『アグネスデジタル!GO!GO!GO!』
残り100メートルをきって前のウマ娘まで1バ身、デジタルは力を振り絞り追走しゴール板直前で僅かに差し切った。
『良い走りだ!グッドガール!グッドガール!』
ニールセンは走り終えたデジタルに駆け寄り、汗が着くのをいとわず抱き着き頭を荒々しく撫でる。
そして今度は一緒に走っていたウマ娘の元に近づき同じように抱き着き頭を荒々しく撫でて褒めていた。
ニールセンは基本的にスパルタだが良い走りをするとこうやってハグをして褒めて労う。トレーナーはこんな褒め方は絶対にしないなと考えながら、次のトレーニングに向けて準備を始めた。
休養期間を終えたデジタルはアーリントンに向かった。サキーとデジタルが出走を予定しているブリーダーズカップクラシックだが、今年はアーリントンレース場で行われる。
現地の環境への馴れとトレーニングを兼ねてトレーナーの友人であるニールセンの元に預けられ、短期留学という形で合宿を行っている。
こういう形でアメリカのウマ娘を内側から感じられるとはと感慨にふけながらトレーニングに励む。
違うトレーナーの元でいつもと違うメニューでアメリカのウマ娘達とトレーニングをすることはデジタルにとって良い刺激になっていた。
『ねえアグネスデジタル、これからアイスクリームでも食べに行こうよ』
デジタルはカロリー計算をする。トレーナーは体重には人一倍煩く指定された体重をオーバーすればお叱りを受けてしまう。今日の練習量なら少しだけ食べても大丈夫だろう。
ニールセンの元で1週間に来たがチームメイト達とそれなりに打ち解けていた。
この栗毛のウマ娘とはウマ娘好きとして気が合い、お互いの国のウマ娘の事を教え合う仲になっていた。
『いいよ、でもレース見てからでいい?』
『ああ、キングジョージでサキーが走るんだっけ?OKチームルームで見よう』
デジタルは了承を得ると2人でチームルームに向かった。
【サキーだ!1着はサキー!上半期芝ダートの2大レースを制覇!グランドスラムまで残り2つです】
『ヤッター!サキーちゃんが勝った!』
サキーが1着になった映像を見てデジタルは飛び跳ね自分の事のように喜ぶ。
ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、ブリーダーズカップクラシック、この世界4大レースに勝って、全てのウマ娘と関係者を幸福に導くという夢に向かった一歩前進したのだ。喜ばずにはいられない。
『勝っちゃったよ、負ければいいのに。確か次は凱旋門でその次はブリーダーズカップクラシックだろ。ゴドルフィンといえば今年から創設されたブリーダーズカップマラソンにはストリートクライも来るんだろ』
栗毛のウマ娘は苦々しく呟く。ストリートクライは既にダート2400メートルのブリーダーズカップマラソンに参戦表明している。
ドバイワールドカップで殻を破り、アメリカのダートGI1800メートルスティーヴンフォスターHでは2着に6バ身半の大差で圧勝、次のダートGI1800メートルカーペンターHでも勝利し前評判では本命にあげられている。
初めて会った時は全く印象に残らなかったが、ドバイワールドカップを経て普段は大人しいがレースでは感情むき出しにして走るギャップや友人のキャサリロとの美しい友情物語など、推しポイントが爆上がり中の注目ウマ娘である。
『なんで来るのかな』
栗毛のウマ娘は不満げに呟く。ゴドルフィン所属のウマ娘は基本的にアメリカでは人気が無い。原因としてはゴドルフィンが本拠地を置くUAEとアメリカの両国の仲が悪いのがあげられる。
『それにディズナウが間に合うか微妙だからな』
ディズナウはアメリカでは絶大な人気を誇っているウマ娘であり、その人気はウマ娘に疎い者も知っているほどだ。
国民的スーパースター、リアルアメリカンヒーローとも呼ばれ、ある意味サキーの理想ともいえる。
その人気の理由はブリーダーズカップクラシック2連覇という偉業とその内容にある。
ブリーダーズカップクラシックはアメリカの誇りである。このレースに勝った者に与えられる名誉は計り知れない。
一昨年はいつもと少しばかり事情が違った。欧州の刺客、圧倒的なタフネスでGIを勝ち鋼の女と異名をとるジャイアンツコーズウェイが参戦してきた。
ブリーダーズカップはアメリカの象徴であり誇りだ。それを他国のウマ娘に取られるというのは自由の女神が粉々に砕けることに等しい。
レースでは圧倒的な勝負根性を誇るジャイアンツコーズウェイを壮絶な叩き合いの末にねじ伏せた。
そして昨年はサキーが参戦した。あの事件があったニューヨークから近くのレース場で、アラブ圏を本拠地とするゴドルフィンにBCクラシックを奪われる事があればショックは昨年の比ではない。
だがティズナウは昨年のレースと同様に壮絶な叩きあいの末にサキーをねじ伏せた。その際にレース実況が叫んだ「Tiznow win it for America」のフレーズはティズナウのキャッチコピーの1つにもなっている
これらの活躍は宛ら英雄譚で、活躍は映画化され国内の興行収入の歴代1位を記録していた。
『アグネスデジタルもブリーダーズカップに出るんでしょ!万が一サキーのビッチが勝ちそうだったら絶対に1着になってね!』
『でもアタシ日本所属だよ。いいの?』
「よくないけど、ゴドルフィンに勝たれるより100倍マシ!それにアメリカ出身だからいいの!」
『サキーちゃんもアメリカ出身なんだけど』
『それとこれは別!』
栗毛のウマ娘は目を血走らせながら詰め寄る。ゴドルフィンはこんなに嫌われているのか、サキーちゃん可哀そうだなと思いながら、宥めすかしチームルームを出ていった。
───
『もしもし、サキーちゃん。今大丈夫』
『大丈夫ですよ』
『キングジョージ優勝おめでとう。本当なら現地で見たかったんだけどね。今はアーリントンでトレーニングしているから』
『ありがとうございます。こうしてお祝いの電話をくれただけでも嬉しいです』
デジタルはレースが終わった後サキーに電話をかけた。時差を調べて出やすい時間帯にかけたが、祝勝会などで出る可能性は低いと思ったが幸運にも出てくれた。
『アーリントンでの生活はどうですか?』
『うん、楽しいよ。ニールセンさんのチームのウマ娘ちゃんも皆いい子ばかりだし。そういえばストリートクライちゃんも勝ったね』
『はい、強かったです。ドバイで殻を破ってからは手が付けられません。ブリーダーズカップマラソンでもいい成績を残すでしょう』
『きっとこのまま連勝で挑むんだろうな。サキーちゃんも凱旋門賞勝って来るだろうし、アタシも南部杯勝たないとね』
『まだ凱旋門賞は勝ったわけではないですが、そうなるように頑張ります。そういえばそのナンブハイというレースは見られますか?デジタルさんが是非とも走りたいという相手とのレースは気になります』
『見れるよ。あとでアドレスを送るよ。あと聞かなきゃいけないことがあったんだ』
デジタルは南部杯の話題で今日電話をしたもう1つの要件を思い出す。
『そういえばゴドルフィンが日本に支部を作るんだって?』
『はい、そういう話を聞いていますが』
『いや、ヒガシノコウテイっていう友達のウマ娘ちゃんがそこでトレーニング受けたくて、サキーちゃんに口添えしてもらいたいってお願いされたんだけど、できる?』
ヒガシノコウテイはゴドルフィンのトレーニングを受けると決意した後、アグネスデジタルに電話した。
サキーと友人であることは知っていて、そのコネを生かせばより確実にトレーニングを受けられると考えていた。
デジタルはヒガシノコウテイから言付けを預かりそれを伝えた。
『どれだけ影響が有るかは分かりませんが、伝えておきます。これでもそれなりに力があるというか、少しばかりのおねだりは通る立場ですから』
『ありがとう。助かるよ』
『でもデジタルさんはそれでいいんですか?』
ゴドルフィンで行われるトレーニングは最新の理論と技術を駆使した世界最高峰のものだ。
ヒガシノコウテイがそれを行えば強くなる可能性はあるだろう。そして次走の相手でもある。これでは相手に塩を送っているではないか。
『だって、ヒガシノコウテイちゃん凄く困ってそうだったし、それに困ったウマ娘ちゃんが居れば助けてあげないと』
『ぷ…そうですね』
サキーは笑いを堪えながら返答する。そうだアグネスデジタルとはこういうウマ娘だった。
自分と同じようにウマ娘を愛している。そして愛するウマ娘の為なら自分の利益を重要視しない。
『サキーちゃんだって、同じことが起きたらあたしと同じ事するでしょ?』
『そのウマ娘が幸福になるなら喜んでやるでしょう』
『流石ウマ娘ラブ勢』
『私は世界中のウマ娘の皆さんとトレーナーなどの関係者の方々と世界中のウマ娘レースを応援して下さるファンの皆様を愛してますから』
サキーは自身の口上をおどけるように言う。デジタルは思わず笑みをこぼし、そこからの会話は和やかに進んだ。
───
「初めまして、ヒガシノコウテイです」
ヒガシノコウテイが挨拶すると周りのウマ娘たちはざわつき訝しみながら視線を送る。
彼女たちはゴドルフィンから日本や世界各国からスカウトされ鍛え上げられ、中央や地方のGIを取りゴドルフィンの力を示そうと送り込まれる尖兵である。
彼女たちはまだデビュー前の若者だ、その中に既にデビューし何年も経過したウマ娘がいる。ここは設立したばかりでデビュー前のウマ娘しかいないのではないのか?何故そんなウマ娘がいるだろうと思っていたが、ざわめきの原因はそれだけではなかった。
ヒガシノコウテイが纏う空気、他者を寄せ付けず何か執念じみたその空気にあてられ、ざわついていた。
一方ヒガシノコウテイは他のウマ娘達のことを気にすることなく、他の者が並んでいる列に入った。
ヒガシノコウテイはアグネスデジタルの口添えもあって、ゴドルフィンの育成施設に入ることはできた。
条件は南部杯に勝てたらゴドルフィンの育成施設の有用性をアピールすること、そして賞金の半分を渡すこと。
高い施設利用料を払ってさらに賞金まで持っていく、完全に足元を見ているが気にしない。身入りが減っても構わないし施設料も今まで貯めていた賞金を使えば何とか払える。
南部杯に勝てさえすれば何だっていい。こちらも得してゴドルフィンも得する。ウィンウィンだ。こうしてヒガシノコウテイのゴドルフィンでの生活が始まった。
ゴドルフィンでの生活は岩手の時とはまるで違っていた。長さ1000メートルにも及ぶ坂路コース、傾斜が異なった複数のコースがあり、日本の主要コースの傾斜が同じらしい。
他にもレースで必要な筋肉を鍛えるためにプールで泳いだりするが、そこには水泳専門のコーチがおり、負荷をかけるために逆流を発生させる装置もある。
他にも体づくりに必要な食事や栄養剤を提供する栄養管理士やスタッフ、トレーニング映像を録画し解析する分析班、ここにはトレセン学園と同等の施設が揃っていた。ましてや岩手とは月とすっぽんという言葉でも足りないぐらいである。
そんな最高級の施設でヒガシノコウテイは一心不乱にトレーニングをした。
「しかしヒガシノコウテイは凄いですね」
スタッフルームで今日のウマ娘達のトレーニング結果と今後の指針を検討し合っていたスタッフ達だが、ある1人がポツリと呟く。
「集中力がずば抜けています。トレーニングの全てを吸収しようと神経を張り巡らし思考を展開しています。今のメンツも賞金で家族を養わなければというハングリー精神が強いのも居るんですが、それらより貪欲です。どうやったらあんな風になるのか。正直ボクも接していて怖いです」
「分かる。あとヒガシノコウテイが他のウマ娘と喋っているところ見たことがない。別にここは仲良しクラブでもないから馴れ合えとは言わんが、それでも仲のいいグループを作りトレーニング時間外では息抜きしている。そうしないとパンクするからな。でもしない」
その発言を皮切りにそれぞれがヒガシノコウテイについて喋り始める。その存在は長年ウマ娘の育成に関わってきたスタッフ達にとっても異質だった。
トレーニング中に見つめるその目、もっと教えろもっと寄越せと強くなるための術を全て根こそぎ奪おうと脅迫しているようだった。
職務としてウマ娘達が強くなるために全てを教えなければならないのだが、それとは別の感情で教えているようだった。
「ヒガシノコウテイは何でここに来たんでしたっけ?」
「確か南部杯というレースに勝ちたいからだと」
「南部杯って確かダートGIレースですよね。それだったら普通フェブラリーステークスやジャパンカップダートですよね。賞金も価値も高いですし」
「分からんよ地方のウマ娘のことは」
この発言以降ヒガシノコウテイの話題は出ず、他のウマ娘の話題に移った。
ゴドルフィンの宿舎の1室、ヒガシノコウテイは1人机に向かいながらペンを動かしていた。
基本的には1室に2人で生活するのだが、ヒガシノコウテイのあまりの近寄りづらさにルームメイトが頼むから部屋を移してくれと懇願し、結果物置にベッドと机を置いたような場所に移動させられた。
今書いているのは今日のトレーニング内容とスタッフの言葉だった。岩手に居たときはこのようなことをしなかったが、ここに来てから始めた。
岩手ではゴドルフィンの施設を作ることは不可能だ、しかし技術は伝えられる。
岩手のウマ娘や後に続く後輩のために少しでも技術を盗み伝える。自分に教えられた技術はもちろん、他のウマ娘に教えている技術も記憶しノートに記していた。
他人に教えるためには自分で完璧に理解しなければならない。強くなり皆に伝えるために極限まで集中しトレーニングを行っていた。
ゴドルフィンでの生活はまるで囚人、いやそれ以上に過酷だった。他人と交わらず娯楽などで精神の癒しを求めず、生活の全てを強くなるために費やす。
ヒガシノコウテイはそこまでストイックな人間ではない。仲間たちと語り合い、トレーニングやレースで苦楽を共にし、プライベートでは遊んでふざけて笑って、そんなごく普通の若者が送る青春の1ページのような生活を送っていた。だがここに来て全てを捨てた。
このような生活を好きでやっているわけではない。岩手での生活を恋しく思うこともあるが一瞬で奥底に沈めて鍵をかける。
これは罰だ。弱いせいで純性を保てず『私達』のヒガシノコウテイを捨てた当然の報いである。
ヒガシコウテイは自傷行為のように没頭しノートを書き続けた。
───
メイセイオペラは車から降りると目の前のクラブハウスを見上げる。汚れ1つ見当たらない新築の外観に中心には青のエンブレム、ここがゴドルフィンの外厩か。
かつて現役時代には福島にある外厩でトレーニングをしたが、このクラブハウスを見ただけで質や規模が上であると見て取れる。そしてしばらく見るとクラブハウスに向かって歩を進めていく。
ヒガシノコウテイがゴドルフィンの外厩に入ってから全く連絡が取れていなかった。
両親達は比較的に放任主義で、便りがないのが良い知らせと連絡を催促するなどは特にしなかった。
メイセイオペラもそうだろうと言い聞かせていたが、時が経つ事に言いようのない不安が膨れ上がっていく。
日々不安を募らせるなかでヒガシノコウテイの様子を見に行こうと決意し、両親の代わりに面会するという名目でゴドルフィンの外厩にアポイントメントをとりレンタカーを借りて向かった。
クラブハウスに入ると新築独特の匂いが漂う。内装は想像していたものと異なり、どこか中東のような雰囲気を漂わせている。ここだけ日本ではなく中東のどこかのようだ。
「すみません。メイセイオペラと申します。本日ヒガシノコウテイとの面会を約束したのですが」
「メイセイオペラ様ですね。少々お待ちください」
受付に向かい予約の確認をすると受付の人間が端末を見て何かを確認している。
予約の確認が取れたのか、受付の人間が席を立ち応接室のような場所に案内してもらい席に着いた。ソファーや机などは高級品だが、国際色はなくごく普通の応接室だった。
メイセイオペラはスタッフが出してくれた紅茶を飲みながらヒガシノコウテイが来るのを待つ。
ヒガシノコウテイは決して外向的な性格ではない。地元から出たこともなくずっと岩手で生活してきてきた。外厩でのトレーニングは転校のようなものだ。
噂では日本人だけではなく、ほかの国からもこの外厩に来ているらしい。さらに言えばここは開設したばかりで、トレーニングしているのはデビュー前のウマ娘ばかりだそうだ。
そんな中1人だけ地方出身で年齢が離れているヒガシノコウテイは馴染めているだろうか?別に一生ゴドルフィンの外厩で暮らすというわけではないが、短い間でも快適に楽しく過ごしてもらいたい。
色々と心配している間に扉の外からノックが聞こえて扉が開き、ゴドルフィンの青のジャージを着たヒガシノコウテイが現れる。その姿を見た瞬間思わず立ち上がり手で口を覆う。
肌ツヤは良く体もトレーニングの成果か全体的に大きくなっているのがジャージ越しでも分かる。良いトレーニングができているのが分かる。
だがあの表情は何だ?ヒガシノコウテイは大人しくて少し内向的だが、素朴ではにかむ姿が可愛い少女だった。今はその面影は全くない。
表情は笑っているが以前に感じたような心が温かくなるような笑顔ではない。まるで深い深い闇に沈み込んでしまったようだ。
「何があったの?」
「別に。南部杯に勝つためにトレーニングしていただけだよ」
ヒガシノコウテイはボソリと呟く。声はいつもと変わらないが、まるで減量で全てを研ぎ澄ましたボクサーのような凄みを感じる。それと同時に全てを手放すような拒絶の意思を感じた。
「テイちゃん、岩手に帰ろう」
メイセイオペラは真剣味のある声で喋る。何が起こったか知らないが、ここに居続ければ間違いなく不幸になる。
岩手に帰って仲間と一緒にトレーニングして、地元の皆から応援されるいつも素朴なヒガシノコウテイに戻るべきだ。手を掴み部屋から出ようとするがその手を振りほどく。
「ダメだよ、オペラお姉ちゃん。もう戻れないよ。私はもう『私達の』ヒガシノコウテイじゃなくなったの。もう勝つしかないの」
ヒガシノコウテイは自己暗示をかけるように呟く。その声と悲痛な面持ちを見てメイセイオペラの心は万力のように締め付けられる。
ダメだ。このままでは絶対にダメだ。振りほどかれた手でもう一度握り返して叫ぶように話しかける。
「そんなことない!皆はテイちゃんの事を『私達の』ヒガシノコウテイだと思ってくれる!」
「違う!私はオペラお姉ちゃんを知っていたから、外厩を使っても『私達の』メイセイオペラと認められた!でも知らなかったら認めず地方を捨てた裏切り者だって恨んでた。だから私はほかの人にとって岩手を捨てたウマ娘で『私達の』ウマ娘じゃなくなった!だから偽りでも少しでも認めてくれる人の為に勝つしかないの!」
ヒガシノコウテイは明確にはっきりとした口調で拒絶する。その思いの丈を聞いた瞬間メイセイオペラは握っていた手を離し悟ってしまう。
ヒガシノコウテイは誰よりも純粋で地方を愛していた。その愛が自家中毒のように蝕み地方の純性を失った自分を責め立て拒絶する。
もはや『私達の』ウマ娘ではなくなり、南部杯に勝つしか岩手に貢献できないと思ってしまっている。その意志は強固でもはや誰の言葉も届かない。
「私は大丈夫だから、もう来なくていいよ。オペラお姉ちゃんの姿を見ると安らぐし、話していると楽しくなっちゃう。私には楽しむ資格はない。楽しいも嬉しいも全部捨てて強くなる」
ヒガシノコウテイは部屋を出ていく。メイセイオペラはその姿を黙って見ることしかできなかった。
───
「どうも福留さん、ご無沙汰です」
「やあ最上さん。ご無沙汰です」
「しかしメイセイオペラから呼び出しなんて、何の用ですかね?」
「え?協会からの報せじゃないの?」
「はい、協会は関知していません」
ここ岩手ウマ娘協会の本部にある会議室の1室、そこに岩手ウマ娘協会広報兼企画担当の最上をはじめ、岩手ウマ娘界に関わりがあり、ファンの中でも中心人物や顔役的存在がメイセイオペラによって集められていた。
メイセイオペラは文字通り岩手ウマ娘界のスターであり、そして現役時代も様々なサポートを行い親交もある。
スターであり愛するウマ娘に呼び出されたとあらばファンとしては何が何でも予定を空けてはせ参じなければならない。
それぞれが期待と不安を抱きながら席に着き、メイセイオペラの到着を待っていた。
「失礼します」
黒のスーツを来たメイセイオペラは扉を開け一礼して入室し部屋の上部中央に向かう。その一動作だが会議室に居た人々は気づく。
メイセイオペラは誰にも分け隔てなく優しくいつも笑みをこぼし柔らかな印象を持っていた。だが今のメイセイオペラは笑顔がなく特有の柔らかさを失っているようだった。
「今日はお忙しい中お越しくださり誠にありがとうございます。本日は皆様にあるお願い、そして岩手ウマ娘協会に許可を頂きたいことがございます」
メイセイオペラは会議室を見渡し来た人間と広報の最上に視線を送る。そして深く息を吸った。
「10月に行われる南部杯で、1つは盛岡レース場を満員にヒガシノコウテイや岩手のウマ娘達に大声援を送っていただきたい。そして他の出走ウマ娘にブーイングをして頂きたいのです、そして岩手ウマ娘協会にその許可を頂きたい」
会議室は数秒の沈黙の後ざわめく、その願いは余りにも予想外のものだった。
「えっと、ブーイングというのはスポーツでやるブーブーって言うあれですか?」
「はい、知らない方も居ると思いますので、本日は参考資料を持ってきたのでご覧下さい」
メイセイオペラはビジネスバッグからノートパソコンを取り出すとプロジェクターに接続し、スクリーンに下ろし映像を再生した。
その映像にはパドックを歩く特定のウマ娘に情け容赦ないブーイングを浴びせる様子が映っている。言葉は日本語ではなく英語で、日本人でも知っている放送禁止用語が飛び交っていた。
これは去年行われたアメリカの最高峰レースの1のブリーダーズカップクラシックのパドック映像である。
ブーイングを浴びているのはこの日の1番人気のサキーである。あまりの苛烈さに画面を通しても動揺しているのが分かる。そして映像は本バ場入場に変わり、そこでも同じようにブーイングを浴びせていた。
「これをやれと?」
「これほどまでの過激な罵倒は流石にやりすぎですが、罵倒はせずこれぐらいの熱量でブーイングをやっていただきたいのです」
メイセイオペラの言葉に会議室は騒めく。サッカーなどでは地元のファンが相手チームにブーイングを浴びせるということはある。だがトゥインクルレースにはブーイングの文化はない。
会場の人々が好きなウマ娘に声援を送り、レースが終われば健闘を讃える声援を送るのが日本の文化だ。そして岩手は中央より牧歌的で尚更ブーイングとは縁がない文化を形成している。
さらにメイセイオペラがこの提案をしたというのがざわめきに拍車をかける。
ブーイングは人に悪意をぶつける一種の攻撃行為だ。そしては虫を殺せないを地に行く性格であることは岩手の人間なら誰でも知っている。この提案はまさに驚天動地である。
「メイセイオペラちゃん、それはちょっと……」
「こんなのどこのレース場でもやってないしね…」
「ちょっと品がないというか…」
参加者は次々に否定的な意見を口に出す。こんなことをしたら世間から非難を受ける。岩手の評価が下がる。そんな考えが頭に過ぎっていた。
メイセイオペラはその様子を見て顔を歪ませると目の前にある机に拳を全力で叩きつけた。発せられる音に驚きメイセイオペラに視線を向けた。
「ヒガシノコウテイは岩手を離れて、ゴドルフィンのトレーニング施設で練習しているのを知っていますか?」
参加者は一同に頷く。ヒガシノコウテイが岩手を離れてほかの場所でトレーニングをしているのはファンの間では周知の事実である。参加者の中にはこの選択に落胆した人間もいた。
「ヒガシノコウテイはとても純粋な子です。岩手の皆が愛し応援してくれて、皆が誇れる『私達の』ヒガシノコウテイであろうと頑張っていました。そして皆が地元のウマ娘が南部杯に勝ってほしいという願いを抱いているのも知っています。南部杯に勝つためには外の力を使わなければならない。でも岩手を離れて他の場所でトレーニングをすれば、『私達の』ヒガシノコウテイではなくなるのを恐れていました」
脳裏には相談しにきた時の光景が思い浮かぶ。誰よりも岩手を愛していたがゆえに誰よりも岩手である純性を重んじていた。
純性を失うことに恐怖し涙目になりながら『私達の』ヒガシノコウテイで居たいと縋りついていた。
「そして決断の末に純性を捨ててでも南部杯に勝ちたいとゴドルフィンの門を叩きました。そこで必死にトレーニングして…そこでテイちゃんは全てを捨てて……」
喋るのを止めて涙を拭う。そこにいたのは変わり果てたヒガシノコウテイだった。
南部杯に勝つために楽しさも嬉しさも全て捧げるように感情を失いトレーニングに励む姿はまるで純性を手放した自分を罰するようだった。
「私達がテイちゃんを追い詰めた……本当なら南部杯に負けてもいい、自分が好きなようにすればいいと言ってあげればよかった。でもテイちゃんが南部杯に勝って岩手の誇りを守ることを望んでしまった……皆さんも……そして私も……」
ヒガシノコウテイは岩手を愛し皆のために走ることは好きでやっていることは否定しない。だがここまで追い詰めてしまうことまでやることなのか?
こんなことになるなら、あの時に何としてでもゴドルフィン行きを阻止すべきだったのだ。過去の自分を殺したい。
「テイちゃんはもう止まれない。このまま岩手で送れるはずだった幸せな日々を捨てて鍛え続けるでしょう。だったら私達がやることは!テイちゃんに南部杯を勝たせて『私達の』ヒガシノコウテイだと言ってあげることです!」
メイセイオペラは涙を机に落としながら叫ぶ。今のヒガシノコウテイは誰が何と言おうがゴドルフィンで自傷行為のように鍛え続けるだろう。そしてもし負けたら全てが無駄になる。それはあまりにも可哀想すぎる。
ならばやる事は1つ、ヒガシノコウテイを勝たせることだ。それが追い詰めてしまったことへのせめてもの罪滅しだ。そのためなら鬼にだって悪魔にだってなる!
「そうだ!俺たちはヒガシノコウテイに背負わせすぎた!南部杯に勝って岩手の誇りを守ってくれと願いながら何もしなかった!いい大人が情けねえと思わねえのか!俺たち大人が荷物を背負ってやるんだよ!」
福留は立ち上がり訴えかけるように叫ぶ。その思いに呼応するように次々席をと立ち上がり自身の思いを喋りメイセイオペラの提案に賛同していく。会議室は熱を帯び皆の心は1つになっていた。
「ですが岩手ウマ娘協会が拒否すればブーイングは致しません。最上さんどうかヒガシノコウテイを勝たせるためにブーイングすることをお許し下さい」
メイセイオペラは最上に向かって深々と頭を下げる、それに釣られるように参加者達も次々と頭を下げていく。広報の最上は頭が上がるのを見計らって静かに喋り始める。
「責任は全て請負います。皆さんは思う存分やってください」
最上の言葉に会場から安堵のため息が漏れる。
岩手ウマ娘協会はオグリキャップのように輝かしいスターを求めていた。
そして幸運にも連勝記録を作り岩手の名前を広めてくれたトウケイニセイ。地方所属で中央のGIを制覇するという偉業を成し遂げてくれたメイセイオペラ、そしてヒガシノコウテイという新しいスターが生まれた。
だが彼女達は否定するかもしれないが、それらのウマ娘は岩手ウマ娘協会が育てたわけではなく、岩手に在籍してくれたにすぎない。
ヒガシノコウテイは強くなるためにゴドルフィンの門を叩いたと聞く。本当はしたくないのにさせてしまった。
これは強くなるための環境を整えられなかった岩手ウマ娘教会の責任であり、南部杯に勝ちたいという願いだけでも叶えさせてあげるのが協会の仕事だ。
場は盛り上がり、参加者たちはどうやって観客を集めるかという議題で即席の会議を行っているなか、メイセイオペラは最上に声をかける。
「あと最上さんお願いがあるのですが」
「何ですか?」
「南部杯での集客増加の為のPR活動としてメディアに出たいのですが、何かありますか?出演料は無くてもかまいません。南部杯を勝たせるためには1人でも多くのファンが足を運んでくれることが必要不可欠なんです」
その言葉に参加者たちの会議は一瞬中断され、一斉にメイセイオペラに視線を向ける。
メイセイオペラは大人しく目立つことを嫌っていたせいか、現役時代は他のウマ娘たちと比べ極端にメディア露出が少なかった。
現役も退いても練習を見るなどして岩手所属のウマ娘のサポートをしているが、取材なども極力受けず、スターウマ娘と思えないほどひっそりと暮らしていた。
地方所属で中央GIを制覇するという偉業を成し遂げながらも全国的に知名度が低い原因の1つでもあった。
「いくつか伝手はありますが、よろしいのですか?」
「正直に言えば恥ずかしいですし気が進みません。ですがヒガシノコウテイが勝てる可能性が1パーセントでも上がるなら喜んでやります」
「わかりました。仕事もあるでしょうから、空いている日にスケジュールを組みます」
「いつでも空いています。仕事は辞めてきましたので」
その言葉に最上や他の参加者は目を見開き見つめるなかメイセイオペラは平然と言い放つ。
今のヒガシノコウテイには南部杯が全てなのだ。自分の将来や今後のことを考えて仕事を辞めずに、PR活動が疎かになるということはあってはならない。勝たせるため為になら仕事なんていつでも辞めてやる。
「分かりました。可能な限りやらせてもらいます。その際は協会が全面的にバックアップさせていただきます」
「よろしくお願いします」
メイセイオペラは再び深々と頭を下げ、最上も同じように頭を下げた。
まだ若い女性がこれほどまでの覚悟を持ってヒガシノコウテイを勝たせようとしている。ならば協会の人間としては同じ覚悟を持ってやらなければならない。最上は必勝を誓った。