勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と隠しダンジョン#6

 ソファーに腰掛けたデジタルはガムを噛みながらTV番組を眺める。内容は各スポーツの1流アスリートを集めての座談会である。TVの音声とクチャクチャとガムを噛む咀嚼音が響く。

 今日はオフでトレーニングは禁止されている。トレーニングをしたい衝動に駆られるが体を休ませるのも勝つためには重要だと言い聞かせる。

 せめて何か出来ないかと探しているとこの番組を見つけ、他のジャンルから思わぬヒントを得られないかと密かに期待したが、収穫は全くない。リモコンを手に取り電源を落とした。

 デジタルはエイシンプレストンと言い争いをした後は栗東寮の部屋には帰らず、トレーナーの家から通っていた。

 一方的にビンタしたプレストンには未だに怒りを覚え、言葉を交わすどころか視線すら合わしていない。一応は謝罪を受けたが何も言わず追い返しておいた。それだけでも腹が立っているが、周りの反応にも腹が立っている。

 ケンカした後に愚痴を言おうとオペラオーやドトウに不満をぶちまけたりした。2人は話を聞いてくれたのだが、所々で肩を持ち、昔のデジタルのほうが良かったとさり気なく言ってくるのだ。

 

 昔のデジタル、昔のデジタル、昔のデジタル

 

 皆が今の自分を否定して過去の自分を肯定する。そのことに怒りを覚えると同時に理解して認めてくれない事への深い悲しみと孤独を抱いていた。

 味がすでに無くなったガムをティッシュに吐き捨てゴミ箱に投げ捨てる。ガムを噛むと心が落ち着くと聞いたことがあるので、この荒んだ心の平静を保ってくれると期待し試してみたが全くと言っていいほど効果が無かった。

 

 トリップ走法ができないデジタルなんて香港を走らないアタシと同じ、今のままでは勝てない。

 

 言い放たれた言葉が錨のように心の奥底に深く沈み楔を打ち込む。トリップ走法ができないわけがない。プレストンに言われた翌日にトリップ走法を実践してみた。

 普段は体に負担がかかるので原則としてトレーナーの許可が下りるまで禁止されているが、それを無視した。

 いつも通りイメージを構築しようとするがいくらやってもイメージは構築できなかった。レースとは違い余力を残している状態でイメージしやすいはずなのに構築できなかった。限界ギリギリで余力がない状態のレース時に使えるのか?

 自分の最大の武器ともいえるトリップ走法ができない。それは明確な恐怖となり、絶対に勝つという断固たる意志すら揺らぐものだった。

 勝つために取り戻さなければならない。そのカギとなるのが過去の自分だ。

 昔はどのような感情を抱いて走っていたのだろうと記憶を掘り起こしてもまるで靄がかかったように思い出せない。思い出せるのは勝利の喜びと敗北の悔しさだ。

 勝利中毒に罹っているデジタルは勝てないというワードに反応して、何度も思い出そうとするができずという悪循環に陥り焦燥を募らせていた。まるで過去の自分が今の自分を追い詰めているようだ。

 首をブンブンと振りソファーから勢いよく立ち上がる。このまま考え込んでいても深みにはまるだけだ。気分転換でもしよう。

 昔ならウマ娘の雑誌や映像を見ることで気分転換を行えていたが、今は思いつかず、したとしても気分転換にはならない。

 他にもプレストンやチームメイト達と会ってお喋りすることでもできたが、今は人に会うたびに今の自分を否定するような気がして距離を取っていた。

 暫く思考し一般的な散歩という方法で行うことにし、服を着替えて休日出勤しているトレーナーに出かけることをラインアプリで伝えると家を出た。

 目的地は河川敷のサイクリングロード、そこを気が向くままに歩き、気が向いたら家に帰る。計画性のない行き当たりばったりだ。

 デジタルはサイクリングロードに着くと方向だけ決め歩き始める。

 天気は曇りで鈍色の雲が青空を覆う。まるで今の心境のようだと自嘲する。景色もイチョウや紅葉でもあれば楽しめるのだが、右を見れば住宅地、左を見ても川を挟んで同じように住宅地でまるで面白みがない。

 このまま似たような景色を見ても気分転換ができるとは到底思えない。家に帰って見飽きたダートプライド出走者のレースを見たほうが有意義かもしれない。踵を返そうとするが思わず足を止める。

 対岸の河川敷の土手に1人のウマ娘がやってきて走り始めた。背格好からして小学校中学年ぐらいだろうか、何となく興味が惹かれたのでその場に止まってウマ娘の少女を眺める。

 トレーニングメニューはシャトルランのようで、進行方向に走り始めて豆粒ぐらいに小さくなると逆方向に走り始めた。元の場所に戻ると息を整えながらタブレットを眺めてまた走り始めた。

 デジタルの目から見て明らかに素人だった。本来なら見るべき点は何一つないのだが、妙に心に訴えるものがある。

 もっと近くでその姿を見ようと200メートル先の橋を渡って対岸に着くと、近くの土手を降りるコンクリートの階段に腰を落としウマ娘の少女を観察する。

 デジタルの存在に気づくことなく一心不乱に走っている。その集中力とモチベーションの高さはレース前の選手のようだ。よほど叶えたい願いや目標でもあるのだろうか?段々と興味を惹かれていた。

 しかし見れば見るほど欠点だらけだ。トレーナーでもない自分でも修正点を挙げようと思えば両手で足りないほどである。このままでは無駄なトレーニングの繰り返しで情熱の無駄遣いだ。

 

「ねえ、腕をもっと振った方がいいよ」

 

 デジタルは立ち上がり階段を下りながらウマ娘の少女に近づいていく。ここで出会ったのも何かの縁だ。少女の情熱を無駄遣いさせるのも忍びない。

 一方少女は明らかに警戒心を募らせた瞳で見つめ身構える。だが近づくごとに瞳に宿る感情は警戒から驚きに変っていく。

 

「あっ!アグネスデジタル!」

「そうだよ。じゃあアタシについてきて」

 

 デジタルはファン用の笑顔を浮かべながらゆっくりと走り始める。ウマ娘の少女は慌てながら後を追う。

 それから小一時間ほどレクチャーを行った。トレーナーと違って人にものを教える経験も知識も乏しく、ウマ娘の少女にも理解できるように必死に噛み砕きながら教えた。

 その苦労が報われたのか、少女はデジタルの言葉を理解し少女の走りは見間違えるようによくなった。そして少女との交流の間は抱えていたイラつきを忘れることができていた。

 

「おつかれ、よくがんばったね」

 

 デジタルは近くの自動販売機でスポーツドリンクを買って少女に手渡す。少女は疲労で喋るのが億劫なのか、頭を僅かに下げた後勢いよく飲む。

 

「一生懸命トレーニングしてえらいね。3冠ウマ娘になるために今から準備かな?」

 

 デジタルは冗談ぽく語り掛ける。この歳で誰にも命令されず追い込んでトレーニングできる人は中々いない。そのモチベーションはどこから来るのか非常に興味が湧いていた。少女は首を横に振った。

 

「じゃあ誰かに勝ちたいのかな?それともレースに勝つと何か買ってもらえるとか?」

 

 少女は再び首を横に振る。将来トゥインクルレースで活躍する為ではない、誰かに勝つためではない。報酬を貰う為ではない。

 ならば何のためにここまで頑張れるのだ。デジタルは少女の心情を理解しかねていた。

 

「じゃあ、何でそこまで一生懸命にトレーニングしてたの?」

 

 その問いに少女は悩まし気に腕を組み暫く考え込み、意を決したようにタブレットを取り出してデジタルに画面を見せる。

 そこには同学年ぐらいの体操服の葦毛のウマ娘の少女が映り、満面の笑みを浮かべていた。

 

「この娘はユキちゃん。ユキちゃんはとっても可愛くて、走っている時の姿が一番可愛いの。でもアタシは足が遅いからいっぱいトレーニングして、少しでも近くでユキちゃんを見るの」

 

 デジタルはハンマーで頭を殴られたような衝撃を受ける。

 そんな理由でこれほどまでに自分を追い込んでトレーニングしていたのか。その思考回路は全く理解できず、まるで宇宙人と会話している錯覚に陥っていた。

 

「近くでユキちゃんを見たいな。アタシが迫ってきたらどうなるんだろう?驚くのかな?もし抜いちゃったらどんな顔をするんだろう?そうなったらいいな~」

 

 少女はその光景を想像しているようでニヤつきながら語り始める。

 その表情は一般的にいえば気色悪いと分類されるもので、瞳に宿るのはユキちゃんと呼ばれる少女への憧れではなく、もっと粘着質な好意だった。その瞬間デジタルの中で何かが弾けた。

 プレストン達は過去の自分を思い出せと言っていたが、インタビュー記事や自分の映像を見てもピンとこなかった。そこに居るのはまるで他人のようだった。

 だが記憶を辿ろうにも思い出せず、過去の自分がタイムスリップでもすれば思い出せるかと空想のような考えを思い浮かべ内心で自嘲していた。

 だが目の前に居るのは過去の自分だった。意中のウマ娘を近くで感じたい。そのためならどんなトレーニングにも自ら課して、妄想を描いてデュフフフと気味悪く笑う。

 

 画面越しでの自分では感じられなかったリアルなウマ娘への愛と情念、それがトリガーとなり過去の記憶を呼び覚ます。そうだ思い出した!

 今までは大好きなウマ娘に1cmでも近づき感じるためことをモチベーションにしてトレーニングをしていたのではないか。

 脳内に天皇賞秋でのオペラオーとドトウのイメージ、ドバイワールドカップでのサキーを間近で感じた記憶、香港でのプレストンとの記憶が今までが嘘のように思い浮かび上がり、快感が脳髄を駆け巡る。

 そうだ、この快感を味わうために走ってきたのではないか、それに比べれば勝利の美酒などそこら辺の居酒屋に売っている安酒に過ぎない。

 それなのに今の今まで勝つことばかり考えていた。なんてバカなのだろう。デジタルは自身の髪を手でグシャグシャとかき乱す。

 

 そして次に襲ったのは身を悶えるほどの後悔だった。思わずその場で膝をつく。南部杯でのヒガシノコウテイとセイシンフブキとの記憶がまるでない。勝利することに囚われ、2人を感じることを疎かにしていたことに気づいた。

 あの極上のウマ娘を感じるたびに舞台を整えたのに何をやっている!頭を地面に叩きつけた。

 

「あの…大丈夫?」

 

 少女は顔引き攣らせながら懸命の勇気を振り絞り声をかける。突然気味悪くニヤついた笑みを浮かべたと思えば、ヒステリーに罹ったように髪をかき乱し、頭を地面に叩きつけた。    

 それは完全に狂人の所業であり、トレーニングに付き合ってもらった恩が無ければ防犯ベルを鳴らし全力で逃げていただろう。

 

「大丈夫、驚かせてごめんね。しかしそのユキちゃんカワイイね。意志が強そうな瞳がグッとくるね」

「そうそう!走っている時は髪を束ねてるんだけど、チラチラ見えるうなじがたまらない!」

「わかる~。サキーちゃんのうなじもたまらなかったな~」

 

 2人は推しのウマ娘トークに花を咲かせていた。時間は瞬く間に過ぎていき、鈍色の空がさらに薄暗くなっていく。時刻としては5時を回っていた。

 

「あ、もうこんな時間、そろそろ帰らないと怒られちゃう」

「ごめんね。楽しくてついつい話し込んじゃった。家はどっち?」

「あっち」

「一緒の方向だ。もっとお喋りしたいし一緒に帰っていい?」

「いいよ!」

 

 少女は満面の笑みを浮かべて答える。トレーナーの家がある方向は反対だった。だが少女ともっと喋りたかったので、嘘をついて付いていった。

 帰りの道中もウマ娘トークのみで会話を続けた。デジタルの話は少女の興味を大いに惹き、目を輝かせながら聞いていた。

 

「アタシはユキちゃんやウマ娘が好きなの。でも皆気持ち悪いて言ってバカにして…」

「そうだよね~。アタシも気味悪いってよく皆をドン引きさせてた」

 

 少女は表情に影を落としながら語り始める。かつての自分もそうだったので気持ちはよく分かる。だが一転して表情を明るくさせる。

 

「でもアグネスデジタルがインタビューとかでウマ娘大好きって言っていたのを見て、アタシも好きでいていいんだって思ったの」

「そうだよ!この気持ちを抑えることなんてないんだよ。でも時と場所を考えてね。でないと推しや他の人を怖がらせちゃうから。草葉の陰で奥ゆかしく見つめて、人がいないところで妄想やエモい場面を思い出す。それがウマ娘LOVE勢のマナーだよ」

「うん。急に髪の毛掻きむしったり、頭を地面に叩きつけたら怖いもんね」

「そうだよ……アタシみたいになっちゃダメだよ」

 

 デジタルは複雑そうな表情を見せる。自分の醜態が反面教師となって彼女を助けることになれば本望だ。

 

「じゃあアタシこっちだから」

「うん、バイバイ」

 

 家まで付いていったら少女はともかく、親が何を言うか分からないので適当なところで分かれることにする。少女は名残惜しそうにしながら手を振る。

 

「そういえば名前を聞いてなかったね。名前は?」

「ヤマニンアリーナ」

「じゃあヤマニンアリーナちゃん、連絡先教えてくれる。これからも一緒にウマ娘トークしよう」

「うん」

 

 ヤマニンアリーナは駆け寄ると携帯電話を取り出し、連絡先を交換すると手をブンブンと振りながら家に向かって駆けていく。デジタルはその様子を優し気な目で見つめる。

 まだ同じ感覚と趣味を理解又は共有できる友達が居ないのだろう。自分は幸いにもアメリカに居た時は趣味を理解してくれる友達や中身の濃いウマ娘トークができるトレーナーも居た。

 そしてトレセン学園にはプレストンが理解してくれて世間との折り合い方を教えてくれた。今度は自分が友達になってヤマニンアリーナの孤独を癒し、世間との折り合い方を教える番だ。

 デジタルは空気を目一杯吸い込む。夜になる前の夕暮れの独特の空気が体に染みわたる。まるで生まれ変わった気分だ。

 視界に映る面白みのない住宅も、上空を飛ぶカラスの鳴き声も、住宅から漂ってくるカレーの匂いも、全てが新鮮で清々しく心地よい。何よりウマ娘トークが楽しくてたまらなかった。

 これが皆の言っていた昔の自分なのか、確かにこっちのほうが気分が晴れやかで楽しい。

 

 過去のデジタルのイメージが今のデジタルを否定して苦しめた。

 だが過去のデジタルがヤマニンアリーナを肯定しその心を救い、同じ嗜好の持ち主と出会い交流をしたことで、勝利中毒にから抜け出せた。全ては因果応報である。

 

───

 

 プレストンはベッドに仰向けになりながら1人ため息をつく。デジタルが出て行ってから1週間が経った。

 まるで自分を動かす大事な歯車の1つが無くなったような違和感と寂しさ、自分が出て行った時のデジタルは同じような感情を抱いていたのだろう。

 クイーンエリザベスの時に出て行った時は辛かったが、出て行かれるほうが日常に近い分より辛い。

 トレーナーと一緒に生活することで治ればいいのだが、オペラオーやドトウやデジタルのチームメイト達から様子を聞いているがまだ勝利中毒から抜け出せていないようである。

 デジタルのチームメイトだが、話を聞きに行った時は罵倒されるのを覚悟したが、意外にも心配されたり同情されたりした。

 今のデジタルはらしくない。ちょっと近寄りがたい。昔のデジタルのほうがいいよねと共感してくれた。

 一般的にはデジタルの変化はアスリートらしくなり、好感が持たれるのかもしれないが、親しい者にとっては不気味であり、それだけ顕著な変化なのだ。

 何か手が無いかと探しているうちにスポーツカウンセラーやメンタルトレーニング指導士の存在を知る。トレセン学園にもそれらの専門家がいて、デジタルのトレーナーも頼んでいるようだが成果は芳しくないようだ。

 こういった職種は依頼人と信頼関係を作らなければならないようだが、デジタルはウマ娘以外には基本的に興味を向けず、心を開かない。

 今ではファンサービスをできるぐらいの社交性を身に着けたが、本質は変わっていない。

 さらに今は意固地になっているで、勝利中毒から抜け出すように促そうとする人間を警戒し、信頼関係を築くのは時間が掛かり、その間にダートプライドが終わる可能性がある。

 そもそも昔のデジタルの心理状態を理解できるのか?スポーツカウンセラー達のその道のプロフェッショナルだ。多くのアスリートを導いた実績が有るだろう。

 デジタルは勝利ではなくウマ娘を感じることを主眼に置く、それは異質なメンタリティであり、他の競技に当てはめても同じようなアスリートが居るとは思えず、そのような者を導く手段があるとは思えない。

 

 すると突如バタンと扉が勢いよく開く音が響く、プレストンは即座に体を起き上がらせ、ノックもしないで来るとは失礼で非常識だと思いながら来訪者を迎える準備を整える。

 そして目に飛び込んできたのは見知った姿だった。デジタルだ。

 プレストンは予想外の出来事にフリーズする。何しにきたのか?それより今は気まずい状態であり、どう対応すればいい?

 一方デジタルはプレストンの困惑をよそに神妙な顔を浮かべながら勢いよく頭を下げた。

 

「迷惑かけてごめんなさい!」

「えっと、どいうこと?」

「昔のアタシに戻ったよ」

 

 プレストンはデジタルの急な謝罪に戸惑いながら尋ね、デジタルは端的に答える。その言葉に安堵と喜びが綯交ぜになった表情を見せながらお帰りと告げた。

 

 デジタルはトレーナーの家に帰るといの一番に栗東寮に戻ると告げた。突然の提案にトレーナーは戸惑ったが、雰囲気で勝利中毒から抜け出せたことを確信し、送り出していた。

 

「いや~最近のアタシはどうかしてたよ。何で勝つことに拘ってたのかな。そんなものウマ娘ちゃんを感じることに比べれば大したことないのに」

「改めて聞くとスゴイ発言ね。そいうのは他の人には言わないようにしておきなさい」

 

 プレストンは呆れ半分嬉しさ半分でツッコむ。笑い話のように最近の心情を語るその姿は昔のウマ娘LOVE勢のデジタルそのものだった。

 

「それで何が切っ掛けで戻ったの?スポーツカウンセラーやメンタルトレーニング指導士もお手上げだったんでしょう」

「それは同類に出会ったからかな」

 

 デジタルはヤマニンアリーナとの出会いを嬉しそうに饒舌に語る。それを聞いてデジタルの変わりように納得する。

 カウンセリングには同じ体験をした同士で話し合うというグループワークというものがあるそうだが、同じ嗜好の持ち主と会話したことで、自分の変化に気づき本来の自分に戻ることができたのだろう。

 

「あ~後悔がハチャメチャに押し寄せてくる」

 

 デジタルは一通り話し終えると、ベッドにある枕に顔を埋め足をジタバタとさせる。プレストンはいつも通りの奇行をする娘を見る母親のような目で見つめながら尋ねる。

 

「何が?」

「南部杯の時の記憶がないの!コウテイちゃんやフブキちゃんのどんな表情をしていて、太腿や腕がどんな感じで、匂いや息遣いがどんなんだったか全く思い出せない!」

「あ~、勝利中毒の影響か」

「過去の自分を引っ叩いてでも目を覚まさせてやりたい!」

 

 さらに足をジタバタさせる。勝利中毒時のデジタルにとっては全く問題ないが今のデジタルにとっては一種の責め苦だろう。

 身から出た錆、自業自得という言葉が出かかるがグッと堪える。勝利中毒はだれしも起こりうるもので、責めることはできない。

 

「クヨクヨしない。その2人とはダートプライドで走るんだから、その時に思う存分感じればいいでしょ。良かったわね、ダートプライドが開催されて」

「……それもそうだね」

 

 デジタルは顔を上げて起き上がる。その目には後悔はなく前を向いていた。

 

「よし、もしかしたらレースを見たら思い出すかもしれない。プレちゃんも南部杯見ようよ」

「しょうがない。付き合ってあげる」

 

 渋々という様子を見せながら肩を並べて映像を見る。画面を食い入るように見つめる横顔は以前と違っていた。

 相手の癖や弱点を見つけ出そうという競技者の目では無く、顔をニヤつかせながらウマ娘達の表情や躍動する肉体を眺めて楽しむ1人のウマ娘ファンに戻っていた。

 

───

 

「スぺちゃんは今日はどのコースですか?」

「坂路です」

「残念デ~ス。グラスと私はダートです」

「私はウッドチップ、坂路より楽できるからいいか」

 

 授業が終わり各チームのチームルームに向かうまでの道を同じクラスのスペシャルウィークとセイウンスカイとグラスワンダーとエルコンドルパサーは談笑しながら歩いていく。

 学園内でも屈指のビッグネームが集合していることもあり、周りのウマ娘から騒めきの声が聞こえてくる。

 

「トレーナーさん」

「おハナさんデ~ス」

 

 4人の目の前にスピカのトレーナーと東条トレーナーが居り声をかける。

 

「おう、スぺか」

「おハナさんと何を話してたんデスカ?まさか私達が走るレースのブックを考えて…」

「ただの世間話だ」

 

 東条トレーナーはエルコンドルパサーの言葉を遮るように否定し、グラスワンダーは即座にエルコンドルパサーの尻尾を握るとギャオンと叫び声があがる。

 

「ところでスぺちゃんやスピカのメンバーやグラスワンダーやエルコンドルパサーや他のメンバーはやっぱりWDTですか~?」

 

 セイウンスカイがトレーナー達に尋ねる。声は鷹揚だがその目には鋭さがあった。

 

「そうだ」

「ああ、ダスカやウオッカ以外はWDTだ」

「そうなんだ、めんどうだな~。勝てなさそうだし他のレースに出ようかな~」

「そうやって油断させようとしてもダメですよ」

「やっぱりバレてるか」

 

 グラスワンダーの優し気な顔浮かべながらセイウンスカイに告げる。その声にセイウンスカイは叶わないなというように頭に手を当てる。

 セイウンスカイはケガから復帰後好成績を残し、WDT出走者候補に名が挙がっていた。

 

「そういえばWDTで思い出しまシタ!次のレースはWDTではなくてダートプライドに出るのもアリかもしれマセン~」

「え!?出ないのエルちゃん?」

「BCマラソンでのティズナウのマイクパフォーマンス。あれを見てプロレス魂に火がメラメラです。それにダート世界最強決定戦と言っているらしいですが、世界最強はエルです!ティズナウにマスカラ・コントラ・カベジュラを挑んでヤリマス」

「マスカラ・コントラ・カベジュラ?」

「エルが負けたらマスクを外して、ティズナウが負けたら髪を切りマス。ルチャドーラにとってマスクは命そのものデス。剥がされたら恥ずかしくて外に出られまセ~ン」

「やめとおいたほうがいいよ」

「盛り上げるためならエルはやりマ~ス」

 

 スペシャルウィークの心配をよそにエルコンドルパサーは冗談か本気か分からない様子で騒ぐ、それをセイウンスカイは面白そうに、グラスワンダーはやれやれとため息をつきながら見ていた。

 

「やめておけエルコンドルパサー」

 

 東条トレーナーの言葉で和やかな空気が一気に変わる。その雰囲気を嫌ったのかスピカのトレーナーがおどけるように話しかける。

 

「エルコンドルパサーがサキー達と走るのを1ファンとしては見てみたい。それに本人の意志を尊重してやるのもトレーナーの仕事だろ」

「そうデ~ス。エルのプロレス魂を見せてやりマ~ス」

 

 エルコンドルパサーは思わぬ助け舟を得て意気揚々と喋る。だが東条トレーナーの人睨みで黙ってしまう。

 

「本人が本気で走りたいのなら意志は尊重する。だが今のエルコンドルパサーから本気で走りたいという意志が伝わらない」

 

 エルコンドルパサーは意気消沈する。ダートプライドに走りたいとは思っていなく、本命はグラスワンダーやスペシャルウィークが走るWDTだ。ただプロレスっぽいことをレースでしてみたかっただけだ。

 

「それに今から決めても勝てる相手とは思えない」

「エルは世界最強デス。どんな相手でも勝てます」

 

 エルコンドルパサーは勝てないと言われプライドが傷ついたのか語気を強める。

 

「まず体をダート用に作り替えなければならない。それには時間が足りない」

「エルはダートでも対応できます。ダートでも重賞を勝って、ヨーロッパの芝でも勝ってマス」

「共同通信杯は芝からダートへの急遽変更で参考外だ。そして欧州で勝ったからといって、ダートに通用するわけでもない」

 

 共同通信杯は本来芝を走るつもりで出走したウマ娘がダートを走ったレースで有り、本来のダート重賞やGIとはまるでレベルが違い参考外だ。

 そしてヨーロッパの芝は深くダートと同じようにタイムがかかるといってもダートを走れるかは別問題である。

 

「それに……」

 

 東条トレーナーの言葉が止まり目を見開きながら前方を見つめる。他の者もそれに釣られて視線を前方に向ける。

 前から悲鳴のような声が聞こえ、他のウマ娘が散り散りになっていく。何かクマでも出没したような様子だ。そして数秒後に他のウマ娘達の行動の意味を理解した。

 スピカのトレーナーは口に咥えていたキャンディーを地面に落とし、セイウンスカイとエルコンドルパサーはグラスワンダーの背に隠れて、グラスワンダーは思わず東条トレーナーの背中に隠れる。東条トレーナーの全身に悪寒が走り顔を引き攣らせる。

 ピンク髪のウマ娘が幽鬼のようにフラフラしながら歩いてくる。顔は完全に弛緩させ口からは涎を垂らし鼻から血を流している。

 それだけでも充分に恐ろしいのだが、何より恐ろしいのはその目だった。完全にトランス状態で明らかに常人がする目では無い。

 それは完全に触れてはならない者であり、ある意味熊よりも余程恐ろしかった。

 

「デジタルちゃん、ダメだよ。涎と鼻血が出てるよ」

 

 スペシャルウィーク何事もなく近づくとティッシュを手渡し話しかける。

 

「あっ、スぺちゃん。もしかして妄想してた?」

「うん。完全に自分の世界に入ってたよ」

「あ~やっちゃった。ヤマニンアリーナちゃんに偉そうなこと言ってたのに、ウマ娘LOVE勢失格だよ。ごめんねセイウンスカイちゃん、グラスワンダーちゃん、エルコンドルパサーちゃん」

 

 デジタルは正気に戻ったのかティッシュを鼻に詰めながら東条トレーナーの背に隠れているセイウンスカイ達を見つけ、ペコペコと頭を下げる。それを見てエルコンドルパサーが軽く悲鳴を上げる。

 

「でも元気そうでホッとしたよ。エイシンプレストンさんと喧嘩したって聞いて心配した」

「今はすっかり仲直りしたから大丈夫。スぺちゃんはこれからトレーニング?」

「そう、デジタルちゃんは?」

「教室に忘れ物したからトレーニング場から戻ってきて、気が付いたら妄想していてこの有様、最近は捗って困っちゃうよ」

 

 デジタルはタハハと申し訳なさそうに笑う。勝利中毒から抜け出した後は只管ダートプライド出走ウマ娘について調べた。

 そして調べれば調べるほど惹かれていき、今のデジタルの脳の大部分は出走ウマ娘達で占められていた。

 特にティズナウについては今まで一般常識程度にしか知らなかったので、両親にも協力してもらい本国の専門誌などを取り寄せるなどして、細かく深く調べた。

 インタビュー時に見せる凛々しい表情と溢れだす絶対的な自信がたまらない、そして話す言葉1つ1つに惹きつけられる。

 アメリカダートレース界に対する誇りと献身性、謂わば愛国心、それがBCクラシックを勝ち取る原動力となると同時に、人々を魅了し奮い立たせるエネルギーになっているが分かる。本国での人気も頷ける。

 そして愛国心と同時に孕む排他性、愛国心故にもしかするとティズナウは自分のように海外に渡った者を嫌悪しているかもしれない。その思想は理解できるものではないが、これは個性の一部だ。

 もし対面したらどのような感情をぶつけてくるのだろう?マグマのような憎悪か、氷のような軽蔑か、考えただけでゾクゾクする。

 

「てっ、言ってるそばからまただよ」

「あっ、気を付けないと」

 

 デジタルは妄想の世界から抜け出しスペシャルウィークに集中する。その後は二三言葉を交わすし歩き出す。注意が利いたのか、妄想の世界に入らず普通の状態で教室に向かって行った。

 

「スぺちゃん大丈夫ですか!?」

「何か呪いとかかけられてない?」

「何デスカ!?怖すぎデス!」

 

 3人はスペシャルウィークに駆け寄ると姦しくしながら心配し労う。その様子をトレーナー達は若干顔を引き攣らせながら見守っていた。

 

「よく話しかけられますね。正直言えば関わり合いたくない方です」

「友達選んだほうがいいよスぺちゃん」

「私も最初は驚きましたが慣れると大丈夫だよ。デジタルちゃんは自分に素直で可愛くて妹みたいです」

「あんな妹がいたら即絶縁デス」

 

 スペシャルウィーク達は姦しく会話しながらトレーニング場に向かう。その様子を数メートルほど下がった位置でトレーナー達は見守っていた。

 

「それで話の続きは?」

「なんのだ?」

「エルコンドルパサーがダートプライドで勝てない理由、準備期間やダートへの適応以外の問題もありそうだから」

「勝てないではなく、やりにくいだ。もしエルコンドルパサーがダートプライドとWDTのどちらに出走するか迷っていたらWDTを勧める」

「スピカのメンバーのほうが弱いと」

 

 スピカのトレーナーは挑発的に呟く。相手は世界屈指だが、出走するメンバーは劣っているとは思っていない。

 

「そうではない。スペシャルウィークを筆頭に強いのは重々承知だ。問題があるとしたら私だ」

「おハナさんの?」

「スピカのメンバーや他の出走メンバーはある程度能力や手の内を知っている。ある意味想定内だ」

「ゴルシとかオレでも未だに分からねえぞ」

「性格はともかく能力は分かる。だがダートプライドに出るウマ娘達はまるで分からない」

 

 東条トレーナーは思考を整理するように一息つき話を続ける。

 

「私もトレーナーを続けてレースを見て分析すれば誤差は有るが、どの程度走るかの最大値は分かるつもりだ。だがあの6人はこちらの想定した最大値を軽々と超える。それがフィジカルなのかテクニックなのかメンタルなのかそれ以外なのか、どの要素が彼女達の強さなのかいくら分析してもまるで分からない」

「なるほど未知への恐怖ということか」

「そうだ。あの6人を見ていると今まで培った経験や理論が粉々に砕かれるような錯覚に陥る。」

「俺もその感覚は何となく分かる」

 

 スピカのトレーナーは懐からキャンディーを取り出し口に咥える。

 アグネスデジタルとはそこまで関わっていないが、スペシャルウィークから聞いたトリップ走法を筆頭に他のウマ娘とは違う思考回路で、常識はずれの走りを見せる。

 サキーもドバイワールドカップでのラスト100メートルでの加速、あれも通常では考えられない走りだ。自分でも感じられるのだから、より詳細に分析できる東条トレーナーが恐れるのも無理はない。

 

「だがやりずらいと言っているだけで勝てないとは言っていない。サキーとチームのメンバーが走ることになれば、丸裸にして勝たせる」

「うちのチームのメンバーだって、サキーと走っても勝てるさ」

 

 東条トレーナーが目に光を宿らせながら宣言し、スピカのトレーナーも応えるように答えた。

 

 

──

 

「デジタル、こっちに苦情が来たぞ」

「はい、ごめんなさい」

 

 デジタルは自主的に正座しトレーナーの説教を受けていた。忘れ物をとってチームルームに入室して待っていたのは青筋を立てたトレーナーの姿だった。

 トレセン学園の生徒からの苦情が学園責任者に伝わり、責任者からトレーナーが叱責を受けていた。さすがにこの件は全面的に否があると思っているので、口答えせずにいた。

 

「まあまあ、トレーナー。それぐらいで、デジタルも悪気が有ったわけではないし」

「これでまた勝利中毒になったら、困るでしょ」

「それもそうやな」

 

 トレーナーはフェラーリピサとライブコンサートの言葉に納得したのか、説教を終了させる。2人はデジタルにウインクを見せ、デジタルは手を合わせて拝んだ。

 

「よし、じゃあ罰走1本でこの件は勘弁したるわ」

「ありがとうございます。それでどんな内容?」

「単走坂路一杯、残り3Fからトリップ走法でな」

 

 トレーナーの1言でチームルームの空気がひりつく。デジタルが勝利中毒になったことでトリップ走法が使えなくなっているのをチームメンバーは全員知っている。

 今は勝利中毒が解消され、いつものの雰囲気に戻っているが後遺症で出来ない可能性があり、ダートプライドで目的を達成できなくなることを理解していた。

 

「分かった。じゃあ坂路行ってくるね」

 

 デジタルは気負うことなく散歩に向かうような足取りでコースに出て行った。

 

「それで何で着いて来るんや?」

「メンバーの一大事ですよ。それは着いてきますよ」

 

 トレーナー達は坂路で走るウマ娘を見るためにスタンドに上がって様子を確かめる。

 上から双眼鏡などで眺めれば、横からでは見られない体全体の動きを見られる。他のもモニターで様子が見ることでき、計測チップを付けさせることで、タイムを計測されモニターに表示される。

 本来ならトレーナーしか入れないのだが、居ても立っても居られないとチームプレアデスのメンバーが押し寄せていた。

 トレーナーはスタンドに居る他のトレーナーに了承をえて、特別に見学の許可を得ていた。

 そしてデジタルが坂路を駆け上がり始める。2Fが経過してのタイムが出るがトレーナー達は全く見ていなかった。タイムはその日の体調次第で変わるので問題はない。問題はトリップ走法を使う残り3Fだ。

 

「他のウマ娘はどうでもええ!デジタルをずっと写さんか!」

 

 トレーナーの関西弁が移ったかのようにチームメイト達は声を出しながらモニターの様子を見る。他のトレーナー達は睨みつけるが、チームメンバーやトレーナーはデジタルの様子を見つめる。

 トリップ走法を使っているか否かは表情を見ればすぐに分かる。弛緩し恍惚の表情を浮かべていれば脳内麻薬がドバドバ出ている証だ。

 チームメイト達は歓声を上げる。モニターには常軌を逸した目でニヤついているデジタルの姿が映った。

 デジタルはその表情を維持しながら残り3Fを駆け上がる。タイムも最近では最速のタイムだ、チームメイト達はすぐにスタンドを駆け下り、トレーナーもその後を追う。

 

「デジタル完全復活じゃん」

「見事なジャンキー面だったよ」

「私達の変態勇者様が帰ってきた」

「デジタルさんはこうでないと」

 

 コースを外れたところでデジタルはチームメイト達に手厚い歓迎を受け揉みくちゃにされていた。

 トリップ走法はもはやデジタルの代名詞であり、一般人が引くほどのウマ娘愛の証明でもある。他の者には気味悪いが親しい者にとっては無くてはならないもので、デジタルのウマ娘愛漲る姿はもはや日常の一部になっていた。

 ゆえにデジタルが勝利中毒に罹っていた時はチーム全体の空気が悪くなり、元に戻るとチームが明るくなっていた。今のデジタルは周りに影響を与えるウマ娘になっていた。

 トレーナーはその様子を見つめながら感慨にふける。これで条件は整った。デジタルが勝利中毒に罹っている間何もしなかったわけではない。自力で治すと信じ、デジタルの目的が達成できる手段、トリップ走法の強化案を考えていた。

 


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