勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者と漆黒の帝王#8

「スタートしました。おっと、ツルマルボーイは遅らせたか?そして先行争いは抜群のスタートを見せたローエングリンが先頭です」

 

 スタートはローエングリンが一気に飛び出し、ツルマルボーイは追い込みのポジションを確保するために意図的にスタートを遅らせ、他のウマ娘は差がなくスタートした。

 ローエングリンが思わず内心で舌打ちをする。場内実況では抜群のスタートと評されていたが、本人にとって及第点程度の出来だった。だが実況はローエングリンが抜群のスタートをしたと勘違いしてしまう。その原因は相対的な差によるものだった。

 各ウマ娘のスタートは普段のレースと比べて遅れる。遅れた原因はアグネスデジタルだった。

 レース直前に見せたアグネスデジタルから発せられる異様な気配、その気配に気が向き或いは慄いたことでスタートに集中できず失敗していた。

 そしてローエングリンは元々のスタートセンスもあるが、他のウマ娘と比べると比較的にデジタルの影響を受けずに済んでいた。レース発走直前に発せられる異様な気配には覚えがあった。

 

 アドマイヤマックス

 

 安田記念でアドマイヤマックスがパドックに現れた際は何故か不快感と不安を掻き立てられた。その感覚とデジタルが発する気配には類似し、その時の心境は記憶に鮮明に刻まれていた。

 その経験によってデジタルが発する雰囲気に対する耐性がつき、結果的に他のウマ娘と比べ影響は少なかった。

 ローエングリンはチラリとデジタルが居る後方を見ながら安田記念の状況を思い出す。

 アドマイヤマックスは確かに異様だった。しかし此方ではなく別の何かに向けられていた。

 だが今のデジタルの雰囲気は此方に向けられている。ゲート前に感じた前後左右から至近距離で見られているような感覚は薄まるどころか濃くなっていた。

 

『いや、ゴーステディ、ゴーステディがやはりいきます。強引に先頭に立つか?』

 

 先頭に立ったローエングリンを外から猛烈な勢いでゴーステディが上がり、横に並ぶと目を血走らせながらローエングリンを睨む。

 

『いやローエングリンが譲りません。前の2人がいきます』

 

 ローエングリンはゴーステディが並んだ瞬間ペースを上げて突き放す。その様子は明らかにゴーステディを意識していた。

 2人のペースは明らかに上がる。このままいけば超ハイペースとなり、直線で力尽きるのは誰の目から見ても明らかだった。

 レースにおいて是が非でも逃げたいというウマ娘が複数いた結果、ペースが上がるということは多い。

 そういった場合は逃げるウマ娘の誰かが引いて先頭を譲る。だが2人は先頭を譲るつもりは全くなかった。

 

 ゴーステディは歯を食いしばりながらペースを上げ続ける。逃げに固執するのは勝利のために、それは占める割合としてはごく僅かだった。大半を占める理由はローエングリンに対する個人的感情だった。

 ゴーステディは生意気で礼儀知らずだった。その性格は少なからず不興を買い、ある日ローエングリンによって教育的指導を受ける。だがその様子を見た誰もがその行為を指導とは呼べないものだった。それは明確な暴力行為だった。

 その結果ゴーステディは1ヶ月レースに出られなくなり、ローエングリンも数ヶ月の謹慎処分となる。

 ゴーステディも当時は生意気で、ある程度の体育会系特有の暴力を伴った指導を受けても仕方がないと思っていた。だがローエングリンはどう考えてもやりすぎだ。

 その後は形式的に和解を果たしたがローエングリンに対する憎悪の感情はくすぶり続けていた。いつか恨みを果たすと機会を伺い天皇賞秋を迎えた。

 前々日会見、パドック、本バ場入場の様子でゴーステディは確信する。ローエングリンは自分に対して憎悪を抱いている、そしてその感情を利用した。

 ローエングリンはレースに勝つためには逃げたい。そこにハナに立とうと並びかければどうなる?

 相手は絶対に引かない。ゴーステディがペースを上げ続ければ同じくペースが上がる。その先に確実な敗北が待っていようとも。

 

 ローエングリンは先頭を走り続ける。このままペースが上がればどう考えても勝てない。それは理解している。

 だがゴーステディの顔を見た瞬間譲ってはなるものかとペースを上げてしまう。まるで前世で何かが有ったとしか思えない不可解な感情だった。

 理性では抑えなければならないと分かっていても、感情が体を突き動かしてしまう。激情に駆られ敗北に近づく、どうすることもできない自分の体に、絶望感を抱いていた。

 

『ゴーステディがローエングリンの前に行きます。先頭はゴーステディです』

 

──それじゃダメだよ

 

 ローエングリンの脳内に謎の声が響く。すると制御不能な怒りが瞬く間に収まり、即座にペースを落とし、ゴーステディを前に行かせる。

 今のはなんだったのだ?自身に起こった現象に戸惑いを覚える。だがこの現象によって敗北へと突き進んでいた道から逃れられた。即座に気持ちを切り替え、勝利に向けて最適のペースを維持する。

 

 ゴーステディはローエングリンがポジションを下げたことに動揺する。ここで引くのか、これでは共倒れさせるプランが瓦解してしまう。

 だがもう一度横に並べば、ローエングリンはムキになりペースを上げるはずだ。ゴーステディは併走しようとペースを下げる。

 

───それじゃダメだよ

 

 ゴーステディの脳内に謎の声が響く。すると抱いていたローエングリンへの憎しみが薄れていく。それと同時に湧き上がるのは勝利への渇望だった。

 生意気で礼儀知らずだった自分をトレーナーとサブトレーナーが拾ってくれ、指示を散々無視しても根気強く付き合ってくれた。

 ゴーステディは天皇賞秋を走るウマ娘の中で決して実力が上なわけではない。

 その現実に挫け、どうせ勝てないとローエングリンを道連れにする走りを選ぼうとした。

 だが今はそんな負の感情はない。確かに勝てないかもしれない、だが100回に1回だろうが、1000回に1回だろうが勝つ確率がある走りをすべきだ。

 トレーナーとサブトレーナーの為にも、後ろに下がらず先頭を走り続ける。全ては勝利のために。

 

『向こう正面入ってローエングリンの後ろ3バ身差にトーセンダンディ、カンファーベスト、テンザンセイザ、トーホウシデン、その後ろ4バ身後ろにシンボリクリスエスとアグネスデジタル、後ろ3バ身差にサンライズペガサス、イーグルカフェ、モノポライザー、ロサード、ヤマノブリザードと固まっています。そして2バ身差後ろの殿に溜めに溜めたツルマルボーイ、末脚に賭けます』

 

 第1コーナーを通過しスタートから600メートル、先頭から殿まで約13バ身差の展開、特筆すべき点がないと思われる隊列だが奇妙な点があった。シンボリクリスエスとデジタルの前後に大きなスペースが空いていた。

 シンボリクリスエスは1番人気で最も警戒すべきウマ娘だ、できる限り近くで動きを見て、相手の仕掛けより先に動く、仕掛けのタイミングで動きを封じる、囲んで進路を塞ぐ。

 それはどのレースでも当たり前に行われ、本命の近くにいなければできない。だがまるで避けるように近寄らない。

 他のウマ娘は自分のレースをすればシンボリクリスエスをマークしなくても勝てる。そういった考えがあるわけではない。

 正確に言えばマークしたくてもできなかった。それはデジタルが原因だった。

 デジタルから発する異様な雰囲気とそれに伴う不快感と寒気、それはスタートしてから弱まるどころか強まっていた。

 少しでも異様な雰囲気を感じたくない、不快感を緩和させたい。その一念から他のウマ娘達は自分のリズムを乱してでも意図的にデジタルから距離を取っていた。

 

 シンボリクリスエスはレース展開を分析する。囲まれると予想されたが、近くにいるのはデジタルだけで近くの前後左右にウマ娘はいない。

 これならば仕掛けどころで邪魔されることもなく、邪魔しようとしても後方から上がってこようが、前方から下がってこようが把握できる。  

 周りに気を割かず本来ならばプレッシャーなく気軽に走れるのだが、今までのレースで最も精神的負荷が掛かっていた。

 アグネスデジタルというウマ娘にはこれといった印象はなかった。

 実績は歴代屈指だが、宝塚記念での走りに脅威は抱かず、レース前には学園から出てトレーニングや、前々日会見やパドックでの奇妙な行動は多少驚いたが、実力という面ではツルマルボーイやローエングリンを評価していた。

 だがレース発走前に見せた異様な雰囲気、それは今までの人生で全く感じたことがない異質なものでデジタルというウマ娘の印象が一気に変わった。

 

 化物、怪物、それがデジタルに対する印象だった。

 

 シンボリクリスエスはデジタルの異様さにスタートが遅れる。

 スタートは良いポジションを取るために重要であるというトレーナーの教えに背いてしまった。焦りと動揺が過るが他のウマ娘も同様に遅れていたので、結果としてはそこまで不利を受けず、ほぼ理想通りのポジションを取れていた。

 気がつけば周りにウマ娘は居なく、デジタルの1番近くで走ることになっていた。

 出走ウマ娘全てがデジタルの雰囲気に当てられていたが、1番近くにいるシンボリクリスエスが最も影響を受けていた。

 もしこのレースが模擬レースであれば、もし藤林トレーナーと契約を結んでいなければ、他のウマ娘と同じように距離をとるどころか、走るのすら止めていただろう。それ程までにデジタルの存在は不快で恐怖だった。

 だが自分はプロ契約を結んだプロ選手だ、賃金を貰い仕事に責任を負っている以上、怖いから不快だからという個人的な理由で仕事を放棄するわけにはいかない。

 今日の仕事はトレーナーの作品として勝利すること、トレーナーからは嫌なので離れていいとは教わっていない。個人的な感情を押し込め、仕事のためにデジタルから離れず走り続ける。

 

(あ~最高!幸せすぎる!)

 

 デジタルは走りながらウマ娘を感じる幸福を噛み締めていた。ゲートを出ると、意図的に感覚を研ぎ澄まし出走ウマ娘を感じる。

 目に映る色艶やかな勝負服と肉体のコントラスト、耳に聞こえる呼吸音と芝を踏みしめる足音、鼻から匂ってくる体臭、肌で感じる走るウマ娘から発せられる空気の流れ、舌で感じるウマ娘汗などの排出物、1秒ごとに莫大な情報が押し寄せ、感じ咀嚼するたびに体中に多幸感が駆け巡る。少しでも気を緩めれば昇天しかねない。

 するとデジタルの感覚が前を走るゴーステディとローエングリンを捉え状況を把握する。

 ゴーステディとローエングリンの間にはイザコザがあって仲直りしたと聞いたが、ゴーステディは憎悪を抱き、勝敗度外視で逃げを主張しローエングリンと共倒れを狙っている。

 ローエングリンもこのままいけば負けると理解していながらも、制御不能な怒りでゴーステディと張り合ってしまう。

 ウマ娘断ちによってウマ娘を感じたいという欲求が極限まで高まり、その結果5感が極限まで高まっていた。

 常人では比べ物にならない鋭敏さで多くの情報をキャッチし、他人の心理状況や思考まで読めるようになっていた。

 デジタルが見たいのはウマ娘達が憎しみを抱くことや、不本意な結果でレースを終える姿ではない。全力を振り絞り煌く姿だ、それでなければここまで苦痛に耐え得を積んだ甲斐がない。

 

 すると願いが通じたのかローエングリンは制御不能な怒りを収めペースを落とし、ゴーステディもローエングリンに構うことなく勝利のために逃げ始めた。

 その状況を確認し思わず胸をなで下ろす。それで良い、それこそが感じたい光景だ。

 そして5感で収集した情報を元に、他のウマ娘の心境を把握する。どうやら自分に対して恐怖を抱いているようで、恐怖から逃れるために、本来の位置取りやペースを乱しても距離を取っているようだ。

 原因は5感を研ぎ澄ましているのが生理的な嫌悪となり、プレッシャーや恐怖となったことによるものだった。

 それはシンボリクリスエスも同様のようで、漆黒の帝王と称されるウマ娘であれば、どんなことにも恐れず揺るがないと思っていたが、不意に見せる弱さはギャップ萌え的で思わず心がときめく。そしてその恐怖や嫌悪に抗い、離れることなく走っているというのもグッとくる。

 だが現実問題、ウマ娘を感じようとすることで他のウマ娘に大きな迷惑をかけている。

 5感を研ぎ澄まさず普通に走れば、嫌悪感やプレッシャーを与えずに済む。だがこの日のために苦痛に耐え徳を積んできたのだ、出来る限りはウマ娘を感じたい。

 

 自分の欲求か、ウマ娘ちゃんの幸せか。デジタルは選択に迫られる。

 

 思案の結果、デジタルはウマ娘を感じることを継続する。

 ウマ娘達は弱くない。其々の夢や目指す目標のために自分が発するプレッシャーや不快感など跳ね除けてくれるに違いない。それ以前にウマ娘を感じたいのだ。この欲求は到底抑えられない。

 

『先頭のゴーステディが前半の1000メートルの標識を通過して、タイムは59秒5です』

 

 ゴーステディの刻むラップは芝の状況を加味すればやや平均より速いペースだった。だが決して無理なペースではなく、逃げるゴーステディにも充分勝機があるペースだった。

 

『先頭はゴーステディ、後ろ2バ身差にローエングリン、その後3バ身差にトーセンダンディ、カンファーベスト、テンザンセイザ、トーホウシデン、シンボリクリスエス、アグネスデジタル、中団グループが一固まりとなっていきます。そして中団グループから離れて殿にツルマルボーイです』

 

 1000メートルを通過する辺りで隊列に変化が生じる。デジタルから距離を取っていたウマ娘達が近づき始め、前のゴーステディとローエングリン、後ろのツルマルボーイ以外は一固まりの集団と呼べるほどの距離間隔になっていた。

 他のウマ娘達にはデジタルに対する恐怖心があった。異様で得体の知れないウマ娘には近づきたくないと本能が拒絶する。だが謎の声が聞こえると、恐怖心が薄らぎ始めていた。

 ある者はトレーナーの為に、ある者は家族の為に、ある者は夢やぶれた友の想いの為に、それぞれが抱く強い想いが恐怖に抗う勇気を与えて、勝利や目的の為にデジタルに近づくことを厭わなくなっていた。

 デジタルは状況の変化に対し、口角が無意識に吊り上がる。皆が勝利や大切な物のためにベストのポジションを取ろうと恐れずに近づいてくる。自分に対する恐怖は完全に拭いきれていない。それでも気高き心と勇気を持って抗っている。

 

 なんて素晴らしくて尊いのだろうか!

 

 しかしこれでもまだ前菜だ、勝負を決める直線に入れば死力を尽くし本性がさらけ出される。

 その際に発する想いや情念はさらに大きくなる。その尊さや素晴らしさは最早想像を絶する。冗談抜きで感じたことで、発生した快楽物質のオーバードーズで昇天死するかもしれない。

 それでも構わない。だから最高の姿を感じさせてくれ。己の5感をさらに研ぎ澄ます。

 

 レースは3コーナーに差し掛かるところでゴーステディがペースを上げ、2番手のローエングリンも追走する。 

 一方後方集団のウマ娘達も2人を追走しない、正確に言えばシンボリクリスエスが直線で捉えられると判断し、集団のウマ娘もシンボリクリスエスをマークしているので追随するように動かなかった。

 

『第4コーナーを曲がり直線へ!先頭はゴーステディ、その後ろにローエングリン』

 

 ゴーステディはコーナーを曲がる際に後方集団を確認する。コーナーが得意なゴーステディは曲がる際にスピードを上げ、セーフティリードをとり逃げ切りを図る。ローカルや中山ならともかく、直線の長い東京では逃げ切りは厳しい。

 勝つ可能性があるとすれば、シンボリクリスエスの仕掛けのタイミングが遅れ、マークしていたウマ娘達も同様に仕掛けのタイミングが遅れによるミスでの勝利だろう。

 後ろにいるローエングリンは問題ない。本質はマイラーで、ある程度流れた中距離のペースにはついていけないはずだ。

 完全に他力本願だが勝つにはそれしかない。人事は尽くした、後は天命を待つ。

 いや人事は完全には尽くしていない。トレーナーとサブトレーナーに教わったことを全て出し尽くし、酸欠で気絶するまで走る。それが人事を尽くすということだ。ゴーステディはトレーナー達との思い出を力に変え死力を尽くす。

 

『残り400メートル、ローエングリンがゴーステディに迫る』

 

 ローエングリンがゴーステディの横に並びかける。スタート直後のゴーステディとは違い、憎悪の目で横に居るローエングリンを見ずに、トレーナー達の為に勝つという決意を持ってゴールがある前を向いて力を振り絞る。だが決意をあざ笑うように、ローエングリンはあっさりと交わしていく。

 ゴーステディはその姿を睨みつける。自分の願いを打ち砕いた憎きウマ娘、だが目に宿る憎しみはすぐに消える。トレーナー達に恥ずかしくないレースをする。その一念で体を動かし続ける。

 

『先頭変わってローエングリン!このまま押しきれるか!?』

 

 ローエングリンはゴーステディを抜き去った喜びや達成感を感じることなく、全力に近い速度で走りながら体と対話し思考する。

 残りのエネルギー量はどれくらいか?後ろの様子はどうだ?ある程度後続をひきつけるか?それとも突き放す逃げで心を折るか?

 

 ローエングリンには明確な目標がなかった。自分の適性とトレーナーの言葉によって、消去法でレースを選んでいるに過ぎず、安田記念を走ったあとのフランス遠征もトレーナーの提案で本人の希望ではなかった。

 明確な目標がなくともレースで負けるのは嫌なので全力でレースに臨む。

 初戦のGI芝1600のジャックルマロワ賞では10着に終わったが、次のGI芝1600ムーランドロンシャン賞では2着と健闘した。そこで初めて自分の可能性と目標を持つ。

 

 もう一度同じ舞台に戻って勝ちたい。

 

 帰国後のローエングリンの行動の全てはムーランドロンシャン賞に勝つために向けられる。

 トレーナーが次走をマイルCSにしようとしたところを天皇賞秋に走りたいと意見した。ロンシャンのマイルは深い芝と高低差が大きくスタミナとパワーが求められ、日本の中距離に勝てる能力が無ければ勝てないと言われていた。

 スピードにはある程度自信がある。必要なのはスタミナとパワーだ、それから目標を天皇賞秋に絞り、勝つために必要なパワーとスタミナを鍛え上げる。

 そして天皇賞秋を選んだのはシンボリクリスエスが出走するからという理由があった。

 宝塚記念で負けたはしたものの、現時点で中距離最強であると評価していた。そのシンボリクリスエスに日本で最も評価される東京レース場のレースで勝てば、日本の代表として堂々と乗り込めるからだ。

 

 さらにローエングリンには今日のレースが発走してからもう一つ勝ちたい理由が出来ていた。

 今年に走った安田記念は完全な敗北だった。着差も2着と3バ身差と数字の上でも完敗と言える着差だったが問題は内容だった。

 直線に入り抜け出したアドマイヤマックスに完全に呑まれていた。その目には狂気を宿し、自分だけの世界を構築する。

 その世界に一歩も踏み入れることはできず心が挫けた。その強さは世界の強豪でも持ち合わせていなかった異質で強大なものだった。

 その異質な強さを持ったアドマイヤマックスを退け1着になったのはデジタルだった。誰もが立ち入れなかったアドマイヤマックスの世界に踏み入り打ち破る。

 そして今日のデジタルからは安田記念のアドマイヤマックスと似た雰囲気を感じていた。

 恐らくあの時のアドマイヤマックスと同じように自分の世界を構築して迫ってくる。

 以前はその世界に踏み込めず呑まれ心が挫けた。だがフランス遠征で鍛えた心で、デジタルの世界に呑まれることなく打ち破り勝つ。今日は安田記念のリベンジでもあった

 

『残り400メートル、ローエングリンがその差を3バ身、4バ身差と広げていく!』

 

 シンボリクリスエスは直線に入り周りに囲まれながら機を窺う。

 周りのウマ娘達もじっと足を溜めている。東京の長い直線ならまだ仕掛けなくても捉えられるという自信、ローエングリンはマイラーで、この仕掛けでは最後の足が鈍るという計算、それも確かにあるが主な理由はシンボリクリスエスの末脚だった。

 前のローエングリンを捉えてそのまま押し切る。そんな王道な走りは1番人気がやる仕事だ。

 ここは徹底的に足を貯め、シンボリクリスエスを後ろから差し切るぐらいの思いっきりの良さが無ければ勝てない。世間の評価は以前と比べ下がっているが、最も強強い敵であるというのが出走ウマ娘達の認識だった。

 

 囲まれて抜け出せず足を余らせて負ける。

 

 それは1番人気のウマ娘が最も避けたい負け方だ、全力を出せず悔いを残すどころか、世間からも不評を買う。それを避けるために1番人気のウマ娘は多少距離をロスしてでも、囲まれないように外を回す。

 シンボリクリスエスは外を回すことはなく集団に潜む。

 大概のウマ娘は脚を余して負ける不安と恐怖に多かれ少なかれ心を乱し、それは消耗につながる。しかし不安も恐怖も抱かない。

 それは自分というトレーナーの作品にノイズを入れることになるからだ、真っ新なキャンパスの状態を維持し、トレーナーの教えという絵を描かれる。それが今の仕事だ。

 トレーナーはレース前にシンボリクリスエスにこう伝えた。今日のレースは外を回す必要はない。

 宝塚記念の敗北で出走ウマ娘達は心の底からシンボリクリスエスの強さを信用していない。

 テイエムオペラオーのように勝ち続ければマークはより厳しくなり、マークの意識が勝敗を上回ることがある。

 この先のレースに勝ち続ければそうなるだろう。だが今はその段階に達していない。故にマークの綻びが生まれる。

 シンボリクリスエスの前にいたトーセンダンディがスパートをかける。

 このウマ娘は差しだがどちらかといえば、キレる脚より長く良い足が使えるタイプに分類される。シンボリクリスエスの末脚を凌ぐためには、早めにスパートをかけなければならない。そして仕掛けるときに若干左に寄れる癖がある。

 右隣に居るイーグルカフェ、彼女はトーセンダンディに比べ長く良い足は使えないがキレる脚が使える。

 シンボリクリスエスをマークするならばトーセンダンディと同じタイミングで仕掛け、抜け出せないようにスペースを埋めなければならない。

 だが勝つためには今ではなく、仕掛けるタイミングを遅らせなければ足が鈍ってしまう。

 

 ウマ娘は規格統一された機械ではない。性格や体の特徴など誰ひとりして同じではなく、勝利への過程も違いが出る。

 マークするには勝負を捨てるほどの決意でしなければならない。ウマ娘が勝利を望むのは本能のようなものだ、中途半端な気持ちではマークより勝利を優先し、そこから綻びが生まれる。

 他のウマ娘の心境、トーセンダンディの特徴と癖、イーグルカフェの癖、これは全てトレーナーに教えてもらった。

 謂わばトレーナーの絵だ、後は誤差なくキャンバスとして描かれるのみ、シンボリクリスエスは前にできたスペースに完璧なタイミングで抜け出しマークを振り切る。

 オペラオーやデジタルも同じように囲まれた際は、周りのウマ娘に思念を送り動いた錯覚させ道を作った。だがそれは特別な才能を持ったウマ娘だけだ。

 今の一連の動作は違う。スペースを見つけるのも抜け出す瞬発力もトレーナーのメニュー通りトレーニングし、トレーナーの分析を覚え実行する。普通の努力をすれば誰でも出来ると当人は思っていた。

 シンボリクリスエスの目の前に見えるのは、誰もいないゴールまでの道筋だった。

 

「シンボリクリスエスがバ場の真ん中を物凄い脚で突き進む!先頭のローエングリンとの差をみるみる内に詰めていく」

 

 ローエングリンの耳は後ろから猛追するのはデジタルではないと察知する。

 デジタルなら構築する世界をある程度離れても感じられるだろう。安田記念のアドマイヤマックスの時のようなおぞましさも凄みもない。実力的にはシンボリクリスエスだ。

 このレースでは突き放しリードを作り心を挫く逃げではなく、ある程度足を貯め一旦追いつかせてから突き放す逃げを選択していた。

 追いつかれるのは想定内だ。だが来ているのはデジタルではない、ここは後ろから来るであろうデジタルに備えてもう少し脚を溜めるべきか、それともシンボリクリスエスに標的を絞り、力を発揮すべきか?

 体のエネルギー残量がゼロになるように力を使い果たす。

 それが最もタイムが速くなる仕掛けで、タイムアタックならベストだ、だがレースはタイムアタックではなく対人戦の側面も持つ。例えベストのタイミングの仕掛けでなくとも、心を挫き相手の力を出させないのが最良な場合もある。

 シンボリクリスエスに標的を絞れば、専用の仕掛けで先着できる可能性が増える。だがデジタルが後ろから来れば差し切られる。

 そしてデジタル用の仕掛けにすればシンボリクリスエスに差される可能性が増える。どっちを優先すべきか、ローエングリンは選択に迫られていた。

 

『残り200メートル、差の縮まりが鈍くなる。シンボリクリスエスの脚が上がってしまったか?』

 

 ローエングリンは標的をシンボリクリスエスに絞る。直線に入って差の縮まりが鈍くなれば、焦りや不安が僅かに過る。ほんの僅かでいい、それが足を鈍らせ勝利に繋がる。

 200メートル時点でシンボリクリスエスとの差は3バ身、ローエングリンは想定以上に力を使っていた。このままでは力を使い果たし、最後は差されるとレースが開始する前は思っただろう。

 だが今はそうではない、中距離用の体に作り替えたおかげか、明確な目標を持ったことで精神的に強くなったせいか、理由は分からないが充分に力は残っている。これなら勝てる!

 ローエングリンには明確な勝利のビジョンが描けていた。

 

 シンボリクリスエスに僅かに揺らぎが芽生える。引き付ける逃げをしたのは分かっている。ある程度伸びるのは想定済みで交わせるのは残り150メートル前後だと予測していたが、この差は予想外だった。

 落ち着け、トレーナーから教わったことを出せればこのレースは勝てる。動揺を押し込めてトレーナーの作品としての実力を発揮することを務める。

 

 いつもと同じように腕を振り足を動かし呼吸する。だがいつも以上にスピードが出ていた。

 トレーナーの作品として、どれぐらいの力を出せばどれぐらいスピードが出るかは誰よりも把握していた。理屈に合わない。今起こっている現象に戸惑いながらも力を振り絞る。

 

『残り100メートルでシンボリクリスエスがローエングリンに並んだ!』

 

 1流のウマ娘は時に理屈に合わない力を発揮する。それは思いの強さが起因するもので、負けたくない。勝ちたい。チームの為に、自分の為に、想いは様々だ。そしてシンボリクリスエスも思いの強さによる力を発揮していた。

 勝ちへの執念が特段にあるわけではない、セイシンフブキのようにダートの為に、ヒガシノコウテイのように地方の為に、サキーのようにウマ娘と関係者の幸福のためにというような、特別な想いがあるわけではない。あるのは責任感だった。

 

 シンボリクリスエスはトレーナーと契約を結び賃金を得ている。他のウマ娘とは違う現役選手で唯一の労働者だった。

 契約内容はトレーナーを日本一のトレーナーにすること、そして日本一のトレーナーにするためには特別な力を有せず、誰もがトレーナーの手によって育てられれば同じ走りが出来るような、トレーナーの作品としてレースに勝つことが必要だと判断した。

 プロとは賃金を得ること、そして賃金をもらえば責任が生じる。プロとして作品として勝たなければならない。その責任感が皮肉にも他の1流ウマ娘が持つ想いによる理屈に合わない力を発揮していた。

 

『そしてシンボリクリスエスが交わした!シンボリクリスエス先頭!このまま秋の盾2連覇か!?』

 

 残り80メートルでシンボリクリスエスがローエングリンを交わす。

 やはり漆黒の帝王は強かった。その光景に観客から歓声が上がる。歓声はシンボリクリスエスがローエングリンを交わしたことによるものだけではなかった。

 

『いや外からすごい勢いでやってくるウマ娘が居るぞ?これはツルマルボーイだ!ツルマルボーイが物凄い勢いでやってくる!』

 

 残り50メートルでツルマルボーイがローエングリンを交わし、シンボリクリスエスとの差を1バ身まで詰める。

 ツルマルボーイは直線では最後尾の18番手だった。そこから直線約500メートルの間に16人のウマ娘を抜き去った。

 道中のペースもハイペースではなく、東京の長い直線に備え各ウマ娘達も足を貯めていた。それでもなおツルマルボーイの末脚に比べれば止まって見えてしまう程だった。

 

 ツルマルボーイは歯を食いしばりながら懸命に走り続ける。宝塚記念までは主役になりたいと思っていた。だが今はそんな気持ちは欠片もなかった。

 

 宝塚記念の後に自分は主役になれないと悟ってしまう。主役とは話題の中心、そして話題の中心になるにはある程度長期間活躍しなければならない。その為に必要な実力も運も持っていなかった。

 主役になるという夢を諦めたと同時に、ある想いがそれ以上に膨れ上がっていた。それはGIに勝ちたいという思いだった。

 地味でもいい、誰の記憶に留まらなくてもいい、そんなものはくれてやる。その代わりGIウイナーという確かな証が何よりも欲しい。

 ツルマルボーイは自己分析を開始する。自分は足りないウマ娘だ、そんな自分が勝つためにはより極端に割り切る必要がある。それに気づいたのは宝塚記念で極端なまでに足を貯めたレース運びをしたのが切っ掛けだった。

 スタートから直線まで徹底的に殿の位置を維持し続けた。仮に誰かが殿を狙おうとすれば、それ以上にペースを下げる覚悟でいた。

 道中のポジション取りや駆け引きは一切捨てる。感覚的には2000メートルのレースではなく、約500メートルの直線だけを走るスプリント戦だった。

 直線に入り末脚を爆発させようと足に力を込める瞬間、ツルマルボーイに幸福が訪れる。

 予定では大外を回して走るつもりだったが、前のウマ娘が接触したことで目の前の進路が完全に空いていた。この進路を通れば、大外を回すより大幅に距離ロスを防げる。

 宝塚記念までのツルマルボーイなら、主役は運に頼らないと思いながらも勝利への欲求に従い、負い目を感じながらその進路を通るだろう。

 だが今欲しいのは主役の座ではなく、GIウイナーという結果のみ、そこに負い目は一切ない。

 負い目は足を鈍らせる。それをぬぐい去ったこの瞬間は今まで最も速い。

 ツルマルボーイは末脚を発揮しながら妙な感覚を覚える。いつもより体が軽い、脚が動く、苦しくない。まるで自分の体ではないようだ。もしくは誰かから力を貰っているようだ。

 昔なら他人から力を貰うことに、主役を目指すものがそれでいいだろうかと、しこりを抱くだろう。だが今はどうでもいい、何もかも使ってGIを勝利する。唯それだけを考えていた。

 

 残り40メートル、ツルマルボーイとシンボリクリスエスとの差は半バ身差まえ詰め寄る。脚色はツルマルボーイが勝っている。

 この勢いなら差し切れる。ツルマルボーイの脳内で勝利の光景が鮮明に浮かび上がる。

 その時シンボリクリスエスの横顔が見える。追い込まれ、その表情は焦燥の色に染まっているはずだった。だがその表情に映るのは焦燥ではなく不満だった。

 不満といっても追い詰められている事への不満ではない、もっと別のことに対する不満だった。

 そして横顔の距離が縮まらない。加速したのか、自分の脚が鈍ったのか分からない。

 だが確実に分かるのは、もう追いつけないという事実、ツルマルボーイの心は挫かれていた。

 

『シンボリクリスエス!シンボリクリスエスだ!漆黒の帝王は強かった!史上初の天皇賞秋2連覇達成!中距離の主役はやはりこのウマ娘だった!そしてタイムは1分57秒9!東京2000メートルのコースレコードです!』

 

 シンボリクリスエスがツルマルボーイに1バ身差をつけての1着、秋の盾を巡っての激闘は漆黒の帝王に軍配が上がった。

 ターフビジョンにズームアップされたシンボリクリスエスの姿が映る。

 1着になったとしても喜びを爆発させるウマ娘ではない、だが宝塚記念の敗北を経ての史上初天皇賞秋連覇だ、少しぐらいは喜んでいるかもしれない。

 僅かに笑みをこぼす姿が見られると、ファンたちは期待する。だがターフビジョンに映るのは、不満げな顔を浮かべる表情だった。

 

「どうした?レース内容が不満だったか?」

 

 藤林トレーナーは裁決室に戻ったシンボリクリスエスを労いながら問いかける。

 プロ意識の高いウマ娘だ、1着でも内容が悪ければ満足しない。そして内容とはトレーナーの作品としての走りを見せたか否かだ。

 藤林トレーナーから見ても自分の想定通りことが運び、今まで教えた通りに走りをしていたように見えていた。それだけにここまで不満を顕にするのは意外だった。

 

「スタートは失敗しましたが、道中も直線もトレーナーの作品として上手く走れました。手前味噌ですが、今まで最高の出来でした。けれど最後の50メートルで台無しにされた」

 

 シンボリクリスエスは拳を握り締め怒りを露にする。ラスト50メートル、不可解な力が沸き、その力がラストのツルマルボーイの末脚を凌ぐ一踏ん張りを生んだ。その力が無ければ、勝ちはしたが写真判定にもつれ込む接戦になっただろう。

 途中まではトレーナーの作品として最高の走りが出来ていた。だが最後の最後で台無しにされた。

 それは仕上げの段階で、トレーナー以外の何者かが一筆加えたようなものだ。

 仮に今日のレースが評価されても嬉しくもなんともない。評価されるのはトレーナーの作品であるべきで合作ではない。

 

「こんなはずじゃない!」

 

 裁決室に大声が響き渡る。その大声に出走ウマ娘と関係者は一度に視線を送る。声の主はデジタルで呼吸が乱れ目が泳ぎ顔面蒼白だった。

 

「今日は朝ごはんのシリアルを少し食べ過ぎた!小魚の骨が歯の間に刺さったのが気になった!蹄鉄が外れかけてた!芝のギャップに足が取られた!キックバックの芝が手にあたって痛かった!」

 

 デジタルはトレーナーにすがりつき今日のレースの言い訳を並べていく。道具のせい、環境のせい、人のせい、負けたのが納得できなのか知らないが、よくもまあベラベラと、メイクデビューで走ったウマ娘でもこうも言い訳をしない。これがGI6勝の姿か、あまりに惨め無様で情けない。

 シンボリクリスエスは苛立ちのせいもあって軽蔑の目線を向ける。そして何気なくホワイトボードに掲載される全着順を確認する。

 

 アグネスデジタルは18着、最下位だった。

 

 

 

天皇賞秋 東京レース場 GI芝 良 2000メートル

 

 

 

着順 番号     名前        タイム    着差    人気

 

1   11   シンボリクリスエス  1:57.9 R         1       

 

  

 

2   7   ツルマルボーイ     1:58.0    1    3  

 

 

 

3   5   ローエングリン     1:58.4    2    2

 

  

 

4   14   テンザンセイザ    1:58.7    2    10

 

 

5   13   ゴーステディ     1:58.9    1    15

 

 

 

18   18   アグネスデジタル   2:00.4    3.1/2   4


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