まるで血の海を泳いでいるかのようだ。
夕陽の赤に照らされて、ほむらはそんなことをふと思った。
聖堂街ではすでに陽は落ちつつあったように記憶しているが、ここではなぜか相変わらず紅い景色のままだ。
この旧市街は谷間にあると聞く。あるいは太陽の覗きかたが違うのかも知れない。
――『これより棄てられた街。獣狩り不要、引き返せ』。
守られなかった警告文を思い出す。
それが貼られていたであろう扉は既に開かれ、誰かが踏み込んだあとであったのだ。
見ず知らずの他の狩人か、あるいは烏羽の狩人狩りか、はたまたまどかか、あるいは憎き呉キリカか。
いずれにせよ、誰が待つにせよ、進まなくてはならないことは変わりない。
(……それにしても)
ほむらは思わず、マスクの上から鼻を覆うように掌を被せた。
既に眼以外はことごとく覆面で隠されているため、臭いも余程酷いもの以外は遮断されている筈だ。
にも関わらず、鼻腔を刺すようなこの痛み! 他でもない、この悪臭のせいである。
あるいは血の遺志により肉体を変質させた影響か、あるいは狩人になったがために嗅覚が鋭くなったのか――。
「……」
いずれでもないことに、ほむらはすぐに気がついた。
パチパチと、何かが燃える音にその方を見れば、この耐え難い悪臭の源がそこにあったのだ。
――磔にされた獣が、火炙りになっている。肉が、血が、脂が焼けている。
悪臭も、当然である。同様のものが、左右を見渡せば幾つも立ち並んでいるのだから。
似たようなものはヤーナム市街でも見たが、ここではその数が段違いだ。この最初の広間だけでも、ざっと5つはある。
――『だが今やそこは⋯、獣の病が蔓延し、棄てられ焼かれた廃墟、獣の街であると聞く』
――『狩人に相応しい場所じゃあないかね』
ふと悪夢で聞いたゲールマンが言葉を思い出す。
成る程、確かに彼の情報は、間違っては居ないらしい。
焼ける臭いに血の臭い、そして噎せ返る程に溢れた獣臭。まさしくここは獣の街に他ならない。
――『旧市街』。
医療教会に見捨てられ、焼き捨てられた、オールド・ヤーナム。
その最奥に、『聖杯』は鎮座しているという。
ほむらは、その聖杯のあるという、古い教会を目指し、進むべき道を探った。
正面を進めば、手すりの崩れたバルコニー。左に進めば小さな橋がある。
崩れたバルコニーから見下ろせば、跳んで降りられそうな所に足場がある。しかし、一度降りれば戻る手立ても見えないので、ひとまずは左に進むことにした。
「……」
橋の半ばで、新たな死骸と出くわした。しかし、今度は焼かれている訳でも磔にされているわけでもない。
まだ新しい、肉にも血にも温かみが残った死骸なのだ。故にほむらは亡骸の状況を、詳しく検分することにする。
恐ろしく鋭い刃物で、袈裟懸けに斬られたようであるらしい。鋭いだけでなく分厚い刃は心臓まで達しており、この獣は殆ど即死であったろう。獣は、かつて人だった獣は、酷く獣化が進んでいるようで、それだけ人間離れした力を持っていたはずだ。それをかくも仕留めるとは……間違いなく、この一撃を為した狩人は、良い腕の狩人と言えた。
橋を渡りきれば、今度はさらに四つの亡骸と出くわす。
うち二つは、橋の半ばの獣と全く同じ屠られかたをしていたが、残り二体は異なる。
一匹は、何かキザキザした形の、重いものを叩きつけられたらしく、表面の皮肉が激しく抉れ、骨すらのぞいている。
もう一匹のほうはと言えば、もはやかつてそれがかろうじて獣だったであろうことが、かろうじて解るという程度までに、完全に爆散させられていた。爆発と同時に、余程強烈な衝撃を受けなければ、こうはなるまい。
「……」
聖堂街で見かけた、大男達の死体に見えた痕跡と、全く同じものであり、この旧市街への道中でも、やはり同じようにして斃された黒獣の屍をほむらは目撃している。
三人組の狩人たち。どうやら、あの警告文を破って、この旧市街に先に乗り込んだのは、この謎めいた連中で間違いがなさそうだ。
果たして、敵か、味方か。
いずれにせよ、この残虐極まる手口から、血に酔った連中であることだけは確かだった。
遮るもの何一つ、誰一人ない道を、独り進む。
道すがら出くわすのは、既に見慣れた手口で斃された獣の死骸ばかりで、生きている姿にはまるでお目にかかれない。それは好ましいことではある一方、恐ろしいことでもある。正体不明の狩人三人組が、敵に回った場合想定される脅威の度合いが、留まることを知らず肥大化し続けているのだから。
一層強い悪臭を放つ黒煙の傍らを――よく見れば燃えているのは薪ではなく、積み重ねられた死骸の山だ――通り過ぎながら、道なりに、下へ下へと、より谷底へとほむらは降りていく。
階段をくだり、暗い屋根の下を抜け、壺の立ち並ぶ、屋根破れた広間を通り、手すりもない危ない橋を通れば、さらなる開いた扉の奥へと足を踏み入れる。
入って右を見れば、すぐに次の出口が見つかった。ほむらの身の丈二倍はありそうな大獣――の亡骸を避けて進めば、今までのなかで一番煙と悪臭に溢れた場所にでた。
積み重ねられた死骸が燃え、さらに獣の躯が覆いかぶさって、臭いは覆面越しにも耐え難いほどだった。
街路樹めいた立木の横を抜ければ、木の足場へと繋がっていた。足場は下り坂状になっており、途中で二手に分かれ、一方は上り、もう一方は下りだが、一見して下りのほうがより先へと通じていそうである。それにしても、いったいこの街はどこまで下れば良いのだろうか。
そんなことを思いながら、ほむらは足場へと踏み出し、その半ばまでを下った。
その時で、あった。
『――貴公』
「!?」
不意に背後より呼ばれ、ほむらは前へ振り返りながら跳び、着地した時には既に盾を翳し、ノコギリ槍を構え終えていた。その反応速度は素晴らしいものであったが、しかし幸いにも飛んできたのは声のみで、襲いかかる影はひとつもない。
「貴公、狩人か……ならば、頼みたいことがある」
硬質な、太い男の声だった。
だがほむらのより鋭くなった聴覚は、確かに捉えている。本来は力強いものであったろう男の声が、掠れと震えを帯びていることを。それは傷を、それも深手を負った者特有の声であった。
「……」
ほむらは敢えて言葉では応えず、ノコギリ槍を構えたまま声のほうへと歩み寄る。
足場の分岐点、そこからのびた上り階段を進めば、相変わらず薪のように燃える死体の煙に溢れた、天に掌突き出す像並ぶ踊り場へと出た。
「貴公は……まだ狂ってはいないようだな。僥倖だ……まだ、希望はあったようだ」
声の主は、煙の向こう側にいるらしい。
死体の山を踏み越えれば、手すりに背中を預け、座り込んだ
狩人とほむらは断定したのは、男の出で立ちがあからさまに狩人だったからである。
端のささくれ立った、どこか狼を思わせる帽子。
血を避けるためなのだろう、灰に塗れた、灰色の狩装束。
力の抜けた左掌の上にのっかった、獣狩りの散弾銃。
そして右手に備わった、異形の仕掛け武器。ほむらが今まで一度も眼にしたことがないような、異形の武器。
――杭打機、とでも評すれば良いのだろうか。太く鋭く、銛のような杭と、それを打ち出すためであろう見るからに複雑そうな装置の二つから成っている。一見して、扱うのが容易でないのは解る。
そんな武器を得物とする男だけに、歴戦の古狩人であろうことは明らかだった。貫禄に溢れた佇まいも、それを証明している。
しかし――。
「血は、挿れたのかしら?」
「既にな……だが見ての通り、気休めにしかならんよ」
――その腹部へと斜めに走った裂傷は、どう見ても致命の一撃であった。
頑丈であるはずの狩装束すらも、バックリと裂ける衝撃だ。標的が狩人と言えど、血肉を爆ぜ飛ばすには充分であったろう。
「……もしかして、相手は三人組の狩人達?」
「ほう……知っていたのか」
「直接、会ったことはないけれど……連中の痕跡なら嫌というほど見たわ」
「だろうな……相対すれば、そう無事では済むまいよ」
脂汗を浮かべながら、灰色の古狩人は苦笑した。
ささくれだった狩帽子で目元を隠しているため、ほむらから見えるのは黒い髪の毛と顔の下半分だけだが、それでも頬に刻まれた深い皺や、灰色がかった髪の色などから、ゲールマンほどではないにしても相当な古狩人であることは解った。
「あれは……普通の狩人ではない。血に酔い、獣を追い、そして悪夢に去っていった……正真正銘の古狩人たちだ。もうずっと、前の時代の。……だが奴らは悪夢に囚われ…… その中を永遠に彷徨っている、そう聞いたのだがな。……どうして、迷い出てきたものか」
「……」
灰色の古狩人の話す内容を、ほむらは完全には理解できなかった。
それは彼女がまだヤーナムで夢見、目覚めたばかりの少女狩人であり、古狩人の時代を知らない故だ。
「……とにかく、マズい連中がうろついている、という訳ね」
「そうだ。私の仲間がまず挑んだが、返り討ちにあった。そして私も……何とかその場で狩られることだけは避けたが……最後に貰った傷が、少々深すぎたようだ」
それでも、現状を理解するには充分だった。
「同じ狩人同士とはいえ……私はもはや、
灰色の元狩人は自嘲気味に言うが、ほむらは逆にこの男の力量を、その何気ない言葉から感じ取っていた。
ここに至るまでの無数の獣を、一方的に虐殺してきたと思しき三狩人を相手取り、独り逃げ延びたのである。それは、只者に出来ることではなかった。
「貴公……出会って早々で悪いが、頼みがある」
「なにかしら」
何を頼まれるかは、薄々察しがついたが、敢えてほむらは訊いた。
「あの、血に酔った古狩人達を、狩ってほしい。私にはもう、果たせぬことだ」
灰色の元狩人から出た言葉は、まさしく予想の通りであった。
「狩人狩りなど、忌まわしいばかり……それを承知で、敢えて頼む。あれは、見過ごしてはならんものだ」
「……わかったわ」
ほむらは頷いた。無論、善意からではなく、危険で狂った狩人を、放置するのは得策では無いと考えたが為だ。
「でも、あなたが勝てなかった相手に、私が勝てるのかしら」
当然の問いに、灰色の元狩人は呻きながら頷く。
「貴公、夢を見るのだろう? かつての私と同じように。その月の香が何よりの証拠だ」
「……」
この男も、何かほむらの知らないことであり、同時に知りたいと願うことについて通じているようである。
だが、委細を問うのは無理であろう。元狩人の顔には、あからさまな死相が浮かび始めていた。
「……これは、後輩への餞別さ。いずれにしろ、私にはもう不要なものだからな」
灰色の元狩人が、震える手で手渡したものを、ほむらは受け取った。
それは首飾りであり、小さなガラス瓶に、粒状にした黒色火薬を詰めたものへと鎖を繋いだものと見えた。
――『火薬の狩人証』。
「水盆の使者たちに見せると良い……きっと、応えて、くれる、は、ず、だ……」
灰色の元狩人は血反吐を撒き散らした。
ひと通り咳き込んだ後、最後の力を振り絞ったのか、淀み一つなく言い尽くした。
「……すぐ近くに、上に登る梯子がある。塔の最上階に向かい、私の置き土産を、取りに行くと良い。あるいは貴公の役立つかもしれん」
そして、再度血を吐き咳き込んだ。
終わりの、時なのだ。
「夢見るは一夜……悔いの――」
灰色の古狩人は、途中で言葉を途切れさせ、そのまま俯き、動かなくなった。
その体が、青緑色の光に包まれたかと思えば、花が散るように、光の粒が散り、跡形もなく消え失せたのだった。
「……」
ほむらは、古狩人が失せた痕を見つめながら、ふと気がついた。
あの灰色の古狩人の、名前を聞きそびれたことを。そしてもう、聞くことはできないのだ。
ほむらは遺言に従って踵を返し、塔を登る梯子を目指した。
その掌に名も告げず去った古狩人――古狩人デュラ――の狩人証を握り込みながら。
古狩人の助言に従い、二つの長梯子を登りきれば、時計塔の屋上についた。
ヤーナムの高層建築の多くに言えることだが、何故か手摺はなく、危なっかしいことこの上ない。
「あれは――」
しかし暁美ほむらの注意を惹くのは、そういった事実ではない。
手摺もない時計塔屋上外周の一角に、設けられた一つの銃座。そこに備わった一座の銃砲。
「ガトリング砲!?」
ほむらが驚き言ったその通りに、銃座に鎮座しているのは、ハンドルがついた回転式機関砲。
デュラの三人の仲間、最も若い一人が手持ちできるよう無理矢理に改造したものの、改造前の姿。
それが今、ほむらの前に現れたのだった。