「ただいま~」
アグネスデジタルは荷物で塞がっている両手の代わりに肘でドアノブを下げ、背中でドアを押しながらチームルームに入室する。
シューズと蹄鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。アメリカのチームルームでもシューズと蹄鉄の匂いがしたがどこか違う、この匂いがチームプレアデスの匂いで日本に帰ってきたことを改めて実感する。
「お帰りデジタル」
「久しぶり、どうだったアメリカ?」
チームメイト達は熱烈な歓迎をするわけでもなく、昨日ぶりといった具合にいつも通り声をかけてくる。
アメリカでは派手に送別会をしてもらったので温度差に少し戸惑うがこの自然体な対応も心地よかった。
「ユニバーサルスタジオとかディズニーランドとか行った?」
「別に遊びに行ったわけじゃないんだよ。ちゃんとトレーニングしたし、それにディズニーランドとかは小さい時に何回か行ったし」
「さらりと羨ましい発言するな」
「そういえばデジタルはアメリカ出身だった」
デジタルはチームメンバーと雑談しながら土産の菓子の封を開け中央のテーブルに置いていき、メンバー達は礼を言いながら菓子を食べ、トレーニング前の一時をくつろぐ。
するとノック音が聞こえ、メンバーがどうぞと声をかけるとトレーナーが入室してくる
「よし準備できたか…おっ、デジタル帰っとたんか」
「うん昨日寮に着いた。机の上にあるお土産のお菓子食べていいよ」
「遠慮しとくわ。それあの甘ったるいやつやろ、オッサンの舌には合わん。よし今日のミーティングを始めるぞ」
トレーナーがホワイトボードの前に立つとデジタル達はその場に体育座りをして話を聞く準備を整える。
「よしライブコンサートとフェラーリピサは5分休憩した後ポリトラックコースで一本追ってこい。デジタルはこっち来てミーティングや」
トレーナーはダートコースで走っていた3人に声をかけると其々は指示に従い、デジタルはトレーナーの元に小走りで向かい、フェラーリピサとライブコンサートはコースの端によって息を整える。
デジタルはアーリントンでの合宿で良いトレーニングができたのか、以前より走りにキレと力強さが加わっているのが見て取れる。
気候とコースに馴れる為にアメリカで合宿させたが、手元に居ないので細かい指示が出せないという危惧があったが、杞憂だったようだ。
「いや~2人とも強くなっているね」
「ああ、身体も出来てきてひと夏を超えてグンと強くなっとる。秋には重賞制覇と張り切っとるしな。それにお前の代わりに部屋頭としてチームを引っ張ったことで一皮むけた感がある」
「アタシ普段から何もしてないよ」
「まあそうだが、チームで1番強い奴が頑張っとると自然とチームメンバーは引っ張られていくもんや」
デジタルはふ~んと頷く。アメリカに行く前も特にそんなことを考えずトレーニングをしていたが、皆はそういう風に見ていたのか。
これからはそこら辺を意識してみるかと考えると同時に、2人がトレーニングに打ち込む姿は素敵だったなと思い出し、にやけていた。
「ほら2人のこと考えてニヤニヤするのはその辺にしておけ、今後のことを話すぞ。確認だが10月2週の南部杯に出て、3週間後のブリーダーズカップクラシックに出る。その後は香港マイルか香港カップに出るでいいよな?」
「うん。香港でプレちゃんと走れればいいけど、これは体調次第だよね。先約が南部杯とブリーダーズカップクラシックだし」
デジタルは腕を組み悩まし気に声を出す。南部杯は自分からセイシンフブキとヒガシノコウテイに走ると提案しただけに回避するわけにはいかない。
そしてサキーとはドバイで走る約束をして、プレストンとはクイーンエリザベスで約束した。時期的にサキーの方が先約だ、後のプレストンを優先するわけにはいかない。
全部のレースに出走できれば問題ないのだが、南部杯とブリーダーズカップでは力を尽くさなければならず、その反動で香港は走れない可能性がある。
もしそうなったら謝罪して、来年の香港クイーンエリザベスを走ろうと約束して許してもらおう。
「それで今後のトレーニングは南部杯に向けては坂路を中心にして、マイル向けに仕上げていく」
「わかった」
トレセン学園には芝、ダート、ウッドチップ、ポリトラックなど様々なコースがあるが、トレーナーはスプリントやマイルや前走と比べて距離短縮する場合は坂路で、2000メートル以上のレースや距離延長する場合はウッドチップやダートコースでトレーニングをする。
スプリントとマイル、マイルと2000メートルのレースはもはや別種目と考え、距離短縮してもスピードに対応できる体づくりにはインターバル走で無酸素運動をするに坂路がベストと考えていた。
逆に距離延長では走り切るスタミナをつけるために息を入れずに走り続けるコースでのトレーニングがベストと考えていた。
「その後はあの高校のグラウンドを走ったりするの」
「しない。あれはドバイのダートとスパイク蹄鉄に馴れる為や、ドバイとアーリントンのダートはほぼ同じやし、アーリントンの合宿で散々走っとるから充分、暫く走らなくても現地で何回か走れば感覚を取り戻せるやろ」
「まあ、散々走ったからね。走りまくったせいで、逆にこっちのダートコースで走るのにちょっと戸惑っちゃった」
デジタルは笑い話を喋るように返事をする。本音を言えばブリーダーズカップクラシック制覇の為にアメリカで滞在してトレーニングを積んで欲しかった。
だが南部杯に走りたいと希望するのであれば希望に沿う、但しデジタルでなければ南部杯かブリーダーズカップクラシックのどちらかに絞れと根気よく説得していただろう。
普通のウマ娘ならアメリカのダートから日本のダートを走るとならば馴れるのにそれ相応の時間がかかる。
だがデジタルなら翌日になれば日本のダートに適応する。このバ場適応能力の高さが強さの1つである。でなければ中央ダート、地方ダート、中央芝、海外芝のGIレースをとることはできない。
「それでサキーちゃんに勝つために何か無いの?新しい必殺技とか秘策とか奇策とかさ」
「必殺技って、トリップ走法は充分必殺技みたいなもんやろ。それで我慢しろ」
「白ちゃんもないか~。アメリカでニールセンさんにもトリップ走法を改良できないって相談したけど、『OH!CRAZY!』ってドン引きされちゃった」
「普通そうやろ。世界中のトレーナー全員ドン引きや」
「でもこのままじゃ勝てないよ」
今までチームメイトと雑談するように緩い空気で喋っていたデジタルの空気が引き締まる。
ドバイワールドカップではサキーを追い詰めたが底はまだ見えていない。このままではサキーには勝てないという不安と焦りが有った。
「前にも言ったかもしれんが強くなるのに近道はないんや。ドバイの時はデジタルがトリップ走法を上手く改良出来たが、あんなことはそうそう起こらん。強いウマ娘は全員基礎を極めた奴や」
「基礎って?」
「まず単純にパワーや瞬発力や持久力、これが相手より優れていれば必殺技というか特別な技に頼らなくても勝てる。そして体の力をロスなくスピードに変えるフォーム、コンマ1秒のロスもないコーナリング、そういう当たり前で地味な事を極めたのが強いウマ娘や」
デジタルは不満そうに見つめる。どの分野においても派手な技術ではなく、誰もが当たり前に出来ることを練習し精度を上げていく者が強くなるというのがトレーナーの持論だった。
大概のウマ娘は派手な技は持っていないのだが、デジタルはそれに相当するトリップ走法を身に着け改良したことで一定の成果を上げている。
その成功体験と焦りから一足飛びで強くなろうと基礎を蔑ろにする傾向が見受けられた。
「俺から言わせればまだまだ穴だらけや、それに基礎能力が上がればトリップ走法も速くなる。基礎を高めていけばサキーに勝てる。信じてくれるか?」
「分かった」
トレーナーはデジタルの肩に手を置いて諭すように語り掛ける。デジタルも一応は納得したように頷いた。
「よし、分かったところで坂路コースで追ってこい。強め2本や」
「了解、じゃあ行ってくるね」
デジタルはいつもの調子に戻ると小走りで坂路コースに向かって行く。
トレーナーはこめかみを指で叩きながら思案する。持論は間違っていると思わない。だがデジタルの言っていることもまた違っていない。
もし革新的な技術や走法を編み出せば飛躍的に強くなる可能性もある。
ブリーダーズカップ直前まで諦めず考え続け、何かアイディアを思いついたらやるすべきだ。自分達はサキーに挑む挑戦者なのだから。
「それで基礎能力を身に着けるって方針にしたと」
プレストンはシャドーボクシングのように虚空に向かって拳を繰り出しながら返事をする。
これはプレストンが習っている、とある香港のアクションスターが作り上げた武術の型らしく、防御する同時に攻撃に転じる型らしい。狭いスペースでも出来ると寮の部屋でよくやっている。
デジタルはその様子を眺め小さく感嘆の声をあげる。手がハッキリ見えないほどのスピードだ。アメリカにも帰郷して離れている間も鍛錬を続けたのがよく分かる。
「そのほうがいいと思う。あたしも組手やってさ、そのアクションスターみたいに派手な技に憧れて技を繰り出したんだけど、全然通用しなかった。全部基礎動作で捌かれてさ、一方相手は入門初日で習うような技を繰り出すんだけど、全く避けられなかった。やっぱり基礎を極めた人は強いよ」
「流石に実体験だと説得力があるねっと」
デジタルは悪戯心と型がどれだけ有用なのかと興味が湧いて床に転がっていたトレーニング用のカラーボールを投げつける。顔に当ればカラーボールでも少し痛いので胴体に投げる。
プレストンは流れるように腕を動かしてボールを弾くと同時に間合いを詰めてデジタルの眼前に拳を繰り出す。
「でしょ。ちなみに今の動きも基礎の技だから、よかったねデジタルも経験できて」
「御見それしました」
デジタルはおどけるように手を上げ、プレストンはその仕草を見て満足げな表情を見せる。
「それでプレちゃんは秋のローテはどうするの?」
「大目標は香港だから、レース勘が鈍らないように毎日王冠走って、天皇賞秋かマイルCSを走るって感じ」
「じゃあお互い連勝して香港で対決だね」
「残念だけどそれは厳しそう。毎日王冠は80%、天皇賞秋かマイルCSは90%の仕上げでいくつもりだから、勿論負けるつもりで走るつもりはないけど、100%を出せない状態で勝てるほど甘くはないでしょ」
プレストンは至極当然といった具合に語る。他の人が聞けば弱気と思うかもしれないがそれは違う。
プレストンは自分を客観視し努力する人だ、香港の前に100%に仕上げれば本番で調子を落とす可能性を考慮している。実にらしい答えだった。
「それと仕上がんなかったら無理に暮れの香港に出なくていいから、あたしが倒したいのは100%のデジタルだから、その代わりクイーンエリザベスを最大目標にしてよね」
「ありがとうプレちゃん。その時は万全に仕上げるから」
デジタルは安堵のため息を漏らす。調子次第では香港で走れないと言おうとしていたが、もしかして機嫌を損ねてしまうと心配していた。だが気を遣ってくれたのか先に言ってくれた。
「ところでメイセイオペラってウマ娘知っている?」
「それをアタシに聞く~?ヒガシノコウテイちゃんを語る上にはメイセイオペラちゃんは欠かせない存在だよ。あの雨が降った橋の下の2人だけの秘密のトレーニングセンターで、トウケイニセイちゃんが負けて泣いているヒガシノコウテイちゃんに言うの!『私が中央のいじめっ子をやっつけてあげるから』って!マジ尊いよね~!」
デジタルは不機嫌そうに頬を膨らませながらメイセイオペラについて饒舌に語り始める。これはヒガシノコウテイにインタビューした時に聞いた話だ。あまりの尊さに少しだけ泣いてしまったほどだ。
「確かに良い話だよね」
「だよね~って、何でプレちゃんが知ってるの?」
デジタルはノリ突っ込み気味に問う。この話は知られると恥ずかしいからとヒガシノコウテイは他人に話しておらず、同じくメイセイオペラも話していないので知っている人は少ないと言っていた。何故知っている?
「テレビで喋ってたから」
「テレビ?」
「そうか、デジタルは知らないのか、メイセイオペラは今じゃ結構有名だよ。何か8月ぐらいからテレビに出始めて、その今どき珍しいぐらいの素朴な人柄のおかげで視聴者に気に入られたみたい。最初はローカル番組に出ていたけど、今ではキー局の番組に出るよ。それでその話を聞いたのはテレ東のウマ娘番組だったな」
「そうなんだ」
メイセイオペラはヒガシノコウテイのインタビューで聞いた限り目立ちたがり屋ではなく、テレビに出るような人物ではなさそうだった。何か心境の変化が有ったのか?
「それより何で知らせてくれなかったの。連絡、報告、相談でしょ」
「アンタはアタシの上司か、電話してまで知らせることじゃないし、今の今まで忘れてた。そして自分の情報収集能力不足を嘆きなさい」
「ぐぬぬ……」
デジタルは思わず唸る。怒りに任して責任転嫁気味に文句を言ったが、見事に正論で言い返された。まさしくその通りで返す言葉もなかった。
「でもメイセイオペラとヒガシノコウテイの関係性はいいよね。デジタル的には尊いって言うんだっけ。純粋と言うか素朴というか、思わず応援したくなっちゃう」
「でしょ!プレちゃん分かってる!」
デジタルはじ満面の笑みを浮かべながらプレストンの肩をポンポンと叩き、自分の事のように喜ぶ。
「でもこれじゃあデジタルが悪役になっちゃうんじゃない」
「どいうこと?」
「メイセイオペラとヒガシノコウテイの話を聞いて、アタシみたいに応援したいって思う人が結構増えたと思うよ。それにメイセイオペラがヒガシノコウテイが南部杯に懸ける想いとかも語ってさ、感情移入している人も居るんじゃない。ほら判官贔屓というか働くと言うか」
プレストンは同情していた。去年はウラガブラックの出走騒動のせいで悪役扱い、そして今年はヒガシノコウテイに感情移入する人によって悪役扱い。何とも巡り合わせが悪い。
そしてデジタルは手を叩き合点がいったと頷いていた。
「確かにね。アタシもヒガシノコウテイちゃんファンだったら、『何て憎たらしいウマ娘』ってハンカチ噛んでるよ」
「自分でそれ言うんだ。あと表現が古い」
「でもヒガシノコウテイちゃんには本当に申し訳なくて心苦しいけど、次のレースは勝たせてもらうよ。南部杯に勝って、ブリーダーズカップクラシックでサキーちゃんに勝つ」
軽いノリで言っていたデジタルだが、途端に雰囲気が変わる。勝利に向けて闘志を燃やす雰囲気に当てられたプレストンは思わず背筋を伸ばす。
勝ちたいのは出るウマ娘全員だ、そして勝者がその想いを摘み取り背負っていく。デジタルにはその覚悟が有りこの程度で臆するようなウマ娘ではない。
しかしいつの間にこんな闘志を燃やすようになったのかとアスリートとしての成長を実感していた。
「その意気だ。言い方悪いけど他人のことなんて気にしていたらきりがない。ヒガシノコウテイやセイシンフブキを味わって勝って気分よくアメリカに行っていけばいい」
「ありがとう。レースに勝って2人を味わってアメリカに行くよ」
デジタルは先程の雰囲気とは一変し、いつも通りの人懐っこい笑顔をプレストンに向けた。
───
「スゴイかったですね。特にマッチレースのシーンは興奮しっぱなしでした!」
「うんうん!ウォーアドミナルちゃんとのライバル関係!尊いよね!」
スペシャルウィークとアグネスデジタルはハチミツ入りニンジンジュースを口につけながら、お互い興奮気味に語り合う。
デジタルはスペシャルウィークと休養日が一緒なことを知り、思い切って遊びの誘いをした。その誘いにスペシャルウィークは応じ、一緒に出掛けることになった。
まず向かったのは映画館だった。デジタルの目的は最近上映された実在のウマ娘シービスケットを題材にした映画だった。スペシャルウィークにも許可を取り2人で鑑賞する。
映画の出来は素晴らしく大いに満足できるものだった。そしてスペシャルウィークも満足しており、良い映画を見た特有の内容について語りたい衝動にかられ、腰を据えて語りたいと近場のファミレスに向かっていた。
「スぺちゃんはいつフランスに行くの?」
映画について語り合った後、次の話題としてスペシャルウィークの次走について話題を振る。スペシャルウィークはフランスの凱旋門賞に出走予定だった。
「明後日ですね。そこで前哨戦を走ります」
「フランスか、あっちの芝は足に絡みついて相当重いって白ちゃんが言ってたな。キツそう」
「そうみたいです。あっちの芝対策でパワー強化はしてきましたけど、デジタルちゃんみたいに適応できるかどうか」
「スぺちゃんだって凱旋門賞に向けていっぱい練習したんでしょう。大丈夫だって!」
「フフフ、ありがとうデジタルちゃん」
大きな動作を交えながら必死に励ますデジタルの姿を見て、スペシャルウィークはその健気な姿に思わず笑みを零す。
「でもフランスに行くのはそこまで不安じゃないんです。きっとドバイでデジタルちゃんと一緒に過ごして海外遠征での過ごし方を学んだからかな」
「ドバイか、あの時は楽しかったよね。一緒にトレーニングしたり、ご飯食べたり」
「そうだね。本当にいい経験で楽しかった」
デジタルとスペシャルウィークは記憶を振り返る。数々の偶然によってお互いは知り合って仲良くなれた。その巡りあわせに感謝していた。
デジタルはジュースを口に着けると何かを思い出したかのように喋る。
「そういえばサキーちゃんが凱旋門賞では素晴らしいレースをしようって」
「サキーさんですか?」
「そう、凱旋門賞に出るのを喜んでたよ。やっぱりドバイでのサキーちゃんの言葉って凱旋門出るのを決めたのに影響あるの」
「そうですね」
スペシャルウィークは自分の心情を再確認するように思考する。夢は日本一のウマ娘になることだ。そしてサキーは世界一を決める凱旋門賞に勝てば同時に日本一になれるのではと言い、その言葉は印象に残っていた。
凱旋門賞を走るのを決めたのはその言葉も影響が有る。そしてサキーという現時点の世界最強のウマ娘と走ってみたい。そして勝ちたいという気持ちが芽生えていた。
するとスペシャルウィークの思考を中断するようにデジタルは悩まし気な声を上げる。
「はぁ~。本当ならスぺちゃんガンバレ!勝って世界一になって日本一になって!って言いたいんだけどさ。サキーちゃんの夢とか目標とか知ってるからサキーちゃんにも負けて欲しくないんだよね」
デジタルは頭を抱えうんうんと唸る。本人を目の前にしてサキーに負けたくないというのは無神経で配慮が足りないと言うだろう。
だがスペシャルウィークは素直に自分の想いを口に出す素直さに好感を持っていた。
「それだったらお互いベストを尽くしてくれと祈ってください。ベストを尽くせないと悔しいですから」
デジタルはスペシャルウィークの言葉に目から鱗が落ちるといった様子で目を見開き頷く。ドバイの時はベストを尽くしたからこそサキーを感じられて満足できた。
もしレース展開などでベストを尽くせなかったら一生悔いが残っていただろう。
「うん、そうだね。アタシも2人がベストを尽くせるように祈っているよ。あっ料理が来るよ」
話しが終わると同時に注文していた料理が来る。テーブル一面に料理が置かれ、1品以外は全てスペシャルウィークの注文した料理だった。そして数10分後には料理は全て完食されていた。
「まだ時間があるし、どこか行く?」
「行く行く、どこにしよっか?」
「あのスペシャルウィーク選手とアグネスデジタル選手ですか?」
2人は会計を済ませて店を出ようとすると後ろから声を掛けられる。後ろを振り向くと小学校低学年ぐらいの少年が緊張した面持ちで立っていた。
「うん。そうだよ」
スペシャルウィークは少年に視線を合わすようにしゃがみ込み笑顔を見せながら声をかける。その笑顔で緊張が解れたのか淀みなく言葉を紡ぐ。
「サインしてください!」
「はい。いいですよ」
スペシャルウィークは渡されたノートとペンを受け取り、サインを書く。その様子を見てデジタルは感心する。
オペラオーやドトウのアドバイスでファンサービスはしっかりしろとアドバイスを受けた。そのアドバイス通りにファンサービスは可能な限り行った。
そして今この時も行おうとしたがスペシャルウィークとの一時を邪魔するなと思ってしまい反応が遅れる。だが即座に対応していた。
ファンを大事にするスペシャルウィークは素敵なウマ娘だ。そしてファンサービス馴れしていながらサインは垢抜けしていないデザインなのもギャップがあって良い。
すると堰を切ったように他の客達も握手やサインを求める。
ダービーウマ娘のスペシャルウィーク、GI5勝のウマ娘アグネスデジタル、その知名度は全国レベルだ。
2人は特に変装もしていなかったので客達の大概は気づいていたがプライベートを邪魔してはいけないと気を遣って声をかけずにいた。だが1人が声をかけたことで遠慮が無くなり、サインや握手を要求し始める。
デジタルとスペシャルウィークは対応を続けファミレスはちょっとしたファンミーティング会場になっていた。
「デジタルさん次のレースがんばってください!でもがんばらないでください!」
最後のファンと握手しているなか、小学生低学年ぐらいの女児がデジタルに話しかける。デジタルはその言葉に思わず首をかしげる。とんちか?
「すみませんアグネスデジタル選手、この娘はアグネスデジタル選手も好きなのですが、ヒガシノコウテイ選手も最近好きになって」
女児の母親らしき人が申し訳なさそうに何度も頭を下げながら捕捉を加える。その言葉を聞いて女児の言葉の意味を理解する。
自分が好きだから頑張って欲しい。でも1着になるとヒガシノコウテイが負けてしまうから頑張って欲しくないということだろう。
「分かるよ。アタシもついさっきまで同じ気持ちだったんだよ。そういう時は両方がんばれ~って応援すればいいよ」
デジタルはスペシャルウィークに言われた言葉を女児にも分かるように噛み砕いて伝える。
女児は新たな答えに感心したようで、うんうんと言いながら大きな動作で頷き、デジタルの言葉が気に入ったのか母親にデジタルの言葉を何度も言いながら帰っていった。
「やっと終わりましたね」
「変装とか何か調子乗っている感じでしたくなかったけど、これからはしようかな」
デジタルはファンへの対応を一通り終わらし人が居なくなったのを確認してため息をつく。とんだ時間外労働だ。
「ちょっと疲れたし、時間も微妙だからもう帰る?」
本当なら夜通しでも遊びたいのだが、スペシャルウィークは数日後にはフランスに行き、それまでにスピカのメンバーなどと過ごしたいだろう。自分一人だけで独占するわけにはいかない。
「そうですね。帰りましょうか」
スペシャルウィークもデジタルの提案を了承し、2人は家路に帰った。
──
トレーナーは雑談しながらクールダウンをおこなうチームメンバーを一瞥し、紙面に目線を戻す。
アグネスデジタル死角なし!
休み明けでも問題なし、相手を考えても本命は揺るがないだろう
トレーナーは紙面に踊る文字を凝視する。スポーツ紙のウマ娘欄も専門誌も全てデジタルに重い印を押していた。
事前の追切でも記者でも分かるほど抜群の動きを見せていたのでこの評価は妥当だろう。細かいところでもコーナリングやフォームを修正し、さらに穴が無くなった。
対抗にはダートGIの常連のノボトゥルー。ダートGⅢを連勝して勢いがあるスターリングローズといったところだろう。
そしてセイシンフブキとヒガシノコウテイはそこまで印を打たれていない。帝王賞での負け方とそれ以降はレースを走っていなく、レース勘が養われていないのが不安材料なのだろう。
「何見てるの?」
トレーナーの肩の上から頭がにゅっと出てくる。思わず目線を向けるとアグネスデジタルと目線が合う。
「何やお前か、クールダウンは終わったのか?」
「白ちゃんがそれを熟読している間に終わったよ。でこれは南部杯の記事?」
「ああ、予想はお前にグリグリや」
「それはどうでもいいから、フブキちゃんとコウテイちゃんの事は何て書いてるの?」
「そこまで書かれていない」
「ちょっと見せて」
デジタルはトレーナーから雑誌を受け取り凝視し、残念そうにため息をつく。
「う~ん。そんな評価されてないのか。追切りも普通みたいだし調子はどうなんだろう?コウテイちゃんは全く連絡取れないし、フブキちゃんからは着信拒否されてるし分からないな」
「おい、一緒にレースする相手とレース前に取ろうとするな。少しは気を遣え」
「なんで?別に殴り合いするわけじゃないんだから。仲良くしようよ」
「お前はそう思っても他はそうじゃないんや」
「そういうもんか。でもこれじゃあフブキちゃんとコウテイちゃんを堪能できなそう」
デジタルはさらにため息をつく。レースに勝ってセイシンフブキとヒガシノコウテイの全てを感じ堪能するのが理想だ。だが記事に書かれているのが本当だとするなら絶好調ではないのだろう。
「まあいいや、堪能するのは次の機会ということで。南部杯はしっかり勝ってサキーちゃんに挑まなきゃ」
デジタルの雰囲気がひりつき、トレーナーもその空気に当てられて思わず唾を飲み込む。最近になってデジタルの闘争心が大きくなっている。
これもサキーへの執着か、だとしたら良い傾向だ。これならブリーダーズカップクラシックに勝てるかもしれない。トレーナーはデジタルの飛躍を予感していた。