――絶叫と共に、拳を突き出す。
指先はガスコイン神父――否、かつて彼
鼓膜を破るほどの咆哮が響き渡るなか、杏子は双眸に涙を滲ませながらも、掌を引き抜いた。
スプリンクラーのように血を撒き散らしながら、獣と化した古狩人は斃れる。
――ヴィオラ。
そう、神父は断末魔のなかで愛する妻の名を呼んだ。
青い光の奔流が四散し、倍以上に膨れ上がったガスコインの体は夢のように失せる。
「――」
杏子は声もなく泣いていた。
膝をつき、地面を掻き毟る。
雪のように灰が舞い落ちるオドンの地下墓には、斧でぐちゃぐちゃに叩き潰された獣化せし群衆の死体が転がり、やや離れた所に、美しい金色の髪をした、女性の亡骸も横たわっていた。その胸元の真っ赤なブローチは、彼女がガスコインの妻であり、杏子を姉のように慕う少女の母親であるという事実を、情け容赦無くさらけだしている。
――結局、杏子は間に合わなかったのだ。
ヴィオラは狂った群衆たちにより命を落とし、ガスコインは狂い、杏子すらをも獣とみなし襲いかかってきた。
必死に、説得は試みた。激しい攻撃の最中を縫って、預かった想い出のオルゴールを鳴らしてみたりもした。
だが、結論から言えば全ては無意味だった。
自己防衛の為に斧と槍とを交わすなか、不意に神父は大きく呻き出し、人ならぬ獣と化した。
獣の病。ヤーナムを覆う、忌まわしい厄災。その哀れな犠牲者たちを葬送の刃で送ってきた古狩人ですら、その業から逃れることはかなわなかったのだ。
ひとたび獣となってしまえば、もうどうにもならない。
魔女と化した魔法少女を救い得ないのと同様に。
「神様、なんでだよ。いつもどうしてアタシは――……」
父を、家族を、死に追いやり。
先輩と慕ったマミとは決別し――彼女は独り死んだ――、さやかを救うこともできなかった。
こうして迷い込んだ街で、新たに得た
救いたかった。助けになりたかった。だから狩人となった。
ちょうど、父を助けるために魔法少女になったように。
なのに――。
「……」
ソウルジェムを漆黒に染め、魔法少女を魔女と化すのに充分な絶望が、少女の心を満たす。
しかし皮肉にも、今や彼女は狩人だ。
血の医療により、より強靭になった肉体は、杏子に狂うことすら許さない。
『
『
『
『
背後から、新たなる呪詛が聞こえてくる。
墓地の入り口から、新手の獣の群れが、未だ自分が獣となったことすら気づかぬ群衆達が、血の匂いを嗅ぎつけて押し寄せて来たのだ。
あるいは、彼らに我が身を任せてしまうという、そんな選択肢もあった。
「……ああそうかい」
だが、杏子は立ち上がり、誰に言うでもなく呟いた。そんな楽な選択肢を、自分は選ぶ資格を持たない。
彼女の得物、多節槍は、獣と化けるガスコインの一撃に仕掛けを砕かれ、鎖を千切られて地面に転がっている。獣狩りの散弾銃は弾切れだ。
「解ったよ」
遺っているのは、ガスコインが獣と化すと同時に手放した、かつて彼が愛用した二つの狩り道具。
獣狩りの斧。そして特別に仕立てた散弾式の、獣狩りの短銃。
杏子は、その両方を拾い上げようとした。
「狩れば良いんだろうさ、獣を」
その前に、彼女は神父の亡骸が失せたあとも、一面に広がったままの血痕の、その真中に転がるモノを取り上げる。ガスコインが、マフラーのようにいつも巻いていた白布であった。そのうす汚れた首巻は、よく見れば美しい刺繍が施されていることがわかる。袂をわかってもなお、あるいは自身が狩人であることの証のためにか、首に巻き続けていた医療教会の象徴たる聖布。
「獣の病が絶える……その日まで!」
佐倉杏子は今、その白布を
左手で自身の首に巻き付けると同時に、右手では獣狩りの斧を握り、仕掛けを動かす。
斧を槍のように構え、いつも彼女がそうするように、くるくる手業で廻してみせる。
涙はうせ、八重歯を牙のように剥き出し、杏子は迫る獣へと相対する。
彼女にはなさねばならぬことが二つある。
獣を狩ること。そして一人の少女を、ガスコインとヴィオラの娘たる、白いリボンの少女を守ること。
全てを失い続けてきた自分に、最後に遺された、たったひとつの、みちしるべ。
彼女は狩らねばならない。
遺された、小さな命を守るために。
彼女は狩らねばならない。
犠牲者たちの、戦友たちの遺志が、せめて天に、あるいは狩人の夢に届くように。
――それだけが、ことごとく全てを台無しにしてきた自分に、せめて出来る唯一のことだと思えた。
――咆哮。
獣のように叫びながら、獣目掛けて佐倉杏子は駆ける。
そんな彼女の懐で、虚ろな容れ物となった筈のソウルジェムが、流される血を、その遺志を吸って、その真紅の輝きを取り戻し始めていた。
――『大橋』
「……」
ほむらは、巨獣が消え失せたあとに残った、首飾りのようなものを拾い上げた。
『剣の狩人証』――というその名を、ほむらは知らない。ただ、それが銀の剣を模したものであるらしいということ、凝った意匠から、貴重あるいは大事なものであったらしいということを察するのみだ。
「なんとかなったな」
杏子が仕掛けを動かし、斧を片手に戻しながら言った。
歴戦の魔法少女である彼女は、既に歴戦の狩人でもあるらしい。
浴びているのは返り血ばかりで、怪我らしい怪我もなく、息もあがっていない。
「それで? これからどうする?」
そして、今しがた仕留めた巨獣のことなどうでもいいかと言うように、彼女は封鎖された大橋の端を改めて見上げていた。時間を繰り返せば繰り返すほど、暁美ほむらにとって魔女狩りとは単なる作業と化していったが、日々の糧に魔女や使い魔を狩る杏子にもまた、そんな所があったのを思い出す。
「どうするもなにも、ここが使えないのなら、別の道を探すしか無いわ」
狩装束についた血を払い、帽子の下からそのまま出した長い黒髪も、右手でいつものように撥ね上げる。
確かに、巨獣を斃した所で、ただ危機を脱したというだけで、状況はなにも変わってはいないのだ。
しかし、この大橋が使えないとすれば、どうやって聖堂街に入ったものだろう。
「……ギルバートにもう一度聞いてみるしかないわね」
「ギルバート?」
「親切な人よ。ここまでの道も、彼から教えてもらったわ」
「ヤーナムで親切な人たぁ、珍しいねぇ」
胡散臭いと、杏子が顔をしかめる。
ほむらも内心同意だった。このヤーナムの街は余りに冷たく、陰気で、よそよそしい。
「私達と同じ、余所者よ」
「ああ、なるほど」
この答えには、杏子は納得した様子だった。
ほむらはそんな反応から、自分と同じような苦労を彼女もしてきたことを察した。
「ギルバートの家はこの橋を引き返して――」
そこで、ほむらは気がついた。
唐突に言葉を止めたことに、訝しんで杏子も、ほむらと同じ方向を見る。
「……あんなの、あそこにあったか?」
「いいえ。さっきまでは何もなかったわ」
ほむらは首を横に振る。
二人が見つけたのは、何故か道の真中に突き出た、先にランタンを吊るした鉤棒。
ギルバートの家の前にあったものと、全く同じもの。
あの奇妙な、閉ざされた庭園への入り口に他ならない。
「あなた、あれと同じものをこれまで見たことは?」
「……いや」
杏子は首を横に振る。
ほむらは、彼女に自分の見たものについて簡単に説明をした。
「獣の病だけじゃねぇのかよ……なんなんだよ、この街は……」
「同感ね。本当に、なんなのかしらこの街は」
言いつつほむらが手を翳すと、ランタンが灯り、紫の光を辺りに放ち始める。
「げぇっ!? きもちわるっ!?」
杏子の言葉でほむらも初めて気がついたが、ランタンの掛かった鉤棒の根本に、地面から湧き出た例の白い小人達が群がっている。ほむらは既に見慣れているが、確かに、出し抜けにあの奇怪な顔を幾つも見せられたら、杏子のような反応も不思議ではない。
「見た目はああだけど、敵意はないようね。前に贈り物をもらったわ」
「マジかよ……」
杏子は不審げだった。
「……こうして私達の前に、新たにコレが現れたのにも、何か意味があるかも知れないわ。ギルバートの所に行く前に、もう一度、あそこに行ってみようと思うのだけれど、あなたはどうするのかしら?」
ちょっと考えて、赤毛の魔法少女は首を横に振る。
「やめとくよ。あたしにはちょっと得体が知れない。それに……あたしはあたしで、寄り道したい所があるからね」
「じゃあ、お互い用事を済ませたら、またこの大橋で合流するというのはどうかしら? 捜し物なら、手分けしたほうがどのみち早いわ」
「そうすっか……じゃあ、コイツを渡しておく」
杏子が懐から取り出したのは、小さなベル状の鐘であった。
「これは?」
「『小さな鐘』……とかそんな名前だったよ確か。おっさんが言うには、他の狩人と協力したい時、連絡を取り合うのに使うんだとか」
「……おっさん?」
ほむらの当然の問いを受けて、一瞬、杏子は顔を強張らせた。
「――こっちの話だ。とにかく、そいつを鳴らせば、同じような鐘を相手が持っていた場合、どこにいようと、どんだけ離れてても一緒に鳴り合うんだそうだ。まぁ、実際に使ってる所を見たことないから、ホントの所はよくわかんないんだけどね」
ひとまず、ほむらは小さな鐘を受け取った。
青みがかった、なんとも言えない不思議な色をしている。どんな金属で作られているのか、まるで見当がつかない。
「試しに鳴らしてみるぞ」
杏子が同じような鐘を――大きさがほむらのものよりも大きい――を鳴らしてみると、不思議なことに、確かに小さな鐘も共鳴して不思議な音色を奏で始める。つくづく、このヤーナムの街には驚かされることばかりだ。
「うまくいったな。これで別行動も問題ないってわけだ」
「そのようね。それじゃあ」
「ああ、また」
そうして杏子とは一旦別れた。
ほむらとしては、杏子は実に協力しやすい相手だった。
彼女はマミほど理想主義者でもなく、さやかほど感情的でもない、理知的で、冷静に損得の勘定もできる。
この謎だらけの街を探る上では、最適のパートナーと言えるだろう。
(マミ、さやか、そして……まどか。あなたたちも、このヤーナムの街に迷い込んでいるかしら)
そんな問いを抱き、あるいはその答えを手に入れることを期待して、ほむらはランタンに手を翳す。
翳せば、前の時と同じように、意識が遠のき始める。
体が薄くなり、希薄化し、陽炎のように消え失せる。
まるで眠りに落ちるように、ほむらの意識は途絶え――……。
「はじめまして。狩人様」
――動き出した『人形』が、そう言って出迎えたのだ。