褒美として甘んじて受け止める。
夏にイギリスで有った際に日本に来る約束をしてくれたが、律儀に海を越えてきてくれ頭が下がる。そしてサキーがこんなにはしゃいでいるのは初めてだ、理想と関係あるのだろうか?東京大賞典を見る際に訊いてみよう。
『いいレースだった……』
『私にはさっぱり惨敗にしか見えなかったけど、クライ曰く良いレースだったらしい。だから良いレースだった』
ストリートクライは遠慮がちに、キャサリロは親し気にデジタルを労う。セイシンフブキが来ているのにも驚いたが、ストリートクライが来ているのにはさらに驚いていた。
『ありがとう。ところで何で日本に来てるの?まさかアタシのレースを見る為に…』
『東京大賞典に出走するゴドルフィンのウマ娘のレーシングパートナーとして着た……レースを見たのはついで……』
『だよね~』
デジタルは肩を落とすと同時に納得する。ゴドルフィンのウマ娘が東京大賞典に出走するのは知っていたが、その関係で来ていたのか、右回りと左回りの違いがあるにせよ、同じコースで走った経験があるのはストリートクライだけだ。色々とアドバイスできるだろう。
『え~っと、何で居るの?』
デジタルは恐縮そうに声をかける。予想外のウマ娘達が現れたが断トツで予想外なのがティズナウだった。ダートプライド以降表舞台に姿を現さなかっただけに、こんな場所で出会うとは全く予想していなかった。
『東京大賞典に出走するウマ娘の1人が私の親戚だ。敵討ちするから絶対に見に来いと懇願されたので、仕方がなく来た』
『ウソ!あのウマ娘ちゃんと親戚だったの!?しかも敵討ちってダートプライドの!?』
デジタルは捲し立てる様にティズナウに質問する。アメリカから参戦するウマ娘が居るのは知っていたが、まさかティズナウと親戚とは全く知らなかった。さらに走る理由がリベンジというのが心を揺さぶられる。
暫くして不機嫌そうにしているティズナウの表情を見て、喋るのを止める。
『いや~、今日のレースは見苦しい結果になっちゃってゴメンね。けどアタシにも理由が有るというか……』
デジタルはティズナウの表情を窺いながら歯切れ悪く喋る。ダートプライドでティズナウに勝利し、アメリカのウマ娘として相応しい結果を求められるのは分かる。
だが今日は結果的には大惨敗でアメリカに泥を塗ったと捉えられても仕方がない。だとしたら腸煮えくりかえっているだろう。
『本来なら文句を言うところだが、お前が何をしたかは分かる。その結果、見るに堪えないレースがマシになった』
思わぬ言葉にデジタルは肩透かしを食らう。ありとあらゆる罵詈雑言を受ける覚悟で身構えただけに予想外だった。
『そうだ、サキーちゃんにティズナウちゃんにストリートクライちゃん、日本のウマ娘ちゃんを甘く見ちゃダメだよ。特にアジュディミツオーちゃん、アタシの一押しのウマ娘ちゃんです。フブキちゃんのダートプロフェッショナルとしての技術と、コウテイちゃんの地方総大将としての精神を継承したウマ娘ちゃんなんだから。将来は2人の想いを引き継いでダートプライドに参戦してくれたら激アツだよね!』
デジタルは思い出したかのようにアジュディミツオーについて語る。最初は紹介だったが、途中から願望を垂れ流し、その様に全員は苦笑していた。
『最後の最後まで変わりないな』
『でも、そこがデジタルらしい』
『パパ、ママ』
デジタル両親はクスクスと笑みを浮かべながら話しかける。デジタルは2人気づくと思わず抱き着く。両親も同じように抱き着く。
『今までお疲れ様。そして無事に帰ってきてくれてありがとう。お帰り私達の愛しい娘』
『オペラオーさん達から何が起こったかは聞いた。本当によく頑張った』
『うん、色々大変だったけど、アタシ頑張ったよ。一片の悔いもないレースをしたから』
デジタルはテストで100点を取った小学生のように誇らしげに喋る。その様子は少し幼く、普段では他人が居る状態では控えるが、デジタルは気が緩んだのかいつものように甘え、両親達も精一杯労うように甘やかし労う。
トレーナーは皆に労われ祝福されるデジタルを遠巻きで見つめる。今日のレースは結果を見れば、1着に1分以上離されての最下位という最悪の結果だった。
だが中身は最高の結末ではないが、最大限の努力をして得られる限りの幸せを手に入れた。そして周りもその結末を理解し祝福する。
デジタルの主義主張は明らかに少数派であり、理解されるものではなかった。だが日々の生活とレースを通して、多くの人の心を揺さぶり、心を交わし理解させた。
自分が幸せだと思うのは良い事だ。そして自分が幸せでそれを祝福されるのはさらに良い事だ。
デジタルはその戦績と走りから勇者と呼ばれている。勇者とは勇気ある者、無謀な挑戦と呼ばれながらも結果を出し、誰も走ったことが無いローテーションで走り勝ってきた。それはまさに勇者の姿だった。
そして今日のレースでデジタルは周りに勇気を与え奮い立たせた。完全に自分の為にした行動とは言え、結果的に周りのウマ娘を助け、多くのウマ娘が不幸になるのを防いだ。勇者とは勇気有る者であり、勇気を与える者、トレーナーの中で勇者の定義が書き換えられた。
トレーナーの中で1つの目標が出来る。今後はデジタルように恐れず目的のために突き進み、周りに勇気を与える勇者のようなウマ娘を育て上げたいと。
有マ記念 中山レース場 GI芝 不良 2500メートル
着順 番号 名前 タイム 着差 人気
1 14 シンボリクリスエス 2:34.5 2
2 3 タップダンスシチー 2:34.5 クビ 1
3 5 ゼンノロブロイ 2:34.6 クビ 5
4 9 ネオユニヴァース 2:34.6 ハナ 4
5 2 ヒシミラクル 2:34.7 ハナ 3
14 1 アグネスデジタル 3:34.6 大差 10
これで有マ記念編は終わりになります。
あとはエピローグ2話となります。もう少しだけお付き合いしてくだされば幸いです