――マミの目覚めは唐突に訪れた。
「!?」
聞こえるのは、風にそよぐ草葉のざわめき。
眼に映るのは、鬱蒼とした木々と、その下に蟠った闇、闇、闇。
居るものの感覚を乱す、迷路のような入り組んだ森。
今や見慣れた、怖気催す風景。
――『禁域の森』
その名で呼ばれる、蛇たちの棲家。マミが、このヤーナムで最初に目覚めた場所。
「なんで? 私、死んで……」
自分は、ついほんの数秒前まで、聖堂街の大聖堂のなかにいた筈だった。
ほむらと共に、医療教会の聖職者より変じた巨獣と戦っていた筈なのだ。
想起すれば覚えているのは、視界を覆い尽くす鋭い牙の数々。
巨獣の顎門は閉ざされ、全部真っ暗になり、首筋に――。
「ッッッ!?」
首元に巻かれたスカーフをマミは慌てながら解き、何度も何度も皮膚に触れ、傷がないかを確かめる。
手袋越しの感触は曖昧で、それらも慌てて外すと、改めて幾度となく首に触れ、触り、擦った。
奇妙なことに、掠り傷ひとつない。これまですべてのできごとが、まるで悪夢であったかのように。
「本当に――全て長い夜の悪夢だったとでも、いうのかしら」
巴マミは呆然とし、異常な状態に心臓が恐ろしく速く鳴り響くのを感じていた。
現実感が消え失せ、慄然たる感覚だけが、冷たく背骨を走り抜けた。
ああ、かつての同士たるヘンリックを手に掛けた哀しみも、ほむらや杏子との再会の喜びも、全て幻だった――とでもいうのだろうか。そうは思えない。そうは思えないがしかし、この現状故に、そんな発想が脳裏を過る。
考えれば考える程、意識は思考の泥濘へと沈み込んでいく。
嫌な想定が脳裏を満たし、質量を増していく。
呼気も激しくなり、いよいよ目の前が見えなくなる。
――しかし、この森は危険に満ちた場所でもある。ただ呆けているわけには、いかないのだ。
今、目の前に確かにある現実を前に、まずマミは手袋を嵌め直す。
続けて地面に転がっていたトップハットを拾い、被り直しながら乱れた装いを糺そうとした。
いつもの格好を取り戻すことで、精神の平衡を取り戻そうとしたのだ。巴マミらしい、様式美である。
狩装束のコートが埃にまみれているのを、露払いをするように払い落とす。――そして、気がついた。
「……?」
マミは狩装束のポケットのなかに、何かが入っている感触を得た。
「!……これは」
掌を突っ込み、取り出してみれば、出てきたのは小さな布製の印であった。
「『狩長の印』……」
間違いない。それは確かに、狩長の印である。。
ほむらと二人で聖堂街で見つけ、確かに大聖堂の円形広場に至る、正門を開く鍵となったものだった。
使い終えてポケットに入れっぱなしにしていたが、その実在こそが、この上ない現実感をマミへと取り戻させる。
嗚呼、やはり幻などではなかったのだ。
「でもじゃあ、なんで……」
確かに、あれは致命傷だった。
首に感じた牙の感触を思い出し、肩を震わせると同時に、疑問を膨らませる。
手は無意識にまた、首元へとのび、何度もそこを擦っていた。
「もしかして……」
マミは今は見えぬ、首に刻まれていた謎めいた紋章のことを思った。
普段はスカーフで覆われて見えることもないが、今はあらわになっていることだろう。
かつて水面に映った影に見た、首の半ばに浮かぶ血のような赤い色の、奇妙な紋章。先端を向け合う二つの三叉の間に、両者から串刺しにされるようにして目玉が置かれている、とでも言えばよいのだろうか。とかく、形容し難い奇妙極まりない図形なのは間違いがない。
――『お嬢ちゃんも余所者……それも、月の香の狩人なんだろう。ほむらと、おんなじね』
――『夢見るは一夜……せいぜい、貴重に使うことだよ。人形ちゃんによろしくね』
かつて烏羽の狩人狩りが言っていた言葉が、マミの脳裏で反芻される。
「……」
マミは首の印の辺りを何度も撫でると、スカーフを巻き直し、金の鎖で外れないように留めた。
今ここで、独りで考えて何になるだろう。どのみち、今は答えなど見つかる見込みなどない。だとすればまず第一に為すべきは、聖堂街が大聖堂へと舞い戻り、ほむらを助けることだ。
(でも――)
マミの最大の懸念は、大聖堂までの道程のことだった。
彼女がヤーナム市街へとこの森から向かうのに使った道筋は酷く遠回りで、大勢の獣を相手取らねばならない。しかし今は、そんなことをしている時間はどこにも――。
「!」
黙考しつつ視界を巡らせるマミは、ふと見えた奇妙なモノに心を惹かれた。
苔むし草生えた地面から、立木のように伸びる先にランタンを吊るした鉤棒。
あんなもの、前からあったろうか。マミにはまるで見覚えがない。
「……」
予感めいた衝動に突き動かされ、マミが手を翳す。
すると、ランタンが灯り、紫の光を辺りに放ち始める。さらに手を翳せば、意識が遠のき始める。
体が薄くなり、希薄化し、陽炎のように消え失せる。
まるで眠りに落ちるように、意識は途絶え――……。
――『狩人の夢』
「ここは!?」
「あなたも来たのね、巴マミ」
地面から湧き出るように、まるで拡散していた粒子が集まって実体を形成するように、前触れもなく青白い光と共に出現したマミの姿に、ほむらは無感動に呼びかけた。
巨獣に殺され、大橋に目覚めたほむらは、マミよりも幾分か情報を得ていたためか、然程驚きもなく現状を受け入れていた。そもそもほむらは今まで幾度となく、鹿目まどかを救うために
「暁美さん!?」
「ようこそ、狩人の夢へ。巴マミ」
大橋から大聖堂へと戻ろうと、歩き出した直後に、ほむらは気がついたのだ。
オドン教会に至った時、今後の方針を三人で決める傍らで、ほむらはあの場所にもあった灯りを灯していたのだ。灯りから狩人は夢へと飛ぶことができる。ならば狩人の夢を経由することで、灯りと灯りの間を、ちょうどテレポーテーションでもするかのように、空間を超えて移動できるのではないか――ほむらはそう考え、灯りに手を翳し、夢へと跳んだ。そこにマミもまたやってきたという訳なのだ。
「ここは……一体?」
ほむら自身が初めてこの場所を訪れた時と同様に、マミもまた茫然として辺り一帯を見渡している。
そんなマミに対しほむらは、相変わらずの突き放した調子で言い放つのだ。
「ここは狩人の夢よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」
「……夢?」
当然と言えば当然だが、マミはほむらの説明では何も理解できていない様子だった。
しかし、ほむらはそれを意に介さない。この場所が何なのか。それをマミに告げる役目は、自分ではない。
「そうとも、ここが狩人の夢。ただ一時とて、ここが君たちの『家』となる」
そしてほむらの予期した通り、亡霊のような唐突さで、助言者は姿を現した。
マミは電撃でも受けたかのような素早さで、ほむらは悠然と、声の主へと振り返る。
「ようこそ、新しい狩人。それにしても、二人同時に新たな狩人がこの夢に集うなど、今まではなかったことだ」
人形に車椅子を押された、隻脚の老人、ゲールマンの姿がそこにはあった。
一通り、ほむらにもしたのと同じような説明をゲールマンはマミへと告げた。
「……」
マミは新たに知らされた情報の数々に戸惑い、それらをまだ消化しきれていない様子だった。
なのでほむらは、マミが独り思考に沈んでいる間に、ゲールマンと人形に、新たな問いを発していた。
「少し、いいかしら」
「なにかね?」
ゲールマンが、相変わらず何を考えているか解らない、曖昧な表情でほむらを見つめている。人形は、人形だけに表情を一切動かすこと無く、無機質な瞳をほむらに向けたまま、小さく可愛らしく首を傾げた。
「血によって、狩人は肉体を変質させる。そして、その人形がそれをなす……そういう話だったわね」
「おっしゃる通りです、狩人様」
ほむらの問いに答えたのは、人形のほうであった。
「私が血の遺志を、普く遺志を、あなたの力といたしましょう」
「それは今、この場で可能なことかしら?」
ほむらがこう問うたのは、大聖堂の巨獣がためである。
あの巨獣の力、特にあの回復能力は凄まじく、現状では挑むのには力が足りない感触をほむらは抱いていたのだ。あるいは、オドン教会の杏子を加えて三人で仕掛ければ斃せるかもしれないが、彼女にはあの場を守ってもらわねばならない。ほむらとマミ、二人であの巨獣を斃すには、新たなる力を得る他ない――ほむらは、そう確信していた。
「ええ、狩人様」
人形は肯定し、続けて言った。
「
「!?」
「!?」
そして、続けて出てきたこの言葉には、ほむらはおろかマミまでもが驚いた。
――ソウルジェム。なんと忌まわしき響きか。その単語を、ヤーナムの街にて聞くことになるとは。
「待ちたまえよ」
ほむらが、マミが、半ば反射的に各々の得物を構えたのに対し、ゲールマンは静かに制した。
「君らが殺気立つのも解らなくはないが、
「……知っているの? ソウルジェムのことを」
ゲールマンは頷いた。
「もとより、ヤーナムの街は夢と現実の境目が曖昧なばかりか、次元と次元の境目すら曖昧な土地。使者を通じ、鐘の音を通じ、異なる次元の狩人達が集う場所。だとすればソウルジェムを知っていたとして、何もおかしなことはない」
事実、今、自分たちが居る場所は『夢の中』なのである。
ほむらは、考えるのを放棄した。
条理の通じぬのがヤーナムだ。論理的に考えても、疲弊するばかりで益はない。
「ソウルジェムを出したまえ」
ほむらはゲールマンの言葉に素直に従った。それを受けてマミも、戸惑いながらもソウルジェムを取り出す。
「これは……」
「ソウルジェムが!?」
ほむらの記憶が正しければ、このヤーナムに目覚めて以来、この忌まわしい魂の宝卵は全く輝きを失って、黒ずんだ紫を見せているに過ぎなかった筈だ。それがどうだ。今や、血のような赤みを帯びた紫色に、光輝ているではないか。
マミの掌の上にあるソウルジェムも、やはり赤味がかった黄色に煌々と輝いていた。
「本来、血の遺志とは狩人の体に宿るもの。しかし、ソウルジェムとは魂の器……ならば、その内側に遺志が宿るのも、道理ではないかね」
だとすれば、この赤色の正体は、屠ってきた獣達――というよりも、そうなる前の人間たちの血の遺志の色だとでもいうのだろうか。
「現実に死し、夢に蘇る代償に、血の遺志はその
ゲールマンが視線で促せば、人形は車椅子のハンドルを手放し、ほむら、そしてマミのほうへと歩み寄った。
「では遺志をあなたの力としましょう。少し近づきます。目を閉じていてくださいね」
ほむらは、人形のほうへ輝くソウルジェムを差し出した。
人形がその固い指をソウルジェムに添えれば、青白い光が溢れ出し、ほむらと人形とを染める。
ほむらは瞼を閉ざし、念じた。
死者に、敬意と感謝あれ。
なればこそ、その力を、我が身に宿し給え。
――果たして、その通りになった。
ほむらは、体内に何か得体の知れないものが流れ込むのを感じた。
ちょうど、はじめてキュウべぇと契約し、魔法少女となった時のような、そんな感触。
奇妙な高揚感、浮遊感。同時に、血を受けて盾が、音を立てて動き出す。
――『廻る砂時計の盾』
時の砂時計は、再びその砂の流れを進め始めたのだ。