「――はぁっ!? ヴィオラ母さんが独りで出ていっただぁっ!?」
杏子が素っ頓狂な声で問うのに、白いリボンの少女は涙目で頷いた。
マスクを外し、枯れた羽根が特徴的な狩人の帽子を床に投げつけ、舌打ちしながら壁を拳で叩いた。
「……ガスコインのおっさんを探してか?」
杏子が問うのに、少女は再度涙目で頷く。
「くそっ! くそっ!」
左手で髪を掻き乱しながら、毒づく。
愛用の槍を乱暴に立てかけ、椅子に座って考える。
――予兆はあった。
ガスコインの様子はここ数日おかしかったし、それをヴィオラも案じていたのだ。
だがガスコインはベテランの古狩人だ。神父を狩人の師として仰いでいた杏子は、かつて巴マミと決別したあともその実力を信じ続けたように、ヴィオラほどガスコインのことを心配してはいなかった。だから、やたら単独で動きたがる――彼の言い分によれば、杏子に狩りの経験を積ませるためらしい――ガスコインに合わせて、杏子は別行動をとっていたのだ。
それが、このザマだ。 自分は、さやかのことから何も学んでいない。
「なんでアタシが帰って来るまで待ってられなかったのさ!」
杏子が叫んだ言葉はしかし、自分に向けている言葉のように響いた。
なぜ自分は、もっと早く帰ってこれなかったのか、という意味を込めた。
「お母さん……お姉ちゃんがお父さんと一緒にいると思ってて……」
少女がグスグスとは涙混じりに言うのを聞きながら、杏子は家に帰ってきたばかりながら、即座に再出立の準備を始めた。
獣狩りの散弾銃用の水銀弾を補充し、棚に並んだ輸血瓶を幾つか掴み取り、スローイングナイフを懐に忍ばせる。神父のかつての相棒が好んで使ったという飛び道具を、杏子もまた好んで使っていた。
「ちょっとおっさんとヴィオラ母さん探してくる! しばらく帰んないかもしれないから、その間、獣避けの香、しっかり焚いとくんだぞ!」
「待って!」
少女にキツい口調でそう言い残して、槍を携え駆け出そうとする杏子を、少女は慌てて呼び止める。
「キョウコお姉ちゃん、これ持っていって!」
少女が手渡して来たのは、掌の上に収まる小さなオルゴールだった。
杏子はこのオルゴールのことを知っている、ガスコインが好んだ、夫婦の思い出の曲の入ったオルゴールだ。
「お母さん、相変わらずおっちょこちょいだから……あんなに持っていかなきゃ、って言ってたのに、忘れていっちゃって……」
――例え、私たちのこと忘れてしまっていたとしても、この曲を聴けば思い出すはず。
ヴィオラがふと漏らした言葉を思い出し、杏子は何故か強い不安にかられた。
あれほどしっかりとした古狩人が、愛する家族のことを忘れるなどするものか!
「……二人見つけたら、できるだけ早く戻る。ちゃんと留守番してろよな!」
オルゴールを受け取ると、今度こそ杏子は再び、ヤーナムの市街へと繰り出していった。
(待ってろよおっさん達!)
血を払う為に取り付けられた、短いマントを風に舞わせながら、杏子の姿は夜に紛れていく。
――かつて魔女を狩ることを生業としていた少女が、獣狩りの狩人へと転ずるのには、さしたる時間を要しなかった。
得体の知れない自分を受け入れてくれた、ガスコイン一家にせめてもの借りを返すためと、杏子は神父の稼業に身を投じたのだ。
装束を真紅に輝く魔法少女のものから、暗闇に溶け込む真っ黒な狩人のものへと変じ、左手には神父から譲られた散弾銃を、右手には使い慣れた多節槍を携え、佐倉杏子は獣を狩った。
槍は、このヤーナムへと迷い込んだ時に、一緒にやってきたものであるらしい。少女が自分を見つけた時、傍らに転がっていたそうだ。
獣狩りに、必ずしも適しているとは言えない得物だったが、杏子はそれで充分に上手くやった。少なくとも、気難しいガスコインに弟子――いや、新しい相棒として認められる程度には。
ガスコイン家の少女は、杏子のことを慕った。
杏子は否応なく、かつて自分の咎で死に追いやってしまった妹のことを想起する。
だからこそ、杏子は夜のヤーナムの街を走る。
少女の為に、自分を受け入れてくれた優しい母のために、そしてその不器用な姿に、どことなく父の姿を重ねてしまう神父の狩人のための。
どんな結末が自分を待っているのか、そのことを知る由もなく――。
――『大橋』
「おいおいマジかよ」
杏子が冷や汗を浮かべながら、そう呟いた。
ほむらもまた、彼女と同じ気持ちであった。全く、冗談のような光景なのだから。
今までほむらが遭遇してきた獣たちとは、段違いの大きさだ。
人の体のゆうに数倍はあろうかという巨獣なのだ。
今までも、巨大な魔女とは何度となく戦ってきた。しかし魔女たちの姿がいずれもどこか現実離れしているものだったのに対し、目の前の獣はなまじ見慣れた動物たちとの類似性が見出だせるだけに、その異常性が一層強く感じられるのだ。
ヘラジカのような巨大な双角に、恐竜を思わせる細長く尖った頭部。
肋の浮き出た痩せた体躯に、不釣り合いに膨れ上がった左手。右手は左に比べれば細いが、その指には左右いずれも漏れなくナイフのような鋭い鉤爪が生えている。
白い体毛が外套のように風に揺れ、棚引く。
その姿は一種美しくもあり、同時におぞましくもあった。
――咆哮。
鳥の声のように甲高く、しかしそれ以外は全く鳥のものとは異なる、形容し難い遠吠えを天に向けて放てば、いずれの獣もそうであったように、明確な敵意を背負って地響き立てて歩み寄る。
その巨大な左手の拳を地面につけながら、ゆっくりと、しかし巨体ゆえの素早さで二人へと近づいてくる。
「……アタシがまず突っ込む。アンタは援護しな」
「いいのかしら」
ほむらが問うのに、杏子は獰猛な笑みで応える。
「獣の相手は慣れてるんだ。特にこういうデカブツはね」
そう言えば、彼女は獣に臆することなく地を蹴って走り出す。
魔法少女時代の杏子も素早かったが、狩人としての彼女もそのスピードでは負けていない。
獣は、迫る杏子に向けて左拳を振り上げる。その巨大な拳で、叩き潰そうというのだろう。実際、獣の膂力であれをふるえば、人間など容易く四散させられるように思える。
だが、彼女は佐倉杏子、歴戦の魔法少女なのだ。大ぶりの一撃を貰うほど、彼女の動きは鈍くはない。
「たぁっ!」
獣の足元目掛け杏子は跳び込ように身を投げる。残像を獣の拳が潰した時には、杏子は身を転がしながら巨獣の背後に廻っていた。
「こっちだよウスノロォッ!」
杏子は獣の臀部目掛けて、思い切り斧を振るった。
スイングを効かせた一撃は、獣の分厚い皮膚を裂いて血を撒き散らす。
巨獣は呻き、振り返りながら右手を振るうが、既に杏子の姿はそこにはない。素早くステップして後退すると同時に、仕掛けを動かし、斧を両手で構える。
その動きに、ほむらは見覚えがある。彼女は長柄斧を振るいながらも、その動きは多節槍のものを応用しているのだ。
「そーらぁっ!」
バトンか何かのようにクルクルと大斧を廻すと、迫る巨獣の左手が地面に触れた瞬間に、彼女は地面を蹴り横薙ぎの一撃を振るう。相手の掌が地面に触れて、一瞬動きが止まった所を逃さない一撃。勢いをつけた斧の刃は、獣の左腕に深々と突き刺さる。
――悲鳴。
獣は左手の傷を押さえながら、泣き叫ぶように吠えた。
効いている。巨大な相手だが、斃せない相手ではない。
「はっ!」
ほむらは相手の注意が杏子と自身の傷に向いている隙を逃さず、地面を二度蹴って肉薄する。
仕掛けを動かし、ノコギリを槍へと変えて、そのギザギザした幅広の刀身を振り下ろす。
広い背中の肉をノコギリは抉り取り、血を撒き散らし、獣をより一層哭かせる。
――やはり効いている!
ほむらは更なる追撃を仕掛けるべく、仕掛けを動かし得物を鋸と化し、ラッシュを仕掛けようとする。
「馬鹿! 深追いすんな!」
杏子の警告は正しかった。
獣は傷ついた左手を振るうことで、背後のほむらに応じたのだから。
「!?」
咄嗟に盾を構えるが、やはり獣の爪の鋭さは防げても、衝撃までは防ぎきれない。
重い一撃に体は体重がないかのように吹き飛び、橋の石畳に背中を打ち付けられる。
「かは――」
肺を強打し、呼吸が一瞬止まる。
呼吸が止まれば動きも止まり、獣は獲物の動きが止まるのを逃しはしない。
振り返って、標的をほむらへと変える。
「こっち見ろよバケモノ!」
散弾が、獣の背部を叩く。
杏子は動けぬほむらを獣越しに見て、素早く援護に廻った。
銃身を折り曲げ、素早く再装填を済ませれば、次の散弾を獣へと放つ。
二度の射撃を受け、巨獣は杏子へと振り向かざるを得ない。
獣が杏子へと襲いかかる間に、ほむらは咳き込みながらなんとか立ち上がった。
「たぁっ! てりゃぁっ!」
杏子は斧の先端のスパイクを槍のように使って、素早い突きのヒット・アンド・アウェイを繰り返す。
短いスパイク故に獣へのダメージこそ少ないが、相手は苛立ち、一層大振りな攻撃を繰り返しては、素早い杏子の動きに翻弄される。
「……」
ほむらは悟る。
狩人としての力量は、今は杏子のほうが遥かに勝っている。自分が無闇に仕掛けても、それは彼女の負担になるだけだ。ならば、どうする。
(自分が出来ることを……するしかないのよ)
ほむらは盾の中を探り、二つのモノを取り出した。
杏子から貰った油壺と、道中で拾った火炎瓶。爆薬に詳しいほむらの知識が、この二つに呼応する。
「はっ!」
ほむらは油壺を投げ、若干の間を置いて火炎瓶を投げた。
二つが宙空にあるうちに、素早く獣狩りの短銃を抜く。片眼を瞑り、照準を合わせる。
「フッ――」
気合の呼気と共に、引き金を弾く。
銃弾は油壺と火炎瓶を同時に撃ち砕き、油と燃える油が合わさり、巨獣の背中を容赦なく焼き、爛らせる。
――悲鳴。
獣の絶叫を聞きながら、ほむらは再度同じ攻撃を繰り返す。
燃え盛る炎は、今度は獣の相貌を焼き、その悲鳴をより激しいものへと変える。
「……」
ほむらは追撃の銃撃を、獣の頭目掛けて放った。
燃える頭にそれは突き立ち、相次ぐ痛みに遂に獣は体勢を崩した。
「!」
下りてきた頭を、見逃すほむらではない。
自身の目線の高さまで下がった巨獣の頭部、その側頭部目掛けて、躊躇いなく拳を突き出す。
――ずぶり。
指先は容赦なく獣の肉に突き刺さり、ほむらが力を込めれば、確かに血肉を掴む。
そのまま思い切り引っ張れば、ごっそりと、それを為したほむら自身が怖気を催すほど、獣の肉を毟り取って血を撒き散らす。
獣は絶叫し、傷みに悶える。
しかし狩人は獣に容赦する筈もなく、杏子は好機とばかりに大きな背中へと斧を振りおろす。
「終わりよ」
ほむらは仕掛けを再起動し、鋸を槍として、両手で構え思い切り獣へと突き出した。
それは、杏子が斧を水平に構え力をため、二度連続する回転斬りを放ったのと、ほぼ同時だった。
――断末魔。
巨獣は最後に大きく啼くと、夥しい血と、蒼い光の奔流となって、まるで幻だったかのようにこの世から失せた。
その存在が幻影ではなかったことを示すかのように、最後に、地面に落ちた狩人証が残されていた。
――『剣の狩人証』
それはかつて医療教会の工房が発行した、狩人証の一つだった。
銀の剣は、教会の狩人の象徴でもある。
ルドウイークを端とする医療教会の狩人は また聖職者であることも多かった。
そして、聖職者こそがもっとも恐ろしい獣になる――。
――『YOU HUNTED』