真夏の日差しが容赦なく照りつける。動かなくとも汗が滲み出て、肌を焦がし体力を奪っていく。
それでも人通りは多く、商業施設に向かう若者やプールに向かう家族連れの声と蝉達の鳴き声が大音量のBGMのように耳に届く。
そして船橋レース場はそれらの音に負けないほど大いにざわついた。
アブクマポーロが船橋に帰ってきた。その現役時代と変わらない姿を見て涙ぐむものすら居た。
それだけでも大ニュースなのだが、隣にはセイシンフブキが居て談笑しながらウォームアップの手伝いを行っている。
セイシンフブキがアブクマポーロにした行為と憎悪は船橋の人間なら誰もが知っている。
何が起こったのか?昨日の1件が関係あるのか?様々な噂や憶測が飛び交いながら、周囲の人間は様子を見守っていた。
一方その視線を気にせずアブクマポーロはセイシンフブキとアジュディミツオーを座らせて話を始める。
「さて、フブキが南部杯までにしなければならないことは2つ、1つは差し追い込みの戦法の熟練度の向上だ。脚質は差し追い込みでも経験値はまるで無い」
セイシンフブキは黙って頷く。逃げには逃げの先行には先行の走りがあるにように、差し追い込みの走りがある。仕掛けのタイミング、バ群の捌きかたなど様々だ。
「そこは私の経験からある程度は教えることができる。そして後は実践あるのみだ」
実戦形式と聞いて顔を顰める。セイシンフブキは船橋のウマ娘から過去の経緯も有って嫌われている。併せのトレーニングですら誰も相手してもらえず、単走かアジュディミツオーを相手に併走するだけだった。
「練習相手は私が頼み込めば何とかなるだろう。師に感謝するんだね」
「あざっす姐さん」
アブクマポーロがニヤニヤと笑いながら恩着せがましく言ってくる。怒りが湧いてくるが練習相手の必要性は充分に理解しているのでグッと堪える。
「そしてもう1つだが。ところでアジュディミツオー君、ダートを走るのに一番必要な要素は何だと思う?」
アブクマポーロの突然の質問に慌てふためく、完全に気を緩めていた。その慌てる姿にアブクマポーロは慌てるなと柔らかな目線を送り、セイシンフブキは早く答えろと目線で急かす。
「えっと、パワーです。芝のレースと違ってダートを走るにはスピードよりパワーが必要です」
「それは確かに必要だが1番ではない、正解はダートの正しい走り方だ」
「アタシが散々教えただろう」
セイシンフブキは露骨にため息を漏らす。そんなものを教わっていないと抗議しようとするが、思いとどまる。
日頃ウェイトトレーニングをせず、ダートコースを只管走っていた。そしてウェイトトレーニングをしているウマ娘にダートの正しい走り方を習得していないのにと冷ややかな目で見つめていた。すでに答えは教えられていたのだ。
「仮に今アジュディミツオー君が正しいダートの走り方をマスターしていたら、南関3冠は取れるだろうね」
「南関3冠ですか!?」
「そして私とフブキも完璧に習得していないが、ある程度習得しているのでウェイトなどの補強運動をせず、南関東4冠やダートGIを取れる実力を手に入れた」
アジュディミツオーは2人の実力を知っている。それでも正しい走り方を完璧に身に着けていないとして、身に着けたらどれほど強くなれるのか。想像し興奮を覚えていた。
「じゃあ、ダートGIを勝ったりしているウマ娘は正しい走り方を身につけているんですか?」
「いや私見では身に着けていない」
「でも他のウマ娘達はウェイトとかしてますよね。ならどうして覚えないんですか?アタシでも覚えれば南関3冠勝てるぐらいなら、ウェイトなんてしないで正しい走り方を覚えればいいじゃないですか?」
「それは非効率なんだよ。ある程度の域は才能が有る者なら習得可能だ、だがそこからは長い時間をかけるか、余程深く技術習得に没頭しなければならない。それだったらウェイトトレーニングなどして他の要素を加えて速くなればいい。パワーも必要だし手っ取り早い」
「だから他の奴らはウェイトトレーニングをする。でもアタシ達は知っているから正しいダートの走り方を磨き続ける。分かったか。仮に弟子を名乗るならウェイトなんて楽な道に走るなよ」
長い時間と技術習得への没頭、その言葉で正しいダートの走り方を習得する困難さを実感する。
セイシンフブキは幼い頃からダートを愛しダートの事を考えていたのを知っている。
そしてそのダート愛が技術習得のために没頭する情熱を生み出す。アブクマポーロも同じだったのだろう。
「それで私の教えを基にフブキも研究と研鑽を続け、習得まであと1歩というところだろう。私も現役を離れても正しい走り方について考え続け、理論を更新し続けた。フブキの理論と私の理論を検討し合い昇華していけば身に着けられる」
「じゃあ師匠は無敵になれるんですか」
「ああ、明確に衰えるまで無敵だ」
アブクマポーロは断言した。無敵という強い言葉を吐く人では無いといのうがアジュディミツオーの印象だった。
そんな人が言うのだから余程正しいダートの走りに対する自信と、セイシンフブキが習得するという信頼が有るのだ。
脳内でアグネスデジタルや他の強豪を打ち破り、全てのタイトルを独占する姿が浮かび上がり思わずニヤける。
「まずは正しいダートの走り方の習得のために走り込み、後半は実戦形式で差し追い込み戦法のトレーニング、夜は反省会と検討会だ。これからは今まで以上にダートに没頭してもらうよ。でなければ習得できない」
「姐さん、アタシは寝る以外の時間は全てダートの事を考えているっすよ。これ以上どうやって時間を作るんっすか」
セイシンフブキは軽口を言って、アブクマポーロはそれもそうかと笑みを零す。こうしてセイシンフブキのトレーニングは始まった。
───
「何度言ったら分かる!先行と違うんだ!食らいつくんじゃなくて一気に突き放すんだ!」
トレーニング場にアブクマポーロの檄が飛び、その檄に応えるようにセイシンフブキはコーナーから加速しポジションを上げていく。直線で先行グループを捉えるとそのまま一気に突き放しゴールする。
セイシンフブキのトレーニングは厳しいものだった。前半の正しいダートの走り方の習得、一通り走ってセイシンフブキとアブクマポーロで検討して走っての繰り返しだった。
一見いつもと同じトレーニングのように見えるが疲労度は上だった。
自分の理論に加えアブクマポーロの理論についても考えながら検証して走らなければならず、思考量が増える分脳を行使し疲労度が増していた。
そして疲労した状態での差し追い込みの練習、練習相手との力量を合わせるためにということだが、セイシンフブキの能力が高い分追い込まなければならない。
極度の疲労状態であれば長年染みこませた逃げや先行の走りを無意識にしてしまう。練習で培った物が仇になってしまった形だ。
不慣れな戦法について考えながら正しいダートの走り方も実践する。これは相当難易度が高いものだった。
「ちょっとオーバーワークじゃないですか大師匠?」
模擬レースで走っていたアジュディミツオーは地面に仰向けになった蝉をひっくり返し、ナイター照明に向かって飛んでいく様子を見ながらアブクマポーロに声をかける。
弟子入りして練習を共にしていたが、ここまで疲れているセイシンフブキを見るのは初めてだった。
「只でさえ体にしみ込ませた逃げ先行の戦法から差し追い込みの戦法に変更するのは難しい。それに正しいダートの走り方も完成させなければならない。かなり厳しいだろうね、オーバーワークであることは自覚している」
「それだったらどっちか1つに絞ったらどうですか?それでも師匠は強いですよ」
「並の相手なら勝てるだろう、だがアグネスデジタルは並ではない。あのウマ娘に勝つには両方の習得が必要不可欠だ。さらにフブキにはもう後がない」
アジュディミツオーは後が無いという言葉に無言で頷く。
ダートの地位はアグネスデジタルに勝たれたことで地の底まで下がったと言っていい、そして南部杯でまたアグネスデジタルに負ければ今度こそ息の根を止められる。もはや背水の陣なのだ。
そして背水の陣のセイシンフブキの為に何も貢献できていない。
正しいダートの走り方の習得のためのアイディアや意見も出せず、模擬レースでも仮想の相手どころか誰よりも弱く頭数合わせで参加しているに過ぎない。
思わず拳を握り締め歯をくいしばる。その心境を見透かしたようにアブクマポーロは語りかける
「気に病むことはない。まず君がいなければフブキは脚質転換を決意しなかっただろう。それに君がいるだけで強くなろうと懸命にトレーニングし強くなれる。かつての私のようにね」
「そうなんですか」
アジュディミツオーは心情を理解できないといった表情を見せている。無理もない、アブクマポーロもセイシンフブキが弟子になるまでこの心情を理解できなかった。
憧れている者が見つめている。その視線は時に親よりもトレーナーよりも自分を律し高めていく。課しているトレーニングは厳しく、残り2ヶ月弱で習得できるものではない。だがアジュディミツオーの存在によって可能になるかもしれない。
「よし今日はここまでだ!ゆっくりジョグでコースを1周してからストレッチに移行するんだ」
2人が話し込んでいる間に模擬レースは終わっており、セイシンフブキは直線で先頭を捉えきれず3着でゴールする。レースに参加していたメンバーはゆっくりとコースを回っていく。
───
「おう、そこだそこ。走りはまだまだだがマッサージだけは一丁前だな」
「あざっす」
アジュディミツオーはうつ伏せになったセイシンフブキの太ももを親指で押していき、押すたびに気持ちよさそうに声を上げる。
弟子入りしてからマッサージをしているが、ここまで筋肉が硬くなっているのは初めてだ。
慣れない脚質で走ったせいで、疲労が蓄積しているのだろう。少しでも疲労が抜けるようにと丹念に筋肉をもみほぐす。
「待たせたね、今日の反省会と検討会を始めようか。私が気づいた点を言っていくから、マッサージを受けたまま聞いてくれ」
「今まで何やってたんっすか?」
「トレーニングに付き合ってくれた者達と懇談会を兼ねた食事さ、こうやって心象を良くしておけば次もトレーニングに付き合ってくれて、何か手伝ってくれるかもしれないしね」
「何か大変っすね」
「こういったことは重要だ。今は私がやるが今後は自分でやるんだ。味方は多いに越したことはない」
「うい~っす」
セイシンフブキの気の抜けた返事を無視してミーティングを始めようとするときにアジュディミツオーは恐縮そうに手をあげる。
「アタシはここに居ていいんですか、ミーティングの邪魔になりそうですし、ここの部屋狭いですし」
3人はセイシンフブキが住んでいる寮の一室にいるが、ここは1人用で3人が入ると圧迫感を感じるほど狭かった。
「お前がいなくなったら誰がマッサージするんだ。それに居てもいなくても変らない。あと姐さんとの話は今のお前では1割も理解できないだろうが、しっかり聞いてろよ。寝たら叩くからな」
セイシンフブキの言葉にアジュディミツオーは背筋を伸ばす。その様子をアブクマポーロは微笑んだ。
正直に言えばこの部屋は狭くミーティングに居ても居なくても関係ないアジュディミツオーを退室させても問題ない。
だがセイシンフブキは居るように命じた。今は分からなくともいずれ理解できる時が来るために聞かせておく、これも不器用なりに弟子を育てようとしているのだろう。
それからミーティングが始まった。内容は専門的でセイシンフブキが言ったとおり内容の1割も理解できなかった。時々眠気が襲って来るが言いつけを守るように意識を保ち、1つでも多く言葉を記憶していた。
2人は意見をぶつけ合わせ議論していた、時には語気を荒げ今にも取っ組み合いを始めそうな勢いだった。
だが昔の話題に出しただけで殺気立つような殺伐感はなく安心して見ていられる。それはまるで戯れあっているようだった。
それからもセイシンフブキのトレーニングは続いていた。疲労は溜まっていき辛いはずなのだがその表情は日々が経つごとに生き生きと輝いていた。
以前アブクマポーロに寝ている以外は全てダートのことを考えていると言ったことがある。それは今もそうなのだが、以前より深く没頭していた。
ダートについての謎を思考し検討し、解明してもまた新しい謎が現れる。その度にダートの深さを実感し、その深さが嬉しくもあり、解き明かす楽しさがあった。だが1人ではこの嬉しさも楽しさも実感できなかっただろう。
以前は1人でダートについて思考し研究していたが今は違う。同じぐらいダートを愛し研究してくれる師で有り同志が戻ってきてくれた。
いずれダートを裏切ると無意識で恐れていたが、今ではダートを裏切らないと確信できるほどの愛と情熱を持ち、必死で吸収し食らいついてくる弟子であり同志がいる。
同志と一緒にダートの深さと謎を解明した嬉しさを共有するからこそ楽しいのだ。今この時は人生で1番充実し楽しいと言える日々だった。
10月初旬、今日も模擬レースが行われていた。
セイシンフブキは道中最後尾に位置づけ様子を窺い、3コーナー付近から捲り気味に仕掛けていく。
それを合図にするように他のウマ娘も仕掛ける。セイシンフブキは疲労のピークを迎えていたがその切れ味は凄まじく併走する間すら与えない。
直線に入ってすぐに先頭のウマ娘を捉え着差を広げていき、最後は流しながら3バ身の差をつけてゴールする。
セイシンフブキは右手をグッと握る。道中の位置取り、仕掛けのタイミング、一気に突き放す力の出し方、全て上手くいった。
何より自分が理想とするダートの正しい走り方ができた。それは全ての歯車がカッチリと嵌ったような感覚だった。
アブクマポーロはこちらに向かってくるセイシンフブキを見て黙って頷いた。
「何とか完成したみたいだね」
「はい。長かったです」
「だが、今の時点で完成したに過ぎない。これからも思考し研究を続けなければ過去のものになってしまう」
「分かってますよ」
「そしてありがとう。私の理想を実現してくれて」
アブクマポーロは手を伸ばす。正しいダートの走り方を探求している途中で怪我をして引退を余儀なくされた。
セイシンフブキには正しいダートの走り方についてレクチャーはしていたが、未熟で理解していない。もうこの走りを実現してくれる者は居ないと諦めていた。
だが未練を断ち切れず探求し続けた。そしてセイシンフブキも自分なりに正しいダートの走り方について思考し検証し実践していった。
お互いがそれぞれのアプローチで追求し、そして2人の理論を重ね合わせ検証しついに完成したのだ。
「あの~1つ疑問が有るんですけど」
アジュディミツオーはこの良い雰囲気を壊したらマズイと思いつつ、頭に浮かんだ疑問の答えを知りたい欲求に駆られ質問する。
「どうした?」
「正しいダートの走り方を習得したみたいですけど、でもそれって船橋レース場の良バ場での走りってことですか?本番は盛岡レース場ですよ。船橋と盛岡ではダートは違いますよ」
アジュディミツオーも自分なりに思考と実践を繰り返し、それぞれのレース場によってダート原産地や砂の深さに違いがあり、同じ原産地や深さでも気候や立地条件によって違うことに気付いていた。
セイシンフブキはアジュディミツオーの質問に感心するような素振りを見せると上機嫌に答えた。
「ほう、それなりに分かってきたな。確かに今までのトレーニングは船橋における正しいダートの走り方を習得するためのものだ。だが基礎を身に付ければ応用は利く、船橋のダートを基準にして各レース場のダートの違いを理解し調整すればいいだけだ」
セイシンフブキはさらりと言い、それを聞いてアジュディミツオーは乾いた笑みをもらす。
ダートの違いを理解し調整すればいいと簡単に言うが、それをする為には各レース場のダートについての膨大な知識と理解力が必要だ。
ダートについての知識と理解が深まったからこそ理解できる難易度、今の自分では仮に正しいダートの走り方を習得できても応用することはできない。それをできるセイシンフブキは真のダートプロフェッショナルだ。
これで準備は整った。見ていろアグネスデジタル、見ていろダートを見下している奴ら、当日はダートプロフェッショナルのセイシンフブキが勝利し世間に衝撃を与える。
その声に応えるように赤色の葉が宙に舞った。