「あ~疲れた!」
アグネスデジタルはトレセン学園に設置されたダートコースに大の字になって倒れこみ空を見上げる。
日は完全に落ち空は真っ暗になっていた。満天の星空でも見えれば最高なのだが生憎この場所では星が見えない。故郷のケンタッキーなら空気が澄んでいるので満天の星空をいつも見られるのにと懐かしむ。
そういえば小さい頃は目一杯駆け回り疲れ果てて草原に大の字になって寝そべっていたな。草原は草のクッションが利いていてその場で眠れそうなほどに心地よかった。その点ではダートも足元が悪いウマ娘が出るレースに選ばれるだけあってクッションが利いていて柔らかく寝心地では劣らない。だが髪の毛への影響は雲泥の差だ、このまま寝そべれば髪に砂が付着し痛んでしまう。髪は女性の命であり早く立たなければいけないことは分かっているが体は女の命より休息を優先してしまっていた。
サキーと走りたいとトレーナーに伝えた翌日からトレーニングの負荷は大幅に増えた。体感としては今までの1.5倍ぐらいキツイ、ここまでの負荷がかかるトレーニングはチームに所属してから初めてだった。今は追い込み時期でこのトレーニングはドバイワールドカップがある3月末までは行わないだろう。いやトレーナーは基本的にスパルタ指導だ、このまま3月末まで行う可能性は充分にある。デジタルは暗い未来に悲観して大きなため息をついた。
「こんなところで寝ていると風邪引くぞ。はよ起きろ」
すると夜の空で支配されていたデジタルの視界にトレーナーの顔が割り込んでくる。トレーナーが寝そべっているデジタルに手をさし伸ばし、その手をとり何とか体を起こし立ち上がると億劫そうに歩きコース外にある木にもたれかかった。
「白ちゃん疲れた~部屋まで運んで~この際オジサンのお姫様だっこでも文句言わないから」
「無理言うな。お前みたいな斤量背負って歩けるか」
「女の子を斤量扱いってひどくない。それに羽のように軽いあたしを持てないなんて白ちゃん貧弱~」
「普通の50過ぎのおっさんはお前ぐらいの体格の女を持って長距離は歩けんわ。それで今後のローテーションについて話す。座りながら聞いてくれ」
トレーナーの表情が真剣みを増し、それにつられるようにデジタルも表情を引き締める。
「まず2月4週のダート1600のフェブラリーステークスに出走する。これは当初の予定通りや。そして3月5週のドバイワールドカップに出走。ドバイには1週間前ぐらいに現地に入って調整をおこなうつもりや」
「うん」
「そしてドバイワールドカップに出走するためにはUAEウマ娘協会から招待状が届かなければ出られない。そして現時点では招待状は来ていない」
「そうなの?」
「それで俺の見立てとしてはフェブラリーステークスで1着になれば出走確実。ウイニングライブ圏内なら5分5分と言ったところだ。そしてフェブラリーはメイチで仕上げん。仕上げたらドバイを100%で走れないからな。ドバイを100%としたらここは90から95といったところにするつもりだ」
「フェブラリーステークスに全力でいかなくていいの?ここで負けたら招待状来ないんでしょ?本末転倒じゃない?」
デジタルの指摘はトレーナーにとって痛いところだった。
未来を重んじすぎればフェブラリーで負けてドバイワールドカップに出走できなくなる。今を重んじすぎればフェブラリーにピークを持っていき勝利しても、その反動でドバイワールドカップではピークに持っていけず間違いなくサキーに負ける。
今を取るか未来をとるか
どちらを取っても現時点では間違っているとはいえずトレーナーは難しい選択を迫られていた。どれがデジタルにとって正しい選択なのか?数日間熟考を重ねた結果未来をとることにした。
「悩んだ結果そして俺はドバイを優先することにした。だがデジタルがドバイに出走することを優先したければ反対はしない。フェブラリーを取るためにメイチで仕上げる。お前の意見も聞きたい」
「う~ん」
デジタルは腕を組み目を閉じて熟考する。サキーとは走りたいがただ走るだけではダメだ、より近くで感じなければ。だが一緒に走れなくのは困る。
「ところでフェブラリーで100%に仕上がったらドバイではどれぐらいになる?」
「まあよくて90%ぐらいだろう」
「それで95%でフェブラリーを走って勝算はどれぐらい?」
「詳しくは言えんが出走予定メンバーが全員出てくるならウイニングライブ圏外になることも十分考えられる」
去年のフェブラリーステークス3着、ドバイワールドカップ2着、エリザベス女王杯1着のトゥザヴィクトリー。
去年のフェブラリーステークス1着のノボトゥルー。
去年のジャパンカップダート2着のウイングアロー
去年の東京大賞典1着の地方ウマ娘ヒガシノコウテイ
そして史上初の南関4冠を達成し東京大賞典3着のセイシンフブキ
今年のGI川崎記念1着のリージェントブラフ
フェブラリーステークスには去年のジャパンカップダートを圧倒的なパフォーマンスで勝ったウラガブラックは出走しないがそれでも出走メンバーのレベルは高い。
「だが、デジタルの底力なら1着を取れる。俺はそう信じている」
トレーナーは真っ直ぐ見据えデジタルも視線を逸らすことなく見つめ、その状態が数秒間続きデジタルが口を開く。
「……わかった。白ちゃんがそう言うなら信じるよ。白ちゃんのプランでいこう」
デジタルにとってどっちが正しいのか分からない。ならば相手と自分をより詳しく知っているトレーナーの判断に委ねることにした。
「ありがとうデジタル。なら未来を勝ち取るために今から練習に行くぞ」
その言葉を聞いた瞬間デジタルの表情は引き攣る。このハードな練習の後にまだ練習をおこなうのか?鬼かこの男は。視線でこれ以上無理だと必死に訴えかけるが、だがトレーナーも視線でその訴えを却下した。
「20分後に迎えに来るからな」
トレーナーはデジタルに背を向けて歩き始める。せめてもの抗議として鬼~悪魔~人でなし~と罵倒するがトレーナーは手をひらひらと振り意に介すことなくことはなかった。
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「着いたぞ」
車が止まるとデジタルは助手席からゆっくりと車内から出る。そして目の前に見える意外な物に意表を突かれる。
「高校?」
車が止まったのはとある高校の正門だった。トレーニングというからにはもっと漫画に出てくるような仰々しい修行場のように連れて行かれると思っていたがまさか人間の高校生が通う学校とは。
しかし何故に高校だ?トレセン学園はウマ娘がトレーニングするうえで最適な環境で、このような高校にトレセン学園以上の設備があるとは思えない。
デジタルが思案しているなか、トレーナーは正門付近に設置されているインターホンを鳴らし誰かと会話する。すると数分後に警備員がやってきて正門の鍵を解錠しトレーナーは敷地内に入っていきデジタルも戸惑いながらも続いて敷地内に入っていく。
「ねえ白ちゃん?この学校に何があるの?」
「まあすぐに分かる」
デジタルの質問にトレーナーははぐらかし進んでいき、トレーナーに着いていきながら周りを見渡す。
日中のようにはっきりと見えないが外灯が点いているのでうっすらと見える。
左手には屋外プールがあり、プール開きが始まっていないせいで苔や藻がびっしり生えているのだろうか独特の臭いが鼻腔を刺激する。
右手には校舎が見える、その外観などはトレセン学園にあるものと変わらない。高校は漫画の舞台でよく出てくるが実際は見た事が無いのでどんなものかと少し期待していたが驚くほど普通で感慨はわかなかった。
2人は正門から直進して階段を上っていくにつれ人の声が聞こえてくる。そして階段を登りきるとそこにはグラウンドがあった。
端から端までは目測で約200メートル、だとすれば2万平米ぐらいだろう。トレセン学園の広大な敷地に比べればネコの額程度と言えるかもしれないが、普通の高校に比べれば広大といえるスペースだった。
そのグランドにはサッカー部が練習していたようで、練習が終わり部員達は後片付けをしていた。
「ここが目的や」
「グランドが?ここで何をするの?」
「それは走るに決まっているやろ」
「何で?トレセン学園で走ればいいのに、何で車まで使ってこんな場所に来るの?」
デジタルはいぶかしみ質問を投げかける。見た目は普通の高校だが中には最新鋭の設備でもあるのだろうと予想していた。だが来てみれば何の変哲も無いグラウンドで練習すると言っている。意図がまるで読み取れない。
そしてトレーナーはその反応を見越したように逆にデジタルに質問を投げかける。
「ドバイワールドカップはどのコースで走るか知っているか?」
「バカにしているの白ちゃん。ダートの2000メートルに決まっているでしょ」
「じゃあ日本のダートとドバイのダートの違いは?」
「え?違うの?」
デジタルは意外そうに答える。ダートは万国共通ではないのか?トレーナーはその答えに大仰にため息をついた。
「サキーのことを調べるのはかまわんが、自分が走ろうとするコースぐらい知っとけや。いいか日本のダートは砂浜にあるような『砂』、世界的にはサンドと呼ばれとる。そしてドバイで走るダートは『土』、丁度このグランドのようなやつに似ている。触ってみろ」
デジタルは言われたとおり屈んで手でグランドの土を掬う。確かに硬い。普段走るダートならすんなり砂を掬えるが、この土はある程度力を入れなければ手に取れない。
「日本のダートは芝と比べて足抜けが悪くパワーが必要となり時計が掛かる。だがドバイで走るダートは固くて足抜けはよく速い時計が出る」
足で土を踏みつけながら感触を確かめる。確かに芝コースに芝がなくなったらこの校庭の土のような感じだろう。これだったら日本のダートよりスピードが出るはずだ。
「トレセン学園にはこの土のコースは無いからな、といより作る意味がない。レースでは全く使わないし足への負担は芝と大して変わらん」
「じゃあ何でこの学校にしたの?土の校庭がある学校ならそこらじゅうにあるでしょ?」
「それは単純にこの学校の校庭が広いからや。この校庭を斜めに走れば約400メートル、丁度ドバイの直線と同じだ」
「なるほど」
「ということで挨拶するぞ」
するとトレーナーは指導者らしき人物の元に歩み寄りデジタルもそれについて行く。
「初めまして。この後グランドを使用させて頂く中央ウマ娘協会トレセン学園のトレーナーです。隣がアグネスデジタルです」
「初めましてアグネスデジタルです」
「どうも初めまして、話は聞いております」
トレーナーは指導者に名刺を渡し、デジタルも深々と頭を下げる。指導者もそれに応じる様に丁寧に頭を下げる。
「では照明の操作方法やトンボの置き場所を教えますのでついて来てもらえますか?」
「かしこまりました。デジタル、アップがてらグランドの端を軽く回っておけ、あとこれ履いてな」
トレーナーは手荷物からシューズを取り出してデジタルに手渡すと指導者の後についていく。自分のレース用シューズを持っているがとりあえず言われたとおりトレーナーに渡されたシューズに履き替えるとある違いに気づく。
渡されたシューズ、正確にはシューズの裏に装着されている蹄鉄は自分のシューズと違い大きい歯のような出っ張りがある。履き心地と土の感触に多少戸惑いながらもトレーナーに言われたように走り始めた。
グラウンドにはサッカーゴールに野球に使うバックネット、それにバスケットゴールまで複数あった、それを物珍しそうに眺めながら走る。
トレセン学園はウマ娘が速くなるための設備はあるが、このように様々なスポーツをおこなえるような設備はなく、それだけに新鮮だった。
それに毎日ウマ娘やそのトレーナーに囲まれているだけあって、近い世代の人間の男子高校生がこんなにも見るということも珍しかった。
走っている途中に部員たちが片付けの手を休めデジタルを見ながらヒソヒソと話していた。それに対し笑顔で手を振る。すると部員たちは思わぬ対応に慌てて目を背け片付けを始めた。
デジタルがグラウンドの端を3周した頃には部員たちの片付けが終わり着替えに部室に入っていく、そしてトレーナーも話を聞き終えデジタルを呼び寄せた。
「よし、トレーニングを始めるか、どうや、土の感触とシューズの感触は」
「芝の感じに似ているような気がするし、ダートのような感じもあるし、何か変な感じ。それにこのシューズ走りにくい。何これ?」
「それはスパイク蹄鉄や。日本では使用が禁止されているがアメリカでは許可されていて、ドバイでも使用可能だ。出っ張りのおかげで引っ掛かりがよくなってこれを使えばタイムが伸びる」
「確かに引っ掛かりはいいね」
デジタルは確かめるように土を踏みしめる。
「ここでのトレーニングの目的はこのスパイク蹄鉄と土に慣れることだ。これからはアップでも芝の走りかたの感覚のほうが走りやすいか、ダートの走り方の感覚のほうが走りやすいか、それとも両方の走り方を混ぜたほうが走りやすいか。意識しながら色々な走り方で走りやすいのを見つけろ」
「面倒な要求するね、まあ色々試してみるよ」
デジタルはトレーナーの言葉に何気なく返事する。だがこの要求の難易度はかなり高いものである。
芝を走るウマ娘でもトレーニングでもダートで走ることがある。たがあくまでもトレーニングでありレースに勝つための速さは求めない。
例えダートに適した走り方をしていなくとも矯正することはない。逆にダートの走り方を覚えてしまうとフォームを崩し芝での走りに悪影響を与えてしまうこともある。
しかしデジタルはその天性の才能で芝とダートで十全の力を発揮できる走り方を会得し、芝とダートのGIに勝利した数少ないウマ娘の一人である。
そして中央の芝とダート、地方ダート、香港の芝と数多くのバ場を走ってきた経験がある。その天性の才能と経験の引き出しを駆使し土という第3のコースでの最適な走りを導き出せというのがトレーナーの要求である。
この要求は他のウマ娘にはしない、デジタルになら出来るという確信があるから要求したのである。
「というわけや、とりあえず今日は初日だし疲れとるだろうから、グランドの斜めから斜めを5割程度の力の2本で勘弁してやる」
「はいはい」
デジタルは嫌みったらしく言いながら、トレーニングを開始する。
言われたとおり5割程度の力で走っている、だがいつもの5割程度と比べて明らかに遅く動きも躍動感が無い。この原因は疲労のピークであることより土とスパイク蹄鉄の違和感によるものだろう。その証拠に表情もしっくりこないというような顔をしている。
しばらく違和感は拭いきれないだろう。だがデジタルなら次第に慣れて最適な走りを見つけるはずだ。だがこれでやっとサキーとの勝負の土俵に立てた程度だ。
サキーはドバイと同じバ場のBCクラシックで初の土で僅差の2着に入着した。さらにいうならば凱旋門賞から中3週という厳しいローテーションでだ。ドバイワールドカップは相手の地元であり同じコースのステップレースを使い、さらに土の走りを身につけてくるだろう。厳しい戦いになる。
するとデジタルは2本走り終え少し息を乱しながら帰ってくる。
「タイムはまあ…こんなもんだろう。よしトンボして帰るぞ」
「トンボ?なにそれ?」
「ああ、この言い方じゃ分からんか、グランドを整地するってことだ」
「それあたしがするの?」
「当たり前やろ。見てみい。お前が走ったところは土が掘り返されてボッコボコや」
芝のコースでも普通の蹄鉄を装着したウマ娘が走れば芝は捲れ上がる。さらにスパイク蹄鉄をつけたとならば地面はさらに抉られる。デジタルが走ったルートのグランドの土は抉られ所々で穴が出来ている。
「やだ~めんどくさい。白ちゃんやってよ。あたしはその間ストレッチやっておくからさ。そのほうが時間を有効活用できるでしょ」
トレーナーはブーたれるなと言おうとしたが言葉を呑み込む。
確かにデジタルの言う事には一理ある。ウマ娘に最高の環境を与えるのがトレーナーの仕事だ、雑務を押し付けるぐらいならストレッチでもして体をケアすることのほうがよほど有意義だ。
「よし、じゃあ俺がやっとくわ」
「本当に?」
「ああ、そのかわりしっかりやっておけよ」
トレーナーは整地をするために道具を取りにいく、そして自らの提案に後悔することになる。
デジタルが掘り起こした土を集めトンボと呼ばれる用具を使いならしていくことを繰り返すのだが、50メートル、100メートルなら何とかなりそうだが、400メートル分をならすのは予想を遥かに超える重労働だった。それにトンボは鉄製で50代の体で扱うには重かった。
トレセン学園の造園課はいつもこんな苦労をしながら芝やウッドチップのコースなどを整理してくれたのか。今度お礼と感謝の品でも持っていくべきかもしれないな。トレーナーは造園課に感謝の念を抱きながら整地作業を黙々とおこなった。
「いや~ご苦労白ちゃん。日頃運動不足そうだし良い運動になったんじゃない」
整地が終わりグラウンドの照明を落として帰ってくると出迎えたのはグランドのフェンスを背に踏ん反り返りながら座りニヤニヤと笑うデジタルの姿だった。疲労している体にどこぞの社長のような偉そうな態度はトレーナーの神経を少しばかり逆なでさせる。
「おう、ええ運動になったわ。デジタルもトレーニング量増やしてもっとええ運動するか」
「え?今の量からさらに増やすの?それは勘弁してよ」
「冗談や冗談」
デジタルはトレーナーの提案に表情が慄く、一方トレーナーはその怯えた表情を見て溜飲が下がったのか表情をほころばせる。
「なあデジタル?ドバイワールドカップや凱旋門賞に出るべきウマ娘は誰だと思う?」
「急にどうしたの?う~ん?別に出たいウマ娘ちゃんがいれば誰が出ていいんじゃない」
「そうか、それもそうだな」
トレーナーは思わぬ答えに一瞬驚いた後笑みをこぼす。デジタルらしい答えだ。
「だが俺の考えは少し違う。ドバイや凱旋門は芝やダートでそれぞれの日本の王者が出るべきだと思う」
ドバイのダートが砂ではなく土であるように海外で求められる適性は違う。日本の芝やダートで強いウマ娘より適性が有るウマ娘のほうが勝てる可能性があるかもしれない。
だがこれらのレースは世界一を決めるレースで有り、日本のチャンピオンである者が行くべきとトレーナーは考えていた。
ダートでの王者とは何か?
ダートのGIレースはシニアクラスで1600メートルが3レース。2000メートルが2レース。2100メートルが2レース。1200メートルが1レース。このうち半分勝てば文句なし、レベルが高いと言われているジャパンカップダートとフェブラリーステークスに勝利すれば王者と名乗る資格はあると言える。
ドバイのダートと日本のダートは質が違う。だがダートで一括りされているからにはダート王者として出走しなければならない。
そしてデジタルはダートでは南部杯しか勝っていない。王者として認められるためには最低でもフェブラリーステークスは勝ってほしかった
「だからフェブラリーステークスには勝ってもらいたい。全力に仕上げないで勝てなんて勝手なことを言っているのはわかっている。だが勝ってダートチャンピオンとして世界一の戦いに挑んでもらいたい」
「まあ、白ちゃんの拘りはわからないけど、どっちみち勝たなきゃならないんだから勝ってダートのチャンピオンになってあげるよ」
デジタルは手を差し出すとトレーナーはその手を取って起き上がらせた。
トレーナーの持論には完全には賛同できなかった。だが自分の拘りというものは分かる。推しウマ娘の推しポイントを言ってもチームメイトやプレストン等の友人に言っても理解してくれないこともある。だがそれは自分にとっては重要なことでありそれと同じなのだろう。
トレーナーとデジタルは帰り支度を始める。すると今から帰ろうという様子の運動部員の集団から抜け出した男子生徒がデジタルに近づきソワソワしながらデジタルに話しかけてきた。
「あの……ウマ娘のアグネスデジタル選手ですか?」
トウィンクルシリーズを走り複数のGIを勝ったウマ娘であれば世間での知名度は相当なものだ、こうして声をかけられるのは不思議ではない。しかしこのタイミングで声をかけてしまうとは運が悪い。
デジタルはウマ娘が大好きであるが、自分の人間のファンなどにはさほど興味がなく、俗に言う塩対応なきらいがある。以前ファンと出会った時の対応の悪さを注意したことがあり多少マシになったが、それでも塩対応に分類される方だ。
さらに練習終わりで疲労が溜まって機嫌が悪く、声を掛けられて億劫なはずだ。とりあえずは最低限の対応はするだろうが男子生徒もあまり良い印象を抱かないだろう。自分のしごきで疲れて機嫌が悪かったとフォローしておくか。
トレーナーはそのあとの対応を考えているとデジタルの反応は予想を反するものだった。
「はい、あたしを知っているんだ、嬉しいな」
デジタルは一瞬面倒くさいという表情を見せるが、すぐに笑顔を作り声も半オクターブ高い声で返答する。その仕草にときめいたのか男子生徒は顔を紅潮させている。
「香港カップ見ていました!優勝おめでとうございます!凄い粘りでした!」
「ありがとう」
「もしよろしければサインを頂けませんか?」
「いいよ」
男子生徒はショルダーバッグからノートを取り出そうとするが、緊張と動揺とノートが見つからない焦りからか荷物をぶっ散らかしながらノートを探している。デジタルはその様子にイラつくことなく笑顔を崩さず待っている。
やっとこさノートを見つけた男子生徒はデジタルに手渡し空きページにサインを書く、さらにデジタルは写真を一緒に撮らないかとまで提案してきた。
このファンサービスの良さは何だ?一体何が起こったのだ?
トレーナーはその変貌にキョトンとしているとデジタルからスマホを手渡されて言われるがままに写真を撮り男子生徒に渡す。男子生徒は撮られた写真を見ると目を輝かせ礼を述べると喜々した様子で集団の元に帰っていく。
「おい、どうしたデジタル?何だあのファンサービスの良さは、悪いもんでも喰ったんか?」
トレーナーはデジタルに詰め寄る。ファンに対しての対応は素晴らしいものだった。だが自分が知るデジタルとはあまりにも違いまるで別人のようだ。
「悪いもの食べたって、ちょっとした心境の変化ってやつだよ。オペラオーちゃんとドトウちゃんに言われてさ」
デジタルはトレーナーの言葉を一笑しながら二人との会話を思い出す。オペラオーとドトウの引退式の時に言われたことを話し始めた。
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「デジタル。キミは天皇賞秋でボクとドトウに勝ち、香港カップでも勝利した。もはやウマ娘界のメインキャストと言っていいだろう。そうなれば望む望まないに関わらず責任が生じる。ウマ娘界の顔としての責任がね」
「どういうことオペラオーちゃん?」
オペラオーとドトウの東京レース場での引退ライブが終わり、デジタルとオペラオーとドトウの三人でトレセン学園に帰っている最中にオペラオーが仰々しく語り始めた。
「以前3人で出かけてファンに囲まれたことがあっただろう。覚えているかい?」
「ああ、あの時だね。オペラオーちゃんとドトウちゃんがファンサービスして映画の上映時間ギリギリで駆け込んだんだよね」
「あの時のデジタルの対応はあまり良くなかった」
デジタルはその当時のことを思い出す。数人のファンがオペラオーとドトウにサインや握手などを求めてきて、その中にもデジタルのファンがいた。だがオペラオーとドトウとの至福の時間を邪魔された怒りからかファンへの対応お世辞にも良いと呼べるものではなかった。
「プライベートの時間に声をかけられて不愉快な気持ちはわかる。だがキミの対応にファンはどう思う?きっと嫌な気分なはずさ。そうなるとレースに出るウマ娘自体が嫌いになってしまうかもしれない」
デジタルはオペラオーの言葉に相槌を打つ、確かにそうだ。第一印象で植えつけられたものを覆すのは難しくファンとウマ娘は複数回会話することは滅多にない。そこで嫌な印象を抱いてしまったらそのウマ娘に好感を持てないだろう。
「そしてその感情が周りの人に伝播してしまうかもしれない。それはウマ娘界にとって損失だ。だが逆に良い印象を与えればファンになってくれ、そのファンはさらにボク達ウマ娘を応援してくれるかもしれない。それはウマ娘界にはプラスになる。知名度が上がり今後はファンたちと交流する機会も多くなるだろう。だからこそ振る舞いには気をつけなければならないのさ」
デジタルはウマ娘としての意識の高さに思わず感嘆の声を上げる。ここまで業界のことを考えていたのか。
「その点ボクは完璧さ。ボクのファン、ついでにウマ娘のファンには最高級の対応をおこなっている」
オペラオーは髪をかきあげ自慢げに語る。その対応は意識の高さはもちろんだが、興味のないファンにも丁寧な対応をおこない自分に興味を持ってもらいたいという打算的考えもあった。
「そしてドトウも結構頑張ってファンサービスしていたよ」
「え?ドトウちゃんが?」
デジタルは思わず聞き返した。あの引っ込み思案のドトウが積極的にファンサービスするとは思えなかった。
「はい、私もオペラオーさんに同じことを言われました。でも初対面のファンの方と会話するのは恥ずかしいし、どうせ笑い話にされていると思っていました。でも少しずつ愛想良く振舞う努力をするとファンの方が嬉しそうな顔をしてくれるんです。その顔を見ると心が暖かくなりました」
ドトウはその場面を思い出し優しげな笑顔を見せる。ファンの中にはただ顔を見たことがあるからという程度で声をかけてくるものもいる。
だが自分のファンで自分と同じように臆病で引っ込み思案の人が必死に勇気を振り絞って声をかけてくれることもある。そんな人に一声かけると嬉しそうな顔をしてくれる。それはドトウにも嬉しいことであり勇気を持って一声かけたことが報われた瞬間であった。
「デジタルさんはその何というか……好き嫌いが人よりはっきりしているというか……ウマ娘に比べてファンの方には興味が少しだけ薄いと思います。でもファンの方の嬉しそうな姿を見るのも気分がいいものですよ」
ドトウは言葉を選びながら諭す。デジタルのウマ娘への興味と愛情は凄まじくそれはある意味美徳だ。それと同時に人やファンへの興味の薄さは悪徳でもある。
デジタルのトレーナーやチームに属する人間には興味を持ち心を開いているが他の人物には驚く程関心がなく、それはいずれ災いをもたらすかもしれない。
ファンとの交流を通してその気質を改善してもらいたいという思いもあった。
「そうか。オペラオーちゃんやドトウちゃんがそう言うなら、あたしも少しは頑張ってみるね」
それからデジタルはできるだけファンサービスを行うようになった。
先ほどの男子生徒へのファンサービスはもちろん、グランドの端を走っていた時男子生徒達に見られながらヒソヒソ話をされた時もいつもなら不快感を顕にしていたが、それに堪え笑みを浮かべながら手を振ったのもファンサービスの一環だった。
「そんなことがあったんか」
「オペラオーちゃんやドトウちゃんが頑張ってやったことをあたしがぶち壊すわけにはいかないもんね。自分でできる範囲でやってみるよ」
「そうか、よし、今日は初日だし甘いもんでもおごってやる。しかもハーゲンダッツや」
「本当に?やったー」
デジタルは思わぬ提案に喜びを露にしてトレーナーはその様子を見つめる。
トウィンクルレースに出るウマ娘というのはある意味特殊な立場に居る。
まだまだ未熟な年頃の女性が世間の注目を浴びチヤホヤされる。その注目がストレスになり自分勝手な振る舞いをすれば世間からバッシングを浴びてしまう。ウマ娘でも別のスポーツでもそんな対応で潰された有望な若人は多い。
それでもオペラオーやドトウのように若いながらも個を犠牲にして業界全体のことを考えて行動できる者もいる。そしてデジタルも2人によって業界の主役としての振る舞いを自覚するようになった。それは好ましい変化だった。
そして月日が過ぎデジタルのドバイの土とスパイク蹄鉄になれるトレーニングとフェブラリーステークスに向けてのトレーニングは順調に進んでいった。
そしてフェブラリーステークス前々日。2人は前々日会見の会場に向かった。
この話からフェブラリーステークス編になります
フェブラリーステークスで印象に残っているのは09年のレースですね
競馬観戦でのベストレースと聞かれたらこのレースと言っています。
復活したカネヒキリ、
カネヒキリの復活により暫定王者扱いされ復権を狙うヴァーミリアン
強いはずなのにヴァーミリアンとカネヒキリの歴代屈指のダート馬によってGI勝利から遠ざかるサクセスブロッケン
アメリカ遠征という路線を歩んできたカジノドライブ
当時の上がり馬であるエスポワールシチー
根岸ステークス覇者のフェラーリピサ
様々なダート路線から集結し、人気どころが全部上位にきての決着
直線の叩き合いは痺れました。
そしてあの時はダイワスカーレットが参戦するかもと話題になっていましたが怪我で回避したんですよね。もし参戦していたらどうなっていたか今でも思いを馳せます