「――ッッッ!?」
冷たい石畳の感触に、まどかはもう何度目となったかも解らない目覚めを迎えた。
床から身を起こせば、怖気催す程に見慣れた、石造りの階段が目に入る。
身に帯びた見滝原中学校の制服は、
――だが、脳は確かに記憶している。
噎せ返るような血の臭い、嘔吐誘う酸の臭気。
頭部が肥大化した、患者たちの嘆き、呻き、そして叫び。
ついには頭部のみとなった患者たちの、狂気の言葉の数々。
そして、頭のイカレた医療者達。その実験の跡、跡、跡。
今は綺麗に見えるこの制服が血に塗れ、その下の血肉ごとズタズタに引き裂かれた事実を。
激しく振るわれた掌が、いくつもいくつもいくつも、群れなして襲いかかってくる。
投げつけられた酸の瓶。振り下ろされた輸血スタンド。
体に流し込まれた毒液。
吹き付けられた穢れた血。
肥大化し、地を這う頭部から生えた触手は、まどかの体を串刺しにする。
自分は確かに死んだ。もはや数えることも諦めた死を確かに迎えた。
幾度となく繰り返される死に、もはや死因すらハッキリとしない。記憶が混濁している。
しかし、確かなこともある。
今までもそうだったように、何度死を迎えようとも、この場所で――、実験棟の入り口でまたも目覚めるのだ。
「……やだ」
立ち上がる、気力もない。
座り込んだまま、まどかは両手で顔を覆い、呟いた。
「もうやだ……」
絶望にひび割れた、掠れきった喘ぎ。
既に求めた所で救いなどないと思い知らされているにも関わらず、それでも言葉は自然と迸る。
「やだよぉ……もう、こんなのやだよぉ……」
嗚咽は、止めどなく溢れ出た。
涙を流し、肩を震わせる。しかしまどかを励まし、慰め、守ってくれる存在は、ここには誰ひとりとしていない。
孤独。どうしようもない、孤独の無残さ残酷さ。それがまどかの心をずたずたに引き裂く。
「ぱぱぁ……ままぁ……マミさん……ほむらちゃん……助けて……助けてよ……ううう……」
しかし、まどかの呼び声は、誰にも届くことはない。
階段を昇った先の、螺旋階段の上に数多彷徨う狂った患者たちの叫び声が、応ずるようにむなしくこだまするだけ。
まどかは、友に自分の命を委ね、見滝原という地獄から逃れた筈だった。
そんな彼女を待っていたのは、忌まわしい過去を苗床に創り出した、この世ならぬ地獄の悪夢だった。
『狩人の悪夢』に、それが生み出した『実験棟』に、まどかは囚われたのだ。
振り返れば深い穴。
降りることは適わず、身を投げても死してここに戻ることは既に確かめている。
結局は、塔を昇る他ないのだ。この地獄から逃れたければ。
「助けて……誰か……誰か……助けて……」
それでも、まどかの口から漏れるのは、嗚咽と嘆きのみ。
当然だ。既に彼女は、数限りない脱出を試みてきたのだ。
結果は、やはり数限りない、死の累積。
「えっえっえっえっ……えっえっえっえっ……」
遂には嘆きも尽きて、嗚咽のみとなる。
この地で再び目覚めて以来、まどかの肉体は単なる少女だった頃に戻り、魔法少女への変身も出来ない。
ただの少女が、寸鉄も帯びずに脱出できるほど、この地獄は容易くはない。
「えっえっえっえっ……えっえっえっえっ……」
実際、まどかは狂気の瀬戸際にいた。
数限りない苦痛と死と、対面してきた狂気の数々が、彼女の正気を削り続けてきたのだから。
「……――」
あるいは、狂ってしまえれば楽であったろう。
それでも、彼女は狂えないである。ただ、その精神の
「――」
まどかは嘆くのを止めた。泣くのを止めた。
涙を拭い、絶望に心の九割九分を支配されながらも、立ち上がり、絶望の入り口を睨みつける。
鹿目まどかは、本質的に
ならばこそ彼女はほむらを惹きつけ、その身に因果を宿す破目になったのだ。
ならばこそ――ここではない別の時間軸で――彼女は救いの少女、円環の理を司る聖女となり得たのだ。
何故ならば、その身に因果の力を宿したのはほむらの循環が故なれど、最後にその身を捧げたのは、他でもないまどかの意志なのである。
鹿目まどかは狂えない。狂うという救いを、彼女の強い心は拒絶する。
「……行かなきゃ」
だとすれば、選ぶべき道は一つしかない。
この狂気の塔に、血の医療に人に人を超える夢に狂った者達の妄執の具現化に、挑むのだ。
武器もなく、力もなく、ただ折れざる心を持つだけの少女が。
たった、独りで――。
――そう、たった、独りで。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
螺旋なす階段の最上段。
狂気の棟の最上段に、まどかは辿り着いていた。
制服は血に塗れ、ズタズタで、下着すら赤く穢れている。肉は裂け、血は迸り、満身創痍である。
それでも、彼女はここまで辿り着いた。その理由は、彼女の頭に被ったものにある。
(ううう……気持ち悪い。気持ち悪いよ、やっぱり)
まるでまどかの頭は、今まで彼女が遭遇してきた患者たちの、肥大化した頭部と同じ有様になっているのだ。
無論、自然とそうなった訳もない。
彼女が道中で見出した、聖堂の患者、その肥大した頭部の1つ。その内に、丁度人が被れるほどの空洞があるが、正気であればこれを被ろうとは思うまい。
だが正気のまま、まどかはこれを被った。
患者たちに紛れ、その中を進み、密かに上層を目指したのだ。
彼女の試みは成功したが、しかし、まどかの心は穏やかではない。
――耳をすませば、聞こえてくるのだ。
湿った音が、しとり、しとり。水の底からゆっくりと、滴るように。
それはまどかの正気の表面を酸のように灼く。心穏やかな筈もない。
まどかは我慢をし、患者の頭部を被ったまま、重い扉を押し開けた。
薄暗かった塔内とは一転、灰色の、それでも陽光差し込む外への入り口が開く。
夥しい、
向日葵に似つつも、どこかおぞましく、見る人を不安にさせる白い花は、名を星輪草という。
その星輪草の世話でもしているつもりなのか、一心不乱に、地面をいじくり廻している何やら、人ならぬ姿がある。相手が狩人であればそれも――医療教会が『失敗作』と呼んでいた――いきり立ち、襲いかかってきたかもしれない。だが、今この庭園に迷い込んだのは、狩人ならぬ一人の少女であり、しかもその頭には患者の頭部を被っている。まどかは、一患者へと擬態し、青白い肌の
あの巨大な腕を振るわれれば、自分の体など容易く八つ裂きにされてしまうだろう。だから必死に、これまで瞼の裏へと焼き付く程に目にしてきた、聖堂の患者たちの動きを真似て歩く。
――異形は、まるで反応を見せなかった。
まどかは星輪草の庭を無事に通り抜け、奥の扉へと辿り着いた。
今まで見たことないような、巨大な扉は僅かに開いていて隙間が見える。
まどかは身を滑り込ませるようにして、その奥へと入り込んだ。
短い階段の向こうは、恐ろしく大きな広間であった。
見上げれば天井からは鐘が吊り下がり、部屋の最奥の壁面には穴の開いた文字盤らしきものが見える。
言うなれば、巨大な時計塔の裏側である。
文字盤に開いた大きな穴からは、外からの陽光が差し込んで、明かりもないのに部屋の中は明るかった。
故に、まどかには見えた。
広間の最奥で、椅子に腰掛けた人影が。
「!?!?」
その姿は、悪夢へと迷い込んでから初めて、まどかが見るマトモな姿をした人影であった。
「あ……あ……」
人!人!人!
まどかは患者の頭を投げ捨てると、足をもつれさせながら、人影めがけて全力で走った。
近づくにつれ、人影は女性であり、麗人であり、瀟洒な姿としれた。
まるで眠るように、椅子にもたれかかっていることも。
そして――。
「!?」
その左手から、血の雫を滴らせていることも。
――絶句。
まどかは胸を張り裂かんばかりの憔悴の奔流に身を焦がしながら、女性めがけて殆ど跳ぶように駆け寄った。
確かめたかった。彼女が生きていることを確かめたかった。
何故ならば、彼女がここで初めて
まどかは、麗人の左手を取ろうとした。
だが、それよりも素早く、女性の右手が動き、まどかの手を掴み、その顔へと引き寄せてくる。
女性は、非人間的なまでに美しかった。
まどかが今まで会ってきた、どの女性とも違っていていた。
「し――」
女性が何か言おうとした。だが、まどかはその言葉を皆まで聞くことはなかった。
「うわあああああああああああああん」
「!?」
まどかは泣き叫びながら、女性へと抱きついたのだ。
「な、な、な?」
まどかの見せた反応が余りに意外だったのか、女性は戸惑っている。だが、まどかはそれに気づかない。気づけるような心情ではない。
「よかった……よかった……よかったよ。生きててよかったよ」
感無量。
喜びと感動で胸は満たされ、それで思考もいっぱいになっている。
「わたし、わたし、心細くって、寂しくて、でもあなたがいてくれて!」
「……」
意味をなさぬ言葉も、その感情の奔流が故。
女性は、そんなまどかの想いを感じ取ったらしい。
「そうとも。私はここにいる。確かに、ここに居るよ」
優しい声で、言ったのだ。
「ううう……ううう……うわああああああああああああああああああああああああああああああ」
まどかは女性の――時計塔のマリアの胸に顔を埋めながら、慟哭した。
それに対しマリアは、慈母の表情を浮かべながら、まどかの体を抱きしめるのだった。
「落ち着いたかい?」
マリアが問いかければ、少女は涙でぐしゃぐしゃになった表情そのまま、うんうんと頷いた。
委細に見れば、目の前の少女は狩人でないと知れた。
どうも、どこかの学徒であるらしい。しかしマリアがそこが何処かまでは知らない。
「……話してごらん。今まで、何があったかを」
マリアが優しく問えば、堰を切ったように、少女は、鹿目まどかは話し始める。
キュウべぇのこと、魔法少女のこと、ほむらのこと、実験棟で見聞きしたこと。
「そうか」
マリアは、まどかの肩を引き寄せ、再びその小さな体を抱きしめる。
「大変だったね」
まどかは、再びマリアの胸に顔を埋め、嗚咽した。
マリアは、優しく優しく、そんなまどかを掻き抱き続けた。
故にまどかが気づくことはない。
マリアの瞳に浮かぶ、好奇の狂熱に。