斜陽に向かって手をかざしながら歩く。
今日は体育館が使えないため練習も空が赤くなった時点で解散となった。明日と明後日──本番の前日と前々日──は体育館で練習するため、この時間に帰るのは今日が最後となる。
僕は日が沈まないうちに少し急ぎ気味で進む。
本番になるその前に、ほんの少しでもいいから夕焼けの公園という景色を自分の目に焼き付けておきたかった。
「結構広いな」
地図アプリでおおよその大きさは理解していたけど、自分の目で見ると改めてそのスケールを理解する。羽丘から少し移動した先にある公園で、僕自身は来たことがない。
とりあえず、イメージを固めるのも兼ねて座れそうなベンチを探すことにする。理想は舞台と同じ状況である南向きのベンチだけど、ダメなら違うのでもいい。
「えっと……」
ふらふらと公園内を散策していると、人が座ってはいるが南向きのベンチを見つけた。後ろ向きなので顔は見えないが、羽丘の制服を着ている背の高い人だ。
人が座っているとはいえ、ベンチの様子を確認するだけならじろじろ見なければ問題はないだろうか。少し迷いながら歩いていくと、ベンチの前方の方に座っていた女子生徒の方から「おや」と声をあげた。
「遥じゃないか」
「瀬田さん?」
「電車通学の君がここを通るなんて、とても運命的だね」
「瀬田さんこそ、どうしてここに……」
知り合いの可能性は少しだけ考えていたとはいえ、まさか瀬田さんがいるとは思っていなかった。
瀬田さんの手元に視線を落とすと、そこには台本が収まっている。
「瀬田さんもイメージ固め?」
「役を演じていれば、いろいろなことを思う。彼女が何を思ってこのベンチに座っていたのかを、少しだけ感じたくなったんだ」
彼女というのは、瀬田さんの演じる女子大生のことだろう。
「君も座るかい?」
「いや、別に────」
僕は出演するわけではないから、どちらかと言うとベンチを眺められるような位置にいた方がいい。そう分かり切っているというのに、なぜかここで瀬田さんの誘いを断るのは、なんとなく躊躇われた。
「じゃあ、せっかくなら」
「ああ」
中央に座っていた瀬田さんが少し端によってくれたので、空いた方に座る。
「遥のおかげで、さらに舞台の雰囲気に近づいたよ」
「僕が男子高校生ってことね」
柴田の代わりも運動部の高校生の代わりになれると言ってくれるのが、少しだけ嬉しかった。
「こうして二人で落ち着いて話すのは、初めてだね」
「確かに。今までは部活の中でしか話してないもんね」
裏方と役者、青蘭と羽丘。
僕達は対照的な位置関係だったのもあり、事務的な内容ばかり話していた気がする。少なくとも、瀬田さんと雑談を交わした記憶というのはほとんどない。ましてや二人で落ち着いて話す機会など一度もなかった。
「最近は、よく遥の話を聞くよ」
「そうなの?」
「克之はよく遥の話をするし、羽丘のみんなも遥のことを評価している。もちろん、私もね」
「いや、僕は全然。それよりも瀬田さんの方がすごいよ」
実際、運動部が大会に向けて精力的になるはずの夏に、体育館での練習時間をたくさん用意できたのは瀬田さんのおかげだ。
観客だって瀬田さんを目当てに来る人がたくさんいるらしい。瀬田さんの演じる女子大生は中心人物だし、彼女の功績はとても大きい。
「遥は謙虚だね」
「瀬田さんこそ」
あまり話したことはないが、瀬田さんはなんだか掴みにくい人だ。表情を隠しているようにも見えるけど、なんだかんだで見た通りのような気もする。ただ、悪い人には全く思えなかった。
瀬田さんはいつもの不思議な笑みを浮かべながら台本を取り出した。
「そういえば、遥に聞いてみたいことがあったんだが、聞いてくれるかい?」
「僕でよければ」
カバンから自分の台本を出した。瀬田さんが終盤のページを見せたので、僕も同じ場所を開く。
瀬田さんは開かれたページのある場所を指さした。
「ここに座って、ずっと考えていたんだ。彼女は、最後に恋人のことを吹っ切る。『私、もう彼のこと、なんとも思ってないみたい』……という台詞と共に」
男子高校生と共にいろんな人の話を聞いて、その最後に女子大生の出した答えがそれだった。
「このセリフの意味をずっと考えているんだ。彼女が何を思って言ったのか、本当の気持ちは何だったのか」
「それが分からないってこと?」
「私自身、恋をしたことも失恋をしたこともない。もちろん役の上でならあるけどね」
瀬田さんは少し困った顔をした。
「相手のことを忘れてスッキリしたのか。あるいは本当の想いをひた隠す強がりの言葉なのか」
「確かに、そこの解釈は複数取れそうだね」
瀬田さんの言葉に頷きながら、少しだけ考えてみる。
「彼女は、恋人に事情を問い詰めていけるほど胆力も強さもある女性だ。だが、その胸の内は非常に儚い」
「そうだね。だからこそ自分の想いを安易に人に語ることもできなかった」
誰もがそうであるように、女子大生もまたいろんな不安を抱えている。だけど、強いが故にそれを一人で抱え込んでも潰れないでいられる。
女子大生は、恋人に「もっと頼られたかった」と捨てられることになる。甘えてくれる人の方が彼の好みだったから。
「だから、彼女への解釈を深めるためにここへ足を運んだのさ。話題というわけではないが、できれば遥の意見も聞いてみたい」
「ちなみに、瀬田さんは決めているの?」
「彼女がずるずると想いを引きずり続ける性格には見えない。だから、私はすっぱりと諦めた演技にしようと思っているよ。星空を見上げながら、どこか澄んだ気持ちになったような儚い演技を」
この問いに正解はない。なんなら瀬田さん自身の解もあるから、おそらく僕の答えは僕の考えを知る以上の意味はないのだろう。
本当に単なる話題の一つにすぎないらしい。
失恋し、その思いを吹っ切る。確かに僕も女子大生が想いを引きずるようには見えない。どちらかと言えばすっきりした方が近い気がする。
でも、それが例えば僕の話なら……
「……悲しい、かな」
「それは、想いを引きずっているということかい?」
「ううん。それはすっぱりとけじめがついたんだと思う」
もし僕が大和さんへの想いをすっぱり諦めることができたら、それはきっと素敵なことだと思う。彼女の邪魔にならず、すぐに消えることができるのだから。
でも、本当にそうなったのなら。
きっと僕は、自分が嫌で仕方なくなるような気がした。
「だって、一日で諦められるような恋だったのかなって思ったら、悲しいから」
こんなに好きで、苦しくて、嬉しくて。感情が濁流みたいに自分でも操作できない日々が恋だ。
だというのに、そんな感情が一瞬で止まってしまったら、なんだか空っぽになってしまったように感じてしまう。
今まで恋に恋をしていたのではないか、本当に相手のことを好きだったのか。それすらも分からなくなって。
最後には、
「ずっと必要だと、君がいないといけないって信じてたのに、諦められちゃったら」
そんな、一人でいる強さを持ってしまったことがたまらなく悲しい。
だから私は、一緒にいられなかったのだから。
僕が女子大生の立場でその台詞を口にするのなら、なんとも思っていない自分に対する自己嫌悪だけだ。
「想いを振り切ってしまったからこそ、その想いへの悲しみを語る。遥は、そう思ったんだね」
「本当は女々しく引きずりたい。今までの日々に思い入れがないなんて嘘だ。僕はこの想いを捨て去りたくない」
ああ、そうだ。
大和さんへの想いは捨て去る。捨て去らなくちゃいけない。僕には捨てる理由があって、想い続ける理由がない。
だけど、それでも僕はこの恋を捨てたくない。
「ごめんね、こんな女々しい答えで」
「いや、そんなことはないさ」
瀬田さんは優しく笑みを浮かべ、僕に視線を合わせた。
「抱いてきた恋に対する気持ちが伝わる、とてもいい回答さ」
「そうかな?」
「ああ。それに『その想いを捨てたくない』という気持ちこそが想いを吹っ切れていない証拠だと、私は思うよ。彼女はきっと、自分の恋を一番素敵な形で思い出にしまうことができたんじゃないだろうか」
諦めなければ先に進むことはできない。でも、捨て去ってしまうのはあまりにも人として空しいから。
「そのままの形で、宝箱にしまえたさ。その恋は今の君には不要だけど、きっと大切なものだったはず」
瀬田さんの優しい肯定が沁みたような気がした。
僕もきっと、そういう未来を目指せばいいのだと言ってくれたような気がした。
「彼女の未来はまだ長いから、またここから新しく踏み出していけばいい。そうすれば、互いに想いを交わせる相手が現れるはずさ」
「そうだね」
今すぐに完全に割り切らなくてもいい。思い出にしまい込んで、そこからゆっくりと歩き出せばいい。
ここから変われる範囲で変わっていけば、きっと最後にはちゃんと整理の付いた未来に辿り着くことができるはずだから。
「『未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ』……か」
小さくつぶやくと、それが聞こえたらしい瀬田さんが「おや」と声をあげた。
「それは……」
「葛西さんから教えてもらったんだ。葛西さんも、誰かにこの言葉をもらったって言ってたけど」
遠い未来を思い描けない今は、今思い描けるレベルで一歩を踏み出せばいい。
そういう優しい言葉を、ふと思い出していた。
「それは私だよ」
「え?」
瀬田さんの言葉の意味を図りかねた。
「以前、将来に悩んでいると言っていた涼に私が送った言葉さ」
頭を殴り飛ばされたような気がした。
「そう、なの?」
「ああ。それにしても懐かしいね、中学生の頃だったかな?」
呆然とした思考のまま、当時のことを思い返している瀬田さんを見つめた。
その言葉の主のことを僕はよく知っている。
だって、葛西さんはこの言葉をもらった相手のことを──
「……そっか」
──僕はそれ以上考えるのを止めた。
「瀬田さん、だったんだね」
葛西さんがどんな歩みの中で瀬田さんにこの言葉をもらったのかは分からない。あの日の葛西さんの表情の意味を僕は知らない。
きっと彼女は、未来を歩く僕なのだろうから。
あの表情の意味を知るのは、きっと未来のことだ。
「……僕からも、一つ聞いてもいいかな?」
「なんだい?」
急な話題転換でも、瀬田さんは嫌な顔一つしなかった。
「瀬田さんは将来について考えているの?」
「将来について、か。難しい問いだね」
言葉とは裏腹に、彼女は相変わらず笑みを浮かべていた。
「私はいつだって誰かを笑顔にするために演じ続けるだけだよ。王子を、姫を、それ以外のなんであってもね」
「プロの役者になるってこと?」
「それはどうだろうね」
演じ続けるというのに、芝居を続けるわけではないのだろうか。
「かのシェイクスピア曰く、『この世はすべて舞台であり、男も女もその役者に過ぎない』とね」
少し言葉の意味を考える。
「……たとえステージの上でなくても、観客がいるならそこが瀬田さんの舞台になる。演じる場所になるってこと?」
「ふふ。つまり、そういうことさ」
なんだかはぐらかされたような気がするけど、分からなくはなかった。
瀬田さんはきっと演じるという人生から逃れることはできないし、きっと逃れる気もないのだろう。
与えられた役を演じ続ける。
そんな役者としての日々を歩み続けるということなのだろうか。
「迷ったりはしないの?」
「いや。人々が求めるから、私はきっと舞台に立ち続けたい。それだけだよ」
瀬田さんは自分が求められないなんて考えていないように見えた。
「私はハロー、ハッピーワールド!というバンドでギターをしているんだ。世界を笑顔にするためのバンドさ」
「ハロー、ハッピーワールド!……」
バンドまでしているとは知らなかった。
でも、なんだか楽しそうな雰囲気のバンドだ。
「今までの演技の経験がハロハピのパフォーマンスを豊かにし、ハロハピでの経験は私の芝居を豊かにする。立った舞台の数だけ、演じた役の数だけ、その次に立つ舞台は儚いものになっていくのさ」
一つの舞台で一つ変わる。
そうして変わり続けた先に、瀬田さん自身の
「ありがとう。参考になったよ」
「それはよかった。私も、遥の言葉には助けられたよ。本番までに、もう少しだけ考えてみるつもりさ」
僕達はベンチから立ち上がった。
気付けば日が沈み、空には星明りもちらついている。
「ねえ、あれ見える?」
「え?」
「夏の大三角で見る星、わし座のアルタイルよ。意味は“飛翔する鷲”」
それは、binary starの最後のセリフだ。
「アルタイルは連星って呼ばれる種類の星なの」
「え、えっと……それが、どうしたの?」
「連星っていうのは、互いの重力に影響しあってくるくる回る星って意味。こんな感じで」
女子大生が僕の手を取った。
ベンチから少し離れて、彼女は軽やかな足取りで僕をくるくると回し始めた。
「加速度がついてエネルギーを蓄えたら、またきっと羽ばたけると思わない?」
どうだろうか、僕には分らない。でも、余計なことをみんな振り切っていける気がした。
二人でワルツを踊っていると、なんだか急に笑えてきた。楽しくてしかたなくなってきた。
ゆっくりと回転が止まると、僕達は目が回らないように互いを支えにしてバランスをとった。
「演技というのは舞台もライトもなくたって、ただ観客がいるならきっとできる」
瀬田さんはその身をもって演技に舞台が不要であると今ここで証明してくれた。
「だけど、一人では一人にしか届けられない」
暗くて見えなければ、その姿は遠くの誰かには届かないから。
「だからこそ、私達は舞台やライトを必要とする」
「瀬田さん……」
「見ていてくれ遥。誰よりも高い場所で、君が照らした舞台がどれほどの人を笑顔にしたのかをね」
パッと手を離して、瀬田さんは颯爽とカバンを手に取った。
「今日はもう遅い。気を付けて帰るんだよ」
「う、うん……」
最後のが何だったのかは分からなかったけど、多分元気づけてくれていたんだと思う。笑顔じゃなかった僕を。
歩いていく瀬田さんの後姿を見送ってから、僕も静かにその場を後にした。
今度は、いつもより笑っていられたような気がする。
とうとう、本番当日になった。
リハーサルも乗り切って、準備はもうやり切った。もう後は本番をやり切るしかない。
スポットライトの様子を確認していると、葛西さんが上にやって来た。
「そっちはどう?」
「問題ないよ。今から始まっても大丈夫なくらい」
心臓は高鳴っているけど、不安な気持ちはあまりなかった。
下の方を見るとそこには観客が公演が始まるのを今か今かと待っている。開演までもう十分を切っており、空の赤が体育館に差し込んでいた。
「緊張してる?」
「ちょっとだけね」
葛西さんは恥ずかしそうに笑った。
「だって、青蘭と羽丘の初めての合同公演だもの。失敗できないよ」
観客も学校での公演では絶対に見ることがないような人数がいて、それだけでもう緊張してきそうだった。
「下手にいると動けなくなりそうだったし、少しこっちに来たの。大丈夫、時間厳守だしすぐに戻るから」
「ううん、ぎりぎりまでいたらいいと思うよ」
「ありがと」
実際、戻る時間を考えても、もう五分くらいならいても大丈夫だと思う。
「そういえば、時間もないし一つだけ聞いてもいいかな?」
「何?」
「この公演が終わったら、麻弥ちゃんとはもう会わないの?」
「そのつもりだよ」
僕という存在はアイドルとして頑張っていく大和さんの邪魔になるのは自明だ。
今後、会わないようにするというのは必然であって、僕の意思が介在するような内容ではない。
「だけど、麻弥ちゃんの方が会いたいって言ったら?」
「それは……」
「恋人としてじゃなくたって、一緒の趣味を話せる友達として一緒にいたいって言ったら? どうやって断るの?」
意地悪な質問だったけど、考えないといけないことではあった。
「その時は連絡先を断つ、かな。葛西さんには申し訳ないけど、そうなった時は……」
「私はしないからね。絶対にしない。それは、山科君が責任を持つところだよ」
…………。
「分かった」
「うん。この公演が終わったら、話をするんでしょう?」
「部室の隣の倉庫で」
「じゃあ、そこに人がいかないようにはしておく」
「ありがとう」
「気にしないで」
葛西さんは「ありがとう、気がまぎれた」と立ち上がった。
つけていたインカムを少しだけ操作して、マイクをオンにしながら扉に手をかけた。
『頑張ろうね』
「……うん」
息を吸って台本を手に取った。
ここから二時間の長丁場だ。
葛西さんを見送ってしばらくしてから、高橋が『みんな』と声をかけた。
『一分前だ。配置について準備してくれ』
『きっと成功させようね。大丈夫、ここまで頑張ってきたんだから』
新藤さんの声も聞こえた。
「…………」
深く息を吸って、一ページ目を開いた。
冒頭のシーン、これから始まる長い舞台。
時計の針がカチカチと残りの時間を刻んでいく。
『10秒前…………5、4、3、2、1』
ブザー音が会場に響き渡る。
ざわついていた会場が静かになり、ゆっくりと幕が開いていく。
──“binary star”の開演だ。
葛西さんが「未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ」を言ったのは、7日の「一寸先の未来すら」と13日の「届けることはなくとも」の二回です。特に13日の方に詳しくあるので、見るならそちらをどうぞ。山科君が少し口ごもった意味が伝わればと思います。
途中星の話が出てきたのは、僕の趣味が少し混じった結果です。まあ、タイトルの
物語と天文学的な意味をいい感じに絡めていけるような話にできていればいいなと思っています。