コンコン、コンコン、コンコン
扉を叩く音が周囲に響く、向こうからは何も聞こえない。それでもトレーナーは何回かノックをするが、反応は同じだった。ため息をつくと扉の奥に語り掛けるように喋る。
「デジタル、ブリーダーズカップクラシックに出るか出ないか、それだけ決めてくれ」
「出ない」
「分かった」
絞り出したようなか細い声が聞こえくる。トレーナーは諦めに似た感情を表情に出しながら声をかけ、扉の前から離れていく。
デジタルが南部杯に出走した翌日、思わぬ情報が飛び込んできた。
───サキー凱旋門を回避、ブリーダーズカップクラシックも出走回避か?
サキーは凱旋門賞に向けて調整を行っていたが、トレーニングの最中に負傷した。診断結果は全治1ヵ月の捻挫と下された。
デジタルはその情報を知ると即座にサキーに電話して真偽を確認した。嘘であってくれと願いながら出るのを待った。
電話に出た瞬間、世間話も抜きにブリーダーズカップクラシックに出られるかを聞いた。普段なら怪我の心配や慰めの言葉をかけるのだが、全て吹っ飛んでいた。
その問いにサキーは申し訳なそうに出走は厳しいと答えた。出ようと思えば出られるが全力を出せない状態で勝てるレースではなく、無理をして怪我を悪化させて今後に影響を与えたくないと語った。
その答えにデジタルは即座に電話を切り、部屋に引きこもっていた。
「デジタルはなんて?」
「出ないやと、まあ、ある程度予想しとったがな」
エイシンプレストンの問いにトレーナーは淡々と答える。
デジタルはブリーダーズカップクラシックに勝ちたいのではなく、サキーと走りたいのだ。
ブリーダーズカップクラシックはサキーと走るという目的の為の手段であり、走れればレースは何でもよかった。この結果はある程度は自明の理だった。
「不機嫌そうでした?」
「不貞腐れておったわ」
「その気持ち少しだけ分かるな」
プレストンは自室に目線を向けながら呟く。走れないほどではないが出走しない。それは自分より未来を優先したという事だ。
無論サキーも全力を出せる状態で一緒に走らなければ意味がないと分かっている。デジタルも同じ気持ちだ。だが理屈は分かっているが感情が素直に認めてくれないのだろう。
「すまんな、暫く部屋が辛気臭くなって」
「まあ、直ぐに治りますよ。何たってアタシと香港で走るんですからって、言いたいんですけど」
「ああ、きな臭くなってきたな」
デジタルはブリーダーズカップクラシックの後は香港で香港マイルか香港カップを走るとプレストンと約束していた。
南部杯から香港までは約2ヶ月空き、ベストの状態で走れる。だがその未来に暗雲が立ちこめる。
南部杯から数日後、香港では情勢不安の報道が流れ入出国が制限されるという専門家の意見もある。そうなれば暮れの香港国際競争は中止せざるを得ない。
「トレーナーも香港では走れない前提でプランを立てています」
「そうか、妥当な判断だな」
「ですので今期はマイルCSが目標です。デジタルと走れるとしたらそこですけど」
プレストンは言葉を濁す。自分の真の力を発揮できるのはシャティンレース場だ、デジタルと走るならそこでと決めている。他のコースでは満足させられるか自信が無い。
トレーナーはプレストンが気にしているのを察したのか明るめなトーンで喋りかける。
「エイシンプレストン君は気にしないでくれ、満足するしないはアイツの勝手や」
「はい、しかし、サキーの次走はドバイですかね?そうなると半年近く宙ぶらりんになりますね」
「それはあかんな、テイエムオペラオーとメイショウドトウが引退した時も同じようになったが、あの時はサキーという目標を見つけられたがな」
「何か目標を見つけられればいいんだけど」
2人はため息をつく。ドバイワールドカップというのはあくまでも希望的な観測だ。ドバイワールドカップを走らないかもしれないし、また怪我をするかもしれない。
そうなれば宙ぶらりんの期間がますます増える。そうなればデジタルは心は腐っていく一方だ。
2人は心配げにデジタルが居る部屋に視線を向けた。
「なんだかな~」
デジタルの独り言は薄暗い部屋の壁に吸収される。サキーと走るのは決定事項で、走れなくなるとしたらこちら側の問題かと思っていたが、まさかあちら側の問題とは。
万全に万全を重ねて調整したのだろう、だがどれだけ注意を払っていても怪我はしてしまうのは歴史が物語っている。
サキーがグランドスラムに懸けている想いは知っている。何故今だ、怪我をする者が悪いと言えばそれまでだが、ウマ娘の神様はあまりにも残酷だ。
本当なら慰めの言葉をかけなければいけないのだが、ブリーダーズカップクラシックに出られないと聞き、あまりにショックで電話を即切ってしまった。
サキーと走りたい、サキーに勝ちたい。
失意の後に訪れたのは衝動と情念だった。暫くは走れないと分かっているのに、獣のように内で暴れまわっている。
プレストンと香港で走れれば収まるのかもしれないが、怪しくなってきた。さらに別の要素がデジタルをかき乱す。
ヒガシノコウテイとセイシンフブキ。
2人の後ろ姿が網膜に焼き付いて離れない。あの2人に勝ちたい!自分の後ろ姿を目に焼き付けさせたい!その存在が日増しに大きくなっていき、サキーに匹敵するほどになっていた。
このままではどうにかなってしまいそうだ!
衝動が抑えきれなくなったデジタルは即座に移る。サキーとセイシンフブキとヒガシノコウテイと一緒に走れるレース、それが知っている限りで1つある。
こちらにはやや不利な条件だが関係ない、1秒でも早く走りたい。
「もしもし」
「もしもし、サキーちゃん、今大丈夫」
「大丈夫です。すみません約束を守れなくて」
「気にしないで、こっちもゴメンね。あの時すぐ電話切っちゃって」
デジタルは即本題に移りたい気持ちを抑え込みながら、当たり障りのなり会話を交わす。
「それで怪我の調子はどう?」
「順調に治っています。せめてあと1週間早く怪我をしていれば、ブリーダーズカップクラシックではベストの状態で走れたのですが」
「それでなんだけどさ、来月のジャパンカップダートで走らない?」
「ジャパンカップダート?」
「知らない?日本の東京レース場のダート2100メートル。ブリーダーズカップクラシックと100メートルしか変わらないしさ、丁度よくない?そこで一緒に走るって約束を果たそうよ」
デジタルは捲し立てるように喋る。セイシンフブキとヒガシノコウテイとサキーと一緒に走れるレース、それがジャパンカップダートである。
今後の大きいダートレースはJBC、ジャパンカップダート、東京大賞典、川崎記念、フェブラリーステークスだ。
JBC、東京大賞典、川崎記念は外国所属ウマ娘が走れる国際指定競争ではない、フェブラリーステークスは1600メートルでサキーにとって不利な条件だ。
残るはジャパンカップダートのみだ。勝ち鞍にダート2000メートルは無いので不安であるが、そんなこと言っていられない。走るとしたらここしかない。
さらにデジタルは約束という言葉をあえて言った。サキーは律義で義理堅く、自身の都合で約束を反故してしまったことを酷く気に病んでいる。故にそこを突く。
相手の弱みを突くという卑劣な手段だが、良心より欲望を選択した。
「分かりました。ゴドルフィンに掛け合ってみます」
「本当!ありがとう!東京で待ってるね!」
デジタルは電話を切るとベッドに飛び込むと手足をバタバタさせる。
これでサキーと走れる!ヒガシノコウテイと走れる!セイシンフブキと走れる!レース場で走る勝つ未来を想像し、にやけ切った顔を浮かべていた。
体を勢いよく起こすと練習着に着替え、スキップ交じりでチームルームに向かった。
「なんで出られないの!?」
有頂天だったデジタルの感情は急転直下でどん底に向かって行く。
ジャパンカップダートへの出走提案した翌日、サキーから電話があり、ジャパンカップダートに出られないとその口から告げられた。
「本当にすみません…」
「だから何で!?」
デジタルの語気が思わず強まり詰問してしまう。普段はそんなことをしないのだが、あまりに予想外の返答に動揺していた。
「ゴドルフィンとしてはジャパンカップダートに出るメリットが無く、私を出走させるわけにはいかないと判断を下しました…」
電話越しにサキーの声が弱弱しくなっていく。
本人としては是非とも出走したかった。だがサキーはゴドルフィンという組織に所属している。
そして組織の上の決定は絶対であり、1選手が逆らうことができなかった。
デジタルは反射的に電話を投げ捨てたい衝動に駆られるが何とか耐える。ゴドルフィンめ!
空いている手で枕を殴打し、怒りの感情の矛先をサキーから変えてクールダウンを促す。
「ドバイワールドカップでは一緒に走りましょう。絶対に怪我しません…」
ジャパンカップダートに出るとしたらゴドルフィンを辞めるしかない。
だが世界4大レースに勝ち、ウマ娘界のアイコンとなり世界中のウマ娘を幸せにするという夢が有る。
充実した設備と人材、より多くの人に知られるためのPR活動、それらを行うためにはゴドルフィンの力が必要不可欠だ、個人的な感情で夢を捨てるわけにはいかない。サキーも断腸の思いで決断していた。
デジタルはその悲し気な声を聞き平静を取り戻す。サキーも辛いのだ。
憎むべきは自分達の絆を切り裂こうとするゴドルフィン、さながらロミオとジュリエットだ。
心に諦めの心が去来する。だが数々の未知のルートを切り開き異能の勇者と称えられたその心は再び燃え上がる。
ルートが無ければ作ればいい!サキーに対する愛と欲望はその程度の障害では砕けない!
「ごめんね、無理言っちゃって。でもアタシはドバイまで我慢できない。必ずサキーちゃんと走るから」
デジタルは電話を切ると即座に切ると、パソコンを立ち上げ新たな道を模索し始めた。
「はい!これより第1回、どうやったらサキーちゃんと一緒に走れるかを考える会議を始めたいと思います!」
デジタルは大声で開始宣言をするとホワイトボードを叩き、会議参加者のトレーナーとチームメイト達の顔をマジマジと見る。
参加者はその熱量に戸惑っているのか、周囲の者に視線を向け騒めいていた。
部屋に籠っていたデジタルがチームルームに現れトレーニングを始めた。
トレーナーからは病気ではなく落ち込んでいるだけだ、すぐに立ち直るから心配するなと言われ、チームメイト達は特に何もしなかったが、事情は知っているので心配していた。
暫くしてデジタルが現れ、チームメイト達は慰め励ましながら出迎えた。気落ちしているかと思ったが、依然と変わらない様子で胸を撫で下ろしていた。
練習が終わると相談したい事が有るとトレーナーとチームメイトに伝え、この会議が始まった。
「走るって言ってもジャパンカップダートも拒否されたんでしょ、無理じゃない」
フェラーリピサが冷ややかな目線を向けながら呟く。ジャパンカップダートは拒否され、次走はドバイワールドカップとゴドルフィンから発表された。
こうなっては走るチャンスはドバイワールドカップしかない、打つ手は待つのみだ。
「まあ普通はそうなんだけど、アタシは我慢できない!だから皆の知恵を借りて、サキーちゃんと走る舞台を作りたいの!お願い力を貸して!」
デジタルは手を合わせ、頭を下げる。サキーと走る道は何かないか?練習に参加せず授業の時間は全て思考に費やした。だが全くアイディアが思いつかなかった。
日本には3人寄れば文殊の知恵の言葉が有る。ならば3人と言わず出来るだけ多くの知恵を借りる。まずは身近なチームメイトとトレーナーだと、この会議を開いていた。
チームメイト達は議題を聞いた時正直そこまでやる気はなかった。 フェラーリピサと同じく打つ手なしという結論が出ていた。だがデジタルの様子を見て少しだけ真剣に考えようと思い始めていた。
「まず皆に考えてもらいたいのはもしゴドルフィンの偉い人だったら、どんなレースにサキーちゃんを出したい?」
チームメイト達は思わぬ質問に考え込む。選手目線だったらGIに出たい、GIだと厳しいから重賞に勝ちたい、地元のレースに勝ちたい等様々な理由が思いつく、だが上の立場としては考えたことがなかった。
「それは賞金が高いレースじゃない?高ければ入る額も違うし」
「でも日本って他より賞金高いって聞いたよ。それだったら日本に外国のウマ娘がもっと来るんじゃない?やっぱりその国のレースかどうかじゃない?」
「あとは名誉でしょ。凱旋門賞に勝ったイギリス出身のウマ娘で騎士の称号貰ったらしいよね。そういうのカッコイイよね」
「少年ハートか、でも日本だったら即国民名誉賞貰えるよね」
其々が思いつくままに意見を述べていき、デジタルがホワイトボードに書き込んでいく。要所要所で話は脱線していくが、比較的に真面目に議論は進行していき、書き込んだワードを改めて見直す。
金、名誉、国、称号
何一つピンとこない。走りたい相手と走って勝てるのなら賞金も名誉もいらないし、称号にも興味はない。
それに走れるなら南米だろうが、アフリカだろうが、どこでもいい。
世の中の人はこれらが欲しいのか、世間と自分の感性の隔離を感じていた。
「白ちゃんはどう思う」
デジタルは今まで静観していたトレーナーに話を振る。この中で唯一ゴドルフィン側の目線を持っている人間だ。参加者全員の視線がトレーナーに向けられる。
「俺が考える出走させたい条件は3つ、金、名誉、レーティングや」
トレーナーは指を3つ立てながら言うと、ホワイトボード前に移動する。
「まず金だが汚い話やが、トレーナーは仕事で慈善事業やない。勿論当人の意志を尊重するが、確勝級の力を持っていて1着賞金1億円のレースと、賞金100万円のレースが有ったら1億のレースを選ぶ。俺も家族を養わなければあかんしな」
トレーナーはホワイトボードにドバイワールドカップ、ドバイシーマクラシック、ジャパンカップと高額賞金順にレース名を書き、1着賞金も書いていく。
金額を書くごとにどよめきが起こり、賞金を何に使うかなど話が脱線していく。トレーナーは手を叩き、話を打ち切らせる。
「で次は名誉、これが1番重要かもな。日本で言えば日本ダービー、日本に住んでいるウマ娘だったら一番欲しいのはダービーやろ。ウマ娘もトレーナーも賞金が高いジャパンカップより日本ダービーを欲しがるのがその証や。まあメジロみたいに天皇賞春が欲しいという例外もいるが」
チームメイト達はトレーナーの答えに思わず頷く。確かにジャパンカップが一番欲しいというウマ娘は見たことが無い。ほぼ全員がダービーを欲しいと言う。それが名誉か。
「そして名誉と似ているがレーティング、レーティングっていうのはこのレースはどれだけ凄かったかていうのを数値化したもんや。これは着差を広げたり、海外のビッグレースやヨーロッパや、アメリカのウマ娘が多く参加したレースに多くポイントが付きやすい」
「つまり日本なんてマイナーリーグのレースで幾らぶっちぎっても大したレーティングがつかないってことですか」
「身も蓋もないがそういうこっちゃ」
チームメイトの言葉に残念そうに頷く。近年では日本のウマ娘が海外のレースで活躍している。
しかし未だレース後進国扱いで、日本のレースのレーティングではヨーロッパの主要国やアメリカで行われたレースに比べると低い傾向が有る。
「なるほど、その意見だとアタシのアイディアは厳しそうだね」
トレーナーの言葉を静聴していたデジタルが悩まし気な声をあげながら口を開く。
「ほう、どんなアイディアや?とりあえず言うてみい」
「まずサキーちゃんが日本に出るレースが無ければ作ればいいやって思いついたの。でも中央じゃレース作ってくれないし、それだったら地方ですればいいやって。そこでサキーちゃんとセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんと走るの。ほら協賛レースとかあるでしょう。それに物凄い高額な賞金を付けてさ、でも話を聞いていると無理そうだな~」
説明をしていたデジタルの声がどんどん自信なさげに小さくなっていく。
中央で新しいレースを作ろうとすれば長い時間がかかる。それに外国のウマ娘を呼ぶとなると手続きなどが面倒だ。それに比べて地方はフットワークが軽く柔軟だ。新しいレースぐらいすぐ作れる。
「ちなみに1着賞金は?」
「ドバイワールドカップが6億でしょう。だったらこっちは10億で!」
「それはどこから捻出するんや?」
「それはスポンサーとか、サキーちゃんが日本で走って、そこにセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんが走るんだよ。皆絶対見たいって言ってスポンサーになってくれるよ!」
トレーナーは目を手で覆って深くため息を吐く。何と言う甘い計画だ。
確かにサキーが日本で走るとならば大きな魅力だが、1着賞金10億円を払えるぐらいのスポンサーが集まるとは思えない。
「その見通しは甘すぎるぞ。それにスポンサー集めは誰がやるんや?中央は絶対に手を貸さないし、オレもチームを見なきゃあかんし、やるとしたらデジタルや。お前にそれが出来るか?それにスポンサー集めに奔走していたらトレーニングの時間が削れるぞ」
「それはそうだけど…」
「今回は諦めて、大人しくドバイまで待て」
トレーナーの言葉にデジタルは俯きながらブツブツと呟く。レースが無ければ作ればいいという発想は買う。
だが世界一のウマ娘を走らせるのはあまりにも無茶すぎる。次々と常識を破ってきたが今回は無理だ。
「金の問題なら少しだけ現実的な案が有るよ」
会議に参加していたライブコンサートがサラリと呟く。その言葉にデジタルは希望の目を、トレーナーは疑惑の目を向ける。
「賞金は参加者で出して、ウイナーテイクオールにすればいいんだよ」
「ウイナーテイクオール?」
デジタルは思わずオウム返しをする。言葉の意味は分かるがピンとこない。
「1着は賞金貰総取りで2着以下は1銭も貰えない。これだったら大分節約できるでしょ。それでそのレースの参加者は何人?」
「サキーちゃんとセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんとは走りたいから最低人数は4人」
「それで10億円だから、1人頭2億5000万円か、やっぱり無理だわ」
「いや、ナイスアイディアだよ!それだったらスポンサー集めしなくていいよ!」
デジタルはライブコンサートの手を握り喜びを伝える。
ウイナーテイクオール方式、確かにこれならスポンサー集めをしなくて済むし、主催者の懐も痛まない。
中央では絶対に採用されないが、地方なら採用する可能性は充分にある。
だが1人頭2億5000万円は額が大きすぎる。サキーとデジタルは今までの賞金で払えるが、残りの2人には厳しい。
「あと話戻るけどさ、サキーにレースを出るメリットを与えるんじゃなくて、レースに出ないデメリットを押し付ければいいんじゃない?」
さらにフェラーリピサが会話に参加し提案する。
「例えば、今の話だとウイナーテイクオールで10億円だ、レベルの低い日本のウマ娘なら楽勝だろう。遠慮なく奪えよ。それとも何か?マイナーリーガーに負けるのが怖いのかって?具合に煽りまくってさ、出ないと腰抜けって印象を植え付けるの。そうなれば名誉はガタ落ちになるから出ざるを得なくなるとか」
トレーナーは思わず手を打つ。名誉を与えられないのなら、名誉を貶せばいい、逆転の発想だ。
賞金だけならゴドルフィンは動かない可能性が高い。だが名誉を貶される事態になれば黙ってはいない。世界的なチームならなおさら名誉を重んじるだろう。
デジタルは可能性を見いだせたのがよほど嬉しかったのか、ピョンピョンと飛び跳ねながらフェラーリピサとライブコンサートを中心にしたゴドルフィン煽り会議に参加し、ゴドルフィンへの文句を言っている。
余程恨みが有るのだろう。トレーナーは会議を邪魔しないようにチームルームから去る。
確かに可能性は見出せた。だが実現できる可能性は限りなく少ない。そもそも煽ったとても極東のウマ娘がピーチクパーチク言っているだけと一蹴されるのがオチだ。
だがここで水を差せばデジタルのやる気は一気に削がれ今後に影響が出る。
やれるだけのことをやって実現できなければ諦めがつき、次の目標を見つけられるだろう。
「こんにちは、プレアデスのトレーナーさん」
トレーナー室に向かおうと歩を進めたところにスペシャルウィークが声をかけてくる。
少しだけ緊張した面持ちで、偶然出会ったという雰囲気ではなく、何かしら話したいことがあるようだった。
「デジタルに用か?残念やけど会議中で今は無理や。こっちから連絡して向かわせることができるが」
「デジタルちゃんにも用はありますが、トレーナーさんにも伝えないといけないことなので」
「じゃあ、立ち話も何やし、適当なところで話そか」
トレーナーはスペシャルウィークと近くのベンチに向かう。
トレーナーの専用室に行ってもよかったが、他のチームのウマ娘を自分の部屋に連れて行くところを見られてあらぬ噂を立てられるのは避けたかった。
近くにあった自動販売機でにんじんジュースと缶コーヒーを買って、ベンチに腰掛ける。
「これでよかったか?カロリー制限とかあるなら別の物を買うが」
「大丈夫です。ありがとうございます」
スペシャルウィークは礼を言いながらプルタブを開けて口につける。
「凱旋門賞惜しかったな」
「はい、力及びませんでした」
「素晴らしい挑戦やった」
トレーナーは話題を切り出さないスペシャルウィークに代わり、世間話として先日の凱旋門賞について話す。スペシャルウィークとマンハッタンカフェが凱旋門賞に挑んだが2人とも勝てなかった。
私見としてはスペシャルウィークには欧州の芝が合っていないように思えたが、それでも懸命に走り、日本総大将としての威信を見せた。
この2人の挑戦は賞賛されるものであり、この経験を自身や次世代に生かして欲しい。
「ところでデジタルちゃんの次走はどうなってるんですか?サキーさんがブリーダーズカップクラシックに出走しないので、デジタルちゃんも回避するんですか?」
「ああ、デジタルもブリーダーズカップクラシックに出ず、次走は未定や」
「それだったら次走は天皇賞秋に出ないかと勧めてくれませんか?私も一緒に出ます」
スペシャルウィークは意を決してトレーナーに提案する。日本に帰ってから暫くしてデジタルがこの世の終わりのように意気消沈しているというのを噂で耳にした。
原因はサキーと走れなくなったことだ、心の底から楽しみにしているのは知っていただけにその悲しみを理解できる。
その悲しみを少しでも癒したい。その為に何が出来るかと考えて思い浮かんだのが天皇賞秋への出走だった。
デジタルは自分に少なからず興味を持っているのを知っている。何よりデジタルと一緒に走ってみたいという願望が有った。
「天皇賞秋か、その考えはなかった。日程も近いし今からでも急ピッチで仕上げれば充分に間に合うな」
「だったら…」
「ところで天皇賞秋までどれぐらいコンディションを取り戻せると思う?」
「6割、よくて7割ぐらいです」
スペシャルウィークはトレーナーの鋭い目線に思わず淀みながら答える。見抜かれていたか。
慣れない欧州でのレースが続き、凱旋門賞では渾身の仕上げで臨んだ。その反動は強く残り数週間で戻せるものでは無かった。
「スピカのトレーナーは何も言わなかったんか?」
「トレーナーさんは私達の意志を優先してくれます。今も必死に体調を少しでも戻す方法を探しています」
「そうか」
プレアデスのトレーナーはスペシャルウィークの言葉を聞き険しい表情が緩む。
もしスペシャルウィークの調子を見抜けず許可したのなら乗り込んで文句の1つでも言うつもりだったが、体調を把握しての発言ならいい、チームのウマ娘の意志を最大限汲み取ろうとすることは素晴らしいことだ。
「スピカのトレーナーも言ったかもしれないが、いくらスペシャルウィーク君でも7割で勝てるほど甘い面子やない」
「それは言われました」
「走ってもキミの戦績に傷がつくだけや。それにデジタルが味わいたのは100%のスペシャルウィーク君や。今の君ではない」
トレーナーは穏やかな口調で諭すように話す。
デジタルは意中のウマ娘の全てを感じたいと願っている。最高の体調で最高のタイミングで走る。例えばエイシンプレストンと走る時は日本ではなく香港で走る事を望む。
プレストンは香港で走る時が一番強く煌めいていると知っているからだ。
「それにデジタルはサキーと走ろうと夢中になっているしな」
「それは日本ですか?走るとしたらジャパンカップダートですかね」
「それも断れた。だからサキーと走る舞台を作り招待しようと色々やっとる」
「レースを作るって、そんなことできるんですか?」
スペシャルウィークは驚きで思わず声が大きくなる。走りたい相手の為にレースを選ぶのではなく、レースを作る。それは目から鱗だった。
「アイツも色々計画を練っているところや、それは少なくとも天皇賞秋まで続くだろうし、今回は無理やな。すまんなスペシャルウィーク君」
「分かりました。その計画を手伝えることが有ったら言ってください」
「ありがとう。このことや天皇賞秋で走ろうと提案してくれたことを伝えたら、泣いて喜ぶぞ。もしデジタルが来たらテキトーにあしらっておいてくれ」
「そんなことしませんよ」
スペシャルウィークは泣きながら喜ぶ姿を想像し思わず笑みを浮かべる。
「じゃあ天皇賞秋はなかったことで」
「すまんな」
「それでしたら、次のWDTで走ろうと伝えておいてください」
「それは流石に厳しいな。スペシャルウィーク君は兎も角デジタルが選ばれることはないだろう」
主に夏と冬の2レースが開催され、それぞれサマードリームトロフィー(通称SDT)、ウィンタードリームトロフィー(通称WDT)と呼ばれる。
選ばれたウマ娘のみが参加でき、シリーズへの参加条件は秘匿とされている。ドリーム・シリーズ・ターフの他にも短距離を得意とするウマ娘が参加する<ドリーム・シリーズ・スプリント>やダートコースを得意とするウマ娘が参加する<ドリーム・シリーズ・ダート>などがある。
今年のターフは2000メートルと発表されていた。だがデジタルの今年の勝ち鞍はダート1600メートルのフェブラリーステークスのみで、ダート2000メートルのドバイワールドカップでも芝2000メートルの香港で行われたクイーンエリザベスでも負けている。
「でも負けても凄いレースでした。きっと評価されてます!」
「そうだとええが。とりあえず選択肢の1つとして伝えておくわ」
「お願いします!」
トレーナーはスペシャルウィークの熱意に押され気味になりながら答え、別れていく。
WDTに所属のウマ娘が選出される。それはトレーナーにとって日本ダービーを取るほどの名誉だ。今まで頭に無かったがスペシャルウィークに言われたことで、可能性が頭に過る。
ドバイワールドカップもサキーが1着なったことでデジタルのレーティングも上がった。
クイーンエリザベスでも着差は少ないが内容を評価されここでもレーティングを貰えた。中央は海外のレースを評価する傾向があるので、今年2000メートル未勝利ながらの選出も十分にありうる。
「取らぬ狸の何とやらか」
そんな名誉より今はデジタルやチームメンバーの今後を考えることの方が重要だ。トレーナーはメモ帳を取り出しレース番組表を調べながらトレーナー室に向かった。