アドマイヤマックスはチームルームにある酸素カプセルに入りながらトレーニングの疲れを癒しながら体の隅々の部位に語り掛け調子を確かめる。
チーム専属のマッサージ師からマッサージを受け、氷風呂に漬かり、酸素カプセルに入る。これらのケアはチームリギルでも行えない贅沢な物だ。全ては親方と周りの援助によって可能となっている。
アドマイヤマックスは丈夫なウマ娘ではなく、現に左右の足を骨折したことがある。だからこそ人一倍体に気遣い入念にケアしている。いくら理想の偶像を作り上げられても体が持たなければ意味が無い、全ては理想の偶像を感じるために。
アドマイヤマックスは酸素カプセル内で心を平静に保ち体と会話する。しかし心が乱れ会話が途切れる。
アグネスデジタル再生計画は順調に進んでいた。走りながらでもイメージを構築できる段階まで進めたが、ラスト1ハロンで急激にイメージにノイズが走り崩れていき、2バ身差が縮まらない。何度も走り部屋でイメージを強固にし、いくら力を振り絞ってもノイズが走り2バ身差を縮められない。まだ何か足りないのか?先の段階に行けない焦りが日々募っていた。
アラームが鳴りと同時に蓋が開き、体を起こし立ち上がる。やはり実直に積み重ねていくしか無いと言い聞かせながら寮の部屋に戻ろうとチームルームの扉を開けると1人のウマ娘が仁王立ちしていた。
身長150cm程度、髪はセミロングで髪先がふわりと膨らんでいて、猫のような目が特徴的だった。
アドマイヤドン、アドマイヤマックスの幼馴染であり親友である。その親友はアドマイヤマックスを睨みつけながらドスの利いた声で話す。
「ちょっとツラ貸せ」
アドマイヤドンは椅子に腰を掛けるとアドマイヤマックスを見据える。2人が向かった先はアドマイヤドンが所属しているチームルイデのチームルームだった。この時間帯ならチームのウマ娘が居るはずなのだが、誰も居なかった。
「ちっと人払いした。2人だけで話したいからな」
アドマイヤドンはマックスの疑問に答えるように話す。口調は軽いが雰囲気は今までにないほどシリアスだった。
「マックス何を悩んでるんだ。何でも相談に乗るぞ」
「悩みなんて無い」
「じゃあ何でそんな風になっちまったんだよ!」
マックスの切り捨てるような言葉にドンは思わず声を荒げる。無断外泊した直後からマックスはおかしくなった。授業やトレーニングには全く出ないで部屋に引きこもり、部屋から出たと思えば何かを思いつめたような暗い影を差した表情で姿を現し、トレーナーの指示を無視してブツブツと独り言を言いながら単走で走り続ける。そして目ざとくチームメイトに気を配っていたのに、今では全く視界に入っていないように無視し自分の世界に没頭している。
トレーニングに対しては前以上に熱心に取り組んでいる。その姿にかつてはチームの皆は引っ張られていた。だが今は熱心というより自傷的で破滅に向かっているようでその姿は皆のやる気を削ぎ不安を掻き立てる。
「アドマイヤグルーヴは調子を崩した。おねえちゃんも親方も心配してる!」
ドンの語気はさらに荒くなる。グルーヴはマックスを姉のように慕っている。だが臆病で繊細な性格のグルーヴはその不快にさせ不安を掻き立てる空気に耐えられず調子を崩している。
アドマイヤベガもマックスの異変を知り心配になって会いに来た。だがマックスは録に話を聞かず追い返した。親方も忙しいなか様子を見に来ても同じように話を聞かず追い返した。その時の寂しく辛そうな顔は今でも忘れられない。
マックスはアドマイヤの人間たちに多くの心配をかけて不安がらせている。だが全く意に介さず自分の世界に閉じこもっている。今では誰もマックスの周りにはいない。
ドンはドバイ遠征での疲れを癒すために実家で短期休養を取っている時にマックスの異変を知った。一発ぶん殴ってでも元のアドマイヤマックスに戻してやると息巻いて二人っきりでの話し合いに持ち込んだ。だがその異変は想定を超えていた。
虚ろでどこか遠くを見ている瞳、その目見られるだけで不安を掻き立てられ、その雰囲気に呑まれかけていた。
「アタシ達は親友だろう!何でも言ってくれよ!何でも手伝うからさ!」
ドンは自分を奮い立たせるように声を張り上げる。このまま放っておいたら取り返しのつかないことになるという予感があった。何としてでも正気に戻さなければ。
「ドンは何のために走る?」
マックスは相手を見ているか見ていないか分からない瞳でドンを見つめ質問する。今まで別のところに意識を向けていたマックスが初めてこちらに意識を向けた。
この質問の答え次第でマックスの気が変わるかもしれない。なんと答えれば正解だ?ドンは熟考し10秒20秒と経過するが答えは出ない。その間マックスはドンを見つめ続ける。
「勝ちたいからだよ!あとはおねえちゃんを超えたい!トレーナーや親方や周りの人が喜んでくれたら嬉しい!」
ドンは若干破れかぶれ気味で言い放つ。自分の頭じゃ何が正解かは分からない。それならば自分が思う理由をぶちまける。
マックスはドンの様子を見て表情が緩む。それは豹変する前のかつての表情だった。
「私もかつてはそうだった。チームとアドマイヤを日本一にするために、その為に走っていた」
「今は違うのか?」
「違う。今は理想の偶像を感じたい。それだけ」
マックスの言葉にドンの思考は停止する。それはあまりにも予想外の言葉だった。困惑するドンに解説するように話を続ける。
「偶像、ドンがわかるように言えばアイドルだね」
「そのアイドルを感じることとマックスの変わりようは関係あるのか?」
「私が感じたい偶像はこの世にはいない。だから私の手で再生させなければならない。そして再生させるのには多くを捧げなければいけない。情熱、時間、執着。多くを捧げてきた」
「じゃあ、お前がおかしくなったのは、そのアイドルを再生させるためなのか?」
「そう」
ドンの背筋に寒気が走る。アイドルを感じたくて再生させるという意味不明な理屈のために、皆を拒絶する。その心境が全く理解できなかった。
「けれどまだダメ。もっと多くのものを捧げなければ再生できない。だからドンとはこれでお別れ、私はチームルイを抜けて、アドマイヤとは一切の関係を断つ」
「ふざけるな!」
ドンはテーブルを力いっぱい叩きながら立ち上がり、怒りで目を血走らせながらマックスに詰め寄る。
「冗談でも言って良い事と悪いことがあるだろ!チームを抜けるだ!?アドマイヤと縁を切るだ!?そんなことしたら、トレーナーが!親方が!皆が!どれだけ悲しむと思ってんだ!それにアイドルを感じるってのはチームを辞めたりアドマイヤと縁を切らなきゃできないことなのかよ!」
ドンは射殺さんばかりの目線をマックスにぶつける。チームメイトとアドマイヤのウマ娘たちは固い絆で繋がった家族だ。それを切り捨てるというのはこの世で一番許せない言葉だった。
マックスはその殺気を淡々と受け止め冷たく影を帯びた目で話しかける。
「チームやアドマイヤを日本一にするのが走る目的では無くなったと言ったけど、これでもチームやアドマイヤに対する情は残ってた。チームに在籍しアドマイヤとの縁を保ちながら偶像を感じる。それが理想で私の残っていた情だった。でもそれじゃあたどり着けない!偶像を感じられない!だから捨てる!チームもアドマイヤも!」
アドマイヤドンは無意識に拳を振り上げるがその動きは金縛りにあったように止まる。その目に宿る闇と妄執、いや最早狂気だ。その狂気に呑まれ一方二歩と後ずさる。
「そんなにアイドルが大事なのかよ……」
「そう」
「チームメイトやトレーナーやアドマイヤよりもかよ」
「そう」
「コジーンさんよりもか?憧れであの人みたいになりたいって言ってたじゃん」
「そう」
「アタシよりもか?」
「そう」
最後の言葉を聞いて確信してしまう。もうマックスを止めることはできない。完全に狂気の世界に振り切れてしまった。
アドマイヤマックスは話が終わったとばかりに席を立ち出口に向かう。アドマイヤドンはそれを呆然と見送ることしかできなかった
「ドン、今までありがとう。楽しかった。アドマイヤを頼む」
アドマイヤマックスは去り際に呟く。その表情はかつての親友の顔だった。だが即座に妄執に囚われた顔に戻っていた。
ドンは唇を噛み締め俯き涙をこらえる。マックスにとって自分もアドマイヤもアイドルに劣る存在、それが悔しくて悲しくてたまらなかった。
アドマイヤマックスの脳裏にドンやチームメイトやアドマイヤの人々との楽しかった日々が蘇る。だが即座に理想の偶像のイメージで塗り替える。
自分がやろうとしている事は正気の沙汰ではないことは分かっている。妄執と言われれば肯定するだろう。それでも全てを投げ打ってでも理想の偶像を感じたい。故に正気を捨て全ての繋がりと大切だったものを捨てる。
もう後には戻れない。だが後悔はない。全てを捧げるほどに理想の偶像を感じることに価値が有る。
翌日アドマイヤマックスはチームルイから別のチームに移籍した。
──
アドマイヤマックスは足を広げゆっくりと息を吐く。心を落ち着かせ木漏れ日から漏れる日差しや葉が擦れる音や樹木の匂いを感じ取る。それらがはっきりと感じられるようになったら、今度は全ての神経を自分の体に向けて少しずつ体を動かしストレッチをおこなう。
チームルイから移籍した先はトレセン学園でも底辺と呼べるようなチームだった。チームメンバーは自分入れて5人、チームの最少人数である、なかには少数精鋭ということで人数を絞る場合があるが、今のチームはGIどころか重賞すら走ったことがあるウマ娘はいない。
そんなチームに設備があるわけはなく、マッサージ師も酸素カプセルどころか、氷風呂を用意する氷もシートも買えない。そんな場所では体のケアの方法はストレッチぐらいしかない。
かつての倍以上の時間をかけてゆっくり行う。食事するときも排泄するときも果ては睡眠の夢でも理想のアグネスデジタルについて考え想像しているが、このストレッチの時だけは理想を忘れ体との対話に集中する。いくら理想を想像できても怪我して理想についていけなければ意味はない。
30分以上ゆっくりと時間をかけストレッチして、着替えるためにチームルームに向かい、ギィギィと音をたてる扉を開けチームルームに入る。中の壁はひび割れ所々がカビで黒ずんでいる。新築でピカピカだったチームルイの部屋とは雲泥の差である。
部屋ではチームのウマ娘達4人が談笑していた。マックスの姿を見た瞬間和やかだった雰囲気は一転し重苦しい空気となり全員が口をつぐんで俯く。その姿に気に留めることなく着替え部屋を出る。その姿を確認して4人は安堵の息をもらした。
トレセン学園にはエリートと呼ばれるウマ娘ばかりが入学する。だがそのなかでも優劣は生まれ、劣っているウマ娘は現実の非情さと己の無力さを痛感させられ心が挫け上を目指さなくなる。
それでも走ることは好きで、レース場で多くの観客に見守られながらレースに走りたいとも思っているウマ娘も多い。そういった者達はレースに全ては掛けられないが程々に頑張って、仲間たちと楽しく過ごし青春を味わいたいという俗に言うエンジョイ勢となる。このチームはその典型だった。
5人で程よく楽しんでいたが1人のウマ娘が怪我でレースを走れなくなりチームを脱退する。このままではチームが解散となり居心地のよい空間は無くなってしまう、どうしようかと悩んでいるところにアドマイヤマックスが入団した。
名門チームに所属しGⅢにも勝ったエリートが来た。4人は戸惑ったが何かしらの事情があるだろうし、暖かく迎えようと歓迎ムードだった。だがそれはすぐに無くなった。
出会った瞬間理解する。虚ろでどこを見ているか分からないような瞳、だがやる気というかエネルギーは満ちている。しかしスターウマ娘が見せるような爽やかで美しいものではなく、ドス黒く闇に引き釣り込まれてしまうような瘴気のようなものを纏っている。このウマ娘とは関わってはならないという共通認識が4人に芽生えていた。
アドマイヤマックスは寮に向かう間トレーニングについて振り返る。やはりこのチームに移籍して正解だった。
チームもアドマイヤも理想の偶像にたどり着くためには不必要な不純物だった。この底辺みたいな場所ならば理想の偶像を感じることだけに没頭できる。その証拠にラスト1ハロンで消えてしまったアグネスデジタルのイメージは今やラスト50メートルまで維持できており、差も1バ身にまで縮まった。このままいけば理想の偶像は完成しアグネスデジタル再生計画は完了するという確かな手応えを感じていた。
寮につき足早に自室に向かうとルームメイトとの境界線となるカーテンを締め、タブレットでアグネスデジタルのレース映像やインタビュー映像などの収集した情報を見る。
日々の日課となったイメージ強化、これらの映像は優に1000回以上は見たもので、脳内で走る姿は寸分違わず再生でき、インタビューの内容は一語一句暗唱できる。だがそれでもマックスは見続け没頭していく。
1流のボクサーが意識を失ってもトレーニング通りのパンチを打ち込めるよう反復練習するように、骨が折れようが腱が切れようがどんな状態でも理想の偶像をイメージできるように体に染み込ませていた。
「ごめんやっしゃー!」
突如大きなノック音がすると同時に扉が勢いよく開きバカみたいに能天気な声が響く。その程度の騒音でアドマイヤマックスの意識はアグネスデジタルから外れることはない。しかし気がつけばタブレットの映像から目を離しカーテンをそっと開けて来訪者を確認する。
チラリと映るあのグレーの髪だけで分かる。アドマイヤコジーン、かつてのチームの先輩であり憧れのウマ娘だ。アグネスデジタル再生計画を開始してから多くのウマ娘が訪れた。アドマイヤドン、アドマイヤベガ、アドマイヤグルーヴ、そして親方、学園在籍のウマ娘だけではなく、OGや関係者が来たがアドマイヤコジーンだけは1度も訪れなかった。なぜ今になってと理由を考えようとするが、思考は一気に吹き飛ぶ。
くいだおれ人形が着ている赤と白のピエロのような服と帽子を被り、肩には勝負服を着たアドマイヤマックスのミニチュアとヒヨコが乗っかっている。あれは安田記念の前々日会見で使った小道具でさんざんアピールしたが司会に完全にスルーされてスベっていた。さらにハチマキ神風と書かれた日の丸のハチマキを着けている。
かつてチームルイに在籍していた際にはチームルームに来るたびにウケを狙おうと小道具などを使ってボケており、在りし日の思い出が蘇り無意識に口角が上がっていた。
アドマイヤコジーンは険しい顔を浮かべながら近づいてくる。そのシリアスな雰囲気はかつて一度だけ本気で説教を受けたときと同じ顔をしていた。マックスは過去を思い出し思わず唾を飲み込む。コジーンは険しい顔を浮かべながらカーテンの前にあぐらで座りカーテン越しに映るマックスに話しかける。
「ようマックス、調子はどうだベイベ」
マックスは思わず笑い声をあげるのを必死に我慢する。重苦しい雰囲気を醸し出してからのボケ、葬式の時に何故か笑ってしまうのと同じ現象で古典的な方法だが効果は絶大だった。だが笑えばコジーンに負けたような気がするので懸命に堪える。場は完全にコジーンに支配されていた。
「話は聞いたぞベイベ、連絡取ろうにも着信拒否でラインは完全スルーするから直接来たベイベ」
さも当然のように語尾にベイベをつけて世間話するように話し始める。
「アドマイヤは大騒ぎだベイベ、グルーヴは完全に意気消沈してるし、ドンはあのイカレ野郎って荒れてるし、ベガは理解できないって呆れて、親方は娘が非行に走った父親みたいにアタフタしてるベイベ」
流石に慣れたのでもう笑いがこみ上げることはない。それを知ってか知らずかコジーンは気にせず軽い口調で話を続ける。周りの近況を語れられるがあらかた想像がつく。だが申し訳なさは一切湧いてこない。改めて自分の中でアドマイヤとは完全に縁を切ったのだと実感する。
「マックスがどれだけチームとアドマイヤを日本一にしたいって思ってたかは知っているつもりだし、どれだけ情熱を注いだのかは知っているつもりだ。でもそれ以上に大切でやりたくて楽しくて気持ち良くて嬉しいことが見つかったんだな」
コジーンはふざけるのを止めて真面目な口調で語りかける。
「マックスの様子を聞く限りでは人生を賭して、そのアイドルだっけ?誰かは知らないけど熱中しているんだろう?世間的にはチームやアドマイヤというコミュニティよりアイドルを優先するのは心証が悪いだろうけど、別にいいじゃん。そっちのほうが大切で好きならのめり込めばいい。
よくアイドルを追っかけた時間は非生産的で無駄で何も残らないって言うけどさ、その時間は楽しいならいいじゃん。その思い出が今後の人生を支えてくれるかも知れない。それは周りとの縁を切ってアイドルを追っかけても後悔するけど、追っかけなくても後悔する。どっちみち後悔するなら好きな方をやって後悔したほうがいいだろう」
コジーンの言葉に力が入る。自分も大怪我して前のようには走れないと言われ苦しい思いをするから止めたほうがいいと言われた。それでもGIを買った瞬間の歓喜を味わいたくて走り続けた。勝てなくて周りから哀れまれたりして辛い日々もあったが、最後はGIに勝ち歓喜を味わえた。
マックスみたいな真面目なウマ娘が全てを捨てて走った道、それは大半の人間には理解できないものであり、不幸が待っているかもしれない。だがその道を進めばマックスにとって最上の幸福が得られるかもしれない。今やるべきことは元の道に連れ戻すことではない、今の道を進むマックスを見守ることだ。
「もしアイドルの追っかけが詰まらなくなったらいつでもアドマイヤに戻ってこい。居場所はアタシが用意してやる」
コジーンは立ち上がり部屋を後にして寮を出て行く。その様子をマックス窓から見つめる。
チームメイトやアドマイヤの関係者は正気に戻れ、考え直せとマックスが進む道を否定した。だがアドマイヤコジーンは進む道を否定せず見守ると言った。だがそれだけである。
コジーンの言葉によってさらに決意を固め決意が増す事はない。だたそういうスタンスであるということを知っただけである。
もはや憧れの存在だったアドマイヤコジーンの言葉すら影響を与えない。マックスは決断的に自分の道を進んでいく。その先に理想の偶像を感じられる未来があると信じて。
───
デジタルは段ボールを5個重ね持ち上げる。中身は衣類や教科書類、そして勝負服のレプリカ等大部分を占めるウマ娘グッズである。自分の部屋のスペースをギリギリまで埋める量だけあって流石に多い。さらにこれからは買う物も増えるので、いくつかを実家に送り保管してもらうしかない。どのグッズを実家に送るのかを考えながら移動する。
デジタルとアグネスウイングの部屋交換は正式に許可された。期間は決めていないがデジタルはとりあえず完全に移住するつもりで荷造りしていた。
首を左右に動かし視界を確保しながら進んでいく。目的地はアドマイヤマックスが居る部屋だ。怪物、妖怪、悪魔。アグネスウイングがアドマイヤマックスを形容する言葉だ。話半分に聞いても普通ではない。どんなウマ娘でどんな刺激を与えてくれるのか、少しだけ高揚していた。
デジタルは荷物を置き扉を開ける。
「OH……」
デジタルは思わず呟く。それは初めて感じる感覚だった。
ウマ娘の中には減量中のボクサーのようにレースに向けて集中力を研ぎ澄ますタイプも居る。その気迫と圧力に周りの人間は声を掛けられないほどである。デジタルも入学した当初そのウマ娘を一目拝もうと近づいたが、その気迫と圧力に呑まれすぐにその場から去ったことがある。
それはオペラオーやメイショウドトウやエイシンプレストン等今まで走ってきたウマ娘達が発してきた絶対に勝つという断固たる意志が発する圧力と気迫と同じだった。
だがアドマイヤマックスから発せられる空気はそれとは違った。もっとひりつき重苦しい禍々しい。人の気持ちをざわつかせ不快にさせる、まるで魔界の瘴気のようだ。
アグネスウイングが言った妖怪や悪魔という形容詞はあながち間違っていない。そして同時に感じる人を拒絶する分厚い壁、正確に言うなら何かに熱中して他人に気づかない程自分の世界を入り込んでいるという印象だ。
こんなウマ娘が居るのか。アドマイヤマックスの空気に当てられ不快感を抱きながらも未知のウマ娘との邂逅に口角は無意識に上がっていた。
「はじめまして、アグネスウイングちゃんの代わりにルームメイトになったアグネスデジタルです。よろしくねアドマイヤマックスちゃん」
デジタルはカーテンの向こう側にいるアドマイヤマックスに挨拶する。すると一瞬怒気や憎悪や落胆などのネガティブな感情を感じ思わず体を震わす。だがそれは一瞬で消え、部屋に入った瞬間に感じた雰囲気に戻っていた。
デジタルは部屋の外にある段ボール箱を運び荷ほどきを開始する。制服や教材を整理しグッズをどこに飾ろうかと思案しているとカーテン越しに声が聞こえてきた。
「アグネスデジタルさん、ありがとうございます」
思わず声がした方向を振り向く。正直コミュニケーションをとるのは難しいウマ娘だと思っていただけに、あちらから声をかけてくるとは思っていなかった。
「何かは分からないけど、どういたしまして」
アドマイヤマックスとの接点は思い当たる節はないが、とりあえず返事はしておく。
「もし憧れや好きな人が好きじゃなくなったり憧れで無くなったら、どうしますか?」
突然の質問にデジタルは考え込む。初対面の人間に聞くような質問としては重い、自分の世界に入り込む間を惜しんで聞いてきたのだから興味が有るのだろう。数秒ほど考えてから答えた。
「今は好きじゃなくて憧れじゃなくなっても、昔は好きだったり憧れていたんでしょ。だったらその思い出を大切に仕舞いこんで、時々懐かしみながら進むかな」
質問に対する答えを考えている時に思い浮かんだのはセイシンフブキのことだった。今でもセイシンフブキのことは好きであり憧れもある推しの1人だ。だがセイシンフブキはレースを通して感じたいウマ娘ではなくなってしまった。
だが落胆したり怒りを抱くことはない。今はそうでなくてもかつては最高に煌めき輝いた姿を感じられた。それだけでも感謝してもしきれない。その思い出を胸にしまって、時には振り返って楽しんで活力を得たら新しい体験と出会いを求めて前を進む。それが答えだった。
「うらやましいですね。私には思い出を懐かしむ余裕はない。この思い出に縋りつくしかない。何千何万回イメージして、擦り切れるまで思い出し続けて」
マックスの言葉はぽつりと呟く。その言葉は悲痛でカーテンの向こう側にいるウマ娘は妖怪や悪魔ではなく、ごく普通のウマ娘に見えた
それ以降マックスとデジタルの会話は一切なかった。デジタルは食事を摂り風呂に入り安田記念のウマ娘について調べるなどして自由に過ごしながらアドマイヤマックスに意識を向ける。
依然禍々しい雰囲気を醸し出している。カーテンの向こう側で何をしているか分からないが憑りつかれたように打ち込んでいる。凄い情熱と集中力だ。
それ程までに安田記念に懸けているのか、いやそれとは違う別の何かに打ち込んでいる気がする。デジタルはマックスの心中を察しようと思考するが気が付けば意識を手放し寝ていた。
深夜帯デジタルは完全に寝ているなか、マックスは一旦イメージの強化訓練をやめてデジタルについて考える。
今日のイメージ強化訓練はいつもと同じように集中できていた。誰が大声を出しながら部屋を訪れようが、大地震が起きようが寮で火災が発生しようが乱れないだろう。だがアグネスデジタルが部屋に訪れた瞬間いとも容易く乱れた。
憧れであり偶像だったデジタルがルームメイトになる。かつての自分なら狂喜乱舞していただろう。
だが目の前にいるのは理想の偶像ではない。ただの堕ちた偶像であり成れの果てだ。そう思うと動揺は一気になくなり冷静さを保てた。
そして一言二言交わした。理想の偶像では無くなったデジタルに対する怒りは確かにあった。だが礼を言ったのは理想の偶像では無くなったとしてもダートプライドで理想の偶像となり、その姿を感じるという道を残してくれたことへの感謝の言葉だった。
次の質問は自分と同じ立場だったらアグネスデジタルはどうするかという興味からだった。この質問にこう答えた。
その思い出を大切に仕舞いこんで、時々懐かしみながら進むかな
それはマックスが納得する答えでは無かった。それができればどれだけよかったか。だがダートプライドに見せた輝きは骨の髄まで魅了され心に刻まれてしまった。
思い出にして懐かしむだけでは満足できない。麻薬を求める中毒者のように何度でも求め感じたかった。
デジタルは理想の偶像ではなくなった。この感じたいという渇きと渇望をどうすれば癒し満たせる?
それを思い出にして前に進むこという考えは全く浮かばない、デジタル以上のウマ娘はこの世に存在しない、そして今後一切現れない。
未来にある可能性と全く希望が持てない。理想の偶像を再生させ自分が満たされるまで感じるという道しかなかった。
アグネスデジタルが再び理想の偶像に蘇ってくれれば。
マックスは考えを即座に打ち消す。姿を近くで感じて確信してしまった。今のアグネスデジタルは理想の偶像ではなく、2度と戻ることはない。
マックスのなかに無意識に残っていたしこりが消える。未練が無くなったことにより深く没頭していく。
───
トレーナーはスタンドから双眼鏡をウッドコースに向ける。そこに映るのはアグネスウイングが1勝クラスのウマ娘を一気に抜き去る姿だった。
良い調子だ、動きに躍動感が戻ってきた。先日までの覇気の無さが嘘のようである。やはり調子の悪さはアドマイヤマックスが原因であり、部屋を変えてからは調子を取り戻した。
そしてアグネスウイングの直後にデジタルがスタートする。安田記念前に向けて最後のトレーニングである。前に2人置きながら走り残り200メートルで1人目を抜き、残り50メートルで2人目を抜きゴールする。まずまずの仕上がりだ。トレーナーはスタンドから降りてデジタル達の元に向かった。
「まずまずやな。寝不足ってことはなさそうやな」
「アドマイヤマックスちゃんのこと?最初はちょっと戸惑ったけど、あの雰囲気はゾクゾクして癖になっちゃいそう。しかも安田記念が迫るごとに鬼気迫るというか雰囲気が凄くなってゾクゾク感が増してるし、それだけでご飯2杯はいけるね」
デジタルが嬉しそうに語る姿をアグネスウイングが顔引き攣らせドン引きしながら見ていた。トレーナーもアドマイヤマックスと同じ部屋で生活したことがないので、どれほどのものかは分からないが、アグネスウイングが調子を落としたことや今の顔を見れば、その異様さを察せる。
そんなアドマイヤマックスとの生活に耐えるどころか喜んでいる。そんな感性のウマ娘はトレセン学園の中でもデジタルだけだろう。
暫くしてマスコミが安田記念前の取材に来たのでトレーナーとデジタルは質問に答える。
「今日はマスコミの数少ないね。まあ楽だからいいけど」
デジタルは清々すると言わんばかりの表情を見せる。かきつば記念前はトレーニングする度にマスコミが押し寄せたり、特集の取材に来たりと正直鬱陶しかった。
「それは前走で負けたからな。商品価値無しと見なされたんやろ」
トレーナーはさらりと言い放つ。かきつばた記念の敗戦後は夢から覚めたように世間のデジタルへの関心は薄れていく。
これが3冠ウマ娘なら評価を下げてしまったと気を病んでいたがデジタルに関しては好都合だった。オペラオー達に主役としての心構えを教えられ自覚が芽生えたかもしれないが、本質は主役気質ではなく、自由な立場で好き勝手やりたいタイプだ。そういった意味では余計な荷物がなくなりありがたかった。
「それは事前人気が証明しとる」
「アタシは何番人気?」
「4番人気、1番人気が中山記念とマイラーズCに勝ったローエングリーン、2番人気が去年のNHKマイルCを勝って、前走の京王杯SCに勝ったテレグノシス、3番人気が皐月とダービー2着、去年の宝塚記念に勝ち前走の新潟大賞典に勝ったダンツフレームや。終わったウマ娘扱いで4番人気は上等やろ」
トレーナーの口から終わったウマ娘という言葉を聞けばショックを受けるウマ娘もいるだろう。
だがデジタルはそんなことを気にするウマ娘ではなく、トレーナーも口で言いながらも終わったとはサラサラ思っていなかった。
「アドマイヤマックスちゃんは何番人気?」
「10番人気、いくら重賞を勝ったことがあるって言っても長期休養明けの初戦がGIはキツイやろ」
トレーナーは訝しむ。GIを複数勝っているウマ娘ならともかくGIを勝っていないウマ娘が選ぶレースではない。
普通ならOPクラスのレースを走って様子を見るのが妥当だ。長期明けでも勝負になると思わせるほどの才能と実力を有しているのか?それともチームルイから移籍したチームのトレーナーがGIを出走させたという実績が欲しいが故の選択か?
「まあ、あくまでも事前人気は事前人気、気にすんな。」
「いや、別に」
トレーナーの言葉にデジタルはそっけなく答える。念のために励ましたが案の定の反応だ。本当に世間の評価など心底気にしていない。考えているのはレースを通してウマ娘を感じることだ。
「それじゃあ、クールダウンして上がれ。くれぐれも出走ウマ娘の妄想が捗って寝不足とかになるなよ。それやったら今後レースに出走させんからな」
「大丈夫だって、アタシだってもうベテラン。レースでウマ娘ちゃんを感じるためには万全の状態で臨むって……たぶん」
デジタルは最後に気になる言葉を残しながら去っていく。口ではああ言っているが万全の体調で仕上げるだろう。だがトレーナーが抱く一抹の不安は消えなかった。
先日語ったように次なるウマ娘と刺激を求めて、安田記念に向けてトレーニングを積み仕上げていく。それは当初想定していたモチベーションの低下による不調を払拭するものだった。だが好調であれど絶好調ではないと思っていた。
もし安田記念に出走するウマ娘が香港で走るプレストンやダートプライドを走ったウマ娘並の力を発揮したとしてデジタルは追いつけるか、その問いには残念ながらNOと答えるだろう。
あの時のデジタルはプレストンやダートプライドを走ったウマ娘達に異常なまでの執着を示していた。だからこそ追いつき感じるためにあそこまでの走りができた。そして安田記念にはその相手が居ない。
だが絶好調ではないだけで好調であることは変わりない。それにあそこまでの振り切れた走りを続ければ選手寿命は縮んでしまう。より長くウマ娘を感じる為には100%以上の力を出さないことが肝要である。
トレーナーの見立てでは安田記念に世界屈指の実力を持つウマ娘は居ない。ならばウマ娘を感じるという目的は達成できるだろう。
トレーナーが感じた不安は気が付けば消えていた。
そして日曜日、安田記念当日を迎える。