勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と慈悲#7

『さあ、レースがスタートしました。1番のミスキャストが出遅れ、そして6番のダンツジャッジが転倒しました!』

 

 時速60キロで走るウマ娘が転倒すれば高い確率で怪我する。最悪の事態を想像したのか観客席から悲鳴が上がる。だがスタート直後でスピードが出ていなく、ダンツジャッジはすぐに起き上がり走り始める。その姿に観客から拍手と励ましの声がとぶ。

 だが転倒による体のダメージとタイムロス、何より心理的ダメージは計り知れずここから巻き返し勝つのは不可能であり、実質的にレースから脱落となる。

 

『まず先頭に立っていくのは外から11番のミデオンビット、その1バ身後ろに2番手ローエングリンです。3番手にはビリーヴ、その外からアドマイヤマックス、内からダンツフレーム、ウインブレイズ、ミレニアムバイオ、半バ身後ろにアグネスデジタル、外からタイキトレジャー、内にハレルヤサンデー、オースミコスモ、ローズバド、テレグノシスはやや後方の位置、1バ身後ろにイーグルカフェ、ボールドブライアン、トウショウトリガー、さらに後ろ1バ身ミスキャスト、10バ身ダンツジャッジ。淀みのない展開です』

 

 抜群のスタートセンスを持つローエングリンとスプリンターの瞬発力を見せたビリーヴが前に出る。逃げを打つと思われたところにミリオンビットが一気にポジションを上げて先頭を奪い、ローエングリンは先頭を譲り2番手をキープする。

 アドマイヤマックスは4番手、ダンツフレームは5番手の先行グループ、デジタルは8番手の中段グループ、テレグノシスは13番手の後方グループにポジションを取る。それぞれが自分の力を発揮できるポジションに陣取る。

 前半3Fを34,5で通過する。ペースはミドルペースでどの位置でも力を発揮できるレース展開となる。

 

(これは結構窮屈だね)

 

 デジタルは前後左右に意識を向ける。トレーナーの予想通り芝の状態が良い内を通りたいと各ウマ娘が殺到しいつも以上に密集していた。

 それぞれが僅かな加減速と横移動やそれに伴う接触をしながら、少しでも良いポジションを奪おうと攻防を繰り広げていた。

 これだけ密集するとウマ混みが苦手なウマ娘であればこの密集具合は心身を疲労させていく。だがデジタルは生粋のウマ娘好きでありこの密集は大歓迎だった。

 

 出走ウマ娘は道中の駆け引きを繰り広げながらデジタルに意識を向ける。

 終わったウマ娘と言われているがGI5勝にしてダートプライド覇者、実績では群を抜いている。何よりこのウマ娘は何をするか分からない。できる限り内に閉じ込めて足を余らせようと警戒していた。

 一方デジタルはその警戒心を喜々として受け止めながら状況を分析する。ペースはミドル、人気どころのローエングリンとダンツフレームは前目の位置、アドマイヤマックスは前目につけながら普通よりやや外を回る。

 中盤で外から被せられるのを防ぎ、内を突こうとするウマ娘を閉めるためのポジション取りか。テレグノシスは後ろの位置、その末脚の切れ味はメンバー屈指であり、やり合うとしたら足をある程度貯めておかなければならない。

 そしてこのウマ混みを捌く方法としては目の前のダンツフレームが抜け出したところを通るのがベストだ、だがダンツフレームも蓋をされ抜け出せない事も有るので、何が起こっても瞬時に反応できるように神経を研ぎ澄ませると同時にウマ娘を存分に感じる。

 

『隊列は変わらず向こう正面から第3コーナーへ、テレグノシスが中段から前をうかがって上がって行きます』 

 

 3コーナーへ入る下り坂を利用してテレグノシスがペースを上げてポジションを上げデジタルより前の位置につけ、それに反応するように後方グループも上がっていく。

 先頭を立つミリオンビットや2番手グループのローエングリンやビリーヴはペースを上げてリードを取らず、できる限り足を貯めて直線勝負で迎え撃つ構えを取る。

 先行グループも逃げグループを追い抜き先頭に立とうとせず追随するように足を貯め、出走ウマ娘たちは一つの集団のように収縮していく。

 展開は息を入れるところがない淀みないミドルペースとなる。どのウマ娘にも有利不利がなく力が出し切れると同時に平等に厳しい展開となった。

 

『さあ、一団となって4コーナーに入ります。先頭はミリオンビット!1バ身半差でローエングリン!』

 

 直線に入り各ウマ娘は一斉に横に広がる。先頭からダンツジャッジを覗いた最後尾まで10バ身差、500メートル以上ある東京レース場の長い直線なら十分に射程圏内である。各ウマ娘たちは1着を奪うために取り込んだ酸素を体中に送り貯めていた脚を一気に開放する。

 

『抜け出したのはアドマイヤマックスだ!その差を1バ身!2バ身と差を広げていく!』

 

 直線に入った瞬間、前にいたローエングリン達に悪寒が走る。反射的に悪寒の発信源に視線を向けるとそこにはアドマイヤマックスがいた。

 鼻からは血を吹き出しヨダレを垂らしていた。それだけも異様なのだが、他のウマ娘たちを慄かせたのはその表情だった。

 何かに魅入られたような狂気を孕んだ笑顔、パドックの時とは比べ物にならないほどの異様さと不快感だった。

 その異様な様子はともかくスパートをかけたのは理解できた。東京レース場で直線に入ってすぐのスパートは早い、後ろのウマ娘達を警戒すべきなのだがアドマイヤマックスをこのまま見過ごせばやられる。

 直感がそう告げると即座にスパートをかけるが一瞬で置いてかれる。

 今までに体験したことがない加速力、それでも懸命に追いつこうとするが必死に足を動かすが追いつけない。

 レースに勝ちたい、ライバルに負けたくない。夢を叶えたい。名誉を勝ち取りたい。大概のウマ娘はこれらの理由を胸に秘めレースを走る。そういった者達には特有の目の光が宿る。それは情熱を燃料に燃える炎のような輝きがあった。

 だがその光が微塵もなく、その狂気を孕んだ瞳は何かを見つめている。勝利でもなく夢でもなく負けん気でもない。一体何を目指し、何を抱いて走っている?

 それが何か分からないが常人には絶対に理解できないものだということは理解できた、同時に得体の無い恐怖に体が近づくことを拒む。

 自分たちにも夢や勝ちたい理由が有る。己の心を奮い立たせ追い抜こうとする。だが一向に追いつけない。

 アドマイヤマックスは完全に自分の世界に入り、その世界が自分達の侵入を拒んでいるようだ。誰もあの世界に侵入することはできない。前を走っていたローエングリン達の心は既にくじけていた。

 

 

 これが私の理想の偶像!最高だよ!このためにレースに走ってたんだ!

 

 アドマイヤマックスは歓喜に打ちひしがれていた。直線に入り、チラリと後ろを見た後に理想のアグネスデジタルを想像する。

 理想の偶像を生み出すために多くのものを捧げてきた。1日の大半をイメージトレーニングに費やしてきた。大事だったチームもアドマイヤも全てを捧げた。全てはこの瞬間のために。

 脳を一気にフル稼働させ理想の偶像を生み出す。脳を酷使したことで鼻血が吹き出すが構わず続ける。

 すると右隣にウマ娘の姿が浮かび上がる。目を血走らせ、ヨダレを撒き散らし、鼻血を吹き出しながらも走る姿、それこそダートプライドで目撃した理想の偶像そのものだった。

 理想の偶像はマックスに目をくれず走り、近づこうと懸命についていく。トレーニングでは何度やっても近づけなかった。だが今はピッタリと併走していた。

 飛び散る汗とヨダレ、躍動する肉体、芝を踏みしめる力強い足音、汗と石鹸が混じりあったような独特の匂い。

 現実にアグネスデジタルは存在しない。だが脳内では現実に確かに存在し、理想の偶像を感じる度に快楽物質が駆け巡り、絶対に離されまいと全ての力を引き出し付いていく。

 もっとだ!もっと感じさせろ!脳は主人の要望に応えるように時間感覚は圧縮し理想の偶像の動きが遅くなり、舐め回すように観察しながら存分に感じる。

 マックスは今幸せの絶頂にいた。

 

「これがマックスか?」

 

 親方がチームルイのトレーナーやチームメイト達の心境を代弁するように呟く。

 マックスの力は知るところであり、いずれGIに届くウマ娘だと思っていた。だが今見える光景はそんなものではなかった。

 強すぎる。このままでいけば完勝するだろう。これはノーマークだったから、一世一代の大駆けだったで説明できる理由ではない。

 明らかにその走りは想像を超え、驚きを通り越して寒気すら覚えていた。

 

「止めて、止めてよ」

 

 アドマイヤグルーヴは声を震わせながら呟く。確かに寒気すら覚える強さだが問題はそこではない。目を血走らせ鼻血を吹き出し涎をまき散らしながら走るその姿、狂ったように笑い、まるで悪魔に憑りつかれたようだ。

 レースを走るまではいつものマックス、いつも通りでなく変ってしまっても、元の姿の片鱗でも見せてくれると期待していた。だが目の前に居るのは完全に別人だった。

 いつも優しくて気にかけてチームを引っ張ってくれるマックス、その姿と思い出が次々とレースを走る悪魔のようなマックスに塗りつぶされていく。

 アドマイヤグルーヴはその場にしゃがみ込み、目を瞑り指で耳を塞ぐ。

 

「これがチームやアドマイヤを捨てて、手に入れたかったものかよ」

 

 ドンは目の前にあるガラスを手で叩きつけ目を見開きながら見つめる。

 オーロラビジョンに映るマックスは今まで見たことが無い笑顔をしていた。だがドンにはそれが酷く禍々しく見え、マックスにとっての幸せであると祝福する気持ちにならなかった。

 あれはダメだ。その幸せは必ず身を滅ぼす。理由も根拠もないが確信はあった。だが自分には止める術はない、身を滅ぼすまで幸せを追い続けるだろう。

 ドンはガラスを何度も叩き己の無力さを呪った。

 

「あれはトリップ走法!」

「あれはトリップ走法です!」

 

 オペラオーとドトウは思わず叫ぶ。先頭に躍り出たアドマイヤマックスの姿がオーロラビジョンに映った姿を見て確信する。

 鼻血を吹き出し目を血走らせ、涎を撒き散らし満面の笑みを見せながら走る姿、オーロラビジョンにはっきり映らなくても分かる。あれはトリップ走法だ。

 信じられない。あれをデジタル以外にも使用できることに驚愕していた。

 デジタルから着想を得たのか、自力で習得したのかは分からない。だがその力はオリジナルと匹敵している。

 後続をあっという間に置き去りにする加速力と差を広げていくスピード、トリップ走法の恐ろしさは天皇賞秋で身をもって体験し、アドマイヤマックスはこのまま失速することなく加速し続けるという確信があった。

 

「トリップ走法やと!?」

 

 トレーナーもドトウとオペラオーと同様に思わず声をあげる。

 その動揺はオペラオーやドトウ以上だった。あの加速力とスピード、何よりその様子、マックスの目には間違いなく別のウマ娘が映り、そのウマ娘を感じるために脳内麻薬を分泌させて全ての力を引き出している。

 パドックではどこかダートプライドの時のデジタルと似ていると思っていた。まさかトリップ走法を使えるとは思わなかった。

 意中のウマ娘を想像で生み出し5感で感じ、感じたことで脳内麻薬を分泌させ限界以上の力を引き出す。これがトリップ走法の原理だ。

 

 体と頭を極限まで使った状態で極めてリアルなウマ娘を想像する。はっきり言えば無駄な行動だ。そんなことをする暇があれば体や頭を使うエネルギーに回す。

 それで速くなるのは特殊な嗜好と異常なまでのウマ娘に愛を持っているデジタルだけだ。

 だが現実ではマックスはあっという間に先頭に躍り出て後続と差を広げている。その姿はダートプライドの時のデジタルとダブって見えていた。

 トレーナーはこのレースの安田記念の結末が鮮明に浮かび上がる。

 アドマイヤマックスの完勝、あの時のデジタルはアグネスデジタルというウマ娘の完成形だった。まさに世界最強に相応しいウマ娘であり、あの走りは2度とできないだろう。寧ろあの時の走りを何度もすれば確実に壊れてしまう。それ程に振り切れていた。

 いくら強豪揃いのメンバーといえどあの時のデジタルに勝てるとは思えない。唯一勝てるとしたら同じくトリップ走法を使うデジタルだろう。

 デジタルにはトリップ走法を使うなと念入りに注意している。だが自分と同じ走りをするマックスに興味を持ってしまい、無意識に使うかもしれない。

 頼む。そのままマックスの1着で終わってくれ。教え子の負けを願うことはトレーナーとして最低かもしれない。だが最低でも構わない、デジタルの無事に比べれば勝利などどうでもいい。だがその祈りは届かなかった。

 

『このままアドマイヤマックスが独走か?後続はもう来ないのか?いや!集団を割って抜け出してアグネスデジタルがやってきた!』

 

 デジタルは先頭から10番手の位置で直線に入る。さあウマ娘ちゃんはどんなき煌めきを見せてくれる?

 全てを感じようと思考を巡らし神経を集中させる。その瞬間アドマイヤマックスと目が合う。その表情は酷く寂しく辛そうだった。次の瞬間には集団から抜け出し先頭に躍り出る。

 隣には誰もいないはず、なのにまるで誰かと併走しているように意識を向けていた。

 

───隣に居るのアタシだ

 

 マックスは全てを捧げて理想の偶像としてのデジタルを作り出す。

 格闘技でシャドーボクシングというトレーニングがある。対戦相手をイメージし模擬で戦うというトレーニングだが、より熟練した格闘家のシャドーボクシングは第3者からもイメージした相手が見えることがあるという都市伝説めいた話もある。

 マックスのイメージは極めて精巧だったが、都市伝説のように第3者からはその姿は見えなかった。

 だがデジタルはトリップ走法が出来るほどのイメージ力を有するウマ娘である。その類まれなるイメージ力はマックスがトリップ走法を使って、そのイメージは自分であることに気づいた。

 

 アグネスデジタルというウマ娘は恵まれていた。

 テイエムオペラオー、メイショウドトウ、サキー、エイシンプレストン、ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、ストリートクライ、ティズナウ、選手生活のなかで何人ものウマ娘に心奪われた。そしてそのウマ娘は全て期待以上の力を見せてくれた。

 ドバイワールドカップでサキーは夢を叶える為に全ての力を解放しデジタルを抜き去った。

 クイーンエリザベスカップでプレストンは部屋を出てまで万全に仕上げ、最高の煌めきを見せてくれた。

 南部杯ではデジタルが勝利中毒になり、ヒガシノコウテイとセイシンフブキを感じなかったが、其々のプライドと生き様を走りに込めて激走した。もし通常時のデジタルであればきっと2人を感じ満足した。

 ダートプライドでは5人が地位も名誉も全てを賭けて挑み、最高の煌めきを見せてくれた。

 

 デジタルが感じたいと思った相手の多くは設定したハードルを越えてくれた。

 その体験を経ていつしか現実は自分の予想をいつも超えてくれると思うようになり、セイシンフブキがデジタルの望む姿では無くなっても前を向いて、今まで心奪われたウマ娘と同じぐらい素敵なウマ娘と出会えて感じられると信じられた。

 

 だがアドマイヤマックスは違う。デジタルのように心奪われたウマ娘が想像以上の煌めきを見せてくれた体験がなかった。

 生まれて初めて偶像と呼べるほど心奪われるウマ娘と出会い、偶像で無くなってしまった。

 もしデジタルがマックスの立場であれば、復活を信じるか別の偶像になりえるウマ娘が現れると信じられた。しかしマックスには成功体験がなく信じられなかった。

 

 デジタルは気づく、マックスは自分の可能性の1つだ。自分は恵まれていたから前を向けた。

 だがマックスは恵まれなかったから自分をイメージしている。そしてこれからも囚われ続ける。輝いていた自分の思い出に縋りつき、何千何万回イメージして、擦り切れるまで思い出す。

 そして擦り切れてしまったらどうする?何に縋る?その先に待っているのは悲しい未来だ。

 全ては自分が憧れでなくなってしまったからだ。もし憧れであれば1人でトリップ走法を使ってイメージを感じることなく、現実の自分を感じれば済んだはず。

 トリップ走法は心奪われたウマ娘を感じるために使う。だがそれは本物に近づくための補助で有り、緊急措置だ。

 

 天皇賞秋では勝つために観客席に向かって走りながらトリップ走法を使ってオペラオーとドトウをイメージして感じた。だが本当なら現実の2人を感じたかった。

 ドバイワールドカップでもオペラオー達をイメージした。だがあれはサキーというウマ娘を追いつき感じる為のブースターであって、目的はサキーを感じることでイメージのウマ娘を感じるではない。

 レースを通して多くの素敵で心奪われるウマ娘と出会った。もしトリップ走法を使っていいと許可が出れば、イメージし感じるだろう。

 だが意中のウマ娘に追いつくための手段として使うが、イメージのウマ娘を感じるという目的には決してしない。そんな悲しい使い方はさせない。

 

 先輩は後輩を教え導くものである。現役生活を続けチーム最年長になってそう思うようになった。

 だからこそアドマイヤマックスにそのトリップ走法は間違っていると教え、世界に絶望せず想定を超えて楽しませてくれるという考えに導かなければならない。

 

 別に偶像になりたくはない、勝手に理想を押し付けられて勝手に失望される役割なぞ御免被る。

 だが今だけは偶像として失望させず、押し付けられた理想を叶える。

 どうすれば偶像になれるか分からない。だがやることは分かっている。かつて心奪われたウマ娘達のように煌めくことだ。

 デジタルは全ての意識をマックスに向けて力を解放する。しかしその前に大きな障害が待ち構えていた。

 

 前方数メートルにウインブレイズとタイキトレジャーがいた。まだスパートをかけるタイミングではないと足を溜めている。

 2人がスパートをかけるのを待って、後ろについていきスペースができたら外に出すか?その案を即座に否定する。

 2人の脚が伸びず抜け出さないかもしれないし、仕掛けるタイミングが遅れてマックスに届かないかもしれない。受け身ではダメだ、あくまで能動的に動かなくては追いつけない。

 デジタルは左右前方に意識を向けて抜け出すルートを割り出す。

 

 タイキトレジャーは後ろに居るデジタルの姿を見てはいなかった。

 だが6感がデジタルは右から抜きにくると囁く。右にあるスペースはごく僅かだ、とても通り抜けられるスペースでは無いがその小柄な体で、自分が知らない未知の技術で抜けてくるかもしれない。

 相手はGI5勝にしてあのダートプライドに勝ったウマ娘だ、世間は終わったウマ娘というがそうは思わない。

 前に行くアドマイヤマックスは明らかに仕掛けのタイミングを間違えた。絶対に垂れてくる。

 ならば怖いのはデジタルであり、ここで仕掛けさせるわけにはいかない。出来る限り閉じ込めようと右に移動する。

 

 ウインブレイズもタイキトレジャーと同様の感覚を抱いていた。6感がデジタルは左から抜きにくると囁く、確かに左に僅かなスペースがあり、小柄な体と未知の技術で抜けてくるかもしれない、左に僅かに寄ってスペースを埋めよう。その瞬間両者の右肩と左肩に衝撃が走る、間からデジタルが割って出てきた。

 両者も抜けさせるものかと力を入れるがデジタルの勢いは両者の蓋をしようとする力より勝っていた。

 

(ありがとう、オペラオーちゃん)

 

 デジタルは心の中でオペラオーに礼を言いながらマックスを追走する。

 

(デジタル、ドトウ、キミ達にとっておきの技を教えよう)

 

 デジタルとドトウとオペラオーの3人でトレーニングしていたある日、オペラオーが突如技を伝授すると言い出した。内容は前に壁がある際の抜け出し方である。

 デジタルとドトウが壁役でオペラオーが抜け出す役で走り始める。

 オペラオーは勝負度外視でブロックしていいと言った。デジタルとドトウもGIを勝利した1流選手、いくらオペラオーでも勝負度外視でいいのであればブロックするぐらいできる。

 2人は後ろのオペラオーに意識を向けながら走る。だが2人はオペラオーをブロックすることはでず。デジタルとドトウの間にできた隙間を抜け出していた。

 

「ハーハッハッハ!これが覇王だけが持つスキル!名付けてモーゼ!」

 

 オペラオーは信じられないという表情を作るデジタルとドトウに高笑いを向ける。

 

「オペラオーちゃん凄い!左に抜けると思ってブロックしたら真ん中をぶち破られてた!何で!?」

「私もオペラオーさんが右に抜けると思ってブロックしたのに、何でですか~?」

 

 2人ともそれぞれ右と左からオペラオーが抜きにかかると確信があった。

 しかし気が付けばオペラオーは移動しておらず空いた真ん中のスペースから抜け出していた。

 

「ハーハッハッハ、ボクはデジタルとドトウに右と左から抜けるという覇王のオーラを込めたのさ、2人はそれを感じ取りブロックしようと動いた。だがボクはオーラを込めただけで実際動いていない。そして2人の間に生じたスペースを抜けてきた」

「つまり錯覚させられたということですか?」

「その通り!このスキルは実際に横に移動して抜け出さなくていいので脚を使わずに済むのさ。究極的には人込みを操作し任意のウマ娘を妨害することも可能だ。まあ覇王たるものそんな卑劣な真似はしないけどね。だがこれは世紀末覇王としての実績が生み出す存在感と覇王オーラが無ければできない」

 

 その後プレストンにその体験を話したら、自分も武術の先生と組手をした時に、攻撃がくると思ったら錯覚だったということがあったと語った。

 その先生曰く殺気の込めたフェイントは実際に攻撃を繰り出すと錯覚させられる。

 意志を込めることで錯覚を引き起こす。オペラオーが使った技は武術の先生のフェイントと同じ種類のものであった。

 

 そしてデジタルもオペラオーが使ったスキルを使用しタイキトレジャーとウインブレイズの間を抜け出していた。

 今までは使う必要性がなく、使うこともできなかった。だが様々なレースを走り積み上げた実績が存在感を生み出す。

 そして覇王オーラとは意志であり、オペラオーは勝ちたいという意志を込めていた。

 一方デジタルはアドマイヤマックスの偶像として煌めくという意志を込めた。その想いはオペラオーの勝ちたいという意志と同等であり、同等の効果を生み出した。

 

 デジタルは力を振り絞り全力で駆けぬける。近づくごとにマックスから発せられる圧が高まっていく。

 ウマ娘が発するオーラのようなものは何度も体験してきた。それは競りかけても絶対に負けない、ねじ伏せてやるという勝利の執念のようなものだった。だがマックスは全てを拒む拒絶の意志だった。

 心境は理解できる。2人だけの世界でランデブーしている最中に他者が入ってきたら嫌な気分になるだろう。

 今はイメージした相手を想像して幸せの絶頂に居るはずだ、近づけばその幸せを壊してしまうかもしれない。

 だがそれではダメだ。マックスが想像する自分以上の煌めきを見せて世界の可能性を示す。

 デジタルは拒絶のオーラを跳ねのけながら近づき、残り300メートルで1バ身差まで差を詰める。

 

(((皆最高だよ!最高に煌めいている!)))

 

 アドマイヤマックスの想像力は偶像の当時の心境を読み取りナレーションとして再現される。

 デジタルさんこそ最高の偶像です。マックスは反応しないと分かっていながら礼を述べる。理想の偶像が息して体を動かすたびに快感が駆け抜けていく。

 何て幸せなのだろう!自分こそ世界で一番の幸せ者だ!こんな体験ができるなら毎週だってレースに走りたい!

 今までは嬉しいで走っていた。だが今は楽しいと気持ち良いで満たされている。やはり全てを理想の偶像に捧げて心底良かった。

 幸せの絶頂のなかに居るマックスだが、ふと理想の偶像にノイズが走る。気のせいではない。

 今の自分はどんなことが起ころうともイメージが崩れることはないはずだ。自分達の世界を乱す何が起きている。

 思考を疑問から偶像を感じることに意識を集中させ自分達の世界を構築させていく。だがノイズは増していく。どこか心地よく、そしてたまらなく不愉快な足音、息遣い、匂い。その意識は偶像からノイズの発生源に向けてしまう。

 その発生源はアグネスデジタルだった。その瞬間理想の偶像は消え怒りで塗りつぶされていく。

 

 デジタルに対して怒りは無かった。堕ちたといえどかつては理想の偶像だった。いわば偶像の母親だ。一定の敬意と感謝を抱いているつもりだった。

 だが理想の偶像との聖域に入ることは決して許されない。ここは2人だけの世界だ、侵入すること事態許される事では無いが、侵入者がアグネスデジタルということが怒りに油を注ぐ。

 貴女が堕ちなければアドマイヤもチームも捨てずに済んだかもしれないのに、無意識に湧き上がる未練に動揺する。だが動揺を怒りと理想の偶像への崇拝で塗りつぶす。

 

 堕ちた偶像が理想の偶像を穢すなんて絶対に許さない!私の理想の偶像こそが本物だ!現実のデジタルは偽物だ!この場で確実に葬り去る!勝って葬り去ることで理想の偶像は完成する!

 

──現実(あなた)を殺して理想(てんごく)に向かう

 

『残り300メートル!以前アドマイヤマックス先頭!アグネスデジタル懸命に食らいつく!』

 

 アドマイヤマックスは体の悲鳴や脳からの危険信号を無視して走り続ける。デジタルへの怒りの感情は消した。全てを理想の偶像への崇拝に向ける。

 理想の偶像は現実に負けるはずがない!だからもっと!煌めいて!輝いて!偽物を殺してください!

 圧縮された時間で幾千もの祈りを捧げ、理想の偶像に縋る。理想の偶像は祈りに応えるように姿を変えていく。

 理想の偶像は鼻からだけではなく目からも口からも血を吹き出す。狂気をはらんだ笑顔はより禍々しく変化し、背中から白い翼が生える。

 それは当初の理想の姿とは程遠いものになっていた。悪魔のような笑顔と形相に天使を象徴した白い翼というアンバランスな姿、もし理想の偶像が他の人間に見えたとしたら、誰もが不快感を抱き目を背けるだろう。

 だがマックスにとってこの世の何よりも美しく神々しかった。

 

 デジタルは懸命に食らいつく。今まで培った心技体を全て駆使している。それでも1バ身差を維持するのが精いっぱいだった。

 息が苦しい、身体が重い、景色が歪む。天皇賞秋でもフェブラリーステークスで乗り越えてきた直線高低差2メートルの坂がそそり立つ壁のように阻んでいる感覚になっていた。  

 今まではトリップ走法と心奪われたウマ娘を感じる多幸感で苦しみを紛らわせていた。

 しかしマックスはプレストン達のように何が何でも感じたいという対象ではなかった。そしてトリップ走法はトレーナーとの約束を守り、使用を固く禁じていた。

 今は苦しみを一切緩和することなく一身に受けている状態である。

 マックスとの差が1バ身半、2バ身と徐々に開いていく。

 デジタルはトリップ走法を使わなくても充分に強いウマ娘である。だが今は完全に振り切れ、常軌を逸した強さを手に入れていた。

 この結末は自然であり、ここまで食らいついたデジタルは驚嘆に値する。

 

(このままじゃ……アドマイヤマックスちゃんは可能性を知らずに自分の世界に閉じこもっちゃう……アタシが頑張らなきゃいけないのに……)

 

 デジタルの心は挫けかけるが懸命に気力を振り絞る。直線に入った時に見せた悲痛な表情を思い出せ!自分が同じ立場になったらどうだ!誰も想像を超えてくれない苦しみを想像しろ!アドマイヤマックスにそんな思いをさせるわけにはいかない!

 

 使命感、責任感、献身。

 

 今までのデジタルが抱かなかった感情が気力を与えていく。すると不思議と痛みが和らぎ体に活力が湧いてくる。それに応じるように徐々に差が縮まっていく。

 

 ウマ娘が走る理由は主に自分のためと仲間のためである。相手を感じたいという理由で走るデジタルは典型的な自分のために走るウマ娘である。

 ファンのためにチームのために支えてくれる人の為に走る。これは仲間の為という理由で走っていたかつてのアドマイヤマックスはそうだった。

 程度の差があるにせよ大概のウマ娘は自分の為と仲間の為に走っているといえる。だがそれ以外の理由で走る第3の理由が存在する。

 

 それは相手の為に走ることである。

 

 相手とはレースを一緒に走るウマ娘である。だがこの理由で走るウマ娘は存在しない。

 レースで勝つことは相手の夢や希望を摘み取ることである。相手のためにと思うのなら勝ちを譲らなければならない。だが相手の為に負け続けることを望むウマ娘は狂人であり、結局のところレースを走らなければいいという結論に行きつく。

 

 今のデジタルはアドマイヤマックスにとっての理想の偶像になるために走っている。

 そして理想の偶像とは最高の煌めきを見せること、最高の煌めきを見せるとは全身全霊で力を振り絞ることであると解釈している。

 結果レースに勝っても理想の偶像であれば相手の望みを叶えることになる。今のデジタルとマックスの関係性に限り第3の理由は成立する。

 

 ウマ娘を感じたいという我欲を捨て、アグネスデジタルというウマ娘のアイデンティティを捨て、ただアドマイヤマックスの為に走っている。

 デジタルもウマ娘への愛はあった。だがそれは自分の為のものだった。だが今この瞬間相手の為に愛を向けている。

 

 第3の理由は新たなる力を与える。

 

『アグネスデジタルが再び差を詰めていく!残り200メートル!その差は1バ身差!逃げるアドマイヤマックス!追うアグネスデジタル!』

 

 マックスの心に動揺が走る。さっき迄とは違う、この理想の偶像こそ完璧であり2人だけの世界は完成したはずだ。何故偶像にノイズが走る!?何故存在感が増してくる!?どこまで邪魔すれば気が済むんだ!

 

「アアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 

 マックスは絶叫する。己を奮い立たせる声でもない、大声を出すことで身体能力を向上させるシャウト効果を期待したものでもない。純粋な拒絶の叫びだった。

 

 (待っててねアドマイヤマックスちゃん。アタシが理想の偶像になって可能性を見せてあげる)

 

 残り200メートルだがデジタルはゴール板を認識していない。全ての思考と意識と力をアドマイヤマックスに捧げる。

 

 ──パリン

 

 脳内にガラスが割れる音が響く。ガラスを踏んだわけではない、レース中に絶対に聞かない音だが耳にはっきり聞こえていた。その瞬間確信めいた予感が過る。

 今重大な局面に立っている。このまま進めば大変な事になる。引き返せば間に合うと。

 

うるさい。

 

───パリン、パリン、パリン

 

 ガラスの音は大きくなると同時に視界がひび割れていく。本当にいいのか?これが本当の最後の機会だ。このまま行くのかと自分の声が響く。

 

 知らない!アタシはアドマイヤマックスちゃんの為に理想の偶像になるんだ!

 

 ガラスは完全に割れると同時にひび割れた視界が一気に晴れていく。

 

『どっちだ!どっちだ!どっちだ!』

 

 ゴールまであと少し、これで勝てば現実を殺せる。このレースは一生の不覚だった。もっと祈りを捧げて、もっと供物を捧げて理想の偶像をより強固にする。もう2度と自分の世界を侵させない。私は理想に行く!

 右隣に居る理想の偶像は血を吹き出しながらアルカイックスマイルを見せる。だが理想の偶像に全てを注いでいたマックスの意識が強制的に左に向けさせられる。

 私の理想の偶像は完璧だ!だが心の言葉とは裏腹に意識はどんどん左に向いていきスローモーションとなった視界にそれは映り込む。

 それはダートプライドの時のアグネスデジタルではなかった。

 笑顔ではなく歯を食いしばる。こんなの私が惹かれた理想の偶像ではない。だが今見えている姿はダートのプライドの時と同等に煌めいていた。それは心を惹きつける理想の偶像の姿だった。その瞬間右隣に居た理想の偶像は消え去っていた。

 

『交わしたか!?交わしたか!?内のアグネスデジタルが交わしたか!?』

 

 両者がゴール板を過ぎた瞬間歓声がため息に変わる。

 

 アドマイヤマックスは長期休養明けの初戦だ、なのにこれほどまでに凄まじい強さを見せるとは東京レース場に居る観客の誰も思っていなかった。

 アグネスデジタルは前走の地方重賞で4着と負けた。勇者ですらデスレースの呪縛から逃れられない。

 多くの人間は終わったウマ娘だと思い、デジタルに投票した人間も復活を本心から信じていたわけではなく、復活したらいいなと神社で気軽にお願い事をするような感覚で願っていた。

 人気薄のウマ娘が直線に入って一気に抜け出しそれを終わったウマ娘が猛追し、一度は離されかけるが再び差し返し最後は交わした。

 

 物凄いレースだった。東京レース場にいる観客全てが同じ心境だった。

 

 そして観客席からどよめきが起こる。

 

 レコード

 タイム 1:32:1

 

 オグリキャップが出して長年破られなかった1:32:4の記録を更新していた。

 

「今日のアタシはどうだった?」

 

 デジタルはゴール板を駆け抜けると徐々にスピードを緩め息を整えながらマックスに話しかける。

 煌めけたどうかは分からない。全身全霊を出し尽くした。あとは気に入ってくれるかどうかだ。

 意識の全てはマックスに向けていて、勝敗も周りの歓声も着順掲示板も表示されたレコードタイムも一切意識に入っていなかった。

 

「最高に煌めいていました。理想の偶像でした」

「良かった」

 

 デジタルは安堵の息を吐く。マックスの期待を超えられるか不安だったが何とか超えられた。自分が仲間達にしてもらったことを達成できたことに、少しばかりの嬉しさがあった。

 

「イメージした相手を感じるのは楽しくて幸せだよね。でも自分の世界に閉じこもらないで周りを見よう。そうすれば素敵な出会いがあるよ」

 

 デジタルはニカッと笑いながら自分の気持ちを素直に言葉にする。

 思わず自分なんかより素敵なウマ娘に出会えると言おうとしたが直前で止めた。マックスは本当に感じたい思ってイメージを生み出した。

 イメージを生み出すには多くの愛と執着が必要だ、それ程までに大切に思ってくれたものを卑下したら傷つけてしまう。

 

「そうですね。今度は現実のアグネスデジタルをしっかり感じます」

 

 マックスはキラキラと目を輝かせながら返事する。自分の目は節穴だった。アグネスデジタルは堕ちていなかった。次もその次も一緒に走って感じ続ける。

 

「あ~、でも今日の走りはもう多分できないと思う」

 

 デジタルは目を輝かせながら見つめる瞳から目を背けながら呟く。

 恐らく今日のような走りはできない。今日はマックスに世界は期待を超えてくれるということを見せたいという感情で走った。

 だが次走で走っても同じような気持ちは抱けないと思う。そして根拠は何もないが、別の大きな要因で出来ないという確信めいたものがあった。

 

「なんでですか、次も!次の次も!私の偶像で居てくださいよ!」

 

 マックスは疲労を忘れ思わず声を荒げ懇願する。自分が再生した理想の偶像は今のアグネスデジタルに打ち砕かれた。

 もはや理想の偶像は理想ではなく堕ちてしまった。ならば今のアグネスデジタルを偶像にして縋るしかない。   

 デジタルはマックスの必死の願いを悲しそうに首を振って否定する。

 マックスのなかで怒りが湧く。一度だけ希望を見せておきながら裏切る。

 それなら希望を見せるな!最後まで偶像でいろ!これだったら自分が再生させた理想の偶像を壊さないでくれ。そうすれば上を見ることなく満足し続けられた。

 

「アグネスデジタルさん以上の偶像はいない」

「そんなことはないよ!アタシは素敵なウマ娘ちゃんに今まで何度も期待を超えてもらった!世界は思った以上に期待のハードルを越えてくれる。今日だってアタシがハードルを越えてくれると思ってなかったでしょ!」

 

 デジタルは怒りを滲ませたマックスに力強く語り掛ける。その言葉に希望を抱いたのか表情が和らぐが、やはり信じられないと再び怒りを滲ませる。

 

「それだったら合わせ技でどう?仮にアタシより煌めいたウマ娘ちゃんが居なくても、その次に煌めいているウマ娘ちゃんを感じて楽しんで幸せになりながら、チームやトレーナーが喜ぶ顔が見ると嬉しいって気持ちを上乗せするとか」

「それは……もう遅いですよ……」

 

 マックスは髪を掻きむしり声にならない声を出しながら悲痛な表情を浮かべる。

 理想の偶像を再生させるためにチームもアドマイヤも全て捧げてしまった。

 こちらから縁を切った以上もうあの頃には戻らない。もう二度とチームやアドマイヤの為になって嬉しい気持ちという感情を持って走ることはできない。

 

 何故前走でこの煌めきの片鱗を見せてくれなかった!そうすれば!

 

 マックスの胸中にはデジタルへの逆恨みと自分が取ってしまった行動に対する後悔が渦巻いていた。

 

 デジタルは地下バ道に戻る為に踵を返してマックスと分かれる。

 デジタルは世界に希望を持ち、必ず心惹かれるウマ娘が現れ期待を超えてくれると信じていた。だがマックスは自分ではない。1度の成功体験では期待を持てず、もう1度自分が再生させた理想の偶像を感じる道を選んでしまうかもしれない。

 デジタルは喜びを見せるなど1着のウマ娘に求められる仕草や動作をせず、浮かない表情をしながら地下バ道を降りて行った。

 

「デジタル!大丈夫か!」

 

 トレーナーは血相を変えながら走って出迎え触診で状態を見る。歩き方を見てもどこも痛めていなく、足や膝も特に熱を帯びていない。精密検査しなければ分からないがとりあえず怪我はしていない。

 

「何で勝てたんや?」

 

 トレーナーは思ったことを率直にぶつけてしまう。今日のアドマイヤマックスに勝つにはトリップ走法を使うしかない。だがレースの様子は今の姿を見る限りトリップ走法は使っていなく、道理が合わない。

 その常識外れさに幾度も驚かされたが、今日は過去最大でトリップ走法を始めて実行した時以上に驚いている。

 

「う~ん、説明長くなるし要領を得ないと思うけどいい?」

「構わん。思ったことを全て話せ」

 

 デジタルは裁決室に向かいながらトレーナーに話す。アドマイヤマックスの心境に自分の心境、そして今まで感じたことがない不思議な力が湧いたこと、思いつく限り喋った。

 

「なるほど、今日はウマ娘を感じる為ではなく、アドマイヤマックスの期待に応えたいと思って走ったんやな」

「うん、このままじゃアドマイヤマックスちゃんは悲しい。だからアタシが期待を超えてくれるってことを教えてあげたいと思って。しかし一応勝てたけど何で勝てたんだろう?今考えると今日のアドマイヤマックスちゃんは本当に強くて、トリップ走法使わなきゃ勝てないと思うけど」

「ある仮説があるんやが、笑うなよ」

「笑わないって、それで何?」

「自分の為でもなく、俺やチームメイトやファンの為にという仲間の為でもなく、レースを走る相手のためにという純度100%の気持ちで走った。それがデジタルに力を与えた。名づけるなら慈悲の心や」

「白ちゃんそれ精神論じゃん、というよりオカルト、トレーナーならもっと科学的な意見を言おうよ」

「うっさい、俺かて完全に言っていておかしいと思うが、それぐらいしか理由付けができん。それぐらい今日のレースで勝つことはあり得んのや」

 

 デジタルは思わず吹き出しトレーナーは顔を赤らめながら言い訳する。

 

 慈悲の心

 

 我欲の為に好き勝手生きていた自分にとって対義語のような言葉だ。

 だが今日はアドマイヤマックスに期待を超えるという可能性を見せたいという一念で走った。

 それは今まで抱かなかった感情であり、今までと違いがあるとしたらそれしかない。案外慈悲の心というものは有るのかもしれない。

 

「ねえ白ちゃん、アタシがやったことは良かったのかな?」

 

 デジタルは笑顔から一転して表情を曇らせながらトレーナーに問いかける。

 

「なにがや?」

「アドマイヤマックスちゃんに周りは期待を超えてくれるということを分かってもらいたかった。今日のアタシの走りでイメージを超えてくれたって言ってもらえた。でも正直に言うけど今日の走りはもうできない。けれどアドマイヤマックスちゃんは今日のアタシを求める。でもアタシはできない。これだと希望を見せるだけ見せて最後まで希望を見せないことでしょ。それって希望を見せない事より酷いことなのかもしれない」

 

 トレーナーはデジタルの心中を察する。ぬか喜びは心にダメージを与える。トレーナーも人生の中で何度もぬか喜びを味わされてきた。その不安や心配も充分理解できた。

 

「デジタルはアドマイヤマックスが間違っている。いや理想のイメージだけに目を向けるのでなくて、周りを見て可能性を信じたほうが幸せになると思ったんやろ」

「うん」

「なら信じればええ、アドマイヤマックスがデジタル以上に夢中になるウマ娘が現れるって信じとる。それはウマ娘の可能性を信じ取るってことやろ。ウマ娘の可能性は小さいんか?」

「そんなことない!ウマ娘ちゃんは皆が煌めいて輝いて尊くて!可能性は無限大!」

「それが答えや、どんと構えとれ。それよりタイキトレジャーとウインブレイズに謝っとけよ。今回はギリギリ走行妨害にならんと思うが、あと少しスペースが狭かったら反則やぞ」

「そうだった。早く謝らないと」

 

 デジタルは裁決室に早歩きで向かいタイキトレジャーとウインブレイズに平謝りしていた。

 希望を見て裏切られるなら最初から希望を見ない方がいい。希望を見せたものは最後まで見せなければならない。それはある意味正しいかもしれない。

 そうだとしたら希望を最後まで見せられないと、最初からやらないほうがいいと思う者も現れるだろう。

 それでもデジタルは希望を見せた。自分ができなくても他の者が希望を見せてくれるという世界の可能性を信じて。綺麗ごとと言われるかもしれないが、最初から行動しないより遥かに良い。トレーナーはデジタルの行動を心から尊重していた。

 トレーナーが裁決室に戻る頃には着順が確定し、クビ差でアグネスデジタルが1着となる。

 

──

 

 大國魂神社。

 約1900年の歴史をもつと伝えられている古社であり、祝日には多くの人が足を運ぶ。その都内有数の神社にアドマイヤマックスは居た。

 マックスは大鳥居を抜け参道を歩いていく。その姿に人々は一度視線を向けてから視線を逸らす。

 視線を向ける訳はその姿にあった。マックスは勝負服を着たまま神社に来ていた。そして目を背けるのはその雰囲気だった。

 まるでこの世の不幸を背負った陰気さで、目を合わせるのすら縁起が悪いと露骨に目を背け距離を取る。

 マックスは周りの人間の反応など一切気にせず歩き続ける。中雀門を抜けて拝殿に辿り着くと膝をつき手を組んで祈りを捧げる。

 

 全てを捧げて再生した理想の偶像はアグネスデジタルに打ち砕かれて、当の本人は理想の偶像としての役割を全うできないと言い放った。

 

 じゃあ何縋ればいい?何を目的に走ればいい?

 

 理想はアグネスデジタル以上の偶像が現れることだ。確かにデジタルは身をもって世界の可能性を見せてくれた。そのお陰で少しばかり希望を持っている、だが完全には可能性を信じられない。

 なら合わせ技か、だがあの時のようにチームの為にアドマイヤの為にという嬉しさが湧き上がる対象が見つかると思わない。やはりアグネスデジタルという理想の偶像を感じる日々に戻るしかない。マックスは今日のアグネスデジタルをイメージし悲しみを紛らわせようとする。

 ダートプライドのイメージとは違い、当事者としてより近くで感られた。イメージするのは容易いはず、だが全くイメージできなかった。

 いくら頭を働かしても全くできない。これが理想の偶像が砕かれた代償として想像力を失ったとでもいうのか?不安と恐怖が全身に圧し掛かる。

 希望を持てず、想像の世界に逃げ込めず、前のようにチームやアドマイヤの為にという嬉しいという感情を持つことも許されない。完全に行き止まりだ。

 これがチームとアドマイヤを捨てた罰だというのか?だとしたら何の罰だ!ただアグネスデジタルに心奪われて感じようとしただけではないか!

 自分なりに精一杯努力して工夫して決意して!それが何の罪だというのか!

 気が付けばマックスは記者の質疑応答もウイニングライブの準備も全て放棄して東京レース場を出ていた。

 

「助けてよ……」

 

 お願いします。どうか私を救ってください。偽りの救世主でもいいからこの苦しみから抜けさせてください。マックスは何度も祈りの言葉を呟く。

 

 

「日本の神様はそれじゃあ願いを叶えてくれないぞ」

 

 マックスの祈りの言葉を遮るように陽気で能天気な声が響く。その後ろにアドマイヤコジーンが居た。いつか寮の部屋に訪れたようにアドマイヤコジーンの勝負服を着たミニチュアとヒヨコが乗っかっていた。

 

「2着か、長期休み明けでレコード決着でのクビ差2着、上出来すぎるだろう」

 

 そのバカみたいな明るい声色とアドマイヤとチームを裏切った罪悪感が神経をかき乱す。

 早く消えろと親の仇のような目でコジーンを見つめるが、当のコジーンは全く意を介さず二礼二拍手一礼で参拝しマックスの隣に座り込む。

 

「今日のレースでそのアイドルのイメージを想像できて感じられたか?」

 

 その一言にマックスは思わず祈りを止めてしまう。アドマイヤドンには理想の偶像を感じたいとは言った。だがいつどうやって感じるかは話していない。

 

「オペラオーとドトウから聞いたぞ。好きな相手を想像して5感で感じる。マックスがやったのはアグネスデジタルのトリップ走法っていう技らしいな。アタシも現役だったから、それがどれだけイカれたことでどれだけ難しいことか分かる。スゲエよ、アイドルを感じる為にそこまで努力してさ。それで感じられたのか?」

「感じられた」

 

 マックスはポツリと語る。理想の偶像を感じる為に必死に練り上げ多くを捧げた。その過程と努力を初めて肯定され少しだけ気を許していた。

 

「でも私の理想の偶像は理想じゃなかった。本物のアグネスデジタルの煌めきに目を奪われて心惹かれて、作り上げた理想の偶像は砕け散った」

 

 一度気を許すと止まらない。昔はアドマイヤコジーンに全く情が湧いていなかったのに、今では情が湧き安らぎを覚え、自分の心情を吐露し始めていた。

 

「そうか、なら今度は本物を追って感じればいい。ストーカーみたいだけどな」

「でもアグネスデジタルは今日みたいな煌めきはもう見せられないって言った」

「なら他のウマ娘にすればどうだ?もしかしたらアグネスデジタル以上に良いウマ娘は居るかも、推し変ってやつだ」

「そう思ったけど、アグネスデジタル以上のウマ娘が居ると信じられない」

「ちなみに推しを感じるってどんな感覚だ?」

「楽しい、気持ち良い」

「それだったら合わせ技だ。例えば嬉しいを求めればいい」

「だからそれはもう遅い!」

 

 マックスは叫ぶ。かつての憧れが偶像と同じ意見を提案する。そのことに親近感を覚え提案に乗ってもいいと思う。だがもう手遅れで取り返しはつかない。

 嬉しいと思うのはチームの為にアドマイヤの為に貢献したいと思った時だ。だがそれは二度と手に入らない。自分でその未来を断った。

 

「マックス、一度だけ聞く。チームルイやアドマイヤに戻りたいか?」

 

 コジーンは今までにないほど真剣な口調で問いかける。

 

 今更戻れるわけが無い。許してくれるわけが無い。謝るのが恥ずかしい。親方やチームメイトやアドマイヤドン達が昔みたいに心を許してくれるわけがない。様々な言葉が脳内で駆け巡る。

 これは罰だ。選択を間違えた者が幸せになれるわけが無い。戻らないと言って一生後悔を抱えて生きていくのだ。

 

「戻りたい、戻ってチームやアドマイヤを日本一にするって頑張って、貢献するのが嬉しいって気持ちを持って走りたい。それでチームやアドマイヤに居ながらアグネスデジタル以上の偶像が現れるって信じながら待ちたい。本当はチームもアドマイヤも捨てなくなかった。でも仕方がなかった!ああしなきゃ理想の偶像を感じられなかった!」

 

 マックスは赤裸々に思いをぶちまけていく。アグネスデジタルを感じられず、理想の偶像を想像できず、チームやアドマイヤに戻れない。この行き止まりのなかで不幸のままで居たくない。

 デジタルは世界が可能性に満ちて期待を超えてくれると示してくれた。希望を待ち続ける日々は辛いだろう。もしかして現れないかもしれない。だがアドマイヤとチームに居れば待つ日々に耐えられる。合わせ技で幸せになれる。

 今の道を選んだことには後悔している。けれどこれ以上後悔を重ねたくはない。

 

「そうか」

 

 コジーンは淡々と言い放つ。唾を吐きかけられるか、罵詈雑言を言われるか、あるいは両方か、それが当然の反応だ。それでも可能な限り足掻きチームやアドマイヤに戻る。

 

「なら土下座参りだな。アタシも付き合ってやる」

「何で?」

 

 マックスは明朗な笑顔を向けながら手を差し伸ばすコジーンに思わず疑問をぶつける。

 散々差し伸ばされた手を振り払いチームとアドマイヤを裏切った女だ、それを何で笑って赦せるのだ?その疑問に答えるように言葉を続ける。

 

「前に言ったろ、アイドルの追っかけがつまらなくなったらアドマイヤに戻ってこい、居場所は用意してやるって。戻る気が有るなら用意する、当然だろ」

 

 マックスは理想の偶像を感じることが最大の幸福と信じてチームとアドマイヤとの縁を切り、自分にできる最大限の努力をしてそれでも幸せは得られなかった。

 ならばまた戻ればいい、やり直して幸せを得るために努力し道を進めばいい。その道を整えるが先輩の役目だ。 

 マックスが恐る恐る伸ばし手を取ると強引に引き起こし耳元で呟く。

 

「アタシは何とも思ってないいが、他の奴は違う。事情が有ったにせよチームとアドマイヤを捨てたウマ娘だ。戻れば好感度最悪で針の筵だし、そもそも親方はアドマイヤに戻ることを許さないかもしれない。そこは覚悟しておけよ」

「分かってる。それでも理想の偶像を感じるっていう楽しい気持ちで走りたい。チームやアドマイヤの為に頑張って貢献して嬉しいって気持ちで走りたい」

「それならいい」

 

 コジーンはマックスの背をポンポンと叩く。もし戻れたとしても相当厳しい立場になるだろう。失った信頼はそう簡単に取り戻せない。

 だが以前のチームやアドマイヤに対する愛と献身は誰もが知っている。だからこそ理想の偶像を感じたいという気持ちの巨大さに気づく。

 マックスはこの経験を経て強くなった。苦難を乗り越えて、どちらかを捨てるのではなく、両方を掴み取れる強いウマ娘になれる。

 

安田記念 東京レース場 GI芝 良 1600メートル

 

 

着順 番号     名前        タイム    着差    人気

 

 

1   3   アグネスデジタル   1:32.1 R        4       

 

 

2   16   アドマイヤマックス  1:32.1   クビ    10  

 

 

3   8   ローエングリン     1:32.7   3      1

 

 

4   14   イーグルカフェ    1:32.7   ハナ     3

 

 

5   7   ダンツフレーム     1:32.8   1/2     5

 

 

───

 

 

『アドマイヤマックスだ!高松宮記念を制したのは大外枠のアドマイヤマックスです!善戦続きのGI戦線にピリオドを打ちました!』

 

 アドマイヤマックスはゴール板を駆け抜けた瞬間喜びを爆発させ、中京レース場の観客達は万雷の拍手で迎える。マックスは観客の声援に応えながら地下バ道に向かって行く。そこで多くの人が出迎える。

 アドマイヤコジーン、アドマイヤベガ、アドマイヤドン、アドマイヤグルーヴ、チームルイのトレーナー、そしてアドマイヤ軍団のトップである親方、それぞれ号泣し、涙をうっすらと浮かべながら祝福の抱擁を交わす。

 多くの人が訪れ祝福するなか、アグネスデジタルが輪の外からチラチラと様子を窺っていた。マックスとデジタルの視線が合うと、遠慮がちにマックスの元に近づく。

 

「おめでとうアドマイヤマックスちゃん、もっと喜びたいけど白ちゃんやメイショウボーラーちゃんが怒っちゃうから」

「言葉をかけてくださっただけで嬉しいです」

「そう、それで今日のレースはどうだった?」

「最高に嬉しくて、最高に気持ちよくて、待ち続けた甲斐が有りました」

 

 アドマイヤマックスは左胸に飾られた花を握りながら答える。そこには紫陽花とカスミソウ、そしてかきつばたが飾られていた。

 

 かきつばたの花言葉は幸せは必ず来る。

 

 その花言葉を信じてアドマイヤマックスは待ち続けた。

 デュランダル、ビリーヴ、キーンランドスワンなど様々な魅力的なウマ娘と出会って感じてきた。

 もしアグネスデジタルが可能性を示してくれなければ決して気づかなかった。だがそれでもあの時の安田記念のアグネスデジタル以上では無かった。

 それでも絶望せず走り続ける。1つじゃなくても合わせ技で超えればいい。チームの為にアドマイヤの為に貢献出来て嬉しいという気持ちを上乗せすればあの時以上の幸せがあると信じて。

 そして今日がその時だった。レースではキーンランドスワンを存分に感じ、トレーナーとアドマイヤに初の高松宮記念のレイを与えられた。

 アドマイヤベガもアドマイヤコジーンもアドマイヤドンもアドマイヤグルーヴもチームメイトもトレーナーも親方もファンも喜んでくれた。それが何よりも嬉しかった。

 マックスは楽しいと嬉しいの感情を合わせることでついに安田記念以上の幸福を手に入れる。その証拠にこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべていた。


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