勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と魔王#3

 アグネスデジタルは電子音で目を覚まし、体を起こす。

 いつもの部屋で、いつもの時間に起きて、いつもの時間に朝のトレーニングをして、いつもの時間に授業を受けて、いつもの時間に放課後のトレーニングをして、いつもの時間に寮に帰る。

 昨日までのように、いつも通りの日常だった。だが今日からは違う。

 

 デジタルは右を向くと、いつもは居るはずのもう1つのベッドの主は居ない。

 朝起きれば何事もないように帰ってきて、一緒に朝のトレーニングに向かう。そんな淡い希望を抱いていたが、現実には自分以外この部屋には誰もいない。

 

「プレちゃん……」

 

 デジタルはルームメイトの名前を呟く。その呟きは虚しく部屋に反響した。

 昨日晩、ルームメイトのエイシンプレストンは部屋を去った。デジタルは理由を問いただしたが、自分のワガママを許してくれと言うのみで、理由は述べなかった。

 そして教室でも声をかけないと宣言した。前置きとしてデジタルのことを嫌いなったわけはないと言っていたが、この言葉を信じることができなかった。

 嫌いじゃなければ声ぐらいかけるだろう。何故声をかけない?プレストンの心境が理解できなかった。

 デジタルは制服に着替えトレーニングの用意し、外に出る前に振り返り部屋を眺める。親友が部屋に居ない、それだけで心にぽっかり穴が空いてしまったようだ。

 

「行ってきます」

 

 は誰もいない部屋に挨拶を告げトレーニングに向かう。その足取りは鉛のように重かった。

 

───

 

「まずいな」

 

 トレーナーは誰もいないチームルームで様々な書類を見ながら呟く。デジタルの希望で次走を安田記念からクイーンエリザベスに変更したが、これは予定外の出来事だった。

 ドバイでの激走によるダメージは想像以上であり、2ヶ月後にある安田記念でも仕上がるか微妙なところだ。それを1ヶ月後のクイーンエリザベスまでに仕上げろというのは、はっきり言えば時間が足りない。

 デジタルはモチベーションで走るタイプだ。香港でベストのプレストンと走る機会を逸し、府中で走ることになってしまえばモチベーションはガタ落ちし、惨敗するのは目に見えている。

 それならば仕上げられるか不安はあるが、香港のクイーンエリザベスに走らせたほうが本人の為だ。厳しい要求だが仕上げてみせるとトレーナーはやる気を漲らせていた。

 

 クイーンエリザベスまで3週間前、ドバイでのダメージが尾を引き、デジタルの動きは本調子には程遠かった。だがそれは予想通りで、これからどうやって仕上げていくか思案を巡らせていた。

 

 クイーンエリザベスまで2週間前、知り合いのあん摩マッサージ指圧師や鍼灸師に頼みデジタルのケアをしてもらい、体の調子は大分良くなっていると2人は言っていた。

 だがデジタルの動きはトレーナーの満足いくものではなかった。

 

 あん摩マッサージ指圧師と鍼灸師の腕を疑うことはない。2人の腕は知っている。現に多くのチームのメンバーの体調を整えてきた実績もある。

 ならば精神面の問題か?デジタルにそれとなく聞いてみるとプレストンが訳有って、部屋から出ていったことが原因のようだ。

 しかも出ていった理由も分からないらしい。確かにレースで一緒に走るルームメイトが突然出て行かれたら、動揺するだろう。

 何かやらかして嫌われて出て行かれたのかと聞いたが、プレストンはデジタルのことを嫌いになったわけではないと言ったらしい。

 だが教室では顔を合わさず、ラインメッセージは無視し、メールも電話も着信拒否になっているそうだ。徹底した拒絶ぶりで、ますます不可解だ。

 1番簡単な解決方法はプレストンが部屋に戻ってくることだが、何かしらの確固たる理由があって出て行ったのだろう。戻ることは期待できない。

 プレストンの行動は見事にデジタルのメンタルにダメージを与えている。そんなことは無いのは分かりきっているがこれは本調子にさせない為の作戦ではないかと邪推してしまうほどだ。

 トレーナーの思考はデジタルからプレストンに移り、PCのネットを立ち上げ、トゥインクルレース専門のサイトのプレストンの記事を見る。

 そこにはトレーニングでの時計の良さや、調子の良さについて書かれていた。実際映像を見ても絶好調なのは明らかだった。

 目標から逆算しての見事な仕上げ、前走の中山記念に負けたのもクイーンエリザベスを見据えて余裕残しの仕上げか、本番に向けて色々と試したのだろう。さすが北さん、トレーナーは内心で賞賛の声をあげる。

 デジタルは香港がプレストンに合っていると言っていたが、トレーナーも同意見だった。

 去年の香港マイルのパフォーマンスは圧巻だった。香港マイルと同条件の芝1600Mのチャンピオンマイルではなく、2000Mのクイーンエリザベスを選択した。

 一部マスコミでは勝ち鞍に2000Mの距離はなく、距離不安を指摘する声があるが問題ないと思っていた。

 プレストンは1流のウマ娘であるが香港では超1流に変貌する。

 それほどまでに香港への適性の高さを持ち、香港2000Mなら世界最強のサキーにすら勝てるかもしれない。

 普通にやっても厳しいレースで相手は絶好調で、方やデジタルの調子が上がらない。もしデジタルが勝利至上主義ならレース回避を勧めるほどの分の悪さだ。トレーナーは思わず頭を抱えた。

 

───

 

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るとともにクラスメイト達は開放感からか、ある者は談笑を楽しみ、ある者はトレーニングに向かうために準備を始める。

 だがデジタルは自分の机に突っ伏して項垂れ、日に日に気持ちは落ち込んでいくのを実感する。

 プレストンは徹頭徹尾デジタルとの接触を避けた。授業が終わればすぐに教室から出ていき、昼休みでも食堂などにプレストンを探しに行ったがまるで見つからず、最近では視界にすら収めることができないほど避けられている。

 は自分ことを嫌いになったわけでは無いと言ったが、その言葉すら疑わしくなってくる。

 一緒にレースを走るのは今回が初めてではない。ジュニアC級でのニュージーランドT、マイルCS。シニアクラスでの京王スプリングC、安田記念と計4回も一緒に走っている。

 その4回とも部屋を出る等特別な行動を取ってはいなかった。

 だが何故今回に限って部屋を出た?共通項を脳内で考えるが全く思いつかない。その行動に及んだ動機はいかに?まるで難解なミステリー小説を読んだ時のように分からない。

 小説なら最後の方を読むなり、ネットで解説を見ることができるが、この問題の正解は自分で考えるしかない。

 

 いや自分で考える以外にも方法がある。

 

 デジタルはある考えを思いつく。自分には答えはわからない。だが今のプレストンと同じ状況にいた者ならば、気持ちを理解し答えを知っている者が居るかもしれない。

 同室で同じGIレースに走ったことがある者、その条件に当て嵌る者を脳内で検索する。すると友人の中で1人該当する者がいた。

 デジタルは勢いよく立ち上がり駆け出していった。

 

 

「さあ、今日も張り切ってトレーニング行きましょう!」

「随分ご機嫌ね、エル」

「グラス、それは良いレースを見た翌日はテンション上げ上げデス!」

 

 エルコンドルパサーが鼻歌交じりで上機嫌で支度をする姿を、グラスワンダーは笑みを浮かべながら眺めている。

 素晴らしいレースを見た後のエルコンドルパサーはいつも上機嫌だ。

 昨日の桜花賞でのウオッカとダイワスカーレットの直線での争いはグラスワンダーの精神をも高揚させた。

 あの2人は今後順調に行けば、歴史に語り継がれるようなライバル関係になるだろう。そして2人といずれレースで走る事になるかも知れない。

 

「チームルームまでダッシュデス、グラス!」

「待ってエル、またエアグルーヴさんに叱られるわよ」

 

 エルコンドルパサーはグラスワンダーの制止を聞かず駆け出す。2歩3歩と駆け出し教室の扉を抜ければ一気に加速する。そこからは一気だ。

 だがエルコンドルパサーは加速することなく扉前で必死にブレーキをかけて、急減速した。

 目の前には1人のウマ娘がいた。ピンク髪で赤い大きなリボン、髪の色と同じ色のアクセサリーを身につけており、同じクラスのハルウララに似ているがハルウララではない。このウマ娘は見覚えが有る。アグネスデジタルだ。

 アグネスデジタルは僅かばかし息が乱れている。これは走ってきたな。走ろうと思った自分が言うのも何だが、見つかったら怒られるぞ。

 

「えっと、ワタシに用デスか?」

「スペちゃん居ますか!?」

 

 デジタルは大声でスペシャルウィークの在室を問うと、エルコンドルパサーは返事代わりに後ろを振り向く。

 その視線の先には授業から解放され気の抜けた表情を浮かべているスペシャルウィークが居た。

 

───

 

「お邪魔します」

「どうぞ」

 

 デジタルは中に入ると物珍しそうにキョロキョロと部屋を見渡す。

 左右の壁にそれぞれのクローゼットや机やベッドを寄せた配置で自分たちの部屋の配置と変わらない。

 スペシャルウィークの机には付箋や育ての親やスピカメンバーで撮った記念写真が飾られ、ベッドには巨大な人参の抱き枕もある。これがスペシャルウィークの部屋か、同じ間取りで家具もそれぞれ同じような位置に配置されるが、それぞれの部屋にはそれぞれ個性がにじみ出る。

 例えばテイエムオペラオーの部屋に遊びに行った時は自分のスペースの壁一面に自らのポスターを張っていて、ど肝を抜かれたのを覚えている。

 そしてやはり一番違うのは匂いだ、長年暮らしてきた部屋には住んでいる者の匂いが染み付き違いはハッキリ出る。

 印象しては素朴な匂い、お日様の匂いという感じだ。思わぬ展開だがこの幸運には感謝しなければならない。予定ではスペシャルウィークの部屋に来るつもりは全くなかった。

 学園近くの喫茶店か学園の食堂で相談するつもりだったが、プライバシーを尊重してかスペシャルウィークの部屋で相談することになった。

 スペシャルウィークは部屋の中心部にちゃぶ台と2人の分の座布団床に敷き座る。

 

「サイレンススズカちゃんはどうしたの?」

「スズカさんはトレーニングで私はオフです。まだ前走の疲労が抜けきれてないとトレーナーさんが。次走は宝塚記念だから調整はゆっくり目、デジタルちゃんは香港のクイーンエリザベスだっけ?」

「うん」

「ドバイワールドカップであれだけ走ったのに、すぐに次のレースか、凄いね」

「そんなことないよ」

「それで相談って?出来る範囲で力になるよ」

「あのね、実は……」

 

 デジタルはスペシャルウィークに促されて相談内容を語り始める。プレストンが部屋から出て行ったこと、その時の言葉や様子を覚えている限りのことを話す。

 

「なるほど、部屋から出て行って、それから全く話しかけてくれないと」

「嫌われたならまだ分かるよ。でも嫌いじゃないのに話しかけてくれないなんて、プレちゃんの考えが分からないよ……」

 

 無視される日々を思い出したのか、デジタルの声のトーンは落ち目を伏せ、頭を垂れ気落ちした様子を見せる。

 

「スペちゃんもサイレンススズカちゃんとGIで何度も走ったでしょ。その時どんな気持ち?サイレンススズカちゃんと一緒の部屋で生活したくないって思った?」

 

 サイレンススズカと走る。それはスペシャルウィークにとっては特別なことだった。

 憧れのウマ娘でありライバルでもあるウマ娘との走り。それは血潮が滾り胸ときめくものだ。だが同時に1人に栄光を勝ち取り、もう1人に敗北という苦渋を味あわせることにもなる。

 敗北の悔しさと辛さは痛感している。苦楽を共にしてきたサイレンスズカに味あわせる可能性について、心を痛め気まずさを感じたこともある。

 それを感じエイシンプレストンが部屋から出て行ったのかもしれない。スペシャルウィークは思いついた考えを話したが、デジタルは首を傾げる。

 

「それだったら、マイルCSの時、それか安田記念の時も部屋を出て行くんじゃないかな。でも今回のクイーンエリザベスに限って部屋を出たのは何で?それにプレちゃんは今までそんな素振りを見せなかったよ」

「最近になって、そのことに気づいたとか?」

「そうなのかな?」

「あと、馴れ合いたくなかったから?」

 

 スペシャルウィークは以前チームスピカの合宿で馴れ合い禁止と言われたことを思い出した。

 エイシンプレストンは日々の生活で馴れ合っていると感じ、それを危惧して関係を一時期に断ったのかもしれない。

 

「馴れ合いか、あたし達馴れ合っていたのかな?」

 デジタルも首をかしげながら心境を振り返る。過去4走全てにおいてプレストンに負けるつもりはなく、全力で勝ちにいったつもりだ。

 ドバイではサキーを充分に感じられたが、負けたことで全てを感じることはできなかった。だから勝つ。プレストンに勝つことでプレストンの全てを感じられる。そこに妥協はない。

 だが馴れ合いというのは、プレストンが取った行動への寂しさなのかもしれない。馴れ合っていなければ、寂しさなど感じないのだろうか?

 デジタルは複雑な表情を浮かべながら、馴れ合いについて自問自答する。するとスペシャルウィークが語り始める。

 

「私もチームスピカの皆と走ってその時思ったんです。皆には負けたくない。でも皆に勝って欲しいって」

「どういうこと?矛盾していない?」

「うん、矛盾している。でも私は皆がどれほど努力し、どれだけレースに勝ちたいかという想いも知っています。だからその想いが報われて欲しいと思ったの」

 

 その言葉にデジタルは首を大きく縦に振る。今まで無意識に思っていたが言語化され表層に浮かび上がる。

 確かにそうだ。天皇賞秋でも、ドバイワールドカップでも今思えば勝ちたいと思うと同時に、テイエムオペラオーやメイショウドトウやサキーに勝ってほしいと思っていた。そしてプレストンと走ったレースでもそうだった。

 

「あたしもそう思った!」

「これも馴れ合いなのかな」

「そんなこと無い。これが馴れ合いなら、この気持ちを抱えて馴れ合い続けながら走るよ」

「私もそう思う」

 

 スペシャルウィークはデジタルの言葉に笑みを浮かべる。

 親しい相手を気遣いレースで全力を出さないのは論外だ。だが、相手の想いや背景を知り、それを共感し受け止め相手の勝利を願いながらも全力を出す。それは決して馴れ合いではない。

 

「エイシンプレストンさんは訳有ってデジタルちゃんから離れた。私にはその訳は分からないけど、根底には私やデジタルちゃんが思う相手に勝って欲しいって気持ちが有ると思う。だから嫌いになった訳じゃない。デジタルちゃんはエイシンプレストンさんの全てを感じるために、ベストを尽くそう。それを望んでいるはずだよ」

 

 スペシャルウィークは力強い目線で語りかける。

 今までデジタルと接してきたことでどれだけプレストンが好きなのかは分かった。その好意を受けていたデジタルを嫌うはずがない。

 デジタルもスペシャルウィークの視線に答えるように、力強く頷く。

 部屋を出た理由は分からない。だが嫌いになった等というマイナスな理由ではなのは確かだ。それだけは分かり、それだけ分かれば充分だ。

 

「ありがとうスペちゃん。色々とモヤモヤしていたけど、大分スッキリした」

「よかった。香港のレース頑張ってね」

「うん。今度お礼に何かご馳走するよ。プレちゃんを存分に感じて1着になって賞金ゲットしてくるから、好きなだけ食べていいよ」

「うん、楽しみにしているよ」

 

 デジタルは座布団から立ち上がり、スペシャルウィークに手を振りながら部屋を出る。その足取りはどこか軽やかだった。

 

───

 

 デジタルは鼻歌交じりで自室に向かう。すると自室の扉に背をあずけ座り込んでいる1人のウマ娘がいた。栗毛の髪に平均より大きな体、そして赤と黄色と紫の薔薇のヘアピンを身につけていた。

 

「調子が悪いと聞いていたが随分ご機嫌だな」

「スターリングローズちゃん、どうしたの?」

 

 彼女はスターリングローズ、プレストンと同じチームに所属し、プレストンとは同期である。

 プレストンを通して何度か会話した程度の間柄であり、自分1人しか居ない部屋に来るような仲ではなかった。

 

「ところで、勝負事で1番楽しい勝ち方って何だと思う?」

 

 デジタルは唐突な話題の振り方に戸惑いながら考える。暫く考えているとスターリングローズは答えを待たず話しを続けた。

 

「相手に圧勝する。弱い奴を蹂躙するっていうのはスカッとするな。だが一時的には気持ちいいが、虚しさや達成感の無さがある。真に楽しい勝ち方は僅差で勝つことだ。相手に追い詰められ、負けるかもしれないというストレス負荷が掛かるが、勝利することでそのストレスが充実感や達成感になり、印象に残る勝利になる」

 

 デジタルはスターリングローズの言葉に内心頷く。確かに楽に勝つより、過程で障害や困難を乗り越えて勝つほうが印象に残る。

 入場の演出で使った縁でドラグーンクエストをプレイしたが、ボスに何度も負けて四苦八苦しながら倒し、その時の達成感は気持ち良く、楽に倒したボスより印象に残っている。

 

「プレストンは長年一緒に居る私でも怖いぐらい集中し仕上げている。きっと生涯1の仕上がりでくるだろう。一方アグネスデジタルの調子は今ひとつだ。このままクイーンエリザベスで走ればどうなると思う?きっとプレストンの圧勝だ」

 

 デジタルの眼光が鋭くなる。確かに自分の調子は悪くプレストンの調子が良いというのは聞いている。今のままでは厳しいレースになることも自覚している。

 だがそこまで親しくないウマ娘にはっきりと完敗すると言われれば、流石に不機嫌になる。そして相手が言わんとしていることも理解する。

 

「つまり、プレちゃんが接戦で気持ち良く勝てるように、ハッパをかけに来たんだ」

「まあ、端的に言えばそうだ」

 

 デジタルは皮肉めいた口調で聞き、スターリングローズは皮肉に意を介さず答えた。このウマ娘ちゃんは喧嘩を売っているのか?相手の態度に対してさらに不機嫌さが増していた。

 

「プレストンは渾身の仕上げで恐らく上半期はこれで終わりだ。分かるだろう?ウマ娘は仕上がれば仕上げる分だけ体への反動が大きく、選手寿命を縮めているって」

 

 不敵な態度から真剣な表情と声色になり、その雰囲気に呑まれるように怒りが奥に引っ込む。

 仕上がりによる反動、それはドバイでの走りで身を持って体験し、今の不調の原因の一端がそれだ。

 そして選手寿命を縮めるという言葉。この業界には使い減りという言葉がある。

 同じ年に生まれたウマ娘で、片方は数多くのレースに走り、片方はそこまでレースに走らなかった。どちらが早く衰えがきて引退したかといえば、数多くレースを走ったウマ娘であった。

 勿論個人差もあり明確な根拠もないが、一般的には信じられ、トレーナー達も無駄なレースを走らせないように慎重にレースを選びトレーニングしていく。

 

「だからプレストンが次のレースをつまんなく味気ないものでなく、10年経って振り返っても楽しかったと思えるようなレースにしてもらいたい。それにはプレストンがライバルだと認めるアグネスデジタルの復調が不可欠なんだ。本当なら私が香港で走りたいけど、適性がダートで同じ土俵で立てない……」

 

 スターリングローズの声は震え拳を力いっぱい握り締めていた。デジタルはスターリングローズというウマ娘を誤解していたことに気づく。

 プレストンがどれだけクイーンエリザベスに懸けているかを間近で見てきた。だからこそ友の努力が報われるように、たとえ自分が嫌われても構わないとハッパを掛けに来たのだ。

 そしてあの震えた声は友の努力が報われるようなレースにするのには自分ではダメで、相手に託さなければならないという悔しさによるものだ。そして最初の攻撃的な態度も悔しさの現れだったのだ。

 

「分かった。必ず調子を戻す。それでプレちゃんに勝つ。そう伝えておいて」

 

 デジタルは右手で胸を叩く、そこまでの覚悟で仕上げるなら、自分も相応に仕上げる。

 余裕があれば宝塚記念を走ると考えていたが、それは白紙だ。例え暫く休養を強いられるようなことになっても、後悔はない。

 

「ああ、伝えておく」

 

 スターリングローズは安堵と嬉しさが綯交ぜになったような表情を浮かべた。

 

「頑張って仕上げてくれ、じゃあな……っと本題を忘れていた」

 

 スターリングローズはデジタルに背を向けて歩き始めるが、数歩ほどで歩くと踵を返し戻ってきた。

 

「これ、プレストンからだ」

「これは?」

「手紙だ。メールとかで伝えればいいのにな。じゃあな」

 

 スターリングローズは茶封筒を渡すと、手をヒラヒラと振りながら今度は踵を返すことなく去っていく。

 デジタルはその姿を見送ると、急いで部屋に入りベッドに飛び込んで、封筒を開け手紙を読んだ。

 

 ──本当ならレースが終わるまで連絡するつもりはなかったけど、デジタルが調子悪いって聞いて、あたしのせいかもしれないと思って、手紙を書いた。

 改めて言うけど部屋から出て行ったのはデジタルが嫌いになったわけじゃない。友達だと思っているし、デジタルがどれだけトレーニングして、どれだけの想いを持ってレースに臨んでいるか知っているつもり、だからデジタルに感情移入しちゃって、デジタルの勝利は自分のことのように嬉しくて、デジタルの敗北は自分のことのように悔しかった。

 次のクイーンエリザベスで一緒に走る。その時デジタルと一緒に走った時、あたしはデジタルの勝利を願ってしまわないだろうかって思った。

 勿論あたしは勝ちたいし、手を抜いてデジタルに勝たしても喜ばない。それがデジタルへの侮辱だという事は分かっている。

 そんなことは起こる確率は1%以下だと思う。でもデジタルへの情が無意識に自分の走りを鈍らせてしまう可能性があるなら、その情を断ち切りたい。だから情は外に置いていく。それが望む全力のあたしに繋がっていると信じているから。

 

「優しいな……プレちゃん」

 

 デジタルは涙声で名前を呟く。部屋を出たのはそういう理由だったのか。

 プレストンもスペシャルウィークのように勝利を願っていた。その情が走りを鈍らすことを危惧していた。そして勝利のために、自分に最高の走りを見せるために部屋から離れた。

 それがどれほど辛いことだろう。自分だったらその可能性を危惧しても、辛くてできない。

 本当に凄いウマ娘だ。そして何て素晴らしい友人だ。

 

 デジタルの心に熱が入る。プレストンが部屋から出たことで落ち込んでいた自分が情けない。友人の想いに報いるために最高の自分に仕上げる。決意を示すように拳を高く突き上げた。

 

───

 

「特に問題ありません。何か有ったら呼んでください」

「ありがとうございます」

 

 男性達は一礼すると部屋から出て行き、部屋にはトレーナーとデジタルが残された。

 

「どうだ調子は?」

「流石にドバイの時とは同じとはいかないけど、大分回復したかな。しかしプロは違うね、整体師さんと鍼灸師さんが居なかったら、ここまで体調を戻せなかったよ」

「それはチームお抱えやからな。腕が違う」

「でも腕が良い分お高いね。ドバイの賞金を全部使っちゃった」

 

 デジタルはスッカラカンと手を広げながらあっけらかんと言った。

 

 デジタルはクイーンエリザベスまでに体調を戻すために、できる限りの事を行った。

 プレストンから手紙を貰うまではあん摩マッサージ指圧師と鍼灸師の診療所に出向き、診療は2日に1回程度の診療だった。だがその後は出張で来てもらい診療時間も倍に伸ばしてもらい、さらに香港にも無理を言って帯同してもらった。

 出張費に帯同費と通常の10数倍費用が掛かり、世界最高賞金額を誇るドバイワールドカップ2着で得た賞金はすべて使い果たした。

 デジタルはその事については全く後悔してない。プレストンに全力を見せるためなら金なんていくらでもくれてやる。

 トレーナーは体を動かすデジタルの様子を観察する。調子は9割といったところだろう。ドバイでの激走から約1月でここまで戻せたことは賞賛に値する。これもプレストンの為に頑張ったからだろう、これが友情パワーの成せる技か。

 だが9割では足りないというのが本音だった。並みの相手ならGIでも立ち回り次第で何とかなる。だが香港でのプレストン相手だ。この状態では少し心許ない。

 

「去年の12月はここでプレちゃんとキンイロリョテイちゃんとあたしの3人で香港の夜景を見たんだよね」

 

 デジタルはカーテンを開け懐かしむように夜の街並みを見下ろす。

 日本所属ウマ娘による香港GI3連勝という偉業を達成した歴史的1日。あの歓喜の渦の中に親友も居た。そして明日は敵として親友と走る。

 デジタルは夜の街並みを見下ろしながらプレストンについて思いを馳せる。

 今はどんな精神状態だろう?ワクワクしているか、緊張しているか、興奮しているか。きっとベストな精神状態で臨んでくるだろう。

 ならばプレストンの渾身の仕上げに報いるために自分もベスト尽くす。ただそれだけを考えればいい。

 すると香港の夜空に一筋の流星が走ると同時に祈った。

 

―――明日はプレちゃんと最高のレースができますように

 


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