メイダンレース場近辺にあるドバイ・モール、ここは世界最大級のショッピングモールであり、1200もの店舗が並んでいる。
カジュアル系ブランドからブルーミングデールズなどの注目のデパート、さらに高級ブランド専門のセレクションモールまで、一般観光客から世界中のセレブまで満足する品々が揃っている。
ここには世界最大級の水族館、ドバイ水族館も入っている。特徴としてはギネスで有名な巨大水槽があり、見るだけならなんと無料だ。
その巨大な水槽とその中を優雅に泳ぐサメやエイなどの魚達を見ようと、多くの観光客が訪れ、足を止める。
足を止め鑑賞している観光客の多くは、普段では見られない光景に心躍らせ笑顔を見せている。そんなか1人のウマ娘が浮かない顔で、水槽を泳ぐ魚を眺めていた。
2日目のトレーニング、スペシャルウィークは徹頭徹尾アグネスデジタルから、物理的にも心理的にも距離をとった。
コースでのトレーニングでは併走ではなく単走にしてもらい、体幹トレーニングなどの補強運動もデジタルの視線に入らないように、後ろで行っていた。
トレーニングが終わり自由時間になると、逃げるようにドバイ・モールに向かっていった。異国の地で1人になる不安も有ったが、禍々しい変態とそのトレーナーから、一刻でも早く距離を取ることのほうが遥かに優先度は高かった。
いざ着くが、ドバイ・モールはスペシャルウィークにとって退屈な場所だった。目的も無いので、当ても無くぶらついた。
案内も英語などで書かれているが、日本語では書かれておらず、物の値段も日本円でいくら程度なのかもわからない。それは少なからずストレスであった。
30分ほどぶらつくが欲しいものもなく、興味が引かれるものもなかった。
そんな矢先にドバイ・モール内にある巨大水槽を見つける。ショッピングモールの中に水槽、その非日常的な空間は興味をひいた。吸い寄せられるように水槽に向かい、魚達が泳ぐ姿眺める。
最初の数分は楽しかった。チームスピカの面々でこの光景を見たら、ダイワスカーレットとウオッカとトウカイテイオーはサメに興味を示し、ゴールドシップはエイの顔が不細工だと1人で笑っていそうだ。メジロマックイーンとサイレンススズカはカラフルな小魚に興味を示すかもしれない。そんなことを想像しながら眺めていた。
だが突然心寂しさがスペシャルウィークを襲う。北海道ではウマ娘の友達はいなかった。だが、育てのおかあちゃんが居たので寂しくはなかった。
トレセン学園ではスピカの面々やクラスメイトと出会った。気付けば多くの人と触れ合い、周りには常に人がいて寂しさとは無縁だった。
だが今は違う、スピカの面々やクラスメイトも居なければ、トレーナーもいない。それがこんなにも辛いことだったなんて。
周りに居るのはアグネスデジタルとそのトレーナー。だが2人はスペシャルウィークの寂しさを埋めることはない。
トレーナーが来るまで数日の間デジタルと共に過ごさなければならない。その未来を考えると気が重く、腹が締め付けられるように痛んだ。
「何でここに居るんだろう」
スペシャルウィークは独り言を呟く。日本に居れば、環境の変化にストレスを感じることなく、デジタルと共に過ごすこともなかった。大阪杯に出走することを選択していれば、トウカイテイオーとサイレンススズカと一緒にトレーニングに励み、何のストレスも感じることなくレースを迎えられただろう。
だがドバイシーマクラシックを走ることを選択した。何故ドバイを選んでしまったのだろう。胸中には後悔が渦巻くのに対し、魚達は気ままに泳いでいた。
───
「今送ったのが、今日のトレーニングの様子だが、気付いた点はあるか?」
ホテルの自室、そこは1人部屋である以外はデジタル達が泊まっている部屋と内装は変わらない。
デジタルのトレーナーはコーヒーを啜りながら、PCに映るスペシャルウィークの映像を確認する。これは現地の日本のメディアに協力してもらい、撮ってもらった映像をスピカのトレーナーに送ったものだ。
デジタルのトレーナーは一日ごとに、スペシャルウィークの様子を撮った動画を送り、報告をしていた。
「そうですね……いつもより集中力に欠けている感じがします」
「やはりそう思うか」
デジタルのトレーナーは受話器から聞こえる答えに同意する。
1日目のスペシャルウィークは体のキレが悪かった。2日目は体のキレは戻ってきていた。
だがコースを走っている時も、後ろや周りをキョロキョロと眺めめ、それは集中していないとうより何かに怯えているようで、その姿はどこか見覚えがあった。
「まだドバイに馴れていないせいですかね」
「いや違うと思う。集中力に欠けているのは、恐らくデジタルのせいや」
デジタルのトレーナーは歯切れ悪く伝える。今朝のスペシャルウィークの提案にトレーニング中の様子。あれはデジタルに対して恐怖を抱いている。
特にコースを走っている時の様子は、デジタルのフェブラリーステークスの直線の時に似ている。
「今後はデジタルから離して別々にトレーニングさせようと思う。迷惑をかけて申し訳ない」
「いえいえ、気遣い恐れ入ります」
「しかし、何でデジタルなんかにビビッているんやろな?」
身内贔屓かもしれないが、デジタルの見た目や物腰は人を威圧するようなものではなく、到底萎縮するような相手ではない。
もしかすると裏でスペシャルウィークにヤキでも入れたのかと、それとなく尋ねたが即否定し、そんなことするわけないと烈火のごとく怒られた。
様子から察するに嘘をついているとも思えず、何よりウマ娘ラブなデジタルがそんなことをするはずもない。それだけに萎縮振りは不可解だった。
「あの……そのことについて心当たりがありまして」
「スペシャルウィーク君がデジタルにビビッていることか?」
「はい、実は先月あたりのことで……」
デジテルのトレーナーの疑問に、スピカのトレーナーは申し訳なさそうに答え始めた。
───
デジタルはスペシャルウィークの様子を横目に見ながら、頭を悩ましていた。
スペシャルウィークは夕方になりホテルに帰ってきたが、その様子は明らかに気落ちしていた。3人での食事もまるで早食い競争のように食べ、逃げるように部屋に戻っていく。
何か悩み事でもあるのだろうかと声を掛けようと思ったが、未だに声を掛けられずにいた。
昨日まではまだコミュニケーションの余地があった。だが今朝がたから自分から距離を置き、話し掛けても素っ気無い返事で、すぐにでも会話を打ち切りたい様子だった。
ホテルから帰ってきた後は話しかけるなオーラが全開で、完全にコミュニケーションを拒絶していた。そうなっては取り付く島もなく、お互いの会話はなく部屋の中は沈黙が支配していた。
すると携帯電話の着信音が沈黙を破る。デジタルは自分の携帯電話を確認するが、音はなっておらず、スペシャルウィークの携帯電話から音は鳴っていた。
「もしもし、今日はウオッカさんの電話からですね」
スペシャルウィークは笑顔を見せながら電話に応対する。その声はデジタルが聞いたなかで1番明るい声で胸はチクリと痛む。スペシャルウィークは会話しながら部屋を出て行き、その後姿をただ眺めていた。
「へ~そうなんですか」
スペシャルウィークは部屋を出ると、階層ごとにある公衆電話があるスペースに向かっていく。そこでなら会話の内容を聞かれることなく、思う存分話せるからだ。
昨日と同じようにスピカの面々との取りとめもない会話をしの、寂しさと不安を癒す。会話をしている時間は日本のいつもの日常そのものだった。
「もしもし、スペちゃん」
「スズカさん。今日はショッピングモールに行きましたけど、凄かったです!中に水族館が有ったんですよ!」
電話の相手がスズカに代わると、スペシャルウィークは饒舌に喋る。その声色は無理矢理空元気を出しているようだった
「スペちゃん、何か不安なことや隠していることはない?もしあるなら言って、話せば楽になることもあるからね」
スズカはそのことに気づき、優しい声色で問いかける。スペシャルウィークも最初はそんなことはないと否定していたが、その声に押し込めていた不安が浮き上がり、今の心境を話し始めた。
異国での不安、いつも周りに居た人物がいないことへの不安、思いの丈を存分に吐き出す。そしてアグネスデジタルのことも話していた。
「あの噂話は嘘だと言い聞かせしていました。でもベッドで薄気味悪く笑う姿を見て、噂は本当だったと思うようになって、今じゃ怖くて仕方がありません」
「そう……」
スズカは相槌を打つとお互いの数秒間の沈黙が流れ、その後スズカが言葉を発する。
「スペちゃん、もし寂しくなったり、話したくなったらいつでも電話してね」
「はい」
「あとアグネスデジタルのことは私に任せて、じゃあ、お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
アグネスデジタルの件は任せてとは、どういう意味だろう?スペシャルウィークはその言葉の意味を考えながら部屋に戻っていく。
部屋に戻ったスペシャルウィークはデジタルと会話せず、携帯電話のチームメイト達の写真を見て、昔を懐かしんでいた。
すると今度はデジタルの携帯電話から音が鳴り、同じように部屋を出て行く。スペシャルウィークはデジタルが居なくなると、無意識に安堵の息をついていた。
「もしもし、プレちゃん。どうしたの?」
「今どこに居る?」
「ホテルの部屋だけど」
「隣にスペシャルウィークはいる?」
「いるけど、それが?」
「じゃあ、スペシャルウィークから離れて、電話できるところに移動して」
電話の相手はエイシンプレストンだった。デジタルは指示通り移動し、スペシャルウィークがスズカ達と喋っていた同じ場所に移動する。
何か様子が変だ。いきなり移動しろという指示もそうだが、声が重苦しいというか、明らかに世間話をしようとして電話を掛けた声のトーンではない。
「もう移動した?」
「したよ。プレちゃん何か変だよ、何かあった?」
「何かあったというより、あんたが何かやらかしたみたい。電話変わるから」
プレストンの言葉の後に、別の人間の息遣いが聞こえ声を発する。その声は聞き覚えのない声だった。
「アグネスデジタルさんですか?」
「うん」
「初めまして、サイレンススズカです」
デジタルは思わぬ人物が出てきたことで、体が緊張し体が少し固まる。
──サイレンススズカ。
トレセン学園でも屈指の有名人であり、スペシャルウィークのチームメイトであり、ルームメイトである。
そんな有名人が何のようだ?電話を掛けてきた意図がまるで読めない。デジタルは唾を飲み込み、聴覚に神経を集中させる。
「どうも」
「では、単刀直入に本題に入らせてもらいます。スペちゃんとは部屋を離れて、トレーニングでは離れて別々におこなっていただけますか?」
あまりにも予想外の言葉に一瞬放心する。スペシャルウィークと離れろとはどういうことだ?
スペシャルウィークとは仲良くなりたい。それなのに何故引き離そうとする?デジタルは動揺で反応できずにおり、その間にスズカは言葉を続ける。
「スペちゃんは貴女のことを怖がっています。貴女に悪気が無いにせよ、これは事実です。これではレースに影響が出る恐れがあります。もしスペちゃんをおもいやる気持ちがあるならば、考慮してください」
「うん……わかった」
「では失礼します」
デジタルはショックのあまり、壁に背を預けズルズルと崩れ落ち座り込む。何となくそんな気はしていた。
だがそれを認めたくないので思わないようにしていた。しかし第3者から言われて強制的に自覚させられる。
───スペシャルウィークは自分に恐怖している。
デジタルはフラフラとした足取りで自室ではない方向に歩いていった。
「電話ありがとうございます」
「デジタルが何かやったんですか?」
プレストンはスズカから携帯電話を受け取り質問する。その声色は若干の不機嫌さをはらんでいた。
日課の武術の練習が終わり部屋でくつろいでいると、ノックの音が聞こえてきた。扉を開けると目の前にはサイレンススズカがいた。
あの有名人が自分に何のようだろう?思い当たる接点は何一つなく、訪問してきた理由が何一つわからなかった。
するとサイレンススズカはデジタルと話さしてくれと頼んできた。
デジタルとスズカに何の接点があるのか?その要求を不思議に思いながらも、自身の携帯電話からデジタルに電話した。
そしてスズカはもしスペシャルウィークが傍にいたら、離れたところで話したいと頼み、その言葉通り誘導しスズカに電話を渡した。
プレストンはスズカに電話を渡し会話内容に耳を傾ける。すると顔をしかめ、機嫌はみるみるうちに悪くなる。
いきなりスペシャルウィークはデジタルを怖がっているから、部屋から離れろと言ったのだ。
「事情は分からないですが、デジタルは人を怖がらせたり、危害を与えるような人間ではないですよ」
「そうかもしれません。ですがスペちゃんはアグネスデジタルを怖がっているのは事実です」
プレストンの若干の敵意が含まれた言葉に、スズカは表情を崩さず返答する。一見温和に対応しているようだが、僅かばかりの苛立ちが含まれているようだった。
スズカはプレストンにもう一度礼を述べると、部屋から出て自室に向かっていく。
スペシャルウィークが思いを打ち明ける声、その震えた声は初めて聞くものだった。それほどまでにアグネスデジタルのことが怖かったのか。スズカの心にデジタルへの怒りが芽生える。
自分にとってスペシャルウィークは可愛い妹のような存在だ。その妹はアクシデントでトレーナーすら居おらず、1人で異国の地で頑張っているのに気遣うどころか、逆に怖がらせ害を与えている。
姉分として守らなければ、そんな想いからデジタルへ電話し、言葉も無意識に厳しいものとなっていた。
───
「ブッハハハハハ!」
「申し訳ございません。これも俺の指導不足です」
「いや、謝ることじゃない。確かに当たっている部分もある……しかしデジタルがそんな風になっていたなんてな……それはスペシャルウィーク君も怖がるわ……」
スピカのトレーナーの話しを聞いた瞬間、デジテルのトレーナーは大笑いをした。
デジタルに見られたものは精神がやられ、再起不能に追い込まれる。
本来なら名誉毀損だと怒るべきなのだが、荒唐無稽すぎて怒りを通り越し笑いになっていた。スピカのなかではデジタルは物の怪の類扱いのようだ。
だがある意味そういう扱いにされても仕方が無い部分もある。
例えばデジタルの天皇賞秋での様子。デジタルと過ごす事で感覚が麻痺していたが、1着になったはずなのに自分は3着で、2着と三着のオペラオーとドトウが一二着だと真顔で言う様子は完全に狂人の所業だ。
「スペには事実無根だと何度も言ったのですが、まだ信じていたみたいで」
「いや、こちらにも多少心当たりがある。デジタルにはその点を矯正させておくわ」
「すみません。アグネスデジタルは悪くないと伝えておいてください」
「わかった」
トレーナーは電話を切ると息を深く吐いた。
デジタルも悪気があったわけじゃない、だが状況と間が悪いせいで完全に裏目に出てしまった。
これをどう伝えるべきか。トレーナーは頭を悩ませていると、ドアからノック音が聞こえてくる。扉を開けるとデジタルの姿があった。
「おお、どうしたデジタル」
「ちょっと相談が有って……」
デジタルは明らかに気落ちしており、その様子を気にしながら部屋に入れて、椅子に座らせた。
「何か飲むか?」
「いい、歯磨いたし」
「そうか」
トレーナーは冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしたがデジタルが拒否したので、そのまま机を挟んだ対面に座る。
「デジタル、スピカのトレーナーから聞いたが、どうやらスペシャルウィーク君にとってお前は物の怪の類のようやぞ」
トレーナーは笑い話を話す口調で切り出す。デジタルは物の怪の類という言葉に体をピクりと動かすが、トレーナーはそれに気付かず話を続ける。
「スピカの中ではウラガブラックが休養しているのも、お前の変態さ加減にメンタルをやられたせいらしいぞ。久しぶりに大笑いしたわ。どんだけ尾ひれがくっついとんのや。まあ事実無根だが、それでもスペシャルウィーク君にとってデジタルは妖怪みたいなもんや。だからあまり関わらず、少しは距離を置いてくれ」
トレーニング中ガン見しちゃったよってデジタルは言っていたが、それもスペシャルウィークが恐怖している理由の1つだろう。だれだって妖怪から見られたら怖いに決まっている。
デジタルがスペシャルウィークに対し好意と興味を抱いていることは知っている。だが相手は好意を抱いていない。
それを知ればショックなはずだ。なので笑い話のように喋り、さりげなく距離を離すように促す。
トレーナーはデジタルが『妖怪と一緒じゃしょうがないよね。わかったよ』とこちらの気持ちに反応するように、笑い話で済ましてくれる事を期待していた。
だがトレーナーの想いと裏腹にデジタルは乾いた笑みを浮かべながら相槌を打つ。
「そっか。妖怪が一緒ならサイレンスズカちゃんも心配して電話するわけだ」
「なんや、サイレンススズカと話したんか?」
「電話でスペシャルウィークちゃんが怖がっているから、部屋を別々にして、トレーニングも1人でやってくれってさ。あの反応はあたしのことを怖がっていたからなんだね。納得したよ」
デジタルは悲しそうに乾いた笑いを浮かべる。そしていつものテンションで話を切り出す。
「それでサイレンスズカちゃんの言うとおり、部屋を替えて一人用の練習メニューを組んで欲しいって相談しに来たわけ。部屋はスペシャルウィークちゃんを白ちゃんに部屋にして、白ちゃんがあたしの部屋に移動しよう。できるでしょう?」
「フロントに言えばできるやろ」
「じゃあ決まり、全く、ウマ娘ちゃんじゃなくてオジサンと一緒の部屋なんて嫌だけど我慢してあげる。変なことしないでよ」
「するか、したらカミさんに怒られるわ」
デジタルに応じるように、トレーナーも軽い口調で応じる。
一見気にしていない体を装っているが、空元気なのは誰の目を見ても明らかだった。すると何かを閃いたようで指でスナップを鳴らし、トレーナーに話しかける。
「あとスペシャルウィークちゃん元気ないから、明日辺り練習なくして白ちゃんが気晴らしさせてあげて」
「俺がか?」
「本当はあたしがやりたいけど、妖怪と一緒じゃ嫌だろうしね……白ちゃんに任せたよ!」
デジタルはトレーナーの背中をバシバシ叩く。思いのほか力が強く、トレーナーはむせながら提案について思案する。
確かに気分が晴れずトレーニングをして本番を迎えるより、1回リフレッシュしてほうがいいのかもしれない。それにスペシャルウィークと2人っきりで話すには良い機会だ。
「わかった。デジタルはその間どうするんや?」
「あたしはテキトーにトレーニングしたり、妄想したりして暇つぶしているよ」
「そうか」
「よ~し、スペシャルウィークちゃんにはフラれちゃったけど、あたしにはサキーちゃんがいる!これからはサキーちゃん1本でいくぞ!」
デジタルは自分に言い聞かせるように呟きながら部屋を出て行く。その声と後姿はどこか悲しげだった。
───
スペシャルウィークはティーにゴルフボールを置くと一回息を深く吐き、視線をボールから前方に向ける。
そこには青空に対しドバイが誇る超高層ビルが天を貫くようにそびえ立っているのが見える。ゴルフ場とはもっと自然に囲まれた場所にあるものだと思っていたが、こんな都会のど真ん中に建っているものなのか。
スペシャルウィークは違和感を覚えながら足幅を整えゴルフクラブを持ちながら腰を後ろに捻る。
可動域限界まで捻ると、そのエネルギーを解き放つように一気に振り抜いた。クラブにボールが当たり、鈍い音ともに勢いよく転がっていく。
「おお、上手いもんや」
「テレビで見たみたいに飛んでいませんけど」
「初めてでトップなら充分や。俺は初めて暫くはまともにボールが飛ばなかったからな。才能あるんやないか」
「そうですか」
トレーナーは拍手を送りながら褒め称える。一方スペシャルウィークは釈然としないよう様子を見せながら、ティーにボールをセットしスイングの動作に入る。
デジタルにスペシャルウィークを気晴らしに連れて行けと言われ、その任を任されたがある悩みを抱く。
───どこに連れて行けばいいのだ?
トレーナー仲間だったら、テキトーに飲み屋でも行けば気晴らしになるだろうが、年頃の女性は何をすれば気晴らしになるのだろう?
まず思いついたのが映画館やショッピングモールに行くことだが、映画は日本語吹き替えで上映しているものは恐らく無い。ショッピングも昨日行ってきたらしいが、あまり楽しめなかったようだ。
しばらく悩んでいるとあるアイディアを思いつく、いっそのこと年頃の女の子が行かないで場所や、やらないことをやらせてみるのはどうだろう。そして思いついたのがゴルフだった。
翌朝、トレーナーはスペシャルウィークをホテルから車で15分ほどにあるゴルフ場に連れて行く。
スペシャルウィークも今日のトレーニングは休みで、どこかに行く気にもならず、部屋に篭るのも乗り気ではなかった。
そんな時にトレーナーから誘われゴルフ場に向かった。ゴルフにはさほど興味がなかったが、アグネスデジタルと離れる理由があれば何でもよかった。
スペシャルウィークはボールを打ち続ける。トレーナーから才能が有ると言われても、所詮今日グラブを握った素人だった。
10球中2球は空振りし、6球は最初のように鈍い音を出しながら勢いよく転がり、2球はそれなりに飛んだが右に大きく曲がっていった。
やはりテレビで見たように真っ直ぐ飛び飛距離が出るようなボールを打てない。ふと隣でボールを打つトレーナーを見ると、10球中8球は真っ直ぐ飛んでいた。
「上手ですね」
「付き合いで何度行っていればこれぐらいわな。まあ、それなりに練習もしたわ。スピカのトレーナーはゴルフするんか?」
「たぶんやってないと思います」
「そうか、今度誘ってみるか、藤沢先生や大久保先生も若い者が加われば、喜ぶかもしれんし」
デジタルのトレーナーの言葉を聞きながら、スペシャルウィークは自身のトレーナーについて考える。
そういえば普段のトレーニングや合宿などで接する時間は長いが、プライベートについてはあまりよく知らない。今度聞いてみるのもいいかもしれない。
暫くの間2人はボールを打ち続け、トレーナーは打つのを止めてスペシャルウィークを指導し始める。1球ごとに悪かったところを伝え、身振り手振りで修正していく。
そしてある1球、スペシャルウィークの体に稲妻のような衝撃と心地よさが駆け抜ける。
打った瞬間今までとは違うというのがすぐに分かった。球はグラブの芯に当たり、打球音も今までの鈍い音ではなく、澄んだ音で打球は空を切り裂くように勢いよく真っ直ぐ前方に飛び、今までより遥かに飛距離を出していた。
「おお!まるでプロ並みの飛距離や!凄いでスペシャルウィーク君!」
トレーナーは素直に賞賛の声を上げ、周りでボール打っていた者たちの視線を集まる。
ボールを打った瞬間、ゴールを1着で駆け抜けた時とは違った心地よさが体中に駆け巡った。
もっとこの感触を味わいたい。スペシャルウィークはすぐにボールをセットしスイング動作に入った。
ゴルフ場のクラブハウスにはレストランも有り、室内はもちろん室外でも食事を楽しむことが出来る。
外に出るとドバイの海風が汗をかいた利用者の体を冷まし、その心地よさから外で食べる者も多い。トレーナーとスペシャルウィークも同様だった。
「初めてのゴルフはどうだった?」
「はい!楽しかったです!また機会があればやってみたいです!」
「スピカのトレーナーに言ってみたらいい。トレーニングの一環とかテキトーに理由をこじつければ、やらせてくれるかもしれんぞ。何なら俺が理由を考えておこう」
「その時はお願いします」
スペシャルウィークは昼食に注文したクラブサンドイッチを食べながら、嬉々とした表情で返事をする。
2時間ほど打ち続けたが、グラブの芯に当たったショットを打てたのは5球ほどしかなかった。それでも芯に当たった感触は今でも手に残っている。
最初は乗り気じゃなかったが、ゴルフがこんなにも楽しいとは思っていなかった。
何より、ゴルフに集中していた時間は今まで感じていた、異国への不安やアグネスデジタルへの恐怖などの雑念を一切忘れていた。今は不思議な爽快感すら感じていた。
一方トレーナーはスペシャルウィークの表情を見て胸をなでおろす。楽しんでくれて良かった。
体験したことのない何かをやらせようと考えゴルフを選んだが、成功だったようだ。これでデジタルに顔向けできる。
トレーナーはスペシャルウィークとスイングについて喋りながら機会をうかがう。
ゴルフに連れて行った目的は2つある。1つは気晴らしのため、そしてもう1つを達成するために話を切り出した。
「ど変態、マインドクラッシャー。うちのデジタルも随分な言われ様やな」
トレーナー笑い話を喋るように明るい口調で喋る。一方スペシャルウィークは飲んでいた水を噴出すという、まるでコントのような反応を見せ、トレーナーの笑いを誘った。
「誰に聞いたんですか?」
「スピカのトレーナーからや、最初はうちのデジタルは妖怪かってツッコンだが、話を聞いていくうちに、思い当たることが何度もあったわ。確かにこれなら妖怪扱いされても仕方が無い」
トレーナーは話しながら笑いを堪え、腿を手で打つ。笑っているのは多少本心も有るが、スペシャルウィークを責めているのではないというパフォーマンスだった。
その効果か、怒られると思っていたのか体を強張らせていたスペシャルウィークだが、そういう雰囲気ではないと感じ取り、リラックスしていく。
「これからはスペシャルウィーク君が俺の泊まっている1人部屋で寝てくれ、トレーニングも極力デジタルから離すし、極力接触させないようにする」
「いや……そこまでは……」
「前世で何かあったのかというぐらいウマが合わない人間が居るし、俺もそういう人は居るから気持ちは分かる。それを我慢してスペシャルウィーク君が不快な思いをすることはない」
トレーナーは軽い口調で極力責め立てないように喋る。スペシャルウィークは罪悪感を覚えながらも、デジタルから離れられることに対し安堵していた。
「ところでカマイタチって知っとるか?」
「カマイタチって、妖怪のですか」
「何も無いところで人の皮膚が突然斬れて出血する。その不可解な現象を昔の人は妖怪の仕業と思ったそうや。でも今ではある程度化学的に原因が解明されておる。妖怪物の怪の類への恐怖は未知からくるもので、知ってしまえば怖くないかもしれんな」
「……そうかもしれませんね」
「よし、そろそろ帰ろか」
トレーナーは席を立ち、スペシャルウィークもその後について行く。パスは送った、あとは伝わるかどうかだ。己の意図が伝わっていることを祈りながら帰路に着いた。
───
「う~ん、ダメだ!」
デジタルは叫びながらベッドに大の字に寝転んだ。
トレーナーとスペシャルウィークが外出したのを確認した後、トレーナーが作成したメニューを一通りこなし、トリップ走法のための妄想トレーニングに入る、だが妄想の精度が悪い。
スペシャルウィークには嫌われたのを仕方が無い、その分サキーに集中すればいい。
そう割り切ったつもりなのだが、まだ後ろ髪引かれているようで、その結果がこの精度の悪さだ。何と女々しいのだろう。うつ伏せになると、己の雑念を立ちるようにベッドに頭を打ち付け、手足をジタバタさせる。
「あっ」
デジタルは思わず声を漏らした。いつの間にかスペシャルウィークが部屋に帰っていて、お互いの眼が合った。
恐らく己の奇行もばっちり目撃しているのだろう。この分だとますます怖がられる。まあ、いまさら怖がられても大して変わらないか。
自虐的な考えが頭を過ぎりながら、目線を逸らし乱れたシーツを整頓していく。
一方スペシャルウィークはそんなデジタルを見据えながら深呼吸をおこない、叫ぶように喋る。
「私の名前はスペシャルウィーク!好きなことは食べること!好きな人は生んでくれたおかあちゃん!育ててくれたおかあちゃん!スズカさんやトレーナーさんやチームスピカの皆さんです!デジタルさんは何ですか?」
デジタルは突然の言葉に思わず振り向き目を丸くする。スペシャルウィークはそんな様子を気にすることなく、鼻息を荒くしながら顔を近づけさせ問い詰め、気圧されながらも語り始める。
「え~っと……好きなものはウマ娘ちゃん。好きな人はパパとママ、プレちゃんにドトウちゃんにオペラオーちゃんにチームの皆、あとすべてのウマ娘ちゃん」
「私の夢は日本一のウマ娘になることです。デジタルさんは?」
「えっ?……将来の夢はトレーナーになって、ウマ娘ちゃんのハーレムを作ること」
突然の自分語りと質問攻め。いったいどうしたというのだ?戸惑いながらも質問に答えていく。
スペシャルウィークはトレーナーの言葉である決意に至った。妖怪の怖さは未知から来るものである。
自分にとってデジタルは妖怪の類のようなものだ。噂話も恐ろしいし、ベッドの上で常軌を逸した目をし、恍惚の表情を浮かべる姿を見たときは寒気が走った。
だがすべてを知ったわけではない。あの様子をしていたのにも理由があるかもしれないし、噂話が本当でも納得できる理由があるかもしれない。
デジタルを拒絶するのはそれらを聞き、知ってからでも遅くはないはずだ。
それをせずに一方的に拒絶することは人を傷つける行為だ。スペシャルウィークの優しさと勇気が質問するという行為に及ばせた。
「トリップ走法ですか?」
「うん、あたしは大好きなウマ娘ちゃんと近くに走るイメージを想像して力を出すの。それで、その練習の一環としてイメトレしてたわけ。サキーちゃんの間近で走る想像してたらついついね」
スペシャルウィークは様々なことを聞き、先日目撃したよだれを垂らし弛緩した表情に、麻薬中毒者のような目をしていた訳を問いただした。そして返ってきたのが今の答えだった。
トリップ走法にイメージトレーニング、理屈はわかったが自分には理解できない世界だ。
それでもサキーに勝つためのトレーニングの一環と知ることにより、不思議と恐怖が薄れ、自分の常識外の理屈で走り、結果を出しているデジタルに奇妙な尊敬の念抱いていた。
それから2人の語らいは続き、数時間に及んでいた。
───
「それでプレちゃんがよく分からない武術に嵌っちゃってさ」
「そうなんですか、格闘技といえばエルちゃんはプロレスが好きでよく技の研究をしていて、たまに実験台にされます」
「エルコンドルパサーちゃんのプロレス技!?いいな~代わりたいな~」
「相当痛いですよ」
「随分と仲良くなったな」
夜になり、ホテルの日本食店で3人は食事を取る。そこでは先日までとは違い、和やかな雰囲気で会話を交わすデジタルとスペシャルウィークの姿があった。
「それはもうスペシャルウィークちゃんとは友達だから」
「そうですね」
2人は互いに向き合って頷き合う、その光景に今度はトレーナーが笑みをこぼす。
どうやらデジタルへの誤解はある程度解けたようだ。
贔屓目はあるがデジタルは悪い奴ではない。
だが蓄積された悪評と誤解が少なからず、スペシャルウィークの目にバイアスをかけさせていた。それを取り除いて向き合って欲しい。それが親しくなりたいというデジタルへの親心だった。
だが直接それを言えば、スペシャルウィークが悪いと感じてしまう。なので、妖怪の例え話で知ろうとする努力をしてもらおうと仕向けたが、上手くいったようだ。
これでデジタルのスペシャルウィークへの好意は正しく伝わるだろう。
しかしスペシャルウィークの笑顔、愛想笑いでは無い笑顔をドバイに来て初めて見たが、何とも人の心を挽きつける笑顔だろうか。
スピカのトレーナーがスカウトした理由は能力ではなく、この笑顔なのかもしれない。
この日の食事は3人にとって、ドバイに来てから初めて楽しいといえる食事となった。