赤い双眸はガラス球のようであって、人形の瞳がそうであるように、いかなる感情も映さない。
口元はネコ科動物めいた緩やかな弧を二つ描き、まるで微笑んでいるかのようだが、よく見ればそこには一切の動きがなく、したがって表情もまるでありはしない。
一見すれば可愛らしい、小動物めいたその姿も、注意を払えば耳から伸びる触手など、悍ましいその本性を垣間見させている。
そう、この姿は偽装だ。
餌となる少女を、油断させ、誘い出すための虚飾だ。
『――やぁ、さやか』
少女のような、少年のような、幼い声。
これもまた罠だ。かつて自分を、騙してみせた詐欺師の声だ。
『彼女を、血の女王を、蘇らせたくはないかい?』
さやかは返す言葉もなく、千景を抜き放てば一直線に駆け、キュウべぇへと刃を突き立てた。
バターにナイフを挿れるような容易さで利刃は顔面を、キュウべぇの赤い二つの目の間を貫いた。
手首にひねりを加えれば、ぐちゃりと小さな頭は真ん中からひしゃげ、勢いよく刃を引き抜けば四散した。
飛び散ったのは、白いナニか、である。
血もなければ、肉もない。ただの白い、潰れたゼリーのような何かがへばりついてるだけなのだ。
その様に、さやかは得心がいった。
ああやはり、尋常の生物ではなかったのだ。
恐らくは人を騙すために創られた――。
『ひどいじゃないか、さやか』
背後からのあり得ざる呼び声に、さやかの思考は中断させられる。
振り返る間もなく、不意に聞こえてきた足音は、さやかの傍らを通り過ぎて、散らばった死骸へと歩み寄る。
果たして、それはキュウべぇであった。
『代わりはいくらでもあるけど、無意味に潰されるのは困るんだよね。勿体ないじゃないか 』
新たに現れたキュウべぇ、さやかによって四散させられた残骸を顔色一つ残さず貪る。
その余りに非現実的な光景に、非現実な光景にも慣れた筈のさやかも、思考を停止してしまう。
『――きゅっぷい』
自分自身の残骸を全て食べ終えれば、特徴的な鳴き声と共にキュウべぇは振り返った。
無機質な赤い双眸に見られ、ようやくさやかは自分を取り戻す。
「キュウべぇ……アンタ……」
何か言おうと思ったが、あまりの出来事に言葉も出てこない。
金魚のように口をパクパク開けるさやかの姿に、キュウべぇは小首をかしげるような仕草を見せた。
『あれ? どうして君がボクの名前を知っているのかな? 君からすれば、初対面の筈だけど』
「!?」
飛び出してきた言語道断な台詞には、さやかも唖然とする他なかった。
コイツ、自分が騙して契約させた相手の顔を忘れるとは、どういう了見だ!
「ちょっと! アンタと私が初対面ってどういうことよ!」
『……? そのままの意味じゃないか。いや、確かに妙な部分はあるんだけれどね』
キュウべぇは逆方向に首を傾げながら、さやかの怒りを受け流しつつ答える。
『ボクは君と契約したつもりはない。にも関わらず、君は契約の証をその身に宿している』
「そうよ! このソウルジェム! アンタに貰ったもんじゃないのよ!」
さやかの糾弾にも、キュウべぇはさらに首を傾げるばかりで、その様は殆ど首が回転せんばかりである。
『なんのことだい? それに……どうして君がソウルジェムを持っているんだい?』
眼前に突き出された『魂の器』を見てもなお、キュウべぇは様子は相変わらずであり、これにはむしろさやかは不審を覚えるに至る。この忌まわしい詐欺師は相手を煙に巻くような詭弁を弄する事はあっても、こんなあからさまなしらばっくれをするような手合ではなかった筈だ。
だとすれば――
「アンタ……ホントに私と初対面?」
『さっきからそう言っているじゃないか。ボクは君を知っているが、こうして直接会うのは初めてのことさ』
詐欺師の物言いには嘘の響きはなかった。
認めがたいことだが――コイツは真実を話しているらしい。
「だったら、なんで私のことを知ってんのよ!」
『君が契約の証を、その身に宿しているからさ。ボクは契約した記憶が無いにも関わらずね』
契約の証。
キュウべぇの言うそれに、さやかは覚えがあった。
――『それは……その身に刻まれた、月のカレルがためであろう』
アンナリーゼの言葉が、脳裏で反芻される。
見滝原の制服から騎士装束へと着替える時にさやかが初めて気がついたのは、ちょうどへその辺り、魔法少女だったころにソウルジェムがあった場所に浮き上がった、奇怪な赤い紋様の存在だった。
それは、さやかがこれまで見たことのない、不可思議な図像だった。
先端を向け合う二つの三叉の間に、両者から串刺しにされるようにして目玉が置かれている、とでも言えばよいのだろうか。とかく、形容し難い奇妙極まりない図形なのは間違いがない。
それを血の女王は、月のカレル、と呼んだ。
――『
さやかの身に刻まれたしるしを見た時、アンナリーゼは妖しく笑って言ったものだった。
悪夢の上位者――意味は聞きそびれ今も解らないが、その響きはキュウべぇに相応しいモノだ。
「……月のカレルってやつ?」
『……ああ、確かに、君たちのお仲間の一人は確かにそう呼んでいたね。もうずっと、前のことだけれど』
詐欺師は首肯した。相変わらず、言葉には誤魔化しも嘘の臭いも一つとて無い。
「……それで」
だからこそ。
「アンタ、ついさっき言ったわよね」
さやかは聞いてしまった。
「アンナリーゼ様を……蘇らせる方法があるって」
相手を詐欺師と知って、それでも聞いてしまったのだ。
「――美樹さやか」
ほむらは、黒髪の長い端を指先で跳ね上げながら、言った。
「貴女はどこまで愚かなの?」
嘆息とともに、ほむらはそう言った。
さやかは、バツ悪気に顔をそらす。
「……しょうがないじゃん。他にしようもないんだから」
「だからといって、同じ過ちをするのは馬鹿者のすることよ」
ほむらはバッサリと切り捨て、さやかは呻くしか無い。
場所は未だ『聖杯教会』。二人が居るのは、その最奥の祭壇の前。
銀の兜を脱いださやかは祭壇にもたれかかり、ほむらは新たに現れた灯りの傍らに佇む。
さやかがキュウべぇから言われた中身を、ほむらは既に粗方聞き出していた。
キュウべぇがこのヤーナムにいたという事実も衝撃ながら、ほむらの興味を惹いたのはヤツの喋った内容だ。
『見捨てられた上位者を探し出すんだ。それが血の女王を蘇らせる鍵になる』
ゲールマンの言葉の中にもあった単語である。
それがあのキュウべぇの台詞から飛び出したのだ。
いよいよもって、これが重要なキーワードであることは明らかだ。
『見捨てられた上位者は、オドン教会をのぼった先か、あるいはイズの地にいるだろうね』
――オドン教会をのぼりたまえ。
これもまた、ゲールマンの助言のひとつであった。
では、もう一つのキーワード、イズの地とは?
『イズは宇宙に最も近い地さ。この地に至る手段はひとつだけ――聖杯が必要だ』
かくして、キュウべぇの助言に従い、さやかはこの旧市街を訪れたのである。
「……アンタには解らないかも知れないけど、アタシには何より重要なことなのよ」
ほむらは、さやかの言うアンナリーゼのことは解らない。
会ったこともないし、見滝原の繰り返しのときには、現れなかった人物であるから。
だが――ほむらにも、かけがえのない誰かを助けたい心は理解できる。
「だからこそよ」
理解できるからこそ、言わずにはいれない。
「だからこそ、あんな奴の口車に乗ってはいけないのよ」
「……だから、わかってるって」
しかし、さやかは不満げな表情であった。
ほむらは、ため息をつけば、おもむろにさやかの腕を強引に握る。
「いいえ。わかってないわ。わかってないからこそ」
胡乱げなさやかの視線を受けながら、ほむらは灯りに手をかざす。
「貴女は、もっと皆とも話し合うべきなのよ」
さすれば、二人の体は『狩人の夢』へと跳んだ。
『はじめまして、狩人様』
さやかが人形の存在に驚き、目を点にしながら話し合っている傍らで、ほむらはふと、水盆へと目をやった。
水盆の使者たちが――気のせいだろうか、数が増えている気がする――手招きしているのが見える。
――『水盆の使者たちに見せると良い……きっと、応えて、くれる、は、ず、だ……』
名も告げず消え去った古狩人――ほむらは知らぬ、デュラという名を――の遺言を思い出し、盾のうちより取り出した『火薬の狩人証』を掲げてみせる。
果たして水盆の使者は、新たな狩装束と、新たな仕掛け武器をほむらに差し出した。
――『灰狼の帽子』
――『煤けた狩装束』
――『煤けた狩手袋』
――『煤けた狩ズボン』
衣装は、あの灰色の古狩人を思わせる、年季の入った一式。
仕掛け武器は、なんと四つもあった。
選べ、ということであるらしい。
「……」
ほむらは暫時考えた末、彼女は知らないが、いずれも工房の異端『火薬庫』の作になる、特異な仕掛け武器をひとつ選びとった。その名は――。
――『爆発金槌』
そう言った。