勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と隠しダンジョン#9

「外富士さんはどう思いましたか?」

「僕はトゥインクルレースについては何も知りませんが、アグネスデジタル選手の行動には好感が持てますね。自分の想いは言葉にしないと伝わりませんから、自らアクションを起こす。他の同業者にも見習って欲しいです」

 

 午後の昼下がり、アグネスデジタルとエイシンプレストンはお互いトレーニングの休憩時間で、自室に帰ってテレビを見ながら時間を過ごしていた。

 ワイドショーの特集の1つとしてダートプライドが取り上げられ、司会やコメンテーターやスポーツ選手やゲスト芸能人が意見を交わしていた。

 

「だってよデジタル」

「別にあんな髭面のおじさんに褒められても嬉しくも無いし、それよりダイナアクトレスちゃんを映してよ」

 

 デジタルは興味ないと一蹴し、テレビに意識を向ける。この番組にはレースを走った元現役選手で今は女優のダイナアクトレスが出演していた。

 プレストンはデジタルのいつも通りの態度に安心しつつ、コメンテーター達の言葉に耳を傾ける。ここ最近になってダートプライドについて報道されることが多い気がしていた。

 先日もお気に入りのバラエティーでお笑い芸人達が好きなジャンルについて語り合うハレトークという番組で、トゥインクルレースについて特集されていた。

 過去の名選手や名勝負、そして今の有名現役選手を取り上げると思って視聴していたところにダートプライドが取り上げられた。

 ブリーダーズカップのティズナウのマイクパフォーマンスの映像を流して、芸人達が面白おかしくイジっていた。その分かりやすいエンターテイメント性溢れる場面と芸人達のイジりのおかげで、番組内で1番笑えたシーンだと感じていた。

 これはレースについて知らない層にはインパクトを与えただろうと思っていたが、予想通りにネット上でも関心を集めていた。

 

「なんか最近ダートプライドが取り上げること多い気がする」

「それはテレ夕で生放送するからね。そのためでしょう」

「え?テレ夕でダートプライド生放送するの?」

「あっ、これオフレコだったんだ。プレちゃん黙っておいて」

「分かったわよ。しかしこうやって情報流出が起こるのね」

 

 プレストンはやれやれとため息をつきながら報道量の多さに納得していた。今放送している番組にしかり、ハレトークにしかり放送しているのはテレビ夕日だ。自局で放送する番組を周知する為に特集するのは当然だ。

 

「しかし、生放送だからゴールデンでしょう。よく枠取れたわね」

「岩手の広報の人が売り込んでいたらテレ夕の偉い人が喰いついたんだって。ほらレースの視聴率高いし、他の局も1枚噛みたかったみたい」

 

 トゥインクルレースの映像を放送しているのは専門チャンネル以外では国営放送のJHKとブジテレビとテレ東都のみである。

 レース発足から中央ウマ娘協会はブジテレビとテレ東都と契約してレースを放送し、暫くしてから国民的スポーツエンターテイメントと成長した。そして中央ウマ娘協会はこの2局と独占契約していた。

 プレストンはテレビ夕日の判断は悪くないと考えていた。元々人気があるトゥインクルレース、そしてダートプライドのメンバーは豪華だ。

 ダート世界最強候補のストリートクライ、サキー、ティズナウ、これほどのメンバーが集まることはトゥインクルレースでは無かった。その強さを上手くアピールできれば視聴者の興味が惹かれるだろう。

 そして地方の強豪ヒガシノコウテイにセイシンフブキ、そして中央のアグネスデジタル。所属がバラバラで面白い。唯一のウィークポイントは中央所属のアグネスデジタルだ。

 デジタルの知名度はスペシャルウィークやエルコンドルパサーなどのウマ娘と比べればはっきり落ちる。そこはテレビ夕日が宣伝するしかない。

 

「そういえば、そろそろウインタードリームトロフィーの出走メンバーが発表されるね。デジタルもマイルで選ばれるんじゃない、それに今年のターフは2000メートルだしワンチャン有るんじゃない。サプライズ枠で」

 

 プレストンはダートプライドから連想してウインタードリームトロフィーに話題を振る。

 ウインタードリームトロフィーはスプリントなどの各分野の実力者が集まり頂点を決める最高峰のレースである。

 そしてサプライズ枠とは大概の選出ウマ娘は大方の予想通りの者が選ばれるのだが、時折実力は有るのだが、まだ実績が少ないウマ娘が選ばれることがある。それを俗にサプライズ枠と呼ばれていた。

 

「ないない。今年は2000メートル未勝利だし、マイルで勝ったのはダートのフェブラリーステークスだし。プレちゃんこそ選ばれるんじゃない?」

「それこそないない。マイルCSはトウカイポイントに負けたし、天皇賞秋でシンボリクリスエスに負けて国内じゃ2000は勝ってないし。寧ろ選ばれるとしたらシンボリクリスエスでしょ。あれは選ばれても充分やれるよ」

「そうだね。シンボリクリスエスちゃんの艶のある黒髪!あの抜群のプロポーション!良いよね!間近で見てどうだった?」

「アンタじゃないんだから、レースに勝つことで精いっぱいだって」

「ほら、そこを何とか思い出して」

「う~ん」

 

 プレストンはデジタルが期待を込めた眼差しを向けるなか、懸命に脳内から記憶を掘り起こし断片的な情報を伝えた。

 

───

 

 トレセン学園内にある講堂、そこには多くの人が集まっていた。学園に所属しているウマ娘は勿論、マスコミ関係者も多く集まり、其々が期待と不安を募らせながら時を過ごす。

 12月初旬、今日この場で来年に行われるWDTの出走ウマ娘が発表される。

 発表は大々的に行われ、普段では呼ばないマスコミ関係者を招待し発表の様子はインターネットを通じてライブ配信されている。

 この発表はちょっとしたイベントとなっていて、学園に居る大概のウマ娘達は練習を中断し発表を眺めている。そして会場に居るウマ娘のなかにアグネスデジタルとエイシンプレストンも居た。

 

「正直早く帰りたいんだけど、どうせ選ばれないし時間の無駄」

「ほら見て!あそこのウマ娘ちゃん手を握り合ってるよ!きっと選ばれるかどうか不安なのを落ち着かせてるんだよ!ジュリジュラ~」

 

 デジタルは溢れる涎をふき取りながら、興奮気味にその様子を眺め、プレストンは興味なさげに周りを眺めていた。

 講堂には多くのウマ娘がいるのは理由が有った。レースに選出された者は壇上に上がってコメントを言うのが恒例になっている。

 選出された者が講堂に居なければ演出上都合が悪く、したがって誰が選出されてもいいように、WDTのレースに出走できる最低限の条件をクリアした者が招集されていた。

 最初から選出されるウマ娘だけを呼べば無駄が省けると考えていたが、学園を運営する中央ウマ娘協会としては選出されるか分からない状態で、選出された時の喜ぶ様子を演出する狙いがあった。

 一応はどのレースに選出される可能性だけは伝えられ、プレストンとデジタルはマイルとターフだった。

 

「おっ、そろそろ始めるみたい」

 

 デジタルはウマ娘観察をし、プレストンは携帯電話で暇つぶしをしている間に講堂内が暗くなり、壇上にプレゼンターが壇上に登る。発表が始まった。

 

 WDTダート、WDTスプリントと順番に発表される。そのメンバーは順当な者からサプライズ枠の選出もあり、サプライズ枠の者は自分が選ばれると思っていなかったのか、嬉しさのあまりに慌てふためいたり、号泣したりするなどして壇上に上がってもコメントにならず、その様子を周りの者は温かい視線で見守っていた。

 そして発表はWDTマイルまで終了し、マイルにはプレストンとデジタルの名前は上がらなかった。そしてWDTターフの発表が告げられると会場の空気が変化し、緊張感が高まる。

 

「それではWDTターフの出走ウマ娘を発表します。まずはこのウマ娘!これは誰もが納得でしょう!女帝エアグルーヴ!」

 

 司会の声とともに最前列に居たエアグルーヴにスポットライトが当り、拍手と歓声が起こる。

 エアグルーヴは立ち上がると客席に向かって一礼し、壇上に上がり司会からインタビューを受ける。

 ナリタブライアン、ヒシアマゾン、フジキセキ、ビワハヤヒデ、スペシャルウィーク、グラスワンダー、

 

 次々と名前を呼ばれていく、これらのメンバーは何回もレースに出走している常連組であり妥当な選出だった。そしてメンバーが選出されるごとに緊張感が高まっていく。

 今年のターフは常連組だったシンボリルドルフやマルゼンスキーが引退したので、サプライズ枠が多いと予想されていた。

 

「次はこのウマ娘です!粗削りながらそのポテンシャルは底知れません!ウオッカ!」

 

 スポットライトが客席に居たウオッカに当り、ウオッカは隣に居るダイワスカーレットに喜びを爆発させている。

 その様子を見ながら会場が一気に騒めく。ウオッカはまだジュニアクラスのウマ娘である。ジュニアクラスのウマ娘が選ばれるのは過去でも数例しかない、珍しいことだった。

 ウオッカは壇上に上がると緊張しながらも最高にカッコイイ姿を見せて勝つと堂々と宣言する。その姿に一同は何かをやってくれるという期待感を募らせていた。

 

「次はこのウマ娘です!ウオッカが選ばれたのならこのウマ娘は外せない!ライバル!ダイワスカーレット!」

 

 ライトがダイワスカーレットに当る。スカーレットは信じられないといった表情を見せながら手で口を覆う。その様子は普段の優等生ぶりが欠片もなかった。

 緊張した面持ちと足取りで壇上に上がりインタビューを受ける。徐々に緊張が解けてきたのか、最後は私が1番になると堂々と宣言した。

 

「ウオッカにダイワスカーレットか、お互いバチバチのライバルだし面白そう。良いサプライズね」

「2人の顔を見た!最初に選ばれたウオッカちゃんの動揺と喜び!そしてその喜びを思わずライバルのダイワスカーレットちゃんに見せる。一方ダイワスカーレットちゃんは複雑な表情!ライバルのウオッカが選ばれるのは嬉しいけど、自分が選ばれないのは悔しいと思いながら、いつも通りいがみ合ってウオッカちゃんを壇上に送り出す!そしてダイワスカーレットちゃんも選ばれていつも優等生でなくて素の感情を見せる!そして壇上でウオッカちゃんが照れ臭そうに祝福する!たまんない!」

「今のやり取りでよくそこまで想像できるわね。その想像力には感心するわ」

 

 プレストンは壇上に上がる小競り合いをしているウオッカとダイワスカーレットに視線を向ける。座っている場所からでは席に居たウオッカとダイワスカーレットの様子は後ろ姿しか見えない。

 それだけで心情を把握するのは不可能に近いが、様子を見る限りあながち間違っていないと思っていた。

 サプライズ枠に選ばれるウマ娘の様子は感情を爆発させ、見ている者の心を揺れ動かす。

 そういった意味で演出上、選出者を知らせず会場で初めて知らせるこの方法はエンターテイメントしては悪くは無いのかもしれない。

 

「そして残り2人となりました。さて誰が選出されるのか?1人目はこのウマ娘!芝ダート不問のウマ娘!アグネスデジタル!」

 

 司会の言葉と同時にライトが向けられ、プレストンはライトが当たるより速くデジタルの肩を叩く。今のデジタルは妄想の世界に入り込みかけ、とても観客に向けられる顔では無かった。

 その甲斐あってか現実世界に意識が戻り間を抜けた顔をしていたが、最低限人様に見せられる顔に戻っていた。

 

「プレちゃん?」

「デジタル選ばれたよ。ターフに。早く壇上に行って」

「あ、うん」

 

 デジタルは起き抜けのような足取りで壇上に向かって行く。その間会場はウオッカやダイワスカーレットが選出された以上にざわつく。

 ウオッカやダイワスカーレットはジュニアクラスながら実力は抜きん出て、シニアクラスのGIに出ても十分に勝てるという評価があった。何より2人はジュニアクラスだが中距離でGIを勝利している。

 一方デジタルだが今年は中距離未勝利で国内の中距離GIに至っては走ってすらいない。ある意味ウオッカやダイワスカーレット以上にサプライズ枠と言ってもいい存在だった。

 

「おめでとうポニーちゃん」

「おう、気合い入れてタイマンしろよ」

 

 フジキセキとヒシアマゾンがデジタルに祝福や激励の声をかける。

 常連組が初選出されたウマ娘に声をかけるのは一種の儀式のようなもので、選出された他のウマ娘も同じように声をかける。

 

「おめでとうございますアグネスデジタル選手、今はどのような心境ですか?」

「WDTターフには出ません」

 

 その一言に周囲の人間の思考が停止する。それは質問に答えになっていないからではない。あまりにも予想外の言葉だったからだ。

 

「もう1度言ってもらえますか」

「だからWDTターフには出ない。ダートプライドと同じ日だし、出られないよ」

 

 デジタルは平然と喋るなか、会場の人間の感情は未だに思考停止をしていた。

 

───アグネスデジタルは何を言っているんだ

 

 会場の人間は今までと比較にならないほど戸惑い、舞台袖で中央ウマ娘協会の人間は慌てふためく。

 その言葉は全く想定していないあり得ない事態だった。一方デジタルは周囲の様子を見てこう考えていた。

 

───何をそんな驚いているんだろう?

 

 デジタルと世間との意識において決定的な違いがあった。それはWDTについての考え方である。

 世間にとってドリームトロフィーとは高校野球における甲子園で有り、サッカーにおけるワールドカップであり、テニスにおけるウインブルドンであり、ゴルフにおけるマスターズである。

 たった一握りの実力者が舞台に辿り着ける憧れの舞台、それがドリームトロフィー。それをアグネスデジタルは自身の言葉で出場しないと宣言した。

 周りの人間もダートプライドの存在についてはある程度知っていた。だがDTと比べれば遥かに価値が劣ると考えていた。

 例えるならダートプライドはアメリカの高校生が出場する草野球大会で、勝てば賞金が貰えるようなものである。

 例えレベルが高くとも賞金が貰えようとも高校球児100人にどちらに出場すると聞けば、100人が甲子園と答えるだろう。それほどまでに国内においてWDTは価値が有るものだった。

 一方デジタルもWDTについては幼い頃からトレーナーに話を聞き、重要視されているものとは理解している。いずれ出場できれば嬉しいな程度に考えていた。だが真の意味では理解していなかった。

 レースは重要なのは走る相手である。走る相手が満足できれば日本でなくとも、韓国だろうが、ブラジルだろうが、ウルグアイだろうが、南アフリカだろうが、無観客であろうが問題なかった。

 ただ他のウマ娘達がそれだと満足できず煌めかないので、必然的に観客が多くグレードが高いレースに走っているに過ぎず、レースは器であり中身でなかった。だが他のウマ娘は器を重要視していた。

 

「本当に出ないのですか?WDTターフですよ!?」

「それはスぺちゃんと走りたいけどさ、ダートプライドとは同じ日だしね。分身の術でも出来ればいいんだけど。いや~忍術が使えない自分が憎い!」

「ふざけないで!」

 

 デジタルがおどけるようにインタビューに答えていると突如観客席から大声が聞こえてくる。会場の視線と意識は一気に彼女に向けられる。

 彼女は芝の中距離GⅡを複数勝ち、GIでもウイニングライブ圏内に数回入着している実力者であり、前評判ではデジタル以上に選出される可能性が高いと見込まれていた。

 

「ターフに出ないなんてどういうつもり!?ダートプライドなんてエキビションでしょ!ターフよりそんなもんが大事なの!?ドリームトロフィーは神聖で皆が目指すレースなの!それを分身術使って出たい?ふぜけるのも大概にしろ!そんなに金が欲しいのか!ドリームトロフィーをバカにするな!」

 

 彼女は感情を爆発させ叫ぶ。その言葉に感情を突き動かされたのか周囲の人間も同調し、デジタルを批判する。プレストンはその言葉を聞いて頭を抱えていた。

 デジタルの言葉はふざけているように聞こえたが本心だ。どちらも走りたいレースで有り、断腸の思いでダートプライドを選び、できるなら分身術でも使って両方走りたかった。だがその話し方が余りにも軽薄だった。

 だが他人にとってはまるで理解できない選択であり、金に目がくらんだと思われても致し方が無い。

 何より彼女が切望していたドリームトロフィーをあっさりと捨てた。ダートプライドに懸ける想いと主義や思考を知っているので、選択を支持できる。

 だが彼女にとってデジタルの行動は大切な物を価値が無いと扱われたようなものだ。

 プレストンもかつて自身の特別を捨てようとしたデジタルに彼女と同じような気持ちを抱いたので気持ちは分かる。

 そして少なくない人間が彼女の考えに同調している。プレストンもドリームトロフィーの位置づけは理解し、少し前までは同じように思っていた。

 

「何か雰囲気悪くしたみたいだし、帰るね」

 

 デジタルも雰囲気の変化を察したのか、マイクを司会に渡すと壇上から降りて出口に向かう。その後を中央ウマ娘協会の人間とマスコミが後を追った。

 

───

 

 デジタルが教室に入るとデジャビュを感じていた。正確に言えばどこかで見た光景を見たのではない。周囲からぶつけられる嫌悪感や憎しみの負の感情、この雰囲気にどこか覚えがあった。

 自分の机に向かう間に脳内から記憶を掘り起こして検索し、答えを導き出す。これは去年の天皇賞秋の時と同じ雰囲気だ。

 去年の天皇賞秋に出走する際に騒動が起きた。当時のシニア級の中長距離のGIはテイエムオペラオーが1着、メイショウドトウの2着という結果で固定されていた。

 その地味な勝ち方、同じような結果にファンは閉そく感を感じていた。そのおりにウラガブラックが出走を表明した。

 彼女はNHKマイルに勝利し、派手な勝ち方とルックスで人気が有り、オペラオードトウの暗黒王朝を打倒してくれると期待されていた。

 だがその枠を奪い、その経緯を知ってファンや学園のウマ娘達は批判を浴びせていた。

 デジタルは席に座り、携帯に映る画面を見ながらその反応にある意味納得していた。WDTターフへの出走辞退した様子はライブ配信され、ネットでは賛否両論を呼び、今日の朝のワイドショーでも取り上げられていた。そして世論は否定的だった。

 暫くするとプレストンが教室に入ってくるとデジタルと同じように負の感情をぶつけられていた。それに意を介さず席に着く。

 

「お、ダークネス香港マスターの到着だ」

「なにそれ、ダサい。反逆の勇者は黙って」

「プレちゃんこそダサい」

「これは今日の東スポの見出しの言葉を使っただけだから、ダサいのは東スポの人間よ」

 

 デジタルとプレストンはお互い悪態をつきながらも和やかな雰囲気で会話を始める。

 

 昨日のWDT出場者の発表の際にもう1つ騒動が有った。デジタルの出場が発表された後にプレストンがWDTターフに選出された。そして同様に出走を辞退すると宣言したのだった。

 

「いや~家に帰ってPCでネット見てたらビックリしたよ。まさかプレちゃんもターフに出ないって」

「それは正確じゃない、正確に言えば出ても本気で走らないから、他の人に枠を譲った方がいいですよって提案しただけ」

「それで何で本気で走らないの?」

 

 デジタルの問いに和やかな空気が一変し、シリアスな空気に変る。

 プレストンの出走辞退の発表は寝耳に水だった。正直に言えば出走を辞退しただけでここまで問題になるとは思っていなかった。

 この調子だと天皇賞秋の時のようにトレーナーやチームメイトにマスコミが押し寄せ、迷惑をかけることになるだろう。

 だがプレストンが聡明であり、同じような事態になることは予想できるはずだ。それなのに周りの迷惑より自身の意志を通した。それは想像とはズレていた。

 

「まず前提として、アタシの最大目標は香港のクイーンエリザベス2世カップ。それに向けてトレーニングして、レースに出て調整するつもり」

「うん」

「そしてクイーンエリザベスの前にWDTターフが有る。他のウマ娘はここを目標にメイチで仕上げてくる。そしてアタシはクイーンエリザベスが目標で、ここをメイチで仕上げたら反動で体調を崩してクイーンエリザベスまで体調が戻せないかもしれない。そんなリスクは冒したくない。只でさえ格下なのに仕上がりに差が有ったら勝負にならないでしょ。それだったら他の人が走った方がいい」

 

 ドリームトロフィーは日本に所属するウマ娘にとって憧れのレースだ。

 それは日本ダービーと同等であり、そのレースに勝つために全てを燃やし尽くし、勝利を最後に引退したウマ娘は少なくない。そんなレースに全力で臨まないウマ娘が居るとすればレースに対する侮辱行為だ。

 

「なるほど、それなら仕方がない。そう説明すればいいじゃん。何で叩かれてるの?」

「したわよ。でも世間は納得しないの。ドリームトロフィーより他国のレースを優先するなんてなにごとかってね」

「どんなレースを走ったって別にいいじゃん」

「そこは同意見」

 

 プレストンは愚痴に同意すると同時に胸を撫で下ろす。

 上手く論点をずらす事に成功した。一応煙まいたが問題なのは何故ドリームターフより香港のクイーンエリザベスを優先するのかが問題である。

 その理由を聞かれたら本音を話すと決めていた。そして本音を話すのは恥ずかしかった。

 

 プレストンが香港のクイーンエリザベスを優先する理由は2つある。まずはレースそのものである。

 香港のマイル中距離で絶対的な強さを誇る香港マスターという特別を見出した。その特別になるためにはクイーンエリザベスに勝つことは必須だった。

 

 そしてもう1つはアグネスデジタルの存在だ。もしデジタルがクイーンエリザベスに出走しなければ、ドリームトロフィーにメイチで仕上げてもいいかもしれないという選択肢が出来ていただろう。

 例え調子を崩してクイーンエリザベスに負けて特別になれなくても挑む価値と魅力が有る。だがデジタルが出走するとならば話は別だ。

 デジタルはレースより走る相手を重視する。その考えをクイーンエリザベスで走るまで理解できなかった。

 今年のクイーンエリザベスの記憶は今でも鮮明に思い出す。肌を焦がす季節外れの灼熱、摩擦熱で焦げた袖の匂い、全てを出し尽くしライバルと死力を尽くした高揚感や充実感。

 

楽しかった。

 

 レースを一言で振り返る言葉としたらこの言葉しかあり得ない。それは何度でも味わいたい極上の体験だった。

 そしてそれは最高のライバルと走ったからこそ味わえたもので、ドリームトロフィーで味わえるとは断言できなかった。

 そして極上の体験を味わうには全力を尽くす事が必要不可欠だ。

 エイシンプレストンというウマ娘は香港において無類の強さを発揮する。そこで走る事が全力を尽くす事であり、全力で走る為には入念な準備と計画が必要であり、ドリームトロフィーは不必要である。

 デジタルはダートプライドの後に香港で走る事を約束した。ダートプライドはドバイワールドカップ以上の激戦が予想される。その結果体調を崩し、クイーンエリザベスを走れなくなる可能性は充分にある。むしろその可能性が高いと予想していた。

 そうなれば最高峰の舞台に挑む機会を失う。だがデジタルが走れなくなる可能性が高くとも走りたかった。

 プレストンもデジタルと同様にレースという器より、走る相手という器に入っている中身を重要視し始めていた。

 

「デジタルの言いたい事が分かってきた」

「よく分からないけど、漸くアタシの域に辿り着いたんだね」

「うるさい、それよりアタシの身体操作能力の域に辿り着きなさい。そうしないとダートプライドで一生後悔するよ。はい、目を瞑っていつもの」

「はいはい」

 

 デジタルはプレストンに言われた通り、目を瞑って腕を伸ばして人差し指同士をつけるという身体操作能力向上訓練を始めた。

 

 


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