「――暁美さん?」
マミの声に、ほむらの心は思考の海から現実へと意識を引っ張り戻された。
つい一瞬前まで脳裏を満たしていた忌々しい記憶を、強引に振り払い、小さく「なんでもないわ」と呟く。
――呉キリカと、美国織莉子。
彼女らの出現は気まぐれで、数え切れぬ程の周回のなかでも、実際に遭遇したのは片手で数えられる程度でしか無い。しかし、そんな彼女らが現れた時はいつも、ほむらにとって最悪の結末が決まってもたらされたのだ。なぜなら彼女らの行動の目的は決まって、『鹿目まどかの殺害』であったのだから。
「巴マミ。呉キリカ、美国織莉子。この二人の名前に覚えは?」
「?」
マミは首をかしげるばかりだった。
隠し事をしてるようにも見えないし、その理由も見当たらない。本当に知らないらしい。
「あら? あなた、あの片目の小さな狩人さんとご知り合い?」
「……」
ほむらが名前を出したので、アリアンナが気になったのか訊いてくる。マミも、隣で興味深そうな様子だ。
さて、何と答えたものか。あの忌々しい人殺しの片割れが、このヤーナムで何をやっているのかは知らないが、どうせろくなものであるまい。
「あの女は悪党よ。もしも次出会う機会があっても、絶対に信用してはだめ。必ず、策略があるはずだから」
「え?」
「暁美さん?」
努めて冷静に言おうと思ったにも関わらず、声には隠しようのない憎悪が載ってしまった。
いつも鉄面皮、声も静かで平坦と、まるで感情を窺わせないほむらが見せた、唐突な悪意。
アリアンナは戸惑い、マミはもっと戸惑っている。
しくじった――と思う。しかし、どうしてあの女たちを許すことができようか。
まどかを、鹿目まどかを殺した女たちのことなどを!
「とにかく! 今はオドン教会に向かうのが最優先よ。 あなたをそこまで送り届けるわ。だから、ゆめヨセフカの診療所に行こうだなんて、思わないことね。いったい、どんな罠が待っているか、知れたものじゃないわ」
強引に話を打ち切って、ほむらは来た道を戻り始める。
アリアンナは戸惑いながらも、その背中に従い、最後にマミが殿となって歩き始め――ようとした。
『――つくづくバカな女だ。股だけでなく、脳みそまで緩いと見える』
唐突に、三人の背後からしわがれた声が響いてきた。
独特の訛りのある、男の声である。そこに込められたあからさまな嘲りに、まずマミが眉をしかめながら振り返り、アリアンナがやや慣れた様子で続き、最後にほむらが何事かと駆け戻ってくる。
声の源は、獣避けの香の匂い立つ、赤いランタンを下げた、鉄格子の窓からだった。
『よそ者の言葉を信じるなんてな。そういうやつは、決まって悪意の塊さ』
偏屈さが滲み出る声だった。
マミの顔はどんどん険しくなり、アリアンナは溜息を吐き、ほむらは何事かと静かに推移を見守る。
『お前ら。よそ者だろう。よそ者が獣狩りなど、どうせ碌なことじゃあるまい。そんな連中の言葉を信じるなど、股開きは、どこまでも股開きと見える』
「ちょっと! あなた!」
アリアンナより先に、怒り出したのはマミだった。
窓の、鉄格子のむこうの老人に、頭に湯気を立てながら食って掛かる。
「なんなんですか、その言い方は! 謝ってください!」
『事実を言ってなにが悪い。なんだ、嘘がばれるのが怖いのか? そうだろう、そうだろう。よそ者とて、知恵者を知恵者と知ることだけは、褒めてやるぞ』
しかしマミの怒りなど何処吹く風、顔も見えぬ老人は、これは愉快と哄笑をあげるばかりだ。
アリアンナは頬を膨らませるマミに、もういいわと制止をかけようとするのだが――それより先に、怒りに震える肩に手をかけたのは、ほむらだった。
「巴マミ、気にすることはないわ。
『……何だと?』
ほむらが吐き捨てるように放った言葉に、老人の声の調子が変わる。
あからさまな怒りが、そこには籠もっている。
『お前……俺を馬鹿にするのか』
「馬鹿を馬鹿と言ってなにが悪いのかしら」
『なんだと!?』
ほむらの辛辣な言葉に、老人は声を荒らげる。
眼鏡を投げ捨て、迷いを振るい払ってから、ほむらの心は氷のように凍てついていたのだが、この時は珍しく、苛立ちを隠すこともなく言葉には毒を盛る。呉キリカという忌まわしい存在が、珍しく彼女の感情を波立てていたからだろう。苛立ちの腹いせのように、偏屈な老人に思ったままの皮肉を叩きつける。
「今夜は普通じゃないわ。にも関わらず、そうやって部屋のなかに怯え縮こまって、黙って獣に喰われるのを待っているのが、愚かでなくてなんなのかしら。例え多少危険を冒してでも、より安全な場所へと逃れようとするのが、本当の知恵者のなすべきことよ」
『……』
ほむらの歯に衣着せぬ物言いには、老人すら言葉を無くし、マミは戸惑い、アリアンナは居心地が悪そうだった。
言うだけ言って気が済んだのか、プイとほむらは踵を返して、スタスタと歩き始めてしまった。マミはおろおろと慌てて窓とほむらの背とを何度も交互に見返し、アリアンナはひとまずほむらに続こうとゆっくりと歩き始めていた。
『待て!』
「……何かしら?」
老人が大声で呼び止めるのに、ほむらは不機嫌さを隠すこともなく、しかし律儀に返事して振り返った。
『……お前のような卑怯なよそ者が、どんな嘘をその
ほむらは、再度吐き捨てるような、取り付く島もない調子で答えた。
「さぁ? ヨセフカの診療所にでも、オドン教会にでも、好きな方に行けばいいじゃない。 賢んでしょ? ならどっちが良いかは、自分で考えることね」
言うだけ言うと、今度こそほむらは老人のことを一顧だにせず、ずんずんと早歩きにオドン教会へと向かう。
そのほむらの決断的な有様に、マミも従わざるを得ず、アリアンナも一度窓をほうを振り返りつつも、ほむらとマミノ二人に従い進んだ。
――ほむらは知らない。
彼女の、突き放した態度が、却って一人の老人の命を救ったなどとと。
三人は、さしたる障害もなくオドン教会へと辿り着いた。
杏子も、今度は。
「……えらい早かったな、おい」
――などという皮肉を、杏子も今度ばかりは吐くことはなかった。
新たなる教会の住人の出現に、盲人が快哉をあげたからである。
アリアンナは春を売るのが稼業だけに、不気味な盲人にも極々普通に挨拶を交わし、彼を喜ばせた。
「おお、狩人さん! ……あの人は、俺なんかに、話しかけてくれたんだ。いや、そりゃあ、ほんの少しだけどさ……でも、女の人だぜ? 優しいんだ」
杏子は彼のことを警戒していたし、ほむら自身も懐疑の眼で見ていたが、こうした反応を見るに、謀略や策略などなど、単なる善良な人間としか思えなくなる。
しかし――魔法少女、否、今や狩人と化した少女よ、畏れ給え。かつてあのインキュベーターは、ヌイグルミのような愛らしい姿で少女たちを騙した。ゆめ、油断は禁物である。ほむらは自戒する。
「それじゃ、任せたわよ」
「お願いね、佐倉さん」
「へいへい。せいぜい、任されてやるよ」
杏子にアリアンナを預けるや否や、ほむら達は即座に出立しようとした。
神父姿の少女狩人が見送る後ろで、白いリボンの少女が色々と問いかけるのに、アリアンナが困った顔を見せるのを流し目に見ながら、二人はオドン教会を後にする――つもりであった。
「……?」
「あれは……」
ほむらとマミは、オドン教会に二つ開いた出口、その左側に、朧な人影を見た。
人影はすぐに具体的な姿を結び、その正体を二人の前にさらけだす。
「どうだ、嘘吐きのよそ者め。俺は騙されなかったぞ!」
いかにも見た目に偏屈さが現れている老人は、その声から、例の窓の向こう側の人物としれた。
二人共驚いていたが、特にほむらは唖然としていた。
正直、彼女はしくじったと思っていた。
感情に任せて喋ったばかりに、全てを台無しにしたと思っていた。
――しかし、偏屈な老人には、偏屈な言い方こそが有効である。
まこと、失敗は成功の母である。
来た道を戻り、また進む。
道中の獣は狩り尽くし、今度は狩人が二人連れであるから、すんなりとアリアンナ達と出会った場所まで辿り着くことができた。
暗く、湿った隘路を通り、ほむらとマミはさらに奥へと進む。
途中、段差の上から狙撃を受けたり、獣と化した群衆達に襲われたりもしたが、これも難なく退ける。
梯子を昇り、塔の上に出て、梯子を下り、 屋根の上を歩き、さらに梯子を下る。
狂った犬をほむらが始末している間に、訳のわからない呻きを上げながら襲い来る大男達をマミが斃す。
段差の上からくる更なる、二人には未知の銃の攻撃――それは、二発同時に降り注いだ――に、恐ろしげな大鎌を持った大男の襲撃……さらにそこに巨人の攻撃も加わる。
しかしこれらも、二人共血まみれになりながら凌ぎ、切り裂き、削り切り、内臓を抉る。
ほむらとマミは階段を昇り、獣を屠り、遂に頂上まで至った。
――大聖堂である。
遂に、目指していた場所までやって来たのだ。
装飾も鮮やかな、大聖堂に相応しい門扉が二人を出迎える。
「……」
「……」
少女狩人達は、顔を見合わせた。
重く巨大な扉を、力合わせて押し開く。
幸い、鍵はかかっておらず、狩人の力なれば、容易く開いた。
――聖血を得よ。祝福を望み、よく祈るのなら
さらなる階段が、二人を待ち受ける。
その両隣には、槍のような、鋭い角のような、先の尖った螺旋を抱える、奇怪な像が連なっている。
――拝領は与えられん 拝領は与えられん
薄暗く、不気味な段差の向こうからは、何やら祈りの声が響いてくる。
どうも、女の声であるらしい。
――密かなる聖血が、血の渇きだけが我らを満たし、また我らを鎮める
囁くようなその調子には、熱意はあっても狂気は感じない。
ほむらのなかで、俄然期待が昂まる。獣たちのとの死闘を経て、ここまで来た甲斐はあった。
この声の主、医療教会の大聖堂の長ならば、ほむらの探し求める『青ざめた血』についても、何かを知っているに違いない。
――聖血を得よ。だが、人々は注意せよ。君たちは弱く、また幼い
ほむらを先にし、マミが続く形で階段を昇る。
念のためにと、ほむらはノコギリ槍を、マミは長銃をそれぞれ構える。
――冒涜の獣は蜜を囁き、深みから誘うだろう
階段を昇りきると、巨大な長方形の広間に出た。
左右に円柱が立ち並び、いかにも大聖堂という趣だ。
――だから、人々は注意せよ。君たちは弱く、また幼い
最奥には、豪奢な祭壇があった。
巨大で、金色であり、意匠の精巧さが距離を置いても明らかだ。
何かを求めるかのように天に両手を差し出す像達が祭壇の左右に配置され、直上には何故か首のない、壺を両手で抱え、求める人々に向けて何かを滴らせている巨像があった。
祭壇の真ん中には、何かが安置されている。それはほむら達の距離からはよく見えない。
――恐れをなくせば、誰一人、君を嘆くことはない
祭壇の前に跪く、一つの人影がある。
白い、修道士のような衣服を身にまとい、頭までもローブで覆っている。
声の主は、彼女であった。ほむらは歩み寄り、声をかけようとした。
しかし、それは叶わないことだった。
――絶叫。
「!?」
「!?」
ほむらも、マミすらもが不意の叫びに驚き、動きを止める。
白いローブの女性は喉から血が迸るかと思うほどの叫びをあげ、その体を仰け反らせる。
苦しげに、藻掻く体は瞬く間に膨れ上がり、遂には白布を突き破って、血を撒き散らした。
祭壇の首のない巨像に、絵の具のように流血が浴びせられる。
女性の姿は、ものの数秒の内に、全く変貌した。
全身は白く長い毛で覆われ、頭には鹿のような角が生え、手には黒く鋭い爪が伸びる。
膨れ上がった肉体は、あの大橋の巨獣を凌ぐほどの巨大さに至っていた。
巨獣が、振り返る。
長く伸びた口と鼻は、犬か鹿を思わせるシルエットを作っている。
その両眼は、白い布に覆われて見えない。
口には、牙がびっしりと生え揃っていた。
――咆哮。
これを聞いてほむらもマミも覚悟を決めた。
あの女性は完全に獣と化してしまった。それも巨大で、あからさまに凶暴だ。
ここで、斃すしか手はない!
――『教区長エミーリア』
かつてそう呼ばれた、より恐ろしい聖職者の獣は、ほむらとマミへと襲いかかってきた!