勇者の記録(完結)   作:白井最強

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勇者の疑惑#5

 トレーナー室のソファーにデジタルとトレーナーが向かい合うように座る。デジタルはソファーにトレーナーと視線を合わせないように辺りを見渡す。最後にトレーナー室に来てからそこまで時間は空いていないが何カ月ぶりに来たような錯覚に陥っていた。

 暫くすると黒坂が2人の前に飲み物を差し出すとデジタルの横に座る。

 

「まずは今日の模擬レースで何故メイショウボーラーに負けたと思う?」

「前置きはいいから本題から入ってよ」

「まずは私見を聞いてからや」

「分かったよ。それはメイショウボーラーちゃんが強いからだよ。このまま順調に成長すれば歴史的名選手になると思ってる」

 

 デジタルは意見を言いながらトレーナーの顔を窺う。特に表情を変えることなく思考や感情が分からない

 

「黒坂君はどう思う?」

「私も同意見です。メイショウボーラーは歴史的名選手になるウマ娘です」

 

 黒坂は突然話を振られ戸惑いながらも意見を言う。デジタルは1流のウマ娘だ、だがそれ以上のウマ娘と走れば負けることもある。結果からしてメイショウボーラーはそれだけのウマ娘だということだ。

 

「なら、メイショウボーラーは何故強い?」

「それはスピードや勝負根性や瞬発力は高いし、あとはレースセンスも良い。今日のレースはペース配分も上手かった。あとは黒坂ちゃん曰く相手の力を削ぐ技術が抜群に優れている」

「その相手の力を削ぐ技術やが、デジタルはメイショウボーラーに何をされて力を削がれたのか分かったのか?」

「分かんない。でも天才の技術は普通の人には分からないんでしょ。インドの数学者は自分が見つけた数式が何で正しいのか分からないっていうし、メイショウボーラーちゃんも特に意識せずにやってるんじゃない」

「黒坂君も同じ意見か?」

「はい、メイショウボーラーのタイムは特筆すべきものではありません。ならば何故アグネスデジタルが負けるかと考えると、力を削がれているからとしか考えられません。恐らくメイショウボーラーは相手の力を削った結果、アグネスデジタルは模擬レースでも特筆するようなタイムを出せず負けた」

 

 トレーナーはデジタルと黒坂に視線を向けると僅かにため息をつき悲しそうな表情を見せた。

 

「黒坂君は物事を深く考えすぎや。タイムが遅いと分かっているなら答えは至って単純、デジタルの力がジュニア級に負けるまでに衰えているからや」

「は?」

「え?」

 

 2人はトレーナーの言葉に思わず気の抜けた言葉が漏れる。その言葉は脳裏の片隅にもなかった。

 

「冗談はよしてよ!アタシに自覚症状はない!模擬レースに負けたからって短絡過ぎ!負けたのはメイショウボーラーちゃんが凄いから!ちゃんとチームのウマ娘ちゃんを見てあげなよ!トレーナーが力を信じてあげなきゃ誰が信じるの!やっぱり白ちゃんはダメだ!今すぐ引退して黒坂ちゃんにチームプレアデスを引き渡して!」

「アグネスデジタル落ち着いて」

 

 黒坂は立ち上がって激昂するデジタルの肩に手を置いて宥める。今のところ何とか抑えているが今すぐにでも殴りかかりそうな形相だった。

 

「2人はメイショウボーラーが相手の力を削ぐ技術があると言っていたが、そんなものはない。断言する」

「そんなことはない!白ちゃんの目が節穴なだけ!」

「目が曇っているのはお前や、それを証明したる。明日以降もメイショウボーラーと模擬レースをしてもらう。そして1日ごとに広がっていく差を感じて、現実を直視しろ」

「いいよ、やってあげる!」

 

 デジタルは捨て台詞のように言い放つと乱雑に扉を閉めて部屋を退出し、黒坂はトレーナーに一礼してデジタルの後を追った。

 

 

 メイショウボーラーはチームルームに入り制服から練習着に着替え始める。制服を脱いだ瞬間反射的に体を震わせる。11月に気温もめっきり下がりチームルームにも暖房は無いせいで、室内の気温は外とさほど変わらない。

 秋と冬の着替え始めてからトレーニングが始まる前の時間は好きではなかった。トレーニングが始まれば体が温まり寒くないのだが、身体が動かさないと寒い。

 

「お疲れ、今日も寒いね」

「最近いつも寒いって言ってない?」

「だって寒いし」

「メイショウボーラーは寒がりだもんね。めっちゃカタカタ震わせてる」

「ほんとだ。ちょっと脹脛触ってくんない?その震え具合が良い感じにマッサージになるかも」

「人をマッサージ機みたいに言わないでよ」

 

 トレーニングが始まる前はチームルームで、同い年のチームメイト達とポケットに手を突っ込み身をすぼめながらお喋りする。寒いのは嫌いだがこの時間は寒くても好きだった。

 

「そういえば聞いたよ。アグネスデジタル先輩に模擬レースに勝ったんだって?凄いじゃん」

「まあね、と言いたいところだけど、トレーナーが言うには模擬レース中にウッドチップが当りそうだったりとアクシデントがあって実力を発揮できてなかったみたい」

「それでも勝ちでしょ。ヒシミラクル理論で言えば完全無欠の勝利だって」

「でも完全には納得できないよ」

「え~もったいない。天狗になれる時期何てほんの僅かで、いずれ現実知ってバキバキに心を折られるんだから、今のうちに調子に乗っておかないと」

「そういう考え方もあるのか」

 

 メイショウボーラーは思わず手を叩く。無敗で引退できれば調子に乗り続けられるが、勝ち続けるのはある意味3冠ウマ娘になるより難しく、そんな突出した実力がないのは分かっている。

 いずれどのレースかで負ける。ならば負けるまで調子に乗って全能感に浸るのも悪くないのかもしれない。

 暫く雑談を楽しんでいるとトレーナーがやってきてトレーニングが開始した。

 

「嬉しそうやな」

 

 トレーナーはメイショウボーラーとコースに移動している最中に思わず声をかける。歩行という何気ない動作に喜の感情が滲み出ていた。

 

「すみません」

 

 メイショウボーラーは明らかに動揺しペコペコと何回も頭を下げる。その動作を見てトレーナーは思わず苦笑する。

 

「どないした?そんなに謝らなくてもええやろ。それとも何かやましいことでもあるんか?」

「いや、トレーナーにはアグネスデジタルさんに勝っても調子に乗るなと言われましたけど、友達にはどうせ負けて調子に乗れなくなるんだから、今のうちに調子に乗っておけと言われまして、調子に乗ってました」

「なるほどな、そんなにデジタルに勝てたのが嬉しいか?」

「勿論ですよ。本番のアグネスデジタルさんはこんなもんじゃないっていうのは分かってますけど、例えアクシデントがあっても勝てたのは嬉しいですよ。目標はアグネスデジタルさんと一緒のレースに出走して勝つことですから、その目標に僅かでも近づけたと思うと嬉しくて。それに一緒に走っていて楽しいです」

 

 メイショウボーラーは嬉々とした表情を浮かべ語り始める。

 チームプレアデスに入った理由はデジタルが所属していたからだ。その走りに憧れいずれ超えたいという感情が最大のモチベーションである。一方トレーナーはメイショウボーラーに物悲し気な表情を向けていた。

 

「メイショウボーラー、今のうちに謝っておく。お前には辛い役目を任せることになる」

「何がですか?」

 

 メイショウボーラーはトレーナーに質問するが答えることなく無言だった。メイショウボーラーは訝しむがアグネスデジタルとのレースに意識を向けた。

 

「今日もよろしくお願いします」

 

 メイショウボーラーはコースに着くと、いつも通りデジタルに挨拶する。そこでデジタルの雰囲気の違いに気づく。

 いつもの長閑な感じではなくひり付いて重苦しい。まるで本番のレースで走るウマ娘のようだ。今までは遊びだったが、これからが本番として全力で叩きつぶすということか。

 侮られたという怒りはない。只の後輩から全力で叩き撫す必要があるライバルと認められた喜びしかなかった。

 

───

 

「はぁ」

 

 メイショウボーラーはチームルームに着いて早々にため息をつく。世間は明後日のマイルCS、そして来週のジャパンカップとジャパンカップダートを前にして大いに盛り上がっているが、メイショウボーラーの心は只冷え切っていた。

 初めてデジタルに先着して以降メイショウボーラーは模擬レースで先着し続けた。

 そして着差はクビ差、半バ身差と徐々に広がっていき、昨日のレースでは2バ身差をつけた。マイルのレースでは完勝といえる着差だ。

 最初は自分が強くなったと自信を持つことができた。だが次第に認識が間違っている事に気が付く。自分が強くなっているのではなくデジタルが弱くなっているのだ。

 メイショウボーラーはデジタルと一緒のレースに出走して勝つのが目標だった。しかし単純に勝てばいいという話ではない。強いアグネスデジタルに先着しなければ意味がない。

 最初はデジタルとの模擬レースは学ぶもの多く楽しかった。

 だが今は走るたびに憧れが弱体化する姿を間近で見せられ、夢が叶わないと認識され続ける苦行だった。何時ぞやにトレーナーが辛い役目を任せると言った意味がようやく理解できた。

 

「何の為にアグネスデジタルさんと走るんですか?何で私なんですか?正直辛いです……」

 

 メイショウボーラーとトレーナーがレースコース場に向かう道中に悲し気な表情を浮かべながら質問する。メリットが無い以上デジタルと模擬レースはもうしたくない。

 

「それはデジタルの介錯としゅうかつの為や」

「介錯としゅうかつ?」

 

 メイショウボーラーは思わず聞き返す。介錯は切腹で苦しまないよう首を切る行為、随分と物騒な単語が飛び出た。そしてしゅうかつとは就職活動のことだろうか?

 

「メイショウボーラーも分かっていると思うがデジタルは衰えている。だがアイツはそれを認めようとしない。認めたら全てが終わるからな」

「でも何で私なんですか?正直今のアグネスデジタルさんなら私じゃなくても先着できる。それだったらチームの先輩たちでもいいじゃないですか?」

「ジュニア級に負けるのは想像以上にショックを抱く。だがチームのジュニア級でデジタルに勝てるのはメイショウボーラーしかいない」

 

 トレーナーは淡々と説明する。メイショウボーラーを介錯人に選んだのは今言った理由以外にもあった。

 デジタルは同じレースで後輩と一緒に走る同門対決に憧れに似た感情を抱いていた。その為にはデジタルと同じ舞台に立てる実力が必要だった。そして才能を秘めているメイショウボーラーを目にかけ同門対決を実現させようとした。

 最初は自分の目的の為に目をかけていた。だが今は純粋にメイショウボーラーというウマ娘に好意を抱き目をかけている。そんな相手だからこそ介錯人に相応しいと考えていた。

 

「デジタルは衰えを受け入れたら全てが終わる事を無意識に理解しとる。だから頑なに衰えを受け入れないんやろ。だが想像以上に悪い方向に進んでいる。少しでも早く受け入れささせないと不幸になる。お前が辛いのは分かる。だがもう少しだけ一緒に走ってくれないか?」

 

 トレーナーはメイショウボーラーに向かって深々と頭を下げる。そしてメイショウボーラーはしゅうかつの言葉の意味を知る。しゅうかつとは就活ではなく終活、余命僅かな者が幸せに人生を終わらせるためにする活動のことだ。

 流石に命に関わる事ではないだろう。だが非常に重大な事であるのは理解できた。

 

「分かりました。私にとってアグネスデジタルさんは憧れの人です。その人が少しでも幸せになれるなら、喜んで介錯人を引き受けます」

「すまん。恩に着る」

 

 トレーナーはもう一度深々と頭を下げた。

 

 メイショウボーラー達はダートコースに着く。いつも通りウッドチップコースで模擬レースをするつもりだったが、メイショウボーラーがダートコースで走りたいとトレーナーに頼み、急遽コース変更していた。

 メイショウボーラーはコースに着いて早々デジタルの様子を観察する。初めて先着した直後に見せたひりつきと重苦しさ、それは見る影もなくその姿がひどく小さく見えた。

 模擬レースは距離1600メートル、レースが始まりいつも通りメイショウボーラーがハナを切る。だがいつもと違って3バ身4バ身と差をグングンと広げていき、半マイルで10バ身差をつける。これは逃げではなく大逃げと言って差し支えないレース展開になっていた。

 メイショウボーラーは鬼のような形相で先頭をひた走る。普通に勝つだけではダメだ。圧倒的な差で勝利して完全に心を折り、衰えを認めさせる。

 レースはメイショウボーラーが大きなリードをキープしたまま直線に入り、デジタルも遅れて直線に入る。

 デジタルは末脚を発揮するが10バ身差あったリードを5バ身差縮めるのがやっとだった。結果はメイショウボーラーの5バ身差の大楽勝に終わった。

 

「あ~今日は調子悪かったけど、思った以上についたな~」

 

 メイショウボーラーはゴール板を通過して項垂れるデジタルに近づき独り言を呟く。その声量は独り言にしては明らかに大きかった。

 その言葉にデジタルは驚愕の表情を浮かべると一目散に黒坂の元に向かった。

 

「タイム見せて!」

 

 デジタルはタイムを計っていた黒坂のストップウォッチを強引に奪い表示されたタイムを見る。

 

 1:38:08

 

 これはこのコースにおける未勝利レベルの平均タイムだった。

 

 デジタルは表情に不安と恐怖の色をさらに強めながらトレーナーの元に向かって、表示タイムを見る。

 

 1:38:02

 

 デジタルは即座に計算する。正確な着差は分からないが約5バ身差は離された。自分のタイムを基準にすれば妥当なタイムだ、このタイムは1勝クラスの平均タイムである。

 デジタルはその場で膝から崩れ落ち手で顔を覆う。目を見開き呼吸が荒く明らかに正常な状態ではなかった。トレーナーは思わず手を伸ばすが手を払いのけコースから走り去っていく。

 

「心が痛みますね」

「ああ、だがこれは流石に効くやろ」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの元へ近づくと今にも泣きそうな顔と声で呟き、トレーナーは労うように肩に手を置いた。

 

 メイショウボーラーのタイム1:38:02、デジタルの1:39:00という走破タイムは正確なタイムでは無かった。トレーナーが黒坂に協力を要請して意図的にタイムを遅くしていた。

 数字は無慈悲に雄弁に事実を示し、その事実に多くの者は事実を認めてしまう。それほどまでに数字の力は強い。

 平時であればデジタルもこのタイムは嘘で有ると気づくだろう。だがトレーナーは今であればこのペテンは通用すると判断し実行した。

 未勝利レベルのタイムでしか走れないと勘違いすれば衰えを認めざるを得ないだろう。

 

「ちなみに本当のタイムは1:36:05、自己ベスト更新でジュニア級としては抜群のタイムや」

「今は喜ぶ気になれません」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの報告を無表情で聞き流す。今の実力でこのタイムで走れなかった。だがデジタルの為に圧倒的な差をつけて心を折ると一心で走った。

 それはかつてデジタルが安田記念でアドマイヤマックスの為に勝たなければならない発揮した力、自分の為でもなくチームメイトやトレーナーなどの周りの人の為ではなく、レースに勝てば相手の不幸にすると分かっていながら相手の為に勝つという矛盾した感情、慈悲の心が生み出した力と同じだった。

 

───

 

「違う!違う!違う!アタシは認めない!認めてたまるか!」

 

 寮から数百メートル離れた場所に一際大きな樹木が有った。

 

 デジタルは寮から数百メートル離れた雑木林に向かっていた。幹の中心には何かで殴ったように凹んでいた。

 その樹木はかつてエイシンプレストンがストレス発散と武術の練習としてサンドバッグ代わりとして使用し、凹みはエイシンプレストンの打撃によって作られたものだった。デジタルもその凹みに向けて全力で拳を叩き込む。

 辺りにデジタルの慟哭と打擲音が響き渡る。夕日によってデジタルの姿は茜色に染め上げられる。そして拳は一層茜色に染まっていた。それは拳は度重なる殴打で拳の皮が捲れ出血したのが原因だった。たが痛みを気にすることなく殴打を続ける。

 

 今日の模擬レースで1勝クラスのタイムを出してしまった。だがあれは本来の結果ではない。

 トラックバイアスが有った。自分で分からない不調があった。メイショウボーラーの未知の技術によってタイムを落とされた。デジタルは思いつく限りの言い訳を脳内で思い浮かべ拳を打ち込む。

 脳内で衰えという文字が浮かび上がり、そのたびに言い訳で脳の奥底に押し込めていく。

 絶対に認めてはならない。認めてしまえばたとえ偽りだとしても真実になってしまう。それ程までに精神が肉体に与える影響は大きい。だが想いとは裏腹に衰えの二文字が益々大きくなっていく。

 

「違う!違う!違う!アタシはもっと走れる!ウマ娘ちゃんを感じられる!6年は現役で走れる!」

 

 デジタルは自己暗示をかけるように声を張り上げ、自身に言い聞かせながら拳を幹に打ち込む。

 何を衰えた過程で思考を進めている。衰えはきていない。あと6年は現役としてウマ娘を感じると目標を立てた。夢や目標は必ず叶う。

 弱気を掻き消そうと無心で拳を打ち込む。木の幹には血痕がこびり付いていた。

 

「アタシはやれる!もっと走れる!ウマ娘ちゃんを感じられる……」

 

 暫くするとデジタルの動きは鈍くなっていき、最後には動きが止まる。ある日を境に無意識に、そして意識的に衰えという言葉の敵に抗ってきた。

 宝塚記念でも日本テレビ盃でも南部杯でも天皇賞秋でもレースを通して満足にウマ娘を感じられなかった。それでも衰えではなく、調整やレースでの判断ミスでそれさえ修正すれば前のようにレースを通して十全にウマ娘を感じられるようになると信じた。

 だが少し前までは実力的には明確に下だった後輩のメイショウボーラーに負けるという事実は、心に確実に楔を打ち込んできた。

 そして今日の模擬レースにおける完敗、この事実によって心の防波堤は粉々に砕け、衰えという言葉の大波は心を完全に吞み込んでいた。

 

「やだよ……もっとウマ娘ちゃんを感じたいよ」

 

 デジタルは思わず呟く。その声は先程までと比べ今にも消えそうなほどか細かった。この瞬間衰えているという事実を完全に認めていた。

 

───

 

「アグネスデジタルは衰えていると気づいたのはいつですか?」

 

 黒坂は徐にトレーナーに尋ねる。模擬レースが終わりメイショウボーラーとトレーナーと黒坂はデジタルの今後を話すためにトレーナー室に集まっていた。

 トレーナーはソファーの背もたれに背を預け深く息を吐いた後に語り始める。

 

「きっかけは宝塚記念やな」

「宝塚記念ですか、敗因は距離の長さで妥当な結果だと思いましたが」

「俺もそう9分9厘はそう思っておった。だが1厘で衰えかもしれんと疑っておった。それで日本テレビ盃と南部杯でも負けた。これも敗因が明確やったが疑念が2厘3厘と増えてきた。そして天皇賞秋での負けで疑いが一気に7分ぐらいに増えた」

 

 黒坂が以前に天皇賞秋におけるデジタルの敗因はトレーニングの質の低下と心のバランス調整ミスと述べた。その意見にはトレーナーも同意する部分は有ったが異論を有った。

 ウマ娘断ちによって心のバランスは崩れた。だが極限状態によってウマ娘への執着は大いに増し、プラスの面も有ったはずだ。

 黒坂はウマ娘断ちによって能力が元ある能力が100と仮定して、マイナス70減少したと考えた。

 一方トレーナーはウマ娘断ちでプラスマイナスを差し引いてマイナス20程度と考えていた。その程度のマイナスであの着順は実力から考えてあり得ないと考え、あの結果は衰えによるものという結論を出した。

 

「だがあくまで俺の中での考えであって、何時ぞやのデジタルが言った通り証拠がない。せやから証拠を集めることにした」

「それがメイショウボーラーとの模擬レースですか」

「そうや。第1目的はメイショウボーラーの成長を促すことがやが、証拠集めでもあった。初めてのレースでの着差、走るごとに縮まる着差を見て衰えていると確信した」

 

 メイショウボーラーは膝に置いていた手を強く握る。盛者必衰、アスリートにとって衰えは避けることは出来ない現象だ、そう分かっていながらも憧れが衰えるわけがなく、いずれは最高の舞台でベストなデジタルと走れると信じようとしていた。

 

「でも衰えることの何が問題なんですか?」

 

 メイショウボーラーはふと疑問が浮かび上がりトレーナーに質問する。

 確かに衰えはアスリートにとって避けたい問題だ、衰える分だけ目標から遠のいていき、走るステージもグレードダウンしていく。かつてはGIを走っていたのに下のステージで走り負ける。それに耐えられないというウマ娘も居るかもしれない。

 短い付き合いながらデジタルはレースを通してウマ娘を感じることを好むのを知っている。それはどのステージでも関係なく、例え地方で一番下のステージでも支障がないはずだ。

 それにあと9年は現役を続けると豪語していたが、多少衰えても現役でレースを走りウマ娘達を感じることは出来る。

 

「衰えるのは問題ない。問題なのは衰えのスピードとデジタルの置かれた状況や」

 

 トレーナーは立ち上がり机の書類の束から1枚のプリントを取り出し、メイショウボーラーと黒坂に見えるようにテーブルに置いた。

 2人は紙に書かれた折れ線グラフを見る。基準は分からないが比較的に緩やかな下降線を辿っていた。

 

「これはデジタルがメイショウボーラーと初めて模擬レースを走ってから、初めて先着されるまで、デジタルの実力を数値化したものや。そしてこれが次の日から昨日までのデジタルの実力を数値化したグラフや」

 

 トレーナーは2人にもう1枚プリントを渡す。それを見て2人は目を見開きながらプリントに書かれたグラフを見つめる。

 折れ線グラフの下降線が1枚目と比べて明らかに大きくなっていた。そして折れ線グラフの縦軸にはGI、GⅡ、GⅢ、L、OPとレースのグレードが書かれ、横軸には来年の月が書かれていた。2人はグラフを注視する。

 デジタルの数値は来年の1月でOPクラスを下回る3勝クラスに落ち込み、1年後には1勝クラスどころか、園田と書かれた値まで落ち込み、その半年後には高知と書かれた値まで落ち込んでいた。

 

「園田や高知って書かれていますけど、これはどういう意味なんですか?」

「それはそこでなら何とか通用するレベルって意味や」

「高知!?高知って確か地方で1番レベルが低い場所ですよね?たった1年半でそんなに弱くなるんですか!?」

 

 メイショウボーラーは質問の答えに思わず大声で喋っていしまう。

 高知は地方では最下層、現役に拘りながら実力が衰え地方のどこでも走る舞台がないウマ娘が行きつく終着点、そこで走るウマ娘も中央に居るウマ娘より年齢は高く、30代のウマ娘も居ると聞いたことがある。

 そんな終着点にデジタルがたった半年でそこまで実力的に衰えるとは俄かに信じがたかった。

 

「ウマ娘の衰えはもう少しゆっくりだと思っていましたが、ここまで急なのですか?」

 

 黒坂もメイショウボーラーほどではないが声に驚愕の感情が帯びていた。怪我による競争の力の低下なら急激に能力が低くなることはある。だが衰えでここまで急激に低下するケースは今まで聞いたことはなかった。

 

「あくまでも推測や、だが多少誤差があるにせよ表に近い下降線を辿るやろ、俺もここまで急激に衰えるウマ娘を見たのは初めてや」

 

 トレーナーは思わず額に手を当てる。座学でもトレーナーとしての活動でもこれほど衰えが急激に進行したウマ娘は見たことが無い。

 

「デジタルは出来る限り現役で走る事を望んでいる。しかしただ走るだけが目的やない。ある程度勝負にならなきゃ感じられない。直線で他のウマ娘に大差をつけられた状態じゃ無理だ」

「そういえば以前に勝負どころの直線がウマ娘ちゃんの感情が一番迸ると語っていました」

「だから終活なんですね。いずれウマ娘を感じられなくなる。その事実を認識させ残りの時間をより良く過ごす。高知で勝負出来るのは1年半後、それまでの間は幸せに過ごしてもらいたいです」

「残念やが、そんな時間は残されていない」

「どういうことですか?」

 

 メイショウボーラーは首を傾げる。1年半では少ないということだろうか?だがそれなら残されていないという単語は使わない。

 

「中央ウマ娘協会の規定で、中央所属のウマ娘は所属の変更を2回まで認めるというものがある」

「えっと、つまり?」

「中央のウマ娘が地方に移籍して地方所属になった後に、また地方所属から中央所属になることは認めるが、再びウマ娘は再び地方になることは認められない」

「そんなルールが有るんですね。それが何の問題なんですか?」

「大ありや。デジタルはダートプライドに出走するために地方の大井所属になった。そして再びこっちに戻ってきた。もう地方に行くことはできない」

「あ!」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの説明を聞き事の重要さを気づく。あと1年半幸せに過ごして欲しいと言った。それは地方に行けるという前提での計算だった。だが地方に行けないなら前提は成立しない。

 しかもデジタルはGIウマ娘だ、3勝クラスで走れない。GIや重賞やOPでウマ娘を感じられる程度食らいつけるまであと何ヶ月持つ?恐らく相当短い。

 

「アグネスデジタルさんはこの規定は知っているんですか?」

「恐らく知ってるやろ。ああ見えてトレーナーになるために勉強しておったからな。恐らく無意識で自分に時間がない事を知っているからこそ、認めようとしない。だからこそ一刻でも早く衰えていると認めさせ、少しでも幸福な時間を過ごさせたい」

 

 トレーナーは唇を力いっぱい噛みしめる。デジタルにとってレースを通してウマ娘を感じるのは生き甲斐のようなものだ、その生き甲斐を突然奪われようとしている。

 それはデジタルにとってある日末期がんに罹り余命数ヶ月と言われたようなものだ、その悲しみと恐怖は想像に絶する。

 そしてデジタルはあと9年現役をやると宣言していた。それは宣言であると同時に自己暗示の一種でもある。

 思い込みが激しいデジタルにとってこれは決定事項のように扱われ、その分だけショックは大きい。さらに言えば衰えのスピードが尋常ではなく、衰えを受け入れる時間はあまりに少ない。

 

 せめて衰えがもう少し遅ければ、レースの神様が居たとしたら心の底から憎むだろう。

 

 デジタルの衰えがここまで急激に進行したのには理由が有った。

 衰えは安田記念以降から始まっていた。だがある行為をしなければ平均的な衰えの進行度だった。

 安田記念においてデジタルはアドマイヤマックスの心を救う為に慈悲の心の力を発揮した。慈悲の心は限界以上の力を発揮する。その力はトリップ走法と同等である。

 トリップ走法も慈悲の心も限界以上の力を発揮するという共通点がある。だが限界以上の力を発揮すれば必ず歪が生じる。脳が限界だとドクターストップがかかったのもそうだが、これ以上無理を重ねて欲しくないとダートプライド以降トリップ走法を固く禁じた。

 ウマ娘が人間と筋肉量が変らないのに超人的な力を有しているのは、ウマ娘ソウルと呼ばれる特殊な力が要因と言われている。そしてウマ娘ソウルの力は使えば使う分だけ消費する。ウマ娘の衰えはウマ娘ソウルの消費によるものである。

 安田記念でデジタルと3着の差は3バ身差、デジタルも慈悲の心の力を使わなければアドマイヤマックスに3バ身差程度の差をつけられて負けていただろう。

 

 人によっては僅かな差だと感じるかもしれない。だがその僅かな差を埋めるために、デジタルは慈悲の心の力を使いウマ娘ソウルの力を消費した結果、選手寿命を大幅に縮めてしまう。その代償は大きかった。

 トレーナー室にはデジタルの絶望的な未来に悲観し重苦しい空気に包まれていた

 

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