ほむらはバックステップして、黒い獣の最初の攻撃を逃れた。しかし獣の動きは素早く、すぐさま追撃の横薙ぎが飛んでくる。
さらに背後へと跳びながら、適当な手術台を倒して足止めに使う。獣の鋭い爪で薙ぎ払われれば、手術台はたちまち紙くずのようにバラバラになるが、それでも退く時間は稼げた。
「……」
自身の右手をみれば、白いワイシャツには裂け目ができて、薄く血が滲み始めている。
幸いなことに、身体能力は魔法少女のそれに遜色はない。素早いステップを特に意識することもなく繰り出すことができていた。本来の、病弱なほむらの力では最初の一撃も避けられずに獣の新しい餌になっていた筈だ。
それでもなお、負傷は免れ得なかったのは、黒い獣の動きがひどく素早い為だった。
(使い魔にしては……強い)
彼我の距離が開いた今、黒い獣は左右に動きながらこちらとの間合いを計っているように見える。
これも使い魔らしからぬ動きだ。使い魔たちにはこんなことをする能は無いはず。少なくとも、ほむらはこれまでの巡回の中で一度たりとも、そんな使い魔にお目にかかったことはない。
相手から眼を離さず、ほむらはゆっくりと後ずさる。後ずさりながら、手近な点滴スタンドを取って片手で構える。
スタンドの先ではふらふらと輸血瓶が揺れて、黒い獣の注意がわずかにそれた。
「あげるわ」
それを見逃す暁美ほむらではない。
手首のスナップで輸血スタンドをふるえば、フックから外れた輸血瓶が黒い獣めがけて飛んでいく。
獣は瓶を薙ぎ払い、次いでほむらが投げつけた輸血スタンドをも叩き落とした。だがほむらには想定済みのこと。 ――彼女の本命は別にある。左手に握り込んだメスを、投げナイフの要領で獣へと放つ。
輸血瓶、スタンドより遥かに速く投げつけられたメスは、相手の防御のタイミングを崩し、黒獣の左目へと突き刺さった。
獣が、苦悶の呻きをあげる。
ほむらはそれを聞くと同時に床を蹴って跳んでいた。相手の左側、視界を潰した死角の方へと。右手には新たなメスが握られている。それを相手の首筋に突き刺すつもりだった。――獣が咆哮する。
「ッ!?」
ほむらは咄嗟に左手の盾を構えた。あのワルプルギスの夜の攻撃すら防ぐ、小さくとも強固な盾。獣の鋭い爪の一撃を防ぐことも容易い。そう、盾はよい。だが、過信することなかれ。
「ガッ!?」
爪の鋭さを防いだとしても、獣の膂力から出る勢いまでは盾は防いでくれないのだ。
ほむらの体は宙を浮き、手術台を巻き込みながら、まるで重みなどないかのように吹き飛んだ。
「――」
肺に加わった衝撃に、一瞬呼吸が止まって身動きすらできなくなる。
視界には火花が散り、思わず瞼を閉ざしそうになるのを堪え、必死に黒獣を見る。
獣はトドメを刺ささんと疾駆してきている。ほむらの視界に、狼然とした獣の顔が一面に映り込む。
眼の一方は確かに潰れている。しかし、その大きな耳にはどちらも健在だ。獣は音でこちらの動きを読んだのだ。
ほむらは必死に力を振り絞り、迎撃のために立ち上がろうとした。肉体は意志に応え、緩慢な動きながらも確かに立ち上がる。獣は目前に迫っていて、ほむらの血肉を喰らうために、顎門を大きく開いていた。
メスでの迎撃は――間に合わない。刃渡りが短すぎて、相手の懐に飛び込まねばならないが、それは自ら餌食になりに行くことに等しい。ほむらは痛みに覆われ、軋む体の一部分、左手に全神経を集中した。相手の牙が、自身の身へと届く前の、僅かな瞬間、ほむらは左手を、盾を横薙ぎに振るった。
横っ面に不意の一撃をもらった黒い獣は、怯み、一瞬その動きを止める。
ほむらは、その隙を逃すことなく、右のメスを黒獣へと突き入れようとした。
突き入れようとした――はずだった。
「――え?」
右手に握っていた筈のメスはいつの間にか手放され、ほむらは殆ど無意識的に、獣の胸元へと貫手を突き出していた。果たして目の錯覚か、まるで右の掌自体がまるで肥大化したかのようにも見えた。
右手は、肋骨をへし折り、筋肉を引き裂いて、獣の胸へと鋭い切っ先のように沈み込んだ。
指先が、心臓に触れる。震えている。脈打っている。肉の温かみが、血潮の熱さとうねりが、掌へと伝わる。
ほむらの指はごく自然と、獣の心臓を掴み、思い切り引き千切っていた。
噴水のように、間欠泉のように血が吹き出し、撒き散らされ、ほむらの頬を真っ赤に染める。
血の温度は体温であり、肌にぶつかる血潮は恐ろしく熱い。熱湯をかけられたかと錯覚するほどに。
「――え?」
斃れた黒獣と、右掌に残った心臓の残骸――当たり前のようにほむらは、手にした心臓を握りつぶしていた――とを何度も見比べる。
戸惑い。困惑。ほむらの胸中を満たすのはそんな想い。
自分が為したことの悍ましさを今更ながら自覚し、ほむらは何度も何度も手を振って血を払い、ケープで残りを拭い取った。
暁美ほむらは合理主義者だ。魔女を狩る時も、最も手間をかけずに、最短時間で仕留めることを心がけている。
そんな自分が、無意識のうちに繰り出した残虐極まる手口に、慄然とした。
まるで内なる何者かが、勝手に動き出したような感触だった。
ほむらはソウルジェムが失せた後に残された、奇妙な図像を改めてみやった。
――いったい自分の内に、何者が潜むというのか。
病院の中には、他に生きるものは何一つとして居なかった。
あるのは死体ばかり。ほむらはこれ以上とどまる意味はないと、出口を探す。
「……はぁ……はぁ」
呼吸が乱れ、動悸は激しい。
先の黒獣との戦いのなかで、あちこちぶつけたせいか、体中が酷く痛む。
手術台の角にぶつかったせいか、背中の何箇所かで肉が裂け、血が流れているのを戦い終わって知った。
魔法少女の力を使えば本来手当は容易いが、今はそれもできないでいる。
病院内部の道具や薬は使う気にはなれなかった。全く、医療機関とは思えない程に、ここは汚く穢れている。
「……」
出口へと向かう道すがら、新しい亡骸を見つけた。
その亡骸が、抱えている何かが眼についた。
輸血用の瓶だ。点滴スタンドにかかっていたものに比べると小ぶりで、持ち運びに適している。
「……」
何故か、それから目が離せない。惹き寄せられ、釘付けになる。
歩み寄り、拾い上げ、つぶさに見つめる。
瓶の蓋には注射針が取り付けられ、それを使って体内に血が流し込めるような構造になっている。
ほむらは、その針の先から、視線を逸らすことができないでいる。
「――」
おもむろに、ほむらはその針の先を自身の右腿へと向けると、思い切り突き刺したのだ。
血が体内へと流れ込み、体が猛烈に熱くなる。
『生きる力』とでも評すべきか、より根源的な生命力が、その感覚が五体を駆け巡る。
「あ、あ、あ――」
背中が、特に傷めていた背中が特に熱を持っている。
未知の感覚にほむらはその場で崩れ落ち、声にならない声で喘ぐ。
「……はぁ……はぁ」
異様な感覚は徐々に消えていき、破鐘を叩くようだった心音も少しずつ収まっていく。
心身が落ち着いた所で、ほむらは崩れた体を起こし、独り愕然とした。
自身の行いが、その行いがもたらしたものが、信じられない。
背中の痛みは消え、流血も止まっている。喜ぶべきものかもしれないが、それを為したのは得体の知れない輸血液なのだ。しかも自分は、自分の意志で、その輸血液を自分の体に入れたのだ。
「どうなってるの……」
ほむらは、そう呆然と呟くしかなかった。
いったい、自分に何が起きているのか。
謎が、ほむらの精神を苛むが、どうにもならない。ただ前に進むほかはないのだ。
出口を開けば、小さな庭のような所に出た。
幾つも墓石が並ぶ、病院にはふさわしからぬ場所を抜け、ようやく正門らしき鉄扉を見つける。
扉は重かったが、しかし無事に開く。ここでようやくほむらは病院より出て、初めてその景色を目撃する。
「――」
薄々感づいていたことではあっても、実際に対面するとなると心の震えを抑えきれない。
林のように聳え立つ、天を突くように尖ったゴシック様式の屋根、屋根、屋根。
石畳、レンガ造りの壁。建物の意匠は、それを模したものとは異なる、本物の風格を讃えている。
血のような紅い夕陽に照らされた街並みは、どう見ても見滝原のものではなかった。
「……まどか」
それが神か聖母の御名であるかのように、ほむらは呟いた。
ああ果たして、この異界から逃れる術などあるのだろうか。
ヒントは一つだけ。自分ではない自分自身が書き残した、一文だけだ。
――『「青ざめた血」を求めよ。さもなくば、夜はずっと明けない』
ならばこそ、この名も知らぬ街で、それが何なのかも知らぬ何かを、探すしかない。
「青ざめた血」を、この悪夢から抜け出すために。
夕陽の下を、道なりに歩く。
病院から出て進むことの出来る道は、ここ以外にはなかったからだ。
他は閉ざされた鉄扉や、打ち捨てられた馬車に阻まれて、進むことはできない。
何が待つかも解らず、警戒心を最大限にたかめて、ほむらは歩む。
しばらく進むと、何か重いものを――恐らくは金属製のものだ――引きずる音がした。
やはり路上に放置された馬車の陰から見れば、左手に斧を引きずり、右手に燃える松明を掲げた、背の高い姿が見えた。
庇の広い黒い帽子に、黒い外套を纏った姿は、現代日本人のほむらから見ると酷く時代がかっている。
手に斧を持っているのも気にかかるが、それ以上にほむらの注意をひくのは、男の体の大きさだった。
女子中学生としては比較的背の高いほむらと比べても、頭一つ分以上に大きいのだ。殆ど巨人と言っていい。
「……」
見知らぬ街で、初めて出会った人間であるが、これに声をかける勇気は暁美ほむらにもなかった。
故にやり過ごすつもりで、物陰に身を隠そうと試みる。
――カラン。
だが迂闊にも、つま先がなにかに当たって、それを蹴り飛ばしたらしい。
舌打ち一つして視線を向ければ、大柄の男はほむらのほうへと振り向いていた。
男の顔はひどい毛むくじゃらで、眼の部分には包帯が巻かれているが、それは半ば解けて、双眸が顕になっている。
その瞳は、左右共に「溶けて」いた。
ほむらにはひと目で解った。眼の前の男は、既に人ではない、と。
『
男は、呪詛を叫びながら、ほむらめがけて襲いかかってきた。
盾パリィはほむほむ独自のスキルです。
ゲームが違うじゃねーかとは言わないお約束。