「ハジメマシテ、アグネスデジタルデス、ヨロシクオネガイシマス」
アグネスデジタルがたどたどしい日本語で自己紹介すると、教室から温かい拍手が送られる。
アメリカでチームプレアデスのトレーナーにスカウトされて、日本のトレセン学園にやってきた。
これからどんな素敵なウマ娘ちゃんと仲良くなれるだろう。どんな素敵な出会いが待っているのだろう。胸中は夢と希望で一杯だった。
「ハウ、アー、ユー?えっと……ウェア、アーユー、フロム?」
席に着くとクラスメイト達が拙い英語で話しかけてくる。外国生まれのウマ娘が珍しいのか、外国人ということで気を遣ってくれているのか分からないが、話しかけてくれるのは嬉しかった。
デジタルは拙い日本語と英語とジェスチャーを混ぜて話し、クラスメイト達も拙い英語と日本語とジェスチャーで会話する。お互い会話に苦労したが最低限は伝わっていた。
出身地、どこのチームに入るか等当たり障りない会話で親交を深めていく。するとクラスメイトの1人が尋ねる。
「アグネスデジタルさんの好きなものや趣味って何?」
『ウマ娘ちゃん!』
デジタルは待っていましたとは瞳を爛々と輝かせて、アメリカや日本で好きなウマ娘ちゃんについて捲し立てるように喋る。戦績、エピソード、容姿、勝負服等思いつく限り喋った。勿論日本語ではなく英語で。
「へえ~……アグネスデジタルさんはそんなにウマ娘が好きなんだ……あ……授業が始まるからまた今度ね……」
クラスメイト達はソソクサと自分の席に戻っていき、デジタルはその姿を見送った。
まだまだ話はこれからというところで打ち切られて不満だったが、次の休み時間で話せばいいだろうと楽しい未来を想像しながら授業の準備を始めた。
だが楽しい未来は訪れなかった。
授業が終わった後も昼休みも放課後もクラスメイト達は話しかけてこなかった。最低限の世話はしてくれたが、明らかに関わろうとしていなかった。
デジタルは訝しみながらもチームルームに向かう。クラスメイトじゃなくてもチームメイト達とウマ娘についてのトークを花咲かせばいい。だがチームメイト達ともトークに花を咲かせることはなかった。
クラスの時と同じように自己紹介し、好きなものを聞かれ、ウマ娘について捲し立てるように語り、チームメイト達は距離を取った。
アグネスデジタルというウマ娘はオタク気質だ。
ウマ娘について深い知識と愛情を持ち、その反面その他の分野や世間の流行には疎い。そういった人物とは世間はあまり関わろうとせず、集団の中で孤立してしまう。
だが幸運なことにアメリカでのデジタル周辺には同等の知識と愛情を持った友人がいて、その友人達とウマ娘について存分に語れ、幸せな生活を送れていた。
しかしデジタルが編入したクラスにもチームにもオタク気質のウマ娘はいなかった。
レースを走るウマ娘なら自分と同等の知識と愛情を持っているものだと思っていた。だがレースを競技者が外から観戦するファンのように知識と愛情を持っているとは限らない。その事実は少なからず落胆させる。
それからのデジタルの生活は酷く味気ないものだった。ウマ娘について語りたい、でも語れる相手が居ない。それは苦痛だった。
最初はアメリカに居る友達と話して欲求を解消させていたが、国際電話の料金も学生には高額であり、毎日何時間も喋り友人を拘束してはいけないと気を遣い、電話する時間は減っていった。
休み時間でも1人でウマ娘についての書籍や記事を見て、トレーニングの開始前でチームメイト達が談話していても1人で記事を見て、トレーニングが終了すればいの1番に部屋に帰る生活が続く、完全に心を閉ざしていた。
トレセン学園ではデビュー前のウマ娘やスター選手を間近で見られ、そこは良いとは思う。だがそれ以上にウマ娘達を生で見て、その印象や感想を友人達と語りたかった。
―――もうアメリカに帰ろうかな
そんな考えも芽生え始めた頃、部屋でレース映像を見ている最中に声をかけられた。
――――ねえ、ウマ娘について話を聞かせてよ。
――――えっと……何を話せば……
――――何でもいいよ。アメリカでも日本でも有名なウマ娘についての逸話やオモシロエピソードとか
――――じゃあ、まずは……!
───
ピピピピ
デジタルは電子音が鳴るともにベッドから起き上がる。
今のは夢か。起き抜けの頭を稼働させ先程見た映像を分析し、懐かしむように笑みを浮かべる。
随分と懐かしい夢だ。声をかけてきたのはルームメイトのエイシンプレストンだった。
今までは最低限の関わりしか持たなかったプレストンが突然声をかけてきた。
そのことに戸惑うがウマ娘について興味を示してくれたことが嬉しく、いつも以上のテンションで転入初日以上に捲し立てながら語ったのを覚えている。
自分の話に対しクラスメイト達のように引くことなく、興味を持って話を聞いてくれて、そこから交流が始まる。
プレストンは交友関係が広く、プレストンを介することでクラスメイト達と少しずつ交流するようになり、そこから少しずつ学園に溶け込めるようになった。そして様々な助言を貰った。
相手に自分の趣味に興味を持ってもらいたいなら、相手の趣味にも興味を持つこと。自分の趣味を一方的に押し付ければ相手は心を閉ざしてしまう。
ウマ娘について語りたい友達を作りたいなら、今みたいに捲し立てるように自分が喋りたい事を喋っちゃダメだ。
ゆっくりと相手が興味を持ちそうな事を喋る事、そのアドバイスを実践し、今ではクラスメイトでもチームメイトでもウマ娘について語れる知人友人は増えてきた。
プレストンが居なければ自分は学園に溶け込めず、アメリカに帰りこれまでの素晴らしい出会いと体験を味わえることができなかった。まさに恩人であり、そして親友でもある。
デジタルはカーテンを開け窓から差し込む太陽の光を全身に浴びる。空は快晴で芝は良だろう。絶好のレース日和だ。
───
―――なんですかフジキセキさん?
―――ルームメイトのアグネスデジタルが居るだろう。どうやら学園に馴染めていないようだ。君の方でサポートしてやってくれないか
エイシンプレストンはフジキセキに呼ばれ、開口一番で聞いたのがこの言葉だった。
プレストンが住む栗東寮の寮長であるフジキセキからの依頼、と言う名の強制と解釈した。
トレセン学園生徒会にも顔が利くフジキセキのことだ、断れば今後の生活で何らかしらの悪影響が及ぶかもしれないと判断し、その依頼を引き受けた。
プレストンから見てデジタルが周囲に溶け込めないのは当然の結果だった。
転入初日であれだけオタク気質全開で語り、周囲に溶け込む努力をせず自分の世界に閉じこもってしまえばそうはなる。
そこまで熱心にやるつもりはない、程々にサポートして頑張りましたよというポーズだけ見せ、溶け込めないのであれば、それまでだ。
同じアメリカ産まれというよしみと憐憫、何時までも心を閉ざしていると部屋が辛気臭くて居心地が悪い。それらも要請を受けた理由だった。
部屋に戻り、ウマ娘の映像を見ているデジタルの後ろ姿を見つめながら思案する。
まず1言目が重要だ。心のドアを開けさせ、すかさず足を差し込み入っていく。デジタルの反応をシミュレーションしながら、声をかけた。
――――ねえ、ウマ娘について話を聞かせてよ。
相手が興味有る事に興味を示す態度を見せる。それが心を開かせるのに有効な手段だ。
すると堰を切ったようにウマ娘について喋り始め、自分は興味あるふうに聞く。そうしたら面白いように心を開き懐いていった。
自分のアドバイスも効果的だったのか、デジタルは少しずつ学園に慣れ始めていく。
プレストンも自分を姉のように慕ってくれるデジタルに対しては悪い気はせず、同室で一緒に過ごす時間が長いこともあって、それなりに親交を深めていった。
ある日プレストンはジュニアB級のGI朝日FSに出走することになる。
そしてデジタルは勝ったら2人でお祝いしようという話になり、それを了承する。そしてレースには勝利し、晴れてGIウマ娘になる。
特別になる為の第1歩、これは通過点と言い聞かせながらもGI勝利という喜びと達成感で有頂天になり、場の流れでチームメイト達と祝勝会をする。祝勝会は盛り上がり終わったのは0時を過ぎていた。
プレストンは帰り道にデジタルとお祝いをすることを思い出す。
デジタルは基本的に夜更しが出来ず、最低でも22時には寝ている。
恐らくもう寝ているだろう。多少なりの罪悪感を覚えながらも部屋の扉を開けた。すると部屋中が飾り付けられ、中央には睡魔によって今にも意識を手放しそうなデジタルが座っていた。
――――GI勝利……おめでとう……プレストンちゃん……
――――アグネスデジタル起きていたの!?
――――だって……一緒にお祝いするって……約束したし……
プレストンは電子音が鳴るともにベッドから起き上がる。
今のは夢か。起き抜けの頭を稼働させ先程見た映像を分析し、懐かしむように笑みを浮かべる。
そういえばそんな事が有った。結局デジタルは直ぐに意識を手放し眠りに落ち、後日改めて2人だけの祝勝会を開いたのだった。
今思うとその日を境に自分たちは友達と言える間柄になったような気がする。デジタルの健気さに胸を打たれたのかもしれない。
カーテンを開けて天気を確認する。燦々と輝く太陽、芝は間違いなく良だ。これで自分の末脚を充分に発揮できる。
すると手が震えていた。緊張によるものか武者震いか自分自身でも分からなかった。
───
シャティンレース場内はこの時期では珍しく気温は30度を超え、夏を思い出させるような日差しが降り注ぐ。
だがシャティンのパドックには屋根がついておりファン達は直射日光を浴びることはない。
しかし熱気は変わらずクイーンエリザベスの出走ウマ娘のパドックを見ようと待ち構えているファン達もハンカチで汗をぬぐい、水分補給をしながら待ち構えている。
するとアナウンスで開始を告げると出走ウマ娘達がパドックに姿を現し、ランウェイを歩いていく。
やはりこの気温のせいかどのウマ娘達も汗を浮かべ、少し気だるそうにしていた。
「続いて、3番人気アグネスデジタル選手です」
デジタルは多少汗をかきながら姿を現すと多くのシャッターの光と声援が出迎える。
去年の香港カップでの勝利もそうだが、先のドバイワールドカップで世界最強のサキーと接戦を繰り広げたことでさらに人気も上がっていった。
ファン達のデジタルを見る目線は鋭く、その一挙手一投足を真剣に見つめていた。
実績からして1番人気に推されてもおかしくはなかった。だがドバイワールドカップの激走により調子を落とし、現地入りしての公開トレーニングでも動きが抜群に良いとはいえず、その影響で3番人気になっていた。
ファン達の鋭い視線を尻目にいつも通りリラックスした状態で歩いていく
「続いて、2番人気エイシンプレストン選手です」
デジタルのパドックが終わると今度は2番人気であるプレストンの番になる。2人はすれ違うがお互い視線を一切合わすことはなかった。
プレストンは赤と黒を基調にしたミニタイプのチャイナドレスを身に纏い、中央にある太極図は白の部分が赤色にアレンジされている。袖の下が足首まで届きそうなほど大きく作られているのも特徴的だ。
多少汗が目立つがキビキビと歩くその姿に、観客たちはシャッターを切りデジタルと同等の声援を送る。
去年の香港マイルのパフォーマンスがファン達の印象に残り、現地での人気はそれなりに高い。何より歩く動作だけでも好調さが窺え、ファン達の期待感を掻き立てられ声援も大きくなっていった。
そしてプレストンの番が終わると1番人気のゴドルフィンのグランデラが姿を現し、ランウェイを歩いていく。
パドックが終わると其々がトレーナーの元に向かい最終確認を行う。デジタルとプレストンは其々のトレーナーの元に向かっていく。
「まるで夏のように暑いですね。体は大丈夫ですか?」
「正直ここまで暑いとは思っていなかったです。ちょっとこの暑さは嫌ですね」
「水分補給はしっかりやっておきましょう」
「はい」
プレストンは袖で額の汗を拭いながら、トレーナーから渡されたボトルに口をつけ僅かばかり水分を補給する。
「それで最終確認ですが……」
「デジタルが体を併せても、そのまま走ります」
トレーナーが言い終わる前にプレストンは自分の意思を述べる。多少失礼だがこれは意思表示でもあった。
トレーナーはデジタルが体を併せてきた場合は外に出すように提案する。
デジタルが体を併せたことで発揮する勝負根性は警戒し、親友であるプレストンならばより力を出すだろうと予測していた。
一方プレストンはその提案を断る。無論デジタルの勝負根性は知るところで、勝負に勝つためなら離れた方が得策であることは分かっていた。
だがライバルとして100%のデジタルに勝ちたかった。
体を併せたことで力を発揮するなら、体を併せさせた上で勝利する。それが望む完全勝利だった。そして全力の自分をより近くで見て欲しかった。
議論は暫く平行線を辿るが、トレーナーの方が折れることになる。
デジタルにはトリップ走法がある。体を離してもイメージの相手と体を併せることで力を出し、離れた分プレストンが距離損してしまう。何より体を併せる事で勝負根性が発揮されることを期待していた。
「プレストン、貴女が望む特別になるために勝ってきなさい。そしてアグネスデジタルにも私にも刻み込まれるような走りを期待しています。プレストンならそれができます」
トレーナーはプレストンに手を差し出す。プレストンはその手を力強く握り、目を見据え力強く言い放つ。
「はい。最高の走りで勝ってきます」
手を離すと地下バ道に向かっていく。その姿は活力に満ち溢れていた。
「何か約半年前なのに随分と懐かしい気がする」
「そうやな。あの時は3連勝しなあかんって吐きそうやったわ」
「そうだったの?それで白ちゃんからダンスパートナーちゃんのヘアピン貰ったんだよね」
「そうだった。そういえばダンスは来てないのか?これこそ仇討ちレースやろ」
「香港に行くために休み取っていたけど、会社でトラブルが続いて休み潰されて働いているみたい。恨み言たっぷりのメッセージが届いていきた」
「あいつも大変やな」
トレーナーは思わず憐れむと同時に、教え子も社会人なのだなと感慨にふけっていた。
「それで、白ちゃん大先生のパドック診断ではプレちゃんどう見えた?光って見えた?」
デジタルは期待で目を輝かせながら問いかける。その期待とはプレストンが絶好調であるということだろう。レース前にテンションを下げてはならない、トレーナーは言葉を選びながら答えていく。
「結論から言えば、光ってはいなかった」
「そう……」
「だが前にも言ったが、俺の目はまだまだ節穴や、光ってなくても光っていたウマ娘に勝つことなんてしょっちゅうや。ストリートクライも完全に見誤ったしな。それに今日のプレストンは最高にキレとる。あまりの調子の良さにファン達もどよめいておった。素人でも分かるほど絶好調ということや」
光っていないと聞いて落ち込んだ表情が見る見るうちに明るくなっていく。
分かりやすい奴だ。勝ちたいならライバル候補の調子が良いと聞けば、厄介だなとか骨が折れるとか思うはずだが、そんな感情が欠片も見えない。
改めてデジタルは勝敗が最優先ではなく、最高のプレストンを感じることが最優先であることを実感する。
「だよね~あたしもすれ違った時にプレちゃんは絶好調だと感じたけど、白ちゃんもそう思っていたのか、良かった良かった」
デジタルは上機嫌でニコニコしている。本音を言えば調子を落としてくれることを期待していたが、相手が絶好調な事でデジタルのテンションも上がっている。これはこれで良かったのかもしれない。
「じゃあ行ってくるね」
「ああ、今日のエイシンプレストンは極上や。思う存分感じてこい」
「うん!」
デジタルはトレーナーに手を振ると、スキップ交じりで地下バ道に向かっていく。
遠足気分かと内心でツッコミながら後ろ姿を見送ると、関係者席に向かおうとした時にプレストンのトレーナーと目が合った。お互いは近寄り会話を始める
「どうも、エイシンプレストンは絶好調ですね」
「ここが目標ですから、仕上げられてホッとしています。アグネスデジタルも随分と調子を上げてきましたね。ドバイから1ヶ月でここまで仕上げるだなんて、流石ですね」
「いや、やっとこさエイシンプレストンと同じ土俵に立てた程度です。それにしてもプレストンが1番人気じゃないだなんて意外でした。ゴドルフィンのグランデラなんて成長途上とはいえ、サキーに7バ身ちぎられた選手ですよ。手前味噌ですが、1番がエイシンプレストンで2番がデジタルで妥当ですよ」
「まだ日本は劣っていると見られているのでしょう。ですが、このレースが終わればここに居る観客と関係者の目は変わるでしょう」
「そうですね」
2人は笑みを浮かべながら和やかなに会話を交わしながら関係者席に向かう。その様子はとてもこの後に勝敗を争う選手のトレーナー同士とは思えないほど穏やかっだった。
「北さん、お礼を言うのは見当違いだと思いますが礼を言わせてもらいます。絶好調のエイシンプレストンと走れることはデジタルにとって最高で楽しい体験になり、一生の思い出になるでしょう」
「こちらこそお礼を言わしてください白君。ドバイの激走からここまで仕上げてくれて感謝しています。ライバルとは余裕のある勝利ではなく、接戦で勝つことで達成感を大きな味わえるでしょう」
接戦で勝つことで大きな達成感を味わえる。これはある意味勝利宣言だった。
プレストンのトレーナーがこのようなビックマウスを吐くことは珍しかった。自身の仕上げとプレストンの能力からくる自信だろう。
人によっては不快に感じることがあるが、その穏やかな口調から紡がれる勝利宣言は不思議と不快感はなかった。
「そうですね。接戦での勝利こそ達成感を味わえますから」
デジタルのトレーナーは含みがあるように呟く。デキはプレストンより落ちているが、それを跳ね除ける力を持っているという自信か。
冷静に戦力を分析するのもトレーナーの資質だが、自分の教え子が勝つことを信じ抜くのもまたトレーナーの資質だ。
「答えはあと数10分後に出ます、私達はその結果を見届けましょう。それに1ファンとしてもこのレースは楽しみですし」
「私もです」
トレーナー達は席に座りデジタルとプレストンがコースに出るのを待った。
───
『暮れのシャティンで驚異のパフォーマンスを見せたウマ娘が再び帰ってきました!私の名前を覚えていますか?5枠エイシンプレストン!』
プレストンはゆっくりと芝の感触を確かめながら入場していく。やはりこの気温のせいか芝が硬くスピード決着になるだろう。
さらに入念に芝を踏みしめながら歩いていく、今度は芝の感触を確かめるのではなく、感触を楽しむために。1歩踏みしめるごとに心地良い感触が体中に駆け巡る。
やはりシャティンの芝は良い、1回しか走っていないが日本のどのレース場よりフィットする。前世の自分は香港で良い事が有ったのかもしれない。そんなレースに関係ない事を考えているとプレストンを呼ぶ観客の声が聞こえ思わず笑みを浮かべる。
去年までは無名だったのに随分と人気になったものだ。 それだけ自分の存在が特別になったということか、ならばこのレースも勝ってさらに特別になってやる。
そして一瞬だけ地下バ道に目線を振り返るが、すぐに振り向き歩き始める。
『勇者再び見参!世界のエースと互角に渡り合った力を見せつけるのか!?13枠アグネスデジタル!』
見覚えのある高層ビルに見覚えのある山々、この人工物と自然が交じりあるレース場にまた来た。
デジタルは懐かしむように辺りを見渡し、香港カップのことを思い出す。
客席で見ているダンスパートナーに声をかけて、トブークと会話を交わして。あのレースは楽しかった。
そして今日はあの時と同等、いやそれ以上の楽しい体験が待っている。プレストンを見たいという欲求にかられるが、なんとか我慢する。
レースが始まれば幾らでも眺められる、それまではお預けだ。極力目線を合わせないようにゲートに向かった。
───
「まだレースが始まっていない、良かった~」
スペシャルウィークは息を切らしながらテレビを付けチャンネルを回すと、ゲート入りしているウマ娘達の姿が映り、安堵の息を漏らした。
スペシャルウィークはトレーニングの最中だったが、トレーナーに頼み込んで休憩時間をもらい、クイーンエリザベスⅡ世Cを見る為にチームルームに向かっていた。
本当ならパドックを見る時間まで休憩時間をもらえる予定だったが、ゴールドシップがトラブルを起こし、その対処に時間が掛かりレースギリギリになってしまった。
スペシャルウィークの脳裏には落ち込んでいたデジタルの姿が思い浮かぶ。
プレストンが部屋を出て行き理由を知りたいと相談してきた。自分は思いついたことを口にしただけだったが、それが悩みを解決する切っ掛けになったらしい。
エイシンプレストンは最高の姿を見たいデジタルのために、全力で仕上げ全力を尽くす。
デジタルもプレストンの最高の仕上げに報いるために、全力で仕上げ全力を尽くす。
レースに走る選手は誰しもが自分の夢や欲望を叶えたいという想いを抱いて走る。
だがこの2人はそれ以外に相手のために走るという想いも抱いている。それはとても素敵な事だ。すると画面では全員がゲートに入りスタートを切った。
デジタルとプレストンの気持ちが報われるようなレースでありますように。
スペシャルウィークは願いながらレースを見守る。