「はじめまして。狩人様」
その鈴の音のような声を聞いた時、ほむらは面食らって固まってしまっていた。
眼の前にいる『人形』は確かに、打ち捨てられて石段の上に腰掛けていた筈だった。
それが今や生き物のように立ち上がり、挨拶し、ほむらのほうへと一礼している。
「……」
ほむらの手は、自然と短銃の銃把へと伸びていた。
これまでの経験のなかでは、こういう超常の手合はおしなべて碌でもない連中であったのだから。
「私は人形。この夢で、あなたのお世話をするものです」
しかし人形は、相変わらずの動かぬ美しい顔で、静かにそう告げるばかり。
礼儀正しく、耳心地のよい声だった。そこからは、いかなる悪意も読み取ることはできない。
「『ゲールマン様』にお会いしましたか? あの方は古い狩人、そして狩人の助言者です」
人形は、赤い手袋――花に蔦の柄が美しく、白いレースが端から延びている――に包まれた掌を、墓石立ち並ぶ階段の先の小さな屋敷のほうを指さした。その指は、人形らしく、あからさまに関節が指と指の間に陰を作っていた。
「あの屋根の下で、ゲールマン様がお待ちのはずです。さあ、狩人様……」
人形に促されて屋敷のほうを見れば、かたく閉ざされていた筈の扉が、全て開け放たれているのが見えた。
あの開け放たれた扉の向こうに、ゲールマン、とやらがいるらしい。
「……」
ほむらは警戒心を抱きつつも、人形に促されるまま、階段を昇る。
ともかく、望んでいた『変化』が起きているのは間違いないのだ。
何が待つにしても、それを確かめぬわけにはいかない。
「やあ、君が新しい狩人かね」
開け放たれた扉をくぐった時、ほむらを出迎えたのは落ち着き払い、最早枯れ果てたという印象すら抱かせる声だった。
「ようこそ『狩人の夢』に。ただ一時とて、ここが君の家になる」
声の主は、車椅子の老人であった。
杖と、右足の義足を足置きの上に突いた、草臥れた格好の老人なのである。
「私は――……ゲールマン。君たち狩人の、助言者だ」
何故か老人は、奇妙な間を空けながらそう名乗った。
あたかも、自分の名すら一瞬、忘れてしまったかのように。
ゲールマンがほむらに対し語った情報は、殆ど最低限度のものと言ってよかった。
「今は何も分からないだろうが、難しく考えることはない。君は、ただ、獣を狩ればよい。それが、結局は君の目的にかなう。狩人とはそういうものだよ。直に慣れる」
魔法少女に関しての、あの隠し事だらけのキュウべぇの説明すら凌ぐ、説明とすら言えない説明である。
「説明になってないわ」
故にほむらは、こう言ったのだ。
「――全てを語ることに、いったい、何の意味があろうものかね」
しかしゲールマンは、諭すように応えるだけだった。
「ここは夢……夢に理屈を求めるなど、愚かしいだけじゃあないかね」
「……」
相変わらず、なにも説明しない物言いだった。
にも関わらず、その深遠な声で語られたそれは、理論を超えた不可思議な説得力を有していたのだ。
「君は、この
一瞬、その静かな声に、明らかな憎悪が走った。
それでほむらも気がついた。あるいは、ゲールマン自身が、この夢に囚われているのかもしれないと。
「狩り……とやらを全うすれば、私は戻れるのかしら? 本来、私のあるべき場所へと」
ゲールマンは静かに頷いた。
「君は夢を忘れ、朝に目覚める。……解放されるのだ、この狩人の夢から」
「……『青ざめた血』とは?」
ほむらは、ずっと気になっていた謎めいた言葉について訊いた。
ゲールマンの答えは、やはり曖昧模糊としたものであったが。
「宇宙は空にある。空を見つめたまえ。君もいずれ、青ざめた血の空を見出すだろう。故に……かねて、血を恐れたまえよ」
「……」
ほむらは詳細に意味を問うのを止めた。
訊いた所で、答えが返ってくることは期待できなかった。
その後、ほむらはゲールマンからこんなことを教わった。
曰く、この場所は、元々は狩人の隠れ家であったということ。
曰く、血によって、狩人の武器と肉体を変質させる、狩人の業の工房だということ。
曰く、今は幾つかの器具は失われているということ。
曰く、残っているものは、すべてほむらの自由に使ってよいとのこと。
「君さえよければ、あの人形もね」
最後に、ゲールマンはそう付け加えた。
ほむらには、意味のよくわからない言葉だった。
人形を、いったい何に、何のために使うというのだろうか。
「……これが、何か解るかしら?」
ゲールマンは話すべきことは全て話し終えたという様子なので、ほむらは最後に左手の甲を見せて問う。
そこにはソウルジェムが失せたあとに、例の、奇妙で見覚えのない
「!」
ゲールマンはここで、初めてその表情に変化を見せた。驚いたのか、両眼を大きく見開いている。しかし、続けて出てきた言葉は、例の静かで落ち着いた調子のままだ。
「それは『月』だよ」
「……『月』?」
謎めいた言葉である。
ほむらが首を傾げれば、ゲールマンは頷き、言葉を続けた。
「かつてビルゲンワースの学徒、筆記者カレルは、人ならぬ声の表音となる秘文字を遺した。『月』とは、いわば感応する精神。故に、呼ぶ者の声に、応えることも多いと聞く」
「???」
ほむらはには意味不明であった。
ビルゲンワース?
筆記者カレル?
人ならぬ声?
いったい、何についてゲールマンは話しているというのか。
「ビルゲンワースは、古い学び舎。大いなる、朽ちた夢の痕。今や、眠りを守る断絶であり、故に神秘の前触れでもある。君がそれを求めるならば、その先を目指したまえよ」
話は終わりとばかりに、ゲールマンは言葉を打ち切った。
これ以上は、何も聞き出せないであろう。
ほむらは、意味は解らずとも、この謎めいた老人の言葉を、残らず記憶にとどめた。
ほむらがゲールマンのもとを辞し、墓石並ぶ階段を降りれば、そこで人形はほむらのことを待っていた。
「狩人様」
人形は、鈴のなるような声でほむらを呼び止めた。
「血の遺志を求めてください。 私がそれを、普く遺志を、あなたの力といたしましょう。 獣を狩り、そして何よりも、あなたの意志のために。どうか私をお使いください」
――君さえよければ、あの人形もね。
ゲールマンの、謎めいた言葉が、ほむらの脳裏で反芻される。
「ゲールマンは言ったわ。『血によって、狩人は肉体を変質させる』と。それを、あなたが為すというのかしら」
人形は、上品に頷いた。
「血の遺志を、あなたの力としましょう。血が、人の強さを支えるのですから」
ほむらは一瞬、彼女が何を為すのか、試みたくなった。
しかし、キュウべぇ、あるいはインキュベーターという悪しき前例を思い出し、止まった。
代わりに、例の不気味な白い小人たちについて、ほむらは人形に尋ねた。
「ああ、小さな彼らは、この夢の住人です。あなたのような狩人様を見つけ、慕い、従う。言葉は分かりませんが、かわいらしいものですね」
最後の言葉に、ほむらは不本意ながら同意だった。
ほむらが夢より去ったあとも、ゲールマンの体は珍しく、工房のなかにあった。
『……やれやれ、随分と、わけのわからない展開になってきたね』
その背中に、不意にかかる声。
それは少年のようでもあり、少女のようでもある。
『先に言っておくけど、ボクは
小動物のような足音を鳴らしながら、声の主はゲールマンの前へと廻った。
助言者は、例の真意の読めぬ瞳で、声の主を見つめるのみだ。
『興味深いじゃないか。少なくとも、この停滞した現状を打破する、きっかけになりうるかもしれない』
期待するような口調ながら、声は恐ろしいほどに無感動だった。
まるで感情など、最初から存在していないかのように。
『君自身、それを望んでいるんじゃないのかな? 助言者、あるいは――』
声の主は、ゲールマンへと振り返った。
そして、その紅く、丸く、無感動で、何ものも映さぬ瞳を、車椅子の老人に向けるのだ。
『最初の狩人、ゲールマン』
声の主は、赤い瞳の持ち主は、白い体躯を持ち、長い耳と尻尾の持ち主でもあった。
暁美ほむらがその姿を見れば、憎悪と共に、その名を呼んだだろう。
――キュウべぇ、あるいは、インキュベーター、と。