勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と漆黒の帝王#4

 部屋の電気はついていなく、周囲の住宅や街頭の光はカーテンで遮られ、中は完全な暗闇だった。

 アグネスデジタルは暗闇に慣れた目で壁に立てかけられた時計を見ると顔を引き攣らせ、机の上に置かれている卓上カレンダーを見て、さらに顔を引き攣らせる。

 

 まだこれだけしか時間が経っていないのか?天皇賞秋まで、まだこれだけの日数があるのか?

 

 ベッドの上で膝を抱えながら、今耐えている苦難と苦痛とこれから膨れ上がる苦難と苦痛を想像し、膝を抱える手の力が強まる。

 

 デジタルはトレーニングが終わり食事を摂った後はベッドの上でずっと膝を抱えていた。トレーニング終了後の自由時間、疲れを癒し明日への活力を養う貴重な時間だが、今は苦痛以外の何物でもなかった。

 トレセン学園から離れて黒坂サブトレーナーの家に住むようになってから数日間は快適だった。勉強も捗り、トレーニング後の自由時間も映画やテレビゲーム等普段はしない娯楽を楽しみ、それなりに英気を養っていた。

 しかし日が経つにつれ、娯楽は酷く味気なくつまらないものとなり、それと同時にウマ娘を渇望するようになった。

 

 ウマ娘を見たい聞きたい嗅ぎたい触りたい。

 

 それらの欲は日に日に膨れ上がり、その大きさは予想を遥かに超え始めていた。

 

 デジタルはウマ娘を感じたいという欲求を抑え込もうと、限界ギリギリまでトレーニングに打ち込んだ。

 勝ちたい、周囲の期待に応えたい、それらの欲を叶えたいという積極的な意志がウマ娘達にトレーニングに打ち込ませる。今はそんな積極的な意志はなかった。

 トレーニングは苦しみや苦痛を伴うものだ、その苦痛がウマ娘を感じられない苦痛を忘れさせてくれる。今のデジタルにとってトレーニングは目的の為に己を高める努力ではなく、困難から逃れるための逃避行動だった。

 本来ならば1日中トレーニングを実施し苦痛から逃げたかったが、それをやれば確実に体が壊れてしまい、休憩時間を設けなければならなかった。

 

 デジタルは声にならない声を上げながら頭を壁に叩きつける。早く寝たい、この苦しみから解放されたい。だが意識は主人の要望を無視するように覚醒し続ける。今この瞬間は地獄そのものだった。

 徐に立ち上がると本棚を漁る。探していたのは休憩時間に何気なく読み、ウマ娘が写っていると判断し思わず投げ捨てた雑誌だった。

 次の天皇賞秋でシンボリクリスエス達を感じる為にウマ娘を断ってきた。だが精神は大いに苛まれ、すでに限界寸前まで来ていた。

 理性は耐えようとしても体が限界だと判断し、ウマ娘を感じようとほぼ無意識に体が動いていた。

 本棚にある雑誌を片っ端から手に取り調べ投げ捨てていく。あの時に読んだ雑誌がない、そんなはずはないと一心不乱に漁り床は雑誌で埋め尽くされた。

 

「あ~~~!なんで!なんで無いの!?」

 

 雑誌を壁に向かって次々と投げ捨てる。目的の雑誌どころか、ウマ娘が写っている雑誌は1つもなかった。ウマ娘を感じられなかったことで、怒りが募り半狂乱状態で喚き散らす。

 目当ての雑誌がなかった原因、それは初日にデジタルから注意を受けた黒坂は母親に頼み、本棚の雑誌をチェックしてもらい、ウマ娘が写っている雑誌は全て回収されていたことによるものであった。

 

「ウマ娘ちゃんを見たい!聞きたい!嗅ぎたい!触りたい!」

 

 デジタルはうつ伏せになり幼子のように手足をばたつかせ喚き散らす。

 ウマ娘を感じたいと思えば、リビングに向かってTVでウマ娘が出ている番組を見て、PCでチャンネルやレース映像を見ればすむ。

 だが宝塚記念、日本テレビ盃、南部杯でウマ娘を満足に感じられなかった不満と後悔が、ギリギリで行動を押しとどめる。しかしそれは一時的なものでいつ爆発してもおかしくはなかった。

 

 何でこんな苦しい思いをしているのだろう?脳内で思わず自問する。レースでシンボリクリスエスを感じる為。

 でも何でこんな苦しい思いをしているのだろう?そもそもシンボリクリスエスが居なければこんな苦しい思いをしなくてすむ。

 

───消えて居なくなればいいのに

 

 デジタルは憎しみを込め呟く。苦しみのあまり、シンボリクリスエスさえいなくなれば苦しまずに済むと論理は飛躍する。人生において初めて明確にウマ娘に対して敵意を抱いた瞬間だった。

 

「って、何考えてんの!?」

 

 握りこぶしを作り自分の頬を全力で殴る。衝撃で口を切り血の味が口内に広がっていく共に、正気に戻っていく。

 自らの欲でウマ娘を断っておきながら、苦しみに耐えかねてウマ娘に憎しみを抱く。逆恨みも甚だしい。

 ベッドに横になると膝を抱えながらブツブツと独り言を呟く。自分の浅はかな考えに極度の自己嫌悪に陥っていた。だが自己嫌悪はウマ娘を感じられない苦痛を紛らわし、気が付けば意識を手放し眠りに落ちていた。

 

───

 

 デジタルはアラームの音で目覚めると寝間着からトレーニングウェアに着替え始める。起きた瞬間にウマ娘を感じたいという強烈な飢餓感が襲い掛かってくる。だが表情には笑みが零れ、その笑顔は口角が歪なまでに上がっていた。

 すると部屋の向こう側からノックが聞こえ扉を開けると黒坂が立っていた。その顔は切実なほどに神妙だった。

 

「アグネスデジタル、もう我慢しなくていいです」

 

 黒坂はデジタルに向かってスマホを差し出す。それはデジタルが預けていた物だった。

 トレーナーにデジタルの今後を進言して以降、傍から見ても情緒不安定になっているのは明らかだった。

 止めるべきかもしれない。だがトレーナーとデジタルとの信頼関係など、様々な要因が混ざり行動に移すことを躊躇させていた。

 だが昨晩の部屋から聞こえる物音と叫び声、あれを聞き抜き差しならない状況になっていることを察した。

 これ以上放置すれば重大な悪影響を及ぼす、いや既に及ぼしているかもしれない。もはやトレーナーにお伺いを立てる暇はない。意を決してデジタルのウマ娘断ちを中断させようと決意した。

 デジタルは黒坂の決意とは裏腹にキョトンとして表情を見せ、大げさな動作で首を傾けながら黒坂を見つめる。

 

「なにこれ?」

「もう我慢しなくていいんです。好きな事をするために体調を崩しては本末転倒です。それでウマ娘を思う存分に感じた後はトレセン学園に戻ってトレーニングすればいい。健全な精神と充実したトレーニングを積めば、貴女の望みは叶うはずです」

 

 黒坂はデジタルを諭す。自分の言葉で自主的に行動してくれれば良し、最悪は強制的にウマ娘を感じさせると考えていた。

 デジタルは差し出されたスマホを手に取ることなく、黒坂の手ごとスマホを突き返した。

 

「アタシは大丈夫だよ。ウマ娘ちゃんを感じられなくても大丈夫だから」

「しかし、相当苦しそうな様子でしたし」

「確かに昨日は騒いだりしたけど、もうそんなことはしないから」

「ですが……」

 

 黒坂は思わず言いよどむ。このままにしておけば精神に多大な負荷が掛り、精神に悪影響が出ると判断し止めようとしていた。

 だが今目の前にいるデジタルは昨日までの情緒不安定さは感じさせない。これは負荷に耐えきって成長したという事なのか?

 

「黒坂ちゃんはアタシのことを心配してたんでしょ。とりあえず数日間は様子見してくれない?それでダメだと判断したら学園に強制送還すればいいから」

 

 デジタルは手を合わせ頭を下げる。黒坂は顎に手を当てながら考え込む。

 今のデジタルはとりあえず安定している。だが数日後はどうなっているか分からず、昨日のように情緒不安定になるかもしれない。とりあえず本人がやりたいと言っているので意志を尊重し続行させ、様子見すべきかもしれない。

 

「分かりました。とりあえずは様子見します。けれどもし続行させるべきではないと判断したら、トレーナーに報告、最終手段として強制的に中断させますがよろしいですか?」

「分かった。昨日のように喚いたりしないから」

 

 デジタルは力強く頷く。こうしてウマ娘断ちは続行となる。

 

──

 

 黒坂は自室でノートPCを打ち込み、トレーナーに送る定時報告を作成する。

 デジタルは自室で喚き散らして以降は情緒不安定さを全く見せなかった。攻撃性や苛立たしさも鳴りを潜め、両親達も嫌な感じが無くなったと評価を改めていた。これならレースに支障はないだろう。強いて言えば学園の時とは違い、大人しい気がするが許容範囲だ。

 こちらはデジタルの様子に動揺し慌てふためいていたが、トレーナーは負荷を乗り越えて安定すると見越していたのだろう。

 担当のウマ娘を信じて構える。これがトレーナーとサブトレーナーの差かもしれない。将来はかくありたいと思いながらメールを送信した。

 

 デジタルは暗闇に包まれた自室の中で膝を抱えながらベッドに座っていた。ウマ娘を感じられない苦痛は依然解消されていなかった。むしろ日が経つごとに強まっていた。

 以前であればその苦しみ耐えられずにいただろう。だがある気づきによって苦しみから耐えていた。

 

 この苦しみはより幸福になるためのスパイスである。

 

 辛いことや苦しい事を耐えるほど達成感や解放感は増える。例を挙げるなら試験勉強でトレーニングを制限し、試験終わり後のトレーニング、その際はトレーニングするウマ娘がいつも以上に輝き尊いという感覚を抱く。

 今回もそれと同じだ。ウマ娘を感じられない苦痛が多ければ多いほど、レース当日はより幸福が増える。他に苦痛に耐えることで別の要素が満たされると考えていた。

 

 オタクの界隈ではイベント抽選など運が試される機会が多く、徳を積むという考えが浸透していた。

 普段から善行をすることで徳を積み、運を貯蓄するという考えが徳を積むである。その善行を苦痛に置き換え、徳を積めば積むほど幸せになれると考えていた。

 そして出走ウマ娘達にも幸運が訪れる。出走ウマ娘が事故に遭うかもしれない、食中毒になるかもしれない、熱になるかもしれない。それらは当人の不注意で起こる事象でもあるが、ウマ娘達が人事を尽くさないわけが無く、起こるとしたら運に左右する事象であると考えていた。

 こうしてデジタルはウマ娘断ちの苦しみに耐えていた。

 だが耐えられるだけであって苦しみが緩和されるわけではない。これだけの苦しみに耐えるのだ、出走ウマ娘達には自身史上最高の煌めきを見せて欲しい。でなければこの苦しみに耐えた苦労が報われない。

 デジタルはウマ娘達が最高の姿を見せてくれることを切に願った。

 


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