12月に入ると寒さも一段と厳しくなり、多くの人は外で活動する際は厚手のコートを着て寒さに耐える。一方チームプレアデスのトレーナーは寒さに顧みることなくコースを走るウマ娘達を真剣な眼差しで見つめる。
「はぁはぁ」
アグネスデジタルはウッドチップコースを走る。ゴールまであと300メートル、前を走るチームメイトのウマ娘とは残り2バ身差、追いつくために差し切るために腿を上げ腕を振る。
ゴールに近づく度に心臓の鼓動が痛み体が軋む。トレーニングは決して楽ではなく、特にレース前のトレーニングはいつもキツイ。だが今回は過去の体験の中で最も厳しかった。
手を抜け、楽をしろ
脳内のデジタルが囁きかける。だがその弱い考えを即座に打ち消しさらにスピードを上げる。ゴールが迫るごとに前のウマ娘との着差が縮まり、最後はクビ差ほど差し切る。
デジタルはゴール板を通過してから数歩で思わず片膝をつく。こめかみや頬から汗がしたたり落ちウッドチップを濡らす。その発汗量はまるで炎天下で長時間走り続けたようだった。
だが今は12月でそこまでの汗は出ない。それだけのトレーニングをこなした証拠でもある。
「デジタル!何休んどんのや!さっさとともう1本行ってこい!」
コース外で見ていたトレーナーから檄が飛ぶ。その非情な檄に他のトレーナーや他のチームのウマ娘達も思わず顔を顰める。傍から見ても相当に追い込んでいる。これではパンクしてもおかしくない。
一方デジタルは気合いを入れるように太腿を何度も叩きスタート地点に向かって行く。
「アグネスデジタルさん、これ」
先ほど抜かれたウマ娘がデジタルの元に向かい渡す。デジタルは礼を言ってからそれを手に取り口に着ける
「マジでオニですね」
チームメイトは思わずトレーナーに非難の視線を向ける。ここ最近のデジタルのトレーニングメニューはそうだが態度も厳しすぎる。
その様子は昔に見た高校野球の名門チームの監督のようで、当時はあまりの厳しさに慄いたのは覚えている。
「トレーナーがあそこまで体育会系とは思っても無かったですよ」。
「しょうがないよ、こうしないとダメだし、何よりアタシが望んだことだから、自己責任ってやつ」
「チームみんなでサポートします。だからアグネスデジタルさんは頑張ってください」
「ありがとう、皆が励ましてくれれば頑張れる。元気100倍だよ」
デジタルは力こぶを作りチームメイトに元気さをアピールする。
トレーナーに有マ記念を最後に引退すると伝えた翌日、デジタルはチームメイト達の前に姿を現した。チームメイト達もメイショウボーラーとの模擬レースで狼狽した一連の流れを知っていた。そしてトレーナーから一旦休学してトレセン学園から離れ、戻ってきたら引き籠っているのも噂で聞いていた。
今のデジタルは不登校の生徒が復帰したようなもので、正直に言えばどう接すればいいのか分からなかった。戸惑っているチームメイトを尻目には語り始める。
自らの起こった出来事と当時の心境、己が下した決断、話せる限りの出来事を赤裸々に語った。最初は突然の引退の報せにチームメイト達は大いに動揺したが、次第に固唾を飲んで話を聞く。
決して話は上手くない、だがその心境が伝わり、完全に理解出来ないまでも、選手として共感できる部分が多々あった。そして皆は引退を受け入れていた。
「それでアタシは有マ記念で引退する。そこで皆にお願があります。これからは目的を達成するために体をイジメ抜く。そのトレーニングは厳しくて何度も弱音を吐いたり止めたいと思う。だからアタシを応援して手伝ってください、皆も其々の目標や予定があってアタシに割く時間が無いのは分かっている。でも頑張っての一言でいい、少しでも気にかけてくるだけでもいい。それがアタシの力になって、やり遂げられるから」
デジタルは深々と頭を下げる。次善を勝ち取るためには何一つ後悔はしたくない、やれることは全て実行する。
衰えを受け入れられるまでの期間、そこでいかに弱いかを思い知らされた。
そんな自分が衰えという強敵の前に目的を達成できるか?率直に言うと自信は無い。ならば弱い者が目的を達成する為に必要な方法は1つ、他の者に助けてもらうことだ。
一方チームメイト達も深々と頭を下げるデジタルの姿を見つめる。
GI6勝ウマ娘にして、数々の名勝負を繰り広げ勝利してきた名選手である。大半のチームメイトにとっては雲の上のウマ娘だ。多くの人はどんな素晴らしい人かと想像するが、接する時間や機会が増えるごとに気づく。
デジタルは我儘で欲望に忠実で、そして多くの弱さや脆さを持っているウマ娘であると。そのウマ娘が弱さをさらけ出し助力を請うた。GI6勝ウマ娘として条件戦のウマ娘に助力を請うのは少なからずプライドが傷つくだろう。
だが全く気にせず頭を下げる。それは謙虚ではなく、己の目的の為を達成するという貪欲さ、その貪欲さに感銘を受けていた。
何よりチームメイトの言葉が大きな力になると心の底から信じ頼っている。その信頼に応えなければチームメイトが廃る。
「あと5回!頑張ってください!」
「出来れば本番で感じる時間が増えますよ!」
「ほら、目の前に有マに出るウマ娘が居ますよ!こんなのも出来ないかとガッカリしてます!」
デジタルはコースでのトレーニングが終わるとジムに向かいウェイトトレーニングをする。そこでもトレーナーが作成したハードトレーニングが課せられ、何度も心を挫けかけさせる。そしてその心を支えたのはチームメイト達の言葉だった。
それぞれがメニューを終わらせインターバルに入る、その僅かな時間で励ましの言葉を送っていた。
「待ってね!ウマ娘ちゃん達!」
デジタルは叫びながら最後の1回をやりとげる。それを見たチームメイト達から歓声が上がり、賛辞の言葉が送られていた。
「お疲れ様でした。また明日」
「また明日」
デジタルはチームメイト達に別れの挨拶をしてチームルームに向かいながら体の調子を確かめる。
トレーナーは地獄を見せると言っていたが、この調子でいけば本当に地獄を見そうだ。だがそれは覚悟の上で必要性を理解している。
プレストンの家で暮らしている時には祈りや善行に時間を割いたことでトレーニング時間が減っていた。さらに寮に帰っての数日間は引き籠っていた。
これが日常生活を送る程度なら全く問題ない。だが次のレースはGIだ、このトレーニング不足は大きく、それを補うには今まで以上にトレーニング強度を上げ急ピッチで身体を仕上げなければならない。
さらに引きこもり生活で極端に食事の摂取量が減り体重を落としてしまった。ハードトレーニングに耐えさらに体重を増やすために、より多くの食事を摂らなければならない。それが地味にきつかった。
もう少し早く受け入れたらここまで無理しなくても済んだ、思わず自嘲的な笑みを浮かべるが即座に思考を切り替える。
あれは衰えを受け入れる為に必要な期間だった、そんな仮定をする暇があったら、万全な状態になるために思考を費やすべきだ。
そして衰えで悩んでいる期間を経てある心境の変化が訪れる。衰えによってウマ娘が感じられなくなる事は死と同意義に近かった。謂わば1度死んだようなものだ。
選手生活を振り返りああすれば良かった、こうすれば良かったと様々な後悔を思い出す。だからこそ今後はよく考え後悔が無いようにしようと思うようになった。
人は必ず死ぬ。そして死は時に唐突に理不尽に訪れる。その事実は知識としては知っていた。だが急激な衰えという実体験を経て心の底から実感した。
苦境に訪れた際デジタルは考える。それで本当に後悔しないのか?明日突然終わりが来ても納得できるのか?その思考は体を突き動かす最後の一押しとなり、レースでウマ娘を感じる為の大きな武器となる。
「あ~きく~」
チームルーム内中央、デジタルは簡易的に設置された診察台にうつ伏せになりながら弛緩した声を出す。脹脛、腿、腰、背中、様々な場所に針が刺さっていた。
トレーナーはデジタルにハードトレーニングを課していた。それだけに体のケアにも最大限気を遣い、チームのお抱えのスポーツ整体師や鍼灸師を呼び、トレーニング後に施術してもらっていた。
「デジタル調子はどうや?少しでも違和感が有ったら言ってくれ、感じる為に追い込んでも怪我をしたら意味がない。まずはベストな状態でレースを出ることが大前提や。レースに出走さえ出来ればチャンスはある」
「分かってるって」
トレーナーはその様子を注意深く見つめながら問いかける。もしかして怪我を隠し出走するかもしれない。それを防ぐ為に声の抑揚や強弱などの微かなサインにも神経を張り巡らせる。
「白ちゃん、今のアタシは絶好調だよ。なんたって毎日が楽しいからね」
「そんなに楽しいんか?」
「うん、いつもの授業も、いつもの昼休みと昼食も、いつものトレーニングも何か楽しいんだよね。1日も無駄にできないと思うと、寂しさじゃなくて楽しさの方が大きいんだよね」
デジタルは声を弾ませながら語る。有マ記念を最後に引退する。それは学園を去ることでもある。
予想ではタイムリミットが設けられたことによって寂しさが大きくなると思っていた。だがタイムリミットがあるからこそ有意義に過ごそうと気を配るようになる。
授業の1つでも真面目にノートをとるウマ娘、眠気に耐えようと舟をこぐウマ娘、眠気と戦うのを放棄し机に突っ伏すウマ娘、授業そっちのけで別の作業をするウマ娘、それらが尊く愛しいと思っていた。
それは授業だけではなく、学園内での出来事の全てが尊く愛おしいと思い、それが楽しさに繋がっていた。
「改めて日々を漫然と過ごしてたんだなって気づかされたよ。この気持ちが有ればもっと楽しめたかもしれないのに」
「それに気づけただけで大したもんや。俺も意識を改めないとな」
「そうだよ。明日突然トレーナーの仕事ができなくなるかもしれないんだから」
「そうやな」
「何笑ってんの。結構良い事言ったつもりなんだけど」
トレーナーは半笑いを浮かべながら返事する。弟子は師匠を育てるという言葉があるが、まさかデジタルから教わるとは夢にも思わなかった。
急激な衰えによって選手生命が絶たれる。それは疑似的な死だ、そして死を体験したことで、よりよく生きようと思うようになった。それは1人のウマ娘として大きく成長させるだろう。いつもより少しだけ大人びて見えていた。
───
トレーナーはこめかみを人差し指でトントンと叩きながらPCの画面を見つめる。
デジタルには相当無茶なトレーニングを課しているがよくこなしている。その成果もあって衰えは想定より緩やかになっている。だが有マ記念でウマ娘達を感じられるレースが出来ると言われると非常に厳しい。GIレベルだと力が足りない。
デジタルがレースでウマ娘を感じるためにはある程度近づく必要があり、本人が言うには10バ身差以上離されると感じるのが難しくなるそうだ。
天皇賞秋ではシンボリクリスエスに2秒半差をつけられた。単純計算でいけば17バ身体差、有マ記念という不利な条件を考えればさらに差をつけられてもおかしくない。
ならば感じられる距離を延ばすか?ウマ娘断ちでは感覚が鋭敏になり、5バ身差以上離れた距離でも詳細に感じられたと言っていた。これならば物理的に距離を離されても問題ない。
しかしその案は即座に却下する。ウマ娘断ちをするとなれば学園から離れなければならない。今日々の生活を懸命に楽しんでいる。その日々を奪いたくない。
他に可能性が有るとすればスローペースのよーいドンになり着差がつきにくい展開、だがタップダンスシチーが居る限りスローペースにはならないだろう。
それか相手の実力を出さないようにして実力差を埋める。だがそんな方法が有っても絶対に望まない。望むのは全力を出し尽くしたウマ娘を感じることだ。
トレーナーは願いを達成する方法を模索するが、これといったアイディアが思い浮かばず気が付けば0時を回っていた。
今日は寝て明日考えるか、PCの電源を消そうとした瞬間にあるアイディアが思い浮かぶ。これだったら願いを達成できる。だが同時に多くの苦難を強いらせることになる。
──
「白ちゃん話って何?」
翌日、デジタルはトレーナーに呼び出されトレーナー室に向かっていた。部屋に入ると辛気臭い顔を浮かべているトレーナーが居た。その姿を見て嫌な話かと思わず身構える。
「話って悪い話?」
「ある意味な、それで話は有マ記念についてやが」
トレーナーは昨晩思いついたアイディアをデジタルに伝える。これはある意味奇策や邪道と呼ばれる方法だ。これを拒否されるとなると厳しくなる。だが了承しろと強引に言い寄ることもできない。それだけ痛みや不名誉を強いる方法だった。
「へえ~、そういう考えがあったか。白ちゃん頭いいね」
「デジタルはそれでええんか?」
トレーナーは感心しているデジタルに思わず問いかける。その反応は予想外だった。
「だって、それがアタシの願いを1番叶えられるんでしょ。だったらそれに従うよ」
デジタルは屈託のない目でトレーナーを見つめる。過去には色々とイザコザは有ったが今はその手腕には全幅の信頼を置いている。であれば疑念を抱かず実行するのみ、それが最も願いを叶える確率が高い。
「ありがとう」
トレーナーは静かに頭を下げる。引退レースという重要なレースに弟子が全幅の信頼を寄せて全てを委ねてくれた。トレーナー冥利に尽きる。
あとはデジタルの要望を最大限叶えるポイントを見極めて有終の美を飾らせる。その胸の中では情熱がさらに燃え上がっていた