黒坂が住んでいるアパートのワンルーム、そこには最低限の家具しかなく、装飾品も置いていなかった。そうなるとワンルームと云えどスペースは余っているはずなのだが、いくつかの本棚によってスペースは埋められていた。
本棚には中央ウマ娘協会の機関紙、運動力学や運動学、栄養学、著名なスポーツ選手の自伝や名監督と呼ばれている人物の育成論など、様々なジャンルの本が収められていた。
黒坂は本棚から何冊か手に取ると部屋の中央にある座布団に座り本を開く。サブトレーナーになってから買った本は増え続け、本棚も増えていきスペースを侵食していく。いずれ遠くない未来に本を置くスペースは無くなるだろう。
幾度か電子書籍に移行しようと考えたがその度に断念していた。長年の習慣か調べ物をしながら作業するときは物理書籍のほうがやりやすかった。
黒坂は何冊かの本のページを開くと、その文面を読みながら、ノートPCにアグネスデジタルの今後のトレーニングプランの内容を打ち込んでいく。
デジタルはトレーナー室で行った天皇賞秋の反省会の際に、トレーナーの指導を受けないと言い放った。あれは一時的な感情で言ったもので正式なものではないと思っていた。だが翌日には黒坂がデジタルのメイントレーナーになっていた。
黒坂はトレーナーに即座に問いただす。教え子の一時的な感情による言葉に気が触っての行動なら大人げない。しかしトレーナーは特に怒っている様子もなく冷静に理由を説明する。
今のデジタルは自分の言うことを聞かない。それであれば黒坂の指導の下でトレーニングしたほうが効果的である。その言葉を黒坂は聞いて安心した。
何時も通りトレーナーの考えたメニューも元でトレーニングし、黒坂がサポートや現場判断で修正する。今回も表立ってトレーナーは黒坂ということにして、実質の指導メニュー作成はトレーナーがすればいい。だが黒坂の予想とトレーナーの考えは違っていた。
トレーナーはデジタルの指導メニュー作成にトレーナーは一切関与せず、全て黒坂に作成させるつもりでいた。
黒坂もいずれは独り立ちしてトレーナーになるつもりでいた。最初は素質あるウマ娘は集まらないだろう。新人でも構わないと集まったウマ娘達を指導し、少しずつ実績と経験を積み、やがて指導したウマ娘がOPに上がり、重賞に挑戦すると段階的なキャリアアップを考えていた。
それをいきなりGIウマ娘、しかも歴代でも屈指の実績を持つウマ娘を育てるのは荷が重すぎる。
及び腰になる黒坂にトレーナーは自分の考えを説明する。デジタルがもしトレーニングメニューをトレーナーが作成していると分かれば、黒坂への信用は一気に失せてしまう。
そうなると勝手にトレーニングし、調子を落としたり怪我をしたりする可能性が増えてしまう。
仮にデジタルがレースに出て大敗したとしても全ての責任を負おう。トレーナーになる為のリハーサルだと思って、好きにやってくれとトレーナーから言い渡され、半ば強引に説得されていた。
黒坂はPC前で悩む。トレーナーの言葉に嘘はない、何が起こっても責任を背負ってくれるという安心感はある。だがそれでもトゥインクルレースの宝と呼べるウマ娘を腐らしてしまったら、怪我させてしまったら、いくら責任を背負ってくれるといっても不安は拭いきれない。
トレーナーはいつもこんな重圧を感じていたのか、黒坂は改めてトレーナーに尊敬の念を抱く。
それと同時にこれ程の苦難を与えたのかと憎しみが募る。デジタルのメイントレーナーになってから心休まる日がなかった。
「今日も1日頑張るか」
デジタルは意図的に明るい声を出す。さらに鼻歌にスキップを加え意図的に気分を高めながらコースに向かう。
失敗したら終わるわけではない、失った分を取り戻すことはでき、失敗を反省し次に活かせば得られる。
天皇賞秋でのウマ娘断ちは失敗に終わった。その失敗を次に活かす為に前を向く。ウマ娘断ちによる入れ込みとトレーニングの質の低下、それが天皇賞秋でウマ娘を満足するまで感じられなかった原因だ、それを修正すれば天皇賞秋より目的を達成できる可能は増える。
そしてウマ娘断ちは失敗に終わったが良かった点もある。道中は5感が鋭敏になったことでいつもよりウマ娘を感じられた。もしあの状態で直線もウマ娘達についていけば極上の体験ができただろう。
理想はウマ娘断ちの状態を維持しながら最後までウマ娘を感じることだ、だがそんな都合よく事は運ばない。あの時の感覚の半分程度5感が鋭敏になり、ウマ娘を感じられば出来れば上々である。
「お疲れ」
デジタルはコースに居る黒坂の元に着き声をかける。意図的に気分を高めたことでテンションは程よく高揚していた。
「お疲れ様です」
黒坂は上の空だったのか、声をかけられ今存在に気づいたような反応を見せる。声は小さく顔色も若干悪かった。
「では今日のトレーニングを始めましょう、まずは…」
「その前に提案があるんだけど、いい?」
デジタルは黒坂の声にかぶせるように声をかける。黒坂は一瞬体をビクりと震わせ、デジタルに視線を向け言葉を待つ。
「アタシとしてはウマ娘断ちは失敗に終わったけど、良いところもあったんだよね。だから、ウマ娘断ちを1週間ぐらいして、それまでは学園でメイチで鍛えてウマ娘断ち期間は調整期間にするってのはどう?そうすれば良い感じの塩梅になるからなって思って」
「次走は決まったのですか?」
「いや、今の案が有効かどうか試して、有効なら取り入れたいからあと2走はしたいな、候補としては2走目が東京大賞典として、最初はマイルCSかジャパンカップダート、もしくはマイルから2000の重賞かな、それでどう思う?」
黒坂はデジタルの提案を聞いて考え込む。時間が経つごとにその表情は険しくなり、胃に穴でも空いているのではないかと心配して顔を覗き込む程だった。
「今の提案ですが、持ち帰らせていただきますか?数日中には答えを出しますので」
「分かった。でも出来るだけ早めにお願い。モタモタしてるとマイルCSの準備期間が無くなっちゃうから」
「分かりました。では今日のトレーニングを始めましょう」
デジタルはトレーナーの言葉に頷くとウォーミングアップを始めた。
「さてと、どうしようかな」
デジタルはPCを操作しながら独り言を呟く。次走の選択肢は多く、其々のレースでウマ娘を感じるためにはある程度知っておかなければ楽しめない。
今までの発言や人物背景や交友関係を調べることは勿論、チームやそのウマ娘個人のツイートやインスタグラムもチェックしなければならない。傍から見れば自由時間をのんびりと楽しんでいるように見えるが、それなりに忙しかった。
ウマ娘断ち期間はこの忙しさを味わうことはなかった。再び体験することでこの時間の楽しさを実感していた。
「そういえば、トレーナーと喧嘩したんだって」
隣のベッドに寝転がっていたルームメイトのタップダンスシチーが話しかける。普段は気軽な感じだが、レースが近づくにつれて集中力が高まるのか刺々しい空気が強まり、気軽に話しかけたりしない。
特に次走のジャパンカップは是が非でも勝ちたいと天皇賞秋を回避し、万全の状態で挑むだけにその傾向は強まると思っていた。それだけに話しかけられたは意外だった。
「まあ、ざっくり言えばね。方向性の違いというか意見が食い違っちゃって、チームに席は置いているけど指導はサブトレーナーから受けてる。それより何で知ってるの?」
「目標はジャパンカップと有マだからな。出そうなウマ娘や出たら厄介そうなウマ娘はチェックしてる。有マはコーナーが多いし、マイラーでも走れるからな」
「天皇賞秋でボロ負けしたのにチェックしてくれるんだ」
「厄介そうな区分でな、有マは穴ウマ娘が突っ込んでくることが多いし、アグネスデジタルは意味不明な激走をするからな。それでサブトレーナーとの調子はどうよ?」
「う~ん、何かしっくりこない」
デジタルは不満げな声を出す。天皇賞秋での失敗を正確に分析してくれた観察眼を買って、トレーナーに抜擢したが、及び腰でこちらの顔をいつも窺い、トレーニングもオーソドックスで劇的なこともしない。このままサブトレーナーについていって大丈夫かという不安が既に芽生えていた。
「いっそのこと移籍しようかな」
思わずポツリと呟く。現役をあと9年続けるつもりだが、無為に過ごすつもりはない。天皇賞秋のように悲惨な体験はしない為に、よりウマ娘を感じるためにチームを移籍しなければならないとしたら、その考えも視野に入れなければならない。
「おお、衝撃発言だな、マスコミにリークすればお礼の品がもらえるかも」
タップダンスシチーはその言葉を茶化しながら思考を巡らす。デジタルとトレーナーとの関係に亀裂が走っている。信頼感の欠如はウマ娘の弱体化にも繋がる。
これが本命のシンボリクリスエスに起きたなら喜ぶのだが、デジタルではさほど関係なく、仮に有マ記念に出走したとしても驚異を数値化してシンボリクリスエスが100としたらデジタルは1で、その1が0.5に変わった程度にすぎない。
「タップダンスシチーちゃんはもし今のトレーナーじゃなくて、別のチームに移籍したほうが良いとしたらどうする?」
「移籍する。アタシは勝つために此処に来てレースを走ってんだ」
「でもチームメイトと離れるのは寂しくないの?」
「それは淋しいけど、優先目的は勝つことで友達を作ることじゃない」
タップダンスシチーは質問に即答し、その言葉を聞き感心する。どこで知ったかは覚えていないが質問に対して答える時間で強さが測れると言っていた。
短ければ短いほど自分の中に答え、いうならば信念が宿っている。それが強固な意志の力を生み出すとデジタルは解釈していた。
「だが、アタシの走りはトレーナーと何年かけて一緒に作り上げた物だ、それに皆も気の良い奴で居心地が良い。最高の環境で自分を一番理解しているトレーナーの元でトレーニングをする。それが一番強くなる近道だ、だから余程のことが起きない限りチームを移籍するつもりはない」
タップダンスシチーは補足のように付け加える。その言葉は誇らしげで無意識に今の環境を自慢しているようだった。
デジタルはその表情を見てチクリと心が痛む。少し前まではチームプレアデスでトレーナーの元でトレーニングするのが最高の環境だと疑わなかった。
どうして自分の非を認めないのか。
認めさえすれば元の鞘に収まるのに、デジタルはトレーナーの態度を恨んでいた。
「タップダンスシチーちゃんは引退したらどうする?」
「どうした急に?」
「いや、何となく」
「引退後か、全く考えてなかったな」
タップダンスシチーは思わぬ質問に腕を組みながら目を瞑る。数秒すると目を開けて貧乏ゆすりのように前後に体を揺すりしながら喋る。
「レース関係の道は進まないだろうな。レースは好きだけど、何というか仮にサポート科やトレーナーの手伝いをして周りのウマ娘が勝っても達成感が湧かないだろうな、まあ他人事だ。やるなら当事者が良い。となると……競艇選手にでもなるか、けど体重制限がキチイな。だとしたら競輪選手か、まあ、とりあえず勝負の世界で当事者として何かをするかな」
タップダンスシチーは考えをまとめず思いつくままに喋る。本人にとって引退後の話など他人事に過ぎなかった。今はジャパンカップでシンボリクリスエスに勝利することしか考えられない。
「アグネスデジタルは引退後はトレーナーだっけか?」
「まあね」
デジタルは返事するがどこか歯切れが悪い、
「きっとトレーナーとしてのウマ娘ちゃんと接するのは楽しいと思う。けど今はレースを通してウマ娘ちゃんを感じたいって気持ちがどんどん大きくなってくる。というより今はそれしか考えられない。絶対にあと9年、最悪でも6年は絶対に現役で走ってウマ娘ちゃんを感じる。絶対に」
「まあ、先のことを考えてもしょうがないしな、お互い今を全力で頑張ろうや」
タップダンスシチーは話をまとめる一言を言って話題を終わらせる。
デジタルの目はまるでレースで掛かったように焦りが見え、独白には世間話では感じられない重苦しさがあった。このまま話を続ければどんどんシリアスな展開になりそうで、今はそういう気分ではなかった。
──
「カハッ!」
黒坂は便器の前にうずくまる何度も嘔吐く。デジタルのトレーナーになってから精神的負荷が加速度的に増えている。今では重圧のあまり食事も喉を通らず、無理やり押し込んだものも戻してしまう。
この選択が正しいのか?このトレーニングで間違っていないのか?
デジタルを指導する際に常に自問自答がまとわりつく。まとわりつく疑問の量は増え行動を制限していく。今では何かを選ぶことに恐怖を覚えていた。
生きている限り選択を強いられる。軽いものであれば今日の食事のメニューから、重いものでは進路の決定などだ。それらは個人の問題に過ぎず失敗しても不利益を被るのは自分だけである。
だがトレーナーは違う。自分の決定が他人を左右してしまう。
黒坂はPCの画面上に映るデータに目を通すと同時に腹部に痛みが走る。
ここ数日のアグネスデジタルのトレーニングの数値だが、以前の数値と比べて確実に落ちている。
これは自分のトレーニング法や接し方が間違ったことで起きたものなのか?だとしたら業界の宝を潰してしまったのではないか?その考えが過ると腹部の痛みがさらに増す。
黒坂はデータを見るのを止めメールを立ち上げる。トレーナーからは口を出さないがトレーニング内容とデータだけは送ってくれと頼まれていた。
もしかしたらデジタルのトレーナーから解任してくれるかもしれない。そんな一縷の望みを抱きながら何度もメールチェックをした。