アグネスデジタルは太陽の日差しと肌寒さを感じながら学園内を当てもなく歩く。
本来なら授業に出なければならないのだが、やるべきことをやらなければ授業を受ける気になれなかった。それに休学申請はまだ解除してないので、サボっても問題ない。
暫く歩いているとベンチを発見し、座ると同時にスマホを取り出す。そして深く息を吸った後にゆっくりとスマホのボタンをタップして電話をかける。
今からかける電話は重要な電話だ、そういった電話は部屋などで落ち着ける場所でかける。しかしそういった場所だと緊張感を増して上手く話せないことがある。ここなら風や日差しを浴びて適度にリラックスでき、上手く話せるのではと考えていた。
コール音が数度鳴る。あっちは夜で今頃何をしているのだろうか?電話をかけてから相手が出るまでこの間が最も緊張する。普段では緊張など感じないのだが、今日は特別な用件なので緊張していた。
『もしもしママ?元気?デジタルだよ』
デジタルは久しぶりに英語を喋ったなと関係ないことを考えながら話し相手の反応を待つ。
『こっちは元気よ、デジタルは?』
『元気だよママ』
デジタルは無意識に声のトーンが上がる。久しぶりに話せて嬉しいということもあるが、今は安定したにせよ最近まで心が不安定だったので、母親の声を聞いて安堵していた。
『パパは今家に居る?』
『家で仕事しているけど』
『だったらパパを呼んで電話をスピーカーモードにしてくれる。大切な話があるの』
電話越しに歩く音と父親を呼ぶ母親の声が聞こえてくる。2人とも居て良かった。1人ずつ言うのは何かしっくりこない。大切な用件は一片に伝えたい。
『もしもし、パパ、ママ居る?』
『いるぞ』
『いますよ』
受話器越しに両親の声が聞こえてきた。デジタルは再び深呼吸をする。
『パパとママに報告があります。この度アグネスデジタルは年末の有マ記念で引退します』
デジタルは引退することを決め、トレーナーに意志を伝えた後にしたのは親しい人への引退報告だった。
いずれ公式に関係者に有マ記念を最後に引退することを伝えるが、その前に親しい人達に引退報告するのが礼儀と教わっていた。
『そう、引退するのね。本当に引退するのね』
母親は引退するという事実を確認するかのように訊く。その声には安堵と悲しみが籠っていた。
デジタルがレースをするたびに気が気でなかった。もし事故が起きれば怪我をする。それどころか重度の障害、最悪命を落とすかもしれない。娘の幸せを願いながら大きな不安を抱えていた。
その点でレースをもう走らならないという事実は朗報ではあった。だがデジタルがレースを楽しんでいるのも知っている。そして楽しみを2度と体験できなくなる事にも悲しんでいた。
『引退する理由は何だ?』
『色々有るけど衰えかな、アタシの場合衰えるスピードが他のウマ娘ちゃんと比べてかなり早いみたい。もうこれ以上はレースでウマ娘ちゃんを感じられないから引退する』
『本当に悔いはないのか?』
父親が問いかける。引退の時期はスポーツ選手にとって人生を左右すると考えていた。
現役にしがみつき人生に影響がでるような怪我を抱えてしまった選手もいる。また悔いが残った状態で引退し、長い間後悔を抱えてしまう選手もいる。
『それはもっと感じたかったけど、もうどうしようもなくなっちゃった。次の有マ記念で引退するのが考えられる限りでの次善』
『そうか。それならいい』
父親はポツリと呟く。その声には後悔の感情は帯びていない、もしくは後悔と折り合っている声だった。
『その有マ記念というレースは何時なの?』
『12月の最後の日曜だけど』
『私達もそのレースを見に行くから』
『いいよ。多分勝てないから』
『勝ち負けなんて関係ない、娘の最後の舞台を見に行かない親はいないわ』
『分かった。日本で会うのを楽しみにしてるから、じゃあね』
デジタルは用件は伝えたと電話を切ろうとするが、両親の呼びかけで止める。
『引退を決めるにあたって様々な苦難や葛藤があっただろう。よく乗り越えた偉いぞデジタル、お疲れ様』
『デジタルは私達の誇りよ。それは大きなレースに勝ったからじゃない。自分の夢のために懸命に頑張ってやりきったから、本当によく頑張ったね。お疲れ様』
『うん、ありがとう、パパ、ママ』
デジタルは改めて電源ボタンを押して電話を切る。そして空を見上げながら、胸にこみ上げてくれるものに耐える。
父親は自分の葛藤と苦悩を理解してくれた。母親はレース成績ではなく、今までの過程を褒めてくれた。その賛辞は何より嬉しく思わず涙が出そうだった。
そして両親に引退を報告し改めて引退するという実感とレースの世界から離れる寂しさを感じていた。
───
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「4名です。後で来ます」
「てはこちらに」
エイシンプレストンは店員に案内されるとコートを脱ぎ膝に置いて座る。
デジタルから話したいことがあるから12時に府中駅のファミレスに来て欲しいと突然連絡が来た。
急遽の呼び出しだったが、丁度予定が空いていたのでこうして足を運んでいた。
スマホをいじりながら呼び出した用件を推理する。家に居た時の精神状態から考えて重めな話と考えたが、チームプレアデスのトレーナーから精神は落ち着いていると聞いているのでそこまではないだろう。
だが直接会って話すというからにはそれなりに重要な話かもしれない。
まさか彼氏でも出来たのか?
脳内で父親か母親役の自分、そして真剣な面持ちのデジタルと彼氏、その映像が浮かび上がった瞬間思わず吹き出す。
何で自分がデジタルの親なのだ?そんな義理なんて無いだろう。そもそもウマ娘マニアにそんな浮いた話はない、あまりにも突飛な発想すぎる。
「何か愉快なことでもあったのかな?」
「プレストンさんこんにちは」
「あっ、こんにちはオペラオーさん、ドトウさん」
プレストンは恥ずかしいところを見られたと思わずはにかみながら挨拶する。テイエムオペラオーとメイショウドトウもプレストンと同様にデジタルに呼び出されていた。
「よく急な呼び出しに来られましたねオペラオーさん、もしかして無理に予定を空けてないですか?」
「いや、幸運にもたまたま予定が空いていてね。直接会って話すとなるとそれなりの要件だろう」
「そうですよね、でも何だろう?プレストンさんは心当たりあります?」
プレストンは先程の想像が頭に浮かび上がり、又もや吹き出す。それに興味を持ったのかオペラオーとドトウは何が可笑しいのか問いかける。
プレストンは正直に想像を話すとそこから話が広がり、オペラオーの即興寸劇が開催され場は盛り上がっていた。
「お待たせ、って随分盛り上がってるね」
暫くすると3人が座る席にデジタルがやってくる。実は数分前から来ていたが3人が楽し気に喋る光景が尊いと遠目から眺めていた。
デジタルは空いていたプレストンの横に座る。
「当日に呼び出すなんて急すぎ、もっと気を遣いなさいよ」
「ごめんごめん、熱を失いたくないというか、出来るだけ早く話したいなって」
「それなりに重要な話みたいね」
「まあね。では早速だけど本題に入っていい?」
「別に構いませんよ」
ドトウが3人を代表して了承する。その言葉を聞くとデジタルは深く息を吸い込むと雰囲気が変化し、3人も変化を感じ取り場の空気は緊張感が漂う。
「え~、この度、アグネスデジタルは、年末の有マ記念で引退します」
デジタルの言葉にオペラオーとドトウは驚き、プレストンは静かに目を瞑る。
そして沈黙が訪れる。3人の中で各自の引退時の心境がフラッシュバックしていた。
「そうか、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
オペラオーとドトウは手を差し出し握手を求めデジタルはそれに応じる。本人は熟考の末に出した結論だろう。その結論に他人が口を出すべきではない。
「驚いていないようだが、プレストンは引退する事は知っていたのかい?」
「いや、知らないです。けど一緒に生活して何となくそんな気がしていました」
プレストンは平然と答える。オペラオーとドトウは比較的に衰えの進行が小さかった。だがプレストンはデジタルと同じように衰えがある程度進行してから引退した。故にその心境は理解できた。
デジタルが夜中に泣いていたが、かつて同じように涙を流していた。
衰えにより勝てなくなる。そしてデジタルと最高の勝負ができなくなると不安に駆られていた。
そしてデジタルはボランティアをしてお祈りをしていた。お参りはしなかったが、かつては心の中で何度か神仏に願ったことがあった。
「改めて、お疲れ様。そして発表する前に報せてくれてありがとう」
「うん」
プレストンも2人と同じように手を差し出す。デジタル程の選手で有れば大々的に引退会見を行うだろう。マスコミに伝える前に引退すると伝える。
それは感謝と信頼の証でもあると分かり、その心遣いが嬉しかった。
「でもデジタルさん、相談してくれても良かったんですよ?」
「ドトウちゃんがそれ言っちゃう~ドトウちゃん達も何も言わず引退発表したじゃん。知ったのテレビの速報だよ」
「う~ごめんなさい~、でもデジタルさんに心配かけたくなくて~」
ドトウとデジタルのやり取りを見てオペラオーとプレストンは口角をあげる。
プレストンもオペラオーも心配を掛けたくないと友人には打ち明けていなかった。ここに居るウマ娘達は全員似た者同士だ。
「ということで、今までお世話になりましたということでアタシの奢りです。好きな物頼んじゃって」
「ファミレス程度の奢りで済ませるつもり?アタシがデジタルに世話した分を考えれば、ファミレスのメニュー程度ではとてもとても」
「がめついな~、だったら最高級のヌンチャクあげる」
「いいわよ。冗談だから」
プレストンは揶揄うようにデジタルの頭をポンポンと触る。確かにデジタルの世話はしたが多くの物をもらった。持ちつ持たれつ、貸し借りなしのイーブンだ。
『私の夢は岩手のウマ娘が世界の頂点に立つ姿を見ることです。世界中の誰もが無理だと思っているでしょう。でも私はそう思いません!ここには世界一優しくて情熱的なファンの方々がいます!皆様の声援が岩手のウマ娘を押し上げてくれると信じています!夢は叶う!』
デジタル達はスマホに映る映像に目が釘付けになっていた。4人は食事をしながら雑談し、話の流れで引退セレモニーの話題になっていた。
其々が引退会見の思い出を語るなか、いつの間にかデジタルの一押しウマ娘の引退会見の披露会となる。
今見ているのは盛岡レース場で行われたヒガシノコウテイの引退セレモニーだった。
最初は冷静に岩手のウマ娘や協会やファンの人々への感謝を述べていたが、途中から感極まって涙声になっていた。
その姿にレース場に訪れたファンの多くは涙し、最後はヒガシノコウテイの大合唱で終わるというエモーショナルな光景となっていた。
「うっ~、何度も見ても泣ける」
「そういえば現地で見てたんだっけ?」
「当たり前でしょ。涙でコウテイちゃんの姿が見えなかったし、声出し過ぎて喉が枯れた」
「あ~」
プレストンは思わず頷く。脳内では涙と鼻水で顔をクシャクシャにしながら声を張り上げて名前を叫ぶデジタルの姿がありありと浮かんでいた。
「でも感動的です。私はヒガシノコウテイさんをよく知りませんが、岩手への愛情が伝わります」
「観客と一緒に作り上げるエモーショナルな空間、実に素晴らしい!」
ドドウはうっすらと涙を流し、オペラオーは手を叩き称賛の言葉を送っていた。
「でもオペラオーちゃんとドトウちゃんの合同セレモニーも捨てがたいよね。オペラオーちゃんの『ボクがウマ娘界で最高のナンバー1なのは当然として、キミは最高のナンバー2だ!』とか尊死しそうだったし」
「あれは印象に残りましたね」
「私も嬉しくて思わず泣いちゃいました」
「あれは予定にないセリフで咄嗟に出た言葉だった」
「なおさら尊い~!」
デジタルは薄っすら涎を垂らしながら尊みを感じ、オペラオーとドトウはその様子を見て思わず微笑む。
「プレストンさんは確か香港で引退セレモニーしたんですよね。私達のセレモニーは見てくれたのに、私は行かなくてすみません」
「いえいえ、流石に香港に来てくれとは言えません」
ドトウは恐縮そうに謝り、プレストンも恐縮そうに答える。
プレストンはGIを4勝していたが、日本ではGIは1勝しかしていなかった。成績としては引退セレモニーをしても不思議では無かったが、多分無理だろうと僅かに期待を募らせていたが諦めていた。
そんな矢先に香港ウマ娘協会から香港で引退セレモニーをしないかと打診されていた。
「日本ではGI1勝ですから期待していませんでしたが、香港で実施するという誘いが来た時はビックリしましたよ」
「アタシも現地で見たけど、プレちゃんの人気には驚いたよ。ガチで日本所属で1番人気が有るんじゃないかってぐらい」
デジタルは当時の様子を振り返る。現地に着いてレース場に居る人の多さと熱気に驚いたのは、今でも思い出せる。
デジタルも当時のGI5勝ウマ娘やダートプライド勝者ではなく、プレストンのライバルとして認知されファンに囲まれていた。
「まあプレちゃんは香港大好きだからね。ベスト映画も香港のやつだし、いまやっている武術も香港で出来たんだっけ?それだけ好きならあっちのファンも好きになるでしょう」
「そうなんですね、それだったらオペラオーさんもプレストンさんの紹介で香港の映画に出たらどうですか?香港のアクション映画に出るオペラオーさんが見てみたいです」
「アクションか、悪くは無いね。ボクの華麗なアクションで観客達も魅了してあげよう!」
「アタシも見たい~。プレちゃん、コネの1つや2つを使って早くジャパニーズスーパースターテイエムオペラオーを売り込んで!」
「盛り上がっているところ悪いけど、映画関係にコネが無いから」
プレストンの言葉に3人は其々肩を落とす。その仕草にプレストンは僅かに罪悪感を抱いていた。
「そういえば、来年ぐらいに香港でプレちゃんの名前のレースが作られるんだっけ?確かエイシンプレストンハンデだっけ?」
「本当ですか!?」
「何だって!?」
デジタルの何気ない一言にオペラオーとドトウはプレストンに詰め寄る。
レースで自身の名前が冠されるのはウマ娘にとって最高の名誉の1つと言われている。
日本では3冠ウマ娘セントライトとシンザンの名を冠したシンザン記念とセントライト記念、副題では共同通信杯のトキノミノル記念がある。
「ちょっと待ってください、アタシのは通年でなくて1年限定です」
「それでも凄いですよ」
「正直羨ましいよ」
ドトウは素直に尊敬の眼差しを見せ、オペラオーは僅かに嫉妬の眼差しをプレストンに向けた。
「いやオペラオーさんだって、テイエムオペラオー記念ができますよ。年間無敗でシニア中長距離完全制覇の偉業はクラシック3冠に引けを取りませんって」
「そうだよ!プレちゃんだってあるんだから、テイエムオペラオー記念が出来ないわけが無い!」
デジタルはプレストンの言葉に乗じるように賛成する。だってという言葉が気がかりだがプレストンはグッと堪えた。
───
デジタル達が店を出た頃には日は落ちかけていた。気温も下がり店内との寒暖差に皆も思わず身をすぼめる。
「ずる~い、アタシも行きたい~」
「ダメダメ、一応は休学中でしょ、ファミレスに来ているのだってダメなのに、この後も遊んだら下手したら出走停止になるわよ」
「それはそうだけど」
デジタルはプレストンの言葉に渋々と納得し引き下がる。
プレストン達は折角集まったから、この後も何処かに遊びに行くつもりだった。デジタルも一緒に着いていこうとしたが止められていた。
「まあ引退したら、いくらでも遊べるんだから我慢する」
「言ったね。引退後はオールで遊ぶからね」
「分かったわよ」
デジタルは言質を取るように執拗に確認を取り、プレストンは渋々了承する。それを見て小さくガッツポーズした。
「じゃあねデジタル、有マ記念は絶対に見に行くから」
「有マ記念でまた会おう。デジタルらしいレースを期待している」
「さようならデジタルさん、あと気持ちは分かりますがトリップ走法は使わないでくださいね。無事に帰ってくるのも大事なことです」
デジタルは3人に手を振って別れを告げると学園に向かって歩き始める。
今日は久しぶりに4人でお喋りしたが実に楽しかった。そして心が楽になった気がした。
現役引退を告げたのはトレーナーと両親、彼らはレースの当事者ではない。そして3人はかつてレースを走った当事者だ、其々の苦悩や葛藤を聞いたことで共感でき、自分の苦悩や葛藤には共感してもらえた。
そしてまた一段と引退するという実感が増してきた。トレーナーは親しい者に引退すると伝えるのは礼儀と言っていたが、もう1つの意味が有ると実感していた。これは引退するという実感と覚悟を決める儀式だ。
デジタルが学園に着いた頃にはトレーニング場から感じる喧騒と熱気は薄れていた。
今頃トレーニングを終えたウマ娘達が寮に帰っている頃だろう。かつてトレーニング帰りに通った道を歩き寮に向かう。
デジタルは寮の玄関に入る前に浅く息を吸う。気分はしばらく休んだ学校に登校する時に感じる不安と罪悪感だ。
玄関に入ると自室に向かう。その間に何人かのウマ娘とすれ違ったがこれといった反応はなかった。
自分が別室で引き籠もっていたのは知られていないのか、まるで知られているのが当然と思っていた事に気恥ずかしさを覚える。
そして自室に扉の数メートル前で着くが思わず立ち止まる。扉越しからでもタップダンスシチーの殺気と呼べるようなヒリつく空気が伝わってくる。
部屋を出たのはジャパンカップ前だった。あの時でも凄かったが、有マ記念まで時間がある今のほうがプレッシャーを感じる。
「ただいま」
デジタルが部屋に入るとベッドで胡坐を組んでいたタップダンスシチーは視線を向ける。だが即座に視線を外し正面を見つめながら目を閉じる。
「部屋を出て行った時はゴメンね。タップダンスシチーちゃんにとってジャパンカップは特別なレースなのに、しょうもないって言っちゃって。あの時は色々と気が立っていて八つ当たりしちゃって」
デジタルは頭を下げて謝罪しながらタップダンスシチーの顔色を窺う。
部屋に入り顔を見た際にタップダンスシチーとの会話を思い出し、罪悪感に掻き立てられる。
人にとって大切なものは違う。そしてそれを否定されるのはどれだけ辛い事かも知っているつもりだった。それなのに平常心ではなかったといえ明確に否定してしまった。最低の行為である。
「こっちもしょうもないって言って悪かったな。それにアグネスデジタルの気遣いに甘えていたみたいだ」
タップダンスシチーは目を開けるとポツリと小さな声で謝る。
今思えばレースに近づくとデジタルが部屋にいる時間は少なくなっていた。それは気を遣ってくれたからだった。
共同生活をすればお互いどこかで引かなければならない。
それなのに落ち込んでいるデジタルが部屋に居て少し煩わしいから出ていけと一方的な要求を突き付けた。これでは子供と変わらない。
「じゃあ、お互い悪かったってことで」
「ああ、それで手打ちだ。あとアタシに気を遣って部屋を出る必要はないからな。あと居心地が悪いっていうなら、出来るだけリラックスするから」
「ありがとう。その気遣いは次に来るウマ娘ちゃんにしてあげて、もしかして繊細で怖がっちゃうかもしれないから」
「ここから出て行くのか?」
「ああ、伝え忘れてた。次の有マ記念で引退して学園から出て行く」
デジタルは問いにサラリと答え、タップダンスシチーは思わぬ言葉に僅かに目を見開いた。
「そうか」
タップダンスシチーは僅かに寂しそうに呟く。トゥインクルレースを走るのは勝つためであり、友達作りや思い出作りをするためではない。
誰が引退しても自分の人生には関係なく勝利に向かって邁進すべきだ。それでも感傷的な気持ちは拭えない。
自身はクラシックとは全く無縁だった。世代のウマ娘と交わる機会は無く、世代の意識もなく親近感も無かった。
数年間条件戦でくすぶり続け、重賞のレースに出走するようになってからは半分以上の同世代のウマ娘は引退か地方に移籍していた。
そのなかでデジタルは同世代で有り世代の象徴だった。何より同じ部屋で過ごしたルームメイトだ、この寂しさを持ち込みレースで花を持たせる事は天変地異が起きてもない。
いや持ち込まないように今のうちに悲しみ気持ちの整理をつけるべきだ。
「それでお願いなんだけど、有マ記念までは部屋で過ごしていい。限りなく空気になって過ごすから」
デジタルは手を合わせてタップダンスシチーに拝む。
「別に構わないけど、それでいいのか?アタシと居ると居心地が悪いんだろう?」
「全然、最後の思い出としてタップダンスシチーちゃんがレースに向けて集中力を研ぎ澄ましている殺気みたいなものを刻みたいなって」
「お前がそれでいいなら構わんが」
デジタルは了承を得て嬉しそうな仕草を見せ、その様子を見て思わず苦笑する。デジタルは殺気と言ったが好き好んで浴びるものではないだろう。本当に変わっている。
それから2人は思い思いに過ごす。タップダンスシチーはレースに向けて集中力を研ぎ澄まし、デジタルはレースに向けて情報を調べ高揚感を高めてく。その間は邪魔されることなく集中力を高められていた。
普段だと些細なことでも気になるのだが、存在感を全く感じなかった。空気になると言ったが大言でもなさそうだと感心していた。