アグネスデジタルは緩慢な動きで首元に手を伸ばしスマホを手に取り時刻を確認する。
午前9時、今頃皆は学校で授業を受けている。思考はそこから発展することは無く、授業をサボッている罪悪感も優越感も一切無く、再び微睡の世界に飛び込んだ。
デジタルはアドマイヤマックスとの対話を経て以降はプレストンの家を出て寮に戻ると、学校にも行かずトレーニングもせず寮のある部屋に引き籠っていた。
本来であれば自分の部屋で暮らすべきなのだが、ルームメイトと一緒に過ごす気にもなれず、辛気臭い者が居れば迷惑もかかる。そして寮長に交渉して別の部屋で生活していた。
もはや衰えを解消することも抑えることも出来ず、想像の世界に逃げることすらできなくなった。
全ての希望が潰えたデッドエンドしか待ち受けていないと実感し、それと同時に急激に体の力が抜け気力も衰え、1日の大半を寝るという無為な日々を過ごしていた。
無為に過ごしている間も確実に終わりに向かっている。少し前まではその恐怖に心が軋み涙を流すことがあったが、今ではそんな気力すら湧いてこなかった。
数時間後デジタルは目を覚ますと同時に強烈な飢餓感に襲われる。そういえば最後に食事を摂ったのはいつだったか?過去の記憶を遡ろうとするがその気力すら沸かず、ベッドから起き上がり部屋の外に向かう。
デジタルは扉を開けると足元に食事が置いてあった。食事を取ると部屋の中に帰り、生命活動を維持するためにと云わんばかりに、感情を出すことなく機械的に食事を摂る。
食事を摂った後は眠ろうとベッドに向かい布団に入る。すると丁度目を瞑った瞬間に扉の外からノックの音が聞こえてきた。デジタルの聴覚は音を捉えるが脳は意図的に無視する。
「デジタル居るか?」
デジタルの脳はその声に反応する。声の主はチームプレアデスのトレーナーの声だった。
何の用なのか?引き籠っていないで部屋から出ろと言いに来たのか?脳内で様々な憶測と予想が浮かび上がるが考える気力が湧かないと、全ての憶測と予想を消去する。
「デジタルに伝えたいことがある。聞いてくれるか?」
デジタルはトレーナーの言葉に返事しない。だが目を開き言葉を聞く状態にはなっていた。トレーナーも沈黙は承認と解釈した。
「デジタル、お前が今大きな悩みや不安に対して恐怖、怒り、悲しみを感じ苦しんでいることは分かる。だがそれらを完全に理解することは出来ない」
トレーナーはデジタルが聞き取れるようにゆっくりと喋る。デジタルが今抱えている悩みは衰えによってレースでウマ娘を感じられなくなることだ。そして衰えは例に見ない程急速で、さらに地方で走る選択も失われている。
残された日は限りなく少ない。それはトレーナーの境遇に当てはめるなら、ある日残り数か月で、トレーナーを辞めなければならないと宣告されたようなものだ。
仮にトレーナーはそうなったとしてもデジタルのように心を乱さない。それは人生経験の差もあるが、決定的な差は注ぎ込んでいる熱量の差だった。
デジタルにとってレースでウマ娘を感じることはライフワークであり生き甲斐であった。
将来はトレーナーになることを志し、いずれはトレーナーの立場としてウマ娘を感じる素晴らしさを理解するかもしれない。
だが今はその素晴らしさを想像することは出来なかった。デジタルにとってレースでウマ娘を感じることは生であり、感じられなくなる事は死と同意義に近かった。
トレーナーも目標や夢がありトレーナーという職業に誇りを持ち情熱を注いでいた。だがデジタル程では決してない。
それはトレーナーが無気力というわけではない、デジタルが掛ける情熱が異常なだけであって、最早狂人と呼べるほどの異常さだった。
それ故にトレーナーがデジタルの心境を完全に理解できなかった。
「デジタルの苦しみは真に理解できない。だが苦しみを和らげる方法を知っている。それは諦めることや」
トレーナーはデジタルに伝わって欲しいと願いながら喋る。諦める、妥協する。それらは世間一般のイメージは良くない。
そしてアスリートにとってはさらに良くない。妥協せず諦めず何度でも這い上がる、それがアスリートにとって最も必要な才能だと言う者もいるが、トレーナーも概ね同意する。だが今のデジタルにとっては害にしかならない。
死を妥協せず諦めなくても克服できないように、衰えもそれらで克服できない。それは自然の摂理だ。
「そして受け入れて次善を探せ。人生では最善を選び続けられない。理不尽なことやどうしようもない事はしょっちゅうや。そんなかでも次に幸せになれる方法、少しでもマシな方法を探し実行する。それが俺の考える人生を幸せに生きる方法や」
トレーナーは喋り終わると用が終わったとばかり踵を返し、寮の責任者に礼を言う。本来であればトレーナーは寮に立ち入れないのだが、特別に入らせてもらっていた。
次善を探すためには現状を受け入れる。つまり納得することが必要だ。
本来であれば今の助言はせずに自らが答えを見つけるのを待ち、その様子を見守るのが正しいかもしれない。しかしデジタルには時間が無い。多少強引でも介入するべきと判断していた。
トレーナーは寮の玄関を出ると振り返り、デジタルがいる部屋の窓に視線を向ける。少しでも早く受け入れ次善を探してくれ。トレーナーは心の中で願い歩き始めた。
──
トレーナーはトレーナー室でデスクワークに励む。季節は12月となり年末にむけて忙しさが増してくる。トレーナーも例外ではなくチームのオフを利用し溜まっていた書類整理に勤しんでいた。
書類を書き終えふと窓の外を見る。すると外の景色は茜色に染まり始めていた。
あと1時間もしないうちに日が落ちて辺りは暗くなるだろう。暫くすれば冬至を迎え1年が終わる。改めて月日が流れる早さを実感しながら書類整理を再開しようとペンを握る。その瞬間扉の外からノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
トレーナーは入室を促す。すると扉が開きそこにはデジタルが居た。思わぬ来訪者にトレーナーは驚き視線を向ける。
引き籠り生活の影響か頬の肉が落ちて痩せている。正確に言えば枯れているという印象の方が強い。それに全体的に生気を感じられず憔悴している様子だった。
デジタルは何も言わず部屋の中央にあるソファーに座る。トレーナーも作業を止めテーブルを挟んで反対側のソファーに座る。
2人は言葉を発することなく沈黙が訪れる。トレーナーは何か話しかけようとしたが、デジタルの様子を見て止める。
「アタシは無意識に衰えを自覚していたんだと思う。そして衰えを自覚したら本当に衰えてしまう。それが何より怖かった。だから白ちゃんに当たったり悪口言ったりしたんだと思う」
デジタルはポツリと語り始め、トレーナーは無言で相槌を打ち傾聴しながら言葉の意味を思考する。
デジタルのトレーナーに対する態度が変わったのは天皇賞秋以降だった。それはトレーナーがデジタルは衰えているという疑念が大きくなった時でもある。
他人に指摘されることで衰えが現実になってしまうと恐れた。なので攻撃的になり反発するようになったと推理していた。
「メイショウボーラーちゃんと模擬レースをするようになって、日に日に着差が縮まって、先着されて、着差が広がって。少し前までは可愛いけど実力的に下と思っていた後輩に抜かれるのってキツイね」
デジタルの表情が僅かに曇りトレーナーの胸が僅かに痛む。衰えを自覚させるために、敢えてより精神的ショックな方法を選んだ。それは確かに効果が有ったようだが、もう少しやりようがあったのではないかと自省する。
「それで衰えを自覚させられて、何とかしないとマズいと思って、中央の偉い人に規定の改定を要請したけどダメだった。あれさえなければここまで苦しむこと無かったのにね」
デジタルは一瞬怒りの表情を浮かべるがすぐさまに諦めの表情になり、トレーナーは再び自省の念を抱く。
直談判した件はトレーナーも知っていて協会の人間から注意を受けていた。
その後も何度か規定の改定を嘆願したが印象は悪く未だに却下されている。あの時にデジタルに抑えるように呼び掛け、自分が嘆願すればもう少し交渉を有利に運べたはずだ。それ以前にこの事態を想定して事前に交渉すべきだった。
デジタルはトレーナーになるという将来の目標が有り、現役にそこまで固執しないと思っていたが、完全に読み違えていた。
「そして、その日にタップダンスシチーちゃんと言い争いして、プレちゃんの家に転がり込んだ。現役のウマ娘ちゃんが羨ましかった。皆は衰えていなくて未来があるのがズルいって思った。このままじゃウマ娘ちゃんが嫌いになっちゃうと思ったから」
デジタルは当時の心境を思い出し制服の心臓部分を握り締める。その様子を見てトレーナーはデジタルの当時の心境を推し量る。
トレーナーはプレストンからデジタルが学園を出た理由を訊いた時は衝撃を覚えた。
あのデジタルがウマ娘に憎しみを抱く。俄かに信じがたかった。そして当の本人はそれ以上の衝撃だ。
嫉妬で憎しみを抱いた。恐らくデジタルは自己嫌悪を抱くはずだ。そして大好きなウマ娘が嫌いになるという変化は心に相当の負荷と動揺を与えるだろう。
「あの時は現役を引退したウマ娘ちゃんには憎しみを抱くことは無かった。だからプレちゃんを憎まないし、学園の外ではそこまで現役のウマ娘ちゃんに出会うこともなかった。それにお泊り会しているみたいで楽しかった。プレちゃんには感謝しなきゃね。それで衰えは人の力じゃどうしようもないって気づいて。神様に祈って何とかしてもらおうと思った。神社、お寺、教会、モスク、色々な場所に行ったよ。あとはゴミ拾いとかもしたな。良い事すれば徳が積まれて神様が衰えを治してくれると思ってさ」
デジタルは語りながら自嘲的な笑みを浮かべる。一連の行動は全て自分の欲のためだ、祈りと善行を対価に願いを叶えてくれと要求している。
仮に自分が神様ならそんな浅ましい者の願いを叶えない。もっと心が清らかな者の願いを叶えるだろう。
「それでも衰えの進行は止まらなくて、どうしようと悩んでいる時に思いついたの。トリップ走法を使えばいいやって」
デジタルは思いついた案をトレーナーに説明する。一連の説明はデジタルの欲を満たせるものだった。だがトレーナーはその方法を思いつくことは無かった。それはかつてデジタルが否定した考えだったからだ。
「これで救われるって有頂天になってたよ。そこに現れたのはアドマイヤマックスちゃん。色々有って話をしたんだけど、そこでアタシが考えた方法では幸せになれないって、これでもかってぐらいに分からされた。あれは効いたな~」
デジタルは腕を組み何度も頷く。同類と親近感を抱いていた相手に完膚なきまでに否定された。当初は憎しみを抱いたが、あのままだったら幸せになれなかった。アドマイヤマックスには感謝していた。
「それでどうしょうもうないって理解して、落ち込みまくって何もする気がなくなって引き籠ってた。そこで白ちゃんが諦めて受け入れて次善を探せって言った。この言葉が1日中頭をグルグルと周ってた。そして受け入れた」
デジタルは喋りながら思考を整理する。絶望し無気力になりながらも心のどこかで期待し抗っていた。
受け入れたら未来が閉ざされる。きっと奇跡が起こって何とかなると、だからこそ神の存在に落胆し八方ふさがりと分かっていながらも衰えを受け入れなかった。
デジタルは衰えを自覚してからは何度も感情が揺れ動いた。衰えを拒絶し、現役のウマ娘に嫉妬し、神に縋り期待し、見出した光明が完全否定され、未来が無いことに絶望した。
人はプラスの感情でもマイナスの感情でもその感情を抱いただけで心の体力は疲弊する。
心は疲弊し続け、これ以上絶望を抱いて生活する心の体力はないと判断し、受け入れた方が心の体力の消費が少なくなり楽になると判断していた。
「そうか、よく受け入れた。俺にはデジタルの心境を完全に理解出来んがある程度は想像できる。辛かったな」
「うん、本当に辛かったよ」
デジタルはトレーナーの言葉に深く頷く。競技人生において様々な苦労があった。
天皇賞秋ではトレーナーからオペラオーとドトウと競り合うなと言われた時、勝利中毒になって周りから否定された時、ダートプライドを走るためにチームの皆や友人と離れ地方に移籍した時、どれも辛かったが衰えを自覚し受け入れる期間が最も辛かった。
「それで白ちゃんが言った次善なんだけど、最後に有マ記念を走って……引退する。これがアタシの次善」
デジタルは未練を断ち切るために意識的に明るい口調でトレーナーに告げる。でなければ感情が後ろ向きになり、後ろ髪を引かれて決断を鈍らせてしまう。
現時点で最悪なのは未来に絶望し衰えを進行させ続け、どのレースでもウマ娘を感じられなくなる事だ。ならば早急に衰えを受け入れ、衰えが手遅れにならないうちにレースを走ってウマ娘を感じたほうが良い。
「有マ記念か、はっきり言ってかなり分が悪いぞ」
トレーナーは厳しい表情を浮かべる。デジタルがウマ娘を感じる為にはある程度食らいつかなければならない。
有マ記念は芝2500メートルで過去最長の距離、デジタルは2000メートルでもGIに勝利しているが本質的にはマイラーである。
レースを走る中山レース場の芝2500メートルは小回りで6回のコーナーがあるので息を入れやすくペースが遅くなりマイラーでも走れると言われているが、今年の出走予定メンバーならそんな緩いペースにはならず、宝塚記念以上に苦戦する可能性が有る。さらに言えば衰えは天皇賞秋の時より確実に進行している。
「京都金杯はどうや?時期は有マと変わらんし、ハンデ戦やがマイルやしレースでウマ娘を感じやすい」
「アタシも考えたけど最後は有マ記念を走りたい。やっぱり有マ記念は特別だし」
デジタルはトレーナーの提案に首を横に振りながら感慨深げに呟く。
トゥインクルレース関係者やファンに特別なレースと聞けば、クラシックであれば日本ダービー、シニアであれば有マ記念と答えるだろう。
有マ記念と宝塚記念はファン投票をして、上位のウマ娘は優先出走権が与えられるという特殊なシステムだ、極端なことを言えば人気さえあれば未勝利のウマ娘でもGIに出走できる唯一のレースである。そのファン投票がお祭り感を引き出す。
さらに言えば有マ記念は年末に行われる。人々は年末に特別な感情を抱く、そして年末に行われる有マ記念にも1年を締めくくるに相応しいレースをしてくれと期待を寄せ、期待に応えるように数々の名勝負が繰り広げられた。
幼き頃トレーナーが遊びに来た際に家の近くの丘で語ってくれた、数々の名勝負とウマ娘達のエピソードは今でも覚えており、密かに憧れを抱いていた。
デジタルはオペラオーとドトウと走った天皇賞秋以降はそこまでレース自体に価値を見出していなかった。
大切なのはレースでウマ娘を感じることで、云わば出走ウマ娘は中身、レースは中身を入れる器に過ぎない。中身さえ良ければどんな器でも構わなかった。
有マ記念は魅力的なウマ娘が出走し中身は充分に素晴らしかった。だが今回は有マ記念という器にも価値を見出していた。
「分かった。その方向で行こう」
トレーナーは静かに呟く。デジタルの言葉には熟慮と決意と覚悟が籠っていた。ならばレース選択について口を挟むべきではない。
「よし決まり、しかし最後まで勝手にレースを決めちゃったね。大半のレースをアタシが決めているような気がするけど」
「どうせこっちが提案しても言うこと聞かないやろ」
「まあね」
デジタルはニカッと笑う。その笑みには絶望から苦悩から解放され、向かうべき目標が定まった安堵感が見て取れた。
「それじゃあ、明日からよろしくね。次で最後だから多少無理できるし、ビシバシ鍛えていいよ」
「ああ、言うこと聞かなかったら有マ記念のデジタルみたいにしごかれてるってチームのウマ娘がビビらせるほどしごいたる」
「oh、ソレハコワイデス」
デジタルは片言の日本語で返事しトレーナーは思わず脱力する。部屋の空気は一気に弛緩する。デジタルはじゃあねと挨拶して部屋を出ようとするが、脚を止めてトレーナーの方に振り返る。
「何時ぞやはだから中堅程度とか、白ちゃんみたいなトレーナーにはなりたくないっとか悪口言ってごめんね」
「気にしとらん。心が荒んでいたらあれぐらい言うやろ。それに俺を凹ませたかったら、もっとエグイ悪口言わな通用せんぞ」
「それなら良かった。虫が良いと思うけど、次善を得る為には白ちゃんの力が必要だと思ってるから、頼んだよ」
「ああ、引退レースを悲しかったりつまらなかったと思うようなレースにはさせん。死に際で最高の思い出として思い出せるような最高なレースにしたる」
トレーナーは力強く宣言し、デジタルも満面の笑みで応えた。
トレーナーはデジタルが退出した後に何気なく窓を見る。気が付けば日は完全に落ちて外は黒く染まっていた。そして窓の近くにあった観葉植物の葉がハラりと落ちた。
勇者の疑惑と勇者デッドエンドは重い話だったので、作者としても出来るだけ早く終わらせようと投稿ペースを早めました。
次の有マ記念編はまだ書き終えていないので投稿ペースは落ちます