勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と漆黒の帝王#6

 アグネスデジタルは朝のトレーニングを終えて、黒坂の家に帰りシャワーを浴びる。秋になり水の冷たさが体に染みる季節になったが、冷たさをそこまで感じていなかった。

 デジタルはシャワー浴びる終え脱衣所に向かい体を拭こうとするが、ふと鏡に映る自身の全身を見つめる。

 痩せたな、体を絞り切れなかったのが、南部杯の敗因の1つなので、丁度良いと僅かに口角をあげる。

 結果的に体を絞れたが意図的に絞ったつもりはなかった。最近は食事を摂っても美味しさを感じられず、量が減っていたのが原因だった。

 そして自身の感覚の異変に気付く、食事を美味しく感じないという味覚、水の冷たさを感じない触覚、ここ最近は5感の感覚が鈍くなっている気がする。

 ウマ娘断ちはボクサーの減量のようなものと捉え、減量中は感覚が鋭くなると聞いたことがあるが今は逆だ。

 デジタルに起こっている感覚鈍化の原因は体の防衛反応だった。

 レース当日までウマ娘を感じたくないというデジタルの願いに体が反応し、突発的な出来事でウマ娘を感じないように感覚を鈍化させていた。

 

 しかし今日は耐えられるだろうか?脳裏に不安が過る。今日は昼頃に府中レース場近くにあるホテルで天皇賞秋の前々日会見に参加する。

 今までウマ娘を感じないようにトレセン学園から離れ、自分からウマ娘を避けてきた。

 だが今日はウマ娘達が居る場所に、意図的に飛び込まなければならない。それは空腹状態のなか高級フルコースを目の前にして我慢するようなものだ。

 

 まあ、耐えられるだろうと楽観的に考える。

 

 デジタルに起こっている鈍化は感覚だけではなく、感情までに及んでいた。

 喜怒哀楽が弱くなり、日々が漫然に過ぎる感覚があった。だがその鈍化によって、ウマ娘が目の前に居るのに感じられないという状況にも耐えられるだろう。

 ウマ娘断ちの為にトレセン学園から離れて約3週間、長期間ウマ娘を感じられない困難さと苦しさは想像を遥かに超えていた。

 途中で断念しそうになったが、ある日痛みは幸福への最高のスパイスであり、苦しみは徳を積んでいると認識してから、ウマ娘を感じられない苦しさに耐えられた。

 

「苦しみと徳を積みに行きますか」

 

 デジタルは鏡に映る自身に向かって励ますように声を出す。その声とテンションはいつもより小さかった

 

───

 

 レース前々日の金曜日。GIレースが行われる日はレース場近くの会場を借りて枠順決定の抽選と記者会見が実施される。

 今日は天皇賞秋の前々日会見が開催され、秋の中長距離GIの初戦だけあって注目度が高く、先週の3冠が掛かった菊花賞の前々日会見に負けない程、各社マスコミの記者が来ていた。

 

「今回も良いメンバーが集まったな」

「ああ、本命はシンボリクリスエスだろ」

「ボリクリは宝塚記念に負けたからな、底が見えただろう」

「あれは間隔が空きすぎてレース勘が無かったせいだって、敗因はヒシミラクルのハイペースに乗っかっちゃったこと」

「ツルマルボーイはどうよ?東京の直線なら追い込みも活きるだろう」

「でも善戦マン感が強いしな。勝つイメージが浮かばないな、個人的にはローエングリンに重い印を打つな」

「ローエンはマイラーでしょ。2000は長いって」

「じゃあアグネスデジタルは?」

「最近パッとしないけど意外性が有るというか、あっさり勝っても不思議じゃないというか」

「それは分かる。扱いが難しいウマ娘だよな。それに外厩でトレーニングしてるんだろ、外厩はトレーニング内容を教えてくれないから予想を立てにくくて困る」

「外厩じゃないけど、確かに」

 

 プレアデスのトレーナーは後ろにいるスポーツ新聞記者の雑談に耳を傾ける。

 トレーニング内容は予想する上で重要な要素だ、それを秘匿する形になったのは関係者としては申し訳なく思い、心の中で記者たちに謝罪する。そして意外な高評価を受けていることに驚いていた。

 近2走は芳しくない結果だった。この結果なら勝つ見込みがないと思われても仕方がないところだが、勝っても不思議ではないと評価していた。

 デジタルはコロッと負けたかと思えば、思わぬ激走で勝つことも有る。その未知数さがファンにも意外性として伝わっているのだろう。そして今回は今までで最も計りかねていた。

 

 黒坂とデジタルの方針について意見をぶつけて以降、黒坂はトレセン学園に戻そうと意見しなくなった。どうやら精神状態が落ち着き、今の生活に耐えられると判断したようだ。それは黒坂だけではなく、トレーナーの判断でもあった。

 トレーナーは時間を作ってデジタルの元に訪れて様子を確認した。情緒不安定さは見られず、体つきや動きもある程度仕上がり及第点といえる。

 肉体面では問題無いが精神面に気がかりがあった。ウマ娘断ちで相当な我慢と負荷を強いられ、今日もウマ娘が間近にいるという状況に興奮状態になると思っていたが随分と大人しかった。

 だが大人しいのではなく、得体の知れない何かを感じていた。

 上手く言語化できないが危うさが孕んだ状態、こんな姿は長い付き合いの中で初めて見た。その得体の知れなさと危うさが状態を計りかねさせていた。

 

『只今より、天皇賞秋の前々日会見を始めたいと思います。まずは出走ウマ娘に登壇してもらいたいと思います。』

 

 司会のアナウンスの声に会場に居る人々達が雑談を止め意識を司会と壇上に向ける。これから出走ウマ娘が登場し、出る順番は累計ポイント順になっている。

 

『続いてはこの夏にフランスへ遠征し、前走のGIムーランドロンシャン賞では2着と健闘しました。この秋での躍進が期待されます。ローエングリン選手』

 

 黄色と黒を基調にオレンジ色の差し色を入れたドレスを身に纏ったローエングリンが壇上に上がり、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばしたまま両手でスカートの裾を軽く持ち上げ、カーテシーと呼ばれる挨拶をする。

 ローエングリンは安田記念でデジタルと一緒に走った。素質は高く速いウマ娘という印象抱いていたが、この夏の遠征で強さが備わった。

 強さがなければ初めてのフランス遠征とロンシャンの高低差と深い芝のコースで好走はできない。

 

『その末脚はメンバー屈指、中距離では抜群の安定感を誇ります。悲願のGI初制覇を狙います。ツルマルボーイ選手』

 

 ツルマルボーイは黄色と紫を基調にしたドレスを身に纏い壇上に上がる。立ち姿や雰囲気は良く言えば一般的で親しみがある。悪く言えば影が薄く地味という印象を受ける。トレーナーとしてはツルマルボーイを一番警戒していた。

 中距離重賞に複数勝ち、宝塚記念2着2回のスピード、天皇賞春4着と好走できるスタミナ、天皇賞秋に勝つために必要なスタミナとスピードを要している。

 さらに記者たちが言っていたように東京の長い直線にはツルマルボーイの後方一気の末脚が活きる。

 

『宝塚記念では破れはしましたがその実力は誰もが認めるところです。天皇賞秋に勝利し中距離最強の座を揺るぎないものにできるか?シンボリクリスエス選手です』

 

 シンボリクリスエスが壇上に上がる。緑と黒を基調にしたドレスを纏い壇上に上がる。ツルマルボーイと一転し、立ち姿や雰囲気から特別感が漂い存在感が際立っていた。

 

 宝塚記念での敗北は周りからの評価を下げた。だがそれだけで見限れるウマ娘ではない。その実力は間違いなく現役屈指だ。藤林トレーナーの元で万全に仕上げてくるという確信をトレーナーは抱いていた。

 

『最後はこのウマ娘、近2走の結果は芳しくありませんが、決して侮れません。その名を轟かせた同じ舞台での勝利が期待されます。勇者、アグネスデジタル選手です』

 

 最多獲得ポイントのデジタルが最後に登場する。姿を現した瞬間に会場がどよめいた。

 デジタルが着ているのはワンピースタイプのドレスで赤青黄の色をちりばめている。そしてドレスの他に手袋やレギンスやインナーを着け、普通ならあるはずの肌の露出が一切なかった。

 それだけならファッションの一環や何かしらの理由で肌を露出したくないのだろうと理解できる。だが会場の人間をどよめかせた原因はこれではない。

 デジタルの目にはアイマスク耳にはヘッドフォンが付けられ、協会のスタッフに手を引かれながら歩いていた。

 その姿はバラエティ番組で見知らぬ場所に連れてかれる芸能人のようだ。

 会見では受け狙いの格好や小道具を用意して笑いを取ろうとした者はいたが、それとはまったく違う異様さがあった。デジタルは席に座り手を引いた者はその場に立つ。

 その異様な姿に左右に座っていた出走ウマ娘のトレーナーが思わず、プレアデスのトレーナーに視線を向ける。トレーナーは視線を交わさず、じっとデジタルの姿を見据える。

 

 デジタルはウマ娘断ちを継続しながらこの日を迎えた。前々日会見への参加は絶対で、参加する以上ウマ娘に近づかなければならず、否が応でもウマ娘を感じてしまう。

 出来る限りウマ娘を感じるのはレース直前がいい、そこでトレーナーは協会に今のような状態で参加させてもらいたいと頼み込んだ。

 協会も最初は難色を示した。これもレースでベスト尽くすための努力であると力説し渋々と認めさせた。

 今のデジタルはアイマスクやヘッドフォンだけではなく、鼻栓をつけ口には濃い味の飴玉を入れている。

 アイマスクで視覚、ヘッドフォンで聴覚、鼻栓で嗅覚を塞ぎ、飴玉で味覚を鈍らせている。さらに素肌を晒さないことで皮膚感覚を遮断し、機能している5感は触覚のみだ。

 トレーナーにはその恰好の意味は理解できるが他の者には理解できるわけもなく、騒めきは治まらず他のウマ娘も登壇するが注目はデジタルに注がれていた。

 会場は異様な雰囲気に包まれながら司会が予定通り進行していき、この後は枠順抽選会が始まる。

 くじ順は今までのレースで獲得したレースポイントが多い者から引いていき、獲得ポイントが多いデジタルが最初に引く。

 係の者がデジタルの二の腕を叩き合図すると手を取り、デジタルは場所に移動し抽選箱に手を入れてボールを引く。

 

『アグネスデジタル選手、8枠18番です』

 

 出走ウマ娘の後ろにあるモニターには枠順表が映り、8枠18番にデジタルの名前が表示される。デジタルは枠順と同じ場所に移動し椅子に座る。

 東京レース場2000メートルのコース形態から外枠は不利と言われている。有力ウマ娘が大外に入れば通年では会場から様々な反応が現れる。

 だが今回は違っていた。アグネスデジタルはいつまでこの格好で居るのか?会見をこの格好でやり通すのか?興味は枠順ではなくデジタルの動向に集まっていた。

 抽選会は進行し、上位人気が予想されるシンボリクリスエスは6枠11番、ローエングリンは3枠5番、ツルマルボーイは4枠7番となる。

 抽選会の後は出走ウマ娘が意気込みを語り、質疑応答に移る段取りとなっている。1枠1番のウマ娘から意気込みを語っていく。

 そしてデジタルも係員に促されマイクを口元に運ぶ。そこでもアイマスクやヘッドフォンを外さない。

 

「このレースを楽しみにしていたので、精一杯頑張ります」

 

 デジタルは淡々と意気込みを語る。いつもならレースが待ちきれないと声を弾ませ生き生きと語るのだが、明らかにテンションが低い。その姿は今の格好も相まって不気味さを醸し出していた。

 

「では質疑応答に移りたいと思います。では質問がある方は挙手でお願いします」

 

 質疑応答に移り司会が質問を促すと次々とマスコミ関係者が手を挙げる。

 

「ローエングリン選手、今までマイル路線で走っていましたが、今回は2000メートルの舞台です。距離不安が囁かれていますが、不安はありますか?」

「不安はありません。2000メートルを走るためのトレーニングをしてきました。それに私はマイルに勝つスピードがあります。当日は自分の長所を生かしたレースをしていきます」

 

 ローエングリンは堂々と語る。その言葉は決して虚勢ではなく、自信に裏付けされた言葉であることが見て取れた。

 

「ツルマルボーイ選手、惜敗が続くなか、今回は末脚が活きる舞台です。心境はいかがですか?」

「確かに東京の長い直線は私の末脚が活きるコースで、距離もベストだと思っています。このチャンスを生かし是非ともGIに勝ちたいと思います」

 

 ツルマルボーイは淡々と語る。一見穏やかに見えているが追い詰められている者の特有の切迫感が有った。

 何人かの記者はそれを感じ取り、気負い過ぎであるとマイナスに捉える者もいえば、追い込まれた者の爆発力に期待する記者もいた。

 

「シンボリクリスエス選手、前走ではレース勘の欠如によるペース判断ミスが敗因と分析されていますが、今回も前哨戦を走らず、長期休み明けで走りますが不安はありますか?」

 

 記者の質問に空気が若干ピリつく。前走はレース勘の不足により負けたと口にしていた。

 史上初の天皇賞秋連覇がかかっていれば、普通なら前哨戦を走りレース勘を養うはずだ、だが今回も休み明けで挑む前回の反省を生かさずに挑む。それは慢心ではないかと暗に言っている質問だった。

 

「秋はシニア3冠に挑むつもりです。体力面から前哨戦を走る余裕がないとトレーナーと相談し決めました。そして天皇賞秋に向けてトレーナーと入念な準備を進めていきました。何が起ころうとトレーナーの教えを忠実に守りレースをしていきます」

 

 シンボリクリスエスは記者のメッセージに反応することなく、淡々とかつ堂々とコメントする。その言葉から油断や慢心が一切ないのは充分に感じ取れていた。

 それ以降も質疑応答は続いていく。その中で記者達の間に周囲の出方を窺っている空気が漂っていた。

 

「アグネスデジタル選手、今日の格好にはどのような意図があるのですか?」

 

 ある記者の質問にマスコミ関係者から安堵の空気が流れる。

 デジタルの恰好は真っ先に聞きたい質問だった。だがあまりに異質な姿に関わりたくないと躊躇させられていた。

 こんな話題性のあるネタを記者が放っておくわけが無い、誰かが質問するだろうと記者全員が様子見を決め込んでいた。

 だが質疑応答終了時間に迫るが一向に誰も質問しない、その事態に苛立ちが募るが動けずにいた。そんな折に質問が投げかけられ、質問した記者に一同は感謝と同時に記事に出来るという安堵を抱いていた。

 係員がデジタルの腿を指で叩くとヘッドフォンを外し耳打ちする。デジタルはヘッドフォンを装着しマイクを手に取る。記者たちは勿論壇上に居るウマ娘達や会場に居る人間の意識は全てデジタルに向けられていた。

 

「この格好は天皇賞秋で目的を果たすためです」

「目的とは何でしょう」

 

 先ほど質問した記者が矢継ぎ早に質問する。本来は連続で質問することは認められていない。

 だが質問の答えと今の恰好をしていることへの脈絡がまるで分からず思わず質問していた。そ

 して答えが気になるのか、司会も特に注意しなかった。デジタルは再び係員に質問を耳打ちされるとマイクを持つ。

 

「目的は出走ウマ娘ちゃんを思う存分感じることです」

 

 会場に居る人間は一斉に心の中で疑問符を浮かべる。やはり答えから今の恰好をしていることへの脈略が分からなかった。

 

『ではこれにて前々日会見は終了となります。個別に質問がある方は別室で時間を設けますので、そこでお願いします』

 

 定刻を迎え司会のアナウンスで前々日会見は閉幕となり、各ウマ娘達が退場し控室に移動する。ウマ娘達が退場すると移動を開始した。

 

──

 

「なんとか乗り切れた」

 

 デジタルは自室でポツリと呟く。今日の前々日会見において主観では出走ウマ娘を感じることは無かった。

 だがウマ娘を感じたいという衝動は鈍化させていた感情を激しく揺さぶり、危うく見隠しやヘッドフォンを外し感じそうだった。

 しかし苦しみを味わい徳を積まなければならないという、強迫観念に似た自制心が衝動を抑え込んだ。

 今日は何とか耐えられた。だが今日の会見で抑え込んでいたウマ娘を感じたいという衝動は膨れ上がる。土曜とレース当日はさらに膨れ上がるだろう。相当厳しい時間になりそうだ。しかしその分だけ徳を積み楽しさのスパイスとなる。

 レース当日はどれほど迄の極上体験になるのだろうか、デジタルは異様なまでに口角をあげて笑う。だが感情の高ぶりに気づき、感情を鈍化させ表情は真顔になっていた。

 

 

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