昨日のライブは、途中からの記憶が曖昧だった。
最後の曲の後にアンコールが二曲あり、ライブは無事に終了。
その後は楽屋の方に挨拶に向かい、大和さんに舞台裏を簡単に案内してもらいながら、最後にボックスフラワーを渡して帰ってきた。
あの時、僕はちゃんといつも通りでいられただろうか。大和さんの知っている山科遥のままで。
「…………」
葛西さんには、二人はうまくいくんじゃないかなと言われた。
僕も確かにそう思う。
大和さんと趣味も感覚も似ている部分が多いし、いい関係を築けているだろう。もし演劇部の公演が終わってしまっても、その気になれば僕達の関係はずっと続けていくことができるのかもしれない。
「……いや」
だけど、白鷺さんの言葉はそれ以上に正確に事実を把握していた。
大和さんはアイドルであることを僕が知らずにいたからとしても、それが事実であることは変わらない。
僕と大和さんの関係は、僕と大和さんだけの問題に留まってはくれない。
大和さんにこの気持ちを伝えるのであれば、僕は大和さんが背負っているものを、僕自身も背負わなければならない。
だけど、僕にそれができるかといえばきっと無理だ。
僕には勇気も、意志もない。
流されたまま生きてきて、ようやくその勇気の持つための光明を見出せそうになってきたのだ。
何も入っていない、空になった紙袋が視界の端に映る。
あのボックスフラワーは僕の小さな勇気の印だった。小さな箱の中いっぱいに詰め込んだ
だけど、希望は持てなかった。
持ちうるはずだった希望は、絶たれてしまった。
飛び方を覚えようとしていた鳥に、嵐は過酷すぎる。
勇気の出し方を覚えようとしていた僕に、この問題は過酷すぎた。
「…………僕、は……」
アイドルとしてステージに立つ大和さんは、本当に可愛かった。素敵だった。好きだと思った。
裏方として一緒に何かを作れる大和さんも好きだけれど、ああして舞台に立つ大和さんだって魅力的だった。
だから、あのステージに立つ大和さんの笑顔を曇らせるようなことだけはしたくない。
だから、
だから、
「…………」
この気持ちは、絶対に伝えてはならない。
葛西さんから『今すぐ駅前に集合』と連絡が来たのは、『大和さんに気持ちを告げる気はない』とメッセージを投げた直後だった。
まるで待ち構えていたみたいなスピードで呼び出しを受けた僕は、とりあえず急いで駅の方に向かった。
「やっほー、山科君」
「こんにちは、葛西さん」
「あれ、思ったより元気だね? もうちょっと分かりやすく落ち込んでると思ってたんだけど」
「全然落ち込んでないよ」
当たり前だけど、今日の葛西さんは私服だった。
生地の一部がメッシュのワンピースになっていて、通気性もよく涼しそうだった。日焼けするのを嫌がってか、つばの大きめの帽子を被っている。
そして、何よりも目立つのは少し大きいようにも見える眼鏡だった。
「葛西さんって、目が悪かったの?」
「え? ああ、これは特に実用性はないの。ほら」
「……あ、度がない」
「そうそう」
眼鏡がある無しでは、人の印象というのはかなり変わる。
今の葛西さんはお爺さんの家に帰省しているという予定なので、知り合いに会うと少し面倒なのだろう。
「まあ、それはいいの。ほら、早く中に入ろ。私、流石に暑くてさ」
「う、うん」
葛西さんに手を引かれ、そのまま近くにあったカフェに入る。お菓子が売りのお店らしく、ケーキやクッキーがショーケースに綺麗に並べられている。
僕達は手早くお会計を済ませると、買ったケーキとドリンクを持って近くの席に座った。
僕がチーズケーキにアイスコーヒーで、葛西さんがベリータルトに紅茶。
何を話せばいいか分からなくて、とりあえずコーヒーに口を付けたところで、葛西さんが「いきなり本題に入るけど」と口を開いた。
「あのメッセージ、本気?」
「うん」
大和さんに気持ちを伝えない。
僕と大和さんの関係は、この舞台でそれっきり。
これだけは、何があっても決して変える気はない。
「……昨日のライブで、何かあったの?」
「それ、は……」
言葉に詰まり、コーヒーをテーブルに置いた。
口の中が苦いのは、きっとコーヒーのせいだけではない。
昨日のライブは確かに、決定的な理由ではある。
僕はアイドルとしての大和さんの生活を脅かすかもしれないという事実に耐えきれなくて、それを脅かしてもなお関係を続けることを拒んでいるのだから。
でも、本当の問題はその“勇気がない”部分だ。
得意なことも追いかける夢もなくて、ただ舞台の外から決して光の当たらない場所で、光の当たる誰かを照らすことしかできない。
僕は、有象無象として舞台に立つことすらできないのだ。
「ふーん」
葛西さんは紅茶を一口飲んだ。
「言いにくい事?」
静かにうなずく。
「一時の感情じゃない?」
違う。
「もう、決めたことなの?」
ああ。
「…………」
葛西さんが黙ってこちらを見つめる。
嘘を許さないというその強い眼差しから、目をそらすことができない。
僕が語れることは、語る資格のあることは、何一つない。
裏方に台詞は与えられない。
「……そっか」
まだ何か思うところがあるかのようなその口ぶりだった。
「でも、山科君さ」
「何?」
「すごく苦しそうな顔してるよ?」
「────ッ!」
顔がこわばったのが分かった。
「確かに後悔してないのかもしれないけど、納得いってないっていうか」
「そんなこと」
ないわけが、なかった。
「そんな、こと」
大和さんがアイドルじゃなかったら、こんなことはなかったのだ。葛西さんみたいに普通の人だったら、こんなことにはならなかった。
いっそ他の四人みたいな人であればよかった。
絶対に関わることがないような、無関係な人のままでいてほしかった。アイドルなんて今まで知らなかった。興味も関係もない、違う世界に住む人達のままでいてほしかった。
どうして、どうしてこんなに近いくせに、遠い場所にいるんだろう。
僕と同じ光の当たらない場所にいてくれないのだろう。
「…………っ」
裏方で、機材が好きで、舞台を作るのが楽しくて、波長が合って。
シンクロする度に惹かれていって、気持ちが積み重なっていた。
夢があって、技術があって、舞台に立てて、前に進めて。
僕が喉から手が出るほど欲しかったものがあって、胸が急に苦しくなっていた。
どちらか一つなら、初めから答えは一つしかなかった。
なのに君は両方持っていて、それはあまりにも残酷すぎた。
これじゃあ、自ら火に飛び込んで自殺している虫みたいじゃないか。
「私はね、押しとどめる必要なんてないと思うんだ」
「伝えないって、言ったじゃないか」
語調が荒れる。
気を使っている余裕がない。
「伝えるだけが、気持ちを開放する方法だと思う?」
「……え?」
顔を上げた。
「山科君は麻弥ちゃんと似ているって、みんな言うよね」
「そう、だね」
似ている。
苦しい程に基本的な性質が似ていて、決定的な部分が乖離している。
「だけど私は、山科君に一番似ている人は私だと思うんだ」
「葛西さんが?」
「うん」
葛西さんはケーキを一口食べて紅茶を飲む。
その表情は少し楽しそうで、でも何を考えているのかよく分からない、いつも通りの葛西さんだった。
「私もね、好きな人がいるんだ」
「……そうだったの?」
「うん。だから、あんまり声かけられるのも困るっていうか」
ずっと女子高だったからよく分からないと言っていたけど、あくまでもそれは方便だったらしい。
「私には趣味とか特技といえることがなかったの」
「え、アクセサリー作るのは?」
「それはね、恋してから覚えたんだ」
葛西さんは紅茶をまた一口飲んで、「男の子と恋バナとか、慣れなくてちょっと恥ずかしいかも」と笑った。
「私の好きな人は周りからも凄いモテて、周りからいっぱいアプローチされてたの」
どの人達もオシャレで可愛くって。
お菓子作りが得意な子はクッキーを焼いて渡したり、字の綺麗な子は手紙を書いたり。みんなが、それぞれ得意な方法でその人にアプローチしていた。
「でも、私は料理なんてできないし、字は上手じゃないし、歌だって、勉強もスポーツも、全部が中途半端で、何もできなかったの」
なんだか意外だった。
葛西さんは部活の段取りもしっかりしていて、周りへの指示出しは完璧だし、担当している部分の作業はやり直しの頼みようがないくらい上手だ。
そんな葛西さんが何も取り柄がないなんて、想像しようがなかった。
「中学の時に修学旅行で広島へ行くことになったんだけど、千羽鶴を折ることになったんだ」
「あるね。僕も小学校の修学旅行でやったよ」
「山科君は千羽鶴、折れる?」
「え? 折れるよ」
肯定したけど、あの頃はあまり覚えていなかった気もする。
演劇部の小道具として折り紙を使う機会があって、その時にいろいろと覚えたので、もしかすると鶴もその一つだったかもしれない。
「クラスに折れなかったり、下手くそな子がたまにいるでしょう?」
「いるいる。代わりに女子に折ってもらってたよ」
「私はそういう子に教えてあげたり、代わりに折ってあげてたんだけど、それを知った好きな人が、私に言ったの。『君は器用で教え上手なんだね』って」
それは、葛西さんにとって天啓だったらしい。
「ずっと得意なことなんてないと思ってた。だから、それって私にとって初めての“特技”だったの」
それから、葛西さんは少しずつ変わった。
「最初は折り紙。次は華道。そこから演劇部に入って小道具作りを覚えて、今はアクセ作りを始めて」
「すごい成長だね」
「ううん。全部、その人のおかげなんだ。好きな人が凄いと褒めてくれたものだから、私はまた新しい作品を作れる。その人がきっとまた凄いと言ってくれるから」
気持ちを伝えることはなくとも、この気持ちに正直になることができる。
「告白なんてしなくたって、好きでいられるんだもの。相手が応えるかなんてどうでもいい。だって、好きかどうかなんて私達の気持ち以外が口出しできるわけないんだもの」
葛西さんは頬を赤らめた。
「私は今、好きな人が魅力的になるようなアクセを作りたいの。世界の誰よりも、その人に似合う最高のアクセを」
「その人に似合う、アクセ?」
「うん。私が最高のアクセを作って、その人がそれを付けて最高に綺麗になって、私に『凄いね』って言ってくれるなら、それほど幸せなことってないと思わない?」
一方通行の思いだったとしても、好きな人が魅力的になれて、自分のことを褒めてくれるのなら。
それはきっと、思いが通じ合うのに負けないくらい素敵なことなのだと。
「山科君が気持ちを告げない理由は聞かない。それは、山科君の中にだけしまっておいてもいい」
葛西さんは僕の手を取った。
「もし気持ちを告げないことが苦しくて仕方ないのだとしたら、せめてその人のためにできることをしたらいいと思うんだ」
「大和さんのために、できること……?」
「うん。山科君が麻弥ちゃんのためにできること」
そんなことが、僕にあるのだろうか。
僕と同じ知識や技術を僕以上に持っている大和さんに対して、僕ができることなんて。
「あるよ」
「どうしてそんなこと言えるのさ」
僕にはなりたい姿を見つけることだってできないのだ。
ましてや、相手にできることを見つけるなんて……。
「『未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ』」
「それ……」
それは、葛西さんが以前口にした言葉だ。
「好きな人が私に言ってくれた言葉なの。なりたい未来の姿を思い描けないのなら、今ここでやりたい自分になればいい。未来で変わるんじゃなくて、今この瞬間に変われる範囲で変わればいい。変わり続ければ、それはいつか本物になる、って」
いつかの未来で本当になれるのなら、それは今にとっては確かに“なりたい自分になれた未来”に等しい。
「だから、今この瞬間、山科君自身にできることをやればいいと思う。小さなことでも、些細なことでも」
変わりたいと願った瞬間、もうその人は変わっているのだから。
「……って、柄にもなく熱くなっちゃったね」
葛西さんは僕から手を離して、紅茶を一口飲んでケーキを食べた。
「あ、それ一口もらってもいい?」
「え? ああ、いいよ」
「ありがとう! あ、チーズケーキも美味しいね。こっちも食べる?」
「いいの?」
「いいよ、私も貰ったんだし」
葛西さんが差し出してくれたケーキを少しだけもらう。
タルトの生地が口の中で崩れて程よい触感が美味しい。ベリーの部分も甘みと酸味の加減が絶妙で、これは次に来た時はタルトを頼むのもありかもしれないと思った。
「……ねぇ、葛西さん」
「どうしたの?」
「もしかして、他の人にもこんな感じ?」
「なんで?」
「……男子高生なんて、こんなことされたら勘違いされるよ?」
女性経験がただでさえないメンバーなのだからなおのことだ。
僕だって好きな人がいるとか、そんな話をされていなかったら勘違いしてしまうところだっただろう。
「……まずい?」
「まずい」
新藤さんみたいなのは誰にでも近いんだろうと思うような明るさがあるけど、葛西さんの場合は普段ガードが堅そうなのにこういうことするから勘違いする人が増えるのだと思う。
「好きな人にも、いろいろと勘違いされるかもしれないから、気を付けた方がいいと思うよ」
「え!? あ、うーん…………そうだね、そうする」
葛西さんは少しだけ歯切れ悪そうにしながら頷いた。
「ま、まあ、ともかく。もしも何かするんだったら、私も協力するよ」
「ありがとう」
「ううん。私がやりたくてやってるだけだから」
気にしなくてもいいよ、といつも通りの表情で笑う葛西さん。
ずっと、なんで僕に協力的なのだろうと思っていたけれど、それはきっと今の僕が昔の葛西さんに似ていたからなのかもしれない。
いつかの自分に好きな人がしてくれたように、僕のことを助けているだけなのだろう。
「……葛西さんも」
「何?」
「葛西さんも、何かあったら、相談してほしい」
助けられているばかりでは申し訳ない。
何かしてあげられるなら、僕も助けてあげたいと思う。
「ありがたいけど、まずは自分のことを何とかしてからね」
「それはそうかもだけど……」
「私は本当に大丈夫だよ。山科君みたいにあれこれと動くっていう状況でもないから」
強がりでも何でもなく、本当にそう思っているような口ぶりだった。
「まあ、気持ちは嬉しいから、本当に何かあったら頼るね」
「うん」
「あ、それと」
「何?」
チーズケーキを食べる手を止めて顔を上げる。
「明後日の件なんだけどさ」
「うん」
「もう一人連れて行っても大丈夫?」
「葛西さんの知り合い?」
「そうそう。大丈夫?」
「僕は別にいいけど……」
僕の知らない人だろうか。
邪魔なら引いた方がいいのかもしれない、とも思うけど。
「三人で行きたいんだ。山科君が大丈夫なら、また詳細は明日にでも投げるから」
「いいよ」
もともと用事があるわけでもないし、気分転換になるなら好都合だ。
「ありがと。楽しみにしてて」
「うん。ちなみに誰? 僕の知ってる人?」
「演劇部の子。誰かは秘密ね」
「……分かった」
本当に誰か言う気はないらしいので、追及を諦める。
ケーキを食べて、コーヒーに口を付ける。
「薄い……」
氷が解けて、コーヒーはもう苦くなかった。
葛西さんがどうして協力的だったかの理由はだいたいこれだけです。
そして、葛西さんの好きな人はこんな人で……とかも決めてるんですけど、この物語はあくまでの山科君の物なので、きっと描かれることはないでしょう。
メッセージ性、という意味で言えばこの話が一番強いのではないかと思いますし、これが“転”の要素だと思います。
個人的な信条の話ですが、全く分からない将来の姿よりも、今日なりたい自分になるのが一番素敵だと思っています。「壮大な未来」よりも「昨日より0.1秒速く走れる今日」「昨日解けなかった問題が解ける今日」を生きる方がいいな、と。