勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と漆黒の帝王#7

 シンボリクリスエスは普段通りの起床時間に目を覚ました。身体を起すと手足を軽く動かす。体調はいたって普通、良くも悪くもなく、都合が良かった。

 体調は普通と評したが、一般的な感覚で言えば絶好調である。レースに向けてコンディション調整するのは当然で、今日の天皇賞秋を走るウマ娘は全員絶好調だろう。もしそうでなければ勝負の土俵に立ってすらいない。

 そして絶好調でも細分化すれば好調不調は分類できる。今の状態は絶好調の中で普通という感じだった。

 レースを走るウマ娘には絶好調中の絶好調でレースに臨める者もいる。その状態になるのも実力だと言えるが、毎レース絶好調中の絶好調でいられるウマ娘は存在しない。

 トレーナーの作品となるウマ娘は調子に左右されてはならないというのが持論だった。

 調子が良かったから勝てたのではない。普通の状態で、トレーナーに鍛え教えられた事を発揮し勝ってこそ作品だ。

 

 ルームメイトを起さないようにタブレットを持って食堂に向かう。普段は起床して朝のトレーニングをするのだが、今日はGIを走るので朝のトレーニングをして体力を消費するようなことはしない。代わりに天皇賞秋に向けての最終チェックを念入りに行う。

 食堂に着くと朝のトレーニング前にエネルギー補給しようとするウマ娘で賑わっていた。適当に料理を選び空いている席に着くと、タブレットの映像を見ながら食事を摂る。

 

───

 

 アグネスデジタルは目を覚ます。起きた直後の感覚から熟睡できたと判断する。今日は思う存分ウマ娘を感じられる。

 その期待と興奮で眠れるか心配だったが杞憂だった。万全の状態でなければレースで存分に感じられないと、意志が興奮を強引に抑え込み眠りに誘った。

 この日の為に苦痛に耐え忍び徳を積み上げてきた。今日は最高の日になると半ば確信していた。しかし問題が1つだけある。それは衝動をレースまで抑えきれるかだ。

 感覚を鈍化させ、ウマ娘を感じたいという衝動に耐えてきた。そして前々日会見と土曜で衝動はさらに膨れ上がる。それは空気をパンパンに入れて破裂寸前の風船のようだった。

 些細な切っ掛けでいつ爆発するか分からない。爆発すれば今までの苦労は水の泡だ、今まで以上に慎重に行動しなければならない。

 デジタルは息を吸い込み体を起こすことなく、感覚と感情を鈍化させていく。

 

「アグネスデジタルさん、そろそろ向かいましょう」

 

 黒坂が部屋の外からノックして声をかける。起きてからすでに数時間が経っていた。鈍化した感覚は時間感覚すら鈍らせていた。

 デジタルは呼びかけに応じるように体を起こし制服に着替え始め、部屋から出て外に止めてある車に乗る。

 学園に居た頃とは違い徒歩ではなく車で移動する。黒坂の家から府中レース場まで1時間は掛かり、万が一のことを考え3時間早めに出発する。

 後部座席に座るとヘッドフォンとアイマスクを装着する。いつ何時ウマ娘と出くわすかは分からない。デジタルに油断や気の緩みは一切なかった。

 

───

 

 シンボリクリスエスは控室で今日のレースを見ながら、藤林トレーナーと天皇賞秋に向けて作戦会議をする。府中レース場に向かう前に打ち合わせをしたがさらに続ける。

 今日は内が伸びるか外が伸びるか、風向きはどうか、レース当日にならなければ分からない要素は数多くある。それらを加味して作戦を考えることが勝利を手繰り寄せる。

 

「今のところは1番人気だ、つまり……」

「マークされる」

 

 シンボリクリスエスはポツリと呟く。2番人気のローエングリンは逃げ、3番人気のツルマルボーイは追い込みが予想される。

 そしてシン自身は中団から直線での抜け出しや、差し切りを得意とするウマ娘である。

 そのことから極端なポジションの2人より真ん中に居る分注目が集まり、マークされやすくなる。

 マークされるのは1番人気の宿命だ、マークされたことで実力が発揮できずに敗北したウマ娘は数多い、他のウマ娘は一挙手一投足に注目し反応する。

 

「心配はいりません。トレーナーに教わったことを実行できればマークがされても勝てます」

 

 シンボリクリスエスは慢心も虚勢もなく淡々と口に出す。本来ならばトレーナーが励まさなければならないのに逆に励まされてしまった。その言葉にトレーナーは頼もしさと不甲斐なさを抱く。

 

「アグネスデジタルはどの位置につけると思いますか?」

「ある程度自在性が有るウマ娘だ、正直に言うと完全に予想できない。だがどの位置にいてもやはり注目はクリスエスに集まるだろう」

「そうですか」

 

 シンボリクリスエスは気のない返事する。このレースではトレーナーに教え鍛えられた全てだけを発揮し、トレーナーの作品として勝つ。思考の全てはそれだけに向けるべきだ。

 だがデジタルが前々日会見で見せた奇行と呼べるような行動は少なからず驚かされた。

 宝塚記念に感じた無邪気さとは違い感情を見せず淡々としていた。

 これは動揺を誘うための盤外戦術か?だがそんなことをするウマ娘ではない、いや、これが本性かもしれない。その不気味さは無意識に注意を向けさせていた。

 精神を落ち着かせる為にトレーナーから今まで教わったことを思い出す。個人の動揺も不安は必要ない、自分はトレーナーが描く絵のキャンパスでいい。キャンパスに個性は必要ない。

 シンボリクリスエスは藤林トレーナーと作戦会議を続ける。その胸中に抱くデジタルへの不気味さは薄れていた。

 

──

 

 デジタルは控室で椅子の背もたれにもたれ掛かりながら天井を見る。その目は虚ろで親しい人がいれば思わず声をかける程普通では無かった。

 今までは出走ウマ娘の映像などを見て妄想し、気持ちを高めていく。だが今日映像などは一切見ていない。もし見れば衝動が溢れだすのが分かり切っているからだ。

 府中レース場に到着すると、車いすに押されながら会場入りする。その姿を見た者達は何事かと一堂に驚いていた。

 別に怪我をしたわけではない。アイマスクやヘッドフォンで視覚や聴覚を遮断しウマ娘を感じないようにしているため自力で歩くことはできず、トレーナーが車いすに乗せて控室に運んでいた。

 ウマ娘を感じないよう石橋を叩くように行動する。衝動は起きてから此処に来るまで順調に膨れ上がり、くしゃみ1つで爆発しても不思議でなかった。

 衝動が感じながら、感情と感覚を鈍化させていく。衝動が溢れる前にレースをしたいと願う。時間が経つにつれその感情すら薄れ始めていた。

 

──

 

「折角現地に来たのに生で見られないなんて味気ないですね」

 

 東京レース場のスタンド最上部、ツインテールとポニーテールを合わせた特徴的な髪型のウマ娘、チームプレアデスのメンバーであるメイショウボーラーは不満を口にする。

 チームに入ってからデジタルが出走するGIを初めて生で見られる。

 パドック前で応援したい。ゴール板の1番近い場所で声をかけ走る姿を見たいと心を躍らせていた。

 だが現地に着くとパドックやゴール板近くのラチ近くに陣取るわけでもなく、スタンド最上部にチームプレアデスのメンバーは陣取り観戦していた。

 

「まあ、トレーナーからのお達しが出てるしな。今日はここで観戦だ」

「それでも、パドックぐらい生で見たいですよ」

 

 メイショウボーラーは先輩の言葉に反論する。今まではパドックでデジタルに応援の言葉をかけていた。

 だが今日はウマ娘断ちの一環として声をかけることをトレーナーから禁止されていた。

 

「いくら何でも最上部から見ればアグネスデジタルさんに見つからないでしょう」

「いや、あの人ならこっそり見ても察知されかねない」

 

 先輩の言葉に一同は思わず頷き、メイショウボーラーは困惑の表情を見せる。そんな妖怪じゃあるまいしという言葉が喉まで出かかるが何とか飲み込む。

 付き合いの長い先輩たちがそう言うのならそうかもしれないと、思わせる説得力があった。

 

「おっ、パドックが始まるみたい」

 

 チームメイトがターフビジョンを指さす。液晶にはパドック周辺が映し出されていた。

 

 

『これより第11レース、天皇賞秋のパドックを開始します』

 

 場内アナウンスの声にパドック場周辺の雰囲気が変わる。天皇賞秋では多くのドラマが生まれてきた。

 

 絶対と呼ばれていたシンボリルドルフの敗北した天皇賞秋。

 当時葦毛は走らないと囁かれるなか、1着タマモクロスと2着オグリキャップで名勝負を演じた天皇賞秋。

 1番人気だったメジロマックイーンの斜行によりGIでは史上初の1着入線ウマ娘の降着した天皇賞秋。

 不治の病であった屈腱炎を3度克服したオフサイドトラップの不撓不屈の勝利で終わった天皇賞秋。

 1番人気が勝てないというジンクスを打ち破ったテイエムオペラオーの勝利で終わった天皇賞秋。

 そして絶対王朝だったテイエムオペラオーとメイショウドトウのワンツーフィニッシュをアグネスデジタルの手によって崩された天皇賞秋。

 今日はそれらの天皇賞秋に負けないぐらいの名勝負が生まれることを願っていた。

 

 パドックでは人気が低いウマ娘から姿を現して客達に姿を見せる。

 中距離最高峰の舞台に挑むだけあって、皆が抜群の仕上がった体で闘志を迸らせていた。その闘志に当てられるように客達の気持ちも高まっていく。

 

『4番人気、アグネスデジタル選手です』

 

 デジタルが登場するとパドック周辺とターフビジョンで様子を見ている観客からどよめきが起こる。

 勝負服はいつも通りの物だった。だが目にはアイマスク、耳にはヘッドフォンを装着していた。ランウェイをフラフラと歩きながら壇上に上がる。その姿は異様だった。

 熱心なファンは前々日会見でデジタルがアイマスクとヘッドフォンを装着していたことを知っていた。

 だがパドックでもその姿で現れるとは思っていなかった。

 まさかレースも視覚と聴覚を遮断して走るのではないか?そんなことはあり得ない。だが、やりかねないという気持ちを抱いていた。

 

 パドック周辺の空気が変わっていく。今まで現れたウマ娘の闘志に当られ盛り上がった空気は徐々に冷えていた。その原因はデジタルによるものだった。

 いつもの楽し気な感じもレースに対する高揚感もない。ただそこに居るだけで覇気を感じず、虚無感すら覚える。それと同時に何か心をざわつかされていた。

 デジタルは覚束ない足取りで戻っていく。パドックでは前々日会見のように係員の手に引かれて歩くことは許可されなかった。視覚と聴覚が遮断された状態では杖が無ければまともに歩けない。

 では何故普通に歩けているかといえば、トレーナーの指示によるものだった。

 トレーナーは事前にインカムでデジタルに指示を送ると協会に申請して、協会の者が機具のチェックを行った結果、許可されていた。

 

『3番人気、ツルマルボーイ選手です』

 

 アナウンサーもデジタルの姿に動揺したのか、僅かに言いよどみながらツルマルボーイの名を呼ぶ。

 観客達も空気を変えようと大歓声でツルマルボーイを迎える。

 勝負服は紫と黄色を基調にしたサッカーのユニフォームに左胸には鶴を模したエンブレムが刻まれていた。

 

──勝つならここしかないぞ!

──頼むから勝ってくれ!

 

 地味な雰囲気ながら直線一気という派手なレーススタイルに、実力が有りながらGIを勝てないもどかしさに心惹かれたファンは多く。絶好の舞台での悲願のGI制覇にファン達は期待していた。

 ツルマルボーイもその声援に懸命に応える。その姿に気負いはなく、ファン達の期待は時には重荷になるが今日のは全て糧にできるとトレーナーは判断した。

 そしてデジタルの姿に動揺した様子もない。あのような姿で現れれば動揺するウマ娘も居るかもしれない。だが揺らぎはない。

 明確な意志を持ってレースに臨んでいるのがわかる。もしデジタルの目的が、動揺を誘うための盤外戦術なら効果はない。

 

『2番人気、ローエングリン選手です』

 

 ローエングリンが姿を現す。勝負服はスリットが入った黄色のワンピースに黒の鎧風の胸当て。右手にはバックラーを装着し、左手には剣を握っている。鎧風のヘルメットと背中には白鳥を模した羽がつけられている。髪型もロングヘア―を三つ編みにまとめられ赤いリボンがつけられていた。

 

──ここで勝って世界に羽ばたけ!

──お前は世界レベルだぞ!

 

 ローエングリンにもツルマルボーイに負けないぐらいの声援が送られる。

 ツルマルボーイが素朴な魅力なら、ローエングリンの魅力は華やかさだった。人が持っている華と呼ばれる魅力、出走ウマ娘の中で1番大きいのはローエングリンだった。

 トレーナーはローエングリンを観察する。ムーランドロンシャンを走り着る為にスピードよりパワーとスタミナを重視した体づくりをしたと聞いているが、それを継続したようだ。しっかり東京2000に勝てる体に仕上げている。

 何より表情が変わっている。明確な目的と決意を持ってこのレースに臨んでいる。故にツルマルボーイと同じようにデジタルの姿に動揺した素振りは無い。

 

『1番人気、シンボリクリスエス選手です』

 

──貴女が最強だと信じてますクリスエス様!

──お前ならシニア3冠狙えるぞ

 

 トレーナーはシンボリクリスエスが現れた際に宝塚記念との違いに気づく。気のせいか声援が小さい気がする。

 シンボリクリスエスにはツルマルボーイのような親しみやすさも、ローエングリンのような華やかさもない。

 その漆黒の帝王と称される立ち振る舞いには、近寄りづらさすらある。何故人気なのかと一言で言えば強さだ。強すぎると人気が出ないという例もあるが、基本的には強いウマ娘は人気を得る。

 

 宝塚記念での敗北で強さに対する信頼は揺らいだ。もし天皇賞秋に負けるようなことがあれば信頼はさらに揺らぎ、人気は低下するだろう。

 シンボリクリスエスはそんな事は関係ないとばかりに淡々とファン達に姿を見せる。その姿は宝塚記念と同じように威風堂々としていた。

 最強と称されながら格下と評価されたウマ娘や年下に負けた後の一戦、そんな状態であれば少なからず揺らぎが有るはずだ。だが揺らぎは一切ない、まさに不動だった。

 

 1番人気のシンボリクリスエスを最後にパドックは終了となる。

 各出走ウマ娘がトレーナーの元へ駆け寄る。そんな中トレーナーは逆にパドック裏に駆け寄るとデジタルを連れて係員に話しかける。

 

「アグネスデジタル選手、先出しになります」

 

 係員が各陣営にデジタルの先入れを告げる。その言葉に各陣営やパドックを見ていたファンも驚いていた。

 

 本バ場入場は基本的に番号順で入場していく。だがレース前に闘争心が抑えられずイレ込むウマ娘がいる。そういったウマ娘は暴れたりすることで、興奮が他のウマ娘に伝播しレースに支障が生じる場合がある。

 そのようなトラブルを防ぐ為に1人だけ早めに本バ入場させることで、落ち着かせ或いは周りに興奮が伝播しないようにする。それが先入れである。

 デジタルは今まで先入れで入場したことは一度もなかった。

 

 デジタルは係員に誘導されながら地下バ道に向かって行く。一見イレ込んでいるようには見えない。実はそうなのか、だがもしイレ込んでなければ意味が無い。ファン達は行動の真意を図りかねていた。

 入場前に出走ウマ娘はトレーナーと会話する時間が設けられる。時間は僅かだが、パドックで知り得た情報を元に作戦変更を伝える。出走前で緊張しているウマ娘に一言掛ける。その僅かな時間で勝敗を左右することは多い。

 だが先入れをした場合にはトレーナーと会話する時間は設けられず、即座に入場しなければならない。それは明らかにデメリットだった。

 トレーナーは心配そうに見つめる。パドックを見てデジタルの様子がおかしいことに気が付いた。もしかしたらウマ娘断ちに限界が来ているのかもしれない。

 それならば出来るだけウマ娘を感じないように先入れしたほうがいい。普通に入場してデジタルに話しかけるメリットより、先入れする方がメリットはあると判断していた。

 

「あれデジタルさんじゃないですか?」

 

 メイショウボーラーが指さす方向をプレアデスのウマ娘達は見る。

 それと同じくターフビジョンには本バ場入場するデジタルの姿が映り、スタンドの客からどよめきや止めてくれと悲痛な声が聞こえる。

 先入れする時点で心を乱しているという証拠で、先入れしたウマ娘の勝率は下がる。それを知っているファン達は不安に駆られ声を出していた。

 メイショウボーラー達は心配そうに見つめる。先入れもそうだがレース前のウォームアップの返し運動でもずっと俯きながら走っている。そんな姿は今まで見たことは無かった。

 デジタルがコースに入ってから暫くして、出走ウマ娘達が番号順に入っていく。会場のファン達はデジタルの先入れしたことを忘れるように、其々の応援しているウマ娘に声援を送った。

 各ウマ娘が入場しゲート前でウォームアップする。その中でデジタルだけはアイマスクとヘッドフォンをつけたまま佇む。

 周りのウマ娘はデジタルに意識を向けることなくウォームアップを続け、完全に空気と化していた。

 暫くしてスターターが合図を送ると、ファンファーレが演奏され客達はリズムに合わせ手拍子を送る。ファンファーレが終わると、客達は我慢が出来ないと歓声をあげた。

 

『東京11レース、天皇賞秋。グレードワン、芝コース2000メートル、芝のコンディションは良、今年は出走ウマ娘18人です』

 

 各ウマ娘が滞りなくゲート入りしていく。そして最後に大外枠のデジタルが係員に手を引かれながらゲートに入っていく。

 アイマスクとヘッドフォンと鼻栓を係員に手渡し深く息を吸い込み吐く。

 その瞬間ゲートにウマ娘達は寒気に襲われ前と同時に、前後左右から至近距離で見られるような不快感を覚え、一斉に18番ゲートに視線を送る。デジタルは異様なまでに口角をあげ笑みを零していた。

 

 デジタルはパドック終了後には我慢の限界で、衝動を詰め込んだ風船は破裂まで秒読み段階だった。

 そんな折にトレーナーが先入れの申請をする。それはデジタルにとって絶妙なタイミングでの助け船だった。ウマ娘と僅かでも離れたことでクールダウンされ衝動を我慢できる余裕が生じた。

 コースに入るとアイマスクを外す。流石に目隠ししたまま誘導が無い状態で、スタート付近までたどり着けない。返し運動ではコースの芝を荒らしてはならないと外を走る。

 外ラチ側はファン達が詰め寄りウマ娘が居るかもしれない。ヘッドフォンはしているので聴覚は封じている。あとはウマ娘を見ないようにと下を向いて走っていた。

 そしてスタート地点に着くとアイマスクを装着し再び感覚を遮断し、暫くすると出走ウマ娘達もスタート地点に着くとウォームアップをする。その一方でデジタルはウォームアップをせず立ち尽くす。

 

 辛うじて衝動が破裂するのは耐えたが依然破裂寸前なのは変わりなかった。

 破裂させることなくレースで思う存分感じる為には、ウォームアップする体力と気力も衝動を我慢するエネルギーに回さなければならなかった。

 懸命に耐えているとゲート入りが始まり順々にウマ娘達がゲート入りし、最後にデジタルがゲート入りする。そしてアイマスクとヘッドフォンと鼻栓という拘束具を外し、衝動を破裂させた。

 

 その瞬間莫大な情報が脳を叩きつけ多幸感に満たされる。意図的に前を見て視覚を遮断していた。だが無意識に出走ウマ娘達の呼吸音や匂いを感じ取ってしまう。

 無意識に感じ取ったものだけで快感が体中に駆け巡る。もしこれで意図的に感じ取り、ウマ娘の姿を見てしまったら幸せ過ぎて文字通り昇天するかもしれない。

 ウマ娘をより感じる為に、ウマ娘を断ち感覚と感情を鈍化させてまで過ごした。

 その日々は苦痛の連続だった。だが苦痛の果てにデジタルの肉体に恩恵が与えられ、その5感はかつてないほど研ぎ澄まされていた。

 人は主に視覚聴覚嗅覚で人の存在を感じる。だが今ならば大気の気流を肌で、身体から分泌され外に流れる物質を舌で、つまり触覚と味覚ですらウマ娘を感じることが可能とする。

 最早デジタルはウマ娘を感じる為に生まれた物の怪の類と化していた。

 

『さあ、各ウマ娘ゲートに収まりました。漆黒の帝王の連覇か?世界を経験した英傑か?善戦ウマ娘の悲願のGIか?勇者の復活か?それともニューヒロイン誕生か?天皇賞秋が…スタートしました』

 


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